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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
外伝 それぞれの戦い
99/113

閑話ⅩⅤ ディド&クレウサVS

 ディドは、煌夜たちが遠ざかるのを名残惜しそうに見送ってから、非難がましい叫びを上げるヒュドラ女王を睨み付けた。

 さて、本番はここからですわ、と気合を入れる。


「……ディド姉様。力及ばず申し訳ありません。恐らく私では、ヒュドラ女王と戦うに足手纏いになってしまいます。けれど、あのヒポギガントは差し違えてでも打倒しますので――」

「――戦場で言い訳は無駄かしら。クレウサは、出来ることを全うなさい。ワタクシはコウヤ様の為に、速やかにヒュドラ女王を抹殺いたしますわ」


 青色吐息のクレウサが隣で弱音を吐いたので、ディドは鋭く睨んでそう吐き捨てた。クレウサは、ぐ、と口をつぐみ、力強く頷いて視線をヒポギガントに向ける。

 そんな悔しそうなクレウサを横目に、ディドはヒュドラ女王に意識を集中させた。正直な話、クレウサをフォローする余裕など、今のディドにはなかった。

 ヒュドラ女王は、上位種に数えられる魔貴族ではある。だが通常その実力は、ディドと同格か少し下程度でしかない。多対一だとまた話は異なるが、少なくとも一対一ならば、ディドが確実に勝てるはずの相手である。

 ところが、先の一瞬の攻防から推察するに、この個体は、通常のヒュドラ女王とは比べ物にならないほど強いようだった。事実として、魔貴族でさえないヒポギガントが、クレウサでも打倒出来ないほど手強くなっている。

 ディドは相手を侮っていた自らを戒めながら、油断も先入観も捨て去り、目の前のヒュドラ女王を未知の魔貴族と仮定した。

 格上の魔貴族――最上位種に数えられる竜種を相手取るつもりで、その意識を切り替えて、出し惜しみせずに全力を費やすことを誓う。


「キュルルル!!」


 ヒュドラ女王が叫びながら、口元から紫色の毒霧を吐き出す。煙状に漂う毒霧は、まるで意思を持っているかの如く、飛翔するディドに向かって飛び掛かってきた。

 その毒霧はあらゆる物を腐食させる風属性の魔術攻撃だ。ヒュドラ女王が最も得意とする広域殲滅魔術である。


「――――黄金の風よ、吹き荒べ」


 ディドは毒霧を前に、しかし慌てず、純白の翼を大きく羽ばたかせた。同時に、簡略詠唱で光属性の【光波動(ライトウェーブ)】を放った。光波動は、黄金の風であり、上級の攻撃魔術である。けれど上級とはいえ、ディドが放てばその威力は聖級に勝るとも劣らない。一方で毒霧は、分類的には中級魔術に該当する。

 魔術の位階差がその威力に直結する訳ではないが、ディドの光波動ならば余裕で毒霧を消し飛ばして、ヒュドラ女王にダメージを与えるだけの破壊力がある――はずだった。けれど結果として、毒霧と光波動は相殺する。

 その場に凄まじい温風が吹き荒れて、周囲の崩れた瓦礫が吹き飛ばされた。


「……キュルル、ララィ!」

「桁違いの出力ですわね……手抜きしたつもりなどありませんけれど、よもや相殺されるとは思わなかったかしら?」


 ヒュドラ女王が不愉快そうに甲高い声を上げた。

 ディドも悩まし気な表情を浮かべながら、しなやかな動作で黄金の輝きを放つ長弓【神弓イチイバル】を構えて、弦に右手を添えた。


「けれどもう、充分に時は稼げたかしら? 流石にそろそろ、コウヤ様たちに被害は及ばないでしょうから――ここからは、本気で、仕留めさせて貰いますわ」


 ディドが大きく羽ばたいて、更に上空へと舞い上がる。ヒュドラ女王はその飛翔を追って、視線を上に向けた。

 ディドは自らの直下にヒュドラ女王を見据えて、ヒュドラ女王は真上を見上げて足踏みしていた。


「ふぅ――――行きますわよ」


 ディドはゆっくり大きく深呼吸してから、全身に魔力を漲らせた。同時に、右腕に装備された銀腕に風を纏わせて、全神経を集中させ始めた。すると、銀腕から白銀の鏃を持つ魔力矢が生じて、ディドが構えた弦にかかる。

 ディドの最も得意とする秘技であり、無数の魔力矢を高速連射する広範囲爆撃――その予備動作だった。ちなみにこの秘技に技名はないが、クレウサは勝手に【白銀豪雨(プラチナレイン)】と名付けていた。目にも留まらぬ超高速の連続射撃、壮絶な威力を誇る質量攻撃である。


「キュル――――ッ!?」


 ディドは弦に番えた魔力矢を放った。続いて自動的に次の矢が番えられる。それが延々と繰り返されて、怒涛の魔力矢の豪雨が降り注ぐ。白銀の鏃を持つ魔力矢は煌めく閃光であり、それが幾重にも折り重なって、まさに白滝の如く対象目掛けて降り注いでいく。

 ヒュドラ女王の短い驚きは、豪雨の如き爆音に掻き消されて、その巨躯は魔力矢の白滝に呑み込まれた。

 ディドはチラとクレウサを見る。

 クレウサはクレウサで、まだヒポギガントと苦戦していた。決定打を与えられず、ひたすら一進一退の攻防を続けており、その過程で建物を幾つも破壊している。そんなクレウサの戦闘を横目に、しかしすぐ意識をヒュドラ女王に戻す。


「……硬い、ですわね……」


 白銀の集中豪雨は、その全てがヒュドラ女王に直撃している。これ以上ないほどの手応えも感じる。だがその手応えには、ヒュドラ女王を追い詰めた感が一切なかった。手応え的には、攻撃全てが硬い装甲に弾かれているような感覚だ。


