エピローグ
一学期が始まって一ヶ月も経たない日のこと。私立羽沢高校の三年三組の教室に、担任の女性教諭と一緒に一人の転校生が入ってきた。すると教室内は一瞬にしてざわつき、歓声などを含めた、その転校生への感想などが飛び交い始める。
「あんたら静かにしなさい。これじゃ紹介できないでしょ」
担任が声を張り上げると、それはそうだと生徒たちは納得したようで、静まり返るには至らなかったが、ざわめきはだいぶ静かになった。ここで担任は、まず生徒たちと朝の挨拶を済ませ、それから傍らに立つ転校生に、自己紹介するように促した。転校生は「はい」と答えると、少々緊張した面持ちで口を開いた。
「御子杜紗夜と申します。転校してきたばかりで、学校のことも町のこともよくわからないので、どうかよろしくお願いいたします」
紗夜はそう言って一礼する。ここで担任は、もう少し話してもらった方がクラスに溶け込みやすくなるかと考え、「何か聞いてみたいことはない? ただし、常識の範囲内のものに限定だからね」と質問を募った。
そして高らかに出た最初の質問が、女子たちもすごく興味はあったが、男子たちにとっては最も重要なことだった。
「彼氏はいるの?」
その質問に、担任は「最初に聞くのはそれかっ!」と突っ込みを入れ、「他にまともな質問は」と切り捨てる。あれだけ可愛いんだからいるに決まってると考える生徒が大半を占めていたが、直接本人からその真相を聞きたいという思いから、生徒たちは一丸となって常識の範囲内だろうと抗議し、男子からは「純情な男子の苦悩を無視するのか!」「それでも教師か!」などと文句も出ていた。
担任は生徒たちを黙らせようとするが多勢に無勢。いるかいないかだけでも聞かないと収まりそうもないと、癪に障る思いでいると、二人の生徒が周囲の抗議の声に混ぜて、決して言ってはならない野次を飛ばしてきた。
「そんなんだからゆんちゃんには彼氏が出来ないんだ!」
「婚期を逃してもいいのか!」
耳に届いたその言葉に、興奮気味だった担任がぴたりと止まり、ゆらりと拳を上げて、そのまま机に一発めりこませる。その轟音に生徒たちは「やべえ、マジで怒らしちまったぞ」「誰だよ、余計なこと言ったのは」などと小声で囁きあい、紗夜も驚きのあまりきつく目を瞑って心臓を抑えていた。
「誰だあ? どさくさに紛れて今関係のないことぬかしたのはあ」
半笑いのその声に、犯人の近くにいた生徒たちは、火の粉が自分たちに降りかかる前にと、指を差してその犯人を担任に進呈した。二人は自分を売ったクラスメートに文句を言うが、「川野くん? 杉内くん? あとで顔貸しなさい? いいわね?」と悪魔の笑顔の如き表情で言われ、やべえよ本気で殺されるよ、などと汗を垂らしながら呟いていた。
その後は、触らぬ神に祟りなしといった様子の生徒たちから、趣味や好きなタレントなど当たり障りのない質問がいくつか出ただけで、平穏に質問時間が終わり、紗夜は自分の席に座った。
そのまま一時間目の担任の授業となり、みな担任の神経をこれ以上逆撫でしないように静かに授業を受けていた。そして授業が終わり担任が教室から出て行くと、鬼は去ったと言わんばかりに歓声を上げ、生徒たちは紗夜の周囲に集まってきた。もちろん、彼氏の有無についても含めて、色々と質問するために。
「それでそれで、彼氏はいるの?」
その問いに紗夜は気恥ずかしく感じながら、はいと答える。その姿に、気弱ですぐに怯えるように萎縮していた以前の紗夜はない。
紗夜の回答に、男子のほとんどは落胆の声を漏らし、女子のほとんどは黄色い声で歓声を上げつつ、「どんな人?」「イケメン?」「付き合い始めてどれくらい?」などと更に質問してきた。矢継ぎ早に投げられる質問に紗夜はどうにか答えていったのだが、答えれば答えるほど、男子を奈落の底に落としていることに気付かなかったのは、紗夜の罪と言えるだろう。
なお、打ちひしがれ挫けなかったタフな男子も僅かにおり、一縷の望みをどうにか見つけ出してやろうと目を光らせて、虎視眈々と紗夜を狙っていた。
教室の窓越しに見える、転校初日だというのにすっかりクラスに溶け込んでいるように見える紗夜の様子に、校舎の屋上から見下ろしていた武斗はほっとしていた。
「ここでも人気者になれそうだな」
そう呟く武斗の隣にはヤナガがいる。
「そのようだな。それで、今回も貴様はあの中に加わらないのか?」
「ああいう雰囲気は苦手なんだよ」
武斗はそう言うが、親しい人たちの輪の中にいるときの心地良さを知っている。そしてその輪は、最初から用意されているわけではなく、時間と共に作られていくものだということも知っている。
その心地良さを得ようと思えば、外で傍観するのではなく、まずは内に入る必要がある。しかしそうしないのは、朝日荘の人たちが殺された光景とその理由が片時も頭から消えず、自分を呪い続けており、武斗の心はまだ、大勢の人たちと関わり合えるほど癒えてはいないから。故に、武斗はずっとこうして、外で傍観し続けている。
そんな武斗の心情を知っていながら、ヤナガは嫌味ったらしく言ってきた。
