第八十三話 アベリン事変/後編
遅くなりました。更新です。
およそ十分程度の小休止のおかげで、ようやく煌夜の吐き気は落ち着き呼吸も安定した。とはいえ、それは一時的なものだ。依然として周囲には鼻を刺すような腐臭、色濃い死の臭いが漂っており、少しでも気を抜くと気持ち悪くなる。
「……ひとまず、ありがとうタニア」
「気にするにゃ、コウヤ。もう大丈夫にゃか?」
「ああ、なんとか――」
心配して背中を擦ってくれているタニアに感謝しつつ、煌夜はゆっくりと身体を起こす。
「――コウヤ、伏せよっ!!」
その瞬間、ヤンフィが突然そんなことを叫んだ。煌夜は慌ててヤンフィに振り向くが、それよりも早くタニアが覆いかぶさってくる。
「コウヤ、危にゃいにゃ!!」
「――――ぐぅ!?」
「なに、なに!? くっ――【水壁】!!」
顔面にタニアの豊満な胸が押し付けられて、煌夜はそのまま勢いよく押し倒された。胸元が吐瀉物に汚れるのも厭わず、タニアは煌夜を強く抱き締める。
一方、セレナも何が起きたか分かっていない様子で、仰天した声を上げつつ、それでも咄嗟に全員を庇って水属性の防御結界を展開していた。
果たして、台風や大嵐などという表現が生温いほどの苛烈な暴風が吹き抜けた。その暴風は、人間大の瓦礫を伴って、進行方向のあらゆる障害物、家屋をあっけなく全壊にしていく。
しかも同時に、辺りには震度五強ほどの地震も発生していた。
ちなみに、煌夜はその揺れを背中に感じて、顔面にタニアの胸の柔らかさを感じて、心では命の危険を感じていた。
そして極めつけには、空気を震わす衝撃波のような爆音が響き渡り、夜空には美しい花火が上がっていた。打ち上がった花火は鮮やかな虹色の閃光で、その瞬間だけは絶景である。
「今の、何よ? いったい何が起きたの? 今の、爆心地、ディドたちが居る中央広場でしょ? ここまで、だいぶ離れてるはずよね? それで、ここまでの余波って――しかもさ、あり得ないほどの魔力波だったわよ?」
暴風が過ぎて、地震が落ち着いた時、セレナが怯えた表情を浮かべながら、花火が上がった方角を見やる。するとちょうどその時、黄金色の星が夜空に煌めき、太陽を思わせるほど眩い光を放った。
終末を想起させるそれらの光景を眺めてから、ヤンフィが、ふぅと安堵の吐息を漏らす。
「虹色の閃光、アレはヒュドラ女王の攻撃じゃろぅ。冠級の極大攻撃魔術――恐らくは【七重詠唱】じゃ。虹色じゃから、単純な七属性複合魔術で間違いなかろぅ」
「――な、七、七属性の、同時行使!? それ、ディドは防げるの?」
「防いだようじゃ。それが証拠に、今視えておる黄金の星は、ディドの魔力じゃ」
ヤンフィの回答にセレナが目を見開いて驚いていた。煌夜にはよく分からないが、とりあえずディドは無事のようだ。
「遠目だと詳しく分からにゃいけど、あの黄金色の星、多重結界の類じゃにゃいか? ま、にゃんにしろ、よくあんにゃ冠級を凌いだにゃぁ――セレナ。ディドたちにゃんか気にしても仕方にゃいにゃ。あちしたちには関係にゃい。ディドは責任持ってヒュドラ女王を殺すはずにゃ」
タニアは吐き捨てるように言いながら、押し倒した煌夜から離れる。
柔らかくも息苦しかった重みから解放されて、煌夜は少しの名残惜しさを感じた。だが同時に、べっとりとタニアの胸元を汚している吐瀉物に申し訳なさがこみ上げてくる。
けれど、そんなことには頓着せず、タニアは平然とした顔で吐瀉物を払い落とし、魔術で生成した水を浴びて洗い流す。
「ふむ。タニアの云う通りじゃ。そろそろ往くとしようかのぅ――さて、タニア、先導せよ」
「んにゃ? あ、はいにゃ!」
ヤンフィは身体に付いた埃を払いながら、びしょ濡れになっているタニアに指示する。煌夜は口元を拭いながら立ち上がる。
「コウヤ、怪我ない?」
「ああ、大丈夫……うん。大丈夫」
セレナが心配そうな声を掛けてきたので、煌夜は自らの身体を見下ろしてから、問題なし、と強く頷いた。実際、若干の吐き気があるだけで、怪我の類は一切なかった。
「こっちにゃ」
倒壊している家屋の隙間から見える城塞の一角を指差しながら、タニアは迷いなく歩き出した。それに追従して、ヤンフィ、煌夜、セレナと続く。
足元にはだいぶ瓦礫が散らばっていたが、それらはタニアが蹴散らして道を作ってくれた。
「……人の気配だけじゃなくて、魔族の気配もないわね。ここまで静かだと不気味……」
「確かに、にゃぁ……治安維持軍も居にゃいし、奴隷解放軍も居にゃいにゃ」
セレナがキョロキョロと周囲を眺めながら首を傾げている。タニアもそれに賛同しながら、左右の暗闇を注意深く見詰めていた。
そういえば確かに、と煌夜も疑問を感じて頷いた。
ここに至る道中で遭遇したのは、待ち伏せしていたガストン、中央広場でひしめき合っていたコモドヒュドラと巨大なヒポギガント、ヒュドラ女王という魔貴族である。
そこかしこに魔族なり、敵がいるものと覚悟していたが、不穏な空気が満ちている割には、あまり危険を感じなかった。とはいえ、危険に遭遇しないのは良いことである。
煌夜は心の中で、これはフラグじゃないぞ、もう何も起きてくれるな、と切実に祈りながら、タニアの後ろについて歩いた。
はてさて、そんな煌夜の祈りが通じたのか、ほどなく無事に城塞まで辿り着いた。遠目に眺めていた城塞は、近くで見上げると想像以上に巨大で荘厳だった。
「……堀と、あれは跳ね橋か?」
「結構深いわね? これ、どうやって渡るのよ?」
見上げるほど巨大な城塞は、5メートルほどの幅をした深い堀に囲まれており、垂直に吊り上がった跳ね橋があった。跳ね橋以外に渡る術はなく、また操作する装置も見付けられない。
