第七十九話 オルド三姉妹亭にて
あけましておめでとうございます。
夜通し馬を駆り、空が明るくなり始めた頃、だいぶ前方に聳え立つ巨大な壁が現れた。
世界の果てに最も近いと言われる辺境の都市――【城塞都市アベリン】である。
タニアにとっては、非常に感慨深い街だった。
気紛れに世界を放浪した末に辿り着いて、煌夜という運命に出逢うきっかけを与えてくれた街である。
「懐かしいにゃぁ――そんにゃ時間は経ってにゃいけど、滅茶苦茶久しぶりにゃ感じにゃ」
タニアはそんな呟きを漏らしながら、馬の速度を落として後ろを振り返る。
いつの間にか随分と離れていたようで、かなり後方にセレナ、その五馬身ほど後ろを、ヤンフィとクレウサが走ってくるのが見えた。
タニアはアベリンの外壁を前にして馬を止めて、三人が駆けてくるのを眺めていた。
「ふぅ……ようやく、追い付いた……って、ここが、アベリン?」
それほど時間は掛からず、セレナがようやくタニアの前まで到着する。セレナは聳え立つ壁を見上げながら、へぇ、と感心した風な声を漏らした。
それから少しだけ遅れて、ヤンフィとクレウサもやっとで追い付いた。
「――――ここが、世界の果てに最も近い街……なるほど、城塞都市の名に偽りはないようですね」
「ふむ……久しぶりじゃのぅ」
セレナ、ヤンフィ、クレウサが、タニアと同じように馬を止めて、聳え立つ外壁を見上げる。感想は三者三様だが、総じて安堵の声音だった。
「アベリンは、騎乗したままじゃ入れにゃいから、あの厩舎のとこで降りるにゃ」
タニアは全員の合流を見てから、西門近くに建っている大型の厩舎を指差した。
「ふーん、あそこに馬を預けておくの?」
「預けるんじゃにゃくて、売るにゃ。アベリンでは、基本的に馬を所有できにゃいらしいにゃ。だから、常に門近くで売買してるにゃ」
セレナの疑問に答えつつ、タニアは馬を降りて厩舎に近付いた。そんなタニアに倣って、セレナも馬から降りると、手綱を引いて付いてくる。
一方で、ヤンフィとクレウサは、騎乗したまま並足で厩舎まで移動する。
「――にゃぁ、馬を売りたいにゃ!! 誰か居にゃいか!!」
厩舎に着いたタニアは、牛馬の臭いで充満する施設内を見渡しながら怒鳴った。
まだ朝早いとはいえ、もうそろそろ牛馬たちに食事を準備する時間帯である。飼育員が誰かしら作業しているはずだった。
しかし、シーン、と。そこにはタニアの怒鳴り声に反応する者がいなかった。
「おぉぉい!! 誰か居にゃいのかぁ!!」
タニアはさらに声を張り上げた。同時に、施設内の気配を探る。
ところが、人の気配も返事もなく、代わりに、厩舎で寝ていた牛馬が一斉に驚いた様子で嘶く。
「……何じゃ、誰も居らぬのぅ」
「人の気配がありませんね」
「どういうこと、タニア?」
ヤンフィ、クレウサが騎乗したまま厩舎に入って、そんな感想を口にする。それに遅れて、手綱を引いたセレナも顔を出す。
タニアは、おかしいにゃ、と呟きながら、取り敢えず適当に空いていた馬房に馬を入れる。
「誰も居にゃいにゃんて、あり得にゃいけど……仕方にゃいから、そこら辺に預けておくにゃ」
「――朝早いから、まだ飼育員が来てないだけじゃないの?」
タニアは空いている馬房をいくつか指差すと、セレナがそんなことを口にした。
んにゃわけにゃいだろ、と強く否定してから、タニアは騎乗したままのヤンフィを空いている馬房の一つに誘導する。
「ふむ……何か問題でも起きたのかのぅ?」
ヤンフィが不吉な台詞を吐きながら、馬房の馬からスッと降りる。それを横目に、セレナもクレウサも適当な馬房に馬を繋いでいた。
「――タニア様、馬はここに預けたままにするのですか?」
馬を預けたクレウサが、タニアにそう質問してくる。タニアは、にゃ、と頷いた。
馬は売りたかったが、飼育員が居ないのであれば仕方ない。別段、現状は路銀に困っていない。売れなくても問題はないし、どちらにしろ、馬はこれ以上使うことはないだろう。
「まぁ取り敢えず、アベリンに入るにゃ。オルド三姉妹亭で、今後の計画を練るにゃ」
タニアは言いながら厩舎を出た。それに続いてヤンフィたちも厩舎を後にする。
「さて、じゃ、コウヤを出すにゃ」
厩舎の外に出たタニアは、すかさず収納箱を取り出して、異空間を展開する。ディドは余計だが、ここからは煌夜と行動を共にする方がいい。
「……お、やっとか……着いた、のか?」
「――あら、まだ街の中ではないのかしら?」
タニアが収納箱を展開するとすぐに、煌夜とディドが外に出てくる。
煌夜は首を回しながら、屈伸したりして体を伸ばしていた。ディドは相変わらずの無表情で、アベリンの外壁と、周囲の何もない荒野を見渡して、つまらなそうに呟いていた。
「これから街に入るにゃ。門番が毎回ウザイにゃから、コウヤが居た方がいいにゃ」
タニアはヤンフィたちにも聞こえるように、煌夜にそんな説明をした。
城塞都市アベリンは、東西南北に巨大な門があり、うち東西南の門以外からは進入できないようになっている。また、各門には常に門番が立っており、入ってくる人間をめざとくチェックしている。
