招かれざる使者 前編
レジで会計を待つ間、武斗は残りの食生活をどうやって切りつめようかと頭を痛めていた。しかし紗夜たちは、最初から全額奢ってもらうつもりはなく、せめてこの分だけはと、言ったからには俺が払うと言い張る武斗を説得して自分たちで払ったのだが、その額の大きさに、いい気になって食べ過ぎたことを強く実感していた。
店を出た武斗は、このあとは女の子同士でどこか行くのだろうと思いつつ、「俺はこれから行くとこあっから。じゃな」と紗夜たちに言った。すると、紗夜も「私も今日はこれで帰ります」と言ってきた。
この言葉に、武斗は思わず「え」と小さい声で言ってしまった。
「あの、何か問題でもあるのですか?」
「いや、んなこたあねえけど……。まだ川村たちと遊んで行きゃあいいじゃねえか」
「そうしたい気持ちもあるのですけど……」
「けど?」不思議そうな顔で尋ねる武斗に、紗夜は恥ずかしそうに俯きながら答えた。
「その……、用事があるので……」
用事があるというだけでそんな態度するのかと武斗は首を捻り、ちとせたちはてっきり二人っきりになりたいから用事があると嘘をついているのだと思った。そして、武斗が冗談で笑いながら紗夜に言った。
「まさか、食い過ぎで辛いから帰る、とか言うんじゃねえだろうな」
誰もがそれをただの冗談と考えていた。だがその考えは見事にひっくり返され、紗夜は肩をぴくりと震わせ「う……」と呻いた。
どうやら図星だったらしい。これには言った武斗も心底驚き、「マ、マジか?」と声を上げ、ちとせたちもあんぐりとしていた。そんな反応を示す武斗らに、紗夜は「だって……、とっても美味しかったんだもん……」と、普段の言葉遣いとは違う、小さい女の子が拗ねた口調で言い訳をするような口ぶりで答えた。
「ガ、ガキかお前は……」
「そんな言い方……、嫌いです……」
とここで、ちとせとまさみは大爆笑し、ただ一人里子だけは、お薬買ってこようかと気を配っていた。
思う存分笑ったちとせは、みんな酷いと少し涙目になっている紗夜に、慰めているのか傷口に塩を塗り込んでいるのかよく分からないことを言っていた。
「あの程度でいっぱいになるようじゃ、御子杜さんの別腹もまだまだね。もっと鍛えなきゃ」
「鍛えさせんな。つうか……」
まだ信じられないといった眼差しを紗夜に向ける武斗に、紗夜は拗ねたように「どうせ子供です……」と頬を小さく膨らませていた。
ちとせたちは、もし一人で帰るのが辛いようだったらみんなで家まで送ってあげようかと申し出たのだが、それは大丈夫と断られ、どうせついでだから俺が送っていくと武斗が言うと、そういうことならと彼女らは素直に引き下がり、二人とそのまま別れた。
三人はその後、別の店に場所を移してお喋りしようということになった。その途中、別れ際の紗夜を思い出し、「それにしても御子杜さん、可愛いよねえ〜」と里子が呟くと、それが呼び水となり、まさみは「いやあ〜、あれは反則でしょ〜」と言って笑い、ちとせも「あれが演技だったら、相当の小悪魔になれるよね」と好き勝手言っていた。
そして一通り紗夜へのコメントを言うと、彼女への印象が転校初日よりもずっと良いものになっていることを再認識していた。
「ところでさ、楯村くんはどうだった?」
紗夜の話題が一段落すると、ちとせは二人に武斗に対するコメントを求めた。これが二人に声をかけた目的なのだから、聞かずにいられるわけがない。すると、ちとせにとってはしてやったりというコメントが聞けた。
「今日の楯村くん、随分と雰囲気違ってたね。びっくりするぐらい穏やかでさ。あんな楯村くんもあるのかあ、って、ちょっと衝撃だった」とは里子。
「うんうん。ほんと別人みたいだったね。ぶっちゃけ、怖くて近寄りがたくて、いつもぴりぴりしてるって印象が強かったけど、そんなの全然なかったし」これはまさみの感想。
「そうだね。全然怖くなかったね」
「楯村と冗談言ったりもしたし。普通に話せば、他の男子と同じ普通の男の子なんだね」
「私は、他の男子に比べたら大人って感じがしたかな」