煌夜は堀を見下ろして、城壁に聳え立つ跳ね橋を見て、背後のタニアに振り返る。セレナも堀を見下ろしてから、どうするの、と首を傾げていた。
「城塞の中にゃら跳ね橋の操作が出来るにゃ。跳ね橋を下ろせば、北門のとこから城塞に入れるにゃ」
タニアは当然の顔でそう答える。
煌夜はしばし沈黙してから、なるほど、と頷いて、ヤンフィに視線を向けた。ヤンフィはやれやれと肩を竦める。
「――のぅタニア。それは誰が、どうやって操作するのじゃ?」
「怒らにゃいでにゃ、ヤンフィ様。あちしがちょっと外壁をぶっ壊して操作するにゃ」
「ならば、サッサと往――――何?」
タニアが弁明した瞬間、ヤンフィがいきなり不吉な反応をする。途端、タニアも耳をピンと立てて、バッと頭上に顔を向けた。
「にゃんにゃ、この気配!?」
「……え、何、どしたの?」
タニアの反応に、煌夜は恐る恐ると視線を上空に向ける。しかし、そこには不思議な光景はなく、ただ一羽の巨大な鳥が羽ばたいているだけだった。
「……ただの鳥の魔族でしょ……え? あれ、違う……ちょ、巨大すぎ、じゃない……?」
月明かりを浴びて黒光りしているその鳥は、遠過ぎるからか米粒大に見えたが、よくよく目を凝らすと縮尺がおかしかった。
漆黒の体躯をしたその鳥は、ゆっくりと下降してくる。足は三本、翼は鳥類のソレで、嘴が尖っていた。その姿は、パッと見た限りではカラスに似ていた。しかし、外壁近くまで下りてきてようやく分かるが、体躯は軽く4メートルを超える巨大なものだった。
「まさか――大鷲か……?」
不意にヤンフィがそんな呟きを漏らす。呟きは呆然とした響きだった。
「オオ、ワシ? 知らにゃいにゃ。どんにゃ魔族にゃ?」
「げっげっげ、ヤンフィ様。相変わらず、可愛らしい恰好」
大鷲と呼ばれたその魔族の鳥は、巨大な嘴を上下させながら、気味の悪い濁声で言った。その言葉は、ヤンフィや煌夜にしか分からぬ魔族特有の言語ではなく、タニアたちにも理解出来る東方語だった。
タニアは瞬間的に身構えて、腰を低く戦闘態勢になる。
セレナも驚愕してから、ハッとした表情になり煌夜を庇うように前に出た。
「げっげっげ! 怖い、恐ろしい!! その猫耳獣族、レーヌ様、殺せるくらい、強力、強大! 歴代勇者、匹敵、強力!!」
大鷲は濁声で途切れ途切れに喚き散らす。それに呼応するように、タニアが無言で魔装衣を纏い、拳をグッと引き絞った。
「タニア、止めよ――大鷲、汝はどうしてここに居る? 何故いま、妾の前に現れた?」
ヤンフィは真剣な口調で言いながら、魔槍窮を放たんとしたタニアの後頭部をペチンと叩いた。それは本当に軽い小突きのようで、ヤンフィにしては珍しく優しい制止だった。
タニアはヤンフィのそんな制止に驚愕の表情を浮かべて、思わず魔装衣を霧散させる。キョトンとした表情で、にゃにゃ、とヤンフィに振り返る。
ちなみに、セレナも煌夜もヤンフィのその珍しい行動に驚き、凍ったように動きを止めた。
「――げっげっげ!! 大鷲、ここに居る理由、一つ。レーヌ様に、魂、供給!! ヤンフィ様の前、いま現れた理由、一つ。レーヌ様の為!! レーヌ様に、献上!!」
大鷲はそう叫びながら、空を見上げて爆笑する。すると、黒い絵の具で塗り潰されるように、ゆっくりと大鷲の身体が闇に呑まれた。
何だ何だ、と煌夜が首を傾げた瞬間、ヤンフィが溜息交じりに右手を上げる。
「拘束せよ――【縛鎖グレイプニル】」
ヤンフィの呪文めいた宣言と共に、右手から鎖状に編まれた細長い紐が現れて、目にも留まらぬ速さでタニアに飛び掛かった。
「にゃ!? にゃにを――って、にゃに!? いつの間に、背後に来たにゃ!?」
「げっげっげ、ヤンフィ様。グレイプニル、ずるい!!」
タニアがヤンフィの鎖状の紐に驚愕して超反応で飛び退くと、まさにその瞬間、背後の闇から大鷲がゆっくりと現れた。まるで闇の中を移動したかのような不意打ちだ。
しかしその不意打ちを見越したか、大鷲がちょうど現れたタイミングで、ヤンフィの放った鎖状の紐がその体躯を縛り上げる。まず三本足と翼に絡みつき、胴体にグルグル巻き付いた。
大鷲は闇から現れるのと同時に、身体中を紐で雁字搦めにされたうえで、地面に跪かされていた。
「大鷲。汝の能力を知っておる妾が、手心を加えるとでも思うたか? タニア、セレナ、コウヤよ。彼奴は、こう見えても幻想種の魔貴族じゃ。名を大鷲と云う。時空魔術に似通った空間を操作する特殊能力を保有しており、空間隔離、空間転移が得意じゃ。妾が封印される以前、使役していた眷属の一匹じゃ」
「――げっげっげ、げっげっげ! 違う、違う! ヤンフィ様、大鷲、いまもヤンフィ様の眷属!! 青鳥、少鷲、大鷲、ヤンフィ様のモノ!!」
「黙れ――汝と少鷲は、妾を裏切ったろうが……汝らはもはや、眷属ではない。妾はいま、汝との再会で腸が煮えくり返っておる。これ以上の妄言、戯言をほざくならば、この場で消滅させても好いのじゃぞ?」
ヤンフィが涼しげな声でそう言うと、大鷲は言葉を飲み込み黙り込んだ。ただ、げっげっげ、という不気味な鳴き声だけ小さく響かせて、為すがまま地面に横たわる。だが、平伏しているのに、タニアよりもずっと巨躯なので、その威圧感が凄まじい。
「……にゃぁ、ヤンフィ様。この、オオワシ、って魔族は何にゃ? 魔貴族って言うけど、あちしの魔眼で、情報が一切見えにゃいにゃ……人族の言語を話せるってことは、少にゃくとも、二千年は生きてるってことにゃ?」
「へ? 二千、年――って、どゆこと?」
