見えるモノ 見えないモノ
活気に満ちあふれる海江多キックボクシング・ジムの中で、一際気合いを感じさせる凄まじい音をサンドバッグを相手に響かせている者がいた。バケツの水を頭からかぶったように汗を流し、その汗をもうもうと湯気立たせ、鬼気迫る勢いで殴り蹴り続けるその男は、健康的で合法的にストレスを発散している楯村武斗。
彼がこのジムを訪れて約一時間、その間、準備運動を含めた猛ラッシュに、ジム内のほとんどの者が圧倒され、そして刺激され、誰もがいつも以上の気合いを入れて練習している。これにはジムのオーナーも大いに喜んでいた。
それから更に三十分経ち、だいぶストレスが解消されてきたようで、武斗は一息入れることにした。荒い息でジムの片隅にあるベンチに腰を下ろし、タオルを頭からかぶり顔の汗をぬぐう。が、噴き出る汗を完全にぬぐい取ることなど出来るはずもなく、一拭きしただけで後は流れるままにした。そんな武斗に、このジム所属のプロ・キックボクサーの一人である堂本が練習で肩を上下させながら声を掛けてきた。
「随分と気合い入ってるな。タケ」
「久々に爆発寸前だったからな」
堂本は武斗のより十一歳上。会社勤めの二十八歳。プロといっても、賞金だけでは生活できないのが厳しい現実。それはともかく、これだけの年齢差がありながらお構いなしの武斗の口の利き方に堂本は全く気にすることなく、武斗も気にしない。二人の会話は、昔からこうだったからだ。
「ほう。何か面白いことでもあったのか?」
堂本は武斗の隣に腰を下ろし、短く刈り込んだ頭をタオルで拭く。
「面白かねえよ」
「それは俺が判断してやる。さあ、何があったんだ?」
「話す気ねえし、思い出しくもねえ」武斗は門前払いするように手をひらひらと動かす。
すると堂本は「なにい? 俺に内緒だと? 独り占めする気か?」と唸り、顔をぐっと武斗に寄せて睨む。互いの鼻先が触れ合いそうな距離で。
「……顔、ちけえよ」
「気にするな。んなことより、どんな面白いことがあったんだよう」
「……」
「……」
そしてしばし睨み合った後、武斗はすうと息を吸い込みながら頭を後ろに引き、ゴン、という大きな鈍い音と同時に二人の額がぴたりとくっついた。武斗がヘッドバッドで答えたのだ。騒々しいジム内において、その鈍い音は全員の耳に届き、皆の手や足を止めさせた。だが武斗と堂本を見るやほとんどの者は失笑し、すぐに練習を再開する。このような二人のようなやりとりは、今に始まったことではなかった。
ただし、失笑ではなく血相を変えた者も一人だけいた。それは、ジムのトレーナーであり堂本のコーチでもある滝。五十過ぎてもなお血気盛んな滝は、怒りをあらわに大股で二人のもとに来ると、ありったけの力で怒鳴りつけた。
「なに遊んどるかあ!」
滝の怒声は二人の鼓膜を破かん勢いで、二人は堪らず額を離し耳を塞いだ。ついでに他の練習生たちも耳を塞いでいた。
「堂本! 馬鹿やってないで、真面目に練習しろ!」
「少しは休ませてくださいよ」
「貴様にそんな時間があると思っとるのか! さっさと立て!」
「いやあ、でもこいつが教えてくれないンすよ。こんなんじゃ練習に――」そう言いかけたところで、堂本の顔が少し引きつった。それまで大声を上げていた滝の声が、静かに唸るような声になったからだ。それは、これ以上怒らせたら冗談じゃ済まなくなるというサイン。
「そんなに俺を怒らせたいのか?」
もう怒ってるじゃないか、という不平を心の中で呟きながら、「さあって、練習練習」と立ち上がり、少し悔しそうに額をおさえる武斗に苦笑を見せて練習に戻っていった。その後ろ姿を見ながら「あんの石頭」と呟いた。ヘッドバッドの勝敗は、堂本の連勝を延ばした結果となったようだ。
「まったくお前らは……。ラストマッチまで一週間しかないってのに」滝はそんな二人に腹立たしげにぼやく。
そして武斗は、滝の言葉に少し寂しそうな表情を加え「そっか……。来週か……」と呟いた。
なんだかんだと騒ぎながら武斗が堂本を兄のように慕い、堂本も武斗を弟のように慕っていることを知っている滝は、寂しげな武斗を横目で見ながら「タケ、来週セコンドに入ってもらうからな」と告げた。
「え? 俺が? いいのか?」
「俺がいいって言ってんだからいいんだよ。それに、お前がセコンドに入ったとあっちゃ、あの野郎、何がどうなろうと負けらんねえだろ?」
「……ああ。そうだな。もし負けやがったら、俺が三途の川に送ってやるよ」
「そん時はそうしてやれ」
寂しそうな顔が一変、嬉しそうな顔の武斗に、滝は笑いながらそう言って、自分の持ち場へと戻っていった。
