Balm cricket shower (蝉時雨)
新谷達は、前日の八幡空襲への迎撃に全力出撃していおり、24機出撃して10機が未帰還であった。
そして、どの機体も損傷を受けており、燃料もほとんどなく敵機がきても邀撃に揚がるだけの余力なくそれぞれが休養を取っていた。一部の隊員は近くの山に訓練と称して登っていた。
新谷は、昨日の出撃で被弾した機体の整備をしていた。
誉発動機は、完熟されたのか不調なく回っていた。
潤滑油を変えて、機銃のバネの調整と照準器との角度を調整していた。
脚の油圧がややおかしいので、脚を見るとパッキンから洩れていた。
部品どりの機体からバッキンをとり変えたりしていた。
昇降舵のワイヤーの伸びなどを調整したが、翼に空いた12.7mmの徹甲弾の後だけはどうしようもなく、その部分は、外装を剥がしてリベットを打ち直した。
さすが、東洋一の航空廠があるだけのことはあるので、何とか飛べる程度までには仕上げた。
手伝ってくれた整備兵が
「新谷中尉は、本当によく整備されますね。私どもよりも発動機のことにはお詳しいですね」
新谷は潤滑油で汚れた手を雑巾で拭きながら
「この発動機は、回さないと馬力が出ないから、零式と違って整備が必要なんだよ。燃料さえよければ高高度でもそこそこは行けるんだが、7,000を超えると息つくからな。なんせ10,000なんて高度は氷点下15度以下だし、酸素は薄いしな。相当冷えるぞ。もちろんサイダーなんぞは持っていくと破裂して大変になる」
と言いながら笑って見せた。
そういって、新谷が空を見上げると銀色の機体が見えた。
新谷には、それが何かすくに分かった。
空の要塞 B-29だった。
すぐに、新谷は指揮所に向かった。
「上空に敵機です」
指揮所の隊員は、すぐに外に出で、双眼鏡で上空を確認した。
確かに上空をB-29が単機で飛行しているのが確認できた。
「迎撃に上がります」
と新谷は具申した。
「単機での迎撃は認められん。なにより陸軍からの要請がない。」
「しかし、単機とは変です。」
「いつもの偵察だろう」
「いえ、高度が低すぎます。偵察機なら高高度で、高射砲の射程外ですが、これは低すぎます」
と新谷は食い下がった。
それには、3日前に広島に落とされた新型爆弾のことが頭にあったからだ。
広島に原爆が投下されたときは、3機編隊のB29であったことと、最初に護衛機もなしで単機で侵入してきたことと、その後に2機で侵入して原爆を投下したことが気にかかっていた。
「陸軍からの要請がないのだ、動けん」
「しかし、廣島に落とされた新型爆弾の時も、護衛無しでの攻撃です。」
「油がないのだ、全力出撃すら、あと1回がせいぜいだ」
「私でだけでも、揚げてください。あの方向は、長崎です。あそこには、三菱の工場があります。」
「陸軍の要請がなければ、出せん。」
と司令は、歯切れの悪い返事を繰り返した。
既に、10時を回っていた。
この時に、実際は小倉上空で、原爆の投下体制に、B29ボックスカーは、入っていたが前日の八幡爆撃による火災の煙と、コールタールを燃やした煙幕で視界不良により、数度の投下に失敗しており、また、目視による投下が命令されてあり、視界不良であれば、第2目標である長崎に投下とされていた。
迎撃機が上がってきたこと、高射砲の攻撃があったため、小倉への投下をあきらめて長崎へと転進とている。当時の小倉の人口は、30万人で、広島型の1.5倍と言われたプルトニュウム型であり、仮に投下されていれば、小倉の中心部は壊滅で、戸畑区及び小倉南区の半分以上は被害を受けたと推測されている。また合併以前の5市はほほ壊滅。関門海峡も、放射能汚染により汚染されたと推測される。このことは、戦後の日本の復興に、重大な要因になることは間違いない。だからと言って、長崎に落とされる理由にはならない。歴史にIFはないが、この原爆にはいくつものIFが存在する。広島に落とされた原爆はウランがたであり、ガンバレル型と呼ばれ、ドイツで開発されていたものに近いと言われている。
威力は、TNT火薬の15ktと言われており、東京空襲に使われた爆弾の8倍以上の威力があったが、50kgのウランの内たった1kgが反応しただけだと言われている。
その時の、直下の温度は、3000~4000度いわれ、爆風は440m/secで、音速を超えている。
爆風のあとで音が来たと言われている。放射能被ばくは、爆心地で140ミリシーベルト、爆心地から500m以内で、28シーベルトであり、 6~ 7 シーベルト以上の線量では 99% の人が死亡するといわており、実際爆心地から500m以内の人が1ケ月以内に99%が死亡したと言われている。
おりしも、この原爆を運んだ、重巡洋艦のインデアナポリスは、沖縄で神風特攻隊の攻撃を受けた後で、本国で修理を受けた後で、原爆2個をテニアン島へ揚陸した後に、日本の潜水艦伊58により魚雷で沈められている。極秘任務のため撃沈されたあと、3日間の間洋上で鮫の餌食となり悲惨な状況になった。
もしも、4日ほど早く、撃沈されたならば原爆投下という事態は起こらなかったことになる。
長崎への原爆の投下も、ボックスカーの燃料系統の故障により、洋上投棄よりはという心理があったともいわれている。
「とにかく、許可がでれば揚がれるように待機を命ずる」
として、新谷は飛行服を着用し、翼の給油穴を開けて、ガソリンを給油した。
また、整備員は翼の下から、20mmを給弾していた。
頭上に更に2機のB29が長崎方面へ飛んでいた。
"Town look! Tally ho! The second target discovery to the clouds!"
(街が見える!目標を目視確認 雲の切れ間に第2目標発見!」 )
そして、9000m上空から、原爆は落とされた。
広島原爆の1.5番の爆縮型のプルトニュウム239が、松山上空500mで炸裂した。
新谷は、蝉しぐれの中で長崎方面より立ち上るキノコ雲をみて、滑走路にへたり込んだ。
新谷の戦いは、この日で終わった。