序曲
昨日、この町に再びやってきた御子杜文江は、この日の九時頃、とあるビジネスホテルの一室を訪ねた。その部屋には箱崎が滞在しており、報告書を見せてもらうことになっている。今回はあくまでも個人的な行動として。
前回来たとき、箱崎との会話を紗夜に聞かれたことが原因で、御子杜本家の当主であり文江の祖父から、早々帰ってくるよう命じられてしまった。そして軽率な行動は慎めと咎められ、武斗に関する情報を手に入れにくくなってしまったので、文江は個人的に情報を得るべく、勝手に箱崎とこうして直接会うことにしたのだ。
いま箱崎が宿泊しているホテルは、最初に泊まったホテルとは異なり安いビジネスホテル。一泊の予定だったのが、調査のためしばらく滞在することになり、宿泊施設を移していた。
部屋のドアをノックした文江は、一秒と待たずに返って来るであろう箱崎の返事を待った。しかし返事はなく、ドアが開かれる気配もない。約束の時間に来たというのに何やってるのと少々機嫌を悪くしながら、ドアノブを握ってみる。するとドアは難なく開いた。
「なによ。居るんじゃない」
文江はそのまま部屋の中に入っていく。明かりの点いていない部屋の中は薄暗く、短い廊下の向こうにある奥の部屋のカーテンが閉められ、日の光のほとんどが遮られているのが見えた。まさかまだ寝ているのかと少し腹を立てながら廊下を抜け、奥の部屋に入ってみると、そこに箱崎の姿はなかった。
「まったく、何してるのよ。あの男は」
文江は文句を言うと、部屋の明かりを点け、お風呂にでも入っているのだろうかと思いつつ、部屋の隅にある小さな冷蔵庫を開けようとした。すると、視界の端でこの部屋の異状をとらえた。ドアのところから短い廊下にかけて、床から壁から天井から、色の付いた大量の液体をバケツでぶちまけたようなシミがついている。それが柄でないことは見た瞬間にわかる。
ならばこのシミは何なのだろうと、適当に明かりのスイッチを入れる。運良く最初のスイッチは廊下を照らす照明のもので、そのシミの正体がすぐにわかった。そしてその光景に、文江は悲鳴を上げるでもなく、驚くでもなく、つまらないものでも見つけてしまったような顔で、事も無げに「あらら」と言うだけだった。
それは、べっとりとまき散らかされた血痕。その血痕はドアにもべったりと着いている。どうやら、部屋の外に逃げ出そうとしたが、カギを開けたところで力尽きたのか完全に食い殺されたかしたようだ。
そのときの様子を思い浮かべると、文江は「ふうん。こんな場所にもやって来るんだ。それにしても、あと少しだったのにねえ」と、逃げ切れなかった箱崎をくすりと笑った。
会う約束の相手を失った文江は、さて、と言って部屋の中を見回し、小さなテーブルの上で目を止めた。そこは、血が降りかかっていないノートパソコンと携帯電話が几帳面に並べて置かれていた。
文江は、どうせ無理だろうと思いつつノートパソコンの電源を入れた。この中にある報告書のデータを受け取るのがこの部屋に来た目的なのだから、何もせずに諦めて帰ってしまうのも面白くないだろう。
OSの起動画面が立ち上がると、案の定、パスワードが必要となった。試しにいくつか適当な文字列を入力してみたが、簡単にわかってしまうようなパスワードを設定するほど箱崎は間抜けではなく、当てずっぽうに入力したところでどうにかなるはずもなかった。
「ちっ。ほんっとに使えないやつね」
文江はそう文句を言うと、諦めて電源を落とした。
これでこの部屋に用のなくなった文江は、血に染まったドアを、顎を上げて軽蔑するように見下し、「だからあんたは下っ端なのよ。まったく、私に余計な迷惑かけんじゃないわよ」と腹立たしげに吐き捨てる。そして、後々の面倒を避けるべく、自分がこの部屋を訪れた痕跡を完全に消して立ち去る方法を考え、誰にも見つからないように注意を払いながら静かに部屋を出てると、廊下やエレベーターで誰とも会うことなく、何食わぬ顔で堂々とホテルから出て行った。
