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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
第十一章 原点回帰
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第七十八 セレナの選択

 見渡す限り白に染まった銀世界。

 まともに前に進めないほどの強風に、身体中を叩き付ける雪の飛礫。

 周囲は視界を埋め尽くす白雪が吹雪いており、息を吸うだけで肺の中まで凍るほどの極寒だ。先ほどまでの温かさは微塵もなく、まるで氷点下の冷凍庫に全裸で立っているような感覚である。

 そんな猛吹雪の中、煌夜は途絶える寸前の意識を振り絞りながら、微かに視界が捉えるヤンフィのか細い魔力線を頼りに歩き続けていた。


「――――っ!!!」


 死んでしまう、と弱音を吐こうと口を開けた瞬間、吹き込んだ冷気に喉奥が焼かれるような激痛が走る。

 慌てて口を噤み、助けて、という思いから背後を振り返るが、そこには、付いてきているはずのディドやタニアの姿はなく、ただただ白い雪が舞っているだけだった。

 煌夜は途端、この白銀の世界でたった独りになったかのような錯覚に陥る。


「――コウヤ。しっかりするにゃ。脚が止まってるにゃ」

「コウヤ様。苦しいでしょうけれど、前だけ向いて歩いてくださいませ――ワタクシ、常にお傍に付いておりますかしら」


 もはやビュウビュウという風の音しか聞こえない耳元に、しかしその時、優しい声音でそんな言葉が届く。温度が宿ったような、温かみのある台詞だ。

 またその声と同時に、背中をそっと押される感覚があり、かじかんで麻痺している腕が誰かに掴まれた気がした。


「――っ!!!!」


 分かった、と声を出したつもりだったが、煌夜のその言葉は、猛吹雪の前に霧散して自らの耳にも届かなかった。けれど、確かにその直後、背中を押す力が少し強くなって、感覚のない腕に柔らかい温もりが感じられるようになった。


「コウヤよ。己の身体のうちを流れる血潮と、巡る魔力を意識するのじゃ。身体の内側に意識を集中させよ――この環境下では、体外に流れ出た魔力は【凍雲(いてぐも)】に吸収されるぞ?」


 幻聴にしか思えないが、ハッキリとヤンフィの声が脳裏に響く。それはきっと、修行の一環であり、また的確なアドバイスなのだろう。だが正直、そんなことに気を回す余裕なぞなかった。

 いまの煌夜は、薄れゆく意識を繋ぎ止めて、倒れないよう踏ん張ることだけで精いっぱいである。


(……あぁ、強くなったと、勘違い、しちゃいけなかった……)


 ここに至るまでの山登りが順調すぎたことから、煌夜はだいぶ油断していた。幾度かの死線をくぐり抜けて、様々な困難を乗り越えて、自分が成長したと勘違いしていたようだ。

 けど、そんな考えは甘すぎた。やはりこの世界は、どこまで行っても過酷である。

 こんなことなら、遠回りしてでも魔神の通り道を使うべきだった――と、煌夜はしきりに後悔していた。

 歩き始めてから、わずか一時間弱だが、もはや身体も心も限界で、思考に至っては、まるで酩酊しているかの如く霞がかっている。正直なところ煌夜は、いま自分が動いているのか、立ち止まっているのか、はたまた寝転がっているのか、それさえ分からない状態である。


「ねぇ、ヤンフィ様。いっそタニアがコウヤを担いだ方が早いんじゃない? このペースだと、後二時間くらい掛かるわよ? コウヤ、結構限界そうだけど、いいの?」

「――ふむ。まだ潜在魔力的には余裕がありそうじゃが、確かにそうじゃのぅ。鍛える為とは云え、不必要にコウヤを瀕死にするのも好くないか……」


 朦朧とする煌夜の意識の中にそんなやり取りが響いていた。


「……既にコウヤ様、意識が混濁なさっているようです」


 クレウサの冷静な声が、まるで警鐘のようにガンガンと頭の中で鳴り響いた。


「――――っ!!!」


 クレウサに反応した訳ではないが、頭が割れるように痛んだので、煌夜は、死ぬ、と叫んだ。だが、必死の叫びは音にならず、吹き荒ぶ強風に掻き消される。


「ふむ……確かに、いまの妾にとっても、この銀世界の【凍雲】は堪えるからのぅ。コウヤにはちと厳しいかのぅ――タニアよ。ちとコウヤを抱えてくれぬかのぅ?」

「承知したにゃ! 任せるにゃ!!」


 煌夜が死を覚悟している横で、何やらヤンフィとタニアが合意していた。途端、重力がなくなったような浮遊感が煌夜の身体を包み、白い視界がぐわんぐわんと揺れ動く。

 煌夜はどうやら、タニアに抱き抱えられたらしい――と、瞬間、耳元に殺意さえ感じる寒気を帯びた低音が響いた。


「僭越ながら、ヤンフィ様。タニアではなく、ワタクシがコウヤ様をお運びいたしますかしら――タニア、コウヤ様をお渡しなさい」

「はぁ? にゃに言ってるにゃ? お前見たいにゃ破廉恥変態天族にゃんかに、コウヤを渡すわけにゃいだろ? 自覚するにゃ!」

「…………ヤンフィ様。タニアをどうにかしてくださいませんかしら?」


 タニアとディドのそのやり取りを朦朧とした意識で聞きながら、煌夜は、寝たら死ぬ、という格言だけ思い浮かべて、ひたすら気絶しないよう堪えていた。


「いちいち面倒じゃのぅ――じゃが、ディドよ。今回はタニアに譲れ。どうせ、ここを踏破するまでの短い時間じゃ。さて、セレナよ。そんなに悠長に進んでおらんで、もっと速度を上げよ」

