第八十二話 アベリン事変/中編
19000文字をちょい超えてます。長くなった…
悲劇めいた嘆きを口にしたガストン・ディリックは、煌夜の睨み付けなどまるで気にも留めず、ネチネチと呪詛の如く言葉を続ける。
「ああ、本当に最悪だよ。不運極まるね、これは、本当に――おっと」
その時ふと、ガストンが何かに気付いたような声を上げて、シルクハットを目深にかぶり直した。トン、と軽やかな跳躍でその場を跳び退くと、一瞬で十数メートルほどマユミから距離を取った。瞬間、何の前触れもなく、ガストンが立っていた足元が大きく裂けて、地割れが起きる。
「剣技――烈震」
全くの無音で地面が切り裂かれた直後、解説するかのようにマユミが技名を口にする。見れば、マユミは居合いのような態勢で、ガストンに向けて薄笑いを浮かべていた。
どうやら、マユミが何らかの攻撃――恐らくは非常識なレベルの斬撃をガストンに放ち、その結果が地面を叩き割ったようだ。
煌夜はその威力を目の当たりにして、背筋が凍るような恐怖を感じた。
「はぁ……全く。マユミ君だけでも厄介極まりないのに、ここでキミたちまで相手になんて出来やしないよ。流石に、準備不足過ぎる。もしキミたちを相手にするなら、生贄三人分じゃ、全然足りないしね」
「おい、ガストン。貴様、また逃げるのか? せっかく貴様の思惑通りに舞台を整えてやったというのに――こうして、わざわざ生命を補充させてやったろ?」
「いやいや、マユミ君。この状況は逃げるしかないでしょ? だって、たかだか三人分の生命だよ? マユミ君独りならいざ知らずさ。この程度で、タニア君たちまで相手にするのは無理だよ」
ガストンはため息交じりにそんな弱音を吐きながら、トントン、と軽やかなバックステップで闇の中に退いていく。
何のために現れたのか。すぐさまこの場を去ろうとするガストンに、煌夜は怪訝な視線を向けた。すると視線がバチっと合い、途端、ガストンの双眸が大きく見開かれる。
ガストンは驚愕の表情を蒼白に、恐怖が浮かんだ双眸で煌夜を――否、正確には、煌夜の背後を凝視していた。
「いやいや――ちょっとぉ!? うぉ――」
「跡形もにゃく消え去るにゃぁ――」
何を見ているのかと疑問に思ったのも束の間、煌夜の真後ろからタニアの叫び声が響いた。
「――魔槍窮っ!!」
驚愕するガストン目掛けて、タニアが躊躇なく本気の魔槍窮を放ったらしい。
振り返るまでもなく、煌夜のすぐ横を凄まじい勢いで、巨大な緑色の奔流が通り過ぎた。それは一直線にガストンへと迫り、ガストンを正面から飲み込み、ついでに夜空の闇を切り裂いて流星の如く飛んでいく。
あ、こりゃ、死んだな――と、煌夜は他人事のようにその光景を眺めていた。
「なぁ、タニア。今のって、確か……ガストン・ディリック、だっけ?」
「お、覚えてたにゃか、コウヤ? そう、正解にゃ。ガストン・ディリック――【世界蛇】のレベル3とか名乗ってた馬鹿にゃ。あちしに仲間ににゃれとか、意味不明にゃこと言った馬鹿にゃ。けど、もう終わりにゃ。手応えあったにゃ」
煌夜の確認にタニアは頷き、豊満な胸を張って自信満々にガッツポーズをして見せた。
確かに、あの魔槍窮が直撃して、無事に済むとは思えない。しかし、そんな楽観的な煌夜たちとは裏腹に、ヤンフィは鋭い視線を魔槍窮が飛んで行った方向に向けていた。
何を警戒することがあるのか。煌夜もヤンフィの視線を追って、一応、ガストンの吹っ飛んだ方向を見やる。けれどそこには、魔槍窮の余波で抉れた地面と、立ち込める土煙があるだけだ。
「にゃにゃ!?」
「――ほぅ?」
ところがふと、タニアとヤンフィが何かに反応した。
煌夜が二人の不吉な反応に、どうした、と疑問を持った瞬間、ディドが慌てた様子で目の前に駆けてくる。ディドは両手を広げて、煌夜を庇うように立ちはだかり、超高密度の魔力壁を展開した。
「――土龍牙」
すると、正面の闇から高らかに流暢な宣言が響いた。同時に、岩石で創られた巨大な龍が、煌夜を目掛けて突撃してくる。
「うぉ!?」
ドガン――と、凄まじい爆音を立てて、全長4メートルを越える長大な石塊の龍がディドの展開した魔力壁にぶつかる。その激突の衝撃は、魔力壁で防御されているにも関わらず、踏ん張った煌夜に尻餅をつかせるほどだった。
土塊の龍は、ガリガリ、バチバチと魔力壁に激突しながら、消えることなくせめぎ合う。
「くぅ――っ!? タ、タニア、何とかしてくれないかしら!?」
「私を無視するなよ、ガストン――剣技、裂空」
ディドが苦しげな声でタニアに助けを求めた刹那、マユミが愉しげな声と共に刀を振り抜いていた。
無音で振り抜いたその白刃は、サァ――と、夜の闇を切り裂いて、魔力壁とせめぎ合っている石塊の龍の首を豆腐を斬るように刎ね飛ばす。
「にゃぅ!? お前、危にゃいにゃっ!!」
一方で、ディドの助けに応じて魔槍窮の姿勢を取っていたタニアは、横合いから突如割り込んできたマユミに強い口調で警告した。土塊の龍を吹き飛ばすつもりの魔槍窮が射線上に居るマユミを捉えており、このまま放てば巻き込むことになる。
――とはいえ、タニアがマユミを巻き込むからと、その魔槍窮を止めることはなかった。
「……おいおい、タニア。私を巻き込むなよ」
容赦なく放たれる魔槍窮は、土塊の龍の残骸を呑み込んで一直線にマユミに迫った。迫り来るそれを冷静に眺めながら、マユミはため息交じりに呟いて刀を振るう。
「剣技――天空閃」
振るった白刃が、中空に真円の如き美しい丸を描いた。すると、土塊の龍の残骸を飲み込んだ魔槍窮が見えない何かに弾かれて、マユミに当たることなく月に向かって逸れていく。