その後、武斗は残りすべてのストレスを発散させてやるとばかりに、激しい打撃練習をひたすらにこなし、その様子を、堂本が楽しげにちらちらと見ていた。これだけ溜まってるのだから、とてつもなく面白い話が聞けるに違いないと期待しながら。
武斗の気分がすっきりしたのは、夕方の六時を半分回った頃だった。およそ三時間半、ほとんど休むことなくハードに動き続けていたのだから、さすがの武斗も息絶え絶えになっていた。だが、表情は実に晴れ晴れとしており、この日ジムに訪れたときの、魔王の如きオーラをまとっていた人物とは別人のようだった。
ストレスをすっかり解消した武斗は、ジムの片隅でしばし体力の回復を図る。その間、黙々と続ける堂本の練習を眺めていた。プロのリングで戦う男の姿を傍らに思い出しながら。
来週の日曜日のラストマッチが終われば、その勇姿を再び見ることは出来なくなる。引退後も練習生としてここに来ると言っており、会えなくなるわけではないのだが、それでも寂しさはある。二十八歳の引退。それが早いか遅いかは当人が決めることだが、武斗には、どうにも早すぎると思えてならなかった。
確かに、仕事と練習の両立が難しくなり、結果、ここ一年の戦績を見ると喜べるものではないのが現状。だが、どうにか時間を作れれば、まだまだプロとして戦い続けられるだろうと強く思っていた。
しかし、堂本の決意は変わらず、彼に「この世界はそんな甘くない」「これ以上、無理を聞いてくれていた社長に迷惑は掛けられない」などと言われてしまえば、最早何も言えない。
「仕方ない……か」
武斗はそう独り言を呟くと練習場を後にし、更衣室へ向かった。誰もいない更衣室に着くと、ぐしょぐしょに濡れた服を脱ぎ、併設されているシャワールームで汗まみれの火照った体を洗い流す。なんとも気持ちのいいシャワーをたっぷり浴び、心身共にすっきりした気分でシャワールームを出ると、体を拭いたりズボンをはいたりバスタオル等をしまったりと一通り片付け、部屋の中央においてある長椅子に腰を下ろし、依然として火照っている体を上半身裸の状態で涼ませた。
そうして体を休めていると、視界の端で、黒くて小さな虫をとらえた。手の届く範囲ではないので、しばしその動きを目で追うにとどめる。するとそこに、練習を終えた堂本がやってきた。
「お、すっきりしたみたいだな」堂本は一目見てそう言うと、すぐに自分のロッカーに目を移し、バスタオルやら着替えやらを青と白のスポーツバックから引っ張り出そうと奮闘し始める。なので、虫から目を離さないようにと顔を向けず、「ああ」という声だけで答えている武斗の様子に気付かず、そのぶっきらぼう具合もどうでも良かった。
「そっかそっか。んじゃあ、すっきりついでに教えろ」
「何をだよ」
「お前の面白い話しに決まってるだろ」
「断る」
「即答かよ……。いいじゃん別に。裸同士の付き合いをした仲だろ?」
「気持ちわりい言い方すんじゃ……、ねえよっ!」
武斗がそう言うと同時に、長椅子を平手で叩く音が更衣室に響いた。反射的に堂本の体がびくりと揺れ、咄嗟に武斗を見る。ただし、怒ったのかと思い驚いて見たのではない。彼の口調からそれは最初から除外されている。その証拠に、武斗の表情に一ミリの怒りもない。
「また見つけたのか?」
「ああ」
「だったら事前に言えって言ってるだろ。俺の心臓をそんなに止めたいのか、お前は」
「そんなヤワな代物じゃねえだろ」武斗はそう言いながら、長椅子から手のひらを引きはがし、その手のひらを見つめる。そこには、目で追っていた黒い虫の潰れた死骸が張り付いている。
そんな武斗を不思議そうに眺めていた堂本は「ほどほどにしとけよ。でないと、危ないヤツだと思われっから」と忠告し、着信のランプが点滅していた携帯をバッグから抜き取った。彼には、武斗の手のひらにあるモノが見えていない。彼だけではない。ほとんどの人が見えていない。黒い虫たちは、いつも彼らのすぐ目の前にも現れるというのに。
武斗が見えているモノが同じように見える人間は、武斗の知る限り自分以外に二人しかいない。亡き父親と、もう一人は……。
とそこで、堂本がロッカーを閉める音で武斗の思考が断ち切られた。
「たく、しょうがねえなあ」と堂本。
「どうかしたのか?」
「エマージェンシーコール。これから仕事だ。土曜のこんな時間から」
「ふうん。大変だな。リーマンってのは」武斗はそう言いながら上着を着て、さっさと帰り支度を終わらせる。
「大変なんですよ。大人になると色々と。っと、それはそうと早く聞かせろ」
「だから断る」
「タケ、お預け状態で俺が仕事出来ると思ってるのか?」
「知るか」
そう言って武斗は更衣室を出る。ただしその間際、「来週の試合に勝ったら教えてやるよ」という言葉を残していった。