「はいはい……っても、焦らせないでよ? あたしだって、この雪の世界はそんなに頻繁に攻略してないんだから――道に迷わないよう気を付けてるんだからね?」


 セレナはそんなことを言いながらも、ヤンフィの指示通りにスピードアップしたようだった。気のせいかも知れないが、煌夜の身体に当たる雪飛礫の勢いが増して、風を切る音が強くなる――が、まぁ、ともかくとして、煌夜は、この極寒に堪えることに集中する。


 そうして、さらに一時間ほど経過した頃、唐突に白い視界が開けて、薄暗い夜の景色に変わった。


 ふいに煌夜の身体がフッと軽くなり、感覚のなくなっていた手足に血流が戻ったような熱さが流れ込んでくる。吸い込んだ空気は、とても清涼で美味しく感じる。


「ふぅ……無事に抜けたわね」


 セレナの安堵の声が正面から聞こえて、ゆっくりと顔を上げる。すると、目の前には鬱蒼とした森林が広がっており、もうとっくに夜の帳が下りていた。


「あぁ――――ぅ?」


 煌夜は、助かった、と喋ろうとして、唇が震えてうまく喋れなかった。


「にゃ、思ったよりも時間掛かったにゃ」

「――コウヤ様、大丈夫かしら?」


 すぐ耳元でタニアとディドの声が聞こえて、ゆるゆると視線を周囲に向ける。煌夜はタニアにおんぶされており、ディドがその真後ろで背中を擦ってくれていた。

 どうやら道中の会話は気のせいではなく、煌夜は途中からずっとタニアにおぶさっていたらしい。


「ほぅ? ここが、汝の集落で間違いないのか、セレナ?」

「ええ。証拠に、そこかしこに気配があるでしょ?」

「そうじゃのぅ――随分と豪勢な出迎えじゃが、歓迎はされておらぬのぅ? 酷い殺気じゃ」

「それはしょうがないでしょ? だって見知らぬ人族たちが、突然、雪の世界の結界を突破して、集落に侵入してきたんだから、警戒くらいするわ」


 セレナとヤンフィはそんな会話をしている。

 二人の会話を聞きながら、煌夜は峠を越えたと気持ちが緩んだようで、フッと電源が落ちたPCのように、視界をブラックアウトさせたのだった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 ようやく雪の世界を抜けて、目の前に森が出現した瞬間、煌夜の意識が途切れてしまった。

 ガクン、と力なく頭を垂れてタニアの背中で脱力する様を横目に、ヤンフィは森の中から突き刺さる殺気の一つ一つに意識を向ける。

 とりあえず煌夜は気絶しただけで、生命力には何ら問題はなさそうだ。となれば、気を付けるべきはこの敵意の数だろう。


(ふむ……十……十五……二十、ほどかのぅ? まあ、妖精族が何人集まろうとも、いまの妾たちの脅威にはならぬが――無駄な闘いは避けたいのぅ)


 ヤンフィはセレナを見てから、森の中に隠れた手練れの精鋭に視線を向けた。巧妙に姿を隠しているようで、目視ではその姿を見つけることは出来ない。

 けれど、殺気も敵意も魔力も露骨に垂れ流しており、ヤンフィたちの一挙手一投足次第では、即座に攻撃してくる気満々である。


「のぅ、セレナよ。念のために云うておくが、妾はここを強行突破するつもりなぞない。穏便に済ませるよう交渉せよ」

「――むしろ、ヤンフィ様。それはタニアに言ってくれない?」


 ヤンフィの台詞に、セレナが苦笑しながらタニアに振り返る。タニアは、心外にゃ、と口をへの字に曲げて、突き刺さる敵意を受け流していた。

 煌夜を背負っているからか、珍しくも大人の対応である。


「――お帰りなさい、セレナ。随分と早い帰還だけど、もうキリア様の用事は終わったの?」


 ふと、森の中からひと際強烈な威圧を放つ一人の妖精族が姿を現した。彼女は真っ直ぐとセレナを見詰めつつ、その手には鋭いレイピアを握っている。

 現れた妖精族は、腰元まで伸びた長い緑髪をたなびかせて、キツネを思わせる鋭く細い目つきをしていた。

 キリっとした眉、シュっとした顎、大人びた空気を放つ美女で、セレナと同様、両頬に美しい幾何学模様を浮かべている。

 身長は妖精族の中ではひと際高く、パッと見た印象では、タニアよりも少し高いだろう。

 前衛の戦士を思わせる白銀製の軽鎧を身に纏っており、妖精族にしては珍しくガッチリとした筋肉質な体躯をしていた。


「――お久しぶりです、イレーネ様。いいえ、まだキリア様の用事は終わっておりません。それに残念ながら、こちらに戻ってきたわけでもありません。ちょっと事情がありまして、立ち寄りました」


 セレナが、イレーネ、と呼んだその妖精族は、一瞬ムッと眉根を寄せたが、すぐに無表情で鋭く冷徹な視線をヤンフィに向ける。


「ところで、セレナ。なかなか珍しい種族と旅しているのですね? そちら二人は天族で――そこの幼女は……人族、でさえありませんね?」


 鋭い睨みとレイピアの切っ先をヤンフィに向けて、回答如何によっては殺す、とイレーネの美しい翡翠の瞳が語っていた。

 その威圧、その視線を前に、ヤンフィは思わず苦笑する。自惚れここに極まれり、である。

 イレーネは、なるほど間違いなく強者だろう。少なくともセレナより実力はかなり上位――しかし、どれほど甘く見積もってもディドと同格程度、本調子でないヤンフィを相手取るにも力不足過ぎる。

 とはいえ、いま戦うことを前提にするのは得策ではない。ヤンフィたちは別に、セレナの集落を襲撃しに来たわけではないのだから――

 ヤンフィは珍しくも寛大な心境で、穏やかな口調のままイレーネに返答する。


「妾はヤンフィ。確かに人族ではなく、魔王属(ロード)じゃ。ここでキリアと戦った際、コウヤのうちに宿っておった魔王属の本体じゃ――が、安心するが好い。妾たちは汝らに害を与えるつもりはない」