などという感想が二人から出ていた。
そんな会話が三人でなされているとは思ってもいない武斗と紗夜は、何度か休みを入れながら八城神社へとやって来た。
神社の鳥居の前まで来ると、紗夜は「送ってくれて、ありがとうございます」と礼を言った。だが、武斗はどういたしまして、と答えるのではなく、少々バツが悪そうに「いや、俺の行くところって、実はここなんだ」と答えた。
「え? でも……」
「あいつらの前で言うと、いらんこと言われそうだったからな」武斗のこの意見に、紗夜は「そ、そうですね……」と同意していた。
「で、腹の具合はどうだ?」
「お陰様で、だいぶ楽になりました。といっても、まだちょっとだけ苦しいですけど……」
「ま、あんだけ食えばそうなるわな。つうか……」
とそこで武斗が言葉を切ると、また意地悪を言おうとしているのかと思った紗夜は「どうせ私は」と言った。しかし武斗が言おうとしていたことはそういうことではない。
少し意地悪が過ぎたかなと反省しつつ「もうそれは言わねえよ」と言うと、「そうじゃなくて……。俺の知らないお前が、まだまだあるんだなって思ってな」と続けた。
それは馬鹿にした物言いではなく、自分の知らない紗夜の素顔をまた一つ知った喜びをしみじみと口にするような言い方で、紗夜は猛烈に恥ずかしくなってしまった。
「ほんと、面白いっつうか、飽きないっつうか……、楽しいっつうか……」
「……わ、私、つまらない女の子ですよ?」
「んなことねえって。十分楽しいぞ?」
「そんなこと、ないです……!」
顔を真っ赤にしてしどろもどろに反論する紗夜に、武斗は心の中で苦笑しつつ、おどけるように「そんなことあんだよ。特に、お前の猫っかぶり具合がな」と紗夜の頭に手を置いた。
「猫かぶりだなんて……、私、そんなことしてません!」
「俺と喋るときだけ、全っ然違うじゃねえか」
「そ、それだったら……、楯村くんだって、同じようなものじゃないですか」
紗夜の必死の反論に、武斗はついに笑いをこらえきれなくなり「俺の場合は、猫かぶりじゃなくて、ひねくれてるっていうんだ」と笑った。紗夜も「そうでしたね」と返すと、その笑い声にほだされてくすりと笑った。それを見て、武斗は「だから言ったろ? 楽しいって」と笑顔を見せた。
これですっかり紗夜の機嫌が上々になり、二人は鳥居をくぐり母屋へとやって来た。紗夜はカラカラと静かに戸を開け、「ただいま帰りました」と、いつもの部屋にいるであろう照臣に言って靴を脱ぐ。その際、照臣の履き物の他に、見知らぬ革靴が一足あることに気づき、来客中であることを知ると、「お客様がいらっしゃっているみたいです」と武斗に伝えた。照臣に用があってここに来たことは、鳥居から玄関までの間に聞いている。
「客か……。出直した方がいいか……」
「このあと、他に用事があるのですか?」
「いや。これと言ってねえけど」
「でしたら、私の部屋で待ちましょう」
この提案に武斗は考えた。ここで待つか、他で時間潰してまた来るか。そして諸々の事情から前者を選ぶことにした。武斗は「邪魔するぞ」と一言言ってから靴を脱ぎ、玄関に上がった。
その僅か数分前、照臣は居間で客の男と話をしていた。ただしその雰囲気は、とても険悪なものだった。といっても、怒りで激昂し顔を真っ赤にしているのは客の方で、照臣は対照的に冷静な表情をしている。その胸の内は穏やかではなかったが。
そしてこの険悪なやり取りは、長めの冷却時間を何度も置きながら、かれこれ三時間ほど続いていた。そしてその三時間、背広姿のその客は怒鳴り散らし、照臣は表面上冷静にして、ずっと平行線を辿っている。
「貴様は本当に分かっているのか! 自分がしていることを!」
「あなた方こそ、ご自分たちがしていることを、本当に分かっていらっしゃるのか?」
「分家の分際で偉そうなことぬかすな!」
「分家だからこそ、私は言っているのです」
「貴様あ……、俺が使いの者だと思って……」
「そうは言ってないと、何度も言っているでしょう。誰が来ても、私の答えは同じです」
「貴様はそれを、俊源殿にも言えるとでも言うのか!」
