惨劇のあと
無意識に等しい意識の中、自分がヤナガの脳天と思われる場所へダガーナイフを振り下ろすところを視覚で捉えていた武斗は、これで勝ったと思った。だが次の瞬間、自分の中の全てが止まり、意識は完全に閉じると、武斗の体はずるり地面に倒れた。
勝負は完全に決した。
ぴくりとも動かない武斗に致命傷となる最後の一撃を加えるのは、赤子の手を捻るよりも造作のないこと。ヤナガでなくとも、たやすく武斗の命を奪うことができる。しかしヤナガは、トドメを刺すのではなく「ふむ。悪くないな」と最後に呟くと、闇の中へ消えていった。
屋上には、仰向けに倒れた傷まみれの武斗だけとなった。
一夜明け、登校時間を迎えた学校には、ぺちゃくちゃと呑気にお喋りをする生徒や眠そうに欠伸をする生徒たちが続々と来ていた。夜の学校とは対照的に、陽気な雰囲気が漂っている。そんな学校の屋上で、武斗は目を覚ました。
仰向けで大の字になっていた武斗は、ぼんやりとした意識の中、視界を埋め尽くす空を眺めた。空は青く、点在する雲はゆっくりと風に流され、生徒たちの声が遠くから聞こえてくる。どこか、のどかな夢を見ているような気分だった。
しかしその夢見心地の意識は、チャイムの騒々しい音で断ち切られた。途端、意識ははっきりとし、慌てて上体を起こす。と、貧血によりバランスを崩す中、嘔吐物が一気にせり上がってきた。武斗はそれを抑えきれず、そのまま一気に吐き出す。
嘔吐物は、途切れ途切れではあるが次々とこみ上げ、血の混ざったそれは相当の量となっていた。
全て吐き終えた武斗は、何度も咳をしながら呼吸を整えると、酷い頭痛と全身の痛みに顔を歪めながら、自分が生きていることを確認した。
「俺……、生きてるのか……」
武斗の中で残っている、最後の瞬間の記憶。自分がどうやってヤナガと名乗った化け物に肉薄したかは覚えてないが、おぼろげながらその時の感覚と、ヤナガの脳天へとナイフを振り下ろしたところまでは記憶している。
しかしその後は記憶にない。戦いに勝利したのか、敗北したのか。こうして生きている以上、勝利したと考えるのが妥当だろう。逆に負けていたのであれば殺されていたはずだ。もしくは、あの時と同じように、また見逃してくれたのか。ただ、いずれにしろはっきりしていることは、自分はこうして生きているということと、昨夜のことは夢ではないということ。
「どっちなんだよ……」
武斗ははっきりと断言できない勝敗の行方に苛立ちをにじませながら、右手にはめられたままのクローナイフを外し、一度起き上がろうとした。だが、どうやらしばらくは動けそうにないと思い、再び仰向けになり、昨夜のことを思い出す。
最初こそはどうにか対応できたが、すぐに力の差が如実にあらわれ、防戦一方となり、そして、続く瞼の裏の光景に、武斗の心臓が一瞬止まる。
武斗の目の前で、心臓を突き刺され、まるでゴミを捨てるように投げ捨てられた慎二。
そして、弄ばれるようにして傷つけられ、無惨に殺されていった紗夜。
「御子杜……! 慎二……!」
武斗は思わず上体を起こす。先ほどと同じようにバランスを崩すが、構わず周囲を見回し、骸となった慎二が投げ捨てられた場所や、紗夜が惨殺された場所に目を向ける。しかしそこには、紗夜や慎二の遺体どころか、二人がいた辺りには一滴の血痕も見当たらない。あるのは周囲に点在する自分の血痕。
一瞬、昨夜のことは夢だったのかと思ったが、あれが夢でないことは嫌と言うほど理解している。
「それじゃ……」
あれが夢でないのなら、紗夜と慎二が殺された光景も、夢でないということになる。ならば、どうしてその痕跡が何一つ残っていないのか。
だがそれは、ヤナガという非現実的な存在を考えれば、全ての証拠が残さず消されていても不思議ではない。そう思うと、やはりあれは現実の光景だったのかと、悲しみと悔しさが込み上がってくるが、現実と認めたくないもう一人の武斗が、そんなはずはない! まだ、そうと決まったわけじゃない! あいつらは生きてんだ! 絶対に死んじゃいねえんだ!と必死に叫び、傷つき力果てている自分の体をどうにか立たせ、ふらふらと引きずり、校舎の中に入っていった。
チャイムが鳴ってからそれなりの時間が経っていたため、廊下には誰もおらず、普段と何ら変わることなく、教室から授業中の声が聞こえてくる。昨夜の屋上での出来事などまるで感じさせない、いつもと変わらぬ、いつもの平穏な風景。それは、絶望感ばかりが先に立つ武斗に、一縷の望みを少しずつ分け与えていく。
きっとあれだけは夢で、教室の中には、真面目に授業を受けている御子杜紗夜と、不真面目に授業を受けている内原慎二がいて、二人とも、教室に顔を出した自分に笑いかけてくれるに違いない。
そんな光景にすがりつつ、二年一組の教室の前へとやってきた。教室からは、教師の声が漏れ聞こえてくる。そういえば、と武斗はふと思い出した。