「――あ、その、イレーネ様。本当にご安心なさってください。あたしたち、アベリンに向かう途中なので、ここに長居することもありません」


 ヤンフィの言葉に、セレナが丁寧な口調ですかさず補足する。すると、森の中が潮騒のようにざわめき出した。

 イレーネはそのざわめきにうんざりとした様子で溜息を吐きつつ、レイピアをサッと振るった。途端、ざわめきはピタリと止んだ。


「アベリンに向かう――とはどういうことですか? セレナたちはウィズ様に妖精石をお渡しする為に、【商業の街ニース】を目指しているのでは? 逆方向ですよ?」

「あ、えっと……それはそうなんですけど……まだコウヤたちの用事が終わってなくて……その、紆余曲折もありまして……これから竜騎士帝国ドラグネスまで行くことになって……」

「セレナ。だいぶ人界に毒されたようだけど、この集落が妖精族にとって神聖な場所であること、忘れていませんよね? 妖精族以外の存在が集落に足を踏み入れることは禁忌であること、理解していますよね? そもそも、以前キリア様が通り抜けをお許しになられたのは、人族の青年と猫耳獣族(ガルム)だけでしたよね?」


 セレナが、うっ、と渋い顔を浮かべて押し黙る。

 それを横目に、ヤンフィは、いちいち面倒な、とこれ見よがしに呟いた。突き刺さる殺意がいっそう鋭くなった。


「酋長イレーネ。横からの発言お許しください――キリア様に通行を許可された者以外、この場で粛清すべきではありませんか?」


 イレーネの背後の闇から、ひと際鋭い殺意と眼光をした妖精族が姿を現す。

 その妖精族は、弓を番えた姿勢のままで、号令一つですぐにでも飛び掛からんばかりの威圧と殺気を放っていた。

 その威圧に中てられて、大人しく黙っていたタニアが、苛立ちをあらわに怒鳴る。


「おい、お前、調子に乗るにゃよ? あちしたちは争いに来たわけじゃにゃいけど、そっちがその気にゃら相手してやるにゃ」


 タニアの全身からぶわっと凄まじい覇気と魔力が溢れ出て、辺りが一瞬のうちに、一触即発の火薬庫の如き戦争の空気へと変わる。

 しかし、そんなタニアの闘気に釣られることなく、イレーネは落ち着いた雰囲気のまま、なだめる口調で静かに続ける。


「レイラ、落ち着きなさい。キリア様が不在のいま、ここの戦力だけでは蹂躙されるだけでしょう――とはいえ、戦力で劣っているから闘わないなど、妖精族の矜持に(もと)ります。そこで提案なのですが、セレナ――集落に入らず、このまま下山してくれませんか?」

「へ……? え、下山って、そ、そんなッ――!? 集落を通り抜けなかったら、たっぷり半日くらい、大きく迂回することになっちゃいます!」

「ええ、存じてます。そのうえで、()()()()、と提案しています。それを断るのであれば、()()()()()()()()()()()()()()()集落を通り抜けることを許可しましょう」


 ギラっとイレーネがヤンフィを睨み付けた。敵意こそ篭めていないが、冷ややかな翡翠の瞳には明らかな嫌悪感が窺えた。


「ちょ、ちょっと、イレーネ様。それは理不尽じゃないですか? お目付け役のあたしが同行している限り、コウヤたちはキリア様に通行の許可を貰っているのですから――」

「――もう一度言いますよ、セレナ。キリア様から集落の通り抜けを許可されたのは、そこの人族と猫耳獣族だけです。そして、いまこの場にキリア様は居られません。つまり、判断の全ては酋長である私に一任されています。そして私は、人族と猫耳獣族以外の通り抜けを禁じます。如何なる理由があろうと、部外者は、姿()()()()()()()()()()()()()。この判断に従えないのであれば、それは私たちと敵対するということになります」


 必死に弁明しようとするセレナに、イレーネは冷徹な表情で突っぱねた。そのやり取りを見てから、ヤンフィは大きく舌打ちをした。この場でこんな押し問答する時間が無駄である。

 何をごねているのか全く理解できないが、どうやらイレーネたちは、ディドとクレウサ、ヤンフィの三人について、絶対的に集落には入れさせたくないらしい。

 前回ヤンフィが通り抜けられたのは、煌夜の身体に宿っていて顕現していなかったからのようだ。


「……のぅ、セレナよ。此奴らの戯言なぞ、無視すれば好いじゃろぅ? 抵抗するならば、殺されても文句は云えぬじゃろぅし」

「そうにゃ、そうにゃ。あちしたち、何も悪いことしてにゃいにゃ。だから、止められる理由にゃんかどこにもにゃいにゃ。つまりコイツらに従う理由もにゃいにゃ!」


 ヤンフィがうんざりとした口調で言うと、タニアもそれに全力で賛同してくる。

 タニアは恐らく、煌夜を背負っていなければ、すぐにでもイレーネに飛び掛かったろう。それほどの怒りを放っていた。


「ちょっと待ってヤンフィ様。タニアも待ちなさいよ!」


 ヤンフィとタニアを制止して、何か気付いた様子のセレナが言葉を続けた。


「その、イレーネ様? あたしたち敵対するつもりはありません。えと、ちなみに、確認ですが――いまの話だとつまり、コウヤ、タニアだけならば、集落を通る許可は出ているってことですよね?」


 セレナの恐る恐るとした質問に対して、イレーネは一瞬だけ不敵な笑みを浮かべてから、ええ、とハッキリ頷いた。その反応を見たセレナは、なぜかホッと安堵の吐息を漏らす。


「……どういうことじゃ?」

「ヤンフィ様。ちょっと申し訳ないんだけど――あたしたちが集落を抜けるまでの間だけ、【収納箱】の中に入っていてくれませんか?」

「収納箱――ほぅ?」


 収納箱は、煌夜の訓練をする為に購入しておいた魔道具で、時空魔術で作成された異空間を展開するものだ。本来の用途としては、荷物置きに利用する魔法具だが、人を入れて運ぶことも出来る便利な道具でもある。

