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黒の守護者  作者: K-JI
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二つの夜

 ジムを出た武斗は、寄り道することなくまっすぐ家に向かった。出来ることなら、消費したエネルギーを十分に補充すべく、焼き肉屋とかステーキハウスとかに入り存分に肉を食べたかった。だが彼の懐がそれを許さない。経済情勢は常に切迫しているのだ。後見人からのささやかな援助と去年の夏休みに稼いだアルバイト代と日曜日限定のアルバイト代だけでは、育ち盛りの少年の胃袋を七分目にするのが精一杯。自力ではとてもとても贅沢など出来ない。

 ただし、自力でなければそれは可能である。目上の人間に奢ってもらえば良いのだ。

 具体的に言うと、武斗が通うジムや道場の先輩や会長など。滝もその一人である。実際、滝には練習上がりに焼き肉屋に行き連れて行ってもらい、ご馳走になったことは結構あり、他の人にご馳走になったことも結構ある。高校に入るまでは、わりと頻繁に奢ってもらっていた。

 ならば今回も、と正直いきたかったが、タイミングが合わなければありつけない。合ったとしても誘ってもらえなければ同じこと。流石に、腹減ったから奢ってくれ、などとこちらから頭を下げるわけにはいかないのだから。そんなことしたら、それは完全なタカリだ。そして今回は、諦めるしかないという状況だった。

 自宅のアパートに着いたときには、八時になろうかという時間になっていた。あれだけ動いて、食事は昼食のパンのみ。胃袋が猛抗議するのも当然だ。腹から絶え間なく聞こえる抗議の音に耳を塞ぎながら、ぎしぎしと鳴る階段を上り二〇二号室の前にやって来た。と、武斗は「あれ?」と思った。

 ドアの小窓から部屋の明かりが漏れていたのだ。

「消し忘れたか?」と一瞬思ったのだが、部屋の中から聞こえてきた話し声に状況を理解すると、「また俺の部屋で」とぼそりとぼやき、そのままドアノブを捻り戸を開ける。部屋の中では、アパートの住人二人と内原慎二がテーブルを囲んで座っていた。しかもテーブルの上には、大皿に僅かに残された野菜炒めと空のお茶碗三つと缶ビール四本と焼酎瓶とグラス一つ。

「やっと帰ってきたか。待ちくたびれたぞ」と慎二。隣の部屋で一人暮らしをしている利根林源治六十九歳と、下の階でやはり一人暮らししているホステスの巻野三十三歳も、それぞれ「お帰り、武斗くん」「タケちゃんおっ疲れえ」と出迎えた。武斗も、慎二の存在に眉をひそめながら「ただいま」と答える。

 利根林や巻野がこの部屋にやって来ることは珍しいことではなく、ここでご飯を食べている風景も今では驚くことでもない。こうして無断で部屋に上がり込まれることも何度もある。さすがに不法侵入については止めてくれと何度も注意しているのだが、今では半分諦めている。そして、不法侵入及び飲食については今のところ慎二は含まれていなかった。

「って、何で慎二までいんだよ」

「そんなの決まってるだろ」

「まさかお前……」武斗はすぐに嫌な予感がし、利根林と巻野を見る。二人は意味ありげににやにやと笑みを浮かべていた。二人のこの表情と慎二の言葉から、その嫌な予感が正しいことを知ると、「て、てめえ……」と慎二を睨む。しかしそんな武斗を慎二は意に介さず、「んなことより、いつまでそこに突っ立てるつもりだよ。早く座って飯にしろって」と平然と言う。

 座って飯にしろと言われても、目の前にあるのは野菜炒めの僅かな食べ残し。まるで、お前の晩飯はこれだけだと冷ややかに笑わんばかり。これには、空腹ということもあって沸々と怒りがわき上がってくる。しかし、そんな武斗に巻野がにこやかに一方を指さし「タケちゃん、アレ」と注意を向けさせる。するとそこには、フライパンの中で山盛りになっている野菜炒めがあった。

 武斗は少々驚いた様子で「え? 晩飯食べたんじゃないのか?」と巻野を見る。

「見れば分かるでしょ? これは私たちの分。あれはタケちゃんの分」

「俺の?」

「そういうこと。さあさ、早く座りなさいな。今ご飯よそったげるから」巻野はそう言うと大皿を持って立ち上がり、狭い台所でフライパンの野菜炒めを大皿に移し始めた。どうやら、武斗用に用意してくれていたらしい。

「わ、悪い……」武斗は礼になっていないお礼を言い、空いている席に腰を下ろす。すると、慎二が「ストレスは解消できたか?」と聞いてきた。

「お前のせいで急増中だ」

「そう言うなって。どうせ貧乏なお前のことだから、腹すかして帰ってきても、腹三合目分の飯にしかありつけないだろうと思って、こうして用意してやったんだから」

「お、お前が?」いつもの日本語の間違いに突っ込むことを忘れて、武斗は純粋に驚く。

「本当にいい友達を持ったね、武斗くん」

「作ったのは私だけどね。でも材料を提供してくれたのは慎ちゃんよ」

「信じられねえ……。だいたい、俺が食べて帰ってきたりとか、誰かに奢ってもらったりって可能性もあるだろ。もしそうなったら、無駄になったかもしれないんだぞ?」

「その時はその時さ」

「お前……、いいヤツだったんだな……」

 武斗は慎二に向けて感慨深げにそう言った。のだが、すぐに前言撤回することとなった。ひとまず心温まる話が終わったところで、利根林が「ところで、武斗くんの好きな女の子って、どんな子なんだい?」と興味津々に聞いてきた。それを受けて、慎二の目論見をはっきりと理解した。