「――キュルルルィ!!」


 その時ふいに、白銀豪雨の反発する手応えが強くなった。

 ディドは白銀豪雨の白滝に目を凝らす。すると、ヒュドラ女王が白滝を駆け上るが如く、黄金色の翼をはためかせて跳び上がってきていた。

 天地を逆転させて落下してくる勢いの突撃は、まるで空から降ってくる隕石を思わせる。赤熱した巨大な岩石が、白銀豪雨を弾きながら迫ってきていた。


「なっ――!? あり得な――っ!?」


 ディドは目を見開いて驚き、すぐさま連射を止めて回避に移る。しかし回避する瞬間、ヒュドラ女王の怪しく光る黒い瞳に見詰められて、身体が一瞬だけ硬直してしまった。ディドの魔力耐性では、ヒュドラ女王が保有する石化の魔眼に完全には抗えなかったらしい。


「ぐぅ――!?」


 ディドは、すかさず視線を切って硬直を解除させる。けれど一瞬の硬直のせいで、ヒュドラ女王の体当たりを避けきれず右半身が強打された。

 体当たりの威力は聖級魔術の直撃を受けたような衝撃で、ディドの身体を突き抜けた。苦悶の声を漏らしながら、勢いそのままピンボールの如く吹っ飛ばされる。

 そしてなぜか、激突した瞬間、右半身が燃え上がる。灼熱の炎がディドの全身に巻き付いた。


「……ぐ、っ……この業火……魔術抵抗を、下げている……のかしら?」


 ディドは地面に激突して転がり、建物を一つ半壊させてから立ち上がった。

 その全身は今もなお炎に巻かれているが、どうしてか熱さは感じない。また、直接的なダメージもなかった。ただ視覚的に燃えているだけである。

 とはいえ、何の効果もないのではなく、どうやら状態異常を引き起こす類の魔術らしい。感覚を研ぎ澄ませれば、炎に巻かれた部位の魔力抵抗値が弱くなっていることに気付ける。

 ディドは忌々しそうに燃え上がる全身を見下ろして、なんとかしなければ、と思考した。


「――――キュルルルルゥ!!!」


 刹那、頭上からヒュドラ女王の気持ち悪い叫びが聞こえる。ディドは慌てて空を見上げた。先ほどと全く逆の構図で、ディドが地上に、ヒュドラ女王が上空で相対していた。


「な!? えっ――まさ、か!?」


 頭上のヒュドラ女王からは、禍々しく醜悪で、凍て付くような魔力波動が放たれていた。ディドはその魔力波動に思わず凍り付いた。


「クレウサ!! 今すぐ、この周囲から――――ッ!? くっ、間に合わない、わね」


 ディドは珍しく大慌ての形相になり、ヒポギガントと戦っているクレウサに呼び掛ける。だがすぐにそれが無駄だと悟り、思考を切り替えてヒュドラ女王に向き直った。

 上空のヒュドラ女王は、キュルル、と呪文じみた叫びを上げながら、七色に輝く魔力の円環を背負い、虹色の魔法陣を構築していた。まだ魔術を構築している段階だと言うのに、その魔力圧だけで、既に空気が張り詰めて震えている。

 その魔術は、ディドでさえ文献でしか見たことがない冠級魔術――【七重詠唱(ヘプタプルアリア)】だった。七つの上級攻撃魔術を重ね合わせて放つ究極の複合魔術である。

 攻撃魔術はその特性として、同一位階の魔術を重ね合わせれば重ね合わせた分だけ、威力と破壊力が跳ね上がり、位階が一段階上になる。上級と上級を重ね合わせることに成功すれば、それは聖級魔術になり、聖級と聖級を重ね合わせれば、必然、冠級になる。つまり理論上、上級を四つ重ね合わせた【四重詠唱(テトラプルアリア)】でさえも充分、冠級の威力を誇る攻撃魔術となるのである。

 とはいえ、魔術を重ねると言うのは、それほど単純でも簡単でもない。重ねるには、同一位階、同一出力、同一威力の魔術を同時展開する必要があるのだ。重ならない場合、それはただの連続魔術にしかならない。実際のところ、ディドでさえ【二重詠唱(ダブルアリア)】が限界なほど難しい技術である。

 だと言うのに、ヒュドラ女王のそれは、完璧な【七重詠唱】だった。

 基本属性である火、水、風、土の四属性に加え、光、闇、無を含めた七属性を同時展開、見事に調和させて、美しい魔法陣を構築している。


「……唯一の救いは……同属性ではないこと、かしらね?」


 ディドは苦笑しながら、そんなことを呟いた。その呟きの通り、この七重詠唱は幸いにも、同属性複合ではなく、異属性複合だった。おかげで、効果範囲だけは極小に留まるはずだ。

 けれどそうは言っても、即死するほどの破壊力は間違いなくある。余波だけでも、今のクレウサでは防げない威力があるだろう。

 ディドは地上からヒュドラ女王の構築する魔法陣を見詰めて、もはや逃げ場がないことを悟った。少なくともディドが防御出来たとしても、クレウサは巻き込まれて死んでしまう。


「相殺……させるしかない、かしら……」


 弱々しく呟き、ディドは全身の魔力をいっそう銀腕に集中させる。巻き起こる風が金色に輝き出して、銀腕自体が神弓イチイバルと同じ黄金色に変わった。


「キュルルル――」


 ヒュドラ女王が、か細く長く気味悪い音を放つ。魔神語が分からなくても、それが詠唱の完成を意味することは理解出来た。ヒュドラ女王の声に呼応して、背負う虹色の円環が花開き、大輪の薔薇を思わせる巨大な魔法陣に変わった。

 激しい魔力圧が上空から放たれて、重力が何倍にもなったような錯覚を起こす。真上から圧し付けられるような威圧に、ディドは身体が重くなり、身動きがし難くなった。しかし実際は真逆で、その魔法陣はブラックホールの如き吸引力を放ちながら、あらゆる全てを飲み込んで、それを塵に変えていく。


