始まりの出会い
月三万円、風呂なし共同便所の古びた木造アパートの一室、トランクスにTシャツ姿でぐっすりと寝りこけていた楯村武斗がむくりと目を覚ました。時計を見ると、針は午前十時過ぎを指している。そして今日は水曜日。学生である武斗が部屋で寝ていてよい時間はとうに過ぎているのだが、慌てる様子はまったくなく、欠伸を一つするとしばし思案した。このまま休むか、それともこれから学校に行くか。
そして出した結論は、ひとまず腹を満たしてから学校に行くというもの。武斗は億劫そうに起きると、部屋を出て共同の流し場で顔を洗う。水は少しぬるいが、彼を目覚めさせるには十分だったようで、半開きだったまぶたはだいぶ開いていた。
部屋に戻ると、まずは冷蔵庫からラップされた大きなおにぎりを取り出し、それをレンジに放り込んでスイッチを入れる。彼の朝食のメインディッシュは決まって前日の晩に用意したおにぎり。貴重な朝の睡眠時間を少しでも確保する為の知恵、というのが彼の言い分だ。ブーンというレンジの音と共におにぎりが加熱され始めると、その時間を利用して、手早く豆腐とニラの味噌汁をこしらえ始めた。
起きてから約十分。おにぎりと味噌汁と、そして生卵といういつもの朝食が小さなテーブルに揃うと、生卵を残してぺろりと平らげ、最後に生卵を割り、中身を一口で飲み下し、朝食は瞬く間に終わった。
彼の友人であり悪友である内原慎二曰く、「生卵をまんま飲むなんて正気じゃねえ」だそうだが、武斗はいつもこう反論していた。
「これが強い男を作る秘訣の一つだ」
朝食が終わると、布団を畳み押し入れに押し込み、着替えと歯磨きを済ませ、ようやく学校へ行く準備が整った。ここまででトータル約二十五分。いつもとほとんど変わらない時間である。
「さて、久しぶりの学校に行くとするか」
武斗はめんどくさそうにそう言うと、黒い学生鞄を脇に抱えて、誰もいなくなった根城に鍵をかけ、癖毛だらけのぼさぼさの頭で、住み慣れたアパートを後にした。
彼が学校に行くのはおよそ一週間ぶり。その間、世間が連休だったわけではない。病気していたわけでもない。謹慎処分を受けていただけだった。
処分を受けた理由は、他校生徒との喧嘩。ただしその喧嘩は武斗が売ったのではなく、相手が売ってきたもの。正当防衛を主張できそうな状況ではあったのだが、いかんせん、過剰防衛と言われても何も言い返せない結末では、情状酌量の余地がなくなっても仕方のないことだろう。しかも武斗の場合、喧嘩を売られることがやたらと多く、結果的に年がら年中暴力沙汰を起こしていては、相手に喧嘩を売ったことはほとんどないと言っても通用しないだろう。
彼が喧嘩を売られる理由は、ただ単に喧嘩の強さで有名人となっていたから。武斗としては、まったくもって迷惑な話だった。ならば喧嘩を買わなければいいじゃないか、などと馬鹿なことを言う輩もいるが、これまでの喧嘩の歴史を考えれば、売られた以上、素直に買い上げ、勝つしかない。試合放棄を含め、負け、すなわち自分が病院送りにされることを意味するのだから。
この現状を、自業自得と言う者も多い。確かにそうかもしれないが、しかし、子供の頃から負けを許さない厳しい父親に育てられたのだから、一概に武斗の責任とは言い切れないだろう。多勢に無勢の喧嘩でボコボコにされた時でさえ、その父親に一切の言い訳を許してもらえなかったほどなのだから。
ともかく、現時点では否が応でも喧嘩三昧な日々を送らざるを得ないわけだ。それを不幸に思ったことは何度もあり、今は亡き父親を恨むこともしばしばあったが、退屈しない人生だと考えると、何もかもが最悪というわけではなかった。事実、幼少の頃から強制的にやらされていた柔道や剣道などは父親の死とともにやらなくなったが、キックボクシングだけは続けており、父亡き後、自分の意志で柔術も習っている。
こういった、言ってしまえば総合格闘家を目指しているような少年時代を過ごしたことこそが、楯村武斗の圧倒的な強さの秘密であることは周知の事実。だからこそ、我こそはという馬鹿な連中が次から次へとやってくるのだった。
一週間ぶりの母校、私立駒井沢高校に着いたときには、四時間目が始まって間もない時間となっていた。ここへ来る途中、休むべきだったかなと何度も思っていたのだが、学校に着いてさらに強く思った。だが、ここで引き返してしまったらそれこそ無駄骨。
「ま、慎二の顔を見に来たと思えばいいか」
武斗は苦笑いを浮かべながらそう自分を納得させて、校舎へと入っていった。
校舎内は、ときおり教師の声がかすかに聞こえてきたりはしたが、静かなものだった。授業中なのだから当然のことなのだが、どうにも、何かがいつもと違うような気がしてならなかった。その違和感は、三階の教室へと階段を上り始めた頃に肌をナメ始め、足を進めるのに合わせて少しずつ増していく。
謹慎明けだからそう感じるのかとも思ったが、それが理由でないことは思った本人も分かっている。ましてや、授業中の教室に入ることに緊張してきているわけでもない。謹慎処分は何度も経験しているし、授業中の教室に入ることも、高校に入ってからは減ったが、これまでの学生生活の中においては何度も経験している。
ならば、何がおかしいというのか。
少しずつ強くなる違和感に、武斗の背中がじっとりと汗ばみ始める。たった一人で大勢の敵を相手にした時でさえかいたことのない、嫌な汗。
「なんだってんだよ……」
今まで経験したことのない類の汗に、不安のようなものが言葉となって口に出る。そして三階の廊下を歩く頃には、表情を険しくし、僅かだが額に汗を浮かばせていた。
足取りが少しずつ重く感じる中、武斗は、二年一組と書かれたプレートが掛けられた自分の教室の前までやってきた。ここに至り、違和感の源がこの教室にあることは肌で感じ取っていた。しかもその違和感は、最初感じたものよりも遙かに大きく成長し、異様なプレッシャーとなって武斗の耳にノイズを流し込み、首をじりじりと絞めつけている。
無意識の中で、武斗はごくりと唾を飲み込む。
体中で警鐘が鳴っているような気がしてならなかったが、それでも教室のドアに手を掛けた。そして、いったん躊躇して手を止めた後、覚悟を決めて勢いよく戸を開け放った。
次の瞬間、吸い寄せられるように向けた視線の先から禍々しい圧倒的な力が押し寄せ、一瞬にして、自分の脳が噛み砕かれたような感覚に、武斗のすべてが硬直した。