第八十一話 アベリン事変/前編
前回から丸々一か月ぶりの更新。遅筆で申し訳ない。
食事を終えた煌夜たちは、オルドが用意してくれた最上級の六人部屋に通されて、とりあえず自由に休憩している。
ヤンフィはソファに身体を沈めて瞑想しており、煌夜は食欲が満たされた後の睡眠欲に抗えず、部屋についてすぐさまベッドに沈んでいた。
大小さまざまな問題と紆余曲折の果て、振り返れば、ベクラルからアベリンまでノンストップの強行軍でやって来ている。煌夜には、かなりの疲労が溜まっていたに違いない。
ちなみに、ディドはそんな爆睡状態の煌夜の傍らで、寝顔を愛でながら休んでいた。
クレウサは飽きもせず、部屋の入口で門番のように突っ立っており、セレナは煌夜が寝たのを見計らうようにして沐浴を始めていた。
そうして、各々の自由行動を眺めながら、タニアは床をゴロゴロと転がっていた。
「にゃあ、ヤンフィ様……にゃんでさっき、あのマユミ・ヨウリュウを許したにゃ?」
ふと先ほどの光景を思い出して、タニアは瞑想するヤンフィに質問した。
あまりにも無遠慮な問いだったが、別段話しかけるなと言われてもいないので、タニアは気にせず声を掛けた。
しかし、そんな気軽な話題ではなかったのか、ヤンフィは瞬間的に、凄まじい冷気と殺意を放ち、鋭い視線でタニアを睨み付けた。
「――許すも、許さぬもないぞ。ただあの場で、彼奴と闘うことに意味があるのか?」
「意味は……確かに、にゃいかも知れにゃいけど、ヤンフィ様らしくにゃかったにゃ。アイツは明確にあちしたちを挑発してて、あちしたちの目的を妨害しようとしてたにゃ――ドラグネスに同行する提案にゃんてアイツの都合にゃ。あちしたちは別に、ライム・ラガムを奴隷にして事足りるにゃ」
タニアは納得いかないとばかりに、猛然とヤンフィに意見した。その言葉を真正面から受け止めて、ヤンフィは珍しくも押し黙る。
何だ何だ、とタニアは疑問を浮かべた。ヤンフィの態度は明らかにおかしかった。
確かに、あの場で戦闘することに意味はないかも知れないが、意味がなかったら戦闘しないのか――煌夜を第一に考えるのは前提としても、普段から思うまま自由に振舞うヤンフィにしては、日和ったと思わざるを得ない判断だ。
タニアが仲間になった時もそうだったように、あの場で力量差を理解させるために、完膚なきまでに屈服させておくべきだったのではないのか。
「彼奴――マユミを舐めて掛かると痛い目を見るぞ?」
「それくらい流石に分かるにゃ。アイツ、あちしと同格って、ヤンフィ様の見立ては正しいと思うにゃ。というか、恐らく獣化しにゃいと、あちしでも単独で倒すの厳しいにゃ。にゃけど、全員で掛かれば、コウヤを危険に晒さず殺すくらい余裕にゃ」
「……何じゃ、タニアよ。妾が怖気た、とでも云いたいのかのぅ?」
「違うにゃ。ヤンフィ様が理由もにゃく引き下がると思ってにゃいにゃ。にゃので、どんにゃ裏があったにゃ? さっき、コウヤと魔神語で話してたにゃ? 何話してか、あちしにも教えてにゃ」
ヤンフィの威圧を正面から浴びつつ、タニアは平然とした様子で居住まいを正して向かい合う。
胡坐を掻いて地べたに座ったままのタニアに、ヤンフィは仕方ないと溜息を漏らした。
「マユミが装備しておった【竜骸甲】じゃが、アレは非常に特殊な代物でのぅ。魔力を注いで発動させると、装備者に竜眼が発現するうえ、あらゆる魔術を無効化出来る。妾とは致命的に相性が悪い……妾が過去、最も攻略するのに難儀した防具じゃ」
「――んにゃ? 難儀って、ヤンフィ様でも勝てにゃいほどにゃのか? 闘わず退くほどには思えにゃかったにゃ。にゃんで怖気たにゃか?」
「……怖気たのではない。確かに勝てぬほどではない。じゃが竜骸甲だけならいざ知らず、マユミがわざわざ披露した武器の方が危険じゃった。あの刀、マガツヒ、じゃが、アレが本当に、妾の知っておる暴食の特性を持っておるのであれば――コウヤを護り切れる自信がなかったのじゃ」
ヤンフィが珍しく弱音にしか聞こえない発言をしたことに、タニアは驚きを隠せず、目を点にしてパチパチと瞬かせる。その発言の衝撃に、煌夜との会話は何だったのか、という当初の疑問は吹っ飛んでしまい頭が真っ白になった。
そしてその衝撃は、タニアだけではなく、部屋の入口で門番よろしく直立不動で聞き耳を立てていたクレウサも同様だった。
クレウサは思わず、聞き間違えたのか、と扉を離れてリビングにやってきて、さりげなくタニアたちの近くで壁に寄り掛かった。
「なんじゃ? 妾が弱音を吐くのはそれほど驚愕か? であれば、汝らは暴食――別名【暴食】の脅威を理解出来ておらぬぞ。アレがどれほど凶悪な特性かを、のぅ」
ヤンフィはやれやれと肩を竦めて、説明してやろう、とクレウサとタニアに視線を向けた。
タニアとクレウサはその言葉に強く頷き、真剣な表情でいっそう居住まいを正す。暴食という能力が果たしてどのような代物か、タニアもクレウサも聞いたことさえなかった。
ヤンフィがここまで恐れる能力とは、いったいどんな能力なのだろう――
「暴食は非常に厄介な能力じゃ。彼奴の説明通り、あらゆる魔力、霊魂、魔力核さえも喰らい尽くすことが出来る特性で、喰らった力を溜め込み、放出することが可能じゃ。タニアに説明するのであれば、そうさのぅ――【魔剣エルタニン】をより凶悪にした代物、と云えば伝わり易いかのぅ」