「――――え!? そ、な、なんですか、アレっ!?」

「クレウサ!! ワタクシと同化なさい!!」


 クレウサは凄まじい魔力圧でようやく何が起きたか気付いて、空中で身体をばたつかせながら、ヒポギガントから視線を外した。それはヒポギガントも同様で、一瞬だけ、戦闘の手を止めて、ヒュドラ女王に非難がましい視線を向けている。


「呆けていないで! 急ぎなさい!!」


 そんなクレウサに、ディドは切羽詰まった様子で叫んだ。同時に、その全身を輝くばかりの金色の魔力で包み込む。すると次の瞬間、ディドの纏う黄金のドレスが恒星の如き煌めきを放ち、肩には白金の肩当が、胸元には同じく白金に輝く胸当が、フレアースカートから覗く生足には黒鉄の足具が装備された。

 それらの装備は、守護天使が纏う光のドレスを極めし者だけが身に着けることを許された戦天使の装備である。

 ディドは、戦天使の装備から溢れ出た全魔力を右手の銀腕に一点集中させて、頭上のヒュドラ女王に向けて弓を構える。グッと引いたその右手には、まるで光剣を思わせる金色の光の矢が握られていた。

 全てを貫く光剣の形状をした光の矢は、【神矢(かみや)イチイバル】と呼ばれる矢であり、ディドが放てる魔術の中で、究極にして至高、最大最高の破壊力を秘めた攻撃だった。

 神の武具である神鉄(オリハルコン)製の長弓――【神弓(しんきゅう)イチイバル】が、その本来の攻撃力を発揮する為の矢が、この神矢イチイバルである。

 神矢イチイバルは神気を纏い、あらゆる瘴気を浄化して、いかなる属性防御も物理防御も、その特性さえも無視する矢であり、冠級魔術の威力を持つ自動追尾式の一矢である。

 この一矢は、ディドが全魔力を注ぎ込んで一度だけ使用出来るほどに、消費魔力の激しい渾身の絶技でもあった。使用したら後は、完全に魔力は枯渇して、もう指先一つ動かなくなるほど消耗する。だからこそ、後先考えずに放つことは出来ず、万が一のことも考えて、クレウサの魔力と同化しておく必要がある。


(……これで決められないなんて、思いたくはありませんけれど……最悪を想定しなければ――)


 ディドはクレウサに視線を向けず、全神経を神弓イチイバルに集中する。引き絞った右手が金色の銀腕と同化して、煌めく星のような輝きを放っていた。

 一方、大輪の薔薇を咲かせているヒュドラ女王は、ディドの集中など待ってはくれなかった。容赦なく、躊躇なく、敵味方関係なく、全てを消滅させんとばかりに、展開している魔法陣、その花開いた虹色の円環を解き放った。

 無音のまま、太陽の如き熱量を放つ虹色の薔薇をした魔法陣が垂直に落下し始めた。それに応じるように、地表からは砂ぼこりが空に舞い上がり、魔法陣の中心に向かって竜巻を巻き起こした。竜巻はまるで掃除機が塵を吸い込むような勢いで、建物の瓦礫ごと何もかもを飲み込み始める。


「ディド姉様――」


 そんな竜巻が発生している中、クレウサは全速力でディドの居る地上を目掛けて急降下する。渾身の力を振り絞って、魔法陣の吸引力を振り払っているようだ。


「――っ! 振り返らず、右に避けなさいッ!!」


 空を見上げていたディドは、クレウサの背後に迫る脅威を見て、慌てて叫んだ。その焦りに反応して、クレウサは何一つ疑うことなく、すかさず右に身体を傾けた。刹那、一瞬遅れてヒポギガントの剛腕が空を掴んでいた。

 かろうじてクレウサはそれを躱して、ディドの傍へと辿り着いた。


「ブフォオオ――!!」


 クレウサが着地すると同時に、怒りで興奮した様子のヒポギガントが雄叫びを上げる。けれどその直後、ヒポギガントのそれは断末魔の叫びに変わる。

 降り注ぐ魔法陣が放つ虹色の光は、ヒポギガントを呑み込んだかと思うと、その巨躯を一瞬にして塵に変えていた。


「――キュルルル!!」


 ヒポギガントが巻き込まれたのを見てから、苛立った様子のヒュドラ女王が何やら叫んだ。すると、その虹色の光は柱となり、ヒュドラ女王とディドを真っ直ぐに繋ぐ直線になった。標的を逃がさない為、ディドに照準を定めたのだ。

 その光の柱は端から見れば、美しい星明りの道にも思えた。しかしそれは実のところ、落下してくる大輪の薔薇が通る絶死の道であり、七重詠唱の破壊が及ぶ効果範囲だ。

 効果範囲は、およそ直径50メートル前後――この光の道以外には、さしたる破壊は及ばない。光の道の外側には、上級魔術程度の爆発しか発生しないので、外に逃げることが出来ればそうそう死なないだろう。

 とはいえ残念ながら、それを知っていても無意味だ。この光の道は、内側から外側に出ることが出来ないので、ディドたちはもはや避けることが出来なかった。

 つまりもう、ディドの一撃で、この七重詠唱を相殺する以外に生き残る術はない。


「『神敵を射貫け、イチイバル』!!」


 ディドは虹色の光に閉じ込められたのを見計らい、覚悟を決めて引き絞った右手を解放する。

 放たれた神矢イチイバルは、糸を引くように真っすぐと黄金の光を撒き散らしながら、神速で光の道を駆け上った。

 地上から天上に落ちる流星の如き神矢イチイバルは、迫り来る七重詠唱の魔法陣に激突する。


「――――キュルゥ!!? キュ、ガッ――!?」


 果たして、落ちてくる七重詠唱の魔法陣と、ディドの放った神矢イチイバルの激突は、存外あっけなく決着した。結果だけ見れば、それは少しも拮抗することはなく、神矢イチイバルの勝利である。