「ああ、そっか。コウヤは統一言語で意思疎通できるから分からないわよね? 今、このオオワシって魔族は、東方語を喋ってるわ――つまり、それだけ永く生きてるってことよ」
「……はぁ? 永く生きてる、から、何なの?」
「ああ、はいはい。常識だけど、その常識を知らないのか……仕方ないわね。簡単に説明するわよ」
煌夜の驚きに、セレナが丁寧に説明してくれた。
セレナ曰く、どんな魔族も千年を越えて生存すると魔眼を手に入れる。二千年を越えて生存すると人族の言語を解する。三千年を越えて生存すると特殊能力を手に入れる。四千年を越えて生存すると魔王属に成る資格を持つ、らしい。
そして、魔族は歳を重ねるごとに強さを増していくという。それが二千年歳を数えると、実力は軽く竜族の魔貴族に匹敵する、らしい。竜族の魔貴族がどれほどの強さかは分からないが、タニアと匹敵すると言われて納得した。
ちなみに、魔王属と竜眼を持つ竜族、二千年を越えて生存した魔族以外、人族の言語を解する魔族は存在出来ないらしい。例外はなく、それこそが神の定めた絶対のルールであり、全ての魔族に科せられた呪いだという。
つまり、セレナの説明から分かることは、大鷲が極めて強力な魔族であるということだった。
至極自然に人族の言語を口にして、タニアの魔眼が効かない存在。いきなりそんな化物が現れたのだ。タニアもセレナも最大限の警戒をするのは当然だろう。
さて、セレナの説明がひと段落したタイミングで、ヤンフィが大鷲に指を向けた。
「ちなみにじゃが、此奴――大鷲、と云う魔族は、優に三万年を越えて生き永らえておる最古の魔貴族じゃ。じゃが、大鷲と云うこの個体を語るならば、およそ数年から数十年程度じゃろぅ。大鷲、汝は今、いったい何年目じゃ?」
「げっげっげ、げっげっげ――九歳、九年目! 若造、若造!! ヤンフィ様と一緒!!」
ヤンフィの質問に対して、大鷲が馬鹿にするように濁声で答えた。その回答に、ヤンフィは不愉快そうに眉根を寄せている。
一方、ヤンフィの言葉にタニアが喰い付く。
「にゃあ、ヤンフィ様。三万年を越えて、ってどういうことにゃ? もし仮にそれが事実にゃら、ソイツは魔神じゃにゃいか!?」
「そうじゃが、それはこの個体で、三万年を越えられれば、じゃ――此奴は違う。特殊能力でもって、転生する魔族じゃ。死ぬと新しい個体で蘇り、魂のみが生き永らえる。じゃから、大鷲の魂、知識は、三万年を越えて存在しておるが、この大鷲と云う個体自体は、産まれてから九年程度、らしいのぅ」
「……え、と。転生する魔族って、神代の御伽噺にしか出てこないわよ……ああ、神代から存在してる魔族だから、そっか、御伽噺の魔族か……」
セレナが難しい顔で大鷲を見ながら、なるほど、と納得していた。
タニアはそれでも疑り深い視線を向けていたが、ヤンフィの強い視線に負けて、その疑いの言葉を呑み込んだ。
「さて、大鷲。妾たちは急いでおる。手短に答えよ。レーヌ様、とは何者じゃ?」
「げっげっげ! レーヌ・ラガム・フレスベラン! 魔王属に堕ちず、魔王を喰らった、稀有で、偉大で、凶悪な、混血獣人族!」
「――莫迦な。そんな戯言、妾が信じると思うか?」
「げっげっげ! 嘘、偽りない! 少鷲、大鷲、レーヌ様に、捕まった、隷属された! けど結局、レーヌ様、封印されて、大鷲、隷属解かれた! けど、また封印が解かれて、戻ってきた!!」
大鷲の楽しそうな笑い声と反比例して、ヤンフィの顔はどんどん曇っていた。内容は分からないが、結構深刻な話のようだ。
「…………まぁ、好い。一旦、レーヌ何某は捨て置く……のぅ、大鷲。ところで、妾たちはライム・ラガムという狐耳獣族に逢いたい。そこまで、妾たちを案内せよ」
「ライム・ラガム!? 居ない、今居ない!! 逆に、レーヌ様、今居る!! だから、ヤンフィ様、献上する!!」
「……ふむ。大鷲よ、二つ問う。レーヌ何某と、ライム・ラガムはどういう関係じゃ? 妾を献上するとは、如何なる目的からじゃ?」
「ライム・ラガム、レーヌ様の器、触媒、優秀な屍操術師! 今、レーヌ様と身体を共有! 夜、レーヌ様の時間、だからこの時間、レーヌ様、起きてる!! ヤンフィ様、貴重で稀有な旧い魔王属!! 魂喰らえば、レーヌ様、復活!!」
大鷲が濁声でたどたどしくも即答して見せる。内容は、煌夜にはチンプンカンプンだったが、ヤンフィには通じていた。
ヤンフィは神妙な顔をいっそう深刻そうに歪めて、大きく舌打ちをしていた。
「……ヤンフィ様。あちしの記憶が確かにゃら、フレスベラン、って数百年前に途絶えたはずの狐耳獣族の王家にゃ。しかも、レーヌって言えば、五百年前に獣族を支配した暴君の名前にゃ」
「げっげっげ! 猫耳獣族の分際で、詳しい、正解!! レーヌ様、ソレ!! 人族、狐耳獣族の、混血で、魂喰らいを持つ、究極の屍操術師!!」
「……なんか、やたらと厄介な流れになってきたわね。つまり何? ライム・ラガムって、そのレーヌなんちゃらに操られてるの?」
「げっげっげ、げっげっげ。妖精族、近いけど遠い!! 意志共有、身体共有、けど、精神支配者、違うだけ!! 今、この時間、レーヌ様、精神支配!!」
大鷲の説明に眉根を寄せるセレナだったが、ヤンフィが珍しく補足する。
「――セレナよ。端的に云えば、恐らく妾とコウヤのような関係じゃろぅ」
「あ、なるほど……で、今はそのレーヌの人格が出てる、と?」
「にゃんか、ライム・ラガムを仲間にするの、面倒そうにゃぁ」
タニアの台詞に、煌夜もうんうんと頷いた。ここまで来たが、実はマユミ・ヨウリュウよりもずっと厄介そうな相手かも知れない。
