空白の記憶
「さてと、これで分かってもらえたかな?」
タバコを吹かしながらひとしきり説明し終えた巻野は、同意を求めるように尋ねた。彼女がした説明は、楯村武斗という男について。
「……でも、学校の人たちは」
「ふん。あいつらがタケちゃんの何を知ってるっての。所詮、風評任せの一方的な意見でしょ。こっちは六年の付き合いよ? それとも、あんたは私よりも学校の連中の言葉を信じるっての?」紗夜の言葉に、巻野は少しばかり不機嫌に言う。
「い、いえ……」
「まあ、噂を信じちゃうのも仕方ないけどさ。この町に越してきたばかりだっていうし。ただね、タケちゃんをよく知ってる連中は、絶対にタケちゃんをそんな風には見ないよ。馬鹿で単純で喧嘩っぱやいのはみんなが認めるトコだけど、でも、男にも女にも、卑怯で卑劣な真似は絶対にしない」
「……はい」
その返事は、巻野の迫力に押されての言葉という印象は拭えず、巻野はやれやれと頭をかき、「ま、最終的に決めるのは紗夜ちゃんだけどね」とタバコをもみ消した。
「で、紗夜ちゃんはどうする?」
「え、と……、それは……」
紗夜は返事に少し困った。今ここで決めろという意味の言葉だと思ったからだ。しかし巻野が意図したのは違ったもの。
「言い方が悪かったわね。あなたの分もあるんだけど、ご飯、食べる?」
「え?」
「タケちゃんが紗夜ちゃんのためにって用意したのよ」
「楯村くんが? 私のために?」
「そ。怖い怖い楯村くんが」
「……」わざと意地悪く言う巻野に、紗夜は肩をすくめる。
「あはは。ごめんごめん。私、基本的にエスなのよね〜。ねえ、せっかくだから一緒にご飯食べて、普段のタケちゃんを検証してみたら? そうすれば、あなたなりの意見を持てるんじゃない?」
「それはそうかもしれませんが……、楯村くんとお食事、ですか?」
「そんな心配そうな顔しなくても大丈夫。私も同席するから。なんだったら、利根林のおじいちゃんも呼ぼうか? ああ、利根林のおじいちゃんっていうのは、隣で一人暮らししてるおじいちゃんで、その人もタケちゃんと六年の付き合いなの。よし、そうしよう。そうと決まればおじいちゃんにも声かけてこなくちゃ」巻野はそう言うと、その勢いで隣の部屋へと出て行ってしまった。
残された紗夜は、どうしようと困るしかなかった。信じがたい出来事の連続で、大事なことをすっかりと失念したままで。
どうしたらこういう展開になるんだ。
そもそも、この光景はいったい何なんだ。
武斗は、信じがたい目の前の光景に眉間にしわを寄せてため息を落とした。
「ちょっとタケちゃん、食事中にため息なんてしない。ご飯が不味くなるでしょ」と巻野。利根林も「そうだよ? ご飯は楽しく頂かなくちゃ、栄養にならないからねえ」と言う。
しかし、そうは言われてもこの状況で美味しく食べるのは、武斗には無理だ。それに、武斗の目の前にいる御子杜紗夜も同じだろう。
武斗は今、布団が片付けられた自分の部屋で、巻野と利根林と、そして正面に座っている紗夜の四人で食卓を囲み、食事をしている。昨日の夜から驚くことばかりだったが、武斗にはこれも異常な光景としか表現しようがない。
「この状況で、どうやって美味しく楽しく食えってんだよ」
「おや? ひょっとすると武斗くんは、紗夜さんと二人っきりで食べたかったのかな? いやあ、これは悪いことしたねえ」と利根林。
「そうは言ってねえ!」
この展開に、当然巻野も嬉々として参戦する。
「だから紗夜ちゃんのご飯をわざわざ作ってあげたのね? やるじゃん」
「違うっつってんだろ! 俺はマキさんの部屋で食わせるつもりだったんだ! 俺と食ったって不味くなるだけだろ!」
「ワシは、紗夜さんとここでこうして食べる方が美味しいよ?」
いつものように巻野と利根林に翻弄される武斗は、疲れたように「誰もじいちゃんの意見聞いてねえから……」と突っ込みを入れる。そして、視線を紗夜に向けて言った。
「つか、何でお前も断んねえんだよ」
「ごめんなさい……」
「いや、謝られても困るけどよ……」肩をすくめる紗夜に、内心、扱いづらいとため息をもらしながら、「まあいいや。お前、飯食ったらどうする?」と尋ねた。
「え、もちろん学校に……」
とここで、一つの問題に気が付いた。
「あの、今何時ですか?」
悠長に武斗の部屋でご飯を食べているが、学校に登校するには、当たり前だが一度家に行かなければならない。鞄も何も持たず、着た覚えもないこの服装で学校に行けるはずもないのだから。そして帰ってきた答えは、そんな心配を根底から覆すものだった。
