遭遇
歓楽街から喧噪が消え、町中が完全に寝静まった頃、手にはウィスキーのボトルをぶら下げ、顔は赤く、上機嫌な顔をした一人の浮浪者がふらふらと歩いていた。彼が手にしているウィスキーは、繁華街で拾った飲みかけのもの。結構な量が残っていたので、嬉しさのあまりぐいぐいとその半分を飲み、あっという間にこの有様になっていた。
「世の中捨てたもんじゃねえなあ。こんなご馳走が平気で転がってるなんてよう。あんたもそう思うだろ?」
浮浪者はそんな独り言を楽しげに喋りながら一人歩いていると、道の向こうで無造作に転がっているバッグを見つけた。
「お? またご馳走かあ?」
浮浪者は嬉々とした面持ちでバッグの元へと近付く。そしてバッグを前にしゃがみ込むと大事そうにボトルを置き、にやにやと笑みを浮かべながら手洗いをするように両手を擦り合わせる。
「こんなところに捨てちゃ駄目だろ〜。しょうがないなあ〜。俺が拾ってやるから、心配すんなよお。さあて、そんじゃま、まずは中身を拝見しますかあ」
男はそう言うと、景気づけにウィスキーをぐいっと飲む。
「くあ〜、いいねえいいねえ。神さま仏様ありがとさんってな」
そしてようやく、バッグのファスナーに手を掛ける。酔いでうまく開けられず、文句を言いながらしばし悪戦苦闘すると、どうにか少しだけ開けることが出来た。これで楽に開けられるだろうと思いつつファスナーをつかむ指に力を入れると、じゃり、という音が後ろから聞こえ、男はのそりと振り向く。そこに、女が一人立っていた。
男は最初、この女がバッグの持ち主かと思い、「あんだ〜? こいつ、おめえさんのか?」と尋ねる。しかし、ひどく無表情なその女は何も言わず、どこか虚ろな目でじっと男の方を見ているだけ。
「あんだよ、違うんかよ。じゃあどっか行け。こいつぁ俺のお宝だ」男は威嚇するように鼻息荒く言う。だが女は全く動じず、まるで人形であるかのように突っ立ったまま。
「ちっ、気持ちわりいねえちゃんだ。こいつあ俺んだからなあ。あんたのモンじゃねえからなあ!」根負けしたかのように、男はウィスキーボトルを握り、青と白のスポーツバッグを大事そうに抱えると、「おいら〜は〜どら〜ま〜」と音程の狂った歌声を引きずりながらその場から立ち去った。
ウェーブがかった赤茶色の髪の女は、男が立ち去ってもなお、眼鏡越しの視線を動かすことなく佇んでいた。どす黒い赤色のペンキをぶちまけたようなこの場所で……。
「なになに? 高校生の息子、喧嘩のすえ父親を刺殺? またこの手の事件かい。くあ〜、随分とまあ怖い世の中になったもんだなあおい」
日曜日の朝七時半過ぎ、白鳥運送の事務所で新聞を読んでいた瓦谷団次郎、通称ダンさんがそう独り言を喋ると、お茶をすすっていた事務員の島沖がその話題に乗った。
「親が平気で自分の子共を殺す時代だからなあ。それに平気で八つ当たりで人を殺す輩も、今じゃすっかり珍しくなくなってきたしよお」
「人を殺してみたくなったから殺してみました、とかな」
「嫌だ嫌だ」
「なんだかここんところ、殺人だの行方不明だの――」
とそこに、「うっス」と武斗が事務所に入ってきた。ダンは喋りかけの言葉を切り「おう。今日はよろしく頼むぜ、タテ。当てにしてっからよ」と答え、島沖や室内にいる他の者も挨拶する。武斗は小さく会釈すると、ダンに「んじゃあその分割り増ししてくれよな。んで、今日のはどんな感じなんスか?」と尋ねた。
「ロングと二トンちょいってとこだな。積みは階段4つでちいと大変だが、降ろしは十三階だから楽勝だ。まあ、三時には終わるだろ」
「ふうん。で、メンツは何人?」
「俺とお前と、留屋と派遣くんで四人。デッパツは八時だから、それまで茶あ飲んでろ」
「うーっす」
その後、武斗は社員の留屋俊吾と雑談するなどして時間を潰し、予定の時間になると武斗はダンのトラックに、派遣で来た大学生の塩田は留屋のトラックに乗り、彼らを待つ家へと出発した。道は空いており、目的地には予定より十五分ほど早くついた。瓦谷は、これは幸先がいい、昼過ぎには終わるかもな、などと笑っていたが、笑っていたのはその時だけだった。というのも、トラブル続きとなったからだ。
最初のトラブルは、荷造りが完了していないというもの。依頼主は、経費を安くする為に自分たちでやると言っておきながら、それがほとんど終わっていなかったのだ。結局、運ぶだけの予定が荷造りの手伝いもすることになり、なんだかんだで一時間のタイムロス。
そして次のトラブルが、荷物を積み終え一足先に引っ越し先に行ったはいいが、後からすぐに来るはずの依頼主が三十分以上遅れて到着。途中で迷子になっていたというのだ。
その後も、唯一のエレベーターが早々に故障してしまい、荷物と塩田がエレベーターに閉じこめられてしまったり、無事救出されたはいいが、安全確認が必要だということですぐには使えず、一部の荷物を十三階まで階段で運搬をすることになった。
ようやくエレベーターが使えるようになり、これで楽できると思ったが、異様に重い洋ダンスと食器棚を運ぶことになったとき、エレベーターを最初に見たときに危惧していた心配が現実のものになった。エレベーターに入らないのだ。となれば、階段を使う以外手段はない。