「げっげっげ! ヤンフィ様、ヤンフィ様。大鷲、役割果たしたい! ヤンフィ様、レーヌ様に献上、引き合わせる役目、実行したい! お願い、グレイプニル、解放! 大鷲、ヤンフィ様たち、攻撃しない!!」
「黙れ、大鷲。汝の事情なぞ知ったことではない――が、少しだけ譲歩してやろう。交換条件じゃ。汝の役目を果たさせてやる代わりに、妾が封じられておった時のことを詳しく教えてもらうぞ?」
「げっげっげ。承知、了解!! けど、ソレ後回し!! 先に、レーヌ様に届ける!!!」
「――まぁ、好い。後で嫌と云うほど聴かせてもらおう」
ヤンフィと大鷲の間で、何やら交渉が成立したようだった。だからだろう、ヤンフィが頷いた途端、大鷲を縛り付けていた紐が霧散する。
ヤンフィは、タニア、セレナ、煌夜の順に視線を向けてから、起き上がった大鷲の前に来て、その嘴を見上げた。
「タニア、セレナ。今から大鷲が空間転移を使用する。罠はないじゃろぅが、通った先で何が起きるか分からぬ。コウヤに万一の事がないよう注意せよ――さて、大鷲よ。全員が通れる大きさで、空間転移をせよ」
「げっげっげ! ヤンフィ様、人族、庇う、おかしい!! 妹君じゃないのに、何故!? 知りたい、知りたい、知りたい!!」
大鷲がクリクリとした双眸を煌夜に向けて、パタパタと翼を動かしながら駄々っ子のように叫んだ。
「――殺すぞ、大鷲! 無駄口を叩かず、移動させよ!!」
「グェ、ゲエエェエ!!」
駄々をこねた大鷲を一喝しながら、ヤンフィはかなりの強さでその胴体をグーパンチした。
ドガン、と爆音が響き、大鷲の腹部が爆散する。大鷲は腸と紫色の血が飛び散らせながら、三本足をガクリと折って、その場に顔から倒れ込んだ。死んだか、と煌夜は大鷲を注視する。
すると次の瞬間、何事もなかったように身体を起こして、その巨大な翼を全開させた。
そして、バサリと羽ばたきながら飛翔して、ヤンフィたちの頭上で止まる。途端、闇よりなお黒いカーテンのような魔力が降り注ぎ、あらゆる光を遮断させた。
頭上から降り注いだ黒いカーテンのような魔力は、むわっとした獣臭、不愉快な血の臭いをしていた。煌夜はあまりの暗さで不安になり、キョロキョロと辺りを見渡す。
「……何、この気味悪い空間」
「セレナ、お前、コウヤの傍に居ろにゃ。あちしが護るにゃ」
見れば、煌夜のすぐ傍には、警戒態勢のセレナが居た。また、二人の少し前には、タニアが魔力を漲らせながら立っている。
煌夜はホッと安堵する。どうやら分断された訳ではないようだ――と、安堵したのも束の間、次の瞬間、覆われていた黒いカーテンがいきなり払われる。
「――げっげっげ。レーヌ様、レーヌ様、獲物、連れてきた!! ヤンフィ様、大鷲、役目果たした。これで失礼!!」
黒いカーテンが消え去ると、そこは先ほどまでとは一変した景色だった。夜闇に閉ざされた街中ではなく、煌びやかな明りで満ちた広い空間である。
そこは、まるでダンスホールのようだ。
床は一面切れ目のない滑らかな石材をしており、ドーム状の天井は広く高く、部屋の中央に吊るされた巨大なシャンデリアは豪華絢爛である。天窓は色鮮やかな硝子窓になっており、シャンデリアからの光を反射させて、天井を美しく彩っていた。
ここがどこかは分からない。だが、確実なのは一つである。煌夜たちはいつの間にか、大鷲の能力で空間転移していたらしい。
「やぁ……こんばんわ。大鷲が、失礼をしなかったかな?」
煌夜が辺りを見渡していると、中性的なハスキーボイスが聞こえてきた。正面を向けば、ダンスホールの隅の壁に、寄り掛かるように手を付いた小柄な人影があった。
小柄な人影はフードを被ったまま煌夜たちに背中を向けており、足元まで隠れるほどの長い漆黒のマントを身に纏っていた。
「汝は何者じゃ?」
「――ボクは、レーヌ・ラガム・フレスベラン。この街の君主だよ」
ヤンフィの問いに、小柄な人影がフードを脱ぎながら、クルリと振り返る。その姿を見て、煌夜は思わず息を呑んだ。
レーヌ・ラガム・フレスベランを名乗ったその人影は、眠たそうな瞳をした美少女である。狐耳と同じ小麦色のロングヘアを一つに束ねており、フサフサの尻尾をマントの内側で右脚に絡ませている。肌は白く、体毛はほとんどない。
だからこそパッと見た瞬間、全裸にマント姿の露出狂にしか思えなかった。
しかし、よくよく注視すれば実際は、ビキニより少しだけ布面積が少ない黒色のブラとパンツを身に着けた下着姿だ。
とはいえ、あまりにも露出度が高く刺激が強い。煌夜は顔を赤らめて視線を逸らす。
レーヌは恥ずかしがる素振りなど少しも見せず、威風堂々と漆黒のマントを払って、両手を肩の高さまで上げた。素手であり、何も武器を持っていないことをアピールしているようだ。
だが、そんな振舞いに、煌夜以外の全員が警戒を高めている。
「初めまして、かな? 大鷲から、上質で強大な魔力が来るって聞いてたけど、本当に、その通りみたいだ。妖精族は小粒だけど上質そうだし、猫耳獣族は雑味が強そうだけど強大、人族も面白そうな魂をしてる――可憐なキミは魔王属だろ? ボクを満足させてくれそうな魂だ」
「挨拶は不要じゃ。本題に入ろう、レーヌ何某。妾たちは、ライム・ラガムを仲間にしたい。交渉は出来るかのぅ?」
レーヌがペロリと舌なめずりをすると、ヤンフィは一歩前に踏み出て、その右手に魔剣エルタニンを顕現させた。同時に、全身からおどろおどろしい瘴気を放ち、ダンスホールを重苦しい空気で満たす。
