真実の欠片
武斗の目の前で繰り広げられている二つの黒い異形のモノの戦いはとても激しく、そして異様なものだった。
狼の如きモノは、背中と側腹部の表面を自在に変形伸縮させ、大剣のような形状のものを複数突き出し、それを武器として相手に襲いかかり、また防具として身を守り、時に相手を咬み千切らんと直接襲いかかる。
対するもう一方の黒きモノは、常にその体型をぐにゃりぐにゃりと変形させながら、体からのびる無数の触手らしきものを使って攻撃し、守っている。
そして、両方とも重力を完全に無視した動きをしていた。狼の如きモノは壁や天井に平然とその身をとどめたり、もう一方も、自重でバランスなどとれないだろうという形状や姿勢でも倒れないでいる。
まさに、目に映るモノすべてが非現実的で、デタラメだった。
理解の域を遙かに超えた世界における戦いに、武斗はただただその勝敗の行方を立ちすくんで見つめるしかなかく、他には何も見えていなかった。武斗よりもずっと近い場所でこの戦いの前に突っ立っている、赤茶色の髪の女のことも。
戦いは、初めの頃は優劣つけづらかった。互いに攻め、互いに守り、互いに決め手を欠き、一進一退の攻防という様相だった。しかし、狼の如きモノの攻撃が相手の触手の数を減らし始めると、すぐにパワーバランスが崩壊していった。
触手の数は瞬く間に減り、巨大無定型生物の如きモノはさらに忙しなく変形し、相手の攻撃をかわすので精一杯になっていく。やがて狼の如きモノの動きについていけなくなると、本体が切り刻まれていった。
もはや勝機を失い目の前に敗北の文字が見えているであろう無定型生物の如きモノは、その体を大きく反らすと、壁面に立つ狼の如きモノを押し潰そうと体当たりを敢行する。それはどう見ても自殺行為。狼の如きモノは、串刺しにしてトドメを差そうと考えているのか、真紅の瞳を細めて身構える。
これで勝負は決まった、と思えた瞬間、無定型生物の如きモノは、丸めていた紙を一瞬で広げるように、その全身を薄い円盤状に広げた。虚を突かれたらしい狼の如きモノは、狙うべき場所を見失ったのか一瞬動きが止まる。そしてその隙を突く格好で、円盤中央の触手を狼の如きモノめがけて突き立てながら、覆い被さった。
まさかの逆転劇。敗北寸前だった無定型生物の如きモノは狼の如きモノを包み込み、その中で相手を噛み砕いているのだろうか、激しくうねる水面のように全身を波立たせる。それはまるで、餌を捕食したアメーバが、嬉々と蠢きながら消化していくような光景で、武斗は吐き気に似た息を飲んだ。
これで勝敗は決した。そして、この勝者が次にすることは――。
そのことに武斗が思い至った時、勝者に異変が起きた。
波打つその体から、大剣の刃のような数本の突起物が突き出てきた。その形状は、この戦いにおいて見覚えのある形をしている。無定型生物の如きモノは突起物の出現とともに動きがぴたりと止まると、突起が縦横無尽に走り出し、その動きに合わせ肉片が刻み取られ、ぼたぼたと地面に剥がれ落ちていく。
瞬く間に、地面はどろりとした黒い肉片に埋め尽くされていく。そして円盤状のその体が半分ほどになったところで、残っていた全てがずるりと壁面から剥がれ落ち、狼の如きモノだけがそこに残った。その姿はまるで、何事もなかったかのように悠然としていた。
どうやら捕食されていたのではなく、内部で触手を切り落とし、相手の体を切り刻んでいたのだ。
想像を絶する、壮絶で凄惨な戦い。
そして、人智を越えた、まったくの異世界の戦い。
その戦いが今度こそ完全に終わった。この次に待っているのは――。
地面に落ちた肉片が、ちりちりと灰になり霧散していく中、狼の如きモノは、真っ赤な双眸をゆっくりと武斗に向けた。武斗は、唇から血を滴らせるほど歯を食いしばり、震える足で必死に踏ん張る。その目が、次はお前だと言っていると感じたからだ。
