殺戮の海
「嘘だ……、こんなの、嘘だ……」
利根林の部屋の前で、手にしていた物を落とした武斗が呆然とした表情でぶつぶつと呟き続けた。そして、ヤナガが紗夜や慎二を模したときのことを思い出し、「そうか……、そうだよ……。またあいつが……。まったく、冗談にも、程があるだろうが……」と、口を歪めて小さく笑った。だが、その言葉がどれだけ虚しいものであるかを、武斗はわかっている。
それでも否定しようとする武斗の心は、目の前の現実を認める自分の心に必死に抵抗した。これは何かの間違いだ。こんなことが現実であるはずない。現実であってはならない。だからこれは、偽りのモノだと。
だが、涙を流している自分に気付いたとき、否定する心は無惨に打ち砕かれた。
決壊したダムのように深い悲しみが武斗の心を襲い、切り裂く。そして、心の中で悲痛な悲鳴を上げる中、利根林との思い出が走馬燈のように蘇り始め、やがて武斗は重大なことに思い至り、慌ててその隣の部屋を確認しようとした。だが走り出した途端バランスを崩し、足が前に出ずにそのまま大きな音を立てて転んでしまい、そして、床に着いた手のひらがべたりと濡れた。
その感触に一瞬びくりと反応すると、ゆっくりと視線を落とす。手のひらの周りでは液体が広がっており、それを辿っていくと、ドアの隙間の向こうへと続いていた。
それが何を意味しているのか、わからないはずはない。武斗は危なっかしくふらふらと立ち上がり、ドアノブを握る。そしてドアをゆっくり開けた。
部屋の中は、利根林のものと同じく血の海と化していた。
「なんで……、なんでだよ……」
悲しみで途方に暮れるように、武斗は何度も何度もそう呟き、二〇一号室へと視線を向ける。武斗の脳裏に浮かぶのは、今まで見た二つの部屋と同じ光景。故に、天草龍介の部屋である二〇一号室へと向けた一歩目で、思わず躊躇してしまっていた。
それでも武斗は、足下をふらつかせながらゆっくりと二〇一号室へと向かった。そして、部屋の前に来るとドアノブを握り、ゆっくりと捻った。だが鍵がかかっているために戸を開けられず、武斗はがちゃがちゃとノブを無理に捻りながら「リュウさん……、リュウさん、リュウさんっ! 開けろよ! いるんだろ! 開けろよっ!」と叫び、ついに、激情のままに握りしめた拳でドアノブのすぐ側を殴り、幾つもの引っ掻き傷を作りながら粗末な造りのドアに穴を開けた。そして、ばたばたとドアノブの向こう側に手を伸ばし鍵を開け、腕を引っこ抜きながらドアを開いた。
そこにあったのは、雑誌や衣類が乱雑に散らかった、普段と変わらぬいつもの風景。襲われた痕跡も、大量の血痕もない。これを見て、もしかしたら助かっている人もいるかもしれないと思った武斗は、階段を転げ落ちながら一階に下り、目に入った管理人室へと飛び込んだ。そしてその儚い希望は、すぐに風前の灯火と化した。
管理人室の座敷二間と台所のいたる所が血に染められているのが、明かりを灯さずともわかった。しかもその血の海の中に、天草が普段着けている特徴のある眼鏡が、フレームを歪めて落ちている。それが証拠だとは言い切れないが、儚い希望にすがる力を失い、絶望の中にいる今の武斗には否定できない。
唇を噛み切るほどの思いで管理人室を出ると、隣の巻野の部屋によろよろと向かう。そして幻影を見た。巻野が「今までどこに行ってたのよ」と怒りながら武斗を迎えてくれる風景を。そしてドアノブを握り、一瞬躊躇ってから、ゆっくりと開けた。
部屋の中は、他の部屋よりひどい状態だった。部屋中に散乱している引きちぎられ布団は、血でぐっしょりと濡れている。また布団だけではなく部屋中のものが散乱し、血は部屋の隅々まで飛び散っている。そして、血を浴びた風邪薬の箱が虚しく転がっていた。
武斗がこのアパートで暮らすこととなった最初の日。