「十一時二十分よ?」と巻野が事も無げに答えた。
「え……?」
あまりにも予想外の時間に、紗夜の思考が一瞬停止する。そんな紗夜に、一同そりゃそうだと頷いていた。そして、そんな彼女に追い打ちをかけるような言葉が飛び出した。
「本当はもう少し早く起こせたんだけど、あんまりにも気持ちよさそうに寝てたから、起こさせなかったんだって。ね、タケちゃん」
「ええっ! あ、あの、それって、楯村くん、私の寝てる顔、見たの?」紗夜は顔を真っ赤にする。それは嫌悪や屈辱といった類のものではなく、純粋に恥ずかしかったからだ。そして武斗も、昨夜の紗夜の寝顔を思い出し、顔を赤くする。
「あ、当たり前だろ。誰がここまで運んでやったと思ってんだよ」
「私、どうしよう……」恥ずかしさのあまり、紗夜の瞳が潤む。
そんな二人を茶化すように、利根林は「青春だねえ」と呟いた。
「どうしようも何も、だからどうすんだよ。家に連絡入れないでいいのか?」
「あ……!」
ここでやっと、紗夜は最も大事な問題に思い至った。昨夜からここにいるということは、無断外泊をしたということ。しかも未だ連絡を入れていない。当然、下宿先の主、神主の八城照臣は心配しているはずだ。
「あの、電話ありますか?」
「飯食い終わってからでもいいんじゃねえか?」と武斗。
「そうはいきません!」
「まあいいけどよ。ほら、俺の使え」
「ありがとうございます」紗夜は両手で受け取るとぺこりと頭を下げ、「すみません。廊下で話してきますので」と皆に断ってから退席し、廊下に出るとすぐに電話を掛ける。その際、何て言えばいいのか頭の中で整理できておらず、とにかく自分は無事で、心配ないということを告げなければならないという一念しかなかった。
しばしの呼び出し音の後、電話の向こうで「はい。八城神社でございます」という照臣の声が聞こえた。紗夜は、しどろもどろで「あ、あの、叔父様? 私です。紗夜です」とどうにか言葉を発した。そして、照臣の心配そうな質問攻めを覚悟しながら、次の言葉を探そうとすると、予想外の言葉が返ってきた。
「おお。紗夜か。どうかしたのかね?」
その言葉に、紗夜の頭の中が混乱する。どうして、何事も問題は起きていないように言うのか。
「え……? あの、私、昨日の夜……無断で外泊してしまって」
「おかしなことを言うね。無断も何も、昨日の夕方、自分で言ってただろう。友達とコンサート見に行って、そのまま友達のところに泊まると」
「そんな……、私、そんなこと言ったの?」
「ああ。しっかり聞いたよ? それに今朝だって、体調崩したから、学校休んで友達の家で休むともね。だから学校には、体調崩したから今日は休みますと連絡しておいたよ。それで、もう体の方は大丈夫なのかね?」
「あ……、はい。大丈夫、です……」
「まあ無理することはない。夕方ぐらいまでそちらでご厄介になって、しっかり休んでおきなさい。それじゃ、お家の方にはちゃんとお礼を言うのだよ?」
「はい、失礼します……」
紗夜は、まるで狐につままれたような気分だった。まったく身に覚えのないことばかり聞かされ、それが事実であるが如く言われてしまった。紗夜自身、どうにも信じがたかったが、照臣が嘘をつくとは思えない。とすれば、彼の言葉は本当で、紗夜が忘れているだけということになる。考えてみれば、武斗の話によると、昨夜道に倒れていたという。
それじゃあ、叔父様の仰ってることは本当で、昨日の夜、私、事故か何かに遭って、それで記憶が飛んでしまって、何も覚えてないっていうの?
照臣の言葉に、紗夜が廊下で突っ立ったまま考えていると、「おい、どうかしたか?」という声がした。声に振り向くと、武斗が部屋から顔を出していた。
「いえ、何でもないです……」
「何でもないってツラにゃ見えねえけどな……」
「……」
「とにかく、んなところに突っ立ってねえで、飯にしろよ」
「あ、あの……」
「ん?」
「いえ、いいです……」
何か言いたそうな紗夜に、実は武斗も聞きたいことがあった。無論、昨夜のことについてだ。どうしてあの場にいたのか。どうして変装をしていたのか。あの化け物たちはいったい何なのか。だが今はそれを聞くタイミングではない。それに、そのような質問をこのアパートの中でするのも問題があるだろう。あまりにも非現実的な要素が含まれているからだ。
だからここは「なら、とっとと食え」と言うしかなかった。
「はい……」
紗夜は、その言葉に大人しく従い、部屋に戻った。