満ちる月
目を覚まして最初に思ったことは、武斗は今日、学校に来るだろうか、ということだった。そしてその思いは、本人が気付かないうちに何度もため息となって出ており、朝食を食べているときもついついため息を落としていた。
その様子に、照臣は何食わぬ顔で「どうかしたのかね? ため息などついて」と紗夜に尋ねた。言われて自分が今ため息をしたことに気付いた紗夜は、「すみません、朝から……」と謝った。
「それはいいから、どうしたんだね?」
「それは……。昨日、楯村くん学校休んだんです。それで楯村くんに電話したら、ダルいから休んだんだって……」
「ほう。まあ、彼らしいといえば彼らしいのかもしれないな」
「やっぱり、本当にそれだけなのかな……」どうにも信用しきれない様子の紗夜に、照臣は「嘘を付いていると、思っているのかね?」と聞いてみた。紗夜はそれに対し「それは……」と言い淀んでしまった。
武斗が休んだ理由を知っている身としては、あまりこの話を続けようとは思わない。ということで照臣は、笑顔を見せながら話題を少しずらした。
「心配するなとは言わんが、ほどほとにしといた方がいいぞ? しかし、最近の紗夜は、武斗くんのことばかり考えているようだね」
この作戦は見事成功し、紗夜は「え……!?」と顔を少し赤らめながら驚いていた。
「まあ、そういう年頃なのだから当然か」
「……」
「ずいぶんと心配の絶えない相手を選んでしまったものだね」
「お、叔父様……」
「心配するのもほどほどにな」照臣はそう言って笑うと、珍しく朝から一つ大きな欠伸をしていた。
学校へと登校した紗夜は、教室に入ると方々からおはようという声をかけられ、紗夜もおはようございますと答えていた。
武斗との仲に疑問を持つ者は依然としているが、先週の紗夜をかばう武斗の姿に、二人の仲を認めて紗夜を応援する者も少しずつ増えてきている。その結果、武斗がヤナガと戦ったあと二人が涙を流しながら抱き合ったときから、興味本位の視線を向けていた多くのクラスメートたちも、紗夜を女性週刊誌の記事のような興味の対象としてではなく、良きクラスメートとして再び接するようになっていた。
紗夜が席に着くと、ちとせが「今日は来るかな」と言って、紗夜の前の、まだ主が来ていない席に腰を下ろした。
「来なくては駄目です」そう答える紗夜の表情は少し怒り、そして少し心配そうだった。
「もし来なかったら、どうする?」
「来なかったら、楯村くんのお家に行って、いっぱい怒ります」
紗夜のこの発言を耳にしたクラスメートらは、それは是非とも見てみたいという思いに駆られた。無論、ちとせも例外ではなかった。
こうなると、武斗が学校に来るのか来ないのか気になってしまうのが人間の心理。そして、武斗があらわれないまま一時間目の始まりを告げるチャイムが鳴った。多くの生徒が、これはひょっとしてと期待を膨らませていたが、教師がやって来て、出席を取り始めたときに武斗が教室へと入ってきた。ちなみに慎二の姿はない。彼は今なお、自宅で夢の中にいる。
武斗の登場にほとんどのクラスメートは心の中で落胆していたが、紗夜だけは違っていた。約束どおり武斗が来たことにはほっとしていたが、武斗の表情が少し気になっている。不機嫌そうな顔は今さら珍しいものではない。どこか疲れ切った様子も、ただ眠いだけだろうと考えれば、誰にでもあることだ。顔色が少し良くないようだが、それも寝不足で片付けることが出来る程度。それでも、何かあったのだろうかと少し心配になっていた。
そして武斗は、そんな紗夜の心配に気付くことなく、席に着くや否や机に突っ伏し、授業そっちのけでそのまま寝入ってしまった。しかもそのまま一時間目を過ごし、休み時間になっても起きる気配はなかった。
これにはちとせも、休み時間になると「これで学校に来たって言えるのかね」と言って苦笑していた。だが、紗夜は素直に笑える気になれない。
「どうしたの? ひょっとして今、楯村くんに怒ってる?」
「え? い、いえ、そうではないです。なんだか、あまり体の具合が良くなさそうだったので……」
「そう?」ちとせは首を傾げ、近くにいた数人にそう思うかと聞いてみた。返ってきた答えはすべて、いつもと同じでしょ、というもの。そしてちとせは、「恋人を心配する気持ちは分かるけど、ほどほどにしておいた方がいいと思うよ? 相手が楯村くんなんだからなおさら、ね」とくすりと笑った。
照臣と同じようなことを言われていた紗夜は、「叔父様にも、言われました」と少し照れくさそうに答えていた。
結局武斗は、誰にも邪魔されずに二時間目の終わりまで眠っていた。しかし、三時間目もこのまま寝かし続けるというのは、他の生徒たちにとって都合が悪かった。というのも、三時間目は体育で、一組の教室が女子の更衣室代わりになるため、男子は隣の二組に移動しなければならないからで、当然、武斗も移動しなければならない。