ちなみに、通行証は不要なので誰でも通行可能なのだが、種族差別が激しい街なので、人族以外が立ち入るといちいち突っかかってくる傾向がある。
「……そういや、前にもいきなり門番に襲われたなぁ……」
煌夜は昔を思い返すように遠い目をしつつ、しみじみと納得していた。
非常に遺憾ながら、タニアは【大災害】という不名誉な異名を持っており、アベリンではギルドに厄介者認定されている。そのせいで、街を出る分には歓迎されるが、入る分には遠慮されているのだ。だからこそ、毎回、街に入る際には少し工夫を凝らす必要がある。
「コウヤが先に入るにゃ。あちしたちはコウヤの従者って感じで紹介してくれたにゃら、きっと順調に行くはずにゃ」
タニアは煌夜をぐいと前に押し出して、先に西門を通るようにお願いする。
煌夜は苦笑しながらも先陣を切ってくれた。
それに続いて、すぐ後ろをディドが、そしてヤンフィ、セレナ、クレウサは横並びに、珍しく一番後ろをタニアが歩いた。
「…………あれ? 誰も居ないぞ?」
ところが、心構えをして通り抜けた西門には、門番どころか誰一人として居なかった。
早朝だからか、巨大な西門を抜けた先の大通りにも通行人の姿は見えず、街中は静まり返っている。
「何じゃ? 何やら不穏な空気が漂っておるのぅ――戦争でもあったのかのぅ?」
「……随分と、活気がありませんわね。アベリンは普段からこうなのかしら?」
煌夜に続いて門を抜けたヤンフィとディドが、辺りを見渡しながらボソリと呟く。
「へぇ、ここが【城塞都市アベリン】かぁ――ねぇねぇ、あれがアベリンの城塞? うわぁ、想像以上に大きいわね」
一方で、ヤンフィたちに遅れて門を抜けたセレナは、キョロキョロと街中を見渡しながら浮かれた観光気分の台詞を吐いていた。
タニアはそんなセレナに呆れながらも、訝しむヤンフィたちに賛同する。
「ヤンフィ様の言う通り、にゃんか不穏にゃ空気にゃ……朝早いとは言え、こんにゃに活気がにゃいにゃんておかしいにゃ」
タニアは間違いなく門番不在であることを確認してから、ピンと耳をそばだてて、周囲に誰かいないか気配を探る。だが、まったくひとけは感じない。
街中には、どこか張り詰めた緊張感が漂っており、キナ臭い雰囲気が感じられる。
「――もしかしたら、城塞で何か問題が起きて、緊急事態宣言が出てるのかも知れにゃいにゃ。この空気はどことにゃく、前に北門が壊れて魔族が大侵攻してきた時の雰囲気に似てるにゃ」
城塞都市と呼ばれるアベリンは、有事の際に、独自の緊急事態宣言を発令して、城塞に戦力を集中させる方針となっている。恐らくこの空気から察するに、北門が破壊されたことに匹敵する何かが起きているのだろう。
タニアは遠い目をしながら、以前に自分が起こした北門の大破壊を思い出した。
あの時は緊急事態宣言が発令されていた。タニアが【大災害】の異名を冠する切っ掛けとなった出来事――オルドたち三姉妹を助け出す為に、北の大地に巣食う魔貴族を屠った時の話だ。
あの時も、北門が復旧するまでの期間、門番含めてアベリンの冒険者や自警団など、街の戦力のほとんどが城塞に駆り出された。そこにはタニアも含まれており、集結した戦力はずっと、北の大地から現れる有象無象の魔族討伐に尽力したものだ。
「ほぅ、問題のぅ――行く先々で、ようも引き寄せるのぅ? タニアよ、くれぐれも厄介ごとに巻き込まれてくれるでないぞ?」
「にゃ!? それは心外にゃ! あちしが問題を引き寄せてる訳じゃにゃいし、好き好んで巻き込まれたりしにゃいにゃ!」
ヤンフィの言いがかりに憤慨しつつ、タニアは貧民街に足を向けた。そう簡単に厄介ごとに巻き込まれるはずはないだろう、と根拠のない自信を持っていた。
「とりあえず、こっちにゃ。あちしがよく利用してる宿屋に向かうにゃ。そこにゃら、ゆっくり休めるし、情報も手に入るにゃ」
タニアはそう言って、全員を先導するように歩き出す。
目指す場所は、アベリンでの拠点【オルド三姉妹亭】だ。タニアの知り合いで猫耳獣人の三姉妹、アールー、ウールー、オルドが管理しているギルド指定宿屋である。
ヤンフィも煌夜も以前利用したことがあり、タニアたちならば、顔パスで泊まれる便利な宿屋だ。そこに行けば、寝床と食事は当然として、アベリンの近状を含めた最新情報まで入手できるだろう。
「……タニアがよく利用しているような宿屋って、本当に安全な宿屋なのかしら?」
「ディド、お前、その言い方は失礼にゃ。安全じゃにゃきゃ、案内しにゃいにゃ。しかもそこは、ヤンフィ様もコウヤも利用したことあるにゃ! オルド三姉妹亭ってギルド指定宿屋にゃ」
ディドがボソリと不安げな声で呟いた言葉に、タニアは猛然と喰い付く。その剣幕に一瞬だけ眉根を寄せてから、ディドはそれ以上嫌味も文句も言わずに、そう、とだけ呟くと頷いた。
「ディドよ。ひとまず安心するが好い。安全じゃし、そこなら問題に巻き込まれる可能性も少ないじゃろぅ。妾が保証してやろう――ぁあ、そう云えば、アールーにコウヤの防具を頼んでおったのぅ。あれから随分と時間が経っておるから、流石に依頼していた竜革の衣、三着分は完成しておるじゃろぅ」
「……そういや、そんな無茶振りしてたっけか……」
