雨に打たれて
体がぶるっと震えると、紗夜は目を覚ました。そして見慣れぬその光景に「ここ……は?」と呟き、重たく感じる体をむくりと起こす。すると、体に掛けられていた毛布がはらりと床に落ちた。それを見て、ぼーっとする頭で「私……、どうして……?」と、ここに至る経緯を思い出そうとした。
一眠りした分、思考はだいぶ働くようになっていた。
まず思い出したのは、文江から聞かされたこと。そしてそれを確認しに家に戻ったが照臣に何も教えてもらえず、家を飛び出してしまったこと。そのときは、誰も何も教えてくれない悔しさがあった。だが今は、照臣に言った言葉を少し後悔している。
照臣が言えないのは、たぶんその権限を与えられていないから。御子杜一族の縦の関係はとても強く、分家になればなるほどその権限は剥奪され、内容によっては、本家以外知り得ないものや、本家の中でも限られた者以外知り得ないものもある。
この件は、照臣には口にすることを許されていないものなのだろう。そう考えれば、自分がしたことは照臣を苦しめるだけの行為とも言える。
「酷いこと、言っちゃった……」
紗夜はぽつりと反省の言葉を呟いた。
次に考えたのは、どうしてここにいるのかということ。文江の言った言葉を自分なりにもっと考えるよりも、今は状況を把握する方が先だと感じた紗夜は、家を飛び出したあとのことを思い出す。
当て所なく彷徨い、バスに乗り、電車に乗り、知らない男に声を掛けられ、その男の声をぼんやり聞き流しながら一緒に歩き、そして現在、見たこともない部屋で、べったりと湿った制服を着たまま眠っていたところ。
男と歩いていたところから、こうして目を覚ますまでの記憶はすぐには思い出せなかったが、この状況がどういったものかを想像してみると紗夜は少し怖くなり、とにかくここから出なければとソファーから立ち上がり、ドアへと近付いていった。
と、ドアノブを握ろうとしたところで、ドアの向こうでひそひそと立ち話をしている二人の男性の声が聞こえてきた。
「大丈夫なんスか?」
「安心しとけ」こちらの声は、なんとなく聞き覚えがあるような気がした。
「でも、相手は女子高生っスよ? もし店長にバレたら、ほんとヤバイっすよ」
「なあに、策は講じてあんだ。バレやしねえよ。それにあんだけの上玉を指しゃぶって逃がす手はねえ。うまく利用すれば、俺たちの懐をしこたま暖めてくれるだろうからな」
「利用って、どうやって?」
「たぶん、あのガキは家出娘だ。大金をちらつかせてやれば、すぐに働かせてくれって言ってくるさ」
「働くって、ここホストクラブっスよ?」
「ばあか。誰がここで働かせるって言ったよ」
「そ、それって人身売買じゃないっスか」
「ちげーよ。こういうのは人材派遣っつんだ」
「同じだと思うんスけど……」
そして会話はここで途切れた。聞き覚えのある声の男が「レイジさん、ちょっといいですか」と声をかけられ、どこかへ行ってしまったのだ。またレイジと呼ばれた男と話していたもう一人の男も、どこが違うんだよと言いながらその場から立ち去った。
「どう……しよう……」
紗夜は自分の置かれている状況に血の気を引く。
今の会話にあった女子高生とは、恐らく自分のこと。びしょ濡れの制服姿でふらふら歩いていれば、家出しているところだと思われても不思議ではない。そしてこのままだと自分は売られてしまい、酷いことをたくさんされる――。
「いや……」怯えるように声を上げると、「助けて……、楯村くん……」と震える声で武斗の名を口にし、その口を慌てて塞いだ。自分が目を覚ましていることを教えてしまったら、逃げ出すチャンスを失ってしまうと咄嗟に考えたからだ。