ということで、本来であれば慎二がその任に就くのだが、生憎と今は自室でまったりと過ごしている為、頭の悪い友人が武斗を起こすこととなった。友人らは、恐る恐る武斗に声をかける。
「楯村、起きろ。次は体育だぞ」
しかし武斗の反応はない。完全に熟睡しているようだ。これに周囲は残念がっていたが、友人らは内心ほっとしていた。拳が飛んでこなくて良かったと。
次に、友人らは武斗の体を揺り動かして起こそうと試みる。
「楯村、楯村。起きろって」
この方法は効果があったようで、武斗の目が細く開いた。このまま目を覚ますものだとみな思ったのだが、それは甘かった。武斗の裏拳が、起こしたその友人を吹っ飛ばし瞬殺すると、すぐにまた寝てしまった。しかもこれを見た他の頭の悪い友人らは、やっぱり内原じゃなきゃ無理だと言ってその任を放棄してしまった。今の光景を見れば、彼らに無理強いするのはあまりにも残酷というものだろう。
すると、紗夜が立ち上がった。
「私が、起こしてみます」
この勇気は賞賛に値するが、あまりにも無謀で明らかに自殺行為だと皆が身を挺して「今の見たでしょ? 確実に殺されるわよ?」「命を粗末にしちゃだめだ!」などと反対した。また、最初の犠牲者はいったい何だったんだと言いたくなるような「着替える教室を取り替えれば済むんだから!」という代案も出された。
それでは武斗が体育の授業もサボることになってしまうと紗夜は主張したが、男子と女子で教室を取り替えるというその代案が採用され、紗夜は隣の教室へと強制排除されていった。そして武斗は、このような大騒ぎに動じることなく、三時間目も眠り続け、紗夜は終始不満顔だった。
なお、一度目を覚まして友人を吹っ飛ばした記憶は、その場できれいに消去されていた。
小さな赤い光点が無数に散らばる白い世界の中、静かに波打つ水面に体を横たえ、武斗はゆらゆらと揺られながら、楕円形の月を眺めていた。
ここは、整合性などまったく持たない夢の中の世界。武斗の実体は今、二年一組の教室にある。
月はゆっくりとその身を細くしたり、太くしたりと絶えず変わり続けている。だが、丸になることはない。常に楕円形を維持していた。それがとても面白く、とても退屈に感じていた。
不意に、水面が大きく揺れた。揺りかごのような心地良さが一転し、嵐の海に翻弄される小舟のような気分の悪さばかりになった。
誰がこんなに揺らしているのだと、その犯人を探しに水中に潜った。
海の中は真っ暗だったが、構わず潜り続ける。やがて、一隻の宇宙船が見えてきた。その宇宙船を武斗は遠い昔に見たことがあるような気がして、どこか懐かしい気持ちになっていると、いつの間にか武斗の隣で、怪獣が武斗を追い抜こうと走っていた。
武斗は追い抜かれまいとするが、思うように早く潜れない。しかも怪獣は少しずつ武斗より前にでていく。そこで、追い抜くのではなく払い落とそうと腕を大きく振り、裏拳で怪獣をはたき落とした。
これでゆっくりできると一安心し、宇宙船を通り過ぎ、やがて真っ暗だった海の中を突き抜け、再び真っ白い空と無数の赤い光点と楕円形の月を映し出す水面に出た。水面は穏やかに揺れており、心地良い揺らめきが武斗の体を落ち着かせていく。
先ほどと同じように体を水面に横たえると、月を見る。やはり細くなったり太くなったりしている。しばらくただ眺めるだけだった武斗だが、不意に、月に触れてみたいと思うようになった。月までの距離は分からない。すぐ目の前にあるようで、ずっと遠くにあるようでもある。
どうしようかと悩んでいると、とにかく両腕を伸ばしてみることにした。腕はとても重く、なかなか上がらなかったが、どうにか真っ直ぐに伸ばした。だが月には届かない。
ならばと、腕をさらに伸ばしていく。だがそれでも届かない。
他に方法はないかと考え、周りの水を使うことにした。すると、水が次々と腕を這い上がり始めた。這い上がった水は手首から先で氷り、その上でまた氷り、氷の腕が伸びていく。
だが、伸びた長さに比例するように、その重さに体が世界の底へと沈んでいくような感覚に襲われた。そこで、沈む感覚よりも早く水面を押し上げることにした。沈む感覚を消すことは出来なかったが、水位は上昇を始め、赤い光点は次々と沈み、真っ白い空が少しずつ小さくなっていった。
それはまるで、寝ている部屋の天井がじりじりと低くなっていくようで、その圧迫感に息が詰まりそうになった。そこで武斗は、指先で障子に穴を開けていくように、指先を一本、水面に突き刺していった。開けられた穴から見えるのは、紗夜の顔だった。