ヤンフィが思い出したとばかりに手を叩いて、傍らの煌夜に流し目を送る。その台詞に煌夜も、そういえばそんなこともあったな、と懐かしそうに頷いていた。
確かに思い返してみると、タニアたちがアベリンを出発する朝、煌夜の身体を借りたヤンフィが、アールーにだいぶ理不尽な要求をしていた。
タニアは当時のアールーたちに同情しつつ、これで見事にヤンフィの要求を果たしていたのなら、相応の報酬を払ってやろうと心に決めた。あの時は路銀がなかったが、いまや資金は潤沢だ。評価できる仕事をしていたのならば、労ってあげないと可哀そうだろう。
「――あ、ここにゃ」
そうこうしているうちに、随分と久しぶりに感じるが、見慣れた建物の前に到着した。
古ぼけた看板には、ギルド指定宿屋という文字を塗り潰した跡と、獣族専門貴族御用達の宿屋『オルド三姉妹亭』と書かれている。
外観は一見廃墟に思える三階建ての民家だが、両開きの入口から覗く店内の構造と、内側から漂ってくる香ばしい匂いは酒場の雰囲気だ。
ちょうど早めの朝食時か、騒々しくはないが、人の気配は割と多くいるようだった。
「……ねぇ、安全、なの……ここ?」
「――不衛生極まる外観かしら。とてもまともな宿屋には思えませんわ」
オルド三姉妹亭を前にして、ディドとセレナがそのオンボロさに眉を顰めて立ち止まっていた。それを横目に、タニアは当然のように扉を開けて中に入る。
「あ、お客さん、すいません。いまちょっと立て込んでて、今日はお店開けてないんです。すぐに帰ってください!」
タニアが店内に入った瞬間に、カウンターの内側で忙しそうに料理を作っている割烹着姿のウールーが、顔を上げることなく鋭い声でタニアの入店を拒絶してきた。
しかし、立て込んでて、という言葉に、タニアはキョトンとして店内を見渡す。
店内をどう見渡しても、この場に客は一組しかおらず、それも六人掛けテーブルを使用しているたったの五人のみである。
「……どこが立て込んでるにゃ?」
タニアは疑問を呟きながら、当然のようにカウンター席に腰を下ろした。
「あれは――【大災害】です……」
「……あの、猫耳獣族が、か?」
タニアがカウンター席に腰を下ろすのを見ながら、五人が何やらボソボソと話していた。タニアのことを話しているようだが、特に害はなさそうなので無視する。
ちなみに、タニアが現れた瞬間、店内をまるで空気が凍り付いたような重々しい沈黙が支配する。
「ふぅ――ちっ……とんだ自己中野郎かよ」
一方、カウンター席にタニアが座った気配を感じたからか、ウールーは深い溜息とこれ見よがしの舌打ちをしてから、調理する手を止めた。そして、華憐な見た目とは不釣り合いな低音で毒を吐く。
タニアは、相変わらず短気にゃ、と激怒しているウールーを眺めた。
するとその視線を感じたか、ウールーがゆっくりと顔を上げた。その手には包丁を握り締めたまま、接客する人間とは思えないほど凶悪なキレ顔で、タニアを睨み付ける。
「お客さん。わたしの言ってること理解できてます? 今日は――――って、ぅぇえええ!? ひ、姫様!?」
「にゃ。久しぶりにゃ、ウールー」
「あ、う、お、お、お待ちしていましたっ!! あ、あ、あ――ちょ、ちょっと、ちょっどだけ、お待ちください!!!」
闖入者がタニアだと認識した途端、ウールーは耳と尻尾をピンと立てて、その表情を目まぐるしく変えた。凄まじく慌てた様子でカウンターから出てくると、奥にある階段を駆け上っていった。
そんなウールーの背中を見送ると、タニアに遅れて、ヤンフィ、煌夜、ディド、セレナ、クレウサが店内に入ってきた。
ヤンフィたちは静まり返った店内を一瞬だけ不思議そうに眺めてから、カウンター席に座るタニアの近くに寄ってきて、四人掛けテーブル二つに分かれて座る。
「あんま混んでないな……」
「……僭越ながら、コウヤ様。あの外観で、五人も食事している風景は、ワタクシとしては、大繁盛だと思うかしら」
「いやいや、それは偏見だよ、ディド。ここ、結構美味いよ?」
「そう、かしら――」
テーブルに座った煌夜とディドがそんな他愛無いやり取りを始めたとき、突如、五人組客のうち、豚の化身にしか見えないチビハゲ中年男がノシノシと近付いてきた。
「――冒険者【大災害】タニア、だな? お前、いつ、アベリンに戻ってきた?」
そのチビハゲ中年は、煌夜とディドに蔑むような視線を向けてから、タニアを見下すように偉そうな態度で質問してくる。
タニアは興味なさそうに一瞥してから、答える必要も意味もないので、当然無視を決め込んだ。普段ならば問答無用にぶっ飛ばすところだが、そうすると面倒ごとに巻き込まれる気がする。ヤンフィに釘を刺されているので、短気は起こさぬよう自重した。
「……のぅ、タニアよ。妾は此奴に見覚えがあるのじゃが、何者じゃ?」
「にゃ? ああ、コイツにゃ? コイツは、ゴライアスにゃ。【銀楼館】って娼館のオーナーで、この奴隷区画で一番の権力者にゃ」
タニアはヤンフィの疑問に答えつつ、奴隷市場の時の奴にゃ、と付け足した。すると、ヤンフィと煌夜は二人同時に、ああ、と当時を思い出して納得してくれた。