一瞬にして重苦しい空間になったダンスホールで、煌夜は助けを求めるようにタニアとセレナを見る。けれど、タニアもセレナも完全に戦闘態勢になっており、レーヌの一挙一動を注視して、一触即発の空気を放っていた。
一応、セレナもタニアも煌夜を気にして、庇える位置で身構えているが、その姿に余裕は感じられない。そんな二人を見て、煌夜はゴクリと唾を呑んだ。
露出狂にしか見えないレーヌだが、かなり恐ろしい存在のようだ。
「ライム? あ、キミたち、ボクの器に用事なのか――でも、残念。ライムは眠っているよ。キミたち、ボクの器の知り合いかな?」
「下らぬ問答は不愉快じゃ。妾は、交渉できるか、と聞いた? 汝はそれのみ答えよ。選択肢は、二つじゃ。服従するか、断って死ぬか――」
「――それは、ボクに対する叛意だね? であれば、ボクが選択するの三つ目だよ。キミたちの魂を美味しく戴こう」
ヤンフィの台詞に被せて、レーヌが薄ら笑いを浮かべながら断言する。すると、どこからか、げっげっげ、という濁声が響いてきた。大鷲の笑い声だ。
「レベル4、かな? 随分高レベルの魔眼だけど、ボクの幻術は破れるかな?」
レーヌが両手を自らの胸元に当てる。すると、その足元から黒い風が巻き起こり、漆黒のマントが羽のようにパタパタたなびいた。
その様を見て、ヤンフィの放つ瘴気がいっそう濃くなり、空気が重くなった。まるで水の中に沈んだような錯覚に陥るほど、ダンスホールの中に高密度の魔力が満ちる。
「……セレナよ。汝は、封印術は扱えるかのぅ?」
ふとヤンフィが普段の声音で、そんな質問をした。振り返りさえせず、視線は愉しげな表情のレーヌを注視していた。
セレナはそんな不意の問い掛けに一瞬ビクリとしたが、すぐに頷いて答える。
「扱えない、ですよ……ってか、封印術なんて、古の魔術過ぎますって……」
「タニアはどうじゃ?」
「……無理にゃ。天才のあちしも、そんにゃ旧い時代に廃れた封印術にゃんか、文献で記された文字の中でしか知らにゃいにゃ」
「となると……ディドならどうか――封印術を扱えると、楽じゃがのぅ」
ヤンフィは残念そうな溜息と共に、そんな呟きを漏らす。そして、タニア、セレナ、煌夜に向けて、魔剣エルタニンの腹を見せる。
「タニア、セレナ。コウヤを連れて、ここから出るが好い――大鷲、一度しか云わぬぞ。妾とレーヌ何某を、亜空間に隔離させよ」
「おやおや、大鷲? まさか、ボクの命令に逆らったりしないよね? 獲物は、この部屋から逃がさないようにね?」
ヤンフィの冷たく鋭いキレ声と、レーヌのおちゃらけた声が重なった。いっそうダンスホールの空気が重くなっていく。
「げっげっげ! 大鷲、今、レーヌ様に隷属! ヤンフィ様、命令、拒否!」
姿を見せないままで、大鷲が、げっげっげ、と不愉快な濁声を響かせている。
大鷲の返答に、ヤンフィは、ふむふむ、と頷いた。仕方ないのぅ、と小さく呟き、これ見よがしの溜息を吐く。
「――タニア、セレナ。妾がここを引き受ける。朝までレーヌ何某と戯れてやろう。じゃから、汝らはここを出てディドたちと合流せよ。そしてもし、ディドが封印術を扱えたならば、連れて来い」
「……ヤンフィ様。レーヌ・ラガム・フレスベランが強いのは分かるにゃ。にゃけど、あちしだけでも、充分、倒せるにゃ」
ヤンフィの命令に、珍しくタニアが反論する。同時に、漲らせた魔力を魔装衣に変えて、一歩前に足を踏み出した。今すぐ飛び掛かれるよう、前傾姿勢にもなっている。
だがそんなタニアに、ヤンフィが首を横に振った。
「汝では相性が悪い。対峙してようやく、マユミが挑発してきた理由を察したわ。レーヌ何某に抗し得るには、竜眼持ちか、冠級の魔術抵抗力か、マユミのような異常無効体質でなければ厳しいじゃろぅ。まぁ、タニアの云うことも事実ではあろう。汝が先祖還りして、殺す気ならば確かに倒せる。じゃが、目的はライム・ラガムの生け捕りじゃよ?」
「あの……ヤンフィ様、タニア。悪いけど、あたしとコウヤは確実に足手纏いよ? ってか、あたしじゃあのラガム族が、どれほど強いのか、底が見えないもの……」
「……なぁ、ヤンフィ。俺、どうすりゃ良いの?」
ヤンフィとタニアのやり取りに口を挟んで、セレナと煌夜は弱音を吐いた。それを聞いたタニアは、一瞬悔しそうにしてから、スッと一歩後ろに下がる。
その時、レーヌがパンと手を叩いた。瞬間――ぐんにゃりと景色が歪んで、ダンスホールが一面、青空に変わる。
足元の床は、どこまでも澄み渡る空と、風に流れる雲に変わり、見上げれば果てしない蒼が広がっていた。まるで空を飛んでいるような浮遊感があるが、接地感も足裏に感じているので、床が消えたわけではなさそうだ。
「さて、お喋りはここまで。全員を同時に相手にするほど、ボクは自惚れてはいないから、一人ずつ相手にしてあげよう。では、改めまして――『貴公らに問う。眼前に映る景色は、蒼天か、紅蓮か、暗闇か、いずれの世界を貴公らは観ている?』」
レーヌが唄うような問い掛けを口にする。すると、レーヌの白い肌全面に、緑色の魔力を放つ幾何学紋様が浮かび上がった。それは一見すると、セレナの頬にある紋様に似ている。
煌夜は無意識に、綺麗だ、と呟いて、そのまま問い掛けに応える。
「……蒼い、空が、視える――」
「紅の海、一面の赤、よ……」
「暗闇にゃ!! 惑わされるにゃ!!」
答えてからハッとする。煌夜はどうしてか、無自覚にレーヌの問い掛けに答えていた。
けれど、それは煌夜だけの話ではなかった。セレナ、タニアも、煌夜と異なる答えを口にしている。二人も答えてからハッとして、咄嗟に口元を押さえていた。