「……これで無罪放免にしてもらおうって魂胆だな? 慎二」

「世の中ぎぶあんどていく。いやあ、世知辛い世の中で、ほんと嫌になるよなあ」

「自分で言うな!」

 こうして、武斗の騒々しい夕食と賑やかな座談会の夜が幕を開けたのであった。


 そろそろ日付が変わろうかという時間、石田精工所では、数人の社員が働いていた。機械部品を作っているこの会社の中は、工作機械のモーター音と金属を加工する音に包まれており、社員たちはその機械を動かしたり、途中の仕上がりや出来上がりのものをチェックしたり、時に社員同士で顔を近づけて何やら話し合っている。

 やがて、製品の最終チェックをしていた一人のベテラン社員が、皆に伝わるように大きな声で「もう大丈夫だろ。そろそろ止めるか」と言った。皆その提案に同意し、それぞれが順次機械を止め、騒々しかった工場(こうば)内は瞬く間に静かになる。

「後はなんとかなるだろう」とそのベテラン社員は言うと、「いやあ、ほんと助かったよ。堂本」と、一息ついている堂本に声を掛けた。他の社員も、ピンチを救ってくれた堂本に礼を言う。

 彼が受けたエマージェンシーコールとは、機械に不具合が発生し、どうにか出来ないかという相談だった。社長がそこにいれば彼の出番はなかったのだろうが、その社長はぎっくり腰により現在静養中。業者を呼んで修理するにしても休み明けとなり、確実に納期に間に合わなくなる。そこで、たまに機械のメンテナンスをしていた堂本に、一縷の望みを託して救いを求めたという次第だった。

 そして、トラブル発生から四時間後に堂本が現れ、メンテナンスの経験と知識を活かし、機械をチェックしていった。原因の特定はみなが想像していたよりも早く、三十分程度で見つけた。だが、まったく元通りに直す、というのは容易ではない。破損箇所の修理は、不幸中の幸いというか、予備のパーツで賄うことが出来たのだが、製品の品質を前の状態と全く同じにする為の微調整が容易ではなく、結局、この調整で一時間以上掛かってしまい、ひとまず修理が終わったのが十時過ぎ。ただ、しばらくラインを動かし、本当に大丈夫か確認する必要があり、その最終確認が終わったのが、まさに今だった。

 この日の生産予定数には到達していなかったが、明日休日出勤して終わらせようという結論を、部品交換が終わった時点で決まっていたので、このタイミングでのお開きと相成ったわけである。なお、堂本も出勤すると言ったのだが、万が一何かあったらまた頼むかもしれないが、来週試合があるんだから来なくていいと断られていた。

 仕事を終えた堂本らは、手早く片付けと戸締まりを済ませて会社を出た。途端、街の喧噪が聞こえてきた。夜中の一時頃だというのに静まりかえっていないのは、新興の歓楽街からそう離れていないから。

「それじゃ、夜道に気をつけてな」

「大丈夫ですよ。いざって時は、この拳と膝がありますから」

 会社前でタクシー組と徒歩組に別れると、タクシー組は車を拾うべく駅前に、徒歩組、といっても堂本しかいないのだが、片道四十分の帰路へと足を向けた。

 歓楽街を歩くのは気が進まないということで、堂本は歓楽街から少し外れた薄暗い道を、併走するように歩いた。酔っぱらいに引っ掛かりでもしたら嫌な思いをするだけ。君子危うきに近寄らず、だ。

 その帰り道、来週の試合のことを考えていた堂本は、ふと、武斗と出会った時のことを思い出した。小学生5年生で海江多キックボクシング・ジムの門戸を叩き、瞬く間に上達した生意気な小僧。入門したての頃は生意気なだけだったが、笑えるほど不器用で、笑えるほどへんに曲がっておらず、笑えるほど喧嘩っぱやく、そのくせ優しい面も持ち合わせ、敵には容赦ないが味方には情が深く、そんなところが何だか面白く感じ、からかったりからかわれたりしていくうちに、妙な親近感を持つようになり、気が付けば弟のような存在になっていた。そして今では、本当の弟だと断言できるほど。

 そんな武斗が、ラストマッチのセコンドにつく。

「負けたらマジで俺を殺しそうだな。あいつ馬鹿だから」堂本はそう言って一人笑う。

 と、すぐ近くでゴトリという音がした。何の音かと足を止め、音が聞こえてきた辺りに目を向ける。しかし薄暗くてよく見えず、どうでもいいかと再び歩き出した。

 そして再びゴトリという音。

 どうせ猫とかネズミとかの仕業だろうと思いつつ、もう一度足を止め、堂本目を向けた。


 真っ暗な部屋の中、武斗の目がぱちりと開いた。急に目が覚めてしまった武斗は周囲を確認する。慎二や利根林、巻野らはいない。さんざん騒いで、十二時前にそれぞれのねぐらへ帰って行ったのだ。

 いったい今何時なんだと時計を探し確認する。時間は夜の一時二十二分。まだまだ起きる時間ではない。こんな時間に目が覚めるとは我ながら珍しいな。武斗はそう思いながら、ついでだからとトイレに向かった。

「まさか明日の引っ越しのバイト、なんかあるっていうんじゃねえだろうなあ……」

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