 ちなみに限界許容量は、格納された物質の総重量で決まり、限界上限は500キログラムだった。


「窮屈だと思うけど、お願いします」


 申し訳なさそうな表情で懇願するセレナに、ヤンフィは、ふむ、と腕を組んで考える。

 意図がよく分からないが、集落の中に本体で足を踏み入れることは禁忌だが、連れて歩いても姿が視えなければ大丈夫ということだろうか――と、考えを巡らしていたヤンフィに、イレーネが繰り返し同じことを口にする。


「キリア様が集落を通り抜けることを許可したのは、人族と猫耳獣族だけ、と私は判断します。それ以外の部外者は、姿()()()()()()()()()()()()()。これは覆りません」

「――ありがとうございます、イレーネ様」


 イレーネの言葉に感謝しつつ、セレナは振り返ってヤンフィにもう一度手を合わせた。


「ヤンフィ様。ほんの三時間ほどで集落を抜けますので、その間だけ、収納箱に隠れて頂けませんか?」

「ふざけるにゃよ!? にゃんであちしたちが、お前らの掟に従わにゃいと――」

「――面倒じゃから、これ以上口を出すな、タニア」


 セレナのお願いに猛然と反発するタニアを制して、ヤンフィは、ふむふむ、と何度か頷いてから背後のディドたちに顔を向けた。


「仕方ないから、ここは従ってやろう。ディド、クレウサよ。汝らも【収納箱】で待機するぞ――ところで、セレナよ。コウヤも収納箱で寝かせておくぞ? じゃから、タニアと二人で行動せよ」

「は、にゃ!? にゃんでにゃ!?」

「え、えぇぇ? な――んで、って……まぁ、いいですけど……」


 ヤンフィの鶴の一声に、瞬間、タニアが仰天した声を上げつつ、耳をピンと立てて驚いていた。セレナも驚きはしたが、反論を呑み込んで、諦めた表情になって頷いた。ちなみに、ディドとクレウサは異論などないようで、ヤンフィの言葉に発言せず、素直に頷いていた。

 ヤンフィはタニアに収納箱を出すよう要求して、気絶したままの煌夜をディドに任せる。


「イレーネ様……僭越ながら、納得できません」


 ふと、ヤンフィたちのやり取りに対して、弓を番えた姿勢のレイラが呟いた。レイラはヤンフィに狙いを定めながら、一歩前に歩み出る。


「セレナ。貴女がしていることは、同じ妖精族として容認できないわ。集落を危険に晒す可能性がある存在を、どうして招き入れようとしているの? 魔術紋様こそ失っていないようだけど、妖精族の誇りはもう失っているのね」


 レイラは深緑色をしたショートボブの毛先を燃え立つ闘気で揺らめかせながら、ヤンフィに向けて弓をギリギリと引き絞っていた。

 セレナはそんなレイラにうんざりとした表情を浮かべながら、両手を広げてヤンフィを庇う姿勢を取った。その両手からは魔力が溢れて、緑色の放電が発生している。

 庇う必要も意味もないが、ヤンフィは特に何も言わずに流れを見守る。


「レイラ。ヤンフィ様――というか、魔王属(ロード)を憎む気持ちは分かるけど、止めてよ。イレーネ様も仰ってたけど、ヤンフィ様を相手に、キリア様抜きじゃ無駄死にするだけよ?」

「まったく……その発言、妖精族の誇りが欠片も感じられないわね……無駄死に、するから何? 魔王属に与するつもり? そもそも、汚らわしい獣族も集落に入らせたくないってのに――」

「――汚らわしい、とは何にゃ!? お前、ぶっ殺すぞ!!」


 フーフー、といきなり沸騰するタニアに苦笑しながら、ヤンフィは溜息を漏らす。

 歓迎されていないのは理解できるが、いよいよ面倒な展開である。これ以上、無駄な問答をしていても疲れるだけだ。

 ヤンフィは音もなく右手を頭上に掲げて、【無銘目録(むめいもくろく)】から、一振りの円月刀を顕現させた。

 その円月刀は、四神器と呼ばれる魔剣であり、銘を【白虎(びゃっこ)】と号する。

 長さはおよそ100センチ、先端がやや幅広になっており、柄頭に虎の装飾がある。歪曲した刃は、思わず息を呑むほど美しい白刃で、実用性ではなく芸術性に優れた刀に見える。

 ヤンフィはその白虎を掴むと、驚愕しているその場の全員の度肝を抜く俊足で、レイラの首筋に刃を当てた。


「なっ――!?」

「殺さないのは、妾の慈悲でしかない。コウヤの意識がない今、汝を殺すことに躊躇する理由もない。これ以上意味のない問答をするならば、妾たちは、汝らを蹂躙しても構わんぞ?」

「――下がりなさい、レイラ。不要な闘いは避けるべきです」


 冷や汗を流しながらゴクリと唾を呑んだレイラに、イレーネが鋭い言葉を投げた。その台詞を耳にしてから、先にヤンフィが白虎を下げた。


「タニアよ。疾く収納箱を出せ――セレナよ。くれぐれも面倒ごとは起こすなよ?」

「あ、はいぃ……」


 ヤンフィは、これ以上ここに居てもこじれるだけと判断して、サッサと収納箱に隠れることを決めた。煌夜を抱き抱えたディドとクレウサに目で合図して、タニアが展開した収納箱の中に迷わず入っていった。

 そんなヤンフィの背中を見送ってから、ふぅ、とセレナが長い溜息を漏らしていた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「……えと、じゃあ……イレーネ様、あたしとタニアだけなら、通り抜けられるんですよね?」