 冠級の威力を持っていた七重詠唱の魔法陣は、わずか一秒も神矢イチイバルの神速を緩ませることさえ出来ずに貫かれて、パリンと硝子の割れる音を鳴らして砕け散った。ちなみに、砕けた魔法陣は巨大な隕石が爆散したかのように、細かな破片になって辺りにバラ撒かれた。

 一方で、魔法陣を貫いた光の矢はそのまま、ヒュドラ女王の白い胸元までもを貫通した。そして、その背後に浮かぶ虹色の円環にぶつかり、円環を中心にヒュドラ女王ごと呑み込んで、黄金色の球体に変わる。黄金色の球体は、包んだ対象を消滅させる魔力球であり、まさに夜空に浮かぶ満月を思わせた。


「――ディド姉様、同化いたします!!」


 神矢イチイバルがヒュドラ女王を包み込んだ時、クレウサがディドを抱き締める。それとほぼ同時に、砕かれた七重詠唱の魔法陣が、美しい虹色の破片を撒き散らす。

 ディドは弓を射終えた残心の姿勢で硬直していたが、クレウサに抱き締められた瞬間、ガクンと膝が折れた。残心の姿勢も崩れて、腕から神弓イチイバルも地面に落ちる。

 ディドは既に全身に力が入らず、踏ん張りさえ利かない状態だった。クレウサはそんなディドを支えるように背後から優しく抱き留めて、次の瞬間、その身体を蜃気楼のように揺らめかせる。

 すると、虚像が重なり合うように、クレウサの身体がディドの身体に重なって影も形もなくなった。

 純血の天族が持つ超能力のうち、クレウサ固有の異能【同化】である。その効果は、同化対象にクレウサの持つ全ての技能と魔力、身体機能、身体技術などを無条件に譲渡することだ。同化した相手には何の制約も不利益もなく、ノーリスクでクレウサの全能力を利用することが可能になる。


(……ありがとう、クレウサ。ひとまず、動けるだけの魔力が、充ちましたわ)


 ディドは魔力枯渇状態だった身体に充足されるクレウサの魔力を感じながら、心の中で感謝の言葉を伝えた。これで気絶は免れた、と一息吐いて頭上を見上げる。

 見上げたディドの視界に飛び込んできたのは、心奪われそうになるほど幻想的な光景だった。虹色に煌めく魔法陣の破片が、粉雪のようにパラパラと落下してくる美しい景色である。


「……さて、破片をどうにかしないといけないかしら」


 しかしその光景は絶望的な光景でもある。美しい欠片は、一つ一つが聖級並の破壊力を秘めた爆撃に等しいからだ。無防備に受けたら、今のディドでは簡単に死ねるだろう。

 ゆっくりと舞い踊るようにパラパラと落下してくる破片は、虹色の光の道を万華鏡のように彩っていた。

 ディドは静かに深呼吸してから、滑らかな所作でしゃがみ込み、足元の神弓イチイバルを拾い上げる。


「――――【白黒閃光(アッシュレイ)】」


 しゃがみ込んだディドは神弓イチイバルを握り、銀腕に魔力を集中させながらも、けれど弓術ではなく簡略詠唱でもって上級魔術を展開した。

 上級攻撃魔術【白黒閃光】――それは、クレウサが最も得意とする光と闇の混合属性魔術で、聖級にも匹敵する威力の魔術だ。

 ディドの背中にある純白の翼を護るように、幾つもの魔法陣が現れた。その魔法陣の一つ一つが、白色と黒色の光線を放ち、互いに巻き付きドリル状になって、虹色の破片に伸びていく。

 そうして放たれた白黒光線は、虹色の破片と衝突する。すると、太陽が沈む瞬間の一瞬の輝きを見せてから、音もなく消滅した。

 そんな瞬きが、無数にディドの頭上で繰り広げられる。


「ッ――――!」


 クレウサとの同化で一定の魔力が回復したとはいえ、それでも満身創痍のディドでは、白黒光線と虹色の破片が巻き起こす対消滅の衝撃波は厳しいものだった。

 ディドは奥歯を噛み締めて、地面に伏せながらも、何とか堪えて踏ん張った。


(……ディド姉様。この場から【次元跳躍(テレポート)】で、一旦、引くのも手では?)


 同化したクレウサがディドの心の中でそんな進言をしてくる。

 確かに現在の形勢を考えれば、それは妙案だろう。この位置を登録しておいて、落ち着いたタイミングでまた戻ってくれば良いのだ。十中八九、ヒュドラ女王は神矢イチイバルで死んでいるはず――そう考えれば、無理を押してこの場で虹色の破片を防ぐ必要がない。

 だがそこまで分かっていて、ディドはクレウサの妙案を無視する。

 ヤンフィと煌夜に、任せろ、と豪語した手前、殲滅していることを確認するまで、逃げる選択肢は存在しない。


「行きますわよ――」


 銀腕に充分な魔力が溜まったのを見計らって、ディドは伏せていた身体を起こした。途端、白黒光線と虹色の破片が巻き起こす衝撃波に、身体中を殴られる。気合を入れて踏ん張らないと吹き飛ばされそうになるほどの衝撃波が、ディドに襲い掛かってきた。

 ディドはその衝撃波が吹き荒れる中、しっかりと背筋を伸ばして、頭上を目掛けて神弓イチイバルを構えた。引き絞られた弓には、三又の鏃を持った魔力矢が番えられている。


「――あまねく全てを射ち落とす、【天弓(てんきゅう)】」


 ディドの宣言と共に、三又の鏃が光り輝きながら射られた。

 解き放たれたそれは、空中で風船のように膨らんだかと思うと、その瞬間に破裂して、無数の光の粒子を撒き散らした。無数の光の粒子は、白黒光線を掻い潜って落ちてきた虹色の破片にぶつかり、その全てを相殺させる。

 ディドの弓術【天弓】は、他の弓術に比べて魔力消費量が少なく、また広範囲を一度に攻撃出来る優れた範囲攻撃だ。ただし欠点として、操作性が低い無差別爆撃であり、拡散された光の粒子の威力が中級程度の破壊力しか持っていない。

 けれどそれでも充分、虹色の破片を一掃できる。

 どうやら破片は、何らかの物質か魔術にぶつかれば、威力に依らず爆発するようだった。厄介ではあるが、特性を理解してしまえば射ち落とすのは容易である。


(七枚分の魔法陣ですから……流石に、数が多いですわ……けれど、そろそろ欠片も、終わる頃合いかしら……?)