「誰が来ても同じと、今言ったばかりだが?」
「ぐ……ぬうっ……!」
客は怒り心頭といった表情で照臣を睨み付けながら、わなわなと握り拳を震わせた。
この男の使命は、本家の意向を照臣に伝え、それを実行させること。しかし三時間の平行線の末、照臣は絶対に折れないだろうということは嫌でも分かっていた。しかし、だからと言ってはいそうですかと帰るわけにはいかない。
そんな苛立ちが、男から言葉を奪い、怒りをぐつぐつと煮えたぎらせ続けた。
とそこで、玄関がゆっくりと開けられる音がして、紗夜の声が聞こえた。紗夜の帰宅に、照臣は客に向かって「ここまでですな」と静かに言って、この話し合いを終わらせようとした。男としては、自分の役目を考えればこのまま終わりにするわけにはいかなかった。だが、紗夜が帰ってきてしまった以上、この場所で続けるわけにはいかない。
やむなく、「これで終わりだと思うなよ」と吐き捨てると、紗夜を出迎えるように部屋を出る照臣の後を追うようにして席を立った。
照臣は居間を出て、玄関へと顔を出すと、ちょうど靴を脱ぎ玄関に上がったばかりの武斗の顔を見て、少しだけ表情を変えていた。
「お帰り、紗夜」
「あ、ただいま帰りました。叔父様」紗夜はもう一度言うと、照臣と一緒にやってきた客に「こんにちは」と挨拶をした。その挨拶に、客の男は不機嫌に鼻を鳴らすだけで返事はしなかった。それが武斗には気に入らず、一睨みしていた。不幸中の幸いというか、それに気付いたのは照臣だけで、客も紗夜も気付いていなかった。
客の反応に、紗夜は自分が何か気に障ることでもしてしまったのかしらと顔を曇らせると、照臣はすかさず「あとで何か持って行ってあげるから、彼を部屋に連れていってあげなさい。こんなところに立たせては、悪いだろう?」と優しく言い、この場から去るように促す。武斗も、どうせ紗夜のことだから気に病んでいるだろうと察し、「おう。行くぞ」と歩き出す。
二人のその助け船に心苦しく思いながら、紗夜は武斗の後を追うように自分の部屋へと歩き出した。
「楯村くん、待って」と言いながら。
「楯村?」
そう反応したのは客の男だった。そして、忌々しげに口にするようなその声のトーンに武斗は足を止めた。
「失礼だが、君のお父さんの名前を教えてもらえないか?」
「……あんたには関係ねえだろ」そう答える、振り返った武斗の目は睨み付けている。
「いや、もし私の知っている人だったら、是非ともお会いしたいと思ってね」
楯村と聞いて男が驚いた顔で照臣を見た時点で、武斗は気付いた。だからこそ、父の名前を口にした。
「……長幸。楯村、長幸だ」
「長幸……」男は感慨深げにそう呟くと、驚きと怒りの顔に豹変させて、もの凄い勢いでその顔を照臣に向ける。対して照臣は「人違いでしょう。同姓同名の人間はいるものですから」と、にこやかに答えた。
その答えに、男はじっと照臣を睨みつけると「調べれば分かることだ」と吐き捨てるように言い、再び武斗への質問をする。
「君の父上は、今どうしているのかね?」
「それも、調べれば分かんだろ?」武斗はその質問に、鼻で笑うように答えた。
「……そうだね。それでは最後に一つ。君の名前を教えてくれないか?」と尋ねた。
「楯村武斗だ」
その名前を頭に刻み込むように、挑戦的な目を向ける武斗をじっと見つめ、最後に「このことは上に報告する」と、武斗がよく知る、憎悪に染めた目で照臣に告げた。
このやり取りを紗夜は黙って見届けることしかできなく、その間、この緊張感にはらはらとしていた。そして男が玄関を閉めるけたたましい音を残して帰っていくと、説明を求めるような目で照臣を見た。
「ああ、悪かったね。彼は人を探していてね。たまたま武斗くんのお父さんと同じ名前だったから、あのような態度をとってしまったようだ。なに、そんな心配することはない。どうせ人違いなのだから」
照臣はそう説明をしていたが、武斗には分かっていた。今の男が武斗の父親に関わりのある人物であり、それはつまり、屋倉と関わりのある人物だということを。