駒井沢戦線異状あり 前編
黙々と手早くきれいに食器を洗っていく武斗の後ろ姿が、紗夜には驚きだった。それはそうだろう。周囲からの洗脳によって、武斗に対するイメージは暴力以外にはなかったのだから。なお、巻野と利根林は食事が終わると早々に自分たちの部屋に戻っていった。
紗夜は今、武斗の背中を眺めながら座っている。食事を用意してもらったお礼にと、自分が食器を洗うと申し出たのだが、客に皿を洗わせるわけにはいかないと断られてしまった。そしてそんな武斗の態度に、巻野の言った言葉が少し理解できた気がした。
ただし、だからといって気軽に声を掛けられるようになれるわけではない。武斗に対する怖いという印象は、そう簡単に拭えるものではないのだから。故に、もじもじと所在なさげに座っていることしか出来ず、重い雰囲気に絶えかね、部屋の中をちらちらと観察した。
一方武斗は、洗い物の時間を使って頭の中を整理していた。紗夜に聞くべきこととその優先順位。そして、この場で聞けることと聞けないことの区分。
しかし、それらをきっちり考えたところで、どこまで回答を得られるかはかなり疑問だった。
自宅に電話を掛け終えて部屋に戻ってきた紗夜は、巻野に「どうだった?」と聞かれ、最初は戸惑っていた様子だったが、電話の内容を躊躇いがちに話し、それら一切に身に覚えがなく、昨夜のことはまったく覚えていないと力なく言った。
「それって、一時的に忘れちゃってるだけよ。道に倒れてたっていうのも、実はコンサート帰りにお酒飲んで、道端で寝てただけかもよ? そっか。実はこうなんじゃない? コンサート帰りに友達と一緒にお酒飲んで、酔っぱらって道歩いてたら転んで頭打ってそのまま寝ちゃって、友達も酔っぱらってたから、紗夜ちゃんを見捨てて帰っちゃったとか。で、道で寝てた紗夜ちゃんをタケちゃんがたまたま見つけた、と。記憶がないのも、頭を打ったせいよ」
得意げに自分の推理を話す巻野の説明に、紗夜は釈然としない面持ちで「でも、私が電話したっていうのは……」と尋ねる。
「寝ぼけたまま電話したんでしょ。それを忘れちゃっただけよ。寝ぼけてる時って、自分でもなに言うか分からないもんでしょ?」
「でも……」
「きっとそうよ。ねえ、おじいちゃん」
「そうだねえ。それが一番自然だねえ。武斗くんはどう思う?」
利根林に話を振られた武斗は、まさかこの場で、昨夜の出来事を話すわけにもいかないし、話したところで信じてもらえるとは到底思えないので、「そうだな。俺もそんなトコだと思う」と同意する。
三人にこのように言われると、やはり紗夜としては納得できなかったが、これ以上この話題で食卓の雰囲気を悪くさせては申し訳ないと思い、「そう、ですよね。きっと」と小さく笑った。
といったやり取りがあり、実際問題、昨夜の件については、なぜあの場にいたのか、あの場で何があったのかをまるで覚えていなければ、答えを得られるはずもなく、質問は無意味だ。ただしその前提として、紗夜がわざと忘れた振りをして昨夜のことを誤魔化そうとしていない、という条件がある。
彼女の表情などを見る限り、嘘をついていたり演技をしたりしているとは思えない。かといって、それは絶対かと聞かれれば、確証がないのだから自信を持って首を縦に振ることはできないのだが。
すると、そんな武斗の心情を察してか、洗い物も終盤を迎えた武斗に、紗夜が恐る恐るといった面持ちで声を掛けてきた。
「あ、あの……」
「ん? なんだ?」
「先ほどの、話ですけど……」
武斗はこの時、実は嘘をついていました、と言ってくるのかと思った。
「楯村くんも、本当にそう思いますか?」
「マキさんが言ってた、酔っぱらって頭打ってってヤツか?」
「はい……。私、やっぱり違うと思うんです……。そういうんじゃなくて……」
紗夜はそれを説明しようと言葉を探すがなかなか見つからない。そこで武斗は、試しにこう言ってみた。
「化け物と遭遇した、とか?」
この言葉に対する反応次第では、紗夜が嘘をついているかどうか分かるかもしれない。そして紗夜の反応は、武斗の判断を決定づけるものだった。紗夜は、本気で怒った。
「私、真剣なんです! 茶化さないで下さい!」
「わ、悪い……」
「本当に怖いんです……! 最近、なんだかとても怖いんです……」
肩越しに見える紗夜の姿は、本当に怯えたものだった。ただし、部屋に武斗が入ってきたときよりかは幾分怯えていなかったが。
俺は化け物以上かよ――。
昨夜を知る武斗はそんな文句を心の中で呟きつつ、彼女は嘘を付いてないという最終判断を下した。更に言えば、化け物という言葉に対する反応から、彼女は自身の持っている“何か”を知らないのだろういう判断も下した。
初めて紗夜に出会ったときのそれは、昨夜感じたものと異なっていたようだが、根っこは同じような気がした。そして、化け物の存在を否定するということは、彼女は自分のそれの存在を知らないと考えるのが妥当だと思ったからだ。
となると、最早質問することは何もない。昨夜の化け物についても何も知らないのだろうから。