 セレナは憮然とした表情のタニアを無視して、無言のイレーネに問い掛けた。その質問にハッとした様子のレイラが、ブンブンと首を横に振って、すかさず弓を番えた。今度の狙いはタニアだ。

 しかし、レイラが構えた瞬間、イレーネの全身から凄まじい殺意と怒気が溢れた。レイラはビクッと身体を震わせて、慌てた表情で振り返る。


「レイラ。もう一度だけ言います。下がりなさい――これ以上は、酋長命令になります」


 イレーネの制止で、レイラはようやく弓構えを解いた。悔しそうに歯軋りしながら、肩を落として森の奥へと下がっていく。

 セレナはそんなレイラを見送りながら、強く同情していた。レイラの激情を正しく推し量ることは出来ないが、きっと筆舌に尽くしがたい怒りがあるのだろう。

 レイラは三英雄キリアと似たような境遇で、生まれ育った集落と自分以外の全ての同胞を、魔王属【炎帝ポイクス】の手によって滅ぼされていた。だから、レイラにとって魔王属という存在は、絶対に許せない仇のような存在なのである。

 そんな事情ゆえに、ヤンフィがどれほど友好的に振舞おうが、魔王属である時点で憎悪の対象である。


 ――とはいえ、レイラに同情はするが、そんな事情はセレナたちには関係ない。セレナは気持ちを切り替えて、森に向けて一歩足を踏み出す。


「――それでは、失礼しますね」

「ええ、どうぞ。サッサと通りなさい――ただし、軽率な真似だけはしないように」


 セレナが集落に足を踏み入れる直前、イレーネが強い口調でそんな釘を刺してくる。

 セレナはその言葉に力強く頷いて、タニアに手招きしながらイレーネの脇を通り抜けた。すると、イレーネは蜃気楼のように姿を揺らめかせて、音もなく森の闇に消えていった。


「……にゃんて生意気にゃ奴らにゃ。だから、妖精族は嫌いにゃ」

「はいはい、そうね……けど、アンタにだけは、生意気って言われたくないわよ、きっと――ま、ともかくサッサと抜けるわよ」


 イレーネに文句を吐くタニアをなだめながら、セレナは先導役として森の中を進んでいく。

 代わり映えのない鬱蒼とした森の中を、誰にも会うことなく静かに歩き続ける。


「……にゃぁ、これ迷ってにゃいか? さっきから景色が変わらにゃいにゃ」


 見慣れたセレナにとっては全く異なる景色なのだが、よそ者のタニアでは風景の些細な違いは分からないようだ。


「どこがよ? もう暗くなってるけど、全然違う景色じゃない」


 キョロキョロと辺りを見渡しているタニアに、セレナは冷静な口調で言い返した。


「…………妖精族って、不思議にゃ連中にゃぁ」


 セレナの言葉に、タニアはブツブツと文句を漏らす。しかし、そんな小言など聞き流して、セレナはひたすら黙々と森の中を進んだ。

 それからおよそ一時間半ほど。真っ直ぐと最短を進んで、ようやく出口が見えてきた。


「――と、そろそろ集落を抜けるわね」


 集落の出口、結界の境目が認識できる位置まで辿り着いて、セレナはふぅと安堵の息を吐いた。タニアが暴走せず、何事も起きずに辿り着けて良かった。

 セレナはその場で立ち止まり、つまらなそうな顔のタニアに振り返る。


「さて、タニア。悪いんだけどさ、アンタはここから真っ直ぐ進んだところにある広場で、ちょと待っててくれない? あたし、越境許可証を借りてくるからさ」

「はぁ? ん、にゃ……そう言えば、そうにゃ。越境許可証がにゃいと、龍神山脈の踏破が出来にゃいじゃにゃいか! とっとと取りに行くにゃ」


 タニアは、忘れてたにゃ、と頷き、途端に来た道を戻ろうとした。そんなタニアの腕を慌てて掴んで、セレナは事情を説明する。


「あのね、タニア。越境許可証は、キリア様が集落に危機が迫った時の為にって、預けてくれたものなのよ。そう簡単には借りれないわ」

「にゃんだと!? じゃあ、お前、ヤンフィ様に嘘吐いたにゃか!?」

「嘘、って違うわよ。不可能じゃなくて、借りるのが難しいの」


 いきなり胸倉を掴んでくるタニアに辟易しつつも、セレナは冷静に答える。ちゃんと段取りは考えているのだから、疑わないで欲しい。


「けど、アンタが一緒じゃ、絶対に借りれないのよ――だから、先に集落を抜けて待っててって言ってるの。ついでに馬も用意してくるから、野営でもしてなさいよ」


 セレナは、しっし、と手で払うような所作をしつつ、タニアに集落の出口を指差す。

 むー、と不貞腐れたような顔を浮かべたタニアだったが、そのまま深く考えずに、珍しくも引き下がった。


「セレナに指示されるのは不快にゃけど、まぁ、いいにゃ。集落の外にゃら、コウヤたちを出しても大丈夫にゃ?」

「ええ、大丈夫よ。あ、けど、くれぐれも広場まで待ちなさいよ? 境界線の内側でヤンフィ様たちが現れたら、すぐさま戦闘になるからね?」

「分かってるにゃ――んじゃ、先に行ってるにゃ!」


 タニアはそう言って、そそくさとセレナの指差した方向に歩いて行った。

 セレナは、そんなタニアを見送ってから、ここからが問題だ、と疲れたように息を吐いた。


「……イレーネ様。いくつか、お願いがございます」


 セレナは周囲に誰も居ないことを確認してから、虚空に向かって問い掛けた。しかし、当然誰も居ないので、その問いに反応する気配はない。ただただ涼し気な風がサヤサヤと木々の間を抜けるだけだ。