 ディドは幾度か三又の鏃を持つ魔力矢を番えて、虹色の破片が空中になくなるまで射続けた。それは実際の時間にして数十秒だが、ディドとクレウサの体感としては、数分から数十分にも感じるほど長いものだった。


「もう……これで終わり、かしら?」


 そうして虹色の破片が落ちて来なくなった時、ディドを包んでいた光の道も消え去る。スポットライトが消えたように、いきなり暗くなった周囲に、ディドは安堵の息を吐いた。

 そんなディドの吐息に遅れて、ドガン、と地上に巨大な何かが落下してくる。

 ハッとした様子で、慌ててディドは音の方に神弓イチイバルを構えた。


「…………キュ、ル、ル……グキュ……」

「――信じられないほど強靭かしら」


 落下してきた何かは、黄金の翼と両腕がもがれて、全身のいたるところに火傷を負い、白い胸元に頭一つ分の穴が開いたヒュドラ女王だった。

 そのヒュドラ女王は、弱々しい魔神語を口走りながら、紫色の血だらけになった巨躯を起こす。既に魔力核は貫かれており、このまま放置しても勝手に死ぬだろう状態だった。むしろ、これで生きているのが不思議である。

 だがそれほどの瀕死でありながらも、ヒュドラ女王の戦意、殺意は些かも衰えていなかった。


(ディド姉様、今なら仕留められるはずです! 疾く、トドメを――)

(――落ち着きなさい、クレウサ。ワタクシもそれほど魔力は多くないかしら。下手に動いて、魔力枯渇してしまったら、それこそ目も当てられませんわ)

(で、でも! このまま様子を窺っていても、形勢は悪くなる一方ではありませんか?)

(……ヒュドラ女王は、もはや瀕死かしら。このままでも、ワタクシたちの勝利は揺るがないわ。ただし……自爆するつもりだと、厄介ですわ)


 ヒュドラ女王の挙動を警戒しながらも、ディドは心の中でクレウサとそんな会話をした。動くに動けず、神弓イチイバルを構えたままで、ヒュドラ女王と対峙していた。

 確かに、クレウサの言う通り、瀕死のヒュドラ女王を確実に仕留めるのなら、今が好機だろう。

 けれどそれは、ヒュドラ女王が見た目通りの瀕死である場合のみである。もし万が一にも、何らかの奥の手を持っており、それが自爆の類だった場合、返り討ちに遭うのはディドだ。

 そう考えると、迂闊に手を出すことが出来なかった。まあ、とはいえど実のところ、ディドは動かないのではなく動けないのだが――同化したクレウサの魔力も枯渇する寸前であり、しかも先ほどまでの累積ダメージで肉体も限界が近かった。

 この状況で、リスクを負ってまで瀕死のヒュドラ女王に挑むのは得策ではない。


(そもそも……どうしてあの状態で死なないのかしら?)


 ディドは威嚇の体で魔力矢を番えたまま、血を垂れ流す瀕死のヒュドラ女王を注視する。

 魔貴族と言えども、魔力核が壊れたら絶命するのが常識である。だと言うのに、どうしてヒュドラ女王はまだ生きていられるのか。

 ヒュドラ女王の不死身さの謎が解けない限り、安易に手を出す訳にはいかない。


「ギャギャギャ、ギャギャギャ!! ヒュドラ女王、瀕死!! ガストンの加護、切れる寸前!! 恐ろしい、恐ろしい!! まさか、上位種、倒す、天族が居るとは!!」


 その時、突如として、けたたましい東方語が上空から聞こえてきた。ふと見れば、そこには漆黒の体躯をした三本足の巨鳥が飛んでいる。

 ディドは巨鳥の存在に気付いて、人知れず冷や汗を流しながら、慌てた様子で一歩後方に跳び退く。それと同時に、瀕死のヒュドラ女王に向けていた神弓イチイバルを、ギャギャギャ、と喚く巨鳥に標準を合わせた。


(……ディ、ディド姉様……ッ!? あの魔貴族、東方語を話している、のですよね? ということは……少なくとも、二千年級の、魔貴族!?)

(――――非常に、マズイ展開、かしら?)


 クレウサの焦りは、ディドも痛いほど理解出来る。落ち着け、と自らに言い聞かせながらも、頭の中はもはや逃げの一手しか思い浮かばない状況だった。ディドが万全の状態でも、二千年級の魔貴族など相手取れはしない。


「ギャギャギャ、ヒュドラ女王!! ガストンの加護、あれだけ魔力増加して、負けた!? 負けた!? あり得ない、あり得ない!! 油断、油断!!」

「……キュル、ルル、キュ……ッ、ル!!」

「ギャギャギャ、ギャギャギャ!! 負け惜しみ、格好悪い!!」

「キュキュ、ルルルル……キュル!!」

「ギャギャギャ!! 少鷲、嫌、断る!! 天族、死にそうだけど、怖い!! 天族、厄介!! 万が一殺して、魔貴族か、魔王属、転生したら、少鷲、レーヌ様のとこ、戻れない!!」


 ディドが内心震えながら、夜空を浮かぶ漆黒の巨鳥――少鷲、と名乗る魔貴族を警戒していると、何やらヒュドラ女王と言い争いを始めていた。


(……な、何が、起きてるの、かしら?)