一方で、ヤンフィだけが沈黙を返している。
そんなヤンフィに、レーヌはむぅと難しい顔をしていた。
「げっげっげ、レーヌ様。ヤンフィ様、こう見えて、百戦錬磨! 幻惑、効き目薄い!! 心の殺し方、人族よりずっと上手い!! 油断、即死!!」
「――『あらゆる死の具現を前にして、妾は常に生き残る。幾度も現れる死の壁を前にして、妾は常に打開する。無数の死に彩られた運命を前にして、妾は常に選択する。妾は未来を読み、妾が未来を選定する。妾にとって、最善で、最適で、最高の未来を――』」
大鷲の声を無視して、ヤンフィが流麗な詠唱を始めた。
その詠唱は滑らかで、聞き惚れるほど美しい旋律だった。まるで吟遊詩人が弾き語りをしているような錯覚をしてしまう。
だからこそ、直後に警笛の如く響いた大鷲の絶叫に、耳を汚された、と顔を顰めてしまった。
「げっげっげ!! レーヌ様、油断禁物!! ヤンフィ様、本気、全力、桃源発動!! 魔王を屠った神の祝福の本領!!」
煌夜、タニア、セレナは、全員同時に、不愉快極まる顔で天井付近に視線を向ける。そこには、のたうち回るように羽をばたつかせた大鷲が浮かんでいた。
「――――ん、あれ? 景色が戻った」
そしてふと気づく。煌夜の視界が、元通りのダンスホールを映していて、先ほどまでの青空はなくなっていた。
「へぇ? ボクの幻術が上書きされた?」
「否じゃ――汝の幻術は、大したものじゃ。お世辞抜きに、魔王属に匹敵するじゃろぅ。じゃから妾は、汝を侮らず、本気で対峙してやる。ちなみに汝の質問に答えると、これは上書きではなく、妾の能力で覆い隠しただけじゃ」
「……ふぅん。この場合、ボクはさすが魔王属、って褒め称えた方が良いのかな?」
居住まいを正すように、レーヌがヤンフィを真正面に見据える。応じるように、ヤンフィもグッと腰を落として、その左手に細長い棒のような刀――次元刀エウクレイデスを顕現させた。
右手に魔剣エルタニン、左手に次元刀エウクレイデスを握り締めて、ヤンフィは全身から燃えるような魔力を放った。するとヤンフィの足元に魔法陣が刻まれて、空間を切り裂き、四種の武器が現れて床に突き刺さる。
四種の武器は、それぞれ形状は様々だったが、どれも見事な装飾が施された80センチから100センチほどの武器だった。
一つは白い刀身を持つ円月刀で、柄頭には虎の装飾。一つは赤い刀身を持つ円月刀で、柄頭には燃える翼の装飾。一つは青い刀身を持つ飾太刀で、柄頭には龍の装飾。一つは真っ直ぐと伸びた刺突剣で、持ち手には真円の盾が付いていた。
「げっげっげ、げっげっげ!! 魔力喰い、次元刀、四神器!! 大盤振る舞い!!」
野次にも似た大鷲の叫びを合図に、ヤンフィがフラリと身体を揺らした。瞬間、レーヌは両眼を見開き満面の笑みを浮かべて、目の前に青いカーテン状の魔術壁を展開した。
「ふむ。咄嗟で、物理魔術混合障壁を展開するとは――魔王を屠った、と云う大鷲の言葉はどうやら全くの出鱈目ではないようじゃのぅ?」
瞬きよりも疾く、ヤンフィの身体はレーヌの眼前に迫っており、その右手に構えた魔剣エルタニンが突き出されている。けれど、そのあらゆる魔力を喰らう魔剣エルタニンは、どうしてかレーヌが展開した青いカーテンを貫けず、バチバチバチ、と紫電を撒き散らしながら防がれていた。
「レーヌ様、レーヌ様!! 大鷲、巻き込まれたくない!! 異空間、逃げる!!」
「――タニアよ。コウヤを頼むぞ。大鷲が邪魔するようならば、殺して構わぬ」
「分かったにゃ! 任せるにゃ!」
大鷲の絶叫、被せてヤンフィが左手の次元刀エウクレイデスを無造作に振るう。次元刀エウクレイデスの軌跡は、空間を削り取ったように黒い線を描き、美しい魔法陣を空中に浮かび上がらせる。
それを目にした途端、ぐにゃりと煌夜の視界が歪んで、身体の自由が利かなくなった。
まるで貧血で気絶する直前のように、サァ、と頭から血の気が失せて、ふわりとした浮遊感に包まれる。だが恐怖感はなかった。意識はハッキリしていたし、タニアが抱き締めてくれていたからだ。
「……ボクは、逃がさない、って言ってるのに……そもそも、逃げられると思えるのが凄いなぁ……」
そうしてタニアの温もりを感じながら、視界全てがブラックアウトする寸前、レーヌのため息交じりの声が聞こえてきた。
その声を最後に、次の瞬間、電池が切れるように突然、鮮明だった意識が落ちる。
◆◇◆◇◆◇◆◇
夢を見ていた。長く苦しく、悲しい夢だった。
どんな夢だったか、映像は全く思い出せず曖昧だが、例えようもない悪夢であることだけはハッキリしていた。
バリバリ、グチャグチャ――そんな風に、絶えず耳に聞こえてくる不愉快な咀嚼音。
止めて、どうして、何でこんなことに――そんな風に、絶えず心に響いてくる幼い女の子の悲痛な声。
絶えず鼻腔を刺激する異臭、吐き気を催す激臭。
絶えず口の中を満たす吐瀉物の味、繰り返しせり上がってくる胃液の味。
絶えず襲い掛かってくる強烈な虚無感、寂寥感。
映像は何一思い出せないのに、その悪夢はトラウマになるくらいの恐怖を伴っていた。二度と体験したくないし、二度と思い出したくもない最悪と確信している。
だというのに――それが凄まじい悪夢だと理解しているのに、どうしてか思い返すと、ひたすら悲しい気持ちになる。
(……家族が、死んじゃうのは、悲しいな……)
煌夜は胡乱な思考で、なぜかそんなことを考えた。
どうしてそんな思考に至ったか分からない。けれど、その絶望的な悪夢を見て、寝惚けた頭が導き出した感想がそれだった。
(…………あれ? 俺、いま、寝てる?)