ちなみに、これはゴライアスの与り知らないことだが、以前、この男が落札した狐耳獣族について、【奴隷解放軍】リーダーのベスタに救出を依頼していた。しかもその結果、無事にその狐耳獣族を奪取することに成功したと聞いているので、タニアたちとは実のところ、因縁浅からぬ相手だ。
――とはいえ、その事情はタニアたち側の一方的なものであり、ゴライアスからすると、タニアたちは無関係な他人である。なので、話しかけてくる理由はないはずだった。
「――ひ、ひ、姫様ッ!? ああ、本当に、本当の姫様だ!! お帰りなさいませ!!」
「――――タニア様……それに、コウヤ様も……良かった……お元気そうで……」
チビハゲ中年のゴライアスを無視していると、ドタバタと騒々しい足音を立てて、二階からアールー、オルドが駆け下りてくる。そんな二人に遅れて階段を下りてきたウールーは、どうしてか鼻を啜りながら号泣していた。
「……何があったんだ?」
「嫌な予感しかしませんかしら」
「ねぇ、タニア。この状況って、確実に面倒ごとじゃない?」
タニアの近くに集まってくるオルドたち三姉妹、話しかけてきたゴライアス、それらの状況を横目に、煌夜たちが顔を曇らせていた。
「……にゃあ、オルド。あちし疲れてるにゃ。にゃので、とりあえずミルク出してくれにゃいか?」
タニアはそんな混迷の状況下で、けれど平常運転とばかりに要望を口にする。
「あ――は、はい、畏まりました」
一瞬、場違い過ぎるその台詞にオルドが凍り付いたが、すぐさま気を取り直して、笑顔で頷いた。
タニアは、兎にも角にも腹ごしらえだ、とばかりに、ゴライアスを無視したまま、カウンターに突っ伏してミルクが出るのを待った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
煌夜は、タニアの空気を読まない注文と、その自由気ままな行動に感心しつつも、これで確実に、何か面倒ごとに巻き込まれ始めるのだろう、という確信を持った。フラグにしか思えない。
しかしその感想は、ヤンフィ含めて、タニア以外の全員が同一のようで、ふと視線を向ければ、全員が全員、溜息交じりにタニアを睨んでいた。
「あ、えと――コウヤ様? コウヤ様も何か、御用意いたしますか?」
カウンターの内側で、三姉妹の長女、誰よりも大人びているオルドが、柔らかい笑顔で首を傾げてくる。その笑顔に癒されつつ、煌夜は気持ちを切り替えた。
「あ、じゃあ、水と……何か定食的な……」
「ワタクシにも、コウヤ様と同じ物を用意頂けませんかしら?」
「はぃ? ――――あ、失礼しました。はい、畏まりました」
煌夜の注文に続いて、真横に座っているディドが当たり前のようにそう告げる。
瞬間、ディドの注文に対して、オルドは珍しくも表情を曇らせたが、すぐさま取り繕うように笑顔になって頷いた。
一方で、ウールーとアールーはなぜか露骨に苛立ちを表情に浮かべ、忌々しげに舌打ちしていた。
「く、くくく、く――流石に、温厚で理知的な小生でも、ここまで馬鹿にされると、腹が立つなぁ――くくく、くっ、くっ……」
ところで、蚊帳の外になっていたが、タニアの前で仁王立ちしていたチビハゲ中年――【銀楼館】オーナーのゴライアスは、気持ち悪い笑い声を上げ始める。
狂ったか、それとも癇癪でも起こしたのか、と煌夜は首を傾げた。
途端、黒いスーツジャケットを羽織った礼服姿の四人のうち、一番年上に思える髭を蓄えた老紳士が、慌てた様子でゴライアスをタニアの前から引き剥がす。
「小生を――小生を、馬鹿にして――くくく、くく、くくく――」
「冷静になって下さい、ゴライアス様。いまは【大災害】が、アベリンに戻ってきていることを喜ぶべきです。交渉次第では、我々にとっての切り札になるやも知れません」
「くくく――――く、ぐ……うむ。すまぬ。取り乱した」
老紳士が、ゴライアスの耳元でそんなことを囁いていた。それを聞いたからか、気持ち悪い笑いを静めてから、ゴライアスはテーブルに戻っていく。
一見して意味の分からない茶番劇である。
何がしたいのか、と煌夜は首を傾げながら見送って、視線をヤンフィやセレナに向ける。すると、セレナと目線が合った。
セレナは煌夜に賛同するように、大きく頷いて共感してくれた。
「ふぅ、少し恥ずかしいところ見せてしまったな――さて、【大災害】タニアよ。知っているかどうかわからんが、いまこのアベリンで、ちょっとした問題が起きていてね。困っているのだよ。そこで、どう対策すべきか、小生たちはこの店を貸し切って、会議していて――」
「――――ねぇ、獣族の給仕さん。悪いけどさ、あたしも水と、薬草のサラダとか、お願いできる?」
ゴライアスの偉そうな台詞を遮って、セレナがオルドにそんな注文をする。ピシリ、と瞬間的に空気が凍った。
面白いようにゴライアスの顔が紅潮して、先ほど以上の苛立ちが浮かび、くくく、と再び気持ち悪い笑いも始まる。同時に、どうしてかセレナの注文を受けたオルドも笑顔のまま動きを止めており、しばし返事をせずに沈黙していた。
「ん? 薬草のサラダって、ここには置いてないの?」