ヤンフィは言いながら、タニアに恐怖を植え付けた魔剣――禍々しい蛇状になった刀身で、刃の潰れた鉄板の如き武器、魔剣エルタニンを顕現させた。
「にゃ、にゃぁぅ!?」
タニアは思わずその魔剣エルタニンに恐怖して、背筋と耳をピンと立てた状態で硬直した。その怯えようを見て、クレウサがビックリしている。
ヤンフィはその様を見てカラカラと笑っていた。
「余程、魔剣エルタニンが恐ろしいようじゃのぅ?」
「――にゃ、にゃ、だってソレ。物理攻撃が効かにゃいにゃ!? あちしの防御を素通りして、魔力を奪ってくにゃ……アレ、一度でも喰らえば分かるにゃ! 魔力核から直接、魔力が吸い取られる感じ……物凄く気持ち悪くて、最悪にゃ!!」
「……タニア様がここまで恐れるなんて、どれほど強力な武器なのですか?」
クレウサは恐る恐ると、ヤンフィの持つ魔剣エルタニンを眺めた。
「この魔剣エルタニンは、暴食の特性を模して創られた魔剣じゃ。効果は、暴食の特性には及ばぬが、こと魔力を奪う点だけ視れば、同格じゃろぅ」
ヤンフィは言うが否や、流れる動作でその切っ先をクレウサに向ける。タニアはビクっと身構えてその射程から素早く逃れた。
一方でクレウサは、それがどれほど危険か理解していない様子だったので、向けられた平な切っ先をマジマジと眺めている。
「暴食の真髄は、直接触れた存在のあらゆる力を、強制的に奪い、喰らうことじゃ。生命力、魔力、体力、魂力、魔力核でさえも、触れるだけで喰らい尽くす。それを防ぐ術はない。触れられたら終わり、じゃ――つまり、あのマガツヒに斬られれば、それだけで妾は致命傷となる可能性がある」
ヤンフィはそう言いながら、スッとクレウサの胸元に魔剣エルタニンを突き刺した。
クレウサは自然なその動きに反応出来ず、何の抵抗もせずに胸を貫かれる。だが、触れられた感触もなく、身体を貫通した痛みさえなかったことに驚き、不思議そうに首を傾げる。
その直後、内側から魔力が強制的に奪われる苦しみに目を見開いて、慌てて胸元の剣に手を伸ばす。けれど、その刃を掴むことは出来なかった。
「――なっ!? ぅ、がっ――!!? ちょっ……」
「どうじゃ? これは、ただ魔力を奪っただけの効果じゃ」
一瞬で足腰が立たなくなるほど魔力を奪われたクレウサは、しかし魔力が枯渇する前に、必死になって魔剣エルタニンから遠ざかった。咄嗟に飛び退いたつもりだったのだろうが、足元はもつれて、無様に床に転がる。
そんなクレウサを見下ろしながら、ヤンフィがカラカラと笑っている。
「もし、これが暴食であれば、体力も同時に奪われるじゃろぅ」
「…………なる、ほど。タニア様が恐れる気持ち、少しだけ理解しました」
クレウサは苦し気な顔で身体を起こして、ヤンフィに向き直った。タニアはそんなクレウサを横目に、それでも、と続けて質問する。
「にゃけど、ヤンフィ様。それでも、あの場で退くほどじゃにゃいと思うにゃ。アイツ、剣の腕も確かに凄かったにゃけど、警戒すれば別に、攻撃力が高いってだけにゃ?」
確かに、魔剣エルタニンは恐ろしい。それより凶悪という暴食は、相応に脅威なのも間違いない。
けれどそれでも、タニアたちが全滅するほどには思えず、またヤンフィが怖気づくほどには感じない。一撃必殺の攻撃力を持つ化物は、この世界にいくらでもいるし、何よりヤンフィという魔王属がその筆頭である。
タニアのそんな疑念を見透かすように、ヤンフィはカラカラと笑いながら続ける。
「確かに、その表現は適切じゃな。攻撃力が高く、一撃でも喰らえば危険……うむ。タニアの云いたいことも理解出来る。苦戦するが、殺せるのは間違いないのぅ。じゃが、そこまでして殺す必要があるとは思えぬ。そもそも妾たちの目的は、コウヤの弟妹を捜す為に竜騎士帝国ドラグネスに向かうことじゃろぅ。危険を冒してまで、気に食わぬ輩を殺すことではない。ちなみにのぅ。暴食の恐ろしさは、あらゆる補助や加護をも喰らうことが出来る点じゃ。つまり強化魔術全般喰らい尽くすし、何より妾とコウヤの隷属契約も消滅させることが出来る。万が一、隷属契約が解除されておれば、コウヤの肉体疲労度、魔力疲労度から考えて、あの場で即死しかねぬ――じゃからこそ、妾はコウヤを護り切れる自信がなかったのじゃ」
「…………にゃるほど」
ヤンフィの言い訳のような説明に、やはりいまいち納得できなかったが、とりあえずタニアは頷いた。この説明が真実、退いた理由かどうかは謎だが、これ以上問答しても教えてはくれないだろう。
どちらにしろ、マユミ・ヨウリュウという女剣士が非常に強いのだけは真実である。
「――まぁ、他にも、マユミが装備を十全に扱えるかどうか、またマガツヒの効果が真実、暴食かを見極める時間も欲しかったからのぅ。十全に扱えるのであれば、これ以上ない戦力じゃし、マガツヒの効果が暴食であったとして、器の容量がどれほどか知っておかぬと危険じゃしのぅ」
ヤンフィは真剣な表情になり、そんな独り言を呟いた。誰に言うでもない呟きのようで、タニアもクレウサも聞き流したが、要約するとそれは、マユミの利用価値を見定めたかったという意図である。
