第九話 トラブルメーカー猫耳娘
煌夜たちが歩き始めてから、一時間弱だろうか。すっかり辺りには夜の帳が下りて、森の中は足元さえ見えないほどの暗闇が支配していた。
夜空には四色の月が浮かび、しかしその儚い光は深い森の木々に阻まれて、時折隙間から顔を出す以外で森の中までは届いていない。
またこの森には、粘り付くような靄が立ち込めており、数メートル先の視界さえ鮮明ではなかった。そして、不気味なほど何の音もない。
動物の声が何一つ聞こえてこない。聞こえる音は、サクサクと草を踏みしめる足音と、風による木々のざわめきだけである。
夜の帳が下りてから以降、煌夜は、タニアに注意されていた通り、一言も喋らず黙々と歩いた。ただただ歩くことに集中していた。そうしないと、タニアを見失ってしまうからである。
慣れない獣道は、想像以上に煌夜の精神と体力を削っており、それでなくともタニアの歩く速度は早く、視界は不鮮明である。ちょっと油断して、数メートル離れただけで、タニアの背中を見失うこともしばしばだった。
さて、そうしてしばらく歩いていると、靄がいっそう濃く深くなってくる。肌に粘りつきだした靄は、まるで水中を歩いているように感じさせる。
そのときふと、ヤンフィが不思議そうな声で、ふむ、と声を上げた。
なんだ、と煌夜は疑問符を浮かべるが、しかしヤンフィは言葉を続けなかった。
(――どうした?)
(ふむ……いや、濃度が濃くなったな、と思ってのぅ。何、だからどうしたと云うわけではない。気にせず進むが良い)
嫌な予感がして、煌夜は思わずヤンフィに問い掛けた。けれど、ヤンフィの回答は軽い調子である。
(濃度? 何の?)
(空気中の魔力濃度じゃ。まあ、今宵は四色の月じゃから、別段不思議はないがのぅ)
(――四色の月?)
(四つの月が全て夜空に見える日のことじゃ。およそ三十日に一日だけやってくるのじゃ。この日は、あらゆる生物の魔力が高まりやすい。じゃから、空気中の魔力濃度が高まってもおかしくはないじゃろぅ)
ヤンフィのその説明に、満月のようなものか、と納得して、煌夜はそれ以上聞かず押し黙った。
気持ちを切り替えて、タニアの背中に集中する。タニアの足取りには、何の変化も見受けられない。迷わずに前に前にと進んでおり、周囲を警戒してキョロキョロと鋭い視線を辺りに向けている。
先導するタニアに変化がないならば、ヤンフィの疑問も杞憂なのだろう。
煌夜はそう思って、特に深くは考えなかった。ただ、頭のどこかで何かが引っ掛かる。それは直感に近い。言葉で言い表せない小さな違和感だった。
(――んん? あれ? なんか……なんだ?)
タニアに付き従いながら、煌夜はその違和感に首を捻る。
なんとなくだが、第六感が警鐘を訴えている気がする。喉に小骨が刺さったようなほんの小さな引っ掛かりだが、何か落ち着かない。
まだ一向に森の終わりは見えない。
(…………なんか、おかしい?)
煌夜は芽生えた違和感を払拭しきれず、タニアをジッと観察しながら進む。
タニアはまるで重さを感じさせない歩き方で、草を掻き分ける音はおろか、足元一つ立てずに、悪路の獣道を迷わずスイスイと進んでいく。一切煌夜へは振り向かず、ただひたすらに前方を向いて歩いている。
その歩幅は最初よりも少しだけ速くなっている気がしたが、特に気にはならなかった。どことなく焦っている様にも感じられたが、それも特に気にならない。
それが失敗だと気付いたのは、それから三十分ほど経ってからである。
(……ずいぶんと、永い年月が経ったのじゃのぅ。これほどまでに森が広くなっておるとは思わなかったわ。そろそろ、森を抜けていてもおかしくはないのじゃが……)
不意にヤンフィがそう呟いた。
それは独り言のようだったが、しかし聞き逃せない情報でもあった。煌夜はタニアを見失わないよう注意しながら、意識を脳内に向ける。
(おい、ヤンフィ。それ、どういうこと?)
(……ふむ? いやなに、妾の知っておる【聖魔の森】の広さであれば、神殿から真っ直ぐに歩けば、どの方位に往こうともそろそろ抜ける広さだったはずじゃからのぅ)
(…………それ、迷っているってこと?)