ホテルを出た文江は、適当に時間を使ったのち少し早めの昼食をと、目についたフレンチレストランで適当にコース料理を注文し、ワインを数杯飲み干しながらそれらを満足そうに平らげ、次の目的地へと向かった。
彼女が向かった先は、八城神社。当然これも、本家とは関係なく個人的に立ち寄っただけのこと。
「本家と同じで、辛気くさい場所ね」
初めて訪れた八城神社を見てそう言い捨て、母屋と思われる建物の玄関に向かい、呼び鈴を押した。来訪者の知らせに照臣は返事をして早々に玄関を開け、予期せぬ目の前の人物に激しく驚いた。
「文江殿……!」
「ずいぶんと失礼な顔で出迎えるのね」
「失礼いたしました……」そう謝る照臣の顔は謝罪のそれとは異なっている。文江はその顔に、「嫌われたものね。私も」とわざとしおらしい顔で返す。しかし照臣の瞳の中にある警戒の色は少しも変わらない。それが楽しいのか、今度は「良い性格してるわね」と笑った。
「ありがとうございます」
「ふん。それで? 私はこの家には入れてもらえないのかしら?」
「そうでしたな。それでは、奥へ」
照臣はそう言って、文江を奥の居間へと通し、文江の分だけお茶を出すと、すぐに話を始めた。
「ところで、今日はどのようなご用件で?」
「用件ってほどでもないわ。紗夜ちゃん、どうしてるかなあって思ってね。ほら、私、あの子に余計なこと言っちゃったでしょ? ひょっとしたら、そのせいで悲しい思いさせちゃったのかなって」
「それでしたら、ご心配に及びません。あの子は、決して弱い子ではありませんから」
照臣の答えに、文江は目を点にしてすぐに、大声を出して笑った。
「あっははっ! あの根暗が弱くないわけないじゃない! いっつもビクついてて、人の顔色をうかがってばかりの弱虫が!」
その笑い声はしばらく続き、その間、照臣は箱崎を相手にしたときと同様に冷静な表情のままだった。そして文江が笑い終えると、照臣は言った。
「子供の頃のあの子は、文江殿の仰るとおりだったのでしょう。依然として自分に自信を持てないでいるのも事実です。あの子がそうなってしまったのは、間違いなく我々大人の責任。しかし今のあの子は、現実を受け止めるだけの強さを持っています。そして、その先に進む勇気も」
「勇気ねえ。あっはは。さすが紗夜ちゃん大好きおじさん。言うことが他の人と違うわ」
文江は、照臣が何年も前から紗夜を気にかけ、元気付けていることを知っている。それは文江だけでなく、御子杜一派の中でかなり知られた話。
「そこまで言うんだったら、あなたがあの子を引き取れば良かったじゃない」
「今となっては、そうすべきだったと思うこともあります」
「今からでも遅くないんじゃない?」
「末席の身分では、それは無理な話。それに清正殿も静恵殿も、あの子をすぐに手放す気はありますまい」
「はあ? 本気で言ってんの?」文江が呆れ顔で言葉を返す。
「娘を生け贄に差し出すような二人なのよ? むしろ、手放したくて仕方ないんじゃない? あの子のせいで、周りからの風当たりも良くないんだし」
「そうさせているのは、文江殿なのでは?」
「私がそう仕向けてるっていうの? とんだ言い掛かりね」
「清正殿たちへの周囲の声については、文江殿お一人でそうしているとは考えておりません。そうさせている中の一人だと私は言っているまでです。それと、娘を生け贄に差し出したと仰いましたが、それこそは、文江殿の仕向けたことなのでは?」
照臣のこの言葉に、馬鹿にした表情の中の瞳をぎらりと光らせた。