タニアが本気で放った魔槍窮をいとも簡単に逸らせるマユミの技量を見て、煌夜は息を呑んだ。
「チッ……軽く弾きやがって、ムカつくにゃ……」
タニアが悔しそうに呟いている。しかしなるほど、ヤンフィが警戒するだけある。実際にその実力を目の当たりにして、いかにマユミが規格外の化物か、煌夜もしみじみと理解した。
「……まったく……いきなりあんな攻撃してくるなんて……相変わらず、タニア君は短気だなぁ……油断してたとはいえ、今の一撃で、貴重な生命を一つ、消費しちゃったじゃないか……」
不意にその時、土煙の中からそんな愚痴の囁きが聞こえてくる。
顔を向ければ、揺らめく蜃気楼の如く、ガストンの姿が闇の中に浮かび上がってきた。土塊の龍で反撃してきたことから半ば予想していたが、その予想は裏切られずにガストンは五体満足で無傷だった。
「ってか、やっぱり、タニア君まで相手にするのは無理だな……ちょっと、生贄が足りなすぎるよ」
視える限りは身体のどこにもダメージはなく、まるで何事もなかったように振舞うガストンに、煌夜を含めた全員が怪訝な表情を浮かべた。
ガストンはその注目に応えるように、シルクハットを外して苦笑しながら、クルリと回って五体満足であることをアピールする。
「……にゃんかタイヨウと同じにゃ。手応えあったのに、殺せにゃい……にゃんだ、お前?」
そんなガストンを睨むように見ながら、タニアが忌々し気に問い掛けた。同時に、さらに追撃するつもりで腰を落としながら拳を引き絞っている。
「おっと、怖いなぁ、タニア君。一応、言っておくと、ボクはタニア君たちとは闘うつもりがないんだ――ん? ちょっと待って……今、タイヨウって言った? タイヨウって、まさか……魔道元帥ザ・サンのことかい? タニア君、よもやボクの上司と面識でもあるの?」
タニアの問い掛けにガストンは途端表情を硬直させて、恐る恐ると首を傾げた。その台詞と反応を見て、何やらピンときた様子のヤンフィが、横から口を挟んだ。
「――のぅ、ガストンとやらよ。今この瞬間、この場を見逃して欲しくば、魔道元帥ザ・サンの秘密を明かして貰おうかのぅ? 彼奴は何故、あれほど死に難いのか――まぁ、汝を視ていて、凡そ見当が付いたがのぅ」
タニアが魔槍窮を放たないよう手で止めつつ、ヤンフィが一歩前に出る。
「マユミよ。汝も動くでないぞ――妾は、此奴から情報を引き出したい。引き出すまでは、手を出すな」
ヤンフィは鋭い視線をマユミに向けて、勝手に動かないよう釘を刺した。するとマユミは、振り上げようとした刀をピタリと止めて、渋面でヤンフィを睨む。
「……気付かなかったけど、キミ。まさか、魔王属かい?」
「妾が何者かなぞ、汝には関係あるまい? じゃが、答えてやろう。妾は紛れもなく魔王属じゃ」
「…………計画したこと全部、想定外の事態に直面して、どうしようもなく瓦解していくなぁ……ボクはもしや、呪われてるのかなぁ?」
疲れたように息を吐いて、ガストンが天を仰ぐ。もうお手上げとばかりに両手を上げて、持っていたシルクハットは地面に落ちた。
「…………見逃して、くれるのかい?」
「まず妾の質問に答えよ。魔道元帥ザ・サンのことで、知っていることを洗いざらい教えてから、命乞いすれば考えてやろう」
天を仰いでからたっぷり十秒ほど経ってから、ガストンが探るような口調で答えた。ヤンフィはそれに即答して、さらに一歩前に出た。
ヤンフィの全身からは禍々しい瘴気が漏れており、気付けば、まとわりつくような重苦しい空気が大通りに満ちていた。
「仕方ない――魔道元帥ザ・サンのことで、ボクが教えられることなんて、少ししかないよ。例えば彼が二百年前にこのテオゴニアに来た異世界人で、不老不死の特性を持っていることや、不死の禁忌魔術を扱えて、冠級の時空魔術師ってことくらいかな」
ガストンはヤンフィを真っ直ぐと見詰めながら、苦笑交じりにそんなことを口にする。
ペラペラと実にあっけなく上司のことを喋るガストンの態度に、煌夜は少し不信感を覚えた。簡単に答えるということは、嘘ではないのか、と――しかし、それを聞いたヤンフィは満足気に頷いていた。
ヤンフィの千里眼が魔力を帯びているのを見ると、感情を読んだうえでそれが真実であることを見抜いている様子だ。
ガストンがさりげなく後退りながら、言葉を続けた。
「あとは、そうだなぁ――魔道元帥ザ・サンがこの世界を壊したい理由も知ってるよ。彼は昔、元の世界に恋人が居たらしい。だから必死に元の世界に戻る方法を模索したけど、結局、戻る方法を突き止める前に百年以上経っちゃったから、もはや戻っても意味がないってなって……自分を苦しめたこの世界をいっそ壊してしまおうって、自暴自棄になったのさ。下らない子供の癇癪さ」
ガストンはヤンフィから視線を逸らさず、大きく一歩後方に跳躍する。その後退を容認して、ヤンフィはタニアを止めていた手を下げた。
「では、次――最後の質問じゃ。不老不死の特性、とは何じゃ? 汝が行使しておる禁術『生命補充』とは異なる術かのぅ?」
見下すような視線をガストンに向けながら、ヤンフィは微塵切りにされた男たちの死骸に指先を向けた。禁術『生命補充』とやらが何か分からないが、マユミに殺されたその男たちが関係しているようだ。
「……ふふふ、流石、魔王属だね。よくこの禁術もご存じで――と、ああ、魔道元帥の不老不死の特性だよね。教えるよ。どうせ知ったところで何も出来ないし。えとね、魔道元帥は、存在の因果を異世界に置いてきているんだ。だからそもそも、この世界じゃ彼を殺すことは原則不可能なんだよ。けど、殺す手段がない訳じゃない。例えば、同じ異世界の因果を持つ同郷の存在が殺すか、因果をも消滅させられる武器とか、魔術であれば殺せるだろうね」