 疑問符を浮かべるディドの前で、少鷲はヒュドラ女王を見下ろしながら、大きくその嘴を開いた。すると突然、ヒュドラ女王はディドから少鷲に標的を変えて、凄まじい怒りと殺意を向ける。なけなしの魔力を振り絞って、色違いの魔法陣を四つも展開していた。

 四つの魔法陣は、火、水、風、土の四属性を用いた【四重詠唱(テトラプルアリア)】である。

 ことここに至って、魔力核が壊れた状態にも関わらず、ヒュドラ女王は容易く冠級を展開したのだ。ディドはそれを目の当たりにして、心底恐怖した。もしそれがディドに向けられたならば、もはや相殺できる余力はない。


「ギャギャギャ――無駄、無駄!! 少鷲、魔力消失領域、展開出来る、知ってる癖に!!」


 ディドが恐怖しているのを尻目に、少鷲はヒュドラ女王に敵意を向けた。

 フォ――ン、と少鷲の大きく開いた嘴から、凄まじい高音の超音波が響き渡る。それと同時に、ヒュドラ女王が四重詠唱の魔法陣を解き放った。

 ディドはギュッと目を瞑り、すかさず神弓イチイバルを抱えて防御魔術を展開する。やってくるであろう衝撃波に備えて、グッと足元に力を入れて踏ん張った。


「…………キュ、ッ……ルゥ――」

「ギャギャギャ、ギャギャギャ!! 少鷲に逆らう、悧巧(りこう)違う! ヒュドラ女王、馬鹿!! 馬鹿な魔貴族、不要!! レーヌ様に報告、報告!!」

「キュルルルル!? キュル――」

「――ヒュドラ女王、考えなし過ぎ! 天族、殺す、危険!! 少鷲たち、レーヌ様の復活、最優先!! 危険分子、関わらない、吉!!」


 ディドは一向に訪れない衝撃に疑問を浮かべて、恐る恐ると眼を開けた。すると目の前には、四重詠唱の魔法陣など影も形もなく、先ほどと何一つ変わりない光景が広がっていた。相変わらず上空では、けたたましい濁声で少鷲が喋っており、相対した地上ではヒュドラ女王が気色悪い声で怒鳴っている。


「……何なの? 今は何が、起きてるの、かしら?」

「ギャギャギャ!! 天族、お前、幸運! ここでは、絶対、殺さない!! いずれ、お前、レーヌ様の餌!! 餌として供するまで、生かしておく!! だから、ここは見逃してやる!!」

「――――キュルルル!!」


 恐怖と疑問符に囚われたディドに、少鷲は意味不明なことを口走りながら、ふたたび嘴を大きく開けてヒュドラ女王に向き直った。そんな少鷲に明らかな怒りを見せて、ヒュドラ女王は空に跳び上がる。それは、まるで火の玉を思わせる突撃だった。

 ヒュドラ女王は腕のない身体に炎を纏わせて、瘴気を孕んだ紫の血を撒き散らしながら、砲弾を思わせる速度で少鷲に迫った。それは空中を進むにつれてドンドン加速して、少鷲の巨躯を撃ち抜かんとばかりに襲い掛かった。

 だがその渾身の突撃が少鷲に届くことはなかった。ヒュドラ女王の突撃は、唐突に空中で静止して、直後に紫色の花火に変わる。


(え、え!? 何が、どうなったのですか!?)

(――分からない、かしら。けれど、少鷲と名乗る魔貴族が、ワタクシたちに敵対しないのだけは、事実のようかしら?)


 ドォン、と大きな爆音が鳴り響き、ヒュドラ女王の肉片が火花の如くパラパラと舞い散る。それは地面や建物に付着すると、一瞬でそこを腐食させて、嫌な臭いを漂わせた。

 ディドは降り注ぐその紫色の血を避けつつ、神弓イチイバルを構えたまま、少鷲に恐る恐ると声を掛ける。敵か味方か定かではないが、少なくとも今、少鷲はディドに危害を加えるつもりがなさそうだった。


「――質問、しても宜しいかしら?」

「ギャギャギャ? 質問? 少鷲に!? ギャギャギャ、ギャギャギャ!! 面白い、面白い! 特別に答えてやる!! でも、急げ!! 少鷲、レーヌ様のとこ、戻らないと駄目!!」


 バタバタと騒がしく翼を羽ばたかせながら、少鷲は嘴を開けたまま頷いた。ディドは少しだけ逡巡したが、ゆっくりと神弓イチイバルを下ろして構えを解いた。


「貴方……何者、かしら?」

「ギャギャギャ、ギャギャギャ!! 少鷲!! 少鷲は、少鷲!! レーヌ様の忠実なる下僕!! 隷属された魔貴族!!」

「……レーヌ、様?」


 けたたましい叫び声で即答した少鷲だが、まともに説明する気はないようで、ディドの理解などお構いなく好き勝手に喋り続ける。


「レーヌ様は、レーヌ様!! 最悪、最強!! 五百年前、封印された、神の厄災!! でも、封印、綻びあった!! 綻び、ライム・ラガム、気付いた! そして偶然、開封!! ギャギャギャ!」

「……ええと? よく、分かりませんかしら……その、レーヌ様とやらは、何者なのかしら? ワタクシたちを餌にする、と言ってましたわね? と言うことは、魔王属、なのかしら?」

「ギャギャギャ!! レーヌ様、混血獣人族!! 餌の意味、魂喰らう!! 魂喰らえば、天族、転生出来ない!!」

「…………混血、獣人族が、ワタクシの魂を喰らう……?」


 ギャギャギャ、と喧しく喚く少鷲の言葉に、ディドは段々と顔を顰める。会話が成立していそうでしていない感がある。


「……魂を喰らう、とは?」

「ギャギャギャ!! そのまま、意味!! 異能【魂喰らい】!! 似た能力、【暴食】!! けど、似て非なる能力!! 魂喰らいこそ、最上位!! 完璧ならば、誰も勝てない!!」