そして、ドアから逃げ出すのは危険だと感じた紗夜は、部屋をぐるりと見渡し、天井付近の小さな小窓を見つけると、そこから逃げ出せるかもしれないと近寄り窓を開けた。雨は降り続いていたが、土砂降りというほどのものではなくなっている。
窓のすぐ前は隣のビルの壁だったが、幸い、その隙間は半身になればなんとか通れる幅があり、通りに面した方は物が色々置いてあり抜けられないが、もう反対側は障害物がなく抜けられる。そしてその先は細い抜け道のようで、そこまで行けば逃げ出せるだろう。 紗夜は音を立てないように気をつけながら、一人用のソファーを窓の下に移動させて窓枠に登り、まず片足を降ろす。次いで体を隙間に滑り込ませるように背中に壁を当て、もう片方の足を降ろそうとしたとき、その足が滑った。
バランスを崩し支えを失った体は、悲鳴を上げる間もなくそのまま落ちてしまった。しかも、その途中で金具に引っかかってしまったスカートが大きく裂け、上着も数カ所裂け、滑った足の方の靴は脱げ、肘と膝を打ち、手のひらを含め数カ所擦りむいてしまっていた。
その痛みに泣きそうになりながら、紗夜は必死にその隙間から抜けようとする。途中何度も擦り傷が壁を擦り、その都度痛みに目をぎゅっとつむった。そうして、少しずつしか進めない中、どうにか隙間を抜け出し細い抜け道に出ると、ようやく自由に体を動かせるようになり、へたりと膝を折って腰を落とした。
だがこのまま座り続けるわけにもいかない。視線の向こうにある人混みの中に入って、助けを求めなければならない。紗夜は痛む体を持ち上げて立ち上がり、雑踏へと向かおうとした。しかし、その方向から聞いた声がして足が止まった。それはレイジと呼ばれた男の声。抜け道のすぐ側で電話をしている最中のようで、短い沈黙を挟みながら喋っている。
急いでこの場から離れないとその男に見つかってしまうと、紗夜は反対側へと必死に駆け出し、抜け道に沿って突き当たりを左に曲がり、そのまま路地裏へと出たとき、抜け道と路地裏の段差に足を取られ、転んでしまった。
左肩と左肘を強く打ってしまい、痛みに呻きその場で体を丸めてしまった。
「楯村くん……、痛いよ……。助けて……」
紗夜は武斗に助けを求めるように声を出す。だが助けはどこにもなく、よろよろと自分の力で体を起こした。そしてその視線の先に、ガラスに映る自分の姿があった。あちこち擦りむき、制服は破れ、スカートも大きく破れている。そんな自分の姿が急に惨めに思えた瞬間、大通りの雑踏からたくさんの笑い声が紗夜の耳を叩き、続いて、あいつは馬鹿だの使えないだの死んでくれだのと、恐らく酔っぱらったサラリーマンの集団だろう、悪口を垂れ流していた。
その声が、紗夜には自分に向けられているように聞こえ、やがて紗夜の耳に届く声は、彼女を卑下するたくさんの嘲笑に変換され、それは津波のように押し寄せ、紗夜を襲い始める。
「やめて……、お願い……、やだ……、もう、許して……、お願い……」
そして紗夜は、その声から逃れるようにその場から走り去っていった。
路上での電話を終えたレイジは、店内に戻るとホストの一人に「あの子はどうしてる?」と尋ねた。そのホストは、ドアの前で話していた男とは別の男。
「あの子?」
「応接室で寝ている子だよ」
「ああ。まだ寝てるんじゃないですか?」
「そうか。あとで様子見てこい。もし起きてたら、暖かいもんを飲ませてやれ」
「はい」
「さて、もう一人の女子高生はどんな感じかな」
レイジは誰にも聞こえないように呟くと、フロアーの一角で盛り上がりを見せながらお酒を飲んでいる、もう一人の女子高生のいる席へと行った。
紗夜が聞いていたのは、実はこの客の話だった。紗夜に対しては、正直、場合によっては同じように金儲けの道具にするのもありかという考えは後付でちらりあったが、放っておけなかったからというのが最大の理由だった。