タニアはさっきの弱音よりもそっちの方がずっと納得出来ると頷いて、それなら仕方ない、と状況を呑み込む。
そして恐る恐ると挙手しながらヤンフィに提案する。
「……ヤンフィ様。もう質問はしにゃいにゃ。どっちにしろ、ライム・ラガムを捕まえに行くにゃから、それまで大人しくしてるにゃ。にゃから、その剣、もうしまって欲しいにゃ」
タニアの言葉に、ヤンフィがまたカラカラと笑い、仕方あるまい、と頷いて、魔剣エルタニンを一瞬のうちに収納してくれた。
ようやくこれで一息吐ける。
タニアはホッとして緊張を解いた。それはクレウサも同様で、彼女も魔剣エルタニンが消えた途端、ふぅ、と長い溜息を漏らして脱力していた。
はてさて、リビングでそんなやり取りがあったことなど露知らず、煌夜とディドは別室でひと眠り、セレナはゆっくりと沐浴をしながら、気付けば日が沈んでいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
煌夜はハッとしてベッドから起き上がった。
特に何があったわけでもないが、唐突に意識が覚醒して、飛び起きた。想像以上に疲労が溜まっていたようで、夢さえ見ずに、ベッドでぐっすり眠っていたようだ。
見れば、寝室の窓から見える外の景色は、綺麗なオレンジ色の夕焼けだった。
朝食を摂ったのが、正確な時間は定かではないが、朝日が昇ってすぐだったことを考えると、少なく見積もっても、八時間近く眠りこけていた計算になる。
「やばっ、寝すぎた――っ!?」
見事な夕焼けを眺めながら、ようやく起動した脳内が警鐘を鳴らす。休憩とは言われてはいたが、ほとんど一日眠りっぱなしだったことになる。
煌夜はすかさず周囲を確認した。
寝室には他に誰も居らず、気配もなかった。
「……何か、あったのか?」
リビングの扉に視線を向けるが、恐ろしいくらいに静かだった。何らか問題が起きたのならば起こしに来るはずなので、何も問題はないはずだが、少しだけ不安になる。
煌夜は休んだおかげでだいぶ軽くなった身体をグッと伸ばしてから、急ぎ足にリビングに向かう。
「ん? おぉ、ようやく起きたかコウヤよ」
「あら、おはようございますわ、コウヤ様」
「お寝坊にゃ、コウヤ」
リビングの扉を開くと、ヤンフィ、ディド、タニアが同時に声を掛けてくる。その空気はなんとも穏やかで和やかなもので、煌夜の不安を一瞬にして払拭してくれた。
「――あ、うん。おはよう……って、もう夕方だけどさ」
「ええ、ぐっすりとお休みだったかしら」
煌夜は照れた顔で頭を掻きながら、リビングを見渡す。
リビングのソファには、ヤンフィが一人でドンと座っていた。
タニアは床でゴロゴロと転がっており、セレナとディドは、テーブルを挟んで向かい合った椅子に座り、香ばしい飲み物を口にしている。
クレウサは部屋の入口で門番のように突っ立って腕を組んでいた。
五人が五人とも、各々好き勝手に寛いでいる光景に、煌夜は拍子抜けした。寝すぎたことを咎められることもなく、何の問題も起きていない様子に安堵して、ヤンフィの隣に腰を下ろした。
「コウヤ様。お体は大丈夫かしら? 急ぎたいお気持ちは重々理解出来ますけれど、無理するのは良くないかしら?」
「あ、ああ。ありがとうディド。でも、大丈夫だよ。いや、マジで物凄く熟睡してたみたいで……全然身体が軽いし、痛くもないんだ」
「マジ……? あ、ええ。それは良かったかしら」
ディドは、煌夜の物言いに一瞬キョトンとしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべて安堵していた。それと同時に、飲み物をテーブルに置いたまま、当然のように煌夜に近付いて隣に座る。
ディドの席移動に、タニアが不愉快そうな顔を浮かべたが、特に文句は口にせず、さりげなく煌夜の足元付近にゴロゴロと近付いてきた。
煌夜は床を転がるタニアを見て、思わずちょっとだけ顰め面をしてしまった。
絨毯が敷かれていて、掃除も行き届いている綺麗な床とは思うが、煌夜たちは土足で歩き回っているわけで、そんな床をゴロゴロ転がる振舞いは、流石に少し引いてしまう。
タニアのみならず、煌夜以外の誰も気にしていない様子だが、これが文化圏の違いなのだろうか。
「クレウサ。コウヤ様にも、ワタクシと同じ温かいハーブティーを貰えるかしら?」
「あ、ありがとう。ん――――おぉ、美味いし、暖まるね」
ディドの指示に従い、クレウサが手慣れた所作で湯気の出る飲み物を出してくれた。
恐る恐ると口を付けてチビチビと啜ると、柑橘系の香りが鼻を抜ける。味はどことなくレモンジュースのようで、程よい酸っぱさが寝起きの頭をシャッキリさせた。
「さて――コウヤも起きたことじゃし、そろそろライム・ラガムを捕らえに向かうかのぅ? 異論がある者はおるか?」
煌夜がハーブティーを啜っていると、ヤンフィがパンと手を叩いて、ソファから立ち上がった。その号令に頷きながら、セレナ、タニアも立ち上がった。
「……コウヤ様は起き抜けですから、もう一息吐いてからでも宜しいのではありませんかしら?」
「ディドよ。意味もなく甘やかすのは感心せぬぞ。もう充分に休息は取れておるはずじゃ。これ以上は、ただの怠慢じゃろぅ? のぅ、コウヤ?」
