朝日荘へようこそ
夜空の下、武斗は一人の少女を負ぶって歩いていた。自宅のアパートはすぐそこ。古びたその建物も見えている。これで一安心だとほっとため息をついた。
もしも途中で夜警中の警官とでも遭遇してたら、また面倒なことになるのは必至。しかも、喧嘩の度に警察に厄介になっている武斗が、こんな時間にこうして気を失っている女の子を負ぶって歩いていれば、大騒動になるのは確実。下手したら、学校やら生徒やら何やらが一丸となって彼を犯罪者扱いに仕立てかねない。
そう考えると、早いところ自分の身の安全を確保したかった。その手段として、病院に運び、あとは病院に任せるということもちらりと考えたが、やはり一騒動は免れないだろうと止めた。患者を次々と送り込む武斗の名は、当然、病院の間でも有名なのだから。こんな時間に担ぎ込んだとなれば、何事があったのかと警察に連絡し、警官が飛んでくるに決まっている。
ならば、正体がばれないように深夜救急の受付に声を掛け、背中の少女、御子杜紗夜を彼女を置いてその場を去るというのもありだが、それもしなかった。任された、と言われて病院にぽいと置いていくのは、何故か責任放棄のように思えて気が引けたし、もしあの化け物と再び会うことがあり、そのことで散々っぱら侮蔑の言葉を浴びせられでもしたらと思うと、自然と怒りが込み上がってくる。だがそれ以上に、例えそこが何処だろうと、一人で置いていってはいけないような気がしていた。
初めて会ったときのこと。化け物のこと。カツラをかぶり、眼鏡を掛けて変装した紗夜。そして、精気を感じさせなかった、倒れたときの紗夜の顔。
これらを考えると、他人に預けるのは良い判断とはどうも思えない。となると行き先は一つ。
もし彼女の住んでいる家を知っていれば、そこまで連れて行き家族に保護してもらうのが最良だ。当然、その際は彼女の家族とは顔を合わせないようにして。しかしながら武斗は彼女の家を知らない。
ということで、武斗は彼女を負ぶって家に帰ってきたというわけだ。
眠っている住人を起こしてしまわないように慎重に足を運び、自室の鍵を開けて部屋に入る。
「やっと終点だ……」ふうとため息をつき、背中で眠る紗夜を、ちょうど負んぶしたまま座る格好で、壁に寄りかからせるようにして慎重に降ろした。そして紗夜から離れようとしたのだが、武斗につかまっていた彼女の腕は、名残惜しそうにぎゅっと力を入れた。
「いい加減にしてくれよ」早いところ自分も一休みしたい武斗は愚痴をこぼし、ゆっくりと紗夜の手をほどく。その際、彼女の腕の細さに少し驚いた。
「やっぱりこいつ、うさぎだよな……。でも」
その細さに、折ってしまわないかと少しだけ心配しつつ紗夜の腕を解き、彼女を引き剥がすと、ようやくとリラックスした体勢で座ることができた。そして、紗夜の顔をマジマジと見つめる。
「初めてこいつを見た時は、確かに異様なモノを感じたんだよな……」と、武斗はふと、その時の紗夜の表情を思い出した。なんで今までそこに意識が向かなかったのかと不思議に思いながら。
「そういやこいつ、驚いた顔してたな……。人をびびらせておきながら、てめえも一緒にびびるか? フツー」
そうは言うものの、武斗が感じた何かを、彼女が意図して出していなかったとすれば、ドアが開いたときのもの凄い音に驚いただけだと説明できる。ただし、それはそれ。問題なのは、彼女自身がその何かを知っているか、ということだ。
そして、その何かと化け物との関係は――。
「とととっ!」
思考の最中、紗夜の体が横に大きく傾いで、そのままコテンと倒れ掛けた。ただそれだけなら慌てる必要はないのだろうが、倒れる先にCDラジカセがあり、そのまま倒れれば確実に紗夜の頭はそのラジカセの角に直撃する。
「とあっ!」