「……居るのは知ってますから、驚かすのはなしですよ……」


 セレナの五感を駆使しても、全く何の気配も感じない。だが、イレーネたちは間違いなく、セレナを監視している確信があった。


「――お願い、とはなんですか?」


 しばらくの沈黙後、何の予兆もなく頭上の樹から声が届いた。それと同時に、セレナを包囲するようにして、レイラを筆頭に集落の精鋭十名が姿を見せる。

 セレナは周囲を見渡して、現れたその顔ぶれを眺めると、静かに息を呑んだ。

 誰も彼もがセレナよりも先輩であり、また実力もセレナを凌駕しているだろう。するつもりはないが、逃げることも抵抗も出来ない。


「タニアとの話、聞いてましたよね? あたしに……龍神山脈の越境許可証をお借りできませんか?」

「何故ですか? これからアベリンに向かうのでしょう?」

「えと、アベリンにも行くんですが……コウヤたちの用事が、ドラグネスにあって……」

「【竜騎士帝国ドラグネス】領に向かいたい、と? なるほど――だから、最短で向かう為の越境許可証ですか」

「はい――あと馬を何頭か、頂きたく思います」


 セレナは、お願いします、とその場で頭を下げる。すると、目の前の空間が蜃気楼のように揺れて、音もなくイレーネが現れた。


「セレナ。越境許可証は、キリア様がこの集落の為に、と預けて下さった大切な物です。それを、部外者の望みを叶える為に貸し与えるなど……出来ると思いますか?」


 冷静な口調ながらも、どこか責めるような物言いで、イレーネはセレナに問うた。その詰問に、セレナはバッと顔を上げて、勢いで誤魔化すように主張する。


「もちろん、これが無茶なお願いであることは承知してます。けど! キリア様の用事を為す為には、まずコウヤの目的を叶えないと……それが、ドラグネスに行くことなんです。あたしとしても、一刻も早くキリア様の用事をこなしたいんですが……その為にも、サッサとドラグネスに向かうのが一番効率が良くて……」

「それは詭弁ですよ、セレナ」


 セレナの言葉に冷静な返しをするイレーネだが、一呼吸置いて、予想外の台詞を吐いた。


「けれど――これから言う条件を呑むのであれば、貸してもいいですよ」

「え!? なっ――酋長!? 何を仰って――!!」

「えっ!? ほ、本当ですか!?」


 イレーネの予想外の台詞に、レイラをはじめ精鋭十名が同時に驚愕の声を上げた。それはセレナも同じであり、聞き間違いか、と思わず聞き返す。

 そんな一様な反応にイレーネは一瞬だけ苦笑を浮かべてから、突然、全員が押し黙って恐縮するほど強烈な威圧を放った。

 ピシリ、と空気が凍り付き、森の中は途端に静まり返る。そして、イレーネは有無を言わせぬ凄まじい威圧をセレナに向けた。


「条件は一つ。キリア様の用事が終わった暁には、如何なる事情があろうとも、速やかにこの集落に戻り、以後は、守護者として過ごすことです。セレナ、それを聖樹に誓いなさい」

「……え? あ――そ、それは……」


 セレナはイレーネの出した条件に、目を見開いて驚き、言葉に詰まって思考停止した。

 守護者とは、集落を守る精鋭であると同時に、次世代の酋長候補のことだ。ちなみに、今現在、セレナを取り囲む精鋭十名は全員が、その『守護者』である。

 確かに、実力や資質では、セレナは申し分ないだろう。しかも妖精族にとっては、守護者の役割は非常に名誉な話でもある――が、セレナにとっては、あまり嬉しいことではない。

 守護者は、集落を守る為に一生涯を費やして、集落から外に出てはいけないしきたりがある。つまり、イレーネの条件は、キリアの用事が終わったら一生を集落で過ごせということだ。

 必然それは、冒険者に憧れているセレナからすれば、夢を捨てることと同義である。せっかく外界に出ることが叶い、念願の冒険者にもなれたと言うのに、それを早々に諦めることは出来ない。


「……あ、そ、そう! コウヤの旅が終わったら……その際には、報告に戻ってきますよ。あたし、キリア様からお目付け役を賜ってますので……それで宜しいですか?」


 今回、いくら煌夜たちが急いでいるとは言え、たかだか十数日の道程を短縮する為に越境許可証を使いたいだけだ。それは果たして、夢を諦めるほどだろうか。そもそも越境許可証が無ければ辿り着けない場所でもなし――

 セレナは縋るような思いで、誤魔化すような条件を願い出る。しかしイレーネは無慈悲だった。


「お目付け役は、あくまでもキリア様の用事に関して、でしょう? 彼らの旅を、セレナが最後まで見守る必要などないでしょう」

「…………まぁ、確かに」


 イレーネの台詞に、セレナは上手い言い訳も思い付かず、静かに黙り込む。

 越境許可証は、確かにそう簡単に借りれるとは思っていなかったが、なんだかんだと集落にとって必要なものではないから、説得できると思っていた。ところが、まさかこんな条件が出されるとは予想外過ぎる。条件を提示されてしまった以上、もはやイレーネを説得するのは不可能である。

 となると、越境許可証を諦めるか、冒険者としての未来を諦めるか、二つに一つしか選択肢はない。


「どうするのですか、セレナ? 越境許可証を貸すのは構いませんよ? けれど、貸すからには守護者になることを聖樹に誓いなさい」


 イレーネは言いながら、一歩、セレナに近付いてきた。

 妖精族にとって聖樹に誓うということは、決して破ることの出来ない約束となる。それこそ、()()()()()()()()()()()()()()()()、命を賭けて守るべき使命である。

 

「……ぐぅ……」


 セレナは苦虫を噛み潰したような表情で、奥歯を噛み締めて唸った。


「――セレナが何を悩んでいるのか、理解に苦しむわ。守護者の道が約束されたうえに、越境許可証まで手に入るのよ? こんな破格の提案……酋長イレーネも酔狂が過ぎると思います」