「…………いまいち、理解出来ませんかしら……じゃあ、レーヌ様とやらは、強いのかしら?」

「強い!? 弱い!? ソレ、どの部分で定義!? 魔力量、魔王属!! 肉体強度、人族!! 戦闘力、魔貴族!! けど、特殊能力、魔王属!! ヤンフィ様、似てる!!」


 少鷲の難解な言い回しを読み解こうとしていた時、ふいにヤンフィの名前が出てきて、ディドはいっそう怪訝な顔をする。


「ヤンフィ、様? 貴方、ヤンフィ様を存じているのかしら?」

「ギャギャギャ、ギャギャギャ!! お前、もしかして、ヤンフィ様の仲間!? ギャギャギャ!! なおさら、ここじゃ殺せない!! ならもう、少鷲、戻る!!」


 ヤンフィの名前を口走った途端、少鷲は露骨に恐怖の表情を浮かべると、バサリと大きく翼を羽ばたかせて飛翔高度を上げていた。まるで逃げるようだった。

 少鷲のその反応を見て、満身創痍のディドは少しだけ安堵する。どうもヤンフィとは敵対しているようだが、いまこの瞬間だけは、ディドに危害を加える気がないようだ。ならばこれ以上、質問を繰り返して引き留めて、少鷲が心変わりしても困る。

 ディドは、少しずつ遠ざかっていく少鷲に最後の質問を投げた。


「……ちなみに、そのレーヌ様という混血獣人族は、ヤンフィ様と比べても、強いのかしら?」

「ギャギャギャ!? ヤンフィ様、比べる!? 愚問!! ヤンフィ様、比べられない!! 今のレーヌ様、不完全!! 完全復活なければ、レーヌ様、ヤンフィ様に勝てない!!」


 非常に強い口調で、ひと際大きな声量で、少鷲は、勝てない勝てない、と繰り返しながら、ディドに背を向けて飛んでいく。

 それを見送ってから、ディドは、ふぅ、と一息ついた。

 落ち着いてから辺りを見渡すと、遠くには整然と並び立った家々が見えるものの、ディドを中心とした500メートル四方は草一つない更地と化しており、ところどころに瓦礫が転がっていた。

 ディドが足元に視線を落とすと、そこには、地形が変わるほどの巨大なクレーターが出来ており、石畳だった地面は捲れ上がって土が掘り返されたようになっていた。

 つい先ほどまで噴水があった大広場とは思えない光景で、どこにも広場の面影は残っていない。とはいえ、あれほどの強者と闘って、この程度の被害ならば軽微と言えるだろう。奇跡的に人的な被害もなかった。


「――まぁ、戦う以前から、ここ一帯は避難済みのようで、無人でしたけれど……」


 ディドはそんな呟きを口にしながら、神弓イチイバルを魔力の粒子に変換して、ふたたび自らの血流に格納する。少しだけ魔力が回復したが、それでも魔力枯渇が潤うほどではない。バサリと純白の翼を羽ばたかせてから、その全身を脱力する。途端、黄金の戦天使の衣装も霧散した。


(あ、あの……ディド姉様、これからどうしますか? 私としては、一旦、宿屋に戻ることを提案いたします。このままで、コウヤ様たちを追い掛けるのは、あまりにも無謀です)

(……ええ、確かに、この状況で進むのは得策ではありませんかしら?)


 ディドと同化したクレウサが、この場からの撤退を進言してくる。

 冷静に状況を鑑みてのその案は、恐らく最善に違いない。けれどディドは、クレウサに賛同しつつ、首を横に振る。


(けれど、進むのが愚策には思えませんわ――今ここで宿屋に戻ったところで、ワタクシたちの安全が保証されることもありませんし、進むより危険が少ない保証もありませんわよ?)

(……そ、それでも、ディド姉様! 進んだ先で同化が解除したら、詰みますよ!? 何もできず、どうしようもなくなってしまいます!! 同化は、あと数十分程度で解除されるはずですし……解除されたら、ディド姉様は、魔力枯渇で動けなくなるんですよ!?)


 クレウサが慌てた口調で事実を告げる。確かにその通りだ。ディドは承知していると頷いた。

 ディド自身の魔力はとっくに枯渇しており、いま動けるのはひとえにクレウサの同化のおかげでしかない。同化が解除されれば、瞬間、ディドは倒れて気絶するだろう。しかも実は、クレウサもディドとあまり変わりない状況だ。同化する前に受けた傷は、何一つ癒えてはいない。

 つまり、同化が解除された途端、クレウサも瀕死になるのである。かろうじてディドよりは動けるだろうが、それでも歩くのが精いっぱい程度だ。

 その事実を踏まえると現状、強敵を撃退することは出来たものの、ディドもクレウサも依然として危険な状況に変わりはないということだった。

 こんな状況で、このまま煌夜たちを追い掛けたら、結果は目に見えているだろう。

 そんな二人が助かる条件は、同化が解除される前に煌夜たちに合流することだ。だが、それは随分と低い可能性だった。それならば、宿屋に戻る方が幾分か生存確率は高いに違いない。

 しかし、そんなのは言われるまでもなく理解している。

 ディドはクレウサの進言を聞きながら、煌夜たちが駆け抜けていった方向にゆっくりと歩き出す。顔を上げれば、随分先に目的地である城塞の一角が見えていた。


(ディド姉様! お願いいたします! 考え直して、ここは一旦、退いてくださいませ!! もし追い付いても、今の私たちでは、コウヤ様たちの足手纏いにしかなりませんよ!?)

(クレウサ……宿屋に戻ったところで、ワタクシたちを回復させることは出来ませんわよね? しかもワタクシたちを護れる存在もいない……それならば、コウヤ様と合流して、セレナに回復魔術を使わせるのが無難ではありませんかしら?)