煌夜は額に手を当てて冷や汗を流しつつ、まさか、という思いでタニアを見る。
タニアは相変わらず迷いなくスイスイ進んでいるが、そういえば気付けばずっと、キョロキョロ辺りを見渡している。
(迷ってる風に、見えなくもないが……おい、ヤンフィ。ヤンフィは街の方向とか分からないのか?)
(ああ、残念ながら、いまの妾ではとんと分からぬのぅ。妾の知っておる時代は、この時代からだいぶ古いのじゃ……そもタニアの云うておった【アベリン】と云う街を知らぬ)
(――そういや、ヤンフィって永い間封印されてたって言ってたけど……どれくらい長い間封印されてたんだよ?)
(さぁ、知らぬ。と云うよりも、分からぬ。タニアに聞けば分かるがのぅ)
(…………なぜに、タニアが分かるんだよ?)
ヤンフィの的外れな回答に疑問を浮かべつつ、タニアが迷子になっている可能性を疑い始めている煌夜は、果たしてこれ以上進んでよいものか迷っていた。
迷ったとき、方向も分からず突き進むのは自殺行為だ。一旦立ち止まって、進むべき方位を確認するべきではないだろうか。
煌夜はしばし歩いてから、意を決してタニアに声を掛ける。作戦会議をして、本当に迷っているかどうかを確認するのが先決だろう。
「おーい、タニア! ちょっと、止まって話そう」
「…………にゃんにゃ?」
低く声を抑えて、タニアは立ち止まった。煌夜はタニアが止まってくれたことにホッと一安心して、目の前まで近寄る。
「なぁ、まだ森を抜けられないのか?」
いきなり迷子になったのか、なんてことは切り出さず、とりあえず煌夜は現状の確認をする。すると、タニアは少しだけ耳をシュンと垂れさせて、首を傾げた。
「この移動速度にゃら、もうとっくに抜けてるはず、だったにゃ……にゃけど、おかしいにゃ。森の終わりが見えにゃいにゃ」
「……やっぱり……迷った、のか……」
タニアのその台詞で、嫌な予感は的中したとばかりに、脳内でガーンという効果音が響いた。
煌夜はショックでその場に崩れ落ちる。オーバーリアクションだが、それくらいに気落ちする。あまりにもベタな展開すぎるのではないか、と煌夜は自分自身の悪運を呪いたくなってきた。
しかし、タニアとヤンフィが同時に弁解する。
「違うにゃ! 迷ってにゃんかいにゃいにゃ。西の方角――第三の月が出てる向きに8キロほど歩けば、森が開けて【アベリン】の外壁が見えるはずだったにゃ」
(コウヤよ、迷ってはおらぬと思うぞ? タニアはずっと、月の位置で方位を確認しながら歩いておった。じゃから、妾も黙っていたのじゃ……しかし、8キロと云うことは、やはり妾の時代と森の広さはそれほど変わらぬのぅ)
「あ、え……? あ、ごめん」
説得力のあるヤンフィの言葉と、タニアの必死そうな顔に、煌夜は気圧されてとりあえず謝った。しかし、だとすれば何が起きているのか。煌夜は怪訝な表情を浮かべて、頭を掻いた。
「……でもそれじゃ、いったい何が…… なんかおかしいだろ……もしかしてこれ、何かの魔術だったりしないか?」
「分からにゃいにゃ……にゃけど確かに、にゃんらかの魔術の可能性はあるにゃ。もしかしたら、さっきから濃くにゃったこの靄……これのせいかもにゃ――にゃ!?」
タニアは唐突に猫耳をピンと立てて、器用に左右へ動かした。そして険しい表情になって、鋭い視線を背後の暗闇に向ける。
その右の青い瞳が仄かに光を灯していた。
(……ふむ。コウヤ。少々、身体を貸して貰うぞ?)
(ああ、いいよ。つうか、いま何が起きてるんだ?)
