夜狩人
タクシーが八城神社の前で止まると、後部座席から紗夜に引っ張り出されるようにして武斗が降り、タクシー代を払ったちとせも続いて助手席から降りた。ちとせの両手には自分の鞄と買い物袋、それと武斗の鞄と紗夜の鞄がある。これでは二人の荷物を持つ為に一緒に来たようなものだが、二人のことが心配ということで、これはちとせが買って出たこと。
なお、まさみと里子は、タクシーに乗りきれないということもあり、タクシーを見送ると自宅へと帰っている。
母屋の玄関を開けた紗夜は「ただいま帰りました」と、中にいる照臣に声をかけながら、武斗を玄関に一度座らせた。紗夜に手を引かれ、言われるままに動く武斗は、主人の命令に従う無感情な人形のようだった。
ちとせも「今晩は」と言って続いて入ると、一気に荷物を降ろした。
二人の声に、照臣は出迎えようと居間を出て玄関へと向かった。そして、玄関で力なく腰を下ろしている武斗の背中を見た瞬間、照臣の顔は出迎えのものではなく、痛々しい武斗の姿にもの悲しそうなものとなった。だがその表情を見せたのは一瞬。二人がそれに気付くことはなかった。
「どうしたんだね?」と、照臣は少し驚いたような顔を見せて尋ねた。その声に、武斗がぴくりと反応する。
「楯村くんが怪我をして、ここで、手当をしてあげようと思って……」
「なら、空いている奥の客間に連れて行ってあげなさい。救急箱はすぐに持って行ってあげるから」照臣はそう言うと、救急箱を取りにその場を去ろうとした。その時、それまでまともに口のきけなかった武斗が、独り言のように「待て……」と呟いた。
紗夜は「楯村くん……?」と、武斗の表情をうかがう。相変わらず精気を感じないものだったが、先ほどより幾分か良くなっているような気がした。
「まだ……、聞いてねえことが、あんだよ……」
「話はあとだ。まずは手当を受けなさい。それとも、また紗夜を困らせたいのか?」
紗夜と聞いて、すぐそばで心配そうに見つめている紗夜にぼんやりと気付くと、諦めたように「そう……だな」と同意した。
「分かったなら、早く奥の客間に行きなさい」照臣はそう言うと、今度こそ救急箱を取りに立ち去った。
「楯村くん、行こう?」
「ああ……」
武斗は紗夜に促され、紗夜に支えられながらふらふらと立ち上がると、紗夜と客間へ移動し、ちとせは荷物を一度紗夜の部屋に運んでから、隣の部屋に行った。
怪我といっても、武斗からしたら驚くような怪我はないのだが、紗夜たちからしたら大怪我。特に髪の毛もろとも真っ赤に固まった頭部の傷口は、おっかなびっくりの作業だった。まず濡らしたタオルで血を拭き取り、消毒液で殺菌し、薬をつけたガーゼを当て、包帯でぐるぐる巻にした。その作業が終える頃、二人はどっと疲れていた。
その後、依然として心がどこか行ってしまっているような武斗の顔の傷を手当をし、他に怪我はないかと上着を脱がせた。だが、どれが新たに加わった打撲かわからない。そこで紗夜は、堅い武斗の体に触れながら、ここは痛くないですか?と慎重に触診しながら確認し、特に大きな傷はないことを知ると、ようやく紗夜は気を休めることが出来た。
紗夜は武斗の手当が終わったことと、怪我の内容を照臣に報告しに行くと、疲れたろう、とりあえずご飯にしなさい、と遅まきながらの晩ご飯を勧められた。
「でしたら、楯村くんも一緒に」
「いや。とりあえず横にさせた方がよいだろう。かなり疲れているようだからね。それと、晩ご飯を食べたら、私が川村さんを家まで送っていこう。その間、彼を頼むよ?」
そして紗夜は武斗のために布団を敷き、ちとせと遅まきながらの晩ご飯を食べ終えると、ちとせが帰る時間となった。
ちとせを見送るため、紗夜も一緒に駐車場まで来ると「色々と、ありがとうございました」とちとせに礼を言った。
「ううん。そんなこと。それじゃ、また明日ね」
「はい、また明日」
そしてちとせは、照臣の運転する車で自宅へと帰っていった。
何もない、真っ暗な部屋の中、武斗はぼんやりと天井を眺めながら意識を漂わせていた。頭の中では、たったの一言がずっとぐるぐると回っている。それは呪いの言葉に近く、武斗を解放しようとはしなかった。だが、すっかり耳に付いた声が聞こえてきたことによって、意識はそのループから抜けだし、意識ははっきりとしたものとなった。
「無様なものだな」
その声は、明らかに武斗を嘲笑したもの。武斗は憎しみと苛立ちでみるみる顔を歪ませると「……ヤナガ」と、誰もいない中空に向けて言う。