(……お言葉ですが、ディド姉様。それが出来れば、確かに一番安全です。ヤンフィ様、タニア様の傍に居ることが、最も安全には違いありません。けど、無事に合流出来るか否か、それが一番の問題ですし、何より重要ではありませんか? コウヤ様に追い付く過程で、新手が出てくる可能性、同化が解除される可能性、コウヤ様たちがそもそも強敵と交戦している可能性……考慮すべき危険が多すぎます!)


 ディドの言葉に、クレウサは必死の声音で反論する。それを聞き流しながら、ディドは少しも歩みを止めることなく、サクサクと歩いていく。クレウサがいくら吠えようと、身体の主導権はディドにしかないので、この歩みを止めることは出来ない。


(ディド姉様!? 止まってください!! 仰る通り、宿屋にも危険はあります――けど、このまま進むよりも遥かに生存確率は高いでしょう!?)

(――同化する寸前で、まだ合流出来そうになかった場合、ワタクシの異能【次元跳躍】で、クダラークの宿屋に跳びますわ。それなら、クレウサの心配を解決出来るかしら?)

(…………う……そ、それ、なら……まぁ……)


 ただ歩いているだけで乱れそうになる呼吸を整えながら、ディドはクレウサに約束する。それでようやく、クレウサは不承不承ながらも頷いた。

 さて、とディドは吐息を漏らしてから、煌夜の笑顔を思い浮かべた。そんな些細なことで、少しだけ歩く活力が湧き、気持ちが奮い立つ。気合を入れないと、一歩も進めなくなりそうだった。ひと段落はしたものの、まだまだ油断など出来はしないのだ。

 ディドは更地を通り抜けて、瓦礫が転がる石畳の大通りを進む。

 注意深く前後左右を警戒しながら、建物の脇と、通り道の先を意識する。魔力の流れに異常はない。

 辺りを見渡すと、当然のようにひと気はないし、物音ひとつしない――と、思った矢先に、だいぶ遠くから凄まじい魔力波動と連続で爆音が鳴り響いてきた。


(…………街の外、でしょうか?)


 クレウサが遠雷を思わせるその爆音に疑問符を浮かべた。一方で、ディドはすぐさまその原因が何か勘付いて、眼を細めながら呟いた。


「方角的には宿屋側――恐らくは、マユミ・ヨウリュウと名乗った女剣士の所業ね。けれど、音の響き方と魔力波動の遠さから考えると、今は、街外の荒野に場所を移して戦っているようですわね……流れてくる魔力に、微かに混じっている神気……敵も凄まじい強敵のようですけれど……よくもまぁ、それを独りで相手取れるものですわ……ヤンフィ様にアレほど啖呵を切るだけの実力はありますわね」


 マユミがヤンフィと言い争っていた姿を思い浮かべてから、ディドは呆れたように息を吐いた。

 ディドたちの敵だったヒュドラ女王も、大概恐ろしい相手だったが、マユミが戦っているであろう相手は、間違いなくそれ以上の強敵と思われた。

 こんな人界の最果ての辺境地にこれほどの化物が揃っていることに、ディドは驚きを通り越して呆れるほかなかった。同時に、つくづく自らの実力不足を悔やむ。これではこの先、煌夜に迫る脅威を打ち払えるのか、不安になってしまう。


(……あ、ディド姉様……マズイです……気を付けてください……前方に、魔貴族が――)

(ええ、承知しておりますわ――人型で、蜥蜴のような姿……あれは、【アベリンリザード】かしら?)


 しばらく進んでいると、正面に伸びた大通りのど真ん中で、錆びた銅剣を片手に仁王立ちする甲冑姿の蜥蜴人間を見つけた。

 ディドは冷静に建物の影に隠れて、その様子を窺う。

 蜥蜴人間――【アベリンリザード】は、周囲をキョロキョロと見渡しながら、何かを探すように歩いていた。その立ち居振る舞いと、放っている魔力の波動から感じるに、魔貴族ではあれど、ヒュドラ女王に匹敵するような難敵ではないように思える。

 しかしながら、難敵ではないから雑魚だと侮るには危険過ぎる。大型の雑魚魔族に区分されるヒポギガントが異様に強かった例もあるし、そもそも今のディドでは、下級の魔貴族にさえ勝てない可能性が高いのだ。

 ディドは静かに息を潜めて、アベリンリザードが立ち去るのを待った。

 幸いにして、アベリンリザードはほどなく、ディドが潜んでいる建物とは逆方向に歩き去った。魔力感知や、索敵能力はそれほど高くない様子である。


(……そろそろ……移動した方が宜しいのでは?)

(そうですね……けれど、こちらの道は誤りかしら。ヤンフィ様たちが通ったのであれば、あの魔貴族が無傷でいるはずがありませんわ)


 アベリンリザードの立ち去った方角と、現れた方角を注意深く眺めてから、ディドはすぐ横にある汚らしい脇道に視線を向けた。

 アベリンの地図が分からないので、この道がどこに通じているのか定かではないが、少なくともこのまま大通りを進むよりは正解に違いない。

 ディドもクレウサも方向音痴とまでは言わないが、知らない土地にはあまり強くない。なので、進む先は直感に頼る以外に術はなかった。これが五体満足であれば空を飛んで一直線に目的地に向かうところだが、もはやそれを可能にするほどの魔力がない。同化状態で魔力枯渇が起きてしまえば、それこそ致命的である。

 かなり不便だが、徒歩で移動するほか、どうしようもないのである。


 ディドはそんな諦めの吐息を漏らしつつ、この先に煌夜たちが居ることを祈って、汚い脇道に足を向ける。その足元に撒き散らされた吐瀉物は避けて、ゆっくりと闇の中を進んでいった。

ちなみに、クレウサの能力【同化】は、敵味方関係なく使用できます。作中では今後、ほとんど活用しない予定ですが……

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