反応しないオルドに、セレナが首を傾げた。オルドは何かを堪えるようにぎこちない笑顔になり、置いてありますよ、と小さく頷いてみせる。
「――薬草のサラダ、ですね。畏まりました」
オルドが返事をした瞬間、タニアの目の前にミルクを置いたウールーが突如として憤慨した。
「おいおいおい!! さっきから、何を当然のように注文してやがるんだよ、お前ら!? 姫様の連れだからって、まさか仲間です、とか勘違いしてるのか!? 身の程を知りやがれ、劣悪種共っ!! 百歩譲って、ヤンフィ様とコウヤ……様の注文は受けるとしても、どうして妖精族みたいな性奴隷予備軍にまで食事を提供しなきゃならない!? オルド姉さんを困らせるなよっ!!」
凄まじい剣幕でガァーと捲し立てるウールーに、セレナのみならず、ディドもクレウサも驚いて思考を停止している。
何という差別主義――だが、そう言えばこれが、ウールーという猫耳獣族の少女のデフォルトでもあった。煌夜もこの洗礼は、初対面の時に味わっている。
とはいえ、味わっているからこそ、この後にまた面倒な展開をされても困るわけで、煌夜は溜息を漏らしながら、タニアに目配せした。
タニアは少し呆れた顔をしながらも、煌夜の視線を受けて、その意図を汲んでくれた。
「にゃぁ、ウールー。別に、セレナたちにどんにゃ態度取っても、あちしは困らにゃいけど――無駄にゃやり取りはしたくにゃいにゃ。気に食わにゃかろうとにゃんだろうと、そんにゃの置いといて、オルドみたいにゃ振舞いをお願いにゃ。ついでに、自己紹介するにゃ」
「あの、姫様。僭越ながら、アールーたちの自己紹介より先に、こちらの事情を説明させて頂けないでしょうか。そこの人族――もとい、コウヤ……様にも、このアベリンの現状を知って頂く必要があると――」
「――にゃにゃにゃ? アールー、あちしの言葉、理解してるにゃ? あちしは、自己紹介しろ、って言ったにゃ。事情の説明にゃんて、後で詳しく聞くにゃ。何度も同じこと言わせるにゃ?」
「――ぅ、くっ……」
タニアの問答無用な圧力に、横から口を出したアールーはそれ以上何も言えずに押し黙る。けれど、その表情は全く納得できていない様子だった。
憤慨しているウールーもそれは同じようで、反論を飲み込んで沈黙している。
そんな重苦しい沈黙の中、カチャカチャと調理する音と、くくく、という気持ち悪い笑いだけが響いていた。
「くくく、小生を無視して――」
「――のぅ、ゴライアスとやらよ。汝、少々五月蠅いぞ? 速やかに黙るか、それとも死ぬか?」
ゴライアスがたしなめる老紳士の制止を振り払って、ゆらりと立ち上がった瞬間、ヤンフィが鋭い声で釘を刺した。同時に、その場が凍り付くほど強烈な殺意が篭った威圧もぶつける。
直接ぶつけられたわけではない煌夜も、その硬い声質と威圧の空気だけで、思わずブルリと身震いしてしまった。
「――――ぁ、ぅ」
ヤンフィの放つ圧力をまともに受けたゴライアスは、紅潮していた顔面を一瞬にして蒼白にして、気持ち悪い笑いどころか呼吸すら満足に出来ず、ペタリとその場にへたり込んだ。
その強烈な威圧を前にして、憤慨していたウールーも、興奮していたアールーも一様に冷静になり、シュンと耳を寝かせてタニアに申し訳なさそうな視線を向ける。
「…………これは、どういう状況なんでしょうか?」
クレウサがボソリと呟いた。傍らのセレナが、それに対して、さあ、と首を傾げている。二人のそんな様子を見て、煌夜は苦笑を浮かべた。
確かに、いったいどういう状況なのだろう――せっかくゆっくり休めると思ったのに、全然落ち着けない。煌夜がそんな思いで溜息を漏らした時、オルドが丁寧な所作で、水とお通しの入った器を配膳した。
「――ひとまずこちらをどうぞ。煮豆と魚のほぐし身です」
オルドは手際よくテーブルを回り、ディド、セレナ、クレウサ、ヤンフィの順番で同じ物を配膳する。
「お口に合わなければ、残して頂いて結構です」
お通しの中身を覗きながら神妙な顔をしているセレナに、オルドはふんわりとした笑顔で告げる。そして、へたり込んでいるゴライアスを助け起こすと、硬直していた老紳士に託していた。
「わたくしは、オルド・ガルムと申します。この宿屋の店主をしており、そこなアールー、ウールーの姉でございます。お見知りおきくださいませ」
カウンターの内側に戻ったオルドは、タニアに一礼すると、煌夜たち全員に視線を送ってから丁寧に自己紹介した。
「――アールー、ウールー、貴女たちも」
オルドは鋭い声で、シュンとして突っ立っているアールー、ウールーに視線を送る。二人はビクっと身体を震わせると、慌ててオルドの左右に並んだ。
「あ、えと……アールーは、アールー・ガルム、です」
「……わたしは、ウールー・ガルム、と申します……先ほどは、取り乱して失礼しました」
オルドを真ん中に、煌夜から見て左手側にアールー、右手側にウールーが立ち、二人揃ってペコリと頭を下げていた。
「わたくしたち三姉妹で、この宿屋【オルド三姉妹亭】を営んでおります――先ほどまでの失礼な態度、皆様にご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした」