スラスラと魔道元帥ザ・サンの秘密を口走るガストンに、ヤンフィは目を細めて神妙な顔になっていた。ちなみに、煌夜には何のこっちゃかよく理解出来ない。
「――待つにゃ。だとしたら、あの回復力、説明付かにゃいにゃ。因果が存在しにゃいだけにゃら、むしろ死ねずに朽ちるはずにゃ」
「タニア君も素晴らしいね。その通り――でも、そこが魔道元帥と呼ばれるに足る所以さ。彼は常時、七人分の生命補充を展開してるんだ。しかも同時に、『再生の鎧』も肉体の内側で展開されてる。そこまですると、常人ならすぐ魔力枯渇しそうなもんだけど、平然とそれをこなして、且つ時空魔術も行使する――だからこその【魔道元帥】だよ」
ガストンは我が事のように自慢げに言いながら、また一歩、後ろに退いた。その台詞に、タニアはいかにも不愉快な顔を浮かべながらも納得する。ヤンフィも同様に、なるほど、と頷いていた。
一方、まるで話に付いていけない煌夜はキョトンとして、ディドとクレウサ、セレナは、信じられないとばかりに眉を顰めていた。
「さて――ところで、ヤンフィ様よ。話がひと段落したように思うが、私はどうすれば良い? 情報の引き出しが終わったように思えるが、見逃すのか?」
その時、全身リラックス状態で構えを解いていたマユミが、ニヤニヤと含み笑いを浮かべながらヤンフィに問い掛けてきた。
マユミのその台詞を聞いた瞬間、ガストンが引き攣った笑いを浮かべる。
「妾は見逃すことにしよう。此奴如きに時間を割いても仕方ないからのぅ――じゃから、マユミは勝手にせよ。妾は汝に加勢せぬし、汝を止めることもせぬぞ?」
ヤンフィは含み笑いを浮かべながらそう告げると、ガストンから無防備に視線を逸らした。途端、ガストンはこれ幸いと背を向けて、目にも留まらぬ速さで走り出した。
――だが、一歩踏み出した刹那、その両足が撥ね飛んで、顔面から地面に倒れ込んだ。
「おいおいガストン。せっかく舞台を整えてくれたのに、逃げるなんて興醒めだろ? 貴様も世界蛇のレベル3なら、相応の抵抗をしてくれ」
「…………マユミ君。ボクは一旦仕切り直したいんだけど、それは駄目かな?」
「駄目じゃない――けれど、それは嘘だろ? 私としても、仕切り直して貴様を万全の状態にしてやりたい気持ちはあるが、貴様、ここから逃げ延びたら姿を眩ますだろ?」
マユミは愉しそうな声音で言って、脱力した自然な姿勢のまま、刀を正中線に構える。倒れ伏したガストンとの距離は目算で20メートルほどだが、恐らくこの距離は既に、マユミにとっての必殺の間合いだろう。マユミの浮かべる不敵な笑みが恐怖を誘う。
そんな二人に巻き込まれないよう、さりげなくディドが煌夜の身体をそっと押しながら、ヤンフィの背後に回り込んだ。
「…………仕方ない、なぁ。どうしてこうも不運なんだろうね? ん……いや、待てよ? よくよく考えれば、タニア君たちはこっちに手を出さないんだよね? ってことは、結局、マユミ君との一騎打ちってことで、それは逆に幸運じゃないか――マユミ君を仕留めた後は、タニア君たちを口説ける訳だし。そうだね。よし、マユミ君。キミの要望に応えて、ボクが本気で相手してあげよう!!」
絶望的な声音で呟いていたガストンは、けれど突如、嬉々とした声音に変わる。情緒不安定なのか、と心配したくなるほど喜怒哀楽が激しいが、気持ちを切り替えたようだ。
「――さぁ、パーティの始まりだ」
ガストンがそう叫んだ瞬間、地面に倒れ伏していた身体が煙のように掻き消える。
どこだ、と周囲を探すと、五体満足でシルクハットを被ったガストンが、灰色のローブをたなびかせながら中空に飛翔している。
煌夜は元に戻っている足を見て、切断されたはずの両足を探したが、地面に転がっていたはずのそれは跡形もなく消えている。まるで手品だ。
「嗚呼、愉しみだ。私はまだ一度も、世界蛇の幹部クラスと闘ったことがないからな――ヤンフィ様、タニア。先に行ってくれて構わない。ここは私がやろう」
浮遊するガストンと相対して、勝手に盛り上がっているマユミは、嬉々とした声音でそんなことを口走った。その台詞に、タニアが呆れた顔で首を振っている。
「……にゃあ、ヤンフィ様。マユミが原因でこんにゃ余計にゃことに巻き込まれてるにゃ。マユミが強いのは認めるにゃが、厄介ごとを呼び込むのは間違いにゃいにゃ。ここに置いてくだけじゃにゃくて、もう見限るべきじゃにゃいか?」
「……正直、ワタクシもタニアと同意見かしら。ヤンフィ様、この街を出るまではマユミを同行させたとしても、ドラグネスに連れていくのは危険かしら」
ヤンフィの左右で、珍しくもタニアとディドがそんな進言をしていた。それを横目に、煌夜はこれからどうするのか、ヤンフィに助けを求めた。
すると、ヤンフィは半ば投げやりな調子で、戦闘状態のマユミに声を掛けた。
「――マユミよ。勝手にせよ、と云うたじゃろ? 其奴との確執に、妾たちを巻き込むでないわ。ガストンは汝単独で仕留めるのじゃ。ああ、それと、ここでは闘うなよ? 無関係なオルドたちに被害が及ばぬようにしろ――妾たちは往く。ちなみに、朝方も云うたが、ライム・ラガムが従順じゃった場合には、当然、汝を見限るぞ?」
「それは承知している。当然だろ――ま、見限られないよう、すぐに追いつく」
ヤンフィのその台詞に、タニアとディドが目を丸くして驚いていた。
何を言っているのか、と問い詰めようとして、それより先に、ヤンフィは煌夜に詰め寄る。
「コウヤ、ここに居っても埒が明かぬ。往くぞ――」
「――ぅ、え? おぉ!?」
