終わる日常
武斗の姿に、皆が泣き、心を痛め、その場に立ち尽くしていた。
やがて、武斗は鳴き声を上げなくなり、そして紗夜の胸の中で鼻をすする音を数回立てると、一つ深呼吸をし、抱きしめていた腕を解いて彼女の胸から顔を離した。
その顔は赤みを強く帯びていたが、涙を出し尽くしたようにどこか乾いた印象があった。
ようやく気持ちが落ち着いてきたのだろうと思いつつ、紗夜は武斗が何か言葉を発するのを静かに待った。だが言葉はなかなか出てこず、もう少し時間が必要だろうと、紗夜は武斗を再びその胸に抱く。
「無理しなくて、いいんですよ。もう少し、このままでいましょう?」
武斗は何も答えず、抱かれるがままでいた。その様子に巻野と利根林は、二人だけにしておいた方が良さそうだと判断し、ちとせも一緒に利根林の部屋で待機することにした。
紗夜の胸の温もりは、深く傷ついた武斗の心をゆっくりと癒していく。その心地よさに、武斗は甘えた。誰かに甘えるということをほとんど経験してこなかった武斗が、今、紗夜の優しさにすがりついていた。
それが、紗夜にはよく分かった。分かったからこそ、武斗が起きあがれるようになるまで何時間でもこうしていようと思った。
そうしてしばらく経ち、ようやく、武斗が口を開いた。
「一人に、させてくれないか……」
力のないその声に、武斗を一人にしてしまって大丈夫だろうかと心配したが、紗夜は静かな声で「うん」と同意し、一度武斗をぎゅっと抱きしめ、それからゆっくりと離れた。武斗はぐったりと壁により掛かりうなだれて座ったままで、自分の力で立ち上がれそうにない。ならば、自分がこの場から立ち去るしかないと判断し、「利根川さんの部屋にいますね」と声をかけた。
そして利根川の部屋に入る間際、紗夜は武斗の姿を見て、元気付けられるような言葉をたくさん武斗に渡したいという思いをぐっと飲み込み、部屋に入った。
部屋に入ると、三人の視線が紗夜に集中していることに気が付いた。
「どうだった?」と心配そうに巻野が尋ねる。
「一人になりたいって……。今、廊下にいます」
「そう……」
部屋の中はそれきりしばらく静かになり、誰も口を開こうとしなかった。防音設備がしっかりしているマンションではなく、外の音が平気で漏れ聞こえてくるボロアパート。この部屋の会話は、ひそひそと喋らなければ廊下にいる武斗の耳には届くだろう。だからといって、声を潜めてまで色々と話したいとは、誰も思わない。その行為は、武斗を侮辱する卑しい行為に思えてならなかったからだ。
重苦しい沈黙の時間がただただ過ぎていく。だがその時間は、そう長くはなかった。
突然、うおおお!という、悲しみを振り払うかのようなけたたましい雄叫びが廊下から轟いた。その音量は、アパート全体がびりびりと振動しているかと思うほど凄まじく、実際、利根林の部屋のガラス戸や食器などが微かに振動し、巻野とちとせは耳を塞いでいた。
長い雄叫びがやみ、再びアパートの中が静まりかえると、巻野は武斗の様子を確認しようとし始める。それを、紗夜が諭すように「まだ、一人にしてあげていてください」と言うと、さすがに思いとどまった。そして廊下では、武斗が立ち上がる音が聞こえ、続いて隣の部屋に入っていく音がした。
再び部屋の中に沈黙が降りると、利根林が「お茶を入れようか」と立ち上がった。すると、ちとせも「手伝います」と言って立ち上がり、巻野も「湯飲み足りる?」と言って立ち上がった。みな、この沈黙に我慢しきれなくなっていたのだ。そして利根林とちとせは無駄に音を立てながら用意を進め、巻野は「あそうだ。おじいちゃんの部屋にはお菓子とかないでしょ? 私の部屋にあるから、取ってくるね」と言って部屋を出て行った。