そしてふと、煌夜は自らの感想に疑問を持ち、同時に、思い出せない悪夢の内容を急速に忘れ始めながら、自分が寝ていることを自覚する。
寝ていることを自覚すると、覚醒するのはすぐだった。
煌夜は曖昧な思考ながらも、自分がいまどうなっているか意識した。
すると、身体が激しく上下に揺らされている感覚があり、耳元で、はぁはぁ、という荒い呼吸音がしていることに気付く。
どうやら煌夜は、誰かに担がれて移動している状況のようだ。
「――――タニア!! 正面、お願い!!」
「分かってるにゃ!! 魔喰玉!!!」
直後、耳元でセレナの叫び声と、ドガンという凄まじい破裂音がして、パラパラと顔に砂埃がぶつかる。その破裂音と衝撃に眉を顰めて、煌夜は目を覚まして顔を上げた。
見れば、ガラガラと崩れていく城壁と、見渡す限りの闇が広がっていた。
「――え?」
「ん? あ、コウヤ、起きたの? じゃあ、舌噛むから、口閉じてて!」
トン、と軽い跳躍の音と共に、仰天している煌夜の思考は置き去りにして、セレナが夜闇に向かって飛ぶ。どうやら煌夜は、セレナに背負われていたらしい。
「――――ちょ、え!? なん――」
「避けるにゃ、セレナ!!!」
「チッ――コウヤ、受け身取ってね!!」
チラと振り返って見ると、城塞の屋上が一つ上の階に見える。なるほど、城塞の高層階から、壁をブチ破って飛び降りたらしい。
見下ろすと、地表との距離は軽く二十階以上の高所だ。しかも真下は、底が見えない深い堀が待ち受けている。
状況を理解した瞬間、煌夜の身体はふわりと浮遊した。セレナに放り投げられたらしい。一方でセレナは、風の魔術だろうか、さらに上空に飛び上がった。
受け身、とは、堀に飛び込む覚悟をしろ、ということだろうか。煌夜は起き抜けの呆けた思考で、為すがまま宙に投げ出された。
「この――いい加減に、しろにゃ!!」
その時、怒り声と共に、壁が爆発するように破壊されて、巨大な鳥が飛び出してきた。それは、ギャギャギャ、という奇怪な悲鳴を上げながら、勢いよく螺旋回転して吹っ飛んでいく。
セレナは巨大な鳥を注視ながら、自由落下する煌夜の身体を風の魔術で包み込んでくれた。落下速度が緩やかになる。
「さっきから鬱陶しいにゃぁ――これで終わらすにゃ」
そして巨大な鳥が吹っ飛んでから若干遅れて、タニアが魔装衣を纏った状態で飛び出してくる。背中に四対の魔力で作られた翼を携えたその姿は、地上に舞い降りた天使のようだ。
だが、そんな天使は右手を頭上に上げて、極めて凶悪な魔力の槌を展開させていた。
「ギャギャギャ、ギャギャギャ!! 手強い!!」
すると、凄まじい勢いで吹っ飛んでいた巨大な鳥が、いきなりピタリと空中で制止する。同時に、その場で大きく翼を広げて、タニアとセレナに正対しながら嘴を開いた。
途端、フォ――ン、と耳鳴りに似た超音波が響き渡り、タニアとセレナは顔を顰めてから驚愕の表情を浮かべた。
「にゃ!? またか! 魔力が散らされ――って、魔装衣も消せるにゃか!?」
「くっ!? 今度は、広範囲の【対抗魔術】!? あ、ちょ、落ちる!?」
二人が驚いている様子を目にしながら、煌夜の身体を包んでいた魔術が霧散した。当然、また勢いよく自由落下し始め――ドボン、と水柱を上げて堀に落ちた。
幸いにして、既にそれほど高さがなかったおかげで、叩きつけられる衝撃は死ぬほどではなかった。
「ギャギャギャ、これ、対抗魔術違う。対抗魔術より強力無比、効果上!! お前ら、逃がさない!! レーヌ様の命令、絶対!! お前ら、ヤンフィ様の仲間!! だから、少鷲、本気で闘う!!」
プハッ、と堀から顔を出した煌夜に向かって、頭上で巨大な鳥がそんな台詞を叫んでいた。
少鷲、と名乗っているその巨大な鳥は、大鷲とソックリのフォルムをしていたが、全長は大鷲ほど大きくない。対比物がないので正確には分からないが、恐らく2メートル前後だろう。大鷲よりもだいぶ流暢に喋っており、やたらと甲高い声だった。
「コウヤ、ちょっと退いて!」
「ん!? おぉ、うぁ――」
ドパン、と盛大に水柱を立てて、煌夜の目の前にセレナが落下してくる。ちょうど浮かび上がったところに落ちてきたので、あわや激突する寸前だったが、何とか避けることが出来た。
そんなセレナに少し遅れて、タニアが猫のように、音もなく地面に着地していた。
「んにゃぁ……コイツ、面倒にゃ」
「ギャギャギャ、ギャギャギャ! 面倒、光栄! 面倒、時間稼げる! 時間稼いで、レーヌ様を待つ!! 少鷲、役目果たせる!」
「フハッ――クソ! 何よ、あの化物鳥。魔術が効かないのは、ちょっと反則よ!! タニア、あたし、コウヤを護るから、ソイツ頼むわ」
セレナは水面から顔を出すが否や、絶叫するように悪態を吐いて、タニアに強く懇願する。けれどそんなセレナには視線すら向けず、タニアは上空の巨大な鳥――少鷲を睨み付けていた。
「んん? アレ? なんか、大きく、なってないか?」
煌夜も、ギャギャギャ、と奇怪な声を上げ続ける少鷲に視線を向けて、はてな、と思わず首を傾げた。どうしてか、先ほど見た時よりも、少鷲の体躯が大きくなっているように思えた。
気のせいか、目の錯覚か、と煌夜は何度も目を擦って、改めて目を凝らす。しかし、目の錯覚でも気のせいでもなく、少鷲の体躯は、明らかに先ほどよりも大きく――否、現在進行形で巨大になっていく。
「何よ、アレ!?」
「にゃんで、でかくにゃってるにゃ!?」
セレナもタニアも、その光景を目にして思わず叫んでいた。
三人が唖然とする中、少鷲は、城塞から吹っ飛んできた時より、軽く三倍超も大きくなって、嘴をガバっと開いていた。ちなみに三倍超というのは、目測でしかないが、壁面に空いた穴と対比してそれくらいの巨大さだった。
「ギャギャギャ、ギャギャギャ!!! 【黒雨】!!」
「――嘘、でしょ!?」
少鷲の開いた嘴から黒いブラックホールが生まれて、次の瞬間、カラスの羽みたいな形の魔力が、夜空を覆い尽くした。
明らかな攻撃魔術、それも広範囲に降り注ぐだろう絨毯爆撃だ。
煌夜は顔面を蒼白にさせる。それはセレナも同じで、いきなりガバっと煌夜に抱き付いてきた。あまり肉感はなかったが、水の中にあって人肌は少し暖かくホッとする。
「セレナ、コウヤは任せたにゃ!!!」
一方で、タニアはその羽を見た瞬間、グッと足元に力を入れて腰を落とし――刹那、ロケットの如く、少鷲目掛けて跳び上がった。
そのタニアの突撃に呼応して、少鷲は何やら叫びながら、夜空を埋め尽くす黒い羽を降らせた。それは誰がどう見ても黒い雨だった。
「コウヤ、痛いのは慣れてるわよね? あたしが回復させるから、即死だけ気を付けて!」
黒い雨が降り注ぐ光景を見て、思わずギュッと目を瞑った煌夜を、セレナがそんな不穏当なことを言いながら水の中に沈ませる。
「な――ガボ、っ!?」
心の準備もなくいきなり水の中に沈められたせいで、思い切り水を呑んでしまったが、慌てて口元を押さえて呼吸を止める。直後、肩口と足先を何かで抉られて、激痛を感じた。
(――痛、って……ちょ、息出来ない……死ぬ!?)