「レイラは馬を用意してあげなさい。天族の分は不要でしょうから、四頭もあれば充分でしょうか?」

「ああ、はい。かしこまりました、酋長イレーネ」


 押し黙ったままのセレナを横目に、イレーネはレイラに指示を出す。レイラは呆れ顔を浮かべてから視線を切って、森の奥へと消えていった。


(……相変わらず、レイラは……あたしからすれば、守護者として集落で一生過ごすことこそ、理解に苦しむわ……)


 セレナは無言で恨めしそうな視線をレイラに向けてから、むむむ、と眉間に皺を寄せて悩んだ。果たして、どんな選択がセレナにとっての最良か――


「セレナ。キリア様の用事はすぐに終わるわけではないでしょう? それこそ、四色の月一巡では不可能なはず――ということは、それなりの期間、外界を堪能できますよ? 私は何も、いますぐ戻ってこい、と言っているわけでもないです。そう考えれば、この条件は迷う必要などないでしょう?」


 イレーネは絶妙な言い回しで提案しつつ、セレナの心を落としに来る。

 イレーネの台詞は暗に、キリアの用事をあえて終わらせず、好きなだけ外界で過ごして良い。外界に飽きたら戻ってくれば良い、とも解釈できる。実際、そのつもりで提案しているのだろう。

 それは、とても魅力的な甘言だ。けれど、キリアの用事を永遠に放置することは出来ない。

 そうなると結局のところ、ここで条件を呑んだ場合、セレナが夢を捨てることに変わりはない。


「……分かりました、イレーネ様。あたしは――」


 セレナはイレーネの提案を耳にして、深く息を吐くと心を決めた。

 難しく考えず、流れに身を任せてみろ――脳裏には、そんなキリアの台詞が過ぎっていた。


「――馬だけ頂いて、越境許可証を諦めることにします」


 これは楽観的な考え過ぎるだろう。出たところ勝負の無計画でしかない。間違いなくヤンフィたちに怒られるに違いない。

 だが、どんな困難に直面しても、ヤンフィたちならば何とかなりそうな気もしていた。


「越境許可証なしに、自力で【世界の壁】に挑戦してみます」


 セレナは噛み締めるように、もう一度同じ回答を口にする。

 その回答に、周囲の空気が凍り付いた。理解出来ない、とセレナを取り囲む守護者たちがざわめき出した。

 一方、イレーネだけはその回答に納得した風に頷き、諦観が浮かんだ表情でセレナを見詰めた。

 イレーネの視線に、セレナは強い意思を篭めた視線を返す。二人はしばし見つめ合うが、イレーネが先に視線を外して、深く溜息を吐きながら天を仰いだ。


「…………はぁ、だから外界は毒なのです」

「申し訳ありません、イレーネ様。落ち着いたら、また戻ってきます」

「期待はしません――けれど、心配はしますよ? どうなろうとも、セレナはこの集落の子供なのですから……あまり危険なこともしないように」


 イレーネはそう言うとクルリと背を向けて、ふたたび風景に溶け込むように姿を消した。それを見送ってから、セレナを囲んでいた精鋭たちも一人ずつ森に消えていく。

 しばらくすると、周囲には誰も居なくなった。

 セレナは、監視の目がなくなったことを感覚的に理解する。


「――待たせたわ、セレナ。体力のある駿馬を四頭、連れてきたけど……何、この状況? まさか、酋長イレーネの提案を断ったの!?」

「ありがと、レイラ――まぁ、ね。悪い?」

「悪い、も何も…………はぁ、言っても無駄ね。外界の何がそんなに魅力的なのか、私には絶対理解出来ないわ。だいたいさ。外界で何か得られるの?」

「世界は広い、って知識と経験が得られるわよ? それにあたし、キリア様が旅する気持ちが、いま少しだけ分かるようになってきたし」


 セレナの返しに、あっそ、と素っ気なく口にして、レイラは四頭の手綱を手渡してくる。


「ありがと、またね」

「また、ね――セレナ、外界で死なないでよ? あと、ちゃんと定期的には戻ってきなさいよ?」


 レイラのそんな心配する台詞に苦笑して、セレナはそのまま集落の外へと歩いていった。



  ◆◇◆◇◆◇◆◇



 タニアが広場に来てから、そろそろ三十分は経つだろう。だがいまだに、セレナは戻ってこなかった。


「……セレナ、遅いにゃぁ……何してるにゃ……出発が遅れちゃうにゃぁ」


 広場の中央に用意された焚き火に薪をくべながら、タニアは苛立ちを吐露する。タニアの言葉に反応する者はいなかったが、その場の全員、心の中では頷いていた。


「のぅ、コウヤ、どうする? これ以上遅くなるようじゃったら、ここで一泊することを考えた方が好いかのぅ?」


 場違いに豪華な椅子に座ったヤンフィが、ふいに煌夜に質問する。煌夜は突然の問いにビックリした様子で、焚き火から視線を上げてヤンフィを見た。


「……あ、ここで野営、ってことか? んー、と……俺は、出来れば、遅くなってもいいから、アベリンに向かいたい、けど……だって、アベリンでも何日か滞在するんだろ? だったら、野営よりもしっかりとした宿屋で休む方が、安全だしさ……」