オルドがそう言いながら、誰よりも深く頭を下げていた。模範的な大人の対応である。
「――ってか、怖いくらい似てるわね。獣族の姉妹って、そういうもんなの?」
顔を上げた三人姉妹の顔を見て、ふとセレナがそんな感想を口に出していた。ちなみに、セレナの視線はさりげなく、クレウサとディドに向いている。
確かにその感想は、煌夜も初対面の時に強く思ったことでもある。
煌夜はセレナの感想に頷きつつ、改めてアールー、オルド、ウールーの三人を順繰りに眺めた。
左手側でチョコンと立っているのが、アールー・ガルム。
サラサラの長い白髪をツインテールにしていて、身長は140センチ前後、凹凸のない発展途上な身体つきである。パッと見、十三、四歳にしか思えない。ちなみにいまの恰好は、つなぎみたいな作業着のうえにエプロンという不思議な恰好だった。
真ん中で堂々と立っているのが、オルド・ガルム。
彼女は三人の中で頭一つ分身長が高く、また一番女性らしいスタイルを持っている。その恰好はなぜか、アールーと同じようにつなぎみたいな作業着にエプロン姿だったが、不思議と違和感なく着こなしていた。ちなみにオルドは、白髪を後頭部で一つにまとめてアップしており、片耳が失われているのが特徴的である。
右手側で燃えるような怒りを堪えて立っているのが、ウールー・ガルム。
三人の中で、恐らくは一番怒りの沸点が低い少女だ。体型はアールーと同じ幼児体型、身長も横並びに見てほとんど同じ、ただ見比べると、アールーより耳の形が丸っこく尻尾が少し太かった。髪型はセミロングのストレートヘアで、彼女だけ割烹着姿である。
そんな三人を横並びに見て、煌夜は、なるほど確かに、と声を出さずに納得の頷きを見せる。
三人が三人ともしっかりとした特徴があり、背格好を含めてみれば、その違いを見極めるのは容易だろう。だが、その相貌だけは驚くほど似ている。
パッチリとした大きい双眸、ほにゃと力が抜けそうな柔和な顔立ち、美しいよりもむしろ可愛い雰囲気で、表現するならば身近な美少女という印象か。三人が三人とも、鏡映しに同じ顔付きである。
正直なところ、こうして三人を横並びに眺めると、いっそう同じ顔にしか見えなかった。少なくとも、煌夜じゃあ誰が誰か判断できないだろう。
「オルドたちは三つ子にゃ。にゃので似てるにゃ――けどにゃ、セレナ。獣族だからとか関係にゃく、そもそも、ディドとクレウサが双子の癖に、似てにゃさ過ぎるだけにゃ」
「……セレナ。姉妹だから顔立ちが似ている、というのは偏見かしら。似ているのが常であれば、広義では、妖精族は集落単位で姉妹、母娘ではないのかしら?」
「いや別に、似てないから何ってわけじゃないけど――はいはい、失礼しました」
タニアがディドに話の矛先を向けると、ディドが硬い声で反論する。その小競り合いを見て、セレナはため息交じりに、失言だったわ、と言葉を呑み込み話を切り上げる。
「あー、オルド、アールー、ウールー。こっちのこれは、天族のディド、クレウサにゃ。で、妖精族のセレナ……と、一度見てるから覚えてると思うにゃが、ヤンフィ様にゃ」
タニアがディド、クレウサ、セレナ、ヤンフィの順番に指差して、物凄く簡単に紹介をした。そんなおざなりな紹介に、しかし誰も文句はなかった。
すると蚊帳の外に居るはずのゴライアスが、また気持ち悪い笑いをしながら、とても偉そうに立ち上がって胸を張った。
「くくく、くく……致し方あるまい。小生も、自己紹介――」
「――あ、お前は少し黙ってるにゃ。とりあえずオルド、サッサと食事の用意をするにゃ」
ピシャリ、とタニアはゴライアスの発言を遮り、突っ立ったままのオルドたちに催促する。はい、とその指示に従い、オルドとアールーが調理に戻っていく。
一方で、またもや無視されたゴライアスが、怒り心頭に肩を震わせて顔面を紅潮させていた。だが、それには誰も反応せず、視線すら向けずに無視を決め込む。
ちょっとだけ哀れだな、と煌夜は思いつつも、でも仕方ないな、と割り切って、お通しに手を付けた。
お通しは見た目よりずっと味が濃くて、疲れた身体に染み渡るような美味しさだった。
「……状況の説明は、わたしに任せてください。姫様は今回の件、そもそも部外者なんですから――いったん、銀楼館の方々は静かにしていて欲しいです」
「くくく、くくく……くく……【大災害】タニア……聞きしに勝る傍若無人ぶりだな……まぁ、いいだろう……小生も、そこまで短気ではない……だが、獣族の小娘よ。分かっておるだろうな? いまお前が無事なのは、小生の温情でしかないぞ? もしこれで約束を違えた場合、理解しておるな?」
「…………存じています、豚――いえ、ゴライアス……様」
ところで、煌夜がお通しの美味さに舌鼓を打っている裏側で、まったく納得していない顔のウールーがゴライアスの座るテーブルで何やらお詫びしていた。
短気ですぐに毒を吐いて凶器を振るうウールーが、必死に堪えて給仕している。
事情は分からないが、ゴライアスの口振りを聞くと、ウールーは何らかの弱みを握られているようだ。
(……やっぱ、どこに行ってもトラブルに巻き込まれる運命か?)
