沈黙と嘘
神社のすぐ近くで、ちょうど戻ってきたところの照臣と遭遇した紗夜は、なぜこのような時間にと聞かれ、少し具合が悪くなったから早退したと嘘を付き、そのまま神社へと向かった。そして、紗夜は鳥居の下の武斗を見ると、自分が正しかったことを知り、同時に、どうして武斗がここに来たのかその理由を知りたいと思った。しかし、武斗の驚いた表情を見て、その理由は教えてもらえないだろうと思っていた。
武斗は紗夜を凝視した後、すぐに表情を変えて、敵意さえ感じる鋭い視線を紗夜の隣にいる照臣に向ける。その眼光に、照臣は眉一つ動かさなかったが、ちとせと紗夜はさすがに怯んでいた。
「ちょっとツラ貸せ。あんたに聞きたいことがある」
「私には、お前に言うべきことは何もないが?」
照臣の答えに、武斗は照臣だけを見据えながら、その場で立ち止まっている三人の元へ歩み寄る。
「そうやってまた俺に隠すつもりか? 俺が何も知らないとでも思ってんのか? 俺が、何も見てないとでも思ってんのかよ!」
「言ってる意味がわからんな」
「そうやってあんたは、今まで俺に黙ってたってわけだ。俺に、何も教えなかったわけだ……。だったら、力ずくで言わせてやるよ。もう、ガキの頃の俺じゃねえんだ!」武斗はそう言うと、抵抗を見せない照臣の胸倉に掴みかかり、睨み付ける。この状況に、紗夜が「楯村くん! やめて!」と割って入り、武斗の手をほどこうとした。
「邪魔だ!」
「駄目! お願いだから止めて!」
「邪魔だっつってんだろ! いい加減に――」激高していた武斗は、思わず照臣を掴んでいた腕の一方を離し、紗夜を払い除けようとした。その瞬間、無抵抗だった照臣が武斗のその腕を、予知していたかのように表情を変えず素早く取り、紗夜の顔の前でそれを止めた。
腕を取られたことで武斗は我に返ると、目をつむっている紗夜に気付き、自分が今しようとしていたことにぎりっと奥歯をかむ。消えぬ照臣への怒りと自分に対する怒りで顔を歪ませて。
「まったく。困ったヤツだ」
照臣のその言葉に武斗は拳を強く握り絞めると、苦々しげな思いで乱暴にその手をほどき、胸倉を掴んでいた手も乱暴に放した。この様子に、ちとせはぐったりと体を丸めて深い深い安堵のため息を落とし、紗夜も小さくため息をついた。ただ、これで全て解決したというわけではない。
武斗は、依然と不安な顔をしている紗夜をちらりと見ると、照臣をまっすぐ見据え、努めて冷たく落ち着いた声で言う。
「本殿に来い」
「好きにしなさい」
それはつまり、“勝手にすればいい。ただし自分はそこに行くつもりはない”という意味。
「……好きにしてやるさ。あんたが来るまでな。ここで親父を待ってたように」
武斗はそう言と、ぎろりと紗夜に視線だけ向けて「今度また邪魔するような真似しやがったら、本気でぶっ殺すぞ」と脅し、神社の本殿へと歩いていった。そんな武斗の後ろ姿をじっと見つめながら、照臣は「やれやれ」とため息をこぼし、射すくめられた紗夜と怯え震えているちとせに「怖い思いをさせてしまったね。すまないね」と謝った。
「とりあえず家に上がって、気持ちを落ち着かせなさい。あとで美味しいものでも部屋に持って行くから」
「叔父様……」
「なに。心配はいらん。すぐに済む」
照臣は笑いながらそう言って、本殿へと歩いていった。残された二人はしばらくそこに立ち尽くしていたのだが、盛大な安堵のため息をちとせがつくと、緊張に包まれた空気がようやく解けた。
「……どうなることかと思ったあ〜。御子杜さん、大丈夫?」
「あ、はい……」
「しっかしあいつ、ほんっと狂犬ね。ね? 分かったでしょ? あれが楯村武斗なのよ。平気で掴みかかったり殴りかかったり。ましてや御子杜さんにまで手を挙げて。あんなのが優しいわけないでしょ? ただの野蛮人なのよ。あいつは」
ちとせは自慢げにまくし立て、紗夜の武斗に対する見解をひっくり返そうとする。しかし、紗夜の耳にはそれらの言葉はほとんど入っていない。ちゃんと聞いていたとしても紗夜の見解が覆ることはなかっただろうが、それよりも、武斗があそこまで怒っていた理由はいったい何だったのかが、紗夜には気になってしかたなかった。
それともう一つ。武斗の口ぶりから、武斗と照臣は見ず知らずの赤の他人ではなく、武斗が子供の頃からの知った仲であろうということ。
「ちょっと御子杜さん、聞いてる?」
「え……? あ、ごめんなさい」
「……。まあ、あいつにあんな真似されたら、誰だってそうなるわよね。とりあえず、おじさんの言ってたとおり、御子杜さんの部屋で休もう?」
「そう、ですね……」
紗夜はそう答えると、二人で何を話すのか知りたいという感情を抑え、何度か本殿に視線を向けながら、ちとせと母屋に入っていった。
とても大きく立派な造りの本殿には、丈が三メートル近くある御神像が納められている。幼い頃、はじめてこの御神像を見せられたときはその大きさに驚き、圧倒され、泣きそうになったことを、武斗は今でもはっきり覚えている。それからしばらくは、武斗はこの本殿に近付くのが怖くて堪らなかった。