途中でわざと路地裏に通ったり別の女に送らせたりしたのは、例えどんな理由があるにせよ、制服を着て全身ずぶ濡れになっている女子高生を事務所に入れた時点で、色々と面倒なことになる可能性は高い。その可能性を減らすためにしたことだった。
そして、こんな面倒なことするなら、放っておけば良かったのにと同僚に言われていたが、見捨てるに見捨てられなかったというのも本音だった。
それから数十分ほどして、レイジはご指名の客が来たと呼ばれ、もう一人の女子高生の座る席から席を立った。
事務所から逃げ出した紗夜は、強迫観念に駆り立てられながら、喧噪から遠ざかるような道を選び、途中人とすれ違ったり人とぶつかったりしながらも、無我夢中で走り続けた。そして体力が尽きてくると、走っていた足は徐々に鈍くなり、やがて歩きとなり、そして一歩一歩が足を引きずるように重くなり、そうして、真っ暗な工場の敷地内に彷徨い入り、これ以上は動けないとなったとき、ようやく、ドラム缶や資材などが雑然と置かれている場所の隙間にぺたんと腰を落とし、膝を抱えて体を休めた。
そこは雨をしのげる場所ではなく、降り止まぬ雨に紗夜の体は濡れ続ける。だが、体力も尽き、頭の中は熱病に冒されたように熱いモヤに満たされ、感覚もほとんど麻痺していた紗夜は、なんとなく寒いと感じるだけ。
そして彼女の思考は、疲れ果てた心が余計な感情を消してくれたおかげで、ぼんやりと、そして非常にゆっくりとだが、文江が言ったことを繰り返し、それ以外のふと蘇る記憶でときおり補完することが出来ていた。
例えば、化け物と戦った、という話で言えば、それが毎日のように増える武斗の傷や怪我の理由に成り得る。また、よく学校に遅刻してきたり休んだりしている理由にも成り得る。
そして何より、文江が笑いながら言った、武斗は化け物を倒すために造られた化け物の末裔で、人間ではないという言葉。武斗は、自分をやっぱり化け物じゃないかと笑った。そして照臣は、武斗のことはあまり知らないと嘘をつき、数時間前に聞いたときは、自分の一存では話せないと言った。
一度形になりかけたことのある漠然としたイメージが、再び形をなし始めていく。だが、心身共に疲れ切った紗夜の意識は長くは保たず、やがて夢の中へと落ちていくと、遠い昔の記憶がぱらぱらとめくられていった。
妹が産まれる以前は、厳しい父親と何かと紗夜をいじめる姉、また紗夜を良く思わない一部の大人たちの陰口などに怯える中、ときおり優しくしてくれる母親を唯一の救いとしていた。そして妹が産まれると、母親はその世話で忙しくなった。紗夜は母の手伝いをしようとしたのだが、姉が執拗にそれを邪魔し、やがて自ら母親から離れるようになった。
唯一の救いを失った紗夜は、ただただ、厳しい父に従いながら礼儀作法を学び、習い事をし、姉のいじめに耐え、そして夜中に一人泣く日々を送ることとなった。
それからの紗夜はいつも独りぼっちだった。誰も助けてくれなかった。声にならない悲鳴を必死に殺し続けた。今以上嫌われないように、息を潜め続け、いつしか、流したい涙さえも必死に焼き尽くすようになっていた。
きっと自分が良い子じゃないから、父も姉も、大人の人たちも自分のことが嫌いなんだ。だから母は自分を助けてくれないんだと思うようになり、自分の気持ちを必死に殺しながら従順に振る舞うように心掛けた。それは紗夜の心を少しずつすり減らし、全ての人が自分を嫌っているのではないかと思うようになり、誰に対しても少しずつ臆病になり、人と接することが極端に怖くなっていった。
そうして中学生になった頃、紗夜は家にやって来た照臣と出会った。照臣は、紗夜の表情や口調などから、きっと相当な無理をしているのだろうと感じ取ると、どうにかしてあげたいと思うようになった。