それは珍しくも焦るような口調だった。ヤンフィは煌夜の腕を掴んで、その矮躯からは想像も出来ないほど強烈な力で腕を引っ張る。
煌夜は思わず変な声を出しながら、満足に抵抗できず、放り投げられているような勢いで大通りを疾走した。一瞬、ガストンの脇を抜ける瞬間、ニヤリと不敵な笑みを向けられたが、特に何もされることなくすれ違うことに成功した。
ヤンフィと煌夜の疾走を見送ってから、数秒遅れて、ディドが舌打ち混じりに飛翔する。
タニアも苛立ちを顔に出してから、待つにゃ、と煌夜たちの後を追ってくる。セレナ、クレウサは溜息を漏らしてから、ガストンを警戒しつつ、駆け足で走り抜けていた。
ガストンは誰も止める気がないようで、マユミと対峙したまま、ただ不敵な笑みを浮かべていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ちょ、おい、ヤンフィ。待ってくれよ、腕が、千切れる……」
「ん? おお、すまぬ」
ヤンフィに腕を引かれてだいぶ走ったところで、煌夜は苦情を漏らした。振り返れば、とっくにガストンたちは見えなくなっていた。
「――ヤンフィ様。あの男、何者かしら? 実力もさることながら、魔貴族を三体……影に隠して従えていましたかしら」
「ディドお前、にゃにを聞いてたにゃ? アイツ、自称世界蛇の幹部、ガストン・ディリックって馬鹿にゃ。目的は不明にゃけど、どうやらマユミ狙いのようにゃ」
ディドがスッと煌夜の横に降り立ち、背後を振り返りながら、遠い目をしてヤンフィに問う。それを聞いて、タニアが非難がましい口調で言う。
「のぅ、ディド、タニアよ。汝らであれば、彼奴の相手は出来たかのぅ?」
並走しながら睨み合うディドとタニアに、ヤンフィが問い掛ける。どこか挑戦的な響きで、二人を試すような視線だった。
ディドとタニアはその問いに、一瞬だけキョトンとするが、すぐさま答えた。
「ワタクシでは勝ち目はなかったかしら。隠れていた魔貴族程度なら相手取れましたけれど、あの男もとなると、不可能ですわ」
「にゃはは、ディドは雑魚にゃぁ――あちしにゃら殺し切ったにゃ。ま、獣化したかも知れにゃいけどにゃ」
「……獣、化?」
ディドが悔しそうに目を伏せながら言うのを横目に、タニアが胸を張りながら勝ち誇る。そんな二人に挟まれつつも、煌夜はタニアの台詞に首を傾げた。
「あ、コウヤは知らにゃいか――あちしは先祖還りにゃ。この姿は人化状態で、本来の姿は別にあるにゃ。あちしが本来の姿ににゃると、段違いに強くにゃるにゃ」
煌夜は、ニカッと笑顔を見せるタニアを見ながら、タニアの本来の姿、とやらを想像してみた。
きっと全身が毛深くなって、爪が鋭く牙が出るのだろう――イメージとしては人狼、いわゆる狼男のような姿に違いない。
「異世界ファンタジーだしな……」
煌夜はそんなよく分からない呟きを口にして納得しながら、前を向いて歩こう、と正面に顔を向ける。瞬間、ギョッとして立ち止まった。
「――ご安心を、コウヤ様。この程度の相手であれば、ワタクシたちの障害にならないかしら」
煌夜が立ち止まったのを見て、傍らで並走していたディドも立ち止まる。
二人が立ち止まったことに気付いて、ヤンフィとタニアも立ち止まり、直後、何で足を止めたのか納得して頷いた。
そこに若干遅れて、セレナとクレウサが追い付いてくる。
煌夜は恐怖で顔を引き攣らせながら、見間違いだよな、と改めて正面を注視した。
狭い路地を抜けた先、噴水のある開けたその広場には、巨大な半透明の膜が天高く壁のように屹立していた。それは遠目に幻想的な光景なのだが、恐怖の光景はその向こう側にある。
半透明の膜を隔てた向こう側には、蠢くほど夥しい量の大蛇が巣食っており、その大蛇を踏み潰しつつ半透明の膜に棍棒を振るっているカバの顔をした巨人が居たのだ。そこは、もはや別世界の阿鼻叫喚の図である。ちなみに目を凝らすと、大蛇に埋もれて、冒険者らしき死体がゴロゴロ転がっていた。
「にゃるほどにゃ。雑魚とは言えあの物量が攻めてきたら、アベリンの冒険者じゃ苦労するにゃあ――防衛隊とやら、全滅してるにゃ」
やれやれ、とタニアが呟いた。それに賛同するように、ヤンフィが頷いている。
「……ねぇ、あれってコモドヒュドラ? ちょっと異常な量がいるじゃない……ってか、あの不細工な顔の巨人は何なの? あたし見たことないけど……」
「ヒポギガント――知能は低く攻撃魔術の類は行使しませんが、常時、筋力強化の魔術を行使している戦士系魔族ですね。人界で目にするのは稀です。珍しい魔族ですね」
セレナが大蛇を指差しながら首を傾げた。すると、クレウサが剣を抜きつつ回答する。
ヤンフィ、タニアは当然、それ以外の三人も、この異様な光景を前に無感動のようだった。この場で恐怖を感じているのはどうやら煌夜だけであり、五人にとってはこれは窮地でさえないらしい。
頼もしい反面、味方に対しても恐怖を感じてしまい、煌夜は思わずごくっと唾を呑んだ。
「そうじゃそうじゃ……タニアよ。確認したいのじゃが、ライム・ラガムが居るのは、ここから視えておる城塞で間違いないのじゃな?」
「そうにゃ。にゃので、この広場を突っ切って、直進するにゃが一番の早道にゃ」
ヤンフィが夜闇を見上げながら、遠くに見える鉄塔の如き建物を指差した。目を細めながらその指先を目で追ってから、タニアがうんうんと頷いていた。
そんなやり取りをする二人に、ディドが一つの提案をした。
「――ヤンフィ様。この程度の相手、クレウサ単騎でも充分に対応できるかと存じますわ。クレウサにお任せ頂けませんかしら?」
ディドは言いながら、チラとクレウサを見る。クレウサは唐突に話を振られた為、一瞬キョトンとしたが、すぐさま胸元に手を当てて頷いた。
