第七十四話 レベリング
3月になってしまった。一応、新章の導入部です。
宿