暗転
正直、一人で横になっていたいという思いがあっただけに、大歓迎という気持ちにはなれなかった。だが紗夜にこう言われては、今の武斗には追い返す術はない。なにぶん、数時間前に紗夜を殴り倒しそうとしたのだから。
「いや、んなことはねえけど……。つか、なんで」
「それは、その……」紗夜はなにか恥ずかしそうに言い淀んだのち、「会いたくなったから……、です……」と言った。
だからその理由は何なんだ、と聞きたい気持ちもあったが、紗夜の様子にこちらも何故か照れくさくなり、これ以上は聞けなくなってしまった。しかも何となく場の空気が、居心地が悪いというかこそばゆいものになっている。これはどうにかしなければと紗夜の表情を伺うと、彼女の目の回りがやや赤いことに気付き、少し動揺していた武斗の気持ちが、神社で彼女にしたことに対する申し訳ない気持ちへとすっかり変わった。
「御子杜。さっきは、悪かった。ついカッとなっちまって」
「ううん。私の方こそ、余計なことして」
「いや俺の方が、つうか、どこにお前が謝る理由があんだよ。たく。悪い癖だぞ」
「でも」
「でももクソもねえ。一方的に俺が悪かったんだ。だから、んなこと言うな。余計責任感じまうじゃねえか」
武斗は少し戯けるようにそう言うと、苦笑した。そしてその笑顔にほだされるように、紗夜もようやく頬を緩ませた。
「しかし、また泣いたみたいだな。ほんと泣き虫だよな。お前は。って、泣かせた張本人が言うこっちゃねえけど」
「そのとおりです。楯村くんのせいで、私、いっぱい泣きました」笑顔でそう言う紗夜は、昨日、完全に打ち解けたように武斗とお喋りをした時と同じ紗夜。
「でも、最後に笑えれば、私の勝ちです」
「ああ。そのとおりだ」
「ですから、パフェを奢ってもらいます」
「ああ……、やっぱそうきたか」
そして二人は、とても穏やかで暖かな雰囲気の中でくすりと笑い合った。
今まで見たことのない、すっかり心を許した紗夜の本物の笑顔。それと、しかめっ面や怒った顔以外印象のなかった武斗の、初めて見る穏やかで優しそうな笑顔。この光景に、ちょこんと部屋の中に顔を出していたちとせは呆然としてしまっていた。そんなちとせに、武斗は視線を向けると「お前にも嫌な思いさせちまって、悪かった」と謝った。
天下の楯村武斗からこうして謝られるなど考えたこともなかったためか、ちとせはあたふたと「へ!? あ、ううん、私は平気だから、それに、私は泣いてないしね。あ、あはは」と答えていた。
「わびと言っちゃあなんだが、川村にも奢る。御子杜もパフェを奢れって言ってるしな」
「い、いいですいいです! ホントに」
ちとせの様子に、これが普通の反応だよなと内心苦笑する武斗。そして普通でない反応をする紗夜は「遠慮しないで、川村さん。私と二人で、たあっくさん、奢ってもらいましょ?」と恐ろしいことを言ったきた。これで武斗の財政事情が深刻な状態になることは確定し、これも仕方がないとため息を落とした。
これで彼らはすっかり落ち着き、このまま突っ立っていてもなんだと、武斗は紗夜とちとせに隣の利根川の部屋に戻るように言う。すると紗夜は、楯村くんの部屋ではないのですかと尋ねてきた。
「こんなきたねえ部屋に上げられるかよ」
「私は平気ですよ? 昨日もこの部屋でお食事しましたし、この部屋で寝たりもしましたから」
「そういう問題じゃなくてだな」
この部屋に同世代の女の子が、しかも一人ではなく二人いるという光景を思い浮かべただけでぞっとする、などという照れ隠しの建前が、思うように口から出てこず、代わりに、というわけではないが、今紗夜が喋ったことの問題点に気づき慌てて指摘した。
「ってそれ、秘密だろうが」
「いいえ。川村さんには全部お話ししました。ですから秘密でも何でもありません。安心して下さい」
「安心って、お前なあ……。まあとにかく、この部屋は駄目だ」
武斗はそう言うと、紗夜に近付き、彼女の背後から両肩に手を置いて、廊下へと優しく押し出した。そしてそんな武斗に、「どうしてですか?」という声がかけられた。その声の主に、武斗は眉をひくひくと動かし「俺の部屋を宴会部屋だと勘違いしてやがる、とんでもないヤツがいるからだ」と、唸るように返す。
「そんな人、どこにいるのですか?」
「アンタだアンタ! なにこんな時間から缶ビール持って歩いてんスか! てか、御子杜の真似すな! 気色わりいだろ!」