(分からぬ。分からぬが……警戒せんと、マズイやも知れぬのぅ)
タニアの様子を見て、ヤンフィが神妙な声で言う。煌夜はその台詞に不安を感じながらも、抵抗も反抗もせずヤンフィに身体を預けた。
フッと一瞬だけ力が抜けて、身体の操縦者が切り替わる。
煌夜の身体になったヤンフィは、すかさず立ち上がり、タニアが睨んでいる暗闇に目を凝らす。だが、目を凝らして見ても、そこには闇が広がるだけで何もなかった。
「――にゃんにゃ? お前、何者にゃ?」
一方、タニアには何か違う景色が見えているようで、強い詰問口調で暗闇にそう問い掛ける。
しばしの沈黙、やがて濃い靄の中から、ニュッと一人の男が姿を現した。
男は灰色のマントをたなびかせて、気味の悪い蛇が描かれた灰色のシルクハットをかぶっている。その服装はマントとシルクハットにはちっとも合っていない普通の軽装で、その軽装だけ見れば、村人と言われて違和感ない格好だった。見える範囲に、防具の類はもちろん、武器一つ持っていない。
男は青年である。
煌夜と同じか、少し年上の雰囲気をしており、細身でタニアと同じくらいの長身だった。
その頬には火傷の痕がある。軽薄な印象をしており、にこりと胡散臭い笑みを湛えている。
「やぁ、初めまして、タニア・ガルム・ラタトニア君。ボクは【世界蛇】に所属する者さ。キミを勧誘しにきたよ」
青年は微笑んだまま、タニアに向かって会釈した。
タニアは警戒しつつ、今にも飛びかからんばかりに足に力を込めている。タニアの全身から、苛立ちが炎のように揺らめくのが見えた。
「意味がわからにゃいにゃ。勧誘、って何のことにゃ! あんま調子に乗ってるとブッ殺すにゃ」
「勧誘は勧誘さ……ボクたちの仲間にならないかい?」
「――ほざくにゃ!」
青年の会話も一方的だが、タニアはそれに輪を掛けて一方的だった。
相変わらず会話する気がないとしか思えない問答無用な応答で、わずか二回の言葉のキャッチボールだけで、青年を敵とみなして戦闘を開始する。
鋭い怒声と共に、瞬速の踏み込みで青年に肉薄すると、何の迷いも躊躇もなく、青年の心臓目掛けて必殺の突きを放った。
――ドォン、と激しい轟音が響き、青年の身体にタニアの拳が突き刺さる。
しかし不思議に、青年は笑みを湛えたままけろりとしていた。タニアは拳に伝わる感触に、大きく舌打ちする。
「――ははは。まさかいきなり噛みつかれるとは思わなかったよ。まったく穏やかじゃないなぁ、噂に違わぬ狂犬っぷりだね」
「あちしは犬じゃにゃいにゃ!! くそ、どこにゃ!?」
タニアが拳を引き抜くと、バキバキと音を立てて青年の身体が真っ二つに折れる――と、その身体は煙みたいに揺らめいて、直後、直径2メートルほどの大木に変わった。
煌夜には何が起きたかわからなかったが、初対面の相手を迷わず即死させようとするタニアの凶暴性と、大木を一撃で倒壊させるその腕力に、今更ながらゾッと恐怖する。
決して怒らせないようにしよう、と静かに誓った。
「隠れてにゃいで、出てくるにゃ。出てこにゃいと殺すにゃ!」
(……出てきても殺すんだろうなぁ)
タニアの喚き声に、煌夜はしみじみ思う。
タニアは鋭く辺りを見渡しているが、どこにも青年の姿はなく、暗闇が広がっているだけだった。
「どこにゃ! 隠れるにゃんて卑怯にゃ!」
「ははは、落ち着いてよ。とりあえず会話にならないから、今日はここいらで帰ることにするね」
「――待つにゃ!」
青年の笑い声が靄の奥から乱反射して響いてくる。その声を聞いて、タニアは激昂して叫んだ。だが、それにはいっそう楽しげな笑い声が応える。
「ははは、待たないけど、安心してよ。ボクの代わりに、キミたちの遊び相手はちゃんと用意してあるさ」
青年の声は徐々に遠ざかって聞こえてくる。同時に、立ち込めていた深い靄が段々と薄らいでいく。
(嫌な予感がするのぅ……)
(俺はもう何が何だか……怒涛の展開すぎて、いい加減疲れたんですけど?)