片足だけ立て膝にして座っていたのが幸いし、咄嗟に膝を立てていた足で畳みを蹴りつつ、ダイブするようにして体を投げ出し両腕を伸ばし、その手のひらで彼女の頭と肩を受け止める。そして頭を受け止めた手はCDラジカセの角すれすれで止まり、彼の顔面は畳みに直撃した。
「……」
この結果に、喜ぶべきか悲しむべきか、武斗はしばしそのままの体勢で悩む。すると、手のひらの上の紗夜の顔が少し動いた。目を覚ましたのかと思い、じんじんと痛む顔面をどうにか持ち上げて様子を伺う。しかし目は閉じられたままで起きた気配はない。それどころか、支えるその手に紗夜はそっと自分の手を添え、心地よさそうに頬ずりをしてきた。
その姿があまりにも可愛らしく、さすがの武斗もドキリとした。しかも、意識し始めた途端、手のひらに伝わる彼女の頬の温もりと、添えられた彼女の手の温もりに、顔を紅潮させる。
「……と、とにかく横にさせねえとな。そうだ……、布団を敷いて、その前にテーブル片付けねえと……。それから……」
動揺した武斗は、あたふたと紗夜を静かに横たわせ、テーブルをかたし、布団を敷くとそこまで運ぶために紗夜を抱き上げる。そして腕の中にいる紗夜の軽さに、改めて、彼女がとても脆い存在に思えた。まるで、繊細に作られたガラス細工のように。
腕に伝わる彼女の温もりに動揺する自分をどうにか制御しつつ、紗夜を布団に寝かせる。そして抱きかかえていた腕を抜き取ろうとそっと引いたのだが、そのとき、肩を抱いていた武斗の腕を、紗夜は追うようにして捕まえた。
「え……」と、戸惑いの声を漏らす武斗。
予想していなかった紗夜の行動に武斗が戸惑っていると、紗夜はするすると片手を武斗の手首に、もう片手を手の甲に添え、捕まえた手を引き寄せる。その力はとても弱いモノだったのだが、どう対処すればよいのか分からず、半ば混乱状態の武斗はされるがまま。
そして紗夜は、引き寄せた手のひらを自分の頬に当て、感触を確かめるように頬ずりを数回し、満足げに笑みをうっすらと浮かべると、心地よさそうな寝顔のまま動かなくなった。
「ま、まさか、このまま寝かせろ、なんて言わねえよな……?」
再び感じる紗夜の温もりに心臓をばくばくと言わせながら、手を引っこ抜こうとする。がしかし、本当に寝ているのかと疑いたくなるような力で、逃げるその手を逃すまいと引き留め、頬を押し当てた。どうやら放してくれる気はないらしい。
「勘弁してくれよ……。これじゃ俺が寝れねえじゃねえか……」
武斗は小さな声で抗議する。しかし、満更でもない、という気持ちあった。紗夜の寝顔はとても可愛らしく、そしてそれ以上に、月の光に照らされたその顔はとても美しく思え、実際のところ、しばし見とれてしまっていた。
「慎二の言うとおりだな……。確かに、こいつはとんでもない逸材だ」
だが、武斗にとっては可愛い女の子で終わらせる存在ではない。
今夜のことは、武斗が抱いていた紗夜への疑念を確証へと変えた。
初めて出会ったときの、武斗へのプレッシャーと紗夜の表情のギャップ。化け物の存在。そしてカツラと眼鏡で変装した御子杜紗夜。
何かある。それは確か。その何かとは……。
「ま、起きたら聞けばいいさ。それより問題は、俺が寝れるか、だな」
目の前の美しい少女の寝顔とその温もりに、体は早く寝ろと訴えているにもかかわらず、頭の中は眠ろうとしなかった。
翌日、目を覚ました紗夜は状況を把握するのに必死だった。それはそうだろう。目が覚めたらそこは見たこともない部屋で、そんな場所で、布団の上でぐっすり寝ていました、という状況なのだから。
「な、なに……? 私、どうして……? ここ、どこ?」