ヤンフィが流し目を向けてくる。その台詞は、選択肢があってないようなものだろう。
ディドの優しさを噛み締めつつ、残りのハーブティーを一息に飲み干して、煌夜は頷く。
確かにディドの言葉に甘えて、ゆっくりしたい気持ちはなくはないが、ヤンフィの言う通り、これ以上の休息は不要だ。充分休めたので、サッサと次に向かうべきである。
煌夜としては、一刻も早く虎太朗を助ける為に、竜騎士帝国ドラグネスに向かいたいのだ。
「ありがとうディド。でも、大丈夫だよ。いいぜ、ヤンフィ。俺も準備万端だ。行こうぜ」
「ふむ。それでは往くかのぅ――ああ、そう云えば、じゃ」
煌夜が準備万端をアピールすると、ヤンフィが満足気に頷き、直後、ふと思い出したとばかりに、畳まれた衣服を異空間から取り出した。
「ほれ、コウヤ。アールーに注文していた装備が出来上がっておったぞ。竜麟の肩当と竜革の布着じゃ。今の装備と比べれば心許ない装備じゃが、重ね着出来るじゃろぅ? 装備しておくに越したことはない」
ヤンフィはそう言いながら、手のひらサイズの小さな肩当と、薄い布地のインナーを渡してくる。それは見た目よりもずっと軽い素材で、しかし信じられないくらい硬かった。
とりあえず言われるがまま受け取って、その場でササッと着替えようと上半身裸になる。途端、半裸の煌夜の身体を、ディドとタニアが視姦するように注視してきた。
思わずその視線に気圧されつつ、気恥ずかしさから急いで着替えた。
「それでは、往くぞ。一応云うておくが、コウヤよ。汝は戦闘には手出しするでないぞ? 魔力の操作がだいぶ出来てきて、今は以前よりずっと動けるようじゃが、まだまだ御粗末じゃ。下手に動いて、要らぬ怪我をされても困るからのぅ」
「分かってるよ。ってか、戦闘が発生する前提が嫌だな……」
その忠告に渋い顔をしながら頷いて、煌夜はヤンフィと一緒に部屋を出た。
そんな二人に続くように、ディド、タニア、セレナ、クレウサと全員もすぐに部屋を出る。どうやら全員、とっくに準備万端だったらしい。
「あ、姫様……お出になられるのですか?」
階段を下りて一階の食堂に辿り着くと、カウンターの内側に居たウールーに声を掛けられた。
辺りを見渡すが、アールーとオルドの姿は見えず、食堂で寛ぐ人間たちの中に、お客様と呼べる者は居なかった。
食堂に居るのは、休息する前と何ら変わらぬ面子――ゴライアスとその護衛、五人のうち一人減って四人組だけだ。
煌夜は、あまり関わりたくないなぁ、と思いながらも、四人組に顔を向ける。
テーブルに酒瓶を転がしながら、赤ら顔で踏ん反り返るチビハゲ中年のゴライアス。
そのゴライアスの隣で、食堂内を鋭く睨み付けている老紳士のアデット翁。
ゴライアスの正面の椅子で腕を組んで座り、瞑想してる風で眠っている女剣士のマユミ・ヨウリュウ。
そして名前は分からないが、歴戦の強者を思わせる立派な顎髭を蓄えた黒服の従者が、ゴライアスが座るテーブルとは別のテーブルを占拠して、何やら地図を広げていた。
「にゃんだ? 今は、ウールーだけかにゃ?」
「ええ、オルド姉さんとアールーは、食材の調達に南門へ行きました。ちょうどこの時間は、聖王行路を通ってベクラルから商人がやって来るんです」
そんなタニアとウールーの平和な日常会話を聞きながら、煌夜は食堂の外に意識を向ける。ちょうど夕食時だから、お客さんの一人や二人来そうなものだ。
だが、そうして一分ほど見ていても、入口に誰かが近づいて来る気配は全くなかった。
「――ようやくか、遅かったな、貴様ら」
ふとその時、ゾクリと背筋が震えるほどの威圧と共に、鋭い声が煌夜に投げられた。
煌夜は慌てて声が聞こえた方に振り返る。
「ま、頃合いと言えば頃合いでもある。夜の方が【アベリンリザード】は活発だからな。多少は手強くなるだろうから、愉しめるかも知れん」
見れば、声の主は腕組みして寝ていたマユミだった。
マユミは寝起きとは思えない凛とした顔を上げて、その場から立ち上がる。そして当然のように煌夜たちに近寄ってきた。
自然で軽やかな足取りだ。しかし、その全身から立ち昇る覇気と、誰彼構わず足を竦ませる威圧感に中てられて、煌夜は思わず息を呑んで固まった。
そんな煌夜を庇うように、ヤンフィがスッと、マユミと対峙する位置で立ちはだかる。
「可憐な魔王属。相変わらず凶悪な気配だな」
ヤンフィと向かい合ったマユミは、冷静な表情を一変させて無邪気な子供の顔になり、減らず口を叩きつつも、敵意はないと両手を上げた。
「ま、そう警戒しないでくれ。私は別に、青年に危害を加えるつもりなどない――今から、ラガム族の女を捕らえに行くんだろ? 同行させてもらうよ」
「……同行は許可するが、その垂れ流しの闘気をコウヤに向けることは許さぬ。汝ほどの実力であれば、闘気どころか、気配を消すことも出来るじゃろぅ?」
マユミと対峙するヤンフィが、そう言いながら凄まじい威圧と殺意、禍々しい瘴気を全身から放った。
向けられているわけでもないのに、そのヤンフィの気配を感じて、煌夜は知らず知らず歯をガチガチと鳴らしていた。
それは煌夜だけの話ではなく、チラと見れば、タニアと話していたウールーも同じように顔を蒼白にさせて、全身を恐怖に震わせている。
しかしマユミはヤンフィの威圧を受けて、嬉しそうに口元を歪ませている。美しくも狂った微笑だ、と煌夜は心の中で悪態を吐いた。
