残されし血痕
鎮火しきれない感情のまま神社を出た武斗は、鞄やら携帯やら諸々を学校に置きっぱなしにしていたことを思い出し、やむなく、拝借した自転車にまたがり一度学校へ戻り、慎二に茶々を入れられながら荷物を手に取ると、そのまま教室を出た。
照臣を目の前にしたときに比べればだいぶ鎮火していたが、授業を受けられるほど鎮火していなかったということだ。そんな武斗を、女性教師は何も言わず、生徒らもこそこそと見るだけだった。
そうして学校を出ると、これからどうするべきか考える。今のところ唯一の情報源は照臣ただ一人だが、何度行っても同じことだろう。あの化け物も何か知っているようだったが、やはり自分で調べろと言うに決まっている。そもそも、どうすれば会えるかなど分かるはずもない。
結局、考えたところで良い案が浮かぶわけでもなく、空腹を訴える腹の虫の音に、近くにあった牛丼屋に入り黙らせることにした。
昼時を過ぎた時間とあって、店内はひどくがらんとしており、客は武斗を入れて五人だけ。アルバイトの店員も暇そうにしており、武斗が購入した食券を受け取ると、さっさと牛丼を作り始めた。作るといっても、どんぶりにご飯を盛り、大鍋の中のものをすくい上げ、ご飯にかけるだけだが。
そしてすぐに牛丼が武斗の前に出され、これだけ腹が立っていても食欲は無遠慮に要求してくるものかと、少々腹立たしげにかぶりついた。
そこに、二人組の中年の男が店に入ってきて、食券を買うと武斗の近くに座った。男らは、注文したものが出てくるまであれこれと喋っていたのだが、その中で、武斗には特に聞き流して無視することの出来ないものがあった。それは、日曜日の朝に発見された、大量血痕事件に関して、警察発表はまだされていないが、被害者の身元が確定したらしく、遅くとも夕方には発表されるだろうというもの。
身元の確定云々ではなく、大量血痕事件という言葉そのものに、武斗は思わず表情を険しくしていた。
ここのところ、いろいろと話題になっている一連の事件があり、大きく分けると、大量血痕事件、行方不明事件、悪質な悪戯事件の三つになる。
まず一つ目の大量血痕事件とは、致死量には十分すぎるほどの血痕を残し、死体はなく、その行方を指し示す証拠が何一つない、という事件。
二つめの行方不明事件とは読んで字の如くだが、行方不明者の多くの生活圏が、大量血痕事件の現場からそう大きく離れていないということ。
そして三つ目は、大量血痕事件の現場を動物の血で模倣した、愉快犯らによる悪質な悪戯。
一つ目と三つ目の関連性は考えるまでもなく、二つ目の事件が一つ目の事件に関係していることは、すでに新聞等で報道されている。大量血痕の現場に残されていた遺留品から身元を割り出したところ、その被害者の捜索願が出されるところだった、ということがあり、また身元を特定するに至らなかったが、後日出された捜索願から確定出来たものもあった。
ただし、全ての行方不明者がこの事件に関与しているというわけではない。また遺留品等が一切なく身元の特定が不可能なものもある。
そして、これら一連の事件はいずれもこの町や近隣の町で起きている。一部では、悪魔が人間を殺しにやってきたのだ、などという都市伝説をでっち上げて、視聴者や読者を獲得しようとする輩も出てきているほどだ。
男らは日曜日の事件を簡単に話すと、それぞれの推理を披露していた。
「しかし、警察は何やってんだかね。早くこの殺人鬼を捕まえろっていうんだ。こんな物騒な世の中じゃ、おちおち夜遊びなんか出来ないじゃないか」
「殺人鬼ねえ。音田さんはどう思う? やっぱり単独犯じゃなくて複数犯だと?」
「新聞やテレビじゃ、組織的な犯行だって書いてあるけど。組織的犯行だったら、もっとこう、プロっぽくやるもんじゃない? やり方が雑っていうかバラバラっていうか、同一犯には思えないんだよね」
「確かに。そこで、こう考えてみるとどうだろ。最初はプロによる組織的な犯行だったけど、それ以降はすべてトチ狂った馬鹿共がしでかした模倣殺人。自分もやってみたくなったからとか、自分をアピールするためとか。とにかく、同一犯の犯行ではない。と」
「それは飛躍しすぎ……とも言えないんだよなあ。実際、動物の血で真似するヤツがわんさといるし」
とそこで、彼らが注文したものが出され、この話題はそれで終わりとなった。だが、武斗の頭の中では終わらない。
新聞やテレビでは、これは組織的犯罪で、警察を攪乱する為に遺留品を残したり残さなかったりしていると報じ、大衆のほとんどがそれを信じて疑わなかった。面白可笑しく好き勝手に書き立てられた事実無根の記事は枚挙に暇がないが、それらを信じている者は微々たるもの。
なお、動物の血を使った模倣犯は今までに数人捕まっており、その年齢層は十代から五十代までと幅広く、日本人の良識がどれだけ広範囲に渡って崩壊しているかを象徴していると、特にワイドショーが大々的に取り上げ、コメンテーターと称する者たちも好き放題に言い散らかしている。
そして武斗もまた、新聞やテレビの報道を、完全にではないが信用していた。ただし、それは化け物たちの戦いをその目で見るまでのこと。あれ以来、これらの事件を耳にする度に、あの化け物たちが犯人である可能性を考え、事件の全てではないにしろ少なくとも一つ以上関与しているだろうという思いが、昨日から頭の片隅にこびり付いたままでいる。
そして、照臣の言葉が武斗の脳裏をかすめる。
――知ってどうする?