ただ一人、紗夜だけはじっと座っている。涙をこらえているその姿に、ちとせはちらりと目を配り、武斗に対する紗夜の気持ちがどれだけのものかを強く感じていた。そして、ちとせ自身の武斗に対する印象が大きく変わっていることも。
暴力的な印象を拭いきることは出来ない。しかし、深い悲しみに打ちひしがれながら泣き叫ぶあの姿は、ちとせの心をぎゅうっと締め付け続けている。きっと紗夜は、自分とは比べものにならないぐらい、武斗の姿に辛い気持ちで締め付けられているのだろうと思うと、尚更辛かった。
巻野が部屋を出ていってから二分ほどして、階段を上る音がした。お菓子を持ってきたところで、たぶん誰も手を付けないだろうとは巻野自身も思っていたが、こうして体を動かしている間は多少気が楽になる。それに、ほんのちょっとの時間でいいから一人になりたかったというのもあって、わざわざ自分の部屋まで取りに行ったのだが、階段を上りきったところで、部屋から出てきた武斗と鉢合わせた。
この遭遇に、巻野は「あ……」と発したきり、言葉を詰まらせた。予想外の展開に驚いたというのもあったが、それよりも、武斗の様子が変だったからだ。その雰囲気は、こちらの体が凍り付いてしまいそうなほど凍てついており、何より、静かに青い炎を揺らめかせる武斗の左の頬の切り傷が赤々と血を滴らせているからだ。
「タ、タケちゃん……? 大、丈夫? あの、どっか、行くの?」死を目の前にしたときのような背筋に冷たいモノを感じながら、巻野がどうにか声を絞り出す。すると、その声が聞こえたようで、利根林の部屋から紗夜たちが飛び出してきた。
「楯村くん!」紗夜が声をかけ、ボクシンググローブを手に背中を向けている武斗の異変にすぐに気付くと、駆け寄ろうと足を踏み出す。と、武斗が「来るな!」と大声を上げ、紗夜を制止する。思わず足を止めてしまった紗夜だったが、構わずに足を一歩前に踏み出す。すると今度は静かな声で「頼むからこっちにこないでくれ」と制止する。それは、紗夜にだけは今の自分の顔を見られたくなかったから。
「で、でも……」
「頼む……」冷たく冷静な声が、皆を凍り付かせる。しかし、それでも紗夜は駆け出し、背中から武斗に抱きついた。今なにもせずに行かせてしまったら、絶対に後で後悔するような気がしてならなかったから。そしてその後悔は、ずっと続くもののような気もしていたから。
「楯村くん」
「……」
「昨日、言ってくれましたよね……? 私が困ったら、その時は助けてくれるって……。だから……、遠いところに行ったりしたら、絶対ダメだよ? 絶対に、ダメなんだからね……」
紗夜の悲痛なその言葉は、帰ることを一切考えず決死の覚悟を持った者を送り出すような、そんな言葉にも聞こえた。それほど、今の武斗には鬼気迫るものがあった。そして武斗は、あまり抑揚のない声で静かに告げた。
「御子杜。お前、今日はここに泊まれ」
「どうして」
「マキさん。じいちゃん。それと川村。御子杜のこと、頼む」
「う、うん、いいよ」と巻野は少し怯えた様子で答え、彼の表情までは分からない利根林とちとせも、気圧されながら承知する。そして自分の問いに答えない武斗に、紗夜が「楯村くん! どうして――!」と言いかけたところで、武斗が自分の体に回っている紗夜の手にそっと手を添えた。
「さっきは、ありがとうな。心から感謝してる。ほんと、お前で良かった。お前に会えて、本当に良かった」
「な!? なんでそういう言い方するんですか! 約束したじゃないですか! 私を助けてくれるって! パフェだって、奢ってくれるって!」