煌夜は肩を竦めてヤンフィに視線を向けると、言葉にせずとも以心伝心して、ヤンフィも賛同するように溜息交じりに呆れていた。
「――本日は、焼き魚定食です。どうぞ、お召し上がりくださいませ、コウヤ様――ディド様も」
お通しを早々に食べ終えて、いまや遅しと待っていると、ほんの数分で香ばしい匂いと共に定食が配膳された。
ニコリと微笑むオルドの笑顔にも癒されつつ、煌夜は早速その定食に口を付ける。
セレナの注文もそれからすぐに提供されて、各々適当に食事を摂る。そんな中、タニアとヤンフィ、クレウサの三人は食事は注文せず、飲み物だけを呑んでいた。
「…………あの、ヤンフィ様……お食事とかは?」
「ふむ――魔貴族の肉が出せるなら、戴こう。じゃが、ないなら不要じゃ」
「あ、ぅ? ア、魔貴族の、肉!? そ、それは……申し訳ありません。用意、できないです……」
何も頼まず、煌夜の食事を眺めていたヤンフィに、手持無沙汰になったアールーが、媚びを売るような態度で質問していた。けれど、その親切に対して、ヤンフィはそっけなく無理難題を口にする。
困った表情になったアールーは、そのまますごすごと下がり、畏まった状態で注文待ちの姿勢をしていた。
「さて――ところで、そろそろ一息つけたじゃろぅ? タニアよ、恐らく面倒ごとじゃろうが、何が起きているのか確認せよ」
「はいはい、にゃ」
煌夜が定食を半分くらい食べた頃合いで、ふとヤンフィがタニアに向かってそう告げる。タニアはすかさず手を挙げてから、ビシっとオルドを指差した。
「にゃぁ、オルド。あちしたち、ちょっと龍神山脈を踏破して、竜騎士帝国ドラグネスに向かうことににゃったにゃ。にゃので、装備の拡充と、ドラグネスの住民票を持つ奴隷を確保しようと思ってるにゃ。にゃけど、いま街の空気が不穏当にゃ。いったいにゃにが起きてるにゃ?」
タニアは一方的にそう問い掛けた。その質問に、オルドは少し悲しい顔をしてから、ウールーに視線を向ける。
ウールーはゴライアスの座るテーブル付近で控えており、視線に気付くと、気合を入れた表情で頷いた。
「……姫様。わたしが事情を説明いたします。実は、つい先日の話ですが……城塞が襲われて、アベリン城主が殺されました……賊はそのまま城塞を乗っ取って、北門を解放したんです……結果、北の荒野に居た魔族が雪崩れ込んできて……街の北側が、ほとんど壊滅状態になってます」
「――――にゃに!?」
「すぐにアベリン中の冒険者が集まって、治安維持軍を結成……何とか、街の中央付近に大規模な防御結界を展開できましたけど……その賊はいま、治安維持軍とも衝突し始めてて……遅かれ早かれ、防御結界を壊されるかも知れなくて……」
ウールーは、憤り半分、悲しさ半分の表情で、途切れ途切れながらもハッキリとそう告げた。だが、ウールーの言う事態をいまいち理解出来ない煌夜たちは、それがどれほど深刻なことか分からない。
だがとりあえず、タニアが珍しくも真剣な顔でひどく驚いている様子なので、かなりの大事であることだけは理解できる。
ウールーはタニアの驚きに頷きつつ、説明を続けた。
「いま、アベリンの中で安全と言えるのは、南地区と、東地区の一部だけ……です。西地区は、治安維持軍が常駐しており、中央通りの先に展開した防御結界を護ってます……防御結界の外側を徘徊する魔族は、それほど強力な個体が居ないようで……何とか駆除できているようで――」
「北門を解放した賊、って何者にゃ?」
ウールーの説明を、タニアは鋭い口調で遮った。
タニアのその剣幕に、煌夜たちはようやく、この面倒ごとが想像以上に大事件であることを認識した。
「賊は……【奴隷解放軍】です……」
「――――――にゃに?」
「順を追って、説明、します、姫様……」
ウールーの言葉に、タニアが驚いて硬直していた。ウールーは一旦言葉を切ると、深呼吸してから口を開いた。
「姫様たちがアベリンを発って数日後、奴隷解放軍のベスタ様が、そこの豚――じゃなくて、ゴライアス……様から、狐耳獣族の奴隷を強奪しました……奴隷の名前は『ライム・ラガム』……感情の乏しい、無口な、子でした。ですが、その、ライム・ラガムは……奴隷解放軍に所属すると、わずか数日で、奴隷解放軍を掌握……支配して、リーダーのベスタ様を殺害して……奴隷解放軍自体を、乗っ取ったんです」
「待つにゃ、ウールー。ベスタ、って、あの【粛清のベスタ】にゃ?」
「はい……そのベスタ様、です」
タニアとウールーの会話に出てきた『ライム・ラガム』と『粛清のベスタ』は、煌夜とヤンフィにとっても心当たりのある名前だった。
煌夜の脳裏に浮かんだのは、奴隷市場での光景、下着姿に首輪を付けられた狐耳の美少女――ライム・ラガムの姿である。また同時に、真っ赤なミニスカート姿にスーツジャケットを着ていた猫耳獣人――粛清のベスタの姿も浮かんだ。
煌夜が当時の記憶を思い出していると、タニアが信じられないと目を見開いて、ウールーに強い口調で訊き返していた。
「ベスタが、殺されたにゃか? ベスタの実力は、そりゃ、あちしには及ばにゃいけど、Sランク冒険者に匹敵するレベルにゃよ!?」
「……はい。知ってます……けど、ライム・ラガムは……実は、元【世界蛇】のレベル3管理者で……純粋に実力としても……ベスタ様を凌駕しており……何よりも、相性が悪すぎました……」
ウールーはギュッと目を閉じて顔を伏せてから、絞り出すように言葉を続ける。
「ベスタ様は、一対一でこそ力を発揮する類の魔術師、です……けど、ライム・ラガムは……催眠、幻惑系を得意としていて……掌握した奴隷解放軍を手勢に……多勢で、襲ったんです……そして何より……北門の外に巣食っていた魔貴族――【アベリンリザード】を使役していて……ベスタ様は抵抗虚しく、敗れ去って……見せしめに……衆人環視の中で、元仲間たちに犯されて……ゆっくりと身体を、壊されて……最後に、アベリンリザードに捕食……され、ました……」