その当時、武斗は照臣に見捨てられたという思いと、一人で強く生きていくんだという思いから、大人に対しひどく無愛想に接する傾向にあった。ゆえに、最初に出迎えた管理人夫妻に対しても、それと近い目を向けていた。
しかしその老夫妻は、そんな小学生を嫌な顔一つせず快く迎え入れてくれた。住人たちはというと、多くはどう接しようかと距離を測りながらといった様子だったが、巻野と利根林の二人は、初日から容赦なく接してきた。巻野は実の弟と接するかのように、利根林は実の孫と接するように。
最初のうちは、それがひどく邪魔くさく感じ、老夫妻や巻野たちを無視することも度々あった。そんな武斗を彼らは邪険にすることなく、どうにか向き合おうとしていた。特に巻野は、武斗と幾度となく真正面から向かい合い、怒鳴ったり、叱ったり、引っぱたいたり、そして一緒に泣いたりもした。どんなに武斗が巻野を憎むような目を向けてきても。
巻野が武斗に対してそこまでするには理由があった。
彼女には四つ下の弟がいた。ただしその弟は、巻野が中学生のときにイジメを苦に自ら命を絶っていた。そのとき彼女は、弟が悩んでいることに深く関心を持たなかったせいで救えなかったと後悔し、その後悔は何年経っても消えることはなかった。
そんな巻野の住むアパートで、弟が命を絶った歳と同じ年齢の小学生が暮らすことになり、その小学生がどんな苦労を背負って朝日荘にやって来たかを管理人夫妻から聞かされ、巻野は、小学生ながら一人で生きていこうとする武斗の力になろうと必死になっていたのだ。それは、救いの手を差し伸べてやらなかった弟への贖罪でもあった。
初めの二週間は、アパートの中は穏やかでなかった。巻野と武斗の喧嘩は毎日のようにあり、大人たちは頭を抱えたり、腹を立てることも頻繁にあった。しかしそれでも、当時の住人は誰一人武斗を見捨てようとはしなかった。
一人一人、それまで生きてきた中で背負ってきたものがあり、それらがあるからこそ、全てを一人で背負い込もうとしている武斗を見捨てることが出来なかったのだ。
そんなある日、競輪で大穴を当てた天草の奢りで、管理人部屋で寿司パーティーを開くことになった。当然、武斗も招待されたのだが、我慢の限界を迎えた武斗が「なんで他人のくせに俺のことかまうんだよ! うざいんだよっ!」と怒鳴った。
そのとき、それまで手を挙げることのなかった利根林が、武斗の頬を思いきりひっぱたいた。考えもしなかった利根林の平手に武斗は驚いた目で相手を見る。てっきり、怒り心頭といった顔をして睨んでいると思っていたのだが、彼は、悲しそうに涙を流した。
「そんな寂しいことは言わないでおくれ。武斗くんは、私らにとって孫であり、息子であり、弟なんだ。みんなにとって、君は他人なんかじゃないんだ。大切な家族の一員なんだよ?」
小学生ということもあり、その言葉をちゃんと理解することは出来なかったが、それまで武斗の心に憑きもののようにあったものがゴトリと落ち、利根林の涙につられるように泣いた。そして、そのあと食べたお寿司の味は忘れられないものとなった。
それ以来、不思議と住人たちを邪魔に感じることが少なくなり、いつしか、冗談や馬鹿を言い合ったりすることが当たり前のものに感じられると、みなと打ち解け、味わったことのない居心地の良さを感じるようになっていった。そうして六年間、武斗は朝日荘で過ごしてきた。気心の知れた人たちとの、楽しいものや、馬鹿馬鹿しいもの、他愛のないものなど、様々なたくさんの思い出を作りながら。
しかしその朝日荘は今、武斗を残して誰もいなくなってしまった。
権堂の部屋にその姿はなかったが、その隣の血にまみれた部屋にいたことを証明するようなものが転がっていた。日本酒の一升瓶と二人分のコップ、そして、よく権堂が自慢げに見せていた腕時計。下駄箱には彼らの靴があり、今の武斗には疑いようがない。