「しかし、本当に人間という生き物は理解に苦しむな。なぜそうも悩む」
「うるせえ……」
「自分が作り替えられた存在であることが、それほど不満か?」
「うるせえっ!」武斗はそう吠えると、勢いよく立ち上がり、天井を睨み付ける。
「ククッ。素直に喜べ。復讐の為の力が、貴様に備わっていることにな」
「うるせえって言ってんだろ! てめえに何が分かる! てめえに俺の気持ちが、分かるかよ! 化け物のてめえに、分かるかよ!」
するとヤナガは、化け物という言葉を気にすることなく、むしろ小馬鹿にするように言った。
「貴様とて、周囲の人間から見れば、十分化け物であろう?」
「俺は……、俺は……てめえらとは違う! 俺は……!」
「人間、とでも言いたいのか?」
「っ……!?」
「そんな言葉にすがって何になる? 己を人間だと言い続けて、それで事実を変えられるとでも思っているのか?」
事実が変わらないことは、武斗だって理解している。どんなに自分は人間だと叫ぼうと、自分の血を変えることは出来ない。人を喰らう闇の者を殺す為に、人の手によって作り出された存在の末裔という事実は、変えられない。
「一つ忠告しておいてやろう。もし貴様が、何の役にも立たないと我が判断したとき、貴様は我に殺されることになる。まあ、今のままではそうなるであろうな。そして貴様は、仇を討つことなく死ぬわけだ。そうなれば、貴様の死は、ただの犬死にだ」
そう言い終えると、微かに感じられていたヤナガの存在が、この部屋の中からぷつりと消え、部屋は再び沈黙に包まれた。
ヤナガの言いたいことは、武斗とて分からないわけではない。自分は人間だと言い聞かせようとすればするほど、己の力を否定し、満足に戦えずに殺されて終わってしまうだろう。例えヤナガに殺されなかったとしてもだ。
それでも、自分は人間という存在でありたい。その感情は、本当に間違いなのか? 俺は、人間であるという意識を捨てなければいけないのか?
――そんな言葉にすがって、何になる?
ヤナガの言葉が頭の中で笑う。
思わず、武斗は「黙れ!」と叫んだ。その怒声に、ちとせの見送りを終え、武斗の様子を見にやってきたところだった紗夜が「楯村くん……」と、驚いた表情で声を漏らした。
「御子杜……!」
「あの……」紗夜は心配そうにそう言いかけたところで、言葉を無理矢理飲み込み、「安静にしていなければ、だめですよ」と笑顔を作った。その作り笑いに、武斗は「悪い」とだけ答え、部屋を出ようと入り口に立つ紗夜へと歩く。
「どこに、行くのですか?」
「便所だ。逃げやしねえよ。だからそこ、どいてくれ」
「あ、ごめんなさい……」紗夜はそう言って、一度廊下に出て道を空けると、「おトイレは、そこを左に――」と説明をしようとした。その説明を、武斗は「知ってる」と遮り、そのまま歩いていってしまった。誰もいなくなった廊下で、紗夜はぽつりと呟いていた。
「そう、ですよね……。ご存じでしたものね……。この家を……」
そして武斗は、逃げやしない、と言った自分を内心あざ笑っていた。本当のところ、武斗は紗夜から逃げたのだ。今の自分を見られたくなくて。今の自分では、紗夜を正面から見ることができなくて。
「だっせえ……」
情けない自分に、武斗はそう吐き捨てていた。
照臣が帰って来たのは、家を出て一時間を過ぎた頃だった。照臣は、車の音で帰宅を知った紗夜に玄関で迎えられ、お茶を一つ用意しておいてくれないかと紗夜に頼み、自分は武斗の部屋に向かった。
部屋に入る際、「入るぞ」と声をかけると、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。その口調に照臣はほっとしつつ中に入り、用件を伝え終えると早々に部屋を出た。
その後、武斗は照臣が用意した軽い夜食を食べ、客間で一人、約束の時間を待った。
照臣の用件とは、夜中になったら話を聞いてやると伝えること。
そうして夜中の一時を回った頃、武斗は照臣に言われたとおり、紗夜に気付かれないように忍び足で照臣の部屋に行き、起きて待っていた照臣と二人で本殿に行った。その頃には、武斗もだいぶ気持ちを立て直していた。
「それで、お前の聞きたいこととは?」
「一ノ関はよ……、迫害された後、どうなったんだ? それと、お袋は一族と関係ねえって言ってたけど……」