「お任せください。私単騎で、充分蹴散らせるでしょう――お任せ頂いても宜しいでしょうか?」
「……まぁ、そうじゃのぅ……消耗戦になることもあるまい……が、万が一、マユミが反旗を翻した場合を考えると――」
ヤンフィはディドの提案に神妙な顔で悩んでいた。何に悩んでいるのか、煌夜は不思議な顔でヤンフィを眺めていた。
「――ふむ、クレウサよ。汝に任せよう。眼前の雑魚を蹴散らすが好い」
「畏まりました。お任せを」
しばし熟考の末、ヤンフィはそんな命令を下した。
クレウサは即答で応じて、剣を中段に構えた姿勢で駆け出した。その動きはまさに疾風の如くで、夜闇を溶かしたような漆黒のポニーテールをたなびかせながら、カバ顔の巨人に躊躇なく飛び掛かる。
「あ――ぶつかる!!」
半透明の膜に突撃するクレウサに、思わず煌夜は叫んでいた。けれどそれは杞憂だった。
クレウサは何の抵抗もなく半透明の膜の向こう側に進み、カバ巨人の懐に潜り込んでいた。そして、軽く見積もってクレウサの三倍超はあろうカバ巨人――ヒポギガントの太い首を目掛けて、必殺の横薙ぎを振るう。
「ブフォォオオ、グァォヲォオオオ!!」
「ハァ!? 硬い――ッ!?」
果たして、首には傷一つ付かなかった。信じられないことに、クレウサの剣戟は首を落とすことなく弾かれていた。
ヒポギガントの怒号とクレウサの驚愕が同時に発せられて、次の瞬間、半透明の膜を叩いていた棍棒が力任せに振り下ろされる。クレウサ目掛けたその棍棒の振り下ろしは、ヒポギガントの鈍重そうな外見の印象とは裏腹に、目にも留まらぬ疾さだった。
クレウサは咄嗟に回避できず、慌てて防御するしかなかった。
ズガン――と、凄まじい轟音が響き、夜闇を照らすほどの爆発が発生する。
「――ぅくぅ、ぅ!?」
クレウサは棍棒を受け止めきれず、コモドヒュドラで埋め尽くされた地面に激突していた。その衝撃は凄まじく、辺り一帯に地響きを起こして、煌夜は思わずよろめいた。
「――あの個体、少し異常ですわ……ヤンフィ様。ワタクシも加勢して宜しいかしら?」
「ふむ。確かにのぅ。魔貴族でないようじゃし、突然変異とも思えぬが、あの強靭さはちと異常じゃのぅ。タニアよ。鑑定ではどうなっておる?」
「にゃんの変哲もにゃいヒポギガントにゃ。魔族、九歳、魔力量は八十八にゃ。クレウサの一撃で殺せにゃい理由が分からにゃいにゃ」
ヤンフィたちの間でそんなやり取りがなされている一方で、ヒポギガントは容赦なく、地面にめり込んでいるクレウサに棍棒を振り下ろし続けていた。追撃、という言葉では生温いほど連続に親の仇をミンチにする勢いで、ブォオオ、と叫びながら地面のクレーターを叩いている。
「…………ちょっと、アレ。流石にマズイんじゃないの?」
振り下ろされるたびにその衝撃で、まるで粉塵の如く宙を舞うコモドヒュドラ。
一打一打で発生する地響きと、舞い上がる土煙。
凄まじいその光景を見ながら、セレナが少しだけ青ざめた顔で呟く。そんなセレナに頷くように、ヤンフィがディドに振り返った。
「得体が知れぬ。注意せよ」
「畏まりましたわ。コウヤ様、少しの間、失礼いたしますわね」
「――タニアよ。汝は手を出さず、周囲を警戒しておれ」
「にゃにゃにゃ! 分かったにゃ!」
ヤンフィの言葉に無表情で会釈してから、ディドは煌夜の腕に絡めていた腕を離すと、スッと前に踏み出した。刹那、ふんわりと爽やかな緑色の風が吹き抜けて、ディドの背中に風が集まり翼を形作る。風翼と呼ばれる天族特有の翼である。
「――グォ!? ガァアォゥ、フグォオオオ!!」
ディドが風翼を展開させた途端、ヒポギガントが動きを止めた。同時に、素早い動作で一歩後退して、ディドに向かって何事か喚き散らす。
「粗野で低脳な魔族の割には、危険察知能力は高いのかしら? けれど、もはや手遅れかしら」
唄うような宣言を合図にして、ディドの右手に風が集まり渦を巻き出す。ふと気付けば、いつの間にかその右腕には、光り輝く美しい白銀の籠手が装備されていた。また、左手には、眩い黄金の光沢を放つ長弓を構えていた。
ディドはまるで階段を上るような足取りで、何もない空中に飛び上がる。ヒポギガントがいっそう吼え猛った。
「――クレウサ。防御なさい」
静かに響く冷水のような声。それを合図に、ディドが緩やかな動作で長弓を構えた。次の瞬間、右手に白銀の鏃を持つ魔力の矢が出現して、それが目にも留まらぬ早業で次々と放たれた。
それは幻想的な光景だった。まるで夜空を埋め尽くす流星群を彷彿とさせるものだ。見上げる限りの夜闇が一面、魔力の矢で覆われて、篠突く雨の如く横殴りに飛んでいくのである。
ドドドドド、というたった独りの所業とは思えない連続射撃が、半透明の膜をビリビリに破いてヒポギガントに降り注いだ。
「えげつにゃいにゃぁ……」
タニアがそんな感想を口にする。その囁きに煌夜も思わず同意した。やり過ぎだ、と断言できる猛攻だ。実際、周囲の建物がその余波に中てられて、物凄い速度で倒壊していく。
「――――ん? えッ!? アレ、って……ちょ――っ!!」
「んにゃ? あ、マズイにゃっ!!」
戦時中の爆撃映像を思わせるディドの大破壊を眺めていた時、ふいに何かに気付いて、セレナが素っ頓狂な声を上げた。続いてタニアもそれに気付いたようで、慌てた様子で煌夜の眼を塞いでくる。
「うぉ――っ!? な、なんだよっ、いきなり!!」
「ん? ほぉぅ――これは珍しいのぅ。アレは、ヒュドラ女王ではないか?」
タニアの柔らかな胸圧を背中に感じながら、煌夜は閉ざされた視界でヤンフィの呟きを耳にする。何が何やら分からないが、どうやら新手が現れたらしい。
