プロローグ
金曜日の夜とあって、繁華街は若者やサラリーマンなどでとても賑わっていた。浮かれ、騒ぎ、酔っぱらい、ささやかな快楽に身を投じる者たちがあちらこちらで溺れ、その様子を色取り取りのネオンや行き交う者たちの喧噪、店内から漏れる音楽などが引き立てている。
ここには、恐怖という文字はどこにも見当たらない。
しかし――。
完全に酔っぱらった若いサラリーマンが一人、人々で賑わう大通りから外れ、人通りの少ない道へと入っていく。別に、その先に彼が行きたい場所があるわけではない。ただ単に、ふらつく足の赴くままに歩いているだけで、上下左右の判断さえもおぼつかない男の意識は、無秩序にゆらゆらと揺れる風景をぼんやりと認識するにとどまっている。
ときおり、男はバランスを崩し転びそうになった。その都度、危ういところで転倒を免れていたのだが、人通りの全くない、薄暗い路地裏でついに転んでしまった。
酔いですっかり痛覚を失っていた男はその場に座り込み、周囲を見回す。すると、後ろでゴミ箱が倒れ、中のゴミが路上に散らばっていた。男は、路地の端に置いてあったゴミ箱にぶつかり、そのまま転倒してしまったのだ。だがその事実を彼が覚えているはずもなく、「こんな所にゴミ撒くんじゃねえ!」と怒鳴った。
「ったくよお、ゴミはゴミ箱に入れとけってんだ!」
男はそう言うと、手のひらをはたいた。そして、そこでようやく、転んだ際に擦りむき、両の手のひらが血をにじませていることに気付いた。
「おい! どうしてくれんだ! 血だぞ! こんなに血が出てるぞ!」
男は散乱するゴミに向かって怒った。当然、ゴミが反論するはずもない。
「あとで慰謝料もらうからな!」
捨て台詞を吐くように言い捨てると、男はぶつくさと文句を呟きながらも上着のポケットからたばこをライターを取り出し、その場で一服し始めた。たばこの煙はゆらゆらと宙に上り、すぐに闇に消える。その様子をぼんやりと眺めながら一本目を吸い終えると、その吸い殻を投げ捨て、何の気なしにその行方を追った。と、数メートル離れた先に自分の鞄が転がっているのが目に入った。
「誰だあ! 俺の鞄を捨てたやつはあ! 高かったんだぞお!」
男は再び怒鳴ると、やはり文句を言いながら、起き上がろうと右手をついた。だが、支えになるはずの手のひらはずるりと滑った。反射的に右肘をつき、完全に体勢を崩してしまうのを回避すると、再び「ちっくしょお! なめてんじゃねえぞ!」と悪態をつきながら、今しようとしていたことをすっかり忘れて再び座り込む格好に戻る。そして、膝に手を置こうとしたのだが、あるはずの場所に膝はなく、そもそも両足の膝もその先も見当たらなかった。
「ん〜?」
状況を理解できない男は首をかしげ、ふと、右の手のひらを見た。
手のひらから肘にかけて、どす黒い赤のペンキをべっとりと塗ったように塗れている。
と、前方から突然ぼとりという鈍い音がした。その方に目を動かすと、少し離れた場所に、男が着ている背広と同じ色の布に包まれた太い棒きれが転がっていた。その棒きれの片端には革靴がくっついており、もう片端は、赤黒い液体をどろどろと流し出している。
それは、人間の片足。
「あれ?」
目の前に転がるものが何なのか、ぼんやりとだが理解した男から、間の抜けた声が落ちる。そして次の瞬間、歪な形をした黒い大きな固まりが、男のすぐ目の前に現れた。しかもその固まりには、もう一方の足がぶら下がっている。
異様な光景に、男の瞳孔が開く。
固まりは、そんな男の様子を楽しむかのように、ぶら下げていた足をズルズルと飲み込み、血に染まる鋭い歯牙をぞろりと見せた。
男は圧倒的な恐怖に飲み込まれ、悲鳴を上げることすらできず、一口で固まりに食われた。
恐らく、しばらくは話が見えないと思いますが、見捨てずに読み続けてもらえたら有り難いです。