そこまで言って、ウールーが口元を押さえていた。その光景でも思い出したのか、顔面蒼白になって、いまにも吐きそうな様子だった。
だがそれも仕方ないだろう。いまの話を聞くだけでも、当時の光景がどれほど異様だったか、煌夜でさえも容易に理解出来る。
煌夜も説明された光景を想像して、少しだけ胸糞悪くなり気持ち悪かった。吐き気を催したので、慌てて水を飲んで気持ちを落ち着かせる。
「にゃんでソイツ、ベスタを殺したにゃ?」
「……ベスタ様が、逆らったから、見せしめ、だったようです。彼女は大広場の中央でベスタ様を処刑しながら、『今後、ボクに逆らう人間はこうなるよ。これは見せしめだけど、くれぐれも叛意を持たないように』――と、宣言しておりました……その後、すぐにアベリンの城塞に攻め込んだようです」
タニアの質問には、オルドがその時の状況を思い出すように遠い目をしながら答えていた。それに続くように、今度はアールーが声を上げる。
「姫様、ライムはいま、完全にこの街を支配していて、従わない者を次々と、奴隷に堕とすか、公開処刑しています。しかも夜になると、ライムに支配された奴隷解放軍があちこちの店で好き放題暴れていて、そいつらに逆らった場合も、無理やり従属の契約を結ばされるんです――ウールーがそれで、奴隷に堕ちてしまって……」
アールーは言いながらウールーに視線を向けた。
煌夜は、まさか、とウールーを注目する。煌夜、ヤンフィ、タニア、ディド、セレナ、クレウサの視線を浴びて、ウールーがコクリと頷いた。
「……はい。わたしは、いまやこの豚――ゴライアス……様の奴隷として、無理やりに契約されてしまいました……だから、逆らうことも、逃げることも出来ません」
言いながら、ウールーが自分の胸元、鎖骨部分を晒してくれる。
露出したその白い肌には、複雑な魔法陣に似た紋様が刻まれており、紋様は常に薄ぼんやりと緑色の光を放っていた。どこかセレナの頬にある魔術紋にも似ている。
煌夜は驚きに息を呑んでから、だからか、と納得しつつ、ゴライアスを睨み付けた。先ほどからゴライアスに対するウールーの態度が、どうしてなのかこれで理解出来た。
「にゃら、あちしたちがその奴隷紋を解除するにゃ――ゴライアスを殺せばいいにゃか?」
煌夜がゴライアスを睨み付けているのを横目に、まったく空気を読まないタニアが、さも当然のような口調で首を傾げている。
すると、タニアのその強気の台詞に対して、ゴライアスがまた、くくく、という気持ち悪い笑みを浮かべ始める。
「……姫様……それは、お止めください……殺しても、解除できない、です……この従属契約は、通常の従属契約とは魔術体系自体が異なるようで……わたしの魔力核に、直接、契約が刻まれています……どうやら、ライム・ラガムが施した禁呪、らしいです……だから、豚――ゴライアス……様、を殺しても、意味がなくて……むしろ、道連れになってしまう、ようです」
「くくく、くくく……気持ちは分かるぞ、大災害タニアよ。確かに、通常の従属契約であれば、手っ取り早い破棄方法は、飼い主である小生を殺すことだろう。くくく……だが残念だったな? この契約は、飼い主である小生を殺すと、小娘が死ぬように仕組まれている。だから、飼い主である小生が、契約を破棄しない限り、この小娘の命は、小生が握っているのだよ。さて、それでは本題だ――大災害タニアよ。小生の頼みを聞いてくれないか? 頼みを聞いてくれれば、この小娘との契約を破棄してやるぞ?」
ウールーの言葉に続けて、なんとも恩着せがましい言い回しでゴライアスが語り出す。踏ん反り返ってデブっている腹を見せる態度に、タニアだけではなく、その場の全員が苛立った。
挑発されているのか、と思うくらいにムカつくほど横柄な態度だが、どうやらゴライアスには挑発の意図はないようらしい。
「――ゴライアスよ。汝の頼み、とは何だ?」
早く本題を云えとばかりに、ヤンフィが鋭い口調で質問した。しかしヤンフィのその質問に、ゴライアスは、横から口を出すな、と呟きながら、ムッとした目線を向ける。
「くくく……先ほどから、随分と生意気な餓鬼だなぁ。しかも小生を呼び捨てとは――まぁ、小生は大人だ。凄まじく不敬であるが、大災害タニアの連れであることを考慮して、特別に許そう。さて、小生の頼みは単純だ。今の話に出ていたラガム族の娘、『ライム・ラガム』というラガム族の娘を、生捕りにして欲しいのだ。生け捕りにして、小生のところに連れてきてくれるだけで良い。そうすれば、ラガム族の娘と引き換えに、この小娘を解放してやろう」
ゴライアスは言ってから、テーブルの上にある食べかけの食事に手を伸ばす。ガツガツと犬食いをするその様が、あまりにもひどく汚らしかった。
しかし、なるほど――煌夜は状況をなんとなく理解した。
整理するとつまり、狐耳の獣人、元奴隷のライム・ラガムが、何が目的かアベリンを混乱に貶めたうえで、街を支配する独裁者になっているらしい。逆らう者は虐殺か、奴隷にして、アベリンの支配者として君臨しているという。
そして不運にも、ウールーはそんなライム・ラガムに逆らって、禁呪により奴隷に堕とされてしまったらしい。しかも奴隷に堕とされたウールーは、紆余曲折があったとは思うが、結局いまはゴライアスに捕まっており、タニアとの交渉材料として人質に取られている。
また一方で、ゴライアスとしては、ライム・ラガムを自らの奴隷にしたいと画策しているようだ。けれどそれは自力で出来ないことなのか、奴隷であるウールーを交渉材料にして、タニアにライム・ラガムの生け捕りをやらせようという状況のようだ。
そこまで思考して、うむうむ、と頷きながらも、煌夜は少しだけ罪悪感を覚える。
偶然にも煌夜とヤンフィが彼女を助け出そうとしなければ、或いは――ゴライアスの手元で、奴隷として飼われていたのならば、もしかしたら、こんな大事件にはならなかったかも知れない。
本来は三部構成の展開を予定していたものの、長くなり過ぎた為、前置きを二話追加してしまった。
そのうちの一話です。