――化け物が常識の中の存在だと思うか?
確かに、知ったところであの化け物を止めることは不可能だろう。いくら子供の頃から様々な武道や格闘技に喧嘩を経験していようが、人が戦える相手ではないのだから。だがそれでも、何もせず、何も知らないままという気には絶対になれない。化け物を見てしまった以上。
ならばこれからどうしていけばよいか?
「お客さん、どうかしたか?」
不意に、店員がぎこちない日本語で武斗に声を掛けた。いつの間にか思考の中に埋没していた武斗は、箸を止めたままにしていたのだ。
その後、考え事するよりも先に食事を終わらせてしまおうと、黙々と牛丼を食べ、店を出る。そして、気分転換をかねて夜食の食材を少しばかり調達しつつ家に帰ろうと、腹立たしさを消せないまま、いつも利用しているスーパーへと足を向けたのだった。
その途中、携帯が一度なり、着信番号を見ると慎二のものだった。どうせ今日のことを聞き出したいのだろうと思いながら「なんか用か」と言うと、やはり、今日の予定はだのそっち行っていいかだのと聞いてきた。普段なら、こちらの予定などお構いなしの慎二だが、この件については珍しく慎二なりに気を遣っているのだろう。だが気を遣われたところで返す言葉は変わらない。
武斗はわざと神妙な感じで、それどころじゃないと断る。慎二はそれを察し、じゃあ今日は止めておこうとあっさり引き下がった。無神経なようで気を配ることもある慎二のこういう部分が、武斗的には嫌いではなかったし、だからこそ、長く友人をやっていけているのだろう。
そうして、ようやく朝日荘へと帰ってきた。
謹慎明けからのこの数日間、本当に色々と忙しく、肉体的にも精神的にもハードな日々で、特に化け物同士の戦いを目撃したときから、ハードなどという生易し言葉では到底間に合わないほどの疲労を背負い続けており、とにかく部屋に着いたら寝てしまおうと決め込んでいた。ただし、眠れる自信はあまりなかったが。
この時間のアパートはとても静かだ。ほとんどの住人は職場やパチンコ屋や競馬場などに出払っており、残っているのはたいてい、うたた寝している利根川と、イビキをかいて寝ているホステス嬢の巻野だけ。しかし階段を上がってみると、普段とは違って利根川の部屋から話し声が聞こえてきた。しかも若い女性の声が二つも。
テレビを消し忘れて眠りこけているのだろうかと思ったが、利根川の声もしっかり聞こえているし、女性の声がテレビの音でないことも、漏れ聞こえる会話から分かった。
ということは、利根川に来客があったということか。珍しいこともあるものだと思いつつ、武斗が自室のドアを開け、冷蔵庫に買ってきた品を放り込んでいると、利根川がやってきた。
「おかえり。武斗くん」
「ただいまっス。珍しいな、じいちゃんとこに客が来てるなんて」
「いや、私の客じゃないんだな。残念ながら」利根川は笑ってそう言うと、一度自分の部屋の前まで戻り、「武斗くん、帰ってきたよ」と客人に告げた。
武斗は不思議に思いつつ制服のボタンを外し、麦茶をコップに注いでいると、隣の部屋から人が出てくる足音が二つした。そして、足音を立ててやって来た女性の一人が、狭い台所で立ったまま麦茶を飲んでいる武斗に「お帰りなさい……」と、戸惑い気味に声を掛けてきた。
その声に、武斗は危うく口の中のものを吹き出しそうになった。
「み、御子杜! なんでお前が!」
「ごめんなさい、あの……、迷惑、でしたか?」
このとき、残っていた武斗の腹立たしさがすべて、驚きに取って替えられていた。