「それだけが理由か?」
「るっせえ。ほんっとムカつく野郎だな。俺の居場所はあそこじゃねえんだ」
「なるほど。貴様は人間でないのだから、確かに居場所にはならないな」
「てめえなあ……。いい加減、口を利けなくしてやろうか?」武斗はそう言うと、夜狩人の力を高めていく。対してヤナガはにやりと、「ここで騒ぎを起こしても良いというのなら、貴様と遊んでやっても構わぬが?」と挑発した。まさかここで戦い始めるわけにもいかず、結果、軍配はいつものようにヤナガに上がった。
「ほんと性悪な野郎だ……。なんでこんなヤツとコンビ組み続けなきゃなんねえんだ」
すっかり日常会話のようになったやり取りに、武斗はため息を落とす。しかし悪い気はしていなかった。それに、ヤナガの存在は人の輪に入れずにいる武斗にとって、救いの一つになっているのも事実。
そんな他愛のないやり取りをしていると、ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。どうせ照臣からだろうと思いながらディスプレイを見ると、思ったとおりの人物だった。
「紗夜の様子はどうだね?」
「心配ねえよ。すっかり人気者になったみたいだ」
「そうか。それはよかった。ところで武斗、使いを頼まれてくれないか?」
「昼飯の材料ってんだろ? んで、何買っていきゃいいんだ?」
紗夜が転校した初日は必ず武斗がその様子を覗き、照臣はその様子を電話で聞いてくる。恒例行事のようなもので、照臣が何を言ってくるのか武斗にはわかっていた。
現在照臣は、八城神社の神主を解任され、紗夜の保護者として共に行動している。これは、清正が審議会で提案したこと。ただし彼の意図は、自分には紗夜を支えることは出来ないが、照臣となら紗夜も寂しい思いをせずに済むだろうからというもので、対して俊源らの意図は、紗夜と照臣の二人を側に置けば、武斗の鎖役として十分に役に立つだろうというもの。思惑の違いはあったものの、結果が同じなら何の問題もない。
そして現在、武斗とヤナガによる、人間を喰らう闇の世界の住人を狩る任に、二人は常に同行している。これは、ヤナガと口裏を合わせて武斗が本家に出した要求の一つだった。
ただし当初は、朝日荘の人々が殺された理由を考えると、いつも側にいたいという紗夜の要望を受け入れられずにいた。しかし、結界の呪詛を体に埋め込むことでその危険は回避できるという紗夜の説得と、シンエンが再び動き出せば、どこにいても危険であることは変わりないということ、そして何より、どんなに辛い思いをしても、武斗と離れ離れになりたくないという紗夜の必死な姿に、武斗は最終的に受け入れていた。
そして紗夜は結界の呪詛を華奢なその体に埋め込んだ。その負荷は相当なもので、紗夜がそれに耐え続けられるとは誰も思っていなかった。武斗が事前にそのことを知っていたならば、恐らく止めさせていただろう。
しかし、闇の世界の住人を見る力を失っている代わりに、負荷の大きい呪詛が体に埋め込まれることへの耐性を持ち合わせていたとでも言うように、小結界の呪詛に対し、紗夜は負荷を感じることすらなくケロッとした。しかも埋め込んだのは結界の呪詛だけではなく、他にもいくつか埋め込んでいる。にも関わらず紗夜は平気な顔をしており、身体面で何ら問題ないことが、精密検査を受けて確認されている。
これには周囲も相当に驚き、力を失った一族の中にも、何かしら特性を持った者がいるかもしれないと、当主の号令の元で動き出していた。
こうした経緯で、紗夜自身は小さな結界となっているわけだが、シンエンやヤナガなどの高等な闇の世界の住人相手では限界がある。人間の体に入れられる呪詛には限界があるのだから、それはしかたのないことだった。そして御子杜文江も同じことをしていたと武斗たちが知ったのは、ずっと先のことだった。
それはともかく、紗夜の要望を認めたことを、今では心の底から良かったと武斗は思っていた。悪夢にうなされるたびに衰弱する心を、紗夜が傍らでいつも癒し続けてくれているから、今もこうして正気でいられるのだろうから。
そう思えば思うほど、自分を支えてくれている紗夜を、何があっても絶対に守り抜くという強い想いが湧き上がってくる。といっても、紗夜を守るということに関して、「我の楽しみを奪われては困るからな」などと言いながらヤナガも協力的で、今では紗夜の身を案じ不安になることはさほどなかった。
そういう意味では、武斗にとってヤナガはこれ以上ない相棒とも言えるだろう。
「さて、もう十分だろ。そろそろ帰るか」
三時間目の中頃になって、武斗はそう言って立ち去ろうとする。と、その言葉が聞こえていたのか、授業の最中だというのに紗夜が不意にこちらへと視線を向け、にこりと微笑んできた。その笑顔に武斗は苦笑するように答え、紗夜は胸元で小さく手を振る。
そして武斗はヤナガと共に屋上から消え、紗夜は、教師に「空に知り合いでも浮かんでいたのか?」注意され、周囲の失笑を買うまで、武斗のいた場所を見つめていた。
そして武斗は、この新たな戦場でヤナガと共に狩りをする。
Fin