パーティー
帰ってきた武斗は、アパートの玄関を開けて誰にということもなく「ただいま」と言って上がった。武斗にとっての“自分の家”は二〇二号室だけでなく、このアパート全てが我が家。事実、一階の巻野の部屋から、ひどくしゃがれた「お帰り〜」という力ない声が出迎え、その隣の部屋から、無精ひげをこれでもかと伸ばした権堂が、細長いその顔に満面の笑みを浮かべて「お帰りっ」と姿をあらわした。
「ただいまっス。ずいぶん機嫌が良いみたいっスね。ひょっとしなくても、久々に大穴当てたとか?」
権堂がここまで機嫌が良いときは、決まって競馬で大儲けしたとき。案の定、権堂は親指をぐっと立てて笑った。
「だはははっ! というわけで、週末はみんなで焼き肉パーティーだっ!」
「ゴチになります」
競馬で大儲けしたときは、必ずこうして儲けたお金でパーティーを開いている。それは権堂に限らず、ギャンブル好きな他の住人たちも、大勝ちするとみんなに奢ったりしている。子供の頃、どうして皆そんなことをするのかと不思議に思い、一度尋ねたことがあった。その答えは、今ではすっかり忘れてしまっているが、子供ながらに変に納得していた記憶だけは残っていた。
「そういうことだから、そのときはちゃんと、カノジョを連れてくるんだぞ?」
「彼女?」
「ガールフレンドに決まってるだろうっ! 他に誰がいるっ! それともタケは、実はプレイボーイで、何人もの女の子とあんなことやこんなこと――」
「ンなわけあるかっ! てか、なんで連れてこなきゃなんねえんだよ!」
「ふふ。主催者は俺だ。スポンサーも俺だ。そして、出席者を決めるも俺だ。俺の許可無き者は出席できん。つまり、俺がルールブックだっ!」
「き、きったねえ! 今までルールとかなかったじゃねえかっ!」
「いいか? タケ。俺はな、いや朝日荘に住む全員が、お前とお前の彼女を祝福してやりたいって思っているんだ。同い年ぐらいの女の子とまったく縁のなかったお前に、ようやく、ようやく彼女が出来たその喜びを、分かち合いたいって思っているんだよ! その気持ちを、何故わかろうとしないっ!」
とそこで、奥の部屋から「権堂くんの言うとおりだぞ」という声が聞こえ、巻野の部屋からも、咳をしながらそうだそうだと権堂を援護する声が飛んできた。しかも、権堂はその声を背に、真剣な顔をしてさらに説得を図る。
「そういうことだ。それとも何か? タケは、俺たちにはお前の彼女を紹介したくないとでも言うのか? 会わせたくないとでも言うのか? 俺たちが、彼女を連れてきたお前を馬鹿にするとでも思っているのか?」
「……酒の肴にしたいだけだろ」
「……」
「……」
「そんなわけないじゃないかっ!」
「何だよ今のマはっ!」
「とにかくだ。紗夜ちゃんをマキちゃんとトネさんにだけ紹介して、他の住人には紹介しないというのはあまりにも不公平だ。なあ、みんな!」
権堂の声に、朝日荘でこのような催しをする際にいつも場所を提供している管理人室からも、賛同の声が高らかに上がった。しかも夫妻二人の声が同時に。
「つまりそれが本音か……」
「それにだぞ? もしタケがその子と結婚することになったら、その子も俺たちの家族の一員になるってことなんだぞ? だったら、今のうちに顔合わせしておいて何の問題がある」
「話を飛躍させすぎだっ!」
「タケよ……。未来のことなんか誰にもわからないんだぞ? ひょっとしたら、若気の至りで一年後にはパパになってるかもしれないんだぞ?」
「なるかよっ!」
「まあとにかくだ、そういうわけだから、来週の土曜日は空けておけよ?」
権堂はそう言うと、自分の部屋に戻っていった。
「たく……」
武斗は、やれやれとため息を落とし、二階に上がろうと歩き出した。すると、巻野の部屋から「タケちゃ〜ん」という、武斗を呼び止める弱々しい声が武斗の足を止めた。その声の調子から、今の話の続きではなさそうだと思いつつ、武斗は巻野の部屋の前に行き、一応了承を得てから部屋の中に顔を出す。予想どおり巻野は風邪を引いているようで、熱でもあるのか、瞳と声をとろんとさせている。
「大丈夫っスか?」
「う〜。だめ〜」
「みたいっスね。で?」
「ん〜とねえ……、紗夜ちゃんとチューしたってえ、本当?」
巻野のその言葉に、武斗は余すことなく顔で即答していた。
「本当なんだあ」
「な、なんでそれを!」顔を真っ赤にして思わずそう叫ぶと、情報の発信源であるに違いないちとせたちの顔が頭に浮かび、続いて慎二の顔が浮かぶと、わなわなと拳を震わせながら「あいつら〜」と静かに唸る。そして巻野は、そんな武斗をいつもの調子でからかうのではなく、嬉しそうに呟いていた。
「そおかあ……。良かったねえ。お姉さん、嬉しいよお。このまま紗夜ちゃんがあ、タケちゃんのお嫁さんになったらあ、もっと嬉しいなあ」