「あんにゃ化物が、にゃんでこんにゃとこに居るにゃ?」
「ヤンフィ様、どうするんですか? アレと交戦するなら、コウヤを隠さないと――」
「ああ、なるほど。じゃから、目隠しなぞしておるのか。それならば、安心せよ。コウヤの瞳は、妾の魔眼と同一じゃ。石化や魅了などレベル4以下の魔眼は効かぬ」
慌てた様子のタニア、セレナとは裏腹に、ヤンフィは苦笑しながらそう答えていた。
煌夜は頭にクエスチョンマークを浮かべつつも、なんとなく新手が厄介であることだけを理解した。石化とか魅了とかいう単語から推察するに、恐らくはステータス異常を引き起こす類の敵であるようだ。
「……ホントに、大丈夫にゃか?」
「妾の云うことが信じられぬかのぅ?」
「……ヤンフィ様が慌ててにゃいし、信じるにゃ」
パッと、視界が開かれる。
煌夜は離れていくタニアの温度を少しだけ残念に思いつつ、何が起きたのか、と正面を向いた。刹那、全身を恐怖が襲った。
「――――なっ!?」
ソレを見付けた瞬間、煌夜は全身を硬直させた。目が合った瞬間から視線は釘付けになり、足元が凍り付いたような錯覚をする。
ソレは、ディドの矢継ぎ早の猛攻を一身に浴びるヒポギガントの後方、目算で100メートルほど後ろに、雪のように白い肌をした裸の女の魔族が立っていたのだ。ソレが魔族と一目で分かったのは、あまりの異形がゆえである。
暗闇の中で、スポットライトを浴びたように雪色の素肌を晒す異形――上半身は彫刻を思わせる美しい造形をしており、乳首のない乳房を露出させている。その両腕は鈍い光を放つ青銅製であり、背中からは黄金の翼が生えていた。下半身は人馬一体を思わせる四足歩行をしており、全長が3メートルを超えるほどの巨躯である。
しかしそんな明らかな異形よりも、何より煌夜の目を惹くのは、その相貌であり、双眸だった。
遠目に眺めてさえ、その相貌が息を呑むほど美しいものと分かる。ディドとタニアの横に並べてさえも決して見劣りしないだろう美麗な顔立ちに、吸い込まれるほど深い闇を映す瞳、そして頭髪が全てうねる大蛇だった。
第一印象で脳裏を過ぎったのは、ギリシャ神話に登場する怪物メデューサである。
「……ヤンフィ様。ここはワタクシとクレウサにお任せを。上位種とはいえ、魔貴族が一体だけならば、ワタクシたちで充分倒せますわ」
「おいディド。にゃに強がってるにゃ。あんま上位種を舐めにゃい方がいいにゃ。上位種は魔貴族の中でも別格にゃ。アレがどれくらい強いかは分からにゃいけど、少にゃくとも、竜種に匹敵すると思うべきにゃ。実際、魔力量もディドより高いにゃ――つまり、お前らじゃ荷が重いにゃ。あちしが殲滅するにゃ」
ディドは構えを解いて弓を下げると、矢の流星群を浴びて倒れ伏すヒポギガントを眺めながら、ヤンフィに進言する。けれどそれに間髪入れず、タニアが挑発的に横やりを入れた。
「――にゃあ、ヤンフィ様。アレ、あちしに殺らせてくれにゃいか? あちしにゃら、確実に殺し尽くせるにゃ」
「タニア、汝は手を出すな。先のガストンが引き連れていた魔貴族然り。図ったように妾たちの往く手を阻むこのヒュドラ女王然り。余程、ライム・ラガムは警戒心が強いようじゃ。となれば、この後にも魔貴族が待ち構えておる可能性が高いじゃろぅ――この中途半端な魔貴族の配置を考えると、妾たちを足止めする為のようにも思える」
「足止め、にゃか?」
「そうじゃ。まぁ、仮に足止めでなくとも、わざわざ一つ一つ潰していく必要もないじゃろぅ? 妾たちの目的は、魔貴族を殲滅することではない――ライム・ラガムを仲間に引き入れることじゃ。無駄に時間を浪費して、彼奴を逃すわけには往かぬ。じゃからここは、ディドたちに任せて素通りするべきじゃ」
ヤンフィは有無を言わせぬ口調で言うと、難しい顔をするタニアを見詰める。
タニアは、むー、と口をへの字にしながらしばしヤンフィと睨み合ったが、仕方ない、と全身を脱力させて漲らせていた魔力を雲散霧消させる。
「……えっと、いいんですか、ヤンフィ様? クレウサとディドに任せるって言っても、クレウサは――」
恐る恐るとセレナが挙手したが、その瞬間に、ドガン、と爆音を轟かせて、クレウサの埋まっていたクレーターが爆発した。
もうもうと土煙が上がり、それ煙を掻き分けて、黒い何者かが飛び出てくる。
「はぁ――はぁ、っ――はぁ」
果たして飛び出してきたのは、満身創痍で青息吐息のクレウサだった。
クレウサは空高く飛翔して静止すると、倒れ伏したヒポギガントを凄まじい形相で睨みつけた。
「――あんな状態だけど、任せるんですか?」
セレナが悲痛そうな表情でクレウサを指差す。確かに、と煌夜も頷いた。
クレウサの姿は、誰が見ても悲惨の一言である。右腕は折れて骨が露出しており、かろうじて握っている剣も半ばで折れて欠けていた。
流石にあんなクレウサでは、もはや戦力にならないだろう。煌夜も思わず、悲痛な表情になっていた。
一方で、そんなクレウサを一瞥してから、メデューサの如き頭をした裸女がヤンフィを見据えながら近付いてきた。
その場の全員が、裸女の一挙手一投足に警戒を強めた。
「……其方に坐すは、我らを統べる資格持つ者。選ばれし魔王属で御座いますね? そんな魔王属が何故、愚劣なる人族と共に居られるのか?」
酷く耳障りな羽音のような音が、メデューサの如き裸女――ヒュドラ女王から聞こえてくる。
どう聴いてもただの気持ち悪い音で、言葉として機能しているようには思えないそれだが、しかし煌夜とヤンフィには意味が伝わった。ヤンフィの恩恵、統一言語の言語翻訳機能のおかげである。