「酷いわ、楯村くん……。昨日はあんなに優しかったのに……」と、缶ビールを片手に廊下で紗夜の真似をしている巻野が、よよよと泣き真似をする。ここでついに疲れがどっと出てしまったのか、武斗はため息混じりに「……だから、やめいと言ってるだろが」と呟いた。
廊下での騒々しくも和やかなこのやり取りに、ちとせはふと思った。紗夜が言ったとおり、本当の楯村武斗は、噂で語られているような人物ではないのかもしれないと。
とここで、携帯電話の着信音が鳴った。それは武斗のもので、紗夜の肩に置いた左手はそのままに、右手で上着のポケットから取り出しディスプレイを見た。
「滝さん? セコンドの件かな」そう独り言を言うと、「どうしたんスか、滝さん」と電話を受ける。しかし電話の向こうからすぐに返事が来ない。
「滝さん? 滝さん? あれ、声届いてねえのかな。ちっ。電話かけんなら場所選べっての。しょうがねえなあ」と愚痴ると、もう一度「滝さん? 聞こえてるか? 滝さん?」と電話に向かって喋る。そしてその様子を、紗夜は少し振り返って見ていた。
「滝さん? 聞こえないなら切るぞ? いいな?」
業を煮やした武斗は、そう言って電話を一度切ろうとする。そこでようやく、滝の声がした。
「楯村……」
「滝さん。んだよ、聞こえてんじゃねえか。だったら――」
「落ち着いて聞け……」
「ああ? 急になんだよ。葬式帰りみたいな声だして」
「……」
「ておい、また黙りか? 悪戯するなら――」
悪戯するなら堂本さんにそろ、と言いかけたところで、滝が力なく言った。
「堂本が……、死んだ」
「は?」滝の言葉に、武斗は間の抜けた声を落とした。
「堂本が、殺されたんだ……」
「な、なに馬鹿なこと言ってんだよ」
武斗はあまりのことに唖然とした表情となり、半笑いで否定する。
しかし、滝が冗談を言っていないことは、頭の中では分かっていた。滝という男は決してこのような冗談を言う人間ではない。彼は選手時代からトレーナーとなった今まで、何人も仲間を失っている。中には、試合中のダメージによる後遺症に苦しみ、自ら命を絶った者もいる。そんな滝が、冗談で死という言葉を使うはずはない。
それに、牛丼屋で男たちが話していた日曜日の大量血痕事件の現場が、堂本の勤める会社のすぐ近くということは知っていた。そして彼らは、その被害者が確定したと言い、滝は今、殺されたと言った。
これらが、否定したい武斗を許そうとしなず、滝の言葉は紛れもない事実で、それを受け入れろともう一人の自分が責め立てる。そしてそれを裏付けるように、滝は「日曜日の血痕事件、お前、知ってるか?」と説明を始めた。
武斗は、その聞きたくなかった言葉に、一瞬のどを詰まらせる。
「堂本な……、昨日、会社を無断欠勤したんだ。今まで一度も、そんなことしなかったがあいつが……。会社の人が心配して家に行ったら、あいつ、土曜の夜から帰ってないらしくてな。事件のこともあって――」と言いかけたところで、武斗が怒鳴った。
「ば……、馬鹿言ってんじゃねえよ! 悪い冗談にも程があるだろが! いくら滝さんでも、ぶん殴るぞ! 会社休んだぐらいで、なんでそうなんだよ!」
滝には、電話の向こうで怒鳴る武斗の様子が、その場にいるかのように見えていた。自分もそうだったから尚更。故に、次にかける言葉が見つからず、言葉が続かなかった。
そして、会話の内容がまったく見えない巻野たちは、血の気を失いながら電話越しに怒鳴る武斗を見守るしかなく、自分の左肩にある武斗の左手が制服ごと強く握りしめられている紗夜も、心配そうに見上げるしかなかった。
「なんとか言えよ! ふざけてねえで、今のは冗談だって言えよ! 黙ってんじゃねえ! おい! 早く言えって言ってんだろ! 滝さん!」
そして、必死に現実を拒絶する武斗の声は次第に震え、怒りではなく悲しみに潤ませていた。
「滝さん……、滝さん! なんとか言えよ! 何か……、言ってくれよ!」
武斗の悲痛な訴えに、滝はようやく言葉を返す。その声は、悲しみに凍てついたコンクリートのような印象があった。
「……今日、警察で確認してきたんだ」
その言葉に、武斗がぴくりと動く。
「細かい話は今は後でするが……、俺も、信じたくなかった。今のお前と、同じようにな……。しかし、これが現実だ。もう堂本は――」