ヤンフィの呟きに、煌夜は、まだ休めないのか、と諦めの吐息を漏らす。しばらくして靄が晴れたとき、周囲には無数の眼光があった。
「ふむ……サーベラスの本隊じゃのぅ。完全に囲まれておるわ」
「にゃにゃにゃにゃ――卑怯者にゃっ!!」
無数の眼光は低い唸り声を響かせており、やがて暗闇の中から、2メートル弱の三つの頭をした異形の犬が現れる。
その犬は一定距離で煌夜たちを包囲しており、ざっと見た限りで四十匹以上はいた。
「どうかな、ボクの用意した遊び相手は? タニア君にとっては、こんなのは窮地でもなんでもないと思うけど、お連れさんを庇いながらで、果たして切り抜けられるかな? ……まあ、ここで死ぬようならその程度って諦めるけどね」
ふと、青年の声が空から降ってくる。ハッとして見上げれば、背の高い巨木の枝に座って、タニアを見下ろしている青年の姿があった。
タニアは間髪入れずにその巨木の幹を殴りつける。
巨木は先ほどの大木よりも太かったが、結果は変わらずバキバキと轟音を立ててへし折れた。けれども青年の姿は既にそこにはなく、いつの間にかまた違う巨木の枝に座っている。
「――あ、そうそう。タニア君のお連れさん、キミなかなか勘が鋭いね。タニア君でさえ気付かなかったボクの幻惑魔術に、途中で勘付くなんて……まあ、気付いても解除出来なければ意味はないけどね」
「幻惑魔術か、ふむ……汝、合成魔術師かのぅ?」
「へぇ、キミ博識でもあるんだね。ちょっと興味湧いちゃったなぁ……ま、でも、いまはいいや。生きてたらまた逢おうか」
ヤンフィの呟きに感心した風な声を上げてから、青年は枝の上で立ち上がり、パチンと一つ指を鳴らす。するとその身体が透明になっていき、マントをひらりとたなびかせた瞬間、煙のように消え失せる。
タニアはそれを悔しそうに眺めていた。
「じゃあね、タニア君――それと、見知らぬ誰かさん」
青年のその声は、闇に紛れて霧散した。そしてそれを合図に、周囲のサーベラスが、タニアと煌夜に襲いかかってきた。
タニアよりも大きな巨躯の犬が、それも複数匹同時に、全方位から死角なく飛びかかってくる。どこにも逃げ道はない。
しかし絶望的な光景ではあったが、タニアはもちろん、ヤンフィもちっとも慌てていなかった。
冷静に、ともすればつまらなそうに状況を見詰めている。
煌夜も恐怖はあったが、それよりもこれ以上自分の身体が壊れないか、そちらの方が心配でならなかった。
「タニアよ、妾は汝に巻き込まれただけじゃ。この雑魚共は全て汝が処理せよ。命令じゃ」
「――分かってるにゃ!」
サーベラスの三つの頭は、同時に腕、足、胴体を狙って噛み付いてきて、またコンマのタイムラグで後続が襲い掛かるという絶妙な連携を見せる。
けれどヤンフィは、平然とした口調でタニアに命令しつつ、くるりひらりと、踊るような軽やかなステップでその連携を躱す。
煌夜は、自分の身体がこんな動きをすることが信じられず、ただただその光景に感心していた。
一方でタニアは、ヤンフィとはまったく対照的に、豪快極まる戦い方だった。
噛み付き、のしかかってくるサーベラスの攻撃を、一切避けずに全て受け止めて、一匹一匹その胴体を弾けさせている。
タニアが拳を突き出せば、噛み付いているサーベラスは汚い花火となって飛び散る。
そしてその空いた部位に次のサーベラスが噛み付き、またどこかで汚い花火が上がる。タニアはひたすらそれを繰り返していた。
(まったく……化け物じみた戦い方じゃのぅ。コウヤもそうは思わぬか?)
(俺からすりゃあ、ヤンフィも充分、化け物だよ、マジで)
(ふっ……これくらい、コウヤも自身の身体を把握して、ほんの少しだけ肉体限界を超えれば、簡単じゃぞ?)
