偽りだらけの世界
背中越しに武斗の名前を聞いたときから、ちとせたちと話をしながら、意識のほとんどは後ろの席の会話に向けられていた。そして紗夜は後ろで交わされる言葉を記憶し、考え、何の話をしているのか必死に理解ようとし、乱数のように規則性なく頭をかすめていくここ二週間の記憶がその隙間を補完しながら、漠然としたものが頭の中で形作られていった。
だが、一つ一つがしっかりと組み合わさり、ある程度はっきりとしたものになる前に、紗夜のせいでみんなが苦労しているという言葉が、紗夜をたまらず席から立ち上がらせた。
そして、文江が言った。
楯村武斗は、化け物を殺すために造られた化け物であり、人間ではないと。
詳しいことは、照臣が知っていると。
考えてみれば、照臣は武斗について色々と隠そうとしていた。それはつまり、知っているからこそ嘘を付いていたということであり、まだ嘘を付いているということ。
それが分かった瞬間、思考は様々な方向へ乱れ飛び、すっかり混濁すると、漠然としたイメージが跡形もなくバラバラになり、どういうことなの?という言葉ばかりが頭の中で跳ね回った。そこには、もう一度整理してイメージを組み立て直す余裕はまったくない。それどころか、里子に声をかけられるまで、呆然と立ち尽くしている自分に気付くことさえできなかった。
我に返った紗夜は、里子に促されて一度椅子に座り、まさみは怒り心頭といった表情で捲し立てた。
「なによあのクソババア! えっらそうにしやがって! ほんっとむかつく! いくら御子杜さんの知り合いでも、あんな言い方ないじゃない! だいたい、てめえを何様だと思ってんだよ! ババアのくせにっ!」
ちとせも怒りにまかせて声を荒げる。
「態度でかすぎんのよ! それに、性格最低のあんたなんかよりも、ずっとずっと遙かに御子杜さんの方が素敵で可愛いんだからっ! 自分の顔と性格を鏡で見てから言えってのよ! 鏡に映るあんたなんて、腐った生ゴミよりも悲惨なんだよ!」
「そうそう! ゲロとうんこと腐った生ゴミをぐっちゃぐちゃに混ぜたものよりも汚いんだよっ!」
とここで、ウェイトレスではなく店長らしき中年の男性が止めに入った。他のお客もおり、飲食物を扱う店の中でする単語ではない言葉を大声で叫ばれれば、当然の対応。丁寧な口調で諭されるように注意された二人は、吹き出す怒りをすぐには抑えられず、里子も「お店の人の言うとおりだよ? それに、御子杜さんの知り合いの人のことを、あんまり悪く言うのも良くないと思うし」と説得に当たったのだが、それが彼女らにとって隙となった。
紗夜は騒がしく話している彼女らを置いて、いきなり店から走って出て行ってしまったのだ。ちとせたちは完全に不意を突かれてしまっていたので、慌てて後を追って店を出たときには既に時遅く、完全に紗夜の姿を見失っていた。
三人は、あのまま放ってはおけないと思い手分けして探すことにしたのだが、すぐに降り出した激しい雨に、やむなく中断せざるを得なくなり、一度集合することにした。
「やっぱ、あのクソババアを追っていったのかな」と、まさみが紗夜の向かった先を予想する。ちとせもそれに同意していたが、里子は「ショージンって人のところじゃない?」と予想していた。だが、それが八城照臣のことだと分からない三人にとっては意味のないものだった。
天気予報では午後から回復するはずの空から降り出した雨の音を聞きながら、照臣はこれからの事に深いため息をつくばかりだった。
それは、武斗の存在が御子杜本家の知るところになってしまったこと。しかも昨日のうちに本家から電話があり、後日詳しい話を直接聞かせてもらうと言われている。それがいつになるのかはまだ連絡を受けていないが、そう遠くはない日に本家の人間が来ることは間違いなかった。そしてそのときに、武斗に関する本家の意志が伝えられるだろう。
「私には、もう何もしてやれなくなるのかもしれないな……。どうして武斗をそっとしておいてやれないのだ。本家の者たちも、闇の住人たちも……」
照臣は、産まれたばかりの頃から見ている武斗のことを思い、悔しげに呟く。
武斗が産まれるとき、すでにその姿を妊婦検診にて確認し、異形の姿でないことに一安心していた照臣と長幸だったが、祈る思いで出産に立ち会った。どうか、健康な子供が産まれてきますようにと。
