Gentlemen, Throw the oxygen mask, there LeMay here
新谷は、操縦桿を握りながら上空を警戒した。
P38 P51のダイブでの攻撃に注意した。
といっても、既に敵の電探で補足されていることは分かっていた。
眼下には、有明海が広がっている。
田んぼが青く実っていた。
「敵機発見」
という、雑音のひどい空中無線の声が聞こえた。
慌てて、スロットルについている機銃の試射を行い。
敵機の方向へ速度をあげた。
こちらのほうが、高度を取っていた。
急降下して、照準器に入った機体に、20mmを浴びせた。
不意をつかれた敵機の何機の翼が吹っ飛んだ。
P-47 サンダーボルト、欧州戦線に投入されて、硫黄島が占領されてから飛んでくるようになった。
酷く頑丈で、火も吹かない。
上昇も下降もよく、過給機付き高高度でも、馬力が落ちない。
F6Fよりも、2丁多い12.7mm 8丁も装備していた。
照準もなにも関係なく弾幕を張れた。
敵機は急降下で離脱しようとしたが、こっちも700km/hでの急降下は可能だ。
新谷も続けて急降下に入った。
2000m以上降下して、地表の建物が良く見えるようになり、相手が機首を起こした。
新谷は、先読みした方向に向かって撃った。
胴体に命中して、大穴が開き、そのまま降下して、海面に激突したのが見えた。
上昇しようと機首を上げると、張るか前方の高高度に銀色の、4発の大型の機影が見えた。
この方向ならば、八幡を狙っていると思った。
しかし、追いつけないと感じた。
B29の戦闘では、相手よりも高高度をとらないと落とせない。
八幡は、高射砲レンジなので、迂闊に入れば味方に落とされる。
B29の攻撃には、機銃死角のコックピット側への上空からの攻撃が良いとされていたが、護衛機が付いた状態での迎撃は不可能だった。
それに、高高度の夜間爆撃ばかりのをくれ返したB29か゜突如 昼間の低高度爆撃を行いだした。
硫黄島の陥落後に、飛行場の建設を行い、本腰を入れて日本本土の無差別爆撃に入っていた。
いままでは、8000m以上からの爆撃だったが、搭載レーダー4000m程度でありレーダー照準ができなかった、さらにジェット気流の影響で目標の命中率も低く。
1944年6月の八幡空襲においても八幡製鉄所に命中させることができなかった。
Gentlemen, Throw the oxygen mask, there LeMay here (諸君、酸素マスクを捨てろ、ルメイここにあ り)
という言葉により、昼間の低空爆撃に移行していく。
これにより、焼夷弾の集中投下による、大火災が可能になり、空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、国内の200以上の都市が被災、被災人口は970万人、被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、戸数の約2割にあたる約223万戸が被災。30万人以上の死者と言われている。
戦後この無差別攻撃は、犯罪とされずに、この作戦を実行した それだけではなく、戦後に勲一等旭日大綬章を受けている、しかし昭和天皇は親授しなかった。
新谷達の仕事は、迎撃に上がる陸軍の3式戦や4式戦が餌食にならないようにするために、護衛機の数を減らすことだった。
新谷は、スロットルを全開にして上昇して敵機を追った。
前方に後方を取られて追いまくられている味方機を発見して、落ち着いて新谷は敵機の後ろに回った。
敵機が左に旋回したしたときに、至近距離で銃撃した。
機体の腹を撃たれて、火がついて落ちて言った。
新谷の機体に衝撃があった。
翼に穴が開いていた。
上方からの銃撃だった。
敵の方が空中無線は、上等だ。
追いまくられて無線で味方を呼んだらしかった。
新谷は操縦桿を倒して急降下した。
降下して、左旋回から上昇した。
相手は、待ち構えていた。
弾に余裕があるらしく、弾をばらまいて接近してきた。
新谷は、機を横滑りさせた。
意外と動く目標に当てるのは難しいものだ。
新谷は、左に旋回して相手をやり過ごして、後方についた。
機銃のレバーを握った。
方向舵に当たって、そのまま落ちて言った。
よく見ると、何とか水上へ着陸したようだった。
8月8日の戦闘で全力出撃24機の内、10機は帰還しなかった。
ほとんどの機も被弾しており、整備をしなければほとんどの機が飛べなかった。
新谷は、幸運にも消火装置がきいて、何とか基地に帰還した。
新谷は、機体から降りると、そのまま地上に座り込んだ。
手が震えていた。
操縦桿とACのレバーを握りすぎていた。
新谷は、被弾した翼を撫ぜた。
そして、小さく ありがとうと言った。
それが、新谷が空を飛んだ最後になった。