ヤンフィは、これくらい、と言いつつ、一匹のサーベラスの首に手刀を放つ。それは一瞬で三つの頭を刈り取り、サーベラスは即死した。
(コウヤの筋肉量ならば、ほれ、このくらいの芸当は容易いぞ)
踊りながらサーベラスの死骸を蹴飛ばし、ヤンフィはもう一匹の胴体を手刀で両断する。
ほんの少しも肉体の限界を超えられない煌夜からすれば、ヤンフィのその戯言には溜息しか出なかった。
「にゃにゃにゃ――にゃ、にゃ!!」
タニアのどことなく楽しそうな声を耳にしながら、サーベラスの群れとのまるで楽しくない夜が更けていく。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「――にゃん!」
バチャ、と生き物から聞こえてはいけない音を鳴らして、サーベラスの最後の一匹が、文字通り潰された。
潰したのは、全身を返り血で真っ赤に染めたタニアである。
タニアは血塗れの顔を、そこらに生えている草で拭う。
青年が消えてからおおよそ二時間弱、殺したサーベラスの数は、八十六匹を数えた。
煌夜は凄惨すぎる血塗れの森を眺めて、その香り立つ臭気に吐き気を催す。しかし、いま煌夜の身体を操縦しているのはヤンフィである。
吐きたくて気持ち悪くても、吐くことができない苦痛に、煌夜は必死に堪えていた。
せめて臭いを遮断してくれ、と願うが、ヤンフィにはその思いは届かない。
「――さて、タニアよ。先の彼奴は、何者じゃ? 知り合いではなさそうじゃが、心当たりはあるのじゃろう?」
煌夜が吐き気と必死に戦っていると、ヤンフィがまたお得意の教えてちゃんを発動する。
そういうことはもうちょっと落ち着けるところで、と訴えたいが、訴えられない煌夜は、よりいっそう胸が苦しくなった。
タニアは避難させていたバックパックを漁って、白い布地を取り出すと、それで身体を拭っている。
「にゃ? んん……アイツは、ガストンって名前だったにゃ。二十四歳、人族、魔力量はそれにゃり。心当たりはにゃいけど、アイツが言ってた世界蛇のことにゃら知ってるにゃ」
見る見るうちに真っ赤に染まる布地を、タニアはそこらへんにポイっと投げ捨てる。そしてもう一枚取り出すと、より丁寧に身体中を拭う。
「タニアよ、名前や年齢なぞ、そんな瑣末は聞いておらんわ……して、なんじゃ? その【世界蛇】とやらは?」
ヤンフィは、タニアにほど近い位置に倒れている木の幹に座ると、落ち着いて話を聞く姿勢になる。ちなみに木の幹は血で滑っており、煌夜のズボンは必然赤く染まった。
「破滅思想の教義を掲げる狂った宗教組織にゃ。『世界を救う為に、既存の世界を滅ぼさねばならない』とかって宣伝して、二年前、本当にテオゴニアの三大大国を滅ぼしかけた狂信者たちにゃ」
「ふむ……そんな輩が、何故タニアを勧誘するのじゃ?」
「知らにゃいにゃ。むしろ、あちしが聞きたいにゃ」
タニアはひと通り身体を拭き終えると、バックパックをもう一度担ぎ上げる。そして空を見上げてから、こっちにゃと指差して歩き出す。
「とにかくにゃ……血の匂いで、第二陣が来る前に、サッサとこっから出るにゃ。お腹ペコペコにゃ」
タニアはそう言って、疲れた様子で肩を落とす。するとそれに返事するように、くびれたシックスパックのお腹がぐーぐー鳴る。
ヤンフィは、仕方あるまい、と渋々立ち上がった。どうやらいまは、ヤンフィよりもタニアのほうが煌夜と同じ気持ちのようだ。
こんなところでゆっくりしている暇はないのだ、サッサと街に行こう、と煌夜は心の中で賛同した。
「――ところで、タニアよ。汝、血の匂い云々と云うたが、そも汝の身体が凄まじく臭うぞ? 先も布で血を拭っただけのようじゃったが、水で身体を洗わんのか?」
靄は晴れても相変わらず暗い森の中をしばし歩いて、不意にヤンフィがサラリと爆弾発言をする。それは煌夜も思っていたことだが、女性に言うべきことではないと我慢していたことだった。
そもそもこういう世界だから、汗の匂いとか血の匂いなんて、当たり前なのだろうと割り切っていたのに、ヤンフィはやはり、まるで空気を読まなかった。
ちなみに、タニアの身体からは腐った生肉のような臭いが漂ってきている。
「……水は苦手にゃ、それに替えの服もにゃいし……」
タニアは耳をシュンとさせて、尻すぼみにそう言う。その態度と台詞は可愛らしいが、だからと言って許せる悪臭ではない。
ヤンフィは少しキツめに続ける。
「服がなければ裸でおればよいじゃろぅ。ここには妾たちしかおらん」
「にゃ!? そんにゃ格好じゃ街に行けにゃいにゃ!」
(……ヤンフィさん? 一応、俺もいますよ? 俺としては、裸でいられると目のやり場に困りますが?)