御子杜紗夜と出会ったとき、紗夜は教科書を読んでいたところだったな、と。
今は違うが、きっと彼女は教室にいて、そしてあの時と同じように目を丸くして自分を見るかもしれない。そしてその後に……。
武斗はそんな願いを胸に、躊躇う自分を振り切って教室の戸を開けた。
その音に、教師は読むのを止めて武斗の方を見る。生徒たちもちらりと視線を送る。そして彼らは皆、武斗の様相に息を飲むことしか出来なくなった。
武斗のひどく汚れた制服はあちらこちらが破れており、顔や手には擦り傷や切り傷があり、固まった血が彼の体と制服にこびり付いている。そして、どうしたらここまで酷い状態になるのかと思うような姿で、武斗は呆然と立ち尽くし、何か言いたげに口を動かしながら足を一歩前に出す。だがすぐにバランスを崩し、力なく体が横に傾いだ。幸い、肩に当たった戸枠が支えとなってそのまま倒れることは免れたが、それ以上動くことなく、一筋の涙をこぼした。
教室の中には、紗夜の姿も慎二の姿もなく、無機質な二つの空席が、武斗に現実を叩きつけた。
やっぱり、夢じゃなかった……。
武斗は、堂本が殺されたと聞かされた時以上に、深い深い悲しみと悔しさに突き落とされた。今回は、電話で聞かされたのではなく、殺されていく二人の姿を目の前で見せられた。唯一の救いは、二人とも意識がないまま命を失ったということぐらいだろうが、武斗には救いになどならない。堂本の敵討ちを誓いながらも、さらに二人失うことになったのだから。しかも、為すすべなく。
「己の無力さを呪うのだな」
ヤナガの言葉が、武斗を容赦なくなぶる。
自分が無力でなければ、せめて二人を救うだけの力が自分にあれば。そんな自責の念が自身を責め立てる。悲しみや悔しさよりも強く。
そんな武斗を、言葉を失いつつ傍観していた教師が、どうにか気を取り直すと「た、楯村くん? 大丈夫かい?」と声を掛けてきた。そしてそれを合図に、生徒たちはひそひそとお喋りし始めた。
教師の一言に、武斗の意識がほんの少しだけ周囲に向けられるようになると、武斗は顔を伏せ、寄りかかっていた戸枠から肩を離し、この場を去ろうとする。もう、この場所に用はないのだから。
その虚ろな目に、教師は「保健室で、手当てしてもらってきたら?」と遠慮がちに言うのが精一杯だった。
武斗の足はおぼつかなかった。肩を離したときもよろめき、ほんの少ししか前に出していない一歩目もよろめいた。そんな彼に手を貸す者はなく、数少ない友人たちは、自分はどうすればいいか困惑するばかり。教師も、誰かついていってあげてという言葉を出す余裕がなかった。
そして二歩目でもやはりよろめき、どうに三歩目を出したとき、武斗は一瞬、自分の耳を疑った。
「楯村くん……」
その声は間違いなく、御子杜紗夜のもの。
そんなはずは……。武斗は信じられない思いで顔を上げる。その視線の先には、瞳を潤ませて廊下で立ち尽くしている紗夜と、ひどく驚いた顔をしているちとせがいた。
「楯村くん……!」
紗夜はもう一度武斗の名を口にすると、涙を落としながら武斗へと駆け寄り、そのまま彼の胸に飛び込んだ。その勢いに押され、武斗はよろめきながら後退するが、またも戸枠が支えとなり、二人とも倒れることはなかった。
紗夜は今、武斗の胸で泣いている。ずっと心配で、一晩中泣いてたんだからと、涙声で訴えながら。
だが武斗には、これが現実のものかどうか認識できず、これも夢なのではという疑念が武斗をしばし呆然とさせ、そして、もう一度紗夜の姿を確認しようと、彼女の両肩に手を置きゆっくりと彼女を離す。離れたくなかったからか、紗夜の手は武斗の胸に手を当てたまま。
武斗は泣きじゃくる紗夜の顔を見るが、それでも実感がわかず、意識せず、手のひらを紗夜の頬に当てた。
その温もりが、もうずっと遠い昔のもののように感じながら、ようやく、これが夢ではないと思えるようになり、途端、憔悴しきっていた武斗の心に小さな命の灯がともり、「本当に、御子杜なんだよな……? 夢じゃ、ないんだよな……?」と呟いた。
すると紗夜は、自分もこれが夢か確認するかのように、武斗の手のひらに自分の手を合わせ、自分の頬をその手のひらの中に沈めた。
ここに至り、ようやく武斗は、これが夢ではなく現実だと認識することができ、思わず、思いの分だけ紗夜を抱きしめた。再び武斗の胸の中となった紗夜は、もう一度噛みしめるように腕を回して武斗に抱きつく。そして全ての力が失せてしまった武斗はずるずるとへたり込み、引きずられるように紗夜も膝を折っていく。
それでも二人はお互いを離そうとせず、紗夜は泣きながら「馬鹿! 馬鹿! 楯村くんの馬鹿!」と、武斗も涙を流しながら「良かった……、良かった……」と呟くばかりだった。
今の二人には周囲のことなど全く関係なく、二人の耳に外野の声が届いたのは、それから少ししてのことだった。