ゴボゴボ、と口元から気泡を出しつつ、セレナに抱き付かれたまま水底まで沈められて、さらに押さえつけられる。何が何やらではあるが、少なくとも分かることは、水に逃げなければ黒い雨に貫かれて死んだであろうこと、そして、このままでもあと数十秒で窒息死してしまうであろう事実だった。
「ここまできたら、魔力が扱える……って、コウヤ、水中呼吸出来ないの?」
「ガ、ボ……グ」
(そんなの、出来るわけ、ないだろ――)
どうやっているのか不明だが、セレナの声が耳元で鮮明に聞こえるので、煌夜は思わず口を開けてしまい、一気に肺の空気を逃す羽目になった。
「まぁ、いいや。あと数分だけ堪えてね。タニアがあの化物鳥をなんとか捕縛するまでの辛抱よ」
ガボガボ、と口から空気を出しながら苦しんでいる煌夜に、セレナはそんな死の宣告じみた台詞を吐く。煌夜は、セレナの言う『あと数分』という単語に気が遠くなり、同時に、肺の空気が少なくなったことで意識が遠くなり始めた。
「……ん? あれ? コウヤ? ちょっと、酸欠?」
水中で、ペチペチと頬が叩かれる感覚があるが、もはや煌夜はそれどころではない。頭には酸素が巡らず、思考は朦朧としていた。
「――はぁ、世話が焼けるわね。『癒しの風よ、彼の者を包み込め』」
白目を剥いて意識を手放す寸前の煌夜を、その時、優しく温かい何かが包み込む。同時に、顔が丸い気泡で包まれたかと思うと、腹部を鋭く殴られて、ガハ、と水を吐かされた。乱暴である。
ゲホゲホ、とむせる煌夜に、セレナが、ふぅ、と呆れた顔で溜息を吐いていた。
「ゲホ、ゲホ――も、もっと優しく、助けて、くれよ……」
「これ以上ないくらい丁寧に助けたじゃない? 気付けだって、癒しの風で治してるから、痛いだけでしょ? そもそも文句を言う前に、水中呼吸の魔術操作くらいは修得しといて欲しかったわよ?」
「……ゲホ……な、なんで、俺、怒られてるの?」
苔でヌルつく水底に背中を押しつけられた煌夜は、理不尽な物言いを甘んじて受けて、覆いかぶさるように水中でマウントを取るセレナを見上げた。
気泡のおかげで水の中がよく見渡せる――と、セレナの背中に刺さった巨大な黒い羽を目にして、煌夜はギョッとする。
よくよく見ると、セレナの背中からは、紫色の血が煙のように水の中に立ち昇っていた。
「セレナ、お前……その背中……!?」
「ん? ああ、大丈夫よ。この程度ならすぐに癒せるから――それよりも、あの化物鳥、タニアがちゃんと捕縛してくれないと困るわね」
難しい顔をして、セレナは水中で上を向いた。
水の底から空を見上げる感覚は、まさに水族館のような気分である。薄暗い水の中は時間の流れが緩やかに思えた。
そうして、しばし二人は無言のまま水底で息を潜めていたが、ふとセレナが慌てた様子で煌夜を見下ろしてくる。その顔は驚きに満ちていて、しかも恐怖に歪んでいる。
どうしたのか、と煌夜は首を傾げた。すると、いっそう恐怖を浮かべてセレナは声を上げる。
「――ねぇ、ちょっと、コウヤ……アンタ、何を……何してるのよ!?」
「……ん? え? 何してる、って、へ?」
セレナの言葉に疑問を浮かべながら、ふと視線を見下ろす。けれど、何が起きているのか、煌夜は自らのことなのに気付けなかった。
ところで、何が起きているか自覚さえしていない煌夜だが、その手はセレナの左腕を強く掴んでおり、関節とは真逆に圧し折っていた。事故でも過失でもなく、煌夜の意思が介在しないところで、セレナの腕を綺麗に骨折させている。
「何、自覚がないの? ああもう――【神聖なる陽光】!!」
セレナは苦痛に顔を歪めながら、捕まれた左腕を無理やり振り払った。そして、慌てて煌夜から距離を取って、眩い光を放ってくる。
その光は煌夜の全身を包み込み、ホッと気持ちを落ち着かせてくれた。
どうやら治癒魔術のようだ。おかげで、煌夜の身体は水中でいっそうスムーズに動き、流れる動作で【紅蓮の灼刃】を振るっていた。
「グゥ、ッ!? や、やっぱり、この程度じゃ、無理なの!?」
「セレナ? さっきから、何を……?」
苦悶の表情を浮かべて、セレナはまるで独り芝居のように、水中で手足をバタつかせて悶えていた。その様は、陸に上がって呼吸が出来ない魚に似ている。
そんな感想だけを抱きながら、他には何の疑問も持たずに、煌夜はセレナの胸元を紅蓮の灼刃で貫いていた。凄まじい勢いで、紫色の血が水に溶けだしている。
「――【全異常治癒】じゃなきゃ、無理っぽい、か……仕方ない、っな!!」
「あれ? セレ、ナ? ん? 俺、何を……ガボ!?」
「悪いけど、コウヤ。原因が分からないから、気絶してもらうわよ!」
パン、と耳元で何かが弾けた音がして、次の瞬間、煌夜の顔を包んでいた気泡が弾けて、ふたたび窒息の憂き目に遭う。ゴボゴボ、と肺から空気が逃げ出して、スゥ、と意識が薄らいだ。
そんな煌夜に、殺さないから安心して、とセレナは続けて、思い切り腹部を蹴り飛ばされる。同時に、煌夜の手から紅蓮の灼刃を奪い取って、貫かれた胸元に手を添えていた。
「癒しの風よ――」
セレナの全身が淡い緑色の光に包まれて、瞬く間に左腕と胸元の傷が癒えていく。まるで逆再生されているように、すぐさまセレナは元通りになる。
結構な深手、というか致命傷にしか見えなかったが、どうやらそれほど深刻ではなかったようだ。
『……この異世界人、潜在魔力量は凄いのに、魔力が巧く使えないなぁ……精神感応も高いのに、接続が上手くいかないし……異世界人特有の異能さえ、知らないみたいだし……』
セレナが治る様を呆と眺めていた煌夜の頭の中に、そんな不思議な声が響いていた。その声はヤンフィとは違う声で、どこか聞き覚えのある声だ。しかし、どこで聞いたか思い出せない。
『……魔王属に護られてるから、なんか特別な関係かと思ったのに……弱点も知らないみたいだし……こりゃ、思ったよりも面倒だなぁ……』
そんな声が頭の中で響いているのを認識しながら、煌夜は酸欠により意識を失う。
ちなみに意識を失う寸前、セレナが煌夜の身体を水底から押し上げてくれたのをなんとなく眺めていたので、これで窒息死する配はないな、と少しだけ安堵感があった。