それから何度か紗夜のもとを訪れた。最初のうちは、紗夜は照臣とどう接すればいいのかまったくわからないといった様子だったが、何度目かの来訪の際、照臣のこんな質問から紗夜は本当の感情を表に出すと、頑なに閉じてきた自分の心を、ほんの少しだが開くことを思い出した。
「君は、何を想像しているときが一番楽しい?」
「そんなこと、考えたことありません。ですから、私には答えられません」
「なら、今考えてみようか。さ、目をつむって。楽しいと思えることを、幸せだと思えることを、想像してみてごらん?」
紗夜は言われるままに想像した。だが、心がそれを意図的に拒むかのように何も想像できずにいた。それでも照臣は黙って待ち続けていると、ようやく思い浮かび上がってきた。それは、優しく微笑んでくれている父と母、それに姉と妹の姿で、家族が自分を暖かく迎えてくれている光景。遠い昔に心の奥底に封印したはずの、ささやかな願い。
気が付けば、紗夜は大声で泣きじゃくっていた。
もう何年も泣くことを拒んできた紗夜の涙は、いつまで続くのかと思うぐらい流れ続けた。そうして泣くだけ泣くと、紗夜の心は不思議と少しだけすっきりしていた。そんな紗夜に、照臣は優しく笑いながら「辛いときや、悲しいときは、思いっきり泣いていいんだよ? 腹が立ったら怒ればいい。楽しかったら笑えばいい。つまらなかったらそっぽを向いてもいい。自分の気持ちに嘘をついては、今の君みたいに、自分の心が泣いてしまうからね」と言った。
だがそう言われても、長い時間自分を必死に殺して生きてきたのだから、すぐに変えることはできない。
ようやく泣きやんだ紗夜が想像したことを照臣に言うと、照臣は難しい顔をしたあと、こうアドバイスした。
「少しずつ、ゆっくりでいいから自分の正直な気持ちを出してごらん。ただ、いきなり君の家族にするのは難しいだろうから、試しに、学校の友達にやってみるといい。ただし、優しくしてくれそうな子を選ぶ必要はあるよ? そうすれば、君の素直な気持ちを全部受け止めてくれる人と出会えるから」
紗夜はその言葉をそのまま受け止めていいのか悩んだが、それから一ヶ月後、ほんの少しずつだが心を開くようになり、今までクラスメートと喋ることさえ怯えていた紗夜だったが、ほんのちょっとずつ喋れるようになり、ほんのちょっとずつ友達を作っていった。
そして、紗夜は巡り会った。自分の素直な気持ちを全部受け止めてくれると信じられる人と。
「楯村くん……」
紗夜はそう呟くと同時に、目を覚ました。だが頭の中はぼんやりとしており、ひどく息苦しく、全身が燃えるように熱くなっている。
「私……。そうだ……。私、逃げてきたんだ……」そう言って、積み上げられた資材に寄りかかっていた体を起こそうとしたが、触れた擦り傷の痛みにすぐに手を引っ込めた。そしてその傷を見ると、改めて自分の体を見た。肘や膝などに擦り傷があり、制服はズタボロで、制服もその下もこれ以上無理といわんばかりに濡れている。
「ひどい格好……」
自嘲気味に小さく笑うと、こしらえた傷を眺め、武斗のことを思った。
兄と慕った人の死から心も体も日増しに傷だらけになっていく武斗。
「私のせい、なんだよね……」
紗夜はそう呟くと空を見上げた。紗夜の顔を叩く頭上の雨は、だいぶ小降りになっている。ふと、今何時なんだろうと思い、右手の腕時計を見ようと視線を落とした。そしてその途中、この世のものとは思えない、真っ黒な異形の化け物の姿が紗夜の瞳に映った。
その異形の姿を見たとき、紗夜の頭に、武斗の言った言葉が思い出された。
あの化け物が殺したんだ――。
紗夜の全身に恐怖が走り、逃げ出すどころか、指を動かすことも化け物から目をそらすこともできなくなり、「たす……け、て……、楯村くん……、いや、あ……」と悲鳴を絞り出すのが精一杯だった。