しかし、それは間違いだった。お前は最後に取っておく、という意味だったようだ。狼の如きモノは消えゆく敵の上に軽々と降りると、双眸を武斗ではなく、武斗の十メートル先で依然として突っ立ったままの女へ向け、ゆっくりと近付き始めた。
それを見て、それまで威圧され臆していた武斗が嘘のように猛然と動き出した。女の方へ走り出すときに視界の隅にとらえた空き缶を拾い上げると「お前の相手は俺だ!」と渾身の力で投げ、間髪入れず、女の側に置いてあった資材の鉄パイプを一本拾い、女の前に立ちそれを構えた。この一連の動作は、自分でも信じられないほど迷いがなく、素早くて正確なもだった。
今、女は武斗の後ろに、そして狼の如きモノは前方で足を止めて見つめている。
正直、自分が目の前の化け物を倒せるとは思っていない。今し方の戦いを思い起こせば、人間が太刀打ちできる相手でないことは考えずとも分かる。だがそれでも、僅かばかりでも時間稼ぎなら出来るかもしれない。後ろの女性が逃げるだけの時間を。
「早く逃げろ!」武斗は前方を見据えながら叫ぶ。しかし女が逃げ出す様子はなく、再度「何やってんだ! 早く!」と言うが、やはり反応がない。
つい先ほどまでの自分同様、足がすくんで動くことも喋ることも出来ないでいるのかもしれない。そう考えると、武斗は「どうすんだよ」と呻くしかなかった。
彼女が自力で走れるのであれば、自分が囮になってその隙に、とできるのだが、動けない彼女を助けるとなると、目の前の狼の如きモノを倒す以外に道はない。彼女を連れて逃げ切れるとは到底思えないからだ。しかし、武斗が勝つ可能性はゼロと言っても過言ではない。となれば、このままでは結末は一つしかない。武斗が殺され、女も殺されるという最低最悪の結末しか。
「……犬死にだけは、絶対にご免だ」
この絶望的状況に、とにかく無理矢理にでも女を走れるようにさせなければならないと考えた。しかし、恐らく今の彼女には視覚や聴覚への刺激は意味をなさない。事実、彼女の前に立ち、声を張り上げて呼びかけても何も変わらないのだから。残されているのは触覚。つまり彼女に直接触れて、どうにか正気に戻すということ。
ただし、その為には彼女に触れられる場所に移動しなければならない。武斗は、前方を見据えたまま彼女の隣へじりじりと後退し始める。もどかしくはあるが、強い敵を相手にしたとき、常に相手を視界の中に置いておくのが鉄則。化け物相手なら尚更、視線を外すのは自殺行為だ。
そして、武斗はどうにか彼女のすぐ隣まで後退することが出来た。その間、武斗の身長と同じぐらいの背丈の狼の如きモノは、じっとその様子を眺めていたのだが、武斗にはその表情が、舌なめずりをしながら見下し笑っているように見えた。それが堪らなく悔しく腹立たしかったが、今はそれどころではない。武斗は左手で隣の女の右肩をつかみ、「しっかりしろ」と言いながら数回揺すった。すると――。
女はぐらりと大きく揺れ、後方に大きく傾き倒れ掛ける。咄嗟に、つかんでいた手に力を込めて引き戻そうとするが、それでも体をくの字にしてストンと倒れようとする彼女に、思わず顔を向けて、持っていた鉄パイプを放して前から抱き留め、すんでのところで後頭部を強打させずに済んだ。だがそれは、鉄則を破っての行為。
そのことをすっかり忘れたまま、武斗は彼女の表情に言葉を失った。
その表情は、シャギーがかった髪と眼鏡でその多くが隠されていたが、恐怖で怯えていたり、愕然としたものとは異なり、目を開けたまま無表情に気を失っているようで、瞳からは生気が感じられない。
まさか、すでに死んでいるのか?