ツッコんだ煌夜の言葉に、ヤンフィは、ふむと唸って、仕方ないと話を続ける。
「であれば、服も一緒に洗い、風と火の魔術で乾かせば良かろう。妾は全属性の適性が下級じゃが、魔術操作は得意じゃ。洗濯物を乾かすくらいの芸当は造作もないぞ」
「魔術にゃら、あちしのが上にゃ。あちしは基本四属性と無属性しか適性にゃいけど、風と火が上級で、他の適性は中級にゃ! それくらいのこと、ボスにやってもらわにゃくても、一人でできるにゃ」
「なれば、早く身体を洗って腐臭を消せ、愚か者が。迷惑じゃ」
「――にゃに!? にゃうぅ……許してにゃ、ボス。あちしは水を浴びると、溺れそうにゃ気がして怖いにゃ。にゃから、落ち着けるとこで身体を洗いたいにゃ……にゃ、にゃあ! やったにゃ、ようやく森を抜けたにゃ!」
意固地に身体を洗うことを拒否するタニアに、ヤンフィはまだ何か言いたげだった。だが、そうこうしているうちに森の切れ目が見えてきて、これ幸いとタニアは逃げるように駆けていく。
その様を見て、ヤンフィはため息一つでようやく追及を諦めた。
(なぁ、ヤンフィ。今更なんだが、その水の魔術で喉を潤すことはできなかったのか?)
(生憎じゃのぅ。魔力を持たないコウヤでは、飲めば、肺が爛れるぞ? そも魔術で出現させた水など魔力濃度が高すぎて、飲めなくはないが、非常にマズイ、そのうえすぐに魔力酔いを起こすわ)
(あ……さいですか)
深刻な水不足もこれで解決、と思ったが、やはりそう世界は甘くないようだった。
さて、嬉々として駆けて行ったタニアの背中を追い、ヤンフィもすぐに森を抜ける。そして、目の前に広がった光景を目にしたとき、ふと悲しげに微笑んだ。
「……ふむ。これは、妾の知っている頃からずいぶんと様変わりしたものじゃのぅ」
ヤンフィの目の前に広がっていたのは、広漠とした平野である。
地平線さえ見えるほどに見晴らしのいい大地は、森の中とは一転して見渡す限り何もなかった。果てしなく続くように思える地平、遠くに見える急峻な山岳地帯、乾いた風がここから吹いてきていた。
「あと、ちょいにゃ。あそこに見える城壁が【城塞都市アベリン】の外壁にゃ」
一足先に森を抜けて煌夜を待っていたタニアが、そう言って真正面を指差す。
言われるがままに眼を凝らせば、随分と先の方に、ポツンと壁のような何かが聳え立っているのが見えた。
ヤンフィが視力を一段階引き上げると、それはタニアの言う通り城壁に見える。
「いまの時間にゃら、まだ城門は封鎖されてにゃいはずにゃ。にゃけど、わりと急ぐにゃ」
「――門限でも、あるのかのぅ?」
「あるにゃ。ここら一帯は、深夜零時で城門が封鎖されるにゃ。そうにゃったら、外で野宿するしかにゃいにゃ……第一の月と第二の月の高低差から、いまは十一時くらいにゃ。そろそろマズイにゃ」
タニアは空に浮かぶ四色の月のうち、第一と言いながら赤い月を、第二と言いながら背後に浮かぶ青い月を指差す。
森の開けたところから空を見上げると、月の配置が四方向にバラけているのが分かった。これで方角が分かるのか、と煌夜は感心しながら納得した。
ちなみに、第二の月に向かい合うのが白い月で、第一の月と向かい合うのは緑の月だった。いま進んでいるのが西で、それが第三の月ということだから、白い月が第三の月である。
となると必然、第四の月が緑で北、第一の月が赤で南、第二の月が青で東となる。
煌夜はまた一つ、この世界の常識を理解した。
「ふむ。野宿は確かに嫌じゃのぅ。では、少しばかり急ぐかのぅ」
「そうにゃ。早く街に行って、メシを食べるにゃ――」
タニアのその意見には、何の異論もない。
煌夜はともかく一息吐きたかったし、ヤンフィは一刻も早く安全な場所に辿り着いて、煌夜に身体を返したかった。
実のところ、ヤンフィが煌夜の身体を支配している間は、煌夜の肉体は自然治癒せず、またヤンフィの魔力も自然回復しないというデメリットがある。