そして赤ん坊は、元気な泣き声とともにこの世界に産まれてきた。
母体も無事で、二人はほっと胸を撫で下ろしていたが、夜狩人の赤ん坊であることは変わりなく、特に照臣は、これからどう育っていくのか心配していた。なにぶん、夜狩人に関する知識がそれなりにあったために。
しかしそんな周囲の心配をよそに、武斗はすくすくと育っていった。
武斗はすっかり忘れてしまっているが、三歳の頃までは母親に連れられて八城神社に来ては、照臣に抱かれたりしていた。父親の長幸は、万一照臣以外の御子杜の人間と出くわしでもしたらと、母親ほど神社には寄りつかなかった。
そして武斗が三歳の時、母親は子宮ガンで入院した。そのときは早期の発見だったので転移はしておらず、摘出手術のあとすぐに元気になったのだが、その後何度も子宮ガンに冒され、その度に摘出手術を受け、武斗が六歳の時に母親は力尽きよるようにこの世を去っていった。
その後、長幸は照臣に色々と相談に乗ってもらおうと、武斗を連れて神社にやって来た。だが長幸は、母親を殺し父親と自分を追いやった楯村一族や、夜狩人を造りそれを容認した堂禅寺への復讐の念を少しずつ強めていくと、武斗を外で遊ばせてその思いを語るようになっていった。やがて、怨念にまみれた長幸と、復讐など考えずに武斗の幸せを考えるべきだという照臣と意見が対立するようになり、最後には喧嘩別れで終わった。
以来、長幸がここに来ることはなくなり、武斗もあまり寄りつかなくなり、武斗が十一歳の時、長幸は事故で死んだ。車の運転中に何らかの理由でハンドル操作を誤り、車は道路脇の斜面を激しく転がり落ち、そのまま車体は炎上。乗っていた長幸もそのまま焼死した。
母親に続いて父親をも失い、身寄りのない武斗を不憫に思い、照臣は神社で預かることにした。だが、武斗には屋倉や御子杜などとはまったく無関係に、ごく普通の人間として暮らして欲しいと願う照臣にとって、この神社はあまりにも危険な場所だった。御子杜の者が不意に訪れることも多々あり、この屋根の下で暮らす武斗の素性に気付かれでもしたら、照臣の願いは儚く消え、武斗にとって決して幸せでない人生を歩ませることになってしまう。
照臣は身寄りのないこの少年に何をしてやれるだろうと考え、アパートの管理人をしている古い知り合いに、そこに住まわせてくれないかと頼んだ。小学生を一人で住まわせるのは社会的に問題があるのだろうが、その知り合いは、どうせこのアパートの住人は暇人ばかりだから、子供一人の世話なんかどうってことないから問題ないさと笑いながら快諾した。
そうして武斗は朝日荘で暮らすことになり、照臣はせめてこれぐらいは力になりたいと、家賃や学費、生活費の面倒を見ていた。
その経緯を知らない武斗は、照臣は自分が邪魔になったから追い出したのだと子供心に思い、裏切られたという気持ちが照臣にずっと向けられ、ここを訪れることは滅多になかった。
そして今、ずっと昔に照臣が願った武斗の人生は壊され、もう二度とその願いを取り戻すことが出来なくなろうとしている。それはまるで、決して逃れることの出来ない呪われた運命を背負った者のように。
「あの子にそんな運命を背負わせる権利が、誰にあるというのか……」
とそのとき、玄関が勢いよく開く音がし、次いで紗夜の「叔父様! 叔父様!」という切迫した声が響き、いったい何事かと、照臣はすぐに玄関に向かった。そして紗夜の姿に、思わず「どうしたというんだね!」と声を上げた。
玄関土間で胸元を押さえながら息を切らしている紗夜は、まるで頭からバケツの水を被ったようにずぶ濡れになっており、水滴をしたたらせている。さらに、膝に擦りむいた大きな傷があり、水滴に滲んだ血がそこから流れ落ちている。
そして何より、紗夜の表情は何か切迫した様子。
照臣の質問に答えるにはもう少しだけ時間が必要かと感じ、「とにかく、バスタオルを持ってきてあげるから」とバスタオルを取りに行こうと背を向けると、紗夜が再び切迫した声で「待ってください!」と言ってきた。
「しかしそのままでは――」
「叔父様! 教えてください! 楯村くんは……! 楯村くんは……」