「へえ……。誰から聞いたの? その話」
「それは言えませんな。それより、どうしてあの子をそこまで敵視するのです。あなたにとっては、そこまでする必要のない存在だと思うのですが?」
「そんなの簡単よ」
そう言うと、文江は吐き捨てるように言った。
「私はね。役立たずな人間が大嫌いなの。特に、自分が役立たずだって知らないで、のうのうと生きているようなヤツがね。勝手にのたれ死にしていればいいものを、遠縁の分家の人間だからって、寄りにも寄って本家の近くで引き取るなんて。ほんっと胸糞悪いわ」
「だからといって、あの子に辛く当たる道理はありますまい。産まれてすぐに家族を失ってしまった赤ん坊に、何の罪もないのですから」
「それはあなたの道理でしょ? それに、私があの子にどうしようと、御子杜の血筋でもない赤の他人のあなたには関係のないこと。まあ、あの子と結婚でもすれば話は違ってくるけど? ああでも、それは無理か。あなたの大事な紗夜ちゃん、化け物に横取りされちゃったらしいものねえ」
文江はそう言うと、どんな顔をして言い返してくるのかと期待した。だがその答えは、彼女にとって癪に障るものだった。
「そのようですな。正直、少し寂しい気はしますが、しかし嬉しく思ってますよ。紗夜と武斗なら、お似合いのカップルですからね。それと、これだけは言っておきます。彼の肉体は、確かに人間と呼ぶには難しいかもしれませんが、彼の心は、間違いなく純粋な人間です。あなたと違いましてね」
「なに? 私の心が化け物だとでも言いたいの?」文江の眉間にしわが寄り、初めて敵意を見せる。しかし照臣は動じることなく、挑戦的な笑みを浮かべて答えた。
「どうぞ好きに解釈してくださって結構です」
「ふん。だからあんたは嫌いじゃないのよ」
「ところで、紗夜に話しておりますまいな。あの子が養子であるということを」
「そう簡単に使うわけないでしょ。とはいえ、いずれは知ることになるわけだから、それまでには使っておきたいわね。一番良いタイミングで」
そして文江は、お茶に口を付けることなく帰っていった。結局、言いたいことだけ言っただけで、本当に何しに来たのかわらない来訪だった。
母屋の中が再び静かになると、照臣は居間で一人お茶をすすりながら、文江が来る数時間前にあった、本家からの電話の内容を思い出していた。
その内容とは、紗夜と武斗に関する本家の意向。
本家の下した判断は、紗夜に関しては近いうちに家に戻すというもの。紗夜が武斗からある程度話を聞いているという照臣の言葉を踏まえた上で、囮としてはもう使い物にならないだろうから、そこに居る必要はないというのがその理由。家に戻ったあとの紗夜については、照臣が知る必要はないと何も説明されなかった。
そして武斗に関して、現時点においては様子を見るに留めるというもの。どうやら武斗の処遇については、予想どおり内部で意見が分かれ相当もめており、武斗の存在が知られてもう何日も経つというのに、未だ答えを出すことが出来ずにいるようだった。
この本家の決定に、果たしてこれが二人にとって良いことなのか、照臣はそれを判断することが出来なかった。
紗夜が囮役から解放されるのは、素直に喜ぶべきことだろう。だが、自分の家に戻ったあとの紗夜の身を案じると、素直に喜ぶ気になれない。それに、実家に帰るということは、武斗と離れ離れになるということ。紗夜はきっと、とても悲しむに違いない。
また武斗についても、実家に帰った紗夜の身を案じる気持ちは残るだろうし、何より、現状維持ということは、まだこの先どのような判断が下されるのかまったくわからないということ。不安を取り除けたわけではない。