煌夜は耳障りなその羽音に顔を顰めつつ、どう答えるべきかヤンフィに視線で問い掛けた。ヤンフィは、ふむ、と頷いて冷徹な視線を向けた。
「汝は、妾が何者か理解出来るだけの知性があるようじゃのぅ? であれば、逆に問おう――汝は妾に質問出来るほど高尚な存在か? 妾の眼前において、汝の態度はあまりにも不遜じゃろぅ?」
台詞には殺意と侮蔑が篭められており、その矮躯からは死を強く意識させる強烈な威圧が放たれた。
ヤンフィの冷徹な声の響きは、耳にしただけで全身が凍り付き、直接向けられた訳でもないのに、煌夜は足元が震えて尻餅をつきそうになったほどだ。
ところが、そんな強烈な威圧を前にして、ヒュドラ女王は態度を変えず、高らかな絶叫を上げる。
「嗚呼、嗚呼、嗚呼、なんと嘆かわしい!! 人に毒されし愚劣なる魔王属!! 我らを統べる資格を喪いし者よ!! 人族諸共、今ここで我が滅ぼし尽くそう!!」
高らかな絶叫は、魔神語を理解出来ない者にとっては、キュルルルル、という超音波でしかない。
正しくその言葉を理解出来たのは、煌夜とヤンフィだけだった。だが、それが宣戦布告であることは、ヒュドラ女王の態度で誰もが理解していた。
ヒュドラ女王は後ろ足だけで立ち上がり、乳房を見せ付けるように大きく両手を広げた。その両の掌からは禍々しい紫色の魔力球が無数に浮かび上がり、ヒュドラ女王を中心に旋回し始める。同時に、ヒュドラ女王の頭部でうねる大蛇たちが、一斉にその牙を剥いて毒液を吐き出していた。
毒液は地面に垂れた瞬間、凄まじい異臭と煙を上げて地面を溶かす。ちなみにその毒液を浴びてしまったコモドヒュドラは、一瞬にしてドロドロになって溶けていた。
「……なぁ、ヤンフィ。あの怪物、無視して進むのは無理じゃないのか?」
「コウヤよ。心配する必要はない。妾たちはクレウサとディドと信じて、ただ進めば好いだけじゃ――のぅ、ディド?」
煌夜はヒュドラ女王の恐ろしい視線と威圧を前に、弱気になってヤンフィに質問する。しかしヤンフィはそんな煌夜を一笑に付して、不敵な笑みをディドに返していた。
ヤンフィの言葉を背中で聞いて、ディドが、ふぅ、と溜息を漏らしたのが分かった。仕方ない、と言葉に出さずにその態度で示していた。
「――ええ、承知しておりますわ、ヤンフィ様。任された以上、コウヤ様たちには指一本触れさせませんし、責任持って殲滅いたしますかしら。クレウサ、貴女はそこのヒポギガントを抑えなさい。ワタクシがヒュドラ女王を抑えますわ」
一瞬だけ視線を煌夜に向けて、すぐさま満身創痍のクレウサに顔を向ける。
「――契約、召喚」
ディドがボソリと呟いた途端、その全身が黄金色の魔力に包まれた。それはまさに、魔法少女の変身シーンである。ディドの身に着けていた衣装が黄金色の光によって作り変えられて、一瞬のうちに、金色のドレス姿に着替えていた。また、そのドレスは背中側が大きく開かれており、露出した背中には、風翼ではなく純白の巨大な天翼が羽ばたいていた。
「――天使、だ」
「――天使、ね」
その姿はまさに天使である。
あまりにも神々しいその姿に、思わず煌夜とセレナは見惚れて、同じ感想を口にしていた。
「天族が二匹、我が魔術に抵抗出来るものか!!」
呆ける煌夜たちとは裏腹に、ヒュドラ女王はそんなディドを見て、キュルルル、と発狂したかのような甲高い音を鳴らす。同時に、ダン、と地に足を付けて、ディドに向かって突撃してきた。
ヒュドラ女王の突撃の速度たるや、新幹線を思わせるほど素早いものだった。紫色の魔力球を身体の周囲で高速旋回させながら、何もかもを踏み荒らす凄まじい勢いで駆けてくる。
「……生憎、ワタクシ、魔神語は理解出来ないかしら。けれど、喧嘩を売っていることだけは理解出来ますわ――それでは、コウヤ様、ヤンフィ様。ワタクシが、通れる道を用意いたしますわ。合図したら駆け抜けて欲しいかしら――『神の矢よ。あらゆる全てを射止めて、あらゆる全てを洗い流せ。銀腕弓術奥義、神罰の矢』」
突撃してくるヒュドラ女王を睨んで、ディドは長弓を空に向けて構え――瞬間、いつ射たのか視えないほどの疾さで、幾筋もの光の矢を打ち上げる。
それは天空で折り返して、ヒュドラ女王の頭上に、光の豪雨となって降り注いだ。
ドドドドド、という轟音を伴い、地響きを起こすほどの威力をした光の矢が、切れ間なく天から降ってくる。その光の豪雨はヒュドラ女王を覆い隠して飲み込む。
「グォオオオオ――!!!」
ところで、ディドがヒュドラ女王に意識を向けた瞬間、狙いすましたかのように、ヒポギガントが絶叫と共に起き上がった。
起き上がったヒポギガントは、その巨大な体躯からは信じられないほどの俊敏さで跳躍して、ディドに向かって襲い掛かる。
「お前の、相手は、私だっ!!」
「――グォオゥォオオオ!!!」
ディドを目掛けて、ヒポギガントは棍棒を振り下ろした。だがそれをさせじと、クレウサが絶叫しながら魔術の光剣を振るう。
打ち下ろしの棍棒の一撃と、光剣による切り上げの一撃が激突する。
二者の渾身の一撃は、互いに火花を散らして、凄まじい爆音と同時に弾かれた。
棍棒は爆散して、光剣は霧散する。その衝撃により、クレウサもヒポギガントも吹っ飛ぶように距離を取った。
ヒポギガントは家屋を破壊しながら尻餅をついて、すぐさま起き上がると地団駄を踏んでいる。
クレウサは吹っ飛ぶ勢いそのまま、さりげなくセレナのところに転がって、折れた右腕と満身創痍の身体を治癒してもらっていた。
「有難うございます、セレナ様……ディド姉様! ヒポギガントは私が――」
「――クレウサ、倒すことよりも今は、コウヤ様たちが通れるように、道を用意することが優先かしら」