笑っている顔、泣いている顔、眠っている顔、怒っている顔、すましている顔など。
いくつか穴を開け終えると、武斗は再び月へと目を向ける。手の長さはずっと伸び、もう少しで月に届きそう。白い空もすっかり小さくなり、月の周りを丸く残すだけとなっている。
そして、クリスタルで造られたような長い自分の腕を広げ、水面と月が触れ合ったとき、落ちてきたボールを広げた両手で挟み取るように、月を捕まえた。
それまで楕円形だった月が、その瞬間まん丸くなった。
やっと手にすることが出来た月を、武斗は水面からではなく泥の海から立ち上がり、泥だらけの体でじっくりと見つめる。
月はいつの間にか、水晶で造ったかのように透明なものになっている。そしてその中に、様々な映像が映し出された。それらは、武斗の過去の記憶とはまったく関係のないデタラメなもの。ときおり知った顔が出てくるが、武斗はそれらを、ただぼんやりと眺めていた。
やがて、拳ほどの大きさの泥の雨が降り始めた。雨はぼたぼたと泥だらけの武斗の体に当たり、月にも落ちてくる。それでも武斗はぼんやりと眺めていたのだが、そこに紗夜が映し出されたとき、はじめて、月に落ちた泥を邪魔に感じた。
手で拭い取ろうにも自分の手が泥人形のそれのようになっているので、息で吹き飛ばそうとした。だが吹き出す息がない。どうにかしたいと強く思い、試しに念を飛ばしてみた。すると、見事に泥はきれいに吹き飛ばされ、ぴかぴかの月に戻った。
これで安心すると、雨の降っていない場所に移動しようと考えた。そして足を動かそうとすると、両足が泥に埋まってしまっていることに気付く。
それでも無理に動かそうともがき続けるが、いくらやっても石膏で固められてしまったようにピクリとも動かない。焦りと苛立ちが募っていく。
やがて、冷たく異様に重い泥の雨が、ぼたりと武斗の左腕の前腕に落ちた。見ると、それまでの土色の泥ではなく、ヘドロのようにべっとりとした真っ黒い泥。
その黒い泥の雨は、突然降り出したゲリラ豪雨のように、瞬く間に一面を真っ黒く塗り潰していく。空も、地面も、武斗の体も。唯一、月だけが奇跡的に難を逃れ続けた。そうして月を除く全てが真っ黒になると、分厚い黒い泥に覆われた武斗の体は、支えきれないほどの重さとなっていた。
もう駄目だ。
そう呟く武斗の心は折れかかっていた。そしてその心を完全にへし折ろうとするかのように、それまで難を逃れていた月に、黒い泥の雨がぼとりと落ちた。
泥はそのまま糸を引くように月を覆い、
やめろ――!
月の中の紗夜を血の色に染めていく。
やめてくれえっ――!
そして黒い泥が月の半分を隠し、紗夜の全身が真っ赤に染まる寸前、
やめろっつってんだろ――!
全てが止まり、
いい加減にしろっつってんだろうが――!
月についていた黒い泥が吹き飛び、紗夜の体を覆っていた赤色が吹き飛び、
いつまでも好き勝手してんじゃねえぞクソヤローがっ――!
月を中心にして、黒い泥が全て吹き飛ばされ、世界が真っ白になり、
「あ……れ?」
武斗は目を覚ました。
「ここ……。あ、そうか……。俺寝てたのか……。てことは、夢……か。ずいぶんと疲れる夢だったな……」激しい動悸と全身の汗に、武斗はふうと一息つく。偏頭痛は相変わらずだが、今朝に比べればだいぶ楽になっていた。
「にしても……、なんで誰もいねえんだ?」
「外にいるからだ」
「なるほど。んじゃあ今は体育ってわけ……、っておい!」
武斗のすぐ隣でどっしりと構えているヤナガに、武斗は思わず突っ込みを入れてしまった。
「なんでてめえがここにいんだ!」
「貴様が力に飲み込まれかけていたからな。場合によっては破綻したお前を処分してやろうとしていただけだ」
「飲み込まれかけていた? 俺が?」
「正直、駄目だと思ったが……。すんでのところで己の力を抑えつけ、打ち消したのだ」
「って言われても、ただ夢を見てただけだぞ?」
「力に飲み込まれかけながら夢を見ていたということだな。そして夢の中で己の力に勝ったと。まったく、貴様は本当に面白い人間だ」
「うるせえ」
武斗はそう言うと、ヤナガの言った言葉を頭の中でもう一度再生し、今し方見た夢を出来る限り思い出そうとした。幸いにして頭痛はその妨げにならず、夢の内容も大方覚えていた。そしてその夢が、力を引き出し制御する大きなヒントで溢れかえっていることに武斗はすぐに気が付き、頭痛が酷くなる前にと、このヒントを踏まえて色々と試してみた。
その結果に驚いたのは武斗本人だけでなく、ヤナガも同じだったようで、その驚き具合は、極めて珍しいことに、ヤナガが「まさかこの短期間でそこまでになろうとは、さすがに我も予想していなかったぞ?」と武斗を褒めるような発言を心底楽しそうにするほどだった。