それに、例え何を難を逃れた者がいたとしても、これだけの惨劇のあったアパートで暮らすことはないだろうし、それ以前に、この古いアパートはお払いをした後に取り壊されるだろう。
もうここは、武斗にとって我が家でなくなってしまった。そして家族同然に暮らしていた人たちも、無惨な姿に成り果ててしまった。
僅か数時間前までは、当たり前の日常がこの場所にあったというのに。
週末にはみんなとパーティーをするはずだったのに。
そのとき紗夜を招待し、みんな好き勝手なことを言い、馬鹿馬鹿しいやり取りをしながら騒ぎ、紗夜も一緒になって楽しむのだと思っていたのに。
すべてが、消えてなくなってしまった。
武斗は深い悲しみに、壁を背に廊下にへたりこみ、茫然自失といった表情でただただ涙を流していた。そして唇は、「俺のせいだ……」と繰り返し動いている。
銭湯に行ってからこうして帰ってくるまでの数時間の間に起きた虐殺。もし、寄り道せずに帰っていたのなら、誰も失わずに済んでいたのかもしれない。もし、自分が囮役になっていなければ。もし、自分がここに住んでいなかったら。もし――。
ひたすらに自分を責め続ける武斗。自責の念が武斗の心を憔悴させ、少しずつ破壊していく。もしも、このまま一晩この場から離れることなく自分を責め続けていれば、彼の心は完全に壊れていただろう。そして、もしもこの場にヤナガが来なかったら、武斗は朝までここで過ごし、取り返しのつかないことになっていただろう。
「気に食わぬやり方だ」
何の前触れもなく、朝日荘にあらわれたヤナガが不機嫌に吐き捨てる。その声に、武斗は何の反応も見せない。それでもヤナガは「小僧、お前はここで朽ちることを選ぶか? それとも、戦うことを選ぶか?」と問いただすが、やはり反応はない。
ヤナガは苛立つように眼を細めると、太い触手を体から伸ばし、力なく座っている武斗を激しく打った。無防備な武斗の体は紙くずのように二メートルほど吹っ飛ばされ、壁に激しく打ちつけられた。その衝撃で脆弱な作りの壁に大きな穴が開き、受け身を取ることなく床に落ちた武斗に、その破片がぱらぱらと武斗に降りかかる。
その姿に、ヤナガはもう一度問いただす。
「もう一度聞く。貴様はここで朽ちるか。それとも戦うか」
ダメージを与えれば目を覚ますだろうと思っていたヤナガの期待を裏切るように、武斗はぐったりと倒れたまま答えず、動く気配もない。その姿に、ヤナガは呆れるようにハナを鳴らすと、武斗を立ち直らせようと励ましたり慰めたりすることなく、無情の言葉を投げつけた。
「それが貴様の意志か。ならば、貴様にとって大切な者たちが、ここにいた人間たちと同じように殺されていくのを、ここでじっと待ち続けるのだな。それとも、この場で我に殺されるか?」
そしてようやく、その言葉にぴくりと指を動かした武斗が「たくさんだ……、もう、たくさんだ……」とぽつりと呟き、それまで糸の切れた人形のようだった武斗の体が、のろのろと動き出す。その緩慢な動きとは対照的に、武斗の感情が真っ黒に染まり、夜狩人の力がかつてないほど膨れあがり、視線を床に落としたままこぼれる言葉は、まさに呪いを唱えているような印象さえあった。
「どこのどいつだ……。誰がやった……。誰が、こんな真似をしやがった……」
「やっとその気になったようだな」
「言えよ……。知ってんだろ……」
「知りたければ我と一緒に来い。そこに行けば、恐らくそいつと会えるだろうからな」
武斗は返事をする代わりに、喉が裂けそうなほどの大声を張り上げて、感情の全てを拳に乗せて床を殴った。それは、戦いの意志を告げる咆哮。ただし武斗の心は、堂本の復讐を誓ったときのものとは異なり、凍てつく炎でその表面を氷らせていたが、中心にあるのは激しい自責の念であり、自己への憎悪だった。