「さて……じゃあ、ちと走るかのぅ。タニアよ、妾の付いていける程度に、先導するが良い」
「にゃ!」
ヤンフィは幾度か煌夜の身体で屈伸してから、あれだけ動いてまだ元気いっぱいのタニアに案内を促す。
タニアは軽快に走り出した。
(おお、そうじゃ、コウヤよ、一つ忠告じゃ。ひとまずは街に着いたら、身体は返そうと思うが、何かあっても不用意に喋らん方が良いぞ? 汝は異世界の言葉を喋っておるが、聞く者がそれを理解できてしまう。察しのいい者がおれば、コウヤのそれが統一言語じゃと分かってしまう。そうしたとき、タニアのような反応を返す輩が、いないとも限らぬ)
(……ああ、なるほどね)
ヤンフィに言われて、タニアと出逢った時のことを思い出す。ほんの数時間前の出来事だが、ずいぶん昔のようにも思える。
問答無用に殺されそうになるなんざ、嫌な思い出だ。あんな展開は二度とごめんである。
そうして、しばし真っ直ぐ走ること十数分、段々と近付いてきた絶壁のような塀が、ようやく目の前に現れた。
「着いたにゃ!」
オリンピック代表のマラソン選手も真っ青の速度で駆け続けて、しかしタニアは息一つ乱さず歓喜の声を上げる。
見上げるほどの塀は、聖魔神殿よりもなお高く、その上に門番らしき人間が何人も立っているのが見える。
「城門は、こっちにゃ!」
絶壁の塀を前に左右を見渡して、タニアが右手側を向いた。その先には、何やら大きな壁が見える。
タニアは鼠一匹つけ入る隙のない塀に沿って歩く。ヤンフィもそれに続いた。
ほどなくして壁まで来ると、それが巨大な鉄扉だということが分かる。それは街の外に開かれている門扉で、6メートルほどの大きさがあった。
正面に回り込み、タニアたちは街へと足を踏み入れる。これでようやく安全な場所で休める、とそう誰もが思った。
――しかし、事はそう簡単にはいかない。
「おい、待て、そこの凄まじい臭いをした獣人の女。お前ら、何処から来た?」
門の内側、街の入り口で立っていた衛兵の一人が、タニアの臭いに眉を顰めて呼び止める。暗闇でよく見えないのか、衛兵は槍を片手に、松明を持って近づいて来る。
一瞬、まさか通行証的な何かが必要なのか、と煌夜は危惧したが、問題はそんな瑣末なことではなかった。
「森からにゃ。あちしたちは、冒険者にゃ――この街は通行証の類は必要にゃいはずにゃ」
「うむ。通行証は不要――って、貴様!? その顔、その装備、その身体つき、【大災害】タニアか!?」
警戒した声で近寄ってきた衛兵は、松明の薄明かりでタニアの顔を確認した瞬間、目を見開いて絶叫する。
「……なんじゃ?」
「にゃん?」
「大災害だ! 大災害タニアだっ!! 大災害が現れたぞっ!」
タニアとヤンフィは、その絶叫にきょとんとした表情で首を傾げる。
何が起きるのか、何が起きているのか、まったく分からない状況で、とりあえず成り行きを眺めることにした。
衛兵は不思議な二つ名と共にタニアの名前を絶叫しながら、バックステップで大きく距離を取って、片手の槍を夜空に向け、照明弾のような火の魔術を放った。
――ドーン、と。音と閃光が夜空に打ち上がる。それはまるで花火のように美しかった。
その音と閃光が夜空に響き渡ると、街中がにわかに騒がしくなり、やがて城門の周辺に次々と筋骨隆々な重戦士たちが集まってくる。
彼らは皆が皆、完全武装しており、見るからに殺気立っていた。とてもじゃないが、歓迎している雰囲気ではない。
「なんにゃ、なんにゃ?」
(なぁ、なんか嫌な予感しかしねえんだが……)
(奇遇じゃのぅ、コウヤ。妾も同じ気持ちじゃ。タニアを案内役に選んだのは、失敗じゃったかのぅ?)
屈強な戦士たちが集まってくる中、ヤンフィたちはただただ困惑していた。
ようやく街に辿り着いたというのに、まだまだ休めそうにはなかった。
※後書きを変更履歴に変えました。