「ふむ。そのことについては、お前に話す必要があると思っていたところだ。今から話すことには、お前の聞きたいことのほとんどが含まれていると思うから、とにかく聞け。いいな?」
「ああ」
「そうだな……。やはり順を追って話した方がよいだろう。一ノ関がその後どうなったかをな。
堂禅寺派を迫害された一ノ関一族は、遠く離れた山里に身を潜めることにした。闇の世界の住人と戦うことを放棄して。まあ、それはそうだろう。だが、彼らはそのまま静かに暮らすことは出来なかった。この一件を耳にした御子杜本家が目を付けたのだ」
「御子杜……が?」
「前に話したとおり、御子杜派は道を狭くすることに全力を挙げていた。その分、相手に攻め入られると、身を守ることが出来ない。実際に何度か闇のモノに襲われ、命を失った者もいた。といっても、大きな数ではなかったがな。
しかし堂禅寺派の弱体化によって、いよいよ無視できなくなってしまった。それまで退治していた者たちが減り、危険が御子杜派に及ぶ可能性が高くなったのだからな。そこで、御子杜の本家は考えたのだ。一ノ関一族を迎え入れ、呪術で彼らの破綻をどうにか抑え、その代わりに自分たちを守らせようと。
御子杜にとっては、結果はまずまずだった。彼らは幾度も戦い、我々を救ってくれた。
だが彼らの破綻を抑えるための我々の呪術の効果は、ほとんどなかったと言ってよいだろう。破綻を数年引き延ばしたり、痛みなく最後を迎えられるようにしたり。死産を防ぐこともあったが、その命は長くは保たなかった。焼け石に水のようなものばかりだったのだ。
しかしそれでも、彼らは喜んだ。なにより、安らかな気持ちで最後を迎えられることにな。だからこそ彼らは、御子杜に忠義を立てて必死に戦った。力ある者も、ない者も。その猛々しさは、相当のものだったらしい。
そうして、彼らの破綻は着実に進み、この頃から夜狩人と呼ばれるようになった造られし者たちは数を減らし、やがて、その血を継ぐ者は僅か数人となった。こればかりは、屋倉にまつわる一族として避けられない運命なのだろう」
照臣はそこで一息入れ、じっと先を待つ武斗を見て、再び語り始める。
「そんなときだった。お前の祖母である一ノ関さかえは、御子杜派の一族である楯村の男と密かに愛し合い、子を宿し、無事に産んだ。ほとんどの者は、造られし者の血を継ぐ者は一人でも多い方がよいと歓迎した。
だが、彼女の相手が分かると、その相手が一ノ関の男だと思っていた楯村の者たちは、揃ってその子を殺せと言い出した。忌まわしき者を同族に加えたくないと言ってな。しかもそれに同調する者も次々とあらわれた。幸いに御子杜だけはそれに異議を唱え、そのときは、赤子は殺されずに済んだのだが……」
「結局、殺されたのか……?」
「いや、そのとき殺されていれば、今お前はここにいない」
「じゃあそれが、親父ってことか……」
照臣は頷き、先を続ける。
「二人への周囲の目はとても厳しいものだった。それでも二人は結婚し、一人息子を育てながら静かに暮らした。
だが……、その息子が六歳になった頃、あってはならないことが起きた。さかえ殿が、楯村の者ら数人に惨殺されたのだ」
「な……!?」
「もともと彼らは、母子とも殺すつもりだったらしい。だが、危険を察知したさかえ殿は息子を隠し、それによって難を逃れたそうだ。その子は、母親が殺されるところを目の当たりにしながら、息を潜めてな……。
何も知らない父親は、変わり果てたさかえ殿の姿を見ると、必死に息子を捜し出し、御子杜に庇護を求め、走った。しかし、全てを統べる御子杜本家をもってしても、この親子に対する弾劾を抑えることは出来なかった。
彼らは、どうにかして救えないかと考え、一計を案じた。二人を死んだことにし、遠き地へ逃がすということだった。そしてそれは実行に移され、親子は遠き地へとその姿を消した。
それからどこをどう巡り歩いたかは、私も知らない。どんな生活をしていたかも。私が知っているのは、お前の父親とこの町で再会してからのことだけだ」
「再会?」
「お前の父親がまだ子供の頃、私は何度も遊んだことがあったからな。成人した彼と偶然出会ったとき、すぐに分かった。そのときには、お前は母親の腹の中にいたな」
「そうか……、親父とは、そんな昔からの知り合いだったのか……。それで、他のやつらはどうなったんだ? 他の、俺みたいなやつは」
「造られし者の血を継ぐ者は……、お前が最後の一人だ」