武斗の頭にそんな考えがよぎる。その瞬間、何か楽しそうな、男性的で変に歪んだ声が聞こえた。狼の如きモノのいる方から。
「なってないな」
その声に、武斗は慌てて振り向く。その狭間、化け物から伸びてきた鋭い刃が彼の頬をかすめ、一筋の赤い線が引かれると、そこから一筋の血がすうっと流れ出した。
傷口は浅いものだったが、もし、あと少しでも横にずれていたら……。
武斗の顔から一瞬血の気が引く。
「いずれにしろ結果は変わらんが」
「……だ、誰だ! どこに隠れてやがる!」武斗は狼の如きモノの周囲に目を走らせた。
「お前の目の前にいるだろう。どこに目を付けている」
「目の前って……」まさか、という表情で、狼の如きモノを見つめた。すると、真っ赤な瞳が笑った。声の主はいかにも自分であると主張するように。
「バ、化け物が、喋った……?」信じられない、といった驚きの表情で武斗が呻く。
その言葉が気に入らなかったようで、狼の如きモノは不機嫌そうに目を細める。次の瞬間、瞼を閉じる暇もなく鋭い槍が武斗めがけて伸び、額のすぐ手前で止まった。
「口を慎め」
静かに一喝する化け物の言葉と目の前の尖端に、武斗は「う……」と怯む。
「と言いたいところだが……。貴様、本当に何も聞かされていないのか?」
「な、なに言ってんだ、こいつ……」
「どうやら本当に何も知らないようだな……。まあいい。どのみち我には関係のないことだ」
「どういう意味だ!」
「知りたければ自分で調べろ。さて、今日は店じまいにするか」そう言うと、伸ばしていた武器を元に戻し、踵を返して武斗たちから去ろうとする。
「……俺たちを、殺さないのか?」
「殺して欲しいのなら、望みどおり殺してやるが?」化け物は振り返り、にやりと笑みを浮かべる。
「ククッ。なかなかに愉快な夜だ。その愉快ついでに、そいつのことは貴様に任せるとするか」
「ま、任せるって……。って、なんなんだ! てめえは一体……!」
「口を慎めと言っただろう?」
そして化け物は、のそりのそりと闇夜に溶け、消えていった。トンネルの中は武斗と赤茶色の髪の女だけとなり、二つの化け物がいなくなったことで、武斗は緊張と恐怖から解放されるとがくんと力が抜け落ち、抱きかかえたままの女を落としてしまわないようしつつ、尻餅をついた。
先ほどまでの異常に満ちていたトンネル内はしんと静まりかえり、半ば覚悟していた死が、今はもうどこにもない。それらを証明するものは、今は武斗の深い呼吸音と打ち鳴る動悸、そして小刻みに震えている体だけとなった。
「たす……かったのか? それとも、助けてくれたのか?」
いずれにしろ、死は免れた。だが、それを手放しで喜ぶ気にはなれない。
化け物の、何も聞かされていないのか、という言葉。
「何を聞いてないっつんだよ……、クソ」武斗はそう言って、腕の中の女を見る。
その表情は先ほどと異なり、すやすやと心地よく眠っているよう。目はいつの間にか閉じられており、彼女の体から体温が感じられ、心臓も動いており、呼吸もしっかりしている。見たところ外傷もない。
ひとまずの心配はこれで取り除かれ、ほっとため息をつくと「任されたって困るぞ」と顔をしかめる。
「俺にどうしろってんだ。……おい、起きろ。もう大丈夫だぞ」
試しに声を掛けて軽く体を揺さぶってみたが、起きる気配はない。と、武斗はとあることに気付いた。まず一つは、女の髪はカツラで、地毛は黒髪だということ。揺すったことによって少しズレて、それで気が付いたのだ。そしてもう一つ。眼鏡を掛けているから気付かなかったが、ある人物と似た顔立ちをしているのだ。
「……まさか、な」
武斗は、いったん躊躇した後、彼女をよこたわせ、眼鏡を外し、カツラを取った。そして、自分の予想が当たっていたことを知る。
「御子杜、紗夜……」