などと、最後のお皿を拭きながら考えていると、紗夜が「ごめんなさい……」と謝ってきた。
「なんでそうなる」
「助けてくれた楯村くんに、八つ当たりしてしまって……。私、酷いですね……」
「そんなんが八つ当たりってんなら、世の中全部が八つ当たりになっちまうって。お前がそんだけ不安になるのは当たり前のことだし、冷静に分析される方がよっぽど気持ち悪りいってもんだ」
「……ありがとう」
「ったく、礼を言う場面じゃねえだろが」武斗は鼻を鳴らしてそう言うと、洗い物を終わらせ、紗夜の側に座る。
「とにかくだ、あとでその友達に聞いてみるとか、その友達が誰だか分かんなきゃ、家の人に聞いてみるとかすりゃ、何か分かるだろ。まずはそれからだ」
「はい……。そうします」
「そんな心配すんなって。必要だったら、俺も力になってやっから。その、なんだ、道で拾ってやったついでによ」
器用とは決して言えないこの申し出に、紗夜は「はい。その時は、よろしくお願いします」とにこりと答えつつ、巻野が言っていた、武斗の不器用な優しさとはこういうことなんだなと思っていた。
「うし。じゃあ気晴らしに、汗でも流しに行くか? 嫌なことは、体動かして汗流してきれいさっぱり忘れるのが一番だからな。あれだろ? お前、友達の家で寝込んでることになってるから、今すぐ帰る必要はないんだろ?」
「はい、それは平気ですが……、どこに行くおつもりなんですか?」
「俺が前に通ってた道場だ」
武斗はそう言って、素手で剣道の真似をした。
「なに、本格的なことをしろって言ってんじゃねえ。竹刀をブン回すだけでも、結構スカッとするもんだぞ。どうだ?」
少しばかり躊躇った紗夜だったが、スカッとする、という誘惑に負け、結局その提案に乗ることにした。そうと決まればと武斗は道場の事務所に電話を掛け、少しばかりお互いの近況報告をした後、これから行っても大丈夫だということを確認した。その最中、電話で話しをしている武斗の顔を、紗夜はずっとこっそり眺めていた。その顔は、散々刷り込まれた悪鬼の如きものではなく、とても穏やかで楽しそうで、学校では一度も見たことのない顔。そして思い返してみると、食事中の武斗も、穏やかとは言い難かったが、どこか楽しそうだった。
これが本当の楯村くんの顔なのかな。
紗夜はそんな風に思いながら、それじゃ道場に行くぞという武斗に「はい」と答え、どうやら元気を取り戻してきたようだなと内心胸を撫で下ろしている武斗と道場へと向かった。
その道すがら、紗夜は感心するように「色んなスポーツをなさってるんですね。他に何をなさるんですか?」と武斗に話し掛けた。過去色々なスポーツをしていたという話はクラスメートから聞いていたが、それらがどこまで本当のことか分からなくなり、確認の意味も込めて聞いてみたのだ。
「まともにやってるのは、今はキックボクシングと柔術だけだな」
「剣道は違うんですか?」
「たまに遊びで行ってっけど。親父が死んでからはまともにやってねえ」
「え……」まさかここで父親の死という言葉が出てくるとは思っても見なかった紗夜は驚き、不用意な質問をしてしまったと「ごめんなさい」と言う。
「お前、ほんと変なところで謝るのな」
「だって……」
「気にすんな。昔の話だ。それに、ろくでもねえ親父だったからな。柔道だの剣道だの空手だのって、物心付いた頃からずっと無理矢理やらされて、しかも厳しいのなんの。しまいにゃ、どんな理由で喧嘩に負けても、絶対に許してくれないんだぜ? ありゃホンマモンの鬼だ。でもまあ、お陰でこんだけ喧嘩に強くなれたんだけどよ」
そう言って笑って見せたのだが、紗夜は申し訳なさそうな顔をしている。こうなると、紗夜は武斗の家族についてもう何も聞けないだろう。それはそれで構わないのだが、変に気を遣うかもしれない。となんとなくそう思い、この際だから母親のこともついでに付け加えておくことにした。話題を考えれば無茶なようだが、後々気まずくならないように言葉を選んで。
「そんな親父の相手させられりゃ、お袋だってさっさと死んじまうのも無理ねえよな。ったく、俺に押しつけるなら、もっと自分で面倒見てから逝けっつんだ」
「……」
「んな顔すんな。別に珍しい話じゃねえんだから。だいたい、親のいないガキなんかいくらでもいるだろ」
「でも……」
「でもも糞もねえ。さっきも言ったけど、ずっと昔の話だ。だから気にすんな。いいな」
そうは言われても、やはり紗夜としては申し訳ない気持ちは捨てられない。
「ったく、なんでお前はそんなに、なんつうか、くそ真面目っつうか大人しいっつうか。もちっとこう、若さを出してだな、があっと声を出してみるとか。だいたい喋り方だって丁寧すぎるだろ」
「それは……、私の父は、言葉遣いとか礼儀とかにすごく厳しい人で……」
「ふうん。んじゃあ、お互い父親には苦労させられた口ってわけだな。って、お前の親父さんはまだ生きてんだろ?」
「……はい。父も母も」
「そっか。じゃあまだまだ親父さんに苦労させられるってわけだ。ま、くじけずがんばれよ」武斗はそう言って笑いながら、紗夜の肩を軽く叩いた。