「だから気が早すぎだろっ!」
「いいじゃないよお。私はあ、あの子が好きなんだからあ。おじいちゃんだっ――」
とここで巻野が激しく咳き込むと、これ以上喋らせるのは巻野に良くないと思い、今の話を終わらせた。
「わかったから大人しくしてろ! つうか、ンなこと言うために俺を呼んだのかよ」
「ん〜……。そんだけえ」
「マジか……。ったく、ンなしょうもないことで呼ぶな!」
「しょーもなくないよお。紗夜ちゃんはあ、タケちゃんの恋人なんだからあ。ねえ、タケちゃん。紗夜ちゃん、今度いつ来るのお?」
「そのうちな! だから大人しく寝てろっ!」
「ん〜。お姉さん、楽しみにしてるぞお〜」
巻野はそう言って布団を被った。これで巻野の相手は終わり、部屋から出ると、ちょうどそこに、外行きの格好をした利根林が、紙袋を手に帰ってきた。武斗のときと同じように利根林が「ただいま」と一声出すと、お帰りなさいという声がいくつも帰ってきた。無論、武斗も。
「お帰り、じいちゃん。珍しいな。こんな時間まで出掛けてたなんて」
「ああ。息子夫婦と久しぶりに会ってきたんだよ」
「なるほど。どうだった?」
「とても楽しかったよ」そう感想を言う利根林の顔は、本当に晴れ晴れとしており、嘘偽りなく楽しんできたことがよくわかった。
利根林はそのまま管理人室に入っていったので、武斗は二階に上がり、ようやく自分の部屋に辿り着くと、明かりを点けてごろんと仰向けにひっくり返り、天井をぼんやりと眺める。思考は、照臣の話を中心に広がっていった。
自分のこれからのこと。紗夜のこれからのこと。
そうして思考は、学校の前での文江との一件に至った。思い返される文江の言葉に、武斗の表情が自然と険しいものになる。
あのときの言葉を否定する自分と、完全に否定しきれない自分が、武斗の中にいる。だからこそ、どうしても苛立ってしまう。以前、自分の体は例え人間と呼べなくても、心は人間だと強い意志でヤナガに言ったことがある。その気持ちは変わっていない。しかし、それを支える絶対的なものがないのも事実。現に、文江にした行為にこれだけ苛立ってしまうのだ。
「くっそ。あんなことぐらいでビビってんじゃねえよ」
自分に自信を持てない自分を責めるように武斗がそう独り言を呟いていると、ドアがノックされた。
「武斗くん。ちょっといいかな」その声は利根林。武斗は起き上がってどうぞと答え、利根林はドアを開けると、紙袋から包装された箱を二つ取り出し、武斗に差し出した。
「はい、お土産。一つは紗夜さんのだから、明日にでも渡しておいてくれないかな」
「そりゃあかまわねえけど、いいんスか?」
「アパートの人たちにって、息子からたくさんもらってしまってね」
武斗は玄関で見た、利根林が持っていた紙袋の大きさを思い出した。確かに袋は結構大きかった。
「それじゃ、いただきます」
「うん。ところで、紗夜さんは元気してるかい? なんだか色々と大変だったみたいだからねえ」
「ああ、けっこう元気にしてる」
「そうかいそうかい。それは良かった。それで、焼き肉パーティーに招待してくれるのだろう?」
「じいちゃんまでそれ言うか……」
「いやあ、実はなあ。年甲斐もなく、あの子のファンでなあ」利根林はそう言って笑うと、武斗は思わず「ここにも一人……、か」と苦笑していた。
夕食を済ませ、食器を洗い、明日の朝ご飯となるおにぎりを用意すると、武斗は朝日荘で暮らすようになってからずっと利用している近くの銭湯に行った。当然、番台に座る中年女性とは顔見知りの仲。入浴料を番台に置くと、その女性は「焼き肉パーティーするんだって?」と話しかけてきた。
「やっぱ知ってたか」
「そりゃそうよ。ここは色んな話が飛び交う、社交場のようなものなんだから」
「確かに」
女性の言うとおり、ここは常連客にとって情報交換の場となっており、様々な話題が飛び交う。当然、武斗と紗夜の話題も上がっていた。ただし、武斗の前でそれを話すと恥ずかしがって暴れる可能性があるため、とりあえず武斗の近くでは触れないようにしていたのだが、武斗にその話題を振りたくてウズウズしている常連客は少なくなかった。
それはともかく、武斗は傷だらけの体を洗い、汗と一緒に体の中から嫌なものを吐き出させようとするかのように、熱い湯船にじっくりと浸かった。その結果、風呂上がりの汗がなかなか止まず、しばらくの間、脱衣所で体を涼ませることになった。
その脱衣所に置かれている十四インチのブラウン管テレビは今、バラエティ番組が垂れ流されている。スピーカーから聞こえるその騒々しい音に、同じく涼んでいる常連の男性がNHKにチャンネルを変えた。途端、ニュースを読み上げる男性のアナウンサーの声だけとなり、騒がしさが消え、武斗は聞くともなしに耳に入れていた。