「倒――あ、申し訳ありません。畏まりました」
クレウサの台詞を先読みしたディドが、最後まで言わせずピシャリと言い放つ。その口調には余裕が感じられず、視線もヒュドラ女王から少しも逸らしていなかった。
そんなディドの状況を見て、クレウサは気を引き締め直したようだ。セレナに感謝すると、ヒポギガントに意識を向けて、その両手に長さの異なる光の剣を顕現させる。両手に剣を持つ二刀流である。
「あ、ちょっと! まだ癒しきれてないわよ!?」
「もう充分です。ディド姉様の期待に応えます」
棍棒を失ったヒポギガントは苛立ちを露わにして、武器になりそうな獲物を捜していた。
「――コウヤ様、ヤンフィ様! お先にどうぞかしらっ!!」
ふとその時、ディドが叫んだ。また同時に、キャラララララ、とヒュドラ女王の不愉快極まる絶叫が、光の豪雨からも響き渡った。
「好し――タニアよ。コウヤを抱えろ! ここを駆け抜けるぞ! ディドよ、ヒュドラ女王は冠級魔術を展開するつもりじゃ、心せよ!」
ディドの合図に対して、ヤンフィが焦った口調で怒鳴った。瞬間、ヤンフィの声にハッとして、煌夜は我に返る。
「コウヤ、舌噛むにゃよ!」
「は? え、うぉぉ――――ちょ、タニア!?」
タニアは煌夜を脇に抱えると、直後、弾丸と呼ぶに相応しい速度で駆け出す。煌夜は身動きできない不格好な状態で、凄まじい横Gと強風を顔面に浴びる。
「セレナ、お前も走るにゃ!!」
「ちょ、ちょっと待ってよっ!!」
タニアはセレナにそう叫びつつ、この広場を抜ける為に一直線に駆けている。だがその直線上には、武器を見つけられずに苛立つヒポギガントが立ちはだかっていた。
しかも、ヒポギガントだけではなく、ディドが抑えているヒュドラ女王も、魔術でタニアたちの往く手を阻もうとしていた。
「キャララララ――!!!」
「グァアアオオオオオ!!!!」
ヒュドラ女王が全身から紫色の煙を出しながら絶叫する。同時に、ヒポギガントも、タニアたちを阻むように太い両手を広げて怒号を上げる。
「ディド、クレウサ、任せるぞ」
タニアの弾丸速度に余裕顔で並走しながら、ヤンフィがクレウサを睨み付けた。その睨みに対して、クレウサは深く頷き、全身から魔力を迸らせる。
そしてタニアの弾丸並の速度より圧倒的に疾く、それこそ瞬間移動を思わせる動きで、クレウサはヒポギガントに突撃しながら二刀を振るう。
「――ハァアアッ!!」
「――グォ!?」
壁の如く立ち塞がったヒポギガントが、クレウサの剣技で吹っ飛んだ。その隙に、タニアとヤンフィが駆け抜ける。
だが、一難去ってまた一難だ。
タニアたちの往く手に、突如として紫色の煙が壁となって現れた。ヒュドラ女王の魔術による進行妨害だ。効果のほどは分からないが、タニアは忌々しそうに舌打ちして、急ブレーキをしている。
「調子に乗らないで頂きたいかしら!」
しかし紫色の煙は、ディドが行使した黄金の風に吹き飛ばされて綺麗さっぱり霧散した。
「好くやったディド。セレナも遅れるなよ」
「分かってますよ!」
ちょうど遅れて追い付いたセレナに発破をかけて、ヤンフィが先頭になり再び走り出す。タニアも負けじとフルスロットルで疾駆した。
ちなみに、その急停止、急発進のおかげで、煌夜は三半規管を乱されて吐きそうになっていた。
「逃げるのか、魔王属! 邪魔をするな、忌々しい天族!!」
遠ざかる煌夜たちに、キュルキュル、と非難がましい叫びが聞こえてきた。
それを無視して、ヤンフィ、タニア、煌夜、セレナの四人は、なんとか無事に広場を駆け抜けることに成功する。
そうこうして広場を抜けてから、大通りの突き当りを曲がり、緩やかな上り坂で脇道に逸れた。
「――――うっ!?」
脇道はだいぶ悲惨な光景が広がっていた。
あちこち家屋が崩れているのはデフォルトだったが、既に腐り始めている人間の死体が多く転がっているのが印象的である。
それらの夥しい数の死体は、人族が三割、獣人族が七割といった割合で、老若男女問わず、腹を裂かれ、四肢を折られて絶命していた。それらの死に様はまるで、大型動物の檻に入れられて食い散らかされたようだ。ましてやその腐臭は、糞尿の臭いとも混じっているようで、異臭というよりも激臭に近い。
ただでさえ酔い気味だった煌夜は、その刺激臭に耐え切れず、凄まじい吐き気に襲われる。
「――ッ!! ちょ、タニア、下ろして、くれ!」
「んにゃ? どしたにゃ?」
煌夜は慌ててタニアに訴えた。タニアは素直に応じて、すぐさまピタリと止まってくれる。
だが、もはや手遅れだった。煌夜の吐き気はとっくに限界を超えていて、道端の死体を横目に、胃の中を全部吐き出した。
煌夜はタニアに抱えられながら、その場に、げぇげぇと吐いた。
「……汚いわね、コウヤ」
「だらしないのぅ、コウヤ」
タニアの腕と脇を吐瀉物で汚す煌夜に、ヤンフィもセレナも呆れた様子である。しかしそんなこと言われても、吐き気が収まるはずはない。
「――大丈夫にゃか、コウヤ?」
そんな薄情な二人とは裏腹に、タニアは自分の腕が汚れることも気にせず、煌夜を優しく下ろして背中を擦ってくれた。
心配そうに見詰めてくるその美貌が、気持ちの弱っている煌夜には女神にも見える。
「まぁ、ちょうど好いかのぅ……ここまで来れば、そう時間も掛からず城塞に辿り着くじゃろぅ。一旦、コウヤが落ち着くまで待機するかのぅ?」
地面に下ろされて蹲る煌夜に、ヤンフィがやれやれと肩を竦めていた。一応、心配してくれているのだろう。無理やり強行軍せずに、その場での休憩を提案してくれた。
遠くから雷鳴のような激しい戦闘音が響いている中で、煌夜の吐き気が収まるまでのしばしの間、一行は狭い脇道で小休止する。