ということで、楽勝だったはずの作業はとてつもなくトラブル続きで、とてつもなくハードなものになり、最後の荷上げが終わった時には九時近くになっていた。しかも最後の最後までスムーズにいかず、撤収作業を終らせて最後に印鑑をもらって引き上げようとしたら、依頼主の姿が見当たらない。しばらく待ってはみたが、なかなか戻ってこない。このまま全員で待っていても仕方がない、ということで、瓦谷がここで依頼主を待ち、武斗と塩田は留屋の車で一足先に帰ることとなった。
帰りのトラックの中、留屋は「久々の最低な現場だったな」と笑ったが、明らかに顔は笑っていなかった。
白鳥運輸に戻ってくると、留屋の「ちょっと待ってろ。晩飯おごってやっから」という誘いに、塩田は明日大学があるからと帰ってしまい、武斗は断る理由がなかったのでご馳走になることにした。
二人は晩飯を求め駅前へと向かい、中華料理屋で遅まきながらの夜食にありついた。そして三十分ほど遅れて瓦谷がやって来た。ここで晩飯を食べていることを留屋が連絡しておいたのだ。瓦谷は駆けつけ三杯ビールを飲み干し、今日の依頼主への文句を、唾やら米粒やら何やら色々なものを口から飛ばして言い続けた。
小一時間喋り続けると、ようやく瓦谷の気が晴れ、そこでお開きとなった。十二時を回っているのだから当然だろう。大人二人は明日、というか今日も仕事だし、何より、高校生の武斗をいつまでも拘束するわけにもいかない。
三人は店を出ると、顔を真っ赤にした瓦谷が武斗の肩を叩く。
「気いつけて帰れよ。最近、なにかと物騒だからなあ。って、喧嘩負けなしのお前なら、びびって誰も寄ってこねえか」
「ダンさんこそ、また変な女に引っかかって寄り道なんかすんなよ。留屋さん、ご馳走さまっス」
「おう。んじゃな。来週も頼むぜ」
「来週は予定があるんで」
「ん? あ、そうか。お前の先輩の引退試合だったな。しっかり応援して、かっこいい花道に連れてってやれよ」
「もちろん、そのつもりっスよ」
そうして、武斗は二人と別れ、我が家へと向かって歩き出した。自宅まで約三十分。すっかり人気のなくなった道をぼんやり歩いていると、路上で虫を見つけた。夜道でよく見えず、最初はゴキブリか何かだろうと思ったのだが、うねうねと変な動きをしている様子に、これが黒い虫の一種だと分かった。
「なんか、最近増えてきたな」
確かに、黒い虫を見る頻度は増えている。以前は年に数回程度だったのが、特にこの二週間ほどは何度も目にしている。そのことについて、つい最近まで特に意識していなかったのだが、御子杜紗夜と出会った日から、多少気になるようになっていた。
「なんかあんのか……?」
武斗は思案げにそれを見つめる。
慎二らには見えない、様々なカタチの黒い虫。最近起こっている事件。そして転校生。それらすべてが互いに無関係だとはどうも思えない。だが、どれがどう関係しているのかなど武斗に分かるはずもない。ただ言えることは、何かとんでもないことが起き始めているのかもしれない、ということ。
と、虫は素早い動きで移動し始めた。そのまま無視してもよかったのだが、どうにも気になって後を追ってみようと数歩走る。だが、その足はすぐに止まった。
ぞくり、と背中が震えた。その悪寒は前方からではなく、後方から。
その感覚に、紗夜を初めて見たときのことを思い出す。
まさか、御子杜紗夜が近くにいるのか?
武斗は咄嗟にそう思った。しかし、急激に膨れあがる感覚があの時のものとどんどん違っていくことに気が付く中、その異様な塊に全身が震えだした。この震えは、あの時よりもさらに圧倒的で異質な恐怖に、自分が怯えているからだと思っていた。しかし、実のところ彼の震えはそれだけではない。そのことに本当はなんとく気付いてはいたのだが、心のどこかで密かに否定し、覆い隠していた。
「くそっ、どうすんだよ」
すぐにここから離れなければと思うも、汗を吹き出すだけで身動きが取れない武斗は、御子杜紗夜という見るからにか弱そうな女の子に、理由が何であろうと怯えた自分を思い出し、その屈辱的な悔しさに、ぎりっと奥歯を噛んだ。
「ナロォ……、びびってんじゃねえぞ! てめえそれでも楯村武斗か!」
武斗は自分を鼓舞するように雄叫びを上げる。そして無理矢理に足を動かして体を反転させ、恐怖心と戦いながら導かれるようにその場所へと走りだす。そして一分も経たないうちに、線路下を通る薄暗くてわりと大きい、改修のため現在通行止めとなっているトンネルのすぐ側で足が止まった。
そこで武斗が見たものは、まったく現実感のないものだった。
「なんだよ……、これ」
そこにあったのは、トンネル内に差し込む街灯の薄暗い明かりで浮かび上がる、狼のようなカタチをした大きな黒いモノと、それよりも遙かに大きく奇怪な形の黒いモノ。そして、こちらに背を向けて立っている、赤茶色の髪の女だった。
強大な恐怖と、もう一つの感覚が、武斗を再び金縛りにした。