そして照臣は、このことを二人に伝えなければならない。照臣自身の意向とは関係なく。
自然と、照臣は何度もため息をもらしていた。
六時間目の授業が終わり、武斗にとっては今までで最悪と言っても過言ではない、むしろ悪夢と言ってよいほどの、長い長い苦痛な時間が終わりを告げた。その理由は、自然にお互いを名前で呼び合う二人の仲を祝福する声を浴びていたからではない。それは、すでに開き直っていたので、少々照れくさくもあったが苦痛でも不快でもなかった。
問題は別のもう一点。
武斗が一時間目から授業を受けるときの登校風景は、畏怖や軽蔑の目、ひそひそと話す陰口などを向けられながら、というのが日常だった。およそ二週間ほど前からその日常が変わり始めていたが、大きな変化は感じていなかった。
しかしこの日の朝、武斗は何人かの女子生徒から「おはよう」などと声をかけられ、中には、武斗に挨拶してすぐに恥ずかしそうに走り去っていく女の子もいた。しかも、この日の武斗に向けられている視線などは、畏怖や軽蔑ではなくその逆。
これには、体の中まで鳥肌が立つほどの居心地の悪いむず痒さを感じていた。そして教室に入るとクラスメートが何人も駆け寄ってきて、紗夜との仲を祝福する声と一緒に、紗夜が家を飛び出した三日前の武斗の行動を褒め称える声が数多く向けられた。
これに対し武斗は、自分一人で捜していたわけではないし、自分一人で見つけ出したわけでもないと不機嫌にがなり立てていたが、もはや、お姫様を救い出した騎士としてその立場が固まってしまっていたため、どれほど言おうが聞く耳を持ってもらえず、堪らず「るっせえんだよ! てめえらっ!」と怒りの表情で力一杯怒鳴った。
しかし、その威力は以前とは比べものにならないほど低下していたため、周囲の声を黙らせることは出来なかった。それだけ、武斗に対する周囲のイメージが変わったということなのだが、このままでは本気で片っ端から殴りかねないと思い、武斗は休み時間の度に、「俺の平和な日常はどこに行っちまったんだ」とため息を落としながら、人気のない場所へと避難していた。
そして紗夜はというと、先週のことで迷惑をかけてしまったことを一人一人に詫び、あわせてお礼をして回っていた。
このような一日をげっそりとした気持ちで乗り切った武斗は、上々の気分といった表情の紗夜と足早に学校を出たのだが、その途中でも、見知らぬ生徒から声を掛けられていた。ほとほとうんざりしていた武斗は、不機嫌な声で「冗談じゃねえよ……」と不満を口にする。
「どうしてですか? みんなが武斗くんのことわかってくれたみたいで、とっても良いことじゃないですか」
「俺はな、知らねえやつらに慣れ慣れしくされんのが、一番嫌いなんだよっ!」
「それなら心配ありません。これからは、みんな武斗くんの知らない人ではなくなりますから」
そんな紗夜らしい言葉に、武斗は深いため息と一緒に、力一杯脱力した顔で紗夜を見ると、その顔に紗夜は少々不満顔で「私、変なこと言ってませんよ?」と訴えた。
「ああそうだな……」
「もうっ。武斗くんってば。どうしてもっと素直に喜べないんですか」
「これが俺の素直な気持ちだ。神様に誓ってやってもいい。神様がいればの話だけどな」
「ほんと素直じゃないんだから」
紗夜はそう言って歩き出すと、すぐに足を止め、その場に立ち尽くした。その様子に、武斗は「どうした?」と声をかけて紗夜の顔を覗いてみると、紗夜の目が一点に向けられており、その先を追うと一人の女性が立っていた。そして、武斗の知らないその女性が二人に向けてにこりと微笑むと、紗夜が呟いた。
「文江叔母様……」
その名前に武斗はすぐに思い出すことが出来なかったが、紗夜の表情でそれが誰かを理解すると、敵意を込めた目で文江を睨み付けた。