「可憐な魔王属……いや、失礼。ヤンフィ様は、相変わらず凄まじい威圧だな。敵わないまでも手合わせして欲しくなる――だが、ま、承知した。私としてはあまり好ましくないが、掟に逆らうは無礼者、という諺もあることだし、そんなことで反抗するつもりもない。従うよ」
よく分からない言い回しをしながら、マユミが全身の力を抜いた。途端、先ほどまで感じていた威圧は綺麗に消え去り、のみならず目の前に立っているのに気配さえ感じなくなった。
マユミは、どうだ、とばかりに歪んだ笑みを浮かべたまま首を傾げる。それに対して、ヤンフィは渋面のまま妥協するように頷いた。
「――おい、お前。くれぐれも足を引っ張るにゃよ!?」
「ん? 足を引っ張る……ああ、私が、か? それは面白い冗談だ。私はこれでも、任務に手を抜いたことは一度もない。むしろ、その言葉は貴様らのリーダーであるその青年に言うべきだろ?」
「にゃんにを!? この――」
「タニア、無意味な争いは止めよ。時間の無駄じゃし、何より不愉快じゃ。マユミ、汝にも云うておくが、妾たちに同行するのであれば勝手な行動は許さぬ」
タニアの言いがかりに反論するマユミに、ヤンフィが有無を言わせぬ強い口調で釘を刺す。その構図を横目に、煌夜はそそくさとオルド三姉妹亭から外に出た。
見上げた空には、異世界を無理やりに意識させる大きさ違いの月が二つ浮かんでいる。
「コウヤ様、危ないですわ。不用意に先行するのは危険かしら!」
すると、ディドが慌てた様子で追い掛けてきて、そうするのが自然のように煌夜の腕に腕を絡めた。柔らかな感触が肘に当たり、優しい空気が周囲に満ちた。
「――ほら、予期せぬ災厄が襲ってきたかしら」
ディドがそんな意味深な言葉を耳元で囁くと同時に、ヒュン、と風を切る音がして、煌夜の眼前に稲光を伴って雷撃を纏う矢が飛んでくる。
暗闇から突如伸びてくる紫電の光に、煌夜は反応さえ出来ず、ただ目を丸くして硬直した。
けれど――それが煌夜に命中することはなかった。
パキン、と軽い音が鳴って、煌夜の目の前で矢が何かに当たって折れる。それは見れば、煌夜とディドの周りに展開している薄い膜に阻まれたようだった。
気付けばいつの間にか、煌夜を中心に、二人を包み込むような薄緑色をしたドーム状の膜が展開している。雷撃を纏った矢はその膜を突破できずに折れたようだ。
「うぉぅ!?」
九死に一生を得たことを遅れて自覚した煌夜は、思わず素っ頓狂な声を上げる。それに答えるように、チッ、という露骨な舌打ちと、突き刺すような殺意が突然現れた。
「――上級魔術師が居やがるのか、話が違うじゃねぇか」
夜闇の中から、低くドスの利いた声が響いてくる。
目を凝らせば、オルド三姉妹亭に面した大通りの闇から、いかにも怪しい風体をした三人の男たちがゆっくりと姿を見せる。
「クソが……ガストンの兄ちゃん、俺らを騙しやがったな」
そんな悪態を口にしながら、身の丈よりも巨大な大剣を鞭のように振るう筋骨隆々な男が一歩前に出てくる。その男はしきりに舌打ちしつつ、足元に唾を吐き捨てていた。何故だか物凄く苛立っている。
大剣を振るうその筋骨隆々な男の後方には、これまた巨大な大弓を番えた弓使いがおり、大弓の狙いは煌夜を捉えていた。
「……ってか、こいつら、ゴライアス一味じゃないんじゃないか? ゴライアスって、チビでハゲだろ? 人違いっぽいぜ? 護衛してるマユミって女剣士も、そもそも黒髪で黒い礼服なんだろ? ところがあの女、金髪でドレスじゃねぇか」
弓使いの脇に立ち、青白い炎を灯した杖を構えるローブ姿の男が筋骨隆々な男に言う。そんな二人の会話から察するに、彼らの狙いは少なくとも煌夜ではないようだ。だが、俺は人違いだ、と声を上げることの出来る雰囲気にはない。
「――にゃんだ、にゃんだ? お前ら、何者にゃ?」
煌夜が沈黙で三人組と向き合っていると、やや遅れてタニアたちがオルド三姉妹亭から出てくる。
さて――ひと悶着起きるだろう確信がある。
煌夜は溜息と共に、何がしかに巻き込まれるだろう覚悟を決めた。瞬間、周囲の闇が深淵に思えるほど濃くなり、体重が五倍にでもなったかのような凄まじい重力が身体に掛かった。
いきなり来たか、と思考するより先に、煌夜はその場に潰れるように跪いた。
吐きそうになるほど強烈な威圧、思わず発狂したくなるほどの恐怖。ただの一般人である煌夜には到底耐えられるような重圧ではなかった。
「――くぅ。コ、コウヤ様……ッ!?」
しかし、この重圧に耐えられないのはディドも同様だった。ディドは普段の能面顔を苦痛に歪ませて、煌夜の身体に縋るようにくっ付きながら、背後に視線を向けていた。
威圧の主は、背後の誰か――つまり、オルド三姉妹亭から出てきた煌夜たちの仲間の誰かであることが分かる。
「当然、無事のようで何より――だが、巻き込んでしまって申し訳ない。青年、それと金髪の天族。その連中は、私の客のようだ。懲りないな、まったく」
この重圧を放っていたのは、マユミ・ヨウリュウだった。
マユミはそんな台詞を吐きながら、不愉快そうな顔のタニアを押し退けて、堂々と煌夜たちの元に歩いてくる。口元には歪んだ笑みが張り付いており、視線は三人組に向けて、指をボキボキと鳴らす。