 さりげない強行案を口にする煌夜に、ヤンフィは、そうか、と頷いていた。


「まぁ、妾はどちらでも、コウヤの意向に任せるが……本当に大丈夫か? だいぶ疲れておるじゃろぅに」

「……疲れてるって言えば、そうだけど……いや、だからこそ、一気に進みたいって言うかさ……」

「――ご安心を、コウヤ様。ヤンフィ様。ワタクシがコウヤ様を抱えて移動いたしますかしら。ですので、コウヤ様はワタクシの胸で、ごゆっくりお休み頂ければと存じますわ」


 能面のまま恥ずかし気もなく、煌夜の傍らに座っていたディドがそう宣言した。ディドは豊満な胸元に手を当てて、煌夜を真っ直ぐと見詰めている。

 タニアはその台詞とディドの態度にうんざりとした表情を浮かべて、これ見よがしに舌打ちすると、収納箱を取り出した。


「変態天族が抱える必要はにゃいにゃ――コウヤ、移動してる間は、収納箱の中で休めばいいにゃ。あちしが責任もって運ぶにゃ」

「…………結構、揺れるんだよ、あの空間」


 煌夜はボソリとそんなことを呟いたが、すぐさま気持ちを切り替えたようで、そうするよ、と笑顔をディドに向ける。


「ディド、ありがとう。でも俺、タニアの言う通り、収納箱で休ませてもらうよ。ってか、実際にその方が、アベリンまで早く着くだろう?」

「――あ、そ? なら、馬は四頭も要らなかったかな?」


 その時、煌夜の台詞に被せて、背後から音もなくセレナが現れる。煌夜は驚いた様子で、慌てて振り返った。タニアは、遅いにゃ、とセレナを鋭く睨み付けている。


「――はいはい、すいませんね。けど、ちゃんと馬も用意したんだから、感謝しなさいよ」

「にゃにが感謝にゃ――ま、セレナにしてはよくやったにゃ」


 タニアは軽口を叩きながら、セレナが掴んでいる手綱の先に視線を向ける。森の奥、暗闇から静かな鼻息をさせながら、なかなか頑強な牝馬が四頭現れた。

 四頭の牝馬を見たヤンフィは、満足気に頷いて椅子から立ち上がり口を開く。


「ふむ――さて、では早速、出発するかのぅ? コウヤは収納箱で休憩じゃったな? となれば、馬に乗るのは、妾とタニア、セレナと……ディドとクレウサは、どちらが乗るのじゃ?」


 ヤンフィは誰よりも先にセレナから手綱を受け取ると、自然な動作で颯爽と馬に跨った。


「あ、私は大丈夫です。天翼(てんよく)で追い掛けますので、馬はディド姉様が――」

「――ワタクシ、コウヤ様とご一緒に収納箱で休んでおりますわ。なのでクレウサ、貴女が乗りなさい」


 クレウサはヤンフィの視線に頭を下げつつ遠慮するが、その台詞に被せてディドが強引に断言した。

 ディドは相変わらずの自分勝手だったが、別段、その提案で困ることはなかった。むしろ、煌夜を休ませる為に一緒に居てくれる分には安心できるし、万が一、タニアが収納箱を失くす事態になっても、ディドが居れば問題ないだろう。

 それが分かっているからか、珍しくもタニアは反論せずに無視していた。


「セレナ、あちしが先導するにゃ――どの馬が一番脚が速いにゃ?」

「さあ? そんなの聞かないでよ……でも、アンタに合わせるから、サッサと決めなさいよ」


 タニアが馬の首を撫でながら問うと、セレナは突っぱねるよう吐き捨てた。そのやり取りに、瞬間、カチンときたようだったが、タニアは、それならば、と一番体躯が大きい馬の手綱を奪い取っていた。


「それにゃら、あちしはこの馬にゃ――コウヤ、ディド、収納箱に入るにゃ」


 タニアは収納箱に魔力を通して、異空間の出入口を展開する。


「……ああ、あんま揺らさないように頼むよ……」


 煌夜はそんな弱音を吐きながら、ディドに腕を引かれて異空間の中に入っていった。二人が完全に収納箱に入ったことを見届けてから、タニアは軽やかに馬に騎乗する。


「それじゃ、行くにゃ――ハッ!!」


 タニアは一瞬だけ空を見上げて、森の隙間から覗く月の位置を確認したかと思うと、いきなり馬の腹を強く蹴った。途端、凄まじい嘶きをさせながら、タニアの馬は暴走気味に走り出す。

 その爆走に誰もが一瞬だけ唖然としてしまったが、すぐさま我に返ると、タニアを見失わないよう急いで馬を駆る。


「相変わらず、好き勝手に――!」

「――嘆いても仕方あるまい……ところで、セレナよ。越境許可証、とやらは手に入ったのかのぅ?」


 ヤンフィは駆け出したセレナの横に並走しながら、どうじゃ、と軽い気持ちで問い掛けた。対してセレナは、バツが悪そうな表情を浮かべると、視線を逸らす。


「……まぁ、なんとか……大丈夫、じゃないかな? ちょっと、ごにょごにょ……」


 煮え切らないうえに、何やら意味の分からない呟きで誤魔化すセレナに、ヤンフィは疑問符を浮かべた。だが、とりあえず頷きそれ以上の追求を止める。

 どちらにしろ、結果はいますぐ知る必要がない。手に入っていようと、なかろうと、もはや引き返す選択肢はないのだから――

 そんな思考をしているヤンフィに、セレナは拍子抜けした表情を浮かべるが、すぐさま顔を正面に向けて馬の速度を上げていた。下手に掘り下げて、藪蛇になることを避けたのだろう。


「ヤンフィ様――セレナ様の反応ですが、もしや越境許可証を入手できなかったのではないでしょうか?」


 すると、セレナが馬を先行させたのを見計らって、後方にいたクレウサがヤンフィに並んだ。冷静な表情のまま、小声で話し掛けてくる。


「ふむ、恐らくはそうじゃろぅ。しかし、別にどちらでも構わぬ――安全に突破するか、()()()突破するか、その違いじゃろぅ? そも、先のセレナの反応じゃと、ほかの手段がありそうじゃしのぅ……まぁ、面倒ごとを避けるよう指示したのは妾じゃから、セレナの選択に文句は云うまい」


 ヤンフィは答えると、セレナと同じように馬を駆る速度を上げた。

 タニアは後続など気にせず、どんどんと先行している。見失わないよう急がなければならないだろう。

 クレウサはヤンフィが心得ていることに納得して、それならば、とそれ以上何も言わずに、速度を調整しながら後方に位置付けていた。


 そうして、ヤンフィたちの乗った四頭の馬は、【城塞都市アベリン】に向けて夜の荒野を駆る。

 

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