そうして、発汗が治まってくると、そろそろいいだろうと腰を上げた。そしてそのとき、大量血痕事件に関するニュースが読み上げられた。正直なところ、このニュースはあまり聞きたくなかった。だが聞くべきだというもう一人の自分の声もあり、チャンネルを変えるに至らず、報道されるその事件の内容が武斗の耳を叩いていた。
冒頭で報じられたのは、この日に起きたビジネスホテルでの事件。文江から箱崎が殺されたと聞かされていたので、被害者の名前に大きく驚くことはなかったが、事件現場を詳細に伝える声は、武斗をとてもつなく不快な気持ちにさせた。
そして締めくくりに、現場の様子を「現場は、まるで虐殺の血で染まった海のようだったと、ある関係者が語っていました」と報じていた。このコメントに、一人の客が「まったく、本当に嫌な時代になったもんだ」と不機嫌に吐き捨てると、チャンネルを回していた。
その言葉と、大量血痕事件のことが、銭湯から出た武斗の頭にこびりついて離れようとしなかった。
「いつまで続くんだよ。こんなことが……」
武斗は苛立たしげに呟く。と、いつもの声が聞こえてきた。
「終わることはない。二つの世界が繋がっている限りな。さらに言えば、二つの世界を完全に分かつことなど無理だ」
「じゃあ、殺されるままでいろってのかよ!」
「そのために、お前のような存在があるのだろう?」
「わかってる! ンなこたあ、わかってんだよ……」
頭ではわかっている。所詮は焼け石に水だが、微力ながら犠牲者を減らす力が自分にはある。その為に作られた存在の末裔なのだから。しかし、その力を行使するためには、今のままでは駄目だ。今の生活の中では、夜狩人として力を使い切ることは難しい。
故に、文江の言葉が突き刺さるのだ。
化け物に相応しい場所――。
「ちくしょう……」
武斗は、自分の中で見えている答えに苦虫を噛んだ。
「小僧」
「ンだよ」
「今宵もいつもの場所には来ないつもりか?」
いつもの場所とは、お馴染みとなった学校の屋上。そしてそこに行くということは、これからも夜狩人として戦うことを意味する。それで悩んでいる武斗にこの言葉は少々腹立たしいものがあったが、このまま家に帰ってもイライラは増すばかりだろうからと、風呂に入ったばかりだが、軽い運動がてらにと、アパートに戻らずこのまま行くことにした。
そうしてヤナガに連れられてやって来ると、ヤナガはすぐに、体の中からいくつか武具を吐き出した。
「お前……、またかっぱらって来たのか……」
「どうせ小僧以外に使える者はいないのだ。何の問題もなかろう」
「そういう問題じゃねえ。って、まあいいか。俺以外使えないってことは、夜狩人の武具ってことだな」
武斗はヤナガが持ってきた武具を手に取り、一時間ほど試してみた。確かに使った感じは一ノ関のものとは違う。間違いなく夜狩人のものだろう。しかし、どれも自分にしっくりとせず、感触だけで言えば、初めてヤナガが持ってきた武具が一番良く、とりあえず今日持ってきたものは保留ということにした。
この判断に、一ノ関の武具を持ってきたときのことを思いだし、武斗はヤナガが機嫌を悪くすると思ったのだが、意外なほどあっさりと「選ぶのは貴様だ」と答えていたのには驚いていた。
その後、武斗は自力で帰れるうちにと学校を後にし、ヤナガは自分の仕事へと消えていった。
武斗が家に帰ってきたのは深夜十二時の二十分ほど前。明かりが一つも灯っていないアパートはひっそりと静まり返っている。この時間ならば、一つくらい明かりが点いていてもおかしくないのだが、点いていないからおかしいと言うほどのものでもない。
この時間まだ起きているはずの権堂や、他のギャンブル好きな住人は、月に数度、自分を含めたギャンブル仲間の誰かが大儲けすると、朝まで飲みに行くことがある。そして権堂は競馬で大穴を当てたばかり。
「焼き肉パーティーまでに金使い切らなきゃいいけど」
武斗はそんな独り言を苦笑しながら呟き、真っ暗な朝日荘の玄関を静かに開けて中に入り、靴を脱ぎ下駄箱にしまう。と、下駄箱に権堂の靴を見つけた。
「なんだ、いんじゃねえか」そう心の中で呟くと、こんな時間に寝るとは珍しいなと思い、すぐに、どうせ祝勝会などと言いながら部屋でしこたま飲んだんだろうと考えを改め、やれやれと呆れ顔でため息を落としながら階段を上っていく。
二階に上がると、利根林の部屋のドアが開いているのがすぐに見えた。一瞬、開けっ放しで寝てしまうなんて珍しいなと思ったが、いくつかの可能性を考えれば驚くことでもない。とはいえ、開けっ放しにしておくのはと思い、自分の部屋を通り越し、ドアのノブを握りながら一応部屋の中を確認する。
そして、初めこそ目の前の光景を理解することが出来なかったが、やがて理解した武斗は、目を大きく見開き、立ち尽くした。
外からの僅かな光の中でうっすらと見える部屋の中は、血の海と化していた。