「……おい、アイツだ。アイツがマユミ・ヨウリュウで間違いないだろ。アレを殺せば、幹部に昇格のうえ、報奨金で大金持ちだぜ」
「でも、周りの奴はどうする? 仲間だとしたら、面倒だぞ? 少なくとも上級魔術師が居る」
「んなのは、お前一人で充分だろ? 魔術師は魔術師同士、何とかしろよ」
対峙するマユミを前に、明け透けにそんな作戦会議をしつつ、三人組は二手に分かれる。
杖を構えた魔術師風のローブ男が一歩後ろに退いた。マユミと距離を取り、そこで何やら詠唱を始めると、煌夜たちを含めた全員を覆うようなドーム状の結界を展開する。
一方で、大剣を振り回す筋肉男は、マユミの往く手を阻むようにどっしりと構える。阿吽の呼吸で、筋肉男の背後に隠れるように、弓使いが回り込んでいる。弓使いはグッと大弓を引き絞り、狙いをマユミに向けていた。
なかなかの連携である。きっと彼らはそれなりの強者なのだろう。
しかし――所詮は、それなりだ。
確かに、この三人組は、煌夜では敵わない程度に強いのだろう。だが、如何に強いといえど、セレナに匹敵するとも思えないレベルだ。だというのにどうして、マユミの威圧に平然としていられるのか。
煌夜は平然としている三人組の神経が信じられなかった。
直接マユミと対峙していない戦闘素人の煌夜でさえ、彼女の放つ威圧、殺気、魔力濃度、覇気、恐ろしさが本能的に理解出来ている。蛇に睨まれた蛙とは、きっとこんな気持ちに違いない、と納得できるほどの絶望感も味わえている。
「狂ってる? いや、命知らず……じゃなくて、馬鹿、なのか?」
思わず煌夜は、その三人組に呆れながらも同情してしまった。恐ろしいモノを恐ろしいと思えないのは、なんと悲しいことだろう。
とりあえず煌夜は、巻き込まれるのを恐れて、ディドとくっ付きながらジリジリと後退る。
「そう怯えるなよ、青年に金髪天族。貴様らに、危害は加えない」
そんな煌夜の無様な姿を見て、マユミはニヤニヤと笑みを浮かべたまま、チラと背後のヤンフィに視線を向ける。意味深なマユミのその視線に、ヤンフィは鋭い睨みを返しながら溜息を吐いていた。何を言いたいのか察した様子だ。
ヤンフィはタニアたちに、下がれ、と指示を飛ばす。
「タニア、セレナ、クレウサ。巻き込まれぬように退け。手も出すな――ところで、マユミよ。この程度の雑魚相手に、わざわざ【竜骸甲】を発動させるのは感心せぬぞ?」
「承知している。だが、タニアを納得させるには、これくらい必要だろ? 足手纏いになるな、と言われてしまったからな」
マユミがヤンフィとそんなやり取りをする一方で、大剣を構えた筋肉男は準備万端とばかりに腰を落としていた。
筋肉男は大剣を正面に構えると、深く長く息を吐いて、全身から湯気の如き魔力を放ち出す。いかにも必殺の一撃を溜めてます、とばかりの姿勢だ。
「おい、クソども――ッ!! 俺らの目的は、そこの女剣士!! ゴライアスの護衛で雇われてるマユミ・ヨウリュウを殺すことだっ!! まぁ、反抗するヤツも全員殺して良いって言われてる!! だが、俺たちは慈悲深い!! テメェらが、マユミ・ヨウリュウと無関係なら、抵抗しなけりゃ生かしておいてやる!! だから、死にたくなけりゃ、手を出すなよっ!!」
「『――――石塊の王よ、その威を示せっ!! 岩石槌』!!!」
筋肉男が地鳴りのような怒鳴り声で、マユミ以外の全員に向かって叫んだ。その咆哮と同時に、杖を構えたローブ男が何やら大仰な詠唱を完成させる。
「ハッ――ィ、ヤッ!」
ローブ男の魔術にコンマ数秒遅れて、弓使いが裂帛の気合と共に渾身の弓矢を放った。
放たれたその矢は、まるで意思を持つ蛇の如くグネグネと中空を飛翔しながら、紫電の光を振り撒きつつ、凄まじい速度でマユミに迫る。
ところが、それら見事な必殺の連携を前にして、マユミは至って冷静だった。
「ヤンフィ様、タニア。まずは、この竜骸甲の防御性能をご覧あれ――」
マユミはチラと背後を振り返る余裕さえ見せて、唄うような口調で言いながら、無防備に両手を広げて空を仰いだ。すると、マユミの頭上には、十数メートルを超える巨大な岩石のハンマーがいつの間にか出現しており、次の瞬間、情け容赦なく振り下ろされる。
かたや紫電の光を振り撒く蛇の如き矢は、岩石のハンマーのさらに上空まで飛翔して、岩石が振り下ろされた途端、無数の雷の雨と化した。轟く雷鳴と、肌を痺れさすほどの静電気が発生する。
「――オオオオォオオオ!!! 魔剣技・火龍斬り!!!」
そしてトドメとばかりに、筋肉男が雄叫びを上げながら大剣を振りかぶり、振り下ろす。
振り下ろされた大剣には地獄の業火を思わせる炎の渦が巻き付いており、振ると同時に炎の渦は、まるで竜の如くうねり、マユミを目掛けて飛び掛かる。
素晴らしい連携、なんと息の合った恐ろしい攻撃だろう。傍から見ていて、直撃したらとても無事では済まないほどの猛攻だった。
もしこれが煌夜に対して向けられていたら、と考えてゾッとする。また、ここまでド派手に決まったなら放った側はさぞ良い気分だろうな、とも考えて苦笑した。
ちなみに、露ほどもマユミの心配はしていない。むしろ逆に、マユミを相手にする三人組に対して、煌夜は憐憫を禁じえない。
「フゥ――これで、どうだ!?」