「ふざけんな……」
「楯村……」
「ふざけんな! 何が現実だ! 警察で確認しただと? あいつらが嘘言ってるに決まってるじゃねえか! なんで信じんだよ! んなわけねえだろが! 堂本さんが――!」
「堂本は死んだんだ!」
どうしようもない武斗の感情を一喝するように、滝は無情に言い放った。途端、武斗の全身から力が抜け、携帯電話を握ったままずるりと右腕を垂らし、紗夜の肩を握っていた左手も力なく落ち、ぐらりと体が揺れるとそのまま背中からどんと壁に寄りかかる。そして、認めざるを得ない現実に、武斗の瞳からついに一筋の涙がこぼれ落ちた。
「楯村くん……?」紗夜が心配そうに声をかけるが、武斗は流れる涙をそのままに、焦点の合っていない瞳を中空に向けている。
巻野や利根林も心配そうに声をかけるがそれでも、ただただ、深い悲しみに涙をぼたぼたと流し、途切れ途切れの声を震わせながら、うわごとのように呟くだけ。最初は悲しそうに笑い、声を詰まらせながら訴え、堰を切ったように怒鳴り、最後は悔しさや悲しみに心をよじりながら。
そして紗夜たちは知った。武斗が泣いている理由を。
「馬鹿言ってんじゃねえよ……。堂本さんが死んだ? そんなわけあるかよ。もうすぐ、引退試合があんだぞ? 俺がセコンドについてやるんだぞ? あいつのケツをひっぱたいて……、最高の引退試合にして……、最高の花道を……、作って、やるって……、
俺は約束したんだぞっ! そんな堂本さんが死ぬわけねえだろ! あんなにつええ人が、殺されるわけねえだろ! あいつはプロのリングで何度も勝ってんだ! 俺の前で、何度もカッコよく勝ってんだ! あの人は俺にとってヒーローで! 俺にとって――!」
そこで、武斗はずるずると背中をすりながら廊下に腰を落とし、嗚咽しそうな声を必死に抑えようとするように、かすれた涙声で呟いた。
「俺にとって……、本当の兄貴だと、思ってたんだ……!」
そう言い終えて、中空を漂っていた瞳は強く閉じられ、大声で泣き出しそうな自分を抑えるように、堅く歯を食いしばった。
ここに至れば、電話の内容が、武斗が兄と慕っていた人の死を知らせるものだったことは明白で、深い悲しみに打ちひしがれた武斗の今の姿に、巻野たちはかける言葉を失っていた。
電話を切ることなく、武斗の悲しみの声をずっと聞いていた滝でさえ。
ただ一人、紗夜だけが、武斗の前に膝をついてしゃがんだ。
今自分に出来ることは、昨日、涙を流す自分に背中を貸してくれた武斗のように、今度は自分が、武斗の悲しみを自分の体で受けとめることだと思って。
「楯村くん……」紗夜は独り言のようにそう囁き、武斗の頭を自分の胸の中で抱きかかえようと、そっと近付く。とその時、悲しみに結ばれていた唇が歪み、深い怒りと憎しみのこもる震えた声が、憎悪に染まりきった表情の武斗の口から出た。
「あいつだ……」
「え……」再び開いた武斗のその瞳に、紗夜は少し驚いた。
「あいつが殺したんだ……。あの化け物が……、堂本さんを殺しやがったんだ!」
「バケ……モノ?」
「許さねえ……、ぜってえ許さねえ……、ぜってえ、この手でぶっ殺してやる! ぜってえ……! 兄貴の仇を、とってやる……、ぜってえだ……、ぜってえ……」
そこまで呟いて、再び顔が深い悲しみに覆われ、武斗は俯く。そして、両手で自分の髪を掴み、ちくしょう、ちくしょう、と繰り返し繰り返し、泣いた。
紗夜は、そんな武斗の拳にそっと自分の手のひらを置く。するとその温もりに応えるかのように、武斗は下を向いたままとつとつと呟き、訴えた。
「どうして……、どうしてそうやって、いつも俺の大事なモンを、全部持っていこうとするんだ……。どうしてだよ! どうして!」
武斗はそう言って顔を上げる。そして、目の前で一緒に涙を流している紗夜が、そんな武斗を導くように、優しく静かに言った。その姿が武斗にはまるで、共に涙を流してくれる慈悲深き聖母のように映っていた。
「今は、泣こう……? たくさんたくさん、泣こう?」
涙に潤む紗夜の言葉に、武斗の感情のすべてが一気にあふれ出した。武斗は懇願する子供のように両腕を伸ばし、その願いに紗夜は自分から体を寄せ、武斗は彼女の胸元に顔を埋め、きつく抱きつき、恥も外聞もなく、大声で泣いた。
その姿はまるで、母親に抱きつき、その胸元で泣きじゃくる赤ん坊そのもののようだった。