そこで紗夜は言葉を一度詰まらせる。紗夜が言おうとしていることに嫌な予感をしながら、照臣は「話はちゃんと聞くから。そのままだと風邪を引いてしまうよ」と言って再びバスタオルを取りに行こうとしたが、次の紗夜の言葉に足が止まってしまった。
「文江叔母様が言ってたんです! 楯村くんは!」とここで一度言葉を飲み込み、意を決するように叫ぶ。だが最後まで言うことは出来なかった。最後の言葉を、口にしたくなかったから。
「人間じゃないって! 化け物をやっつけるために造られた――!」
そのまま顔を伏せて黙ってしまった紗夜に、照臣は逃げるように視線をそらした。
「いつ、それを?」
「さっき……、偶然、喫茶店で……」
「そうか」そう呟きながら、本家の人間が来るのは連絡が入ってからだと思っていたので、文江が来ていることに驚いていた。
「直接、文江殿から聞いたのかね?」
紗夜はその問いに首を縦に小さく振ると、照臣にとって一番聞かれたくない質問を、俯いたまま霞む声でした。
「私の……、役割って、何なんですか? 私のせいで、たくさんの人に迷惑がかかってるって、どういうことですか? 私の代わりに楯村くんが――、楯村くんが、囮になって、戦って、私の役割、知ってて……。私、よく分からないんです……。だから、知りたいんです……。私……。だから――」
そこで紗夜は涙とも水滴とも分からない濡れた顔を上げ、懇願するように叫んだ。
「だから、教えて欲しいんです! お願いです! 教えてください! 私にも教えてください! 楯村くんのことや、私のことを!」
的中してしまった予感を照臣は苦々しく思いながら、目を閉じて返す言葉を探した。
「叔父様!」
「紗夜……。すまないが、今この場では話せない」
「そんな! どうしてですか!」
「私の一存では話せないのだよ。どうか、わかって欲しい」
「わかりません! どうせまた嘘をおっしゃるのでしょう! どうせまた、本当のことは教えてくださらないのでしょう! どうせ、楯村くんと口裏を合わせて、私を騙すつもりなのでしょう!」
「紗夜……」
「みんな嫌いっ! みんなで隠して! みんなで嘘ついて! みんなで私を騙して! 叔父様も文江叔母様も! お父様もお母様も、お姉様も澄華も! 楯村くんも大っ嫌い!」
そう叫ぶと、両の手のひらでびしょ濡れの顔を覆い、みんな嫌い、と小さな声で何度も何度も口にしながら、咽び泣いた。
その姿に、今掛けられる言葉が見当たらず、照臣は「バスタオルを取ってくるから、そこで待っていておくれ」と言って、紗夜を残し自分の部屋へとその場を離れた。
開けっ放しの玄関から聞こえる、地面を打ち鳴らす雨の音が、まるで紗夜の悲しみを代弁しているように感じられ、照臣の心はその打たれる地面のように叩かれていた。
「どうして、どうしてこうなるのだ……。どうしてあの子たちに、このような仕打ちをするのだ……」
照臣は思わずそう呟き、ふっ、と自嘲気味に笑った。
「私も、二人に酷いことをしてきた一人だったな……」
バスタオルを三枚取り、それらを玄関に持って行こうとすると、電話が鳴った。まさか本家から?と思いつつ電話を取ると、まったく関係のない、ただの知り合いだった。
「すまない。今ちょっと立て込んでてな。すぐに折り返し電話するから――」
「そう言わないで、ちょっとだけでいいから聞いてくださいよ」
「こっちこそそう言われても困る状況なのだよ。それではまた後でな」
「あ、ちょっと――!」
照臣は強引に電話を切ると、ふうとため息をし、玄関へと向かった。
しかし、玄関に紗夜の姿はなかった。もしかしたら、もうすでに自分の部屋に行ってしまったのかと思いながら、開けっ放しの戸を閉じようと玄関に近付いていく。しかし、もし家に上がっているのなら、あれだけずぶ濡れだったのだから床もびしょびしょに濡れているはず。しかしそのような形跡はどこにもない。その問題にすぐに気付いた照臣は、紗夜の靴がないことを確認すると、家に上がったのではなく、家の外へ行ってしまったことに気付いた。
照臣は慌てて靴を履き、傘を一本手に取り、それを握りしめたまま母屋を飛び出した。だが紗夜の姿は見当たらず、しばらく神社の周囲を探し回った。
雨は、閉じたままの傘を握りしめて走り回る照臣の全身を濡らし続けた。