などと、自分以外に誰もいないこの部屋の中を布団の上でぐるぐると見回し、状況を把握し整理しようとする。まず目に入ったのが、壁に掛けられた駒井沢高校の男子の制服とボクシングのグローブ。
「男の子の部屋? まさか……!?」
紗夜の脳裏に、とある言葉がよぎる。
楯村武斗に何されるか分からないんだから――。
途端、血の気が引き、何か酷いことをされていないかと自分の体を見る。
「え……? なんで私、こんな服着てるの?」
見覚えのない少し大人びた服を着ている自分に、紗夜は驚いた。もしもこれを着せたのが楯村武斗だとしたら、それはつまり、彼に裸を見られたという可能性が高確率であり、その時に何かされている可能性も……、などと悲観的な思考が次々と紗夜の頭にわき上がっているその最中、ドアがノックされた。
その音に、てっきり武斗がしたものだと思い、びくりと体を震わせて身を縮める。しかし、続いて聞こえた声は女性のものだった。
「もう起きた?」
「え……? あ、の……」
「お。起きたみたいね。入るわよ?」女はそう言うと、答えを待たずにさっさとドアを開けて部屋に入ってきた。それはこのアパートの住人、巻野だった。
「気分はどう? 痛いところとかない?」
「あ、はい。大丈夫です……」
「そ。良かった良かった。じゃあもう起きれる?」
「はい……。でも……」
「ん?」
「あ、あの、ここは何処ですか? どうして私、ここにいるんですか? それにこの服……。それと、貴女は……」
「んーと、とりあえず答えられる質問にだけ答えるね。まず、私は巻野美香。ここは朝日荘っていうボロアパートで、私はここの住人。んで、この部屋はタケちゃんのお家」
「タケちゃん?」
紗夜は、誰?と首をかしげる。
「それと、どうしてあなたがここにいるかと言うと、道に倒れていたあなたを、タケちゃんが負ぶって運んできたから」
「倒れていた? 私が、ですか?」
とそこに、男性の声が廊下から聞こえてきた。その声が誰のものかすぐには分からなかったが、その声の主に思い当たったとき、紗夜はまたもびくりと体を震わせ、先ほど以上に怯え身を更に縮める。
「マキさん、あいつ起きたのか?」
その声に、巻野は部屋へとやってきた武斗に顔を向け「うん。起きてるよ。体の方は大丈夫だって。良かったね」と答える。そして再び顔を紗夜に向けると、不思議そうに尋ねた。
「どうしたの?」
そして「どうかしたんスか?」と、左頬に一筋の切り傷をつけた武斗が部屋に顔を出すと、紗夜は思わず震える声で「イヤ……」と、完全に怯えきった様子で呻いた。しかもその瞳には、うっすらと涙を浮かべている。
「イヤ、だってさ」巻野は、そんな紗夜の様子に笑いながら武斗に言う。
「わざわざ言わんでいいっス」
「あんた、この子に何かしたの? 話によっちゃあ、あんたの金玉引っこ抜くよ?」
「だから笑顔で恐ろしいこと言うなって。それに、俺がここらで恐れられてることぐらい、マキさんも知ってるだろうが」
「そりゃまあねえ。んで、この子は誰なんだい? タケちゃんのコレかい?」
「なわけあるか。こいつは俺と同じクラスのヤツで、……だからこんだけ怯えてんだよ」武斗は紗夜の名前を出そうとしたのだが、危険を察知してわざと誤魔化す。しかし、そんな彼の心の内など、巻野にはすっかりバレていた。紗夜の顔立ちとクラスメートというキーワードがあれば答えは簡単。
「ほほう。つまり、この子が噂の紗夜ちゃんね? あんたが大好きな」
「と待てえ! だからそれは誤解だって言ってんだろ!」
「隠すな隠すな、少年」
「頼むかもう出てってくれ! 話が進まなくなる!」
「ふうん。私は別にいいけどさ。じゃあ、あそこであ〜んなに怯えてる可哀想な紗夜ちゃんを、誰がなだめるのかなあ? ひょっとして、あんたがなだめるつもりなのかなあ? んん?」巻野は、勝ち誇ったようににんまりと笑った。