はてさて、そんな煌夜の気持ちなど知らずに、大剣を振り下ろした姿勢の筋肉男は、ただの死亡フラグにしか聞こえない台詞を吐いていた。そのあまりにも雑魚特有のテンプレートな意見に、煌夜はついつい呆れてしまう。
「流石に死なねえまでも、重傷だろう?」
筋肉男は確信めいた強い口調で、マユミが立っていた場所に目を凝らしている。煌夜もその視線を追って、マユミの居る位置に顔を向ける。
そこはもうもうと土煙が上がり、時折、静電気の紫電が走る以外に、何がどうなっているか全く見えない状況だった。
「……あたしの中級魔術で防げる程度の攻撃で、あの化物に傷を負わせられるわけないでしょ?」
ふと、そんな呆れた呟きが背後から聞こえてくる。
確かに見た感じ生死不明の状況ではあるが、煌夜もその意見には激しく同意だ。ヤンフィが直接対決を恐れるほどのマユミが、こんな程度でダメージを負うなんてあり得ない。
煌夜は頷きつつ、誰の発言だ、と振り返って見た。声の主は、ヤンフィの後ろで控えていたセレナだった。
セレナは三文芝居を見るような視線で筋肉男たちを眺めており、同時に、オルド三姉妹亭に対して強固な防御魔術を展開している。どうやら、周囲に魔術被害が及ばないよう護ってくれているようだ。
「おい、油断するなよ、ナイト。この程度で終わるなら、俺らに依頼なんて来ないだろ――ウィザード、この辺り一帯を吹き飛ばすレベルで、トドメの一撃を準備してくれ」
「任せろよ。『あまねく全てを燃やし尽くす炎の柱――」
油断なく爆心地に狙いを定める弓使いが、緩んだ様子の筋肉男に喝を入れていた。
緩まないよう喝を入れるのは、正しい判断だろう。だが、残念極まりないことに、油断しようと緩んでいようと、恐らく結果は変わらない。マユミに挑んできた時点で、生き死にを放棄しているに等しい。
「……ま、こんなもんだろ。しかしこれじゃ、あまり参考にならないな」
果たして、当然のように無傷のマユミが姿を現した。髪が乱れることもなく、黒い礼服に多少の埃が付着している以外、何一つ代わり映えない姿である。
「なっ――馬鹿なッ!! 渾身の一撃だぞ!?」
一方で、またもやテンプレートな台詞を吐きながら、筋肉男は驚愕していた。また、弓使いとローブ姿の男も、ここまで無傷とは思ってなかったのか、酷く動揺していた。
「――光栄に思え。死出の土産に、私の剣舞を披露しよう」
マユミは驚く三人に笑い掛けながら、風に揺れるような緩やかな動作で一歩踏み出す。すると、あたかも最初からそうであったように、右手には美しい刀が握られていた。
「この――舐めるなよッ!!」
激しく唾を吐きながら、筋肉男が慌てて大剣を振りかぶる。その慌てぶりに対して、マユミの動きはとても緩慢に見えた。
煌夜でさえ目で追える程度の速さで、駆け寄るではなく、まるで散歩の気軽さで近寄る。
そんなマユミを迎え撃つべく、筋肉男は目にも留まらぬ速さで大剣を振るった。それに追従するように、弓使いも素早く矢を番えて第二射、第三射を放っていた。
煌夜が思わず息を呑んだのは、次の瞬間である。
連続して放たれた紫電の矢は、マユミの眉間を寸分の狂いもなく直撃――する直前で塵になったのだ。
魔術で防御したわけではなく、当然避けたのでもない。一瞬だけ揺らめいた右手から察するに、恐らくは矢を切り払ったのだろう。あまりの疾さに眼がついていけなかった。
「速い、にゃ」
「――疾い」
ボソリとそんな呟きが聞こえる。溜息を漏らすようなタニアとヤンフィのその言葉短い台詞に、二人の驚愕度合いが伝わって来た。
マユミの動きは、この二人が驚くほどに疾い動きのようだ。
そんな観客たちの驚愕、感動はさておいて、マユミはここから本格的に技を繰り出す。
「剣舞――霙舞」
薄笑いを浮かべたままボソリと囁き、マユミが刀を振るい――否、振るったらしい。瞬き一つせず目を凝らしていたが、煌夜の動体視力では、どのような剣舞だったか全く見えなかった。
かろうじて分かったことは、マユミが圧倒的に強いという事実だけである。
マユミはまず、軽やかな跳躍で筋肉男の眼前に飛び込んだ。当然それに応じるように、筋肉男が大剣を鞭のように振るい、竜巻の如き剣嵐を巻き起こす。
きっとここから凄まじい剣戟が始まるのだろう――と、煌夜は達人同士の闘いを想像したが、何のことはない。次の瞬間、拍子抜けなほど一瞬で勝負が決した。
それはまるで豆腐に刃物を入れるような滑らかさで、筋肉男の竜巻が、マユミの繰り出した見えない斬撃に切り払われたのだ。
そこに剣戟と呼べる攻防など、微塵も存在しない。火花を散らすこともなく、大剣と刀がぶつかり合う音もなく、結果だけ語れば、ただマユミが刀を振るって、あらゆる全てを斬り裂いた。事実として、筋肉男は一秒も経たずに細切れの肉片に変わる。
そしてその剣舞らしき技を繰り出すマユミは、そのまま軽やかな足取りで弓使いに近付き、筋肉男の末路と同じく彼を血と肉片に変えた。
「――――ッ!??」
声にならない驚きが、かなり離れた位置で魔術を詠唱中だったローブ男から聞こえた。きっと、仲間二人が瞬く間に殺されたことに恐怖したのだろう。けれど、その恐怖も一瞬だ。
マユミは瞬間移動にしか見えない素早さでもって、ローブ男との距離を詰めると、揺らめく一振りにしか見えない剣捌きで、彼の身体も微塵切りにして見せる。