当然、今ではそのようなことはないが、自分の心の中を見透かされているような感覚は依然としてある。照臣から聞き出す場所をこの本殿に指定したのは、照臣に、神主であるお前がこの御神像の前で嘘など付くなよ、というメッセージを込めてのもの。このメッセージに照臣がどう答えるかは、武斗にも分からなかったが。
本殿の正面扉を少しだけ開け、中に入るとその扉を閉め、すでに中で待っていた武斗に照臣は「あまり感心せんな。あのような振る舞いは」と小言を言った。対して武斗は、唸るように返す。
「あんたがバックレようとするからだろうが」
「本当のことを言ったまでだ。お前に言わなければならないことなど、一つもない」
「てめえ、いい加減にしろや! あんたは知ってんだろ、化け物のことを! 俺の知らないことを! それに、御子杜のことも!」
照臣はその問いに、目を細めて武斗を見据えたまま答えない。その表情が、秘密を貫こうとするものではなく、武斗を小馬鹿にしようとしているものでもないことは、武斗も分かっている。故に、武斗は照臣の次の言葉を、力で吐き出させたい思いを必死に抑えながら待った。
そして、ようやく照臣が出した言葉は、「知ってどうする?」という、答えではなく武斗への問いかけだった。これは武斗にとって予想外のもので、思わず、その答えに言葉を詰まらせた。
「知ったところで、お前はどうする?」
「どうって……」
「お前には関係のないことだ。関係がなければ、知る必要などどこにもない。お前に話す必要もない。違うか?」
「な……、んだと……?」
照臣の再度の問いに、武斗は呻くようにその言葉を噛みしめ、自問自答するその様子を照臣は黙って見つめる。
確かに、知ったところでそれが何になるというのか。知って、自分はどうしようというのか。知ったところで何もしなければ、何も出来なければ、知る意味はないのかもしれない。だが、それは違う。知ったところで仕方がないから知る必要はない、というのは、ただの屁理屈だ。
知った後が重要なのではなく、まず知ることが重要なのであって、その後のことなど知ってから考えればいい。知ることを放棄することこそ、愚者の選択だ。
それに、いずれにしろもう無関係ではない。
「ふざけたこと言ってんじゃねえよ。関係ねえだと? 化け物同士の戦いを見ちまって、その場に御子杜がいて、はい無関係ですなんて、言うわけねえだろ! アレはいったい何だ! 御子杜に何をした! 何を隠してやがる!」
武斗はそう怒鳴ると、照臣の出方を待った。そして照臣は、ゆっくりと目を閉じて「言いたいことは、それで終わりか?」とまたも尋ねてきた。
「て、てめえ……、いつまでも、調子こいてんじゃねえ!」
我慢の限界をぎりぎりで彷徨っていた武斗だったが、ついにその限界を超えてしまった。激しい怒りが全身を打ち振るわせ、異常なまでに体が熱くなる。沸騰した血液は脳を焼き、心臓を肥大化させ、理性というものが崩壊していく。怒りと憎しみの激情が、武斗を真っ黒く、そして真っ赤に染め上げていく。
これほどの激情は今まで経験したことのないもの。その未経験の激情に飲まれ、自分が自分ではない存在のような感覚をうっすらと感じながら、目の前の男を殺してしまいそうな勢いで足を一歩進める。
とその時、照臣が「馬鹿者が!」と一喝した。
途端、激情に飲み込まれていた武斗の意識は目を覚まし、今し方の感覚に驚きながらも、照臣を睨み続ける。その様子に照臣はため息を一つ落とすと、今度は静かな声で尋ねた。
「化け物が常識の中の存在だと思うか?」
「思えるわけねえだろ!」
「つまりそういうことだ。それと――」
「答えになってねえ!」
「それと、紗夜はお前にとってどういう存在だ」
「だからはぐらかすんじゃねえって言ってんだろ!」
「お前にとってどういう存在かと聞いておるのだ」
武斗の言い分など聞く耳を持たぬ照臣に、武斗は「大事なダチだ!」と答える。すると照臣は「なるほど。ならば、これ以上話すことはないな」と言って、これで話は終わりと本殿を出ようと歩き出した。
「な……、ちょっと待て! まだ話は終わってねえだろ!」
「聞こえなかったのか? もう話すことはないと言っただろう?」
「ああそうか、だったら、力ずくで喋らせるまでだ!」
「お前は本気で、私が力に屈すると考えているのか? だとしたら、随分と見くびられたものだ」
「余裕こいてんじゃねえぞ? だったら試してみようじゃねえか」
武斗はそう言って、再び足を進める。その姿を見ながら、照臣は一つため息をつくと、ぼそりと武斗に向かって呟いた。
「まったく。お前も随分と父親に似てきたものだな」
その一言は、武斗にとってこれ以上ない言葉だった。
父親のことは好きではなかったが、大嫌いではなかった。ただ、父親のような人間になりたいとは思わなかった。そんな武斗にとって、何よりも言われたくない言葉が、まさにそれであった。
武斗の心に、今の自分への激しい怒りと悔しさが吹き荒れ、もはや、何もすることが出来なくなっていた。