「そうだったな」武斗はそう言いながら紗夜の腕を解き、顔を見せないように体を反転させて正面から抱きしめた。その時の武斗の表情を紗夜は見ることができなかったが、その顔を見た利根林とちとせは、巻野と同じように、死の滴る大きなカマを持った死に神に、無表情に見つめられているような恐怖を感じていた。
そして武斗は、紗夜に言った。
「用が済んだら、好きなだけ奢ってやる」
「絶対ですよ! 絶対に……、絶対に約束ですよ!」
「ああ。だから、ここで大人しくしてろ。いいな」
武斗はそう言うと、再び体をすっと反転させ歩き出す。その背中を、紗夜はもう一度抱きしめ、何処にも行かせないようにしたかった。だが、どうしてもそれが出来なかった。武斗の姿が彼女らの前から消えたとき、巻野らはその場にへたり込み、紗夜は、この日何度目になろうかという涙を流した。
八城神社の母屋の座敷で、八城照臣はテレビを見ていた。番組は夕方のニュースで、今はローカルのほのぼのとした話題で、珍しい動物が田舎町で逃走劇を繰り広げるというものを流している。と、突然玄関の引き戸が大きな音を立てて開けられ、照臣は沈痛な面持ちでため息をついた。乱暴に開けたこの行為に対してではない。直に来るだろう思っていた来訪者の、心情を察してのものだ。
照臣はテレビを消すと、座敷を出て玄関に行く。そこには、頬から死を流す武斗がいた。しかもその表情は、巻野らがアパートで見たものと変わっておらず、このまま人を無表情に殺したとしても何ら違和感はない。
武斗は照臣の姿を捉えると、玄関に立ったまま見据え、側まで来たとき、ようやく口を開いた。
「堂本さんが殺された」
「知っている。ジムの会長から聞いた。誠に残念なことだ……」照臣は武斗の手にあるグローブを見ながら言う。
「あんた、俺に聞いたよな。知ってどうするって」
「……」
「俺は、堂本さんを殺した化け物を、この手でぶっ殺す」
「冷静になれ」
「俺は冷静だ。これ以上ないってぐらいにな」
「武斗。お前は見たと言ったな。化け物同士の戦いを」
「ああ。間近で観戦させてもらった」
「ならば……」
「あんたは俺の話を聞かなかった。俺もあんたの話は聞く気はねえ」
とここで、武斗の背後から声が聞こえた。それは聞き覚えのある耳障りな声。あの時の、狼の如きモノの声だ。
「少しは良い面構えになったようだな。小僧」
以前であれば、間違いなく武斗は化け物の放つ禍々しい気配に怯んでいただろう。しかし今の武斗は臆さない。むしろ怒りが更に込み上がってくる。
「ところで、我に何か用事があって来たのだろう? ならば今宵、お前の通う学校とやらの屋上に来い。恐れずに来れたらの話だがな。クク。それと照臣。もしこの宴を邪魔したら、貴様も食い殺してやるからな」
狼の如きモノは言いたいことだけを一方的に言って、すぐに気配と共に姿を消した。武斗は眼光をさらに冷たく、そして鋭くする。そして体内の熱波を一つゆっくりと吐き出すと、何も言わずに踵を返し、出て行こうとする。
「武斗」
「もうあんたに用はねえ」
「一つ約束しよう……。もしもお前が生きてここに帰って来れたら、今この町やその周辺で起きていることと、お前に隠し続けてきたお前の過去を、教えてやろう」
「……」
「ただし、紗夜はこちらに連れて帰る。お前のところにいるのだろう?」
「……あいつを、どうするつもりだ」
「お前のアパートにいるより、この神社の敷地内にいる方が遙かに安全だ」
「信用していいんだろうな」
「あの子は私の大事な姪だ。嘘など言わん」
「もしもあいつに何かあったら、どんな理由があっても、お前を許さねえからな」
「分かっておる」
そして武斗は、神社を出た。