これが僅か三秒前後の出来事だ。その短い時間で、三人組は原形を留めぬ細切れ肉と化して転がった。
「……準備運動にもならなかったか」
マユミはその光景を一瞥してから、つまらなそうに溜息を漏らす。血振りするように振った白刃には、不思議なことに血さえ付いていなかった。
「…………ねぇ、タニア。あたし何が起きたか、全然見えなかったんだけど?」
「そりゃそうにゃ。あちしでさえ、目を凝らさにゃいと見えにゃかったにゃ。ムカつくにゃけど、アイツ、冗談抜きに強いにゃ」
「――柔らかく美しい剣技じゃ。しかも、恐ろしいほどの精度じゃ」
マユミの剣舞を見たタニアたちが、そんな感想を口にしている。それを耳にしながら、いきなり軽くなった空気感に、煌夜は安堵の息を吐いた。
「……ようやく、マユミの威圧が解けた、かしら? コウヤ様、大丈夫かしら?」
煌夜の吐息を耳にして、傍らのディドが優しく問い掛けてきた。そんなディドに頷きながら、畏怖を篭めた視線をマユミに向ける。
煌夜の視線を感じたか、マユミが振り返った。マユミはニヤリと口元を歪ませていて、どうだ、と言わんばかりの表情だった。
「ああ、大丈夫だよ。大丈夫、だけど……今の、凄く息苦しくなって、身体が重くなったのって、やっぱり彼女――マユミさんのせいか? ヤンフィが本気でキレた時よりヤバく感じたよ」
煌夜はマユミから視線を外して、ディドに支えられるまま立ち上がる。すると、血生臭い死臭が漂ってきて、思わず口元を押さえた。
意識して見渡せば、あまりにも凄惨に過ぎる光景である。猟奇的なホラー映画でさえ、ここまでの散らかしようはないだろう。
「のぅ、コウヤ? 出鼻をいきなり狙われるとは、コウヤも大概、不運じゃのぅ?」
ディドに支えられた煌夜は、とりあえずヤンフィに近寄った。そんな煌夜を見て、ヤンフィが不敵な笑みを浮かべて嫌味を口にする。
煌夜はヤンフィに非難がましい視線を向けて、不貞腐れたように返した。
「これは、巻き込まれ事故過ぎる――つうか、アイツら一体、何者だよ? 何でマユミさんが、狙われてるんだよ?」
「――それはね。マユミ君が目障りだから、だよ」
煌夜はマユミにも聞こえる声量で、ヤンフィに向かって問い掛けた。すると、ヤンフィでもマユミでもなく、全くの第三者から返事がきた。
「そこのマユミ君は、ボクたちの計画に、一番の障害となる存在だ。だからこそサッサと殺すべきだし、それでなくとも、マユミ君が生きていると、ボクの失態が上司に報告される危険性がある。上司に失態が知られると、流石にもう何をしても挽回できないだろう。ボクは完全に見捨てられて、すぐさま廃棄処分の制裁を受けちゃう」
ペラペラと聞かれてもいないことを、さも当然のように語っているのは、大通りの闇から突然現れた若い男だった。
最初からこの場に居た当事者であったかのように、煌夜たちに語らいながら、その若い男はマユミに近付いてくる。
「誰にゃ!?」
タニアは威勢よく声である若い男に怒鳴る。それと同時に、すぐさま戦闘態勢になり、全身から湯気の如き魔力を迸らせた。
タニアが明らかな警戒をするほどの相手なのか、と煌夜は軽い驚きを持ちつつ、若い男をマジマジと眺める。よくよく見ればその若い男は、どこか見覚えのある青年だった。
灰色のマントを纏い、蛇が描かれた灰色のシルクハットをかぶっていて、ジーンズとシャツ姿という軽装で、防具はおろか武器一つ持っていない。
あれは確か――と、煌夜が記憶を掘り起こそうと眉根を寄せた時、青年と眼が合う。
「――おやおや? キミは、生贄の柱を破壊した注意人物じゃないか――ってことは、まさか?」
青年は煌夜を認めると、ゆっくりとタニアに視線を向ける。そしてタニアの姿を見付けて、あからさまに残念そうな表情を浮かべた。
「ああ、やっぱり……タニア・ガルム・ラタトニア君も居るじゃないか……しかも、タニア君以外の人たちも、明らかに手強そうな面子になってるし……こりゃあ、ちょっと……いやいや、だいぶ想定外、だなぁ」
お手上げだ、というポーズをしながら、青年はその場に立ち止まる。天を仰いで、嘆くような声音で言葉を続けた。
「マユミ君を殺す為に色々と準備したってのに……どうしてこうなっちゃうのか……嗚呼、実に不運だ。こんなに不運が重なると、もはや祈るべき神さえ殺したくなるね……」
煌夜は一人語りを続ける青年を眺めながら、ようやくその名前を思い出した。
青年は確か、ガストン――ガストン・ディリックと名乗っていた。自称、【世界蛇】のレベル3で、タニアを仲間に勧誘していた記憶がある。
ガストンと初めて遭遇したのは、タニアとアベリンに向かう道すがらの森である。
ヤンフィ、タニアと出逢った【聖魔神殿】という古代遺跡、その周囲に広がる森を歩いている時、今のように突然現れて、好き勝手一人語りをした挙句に、魔族をけしかけられた覚えがある。
そういえばそれだけでもなく、奴隷商人【子供攫い】を利用して、生贄の柱を準備していたのもこのガストンだった。
そして、つい先ほどの三人組もガストンの差し金だろう。
不運だ、と嘆くガストンに、それは俺の台詞だ、と心の中で返して、煌夜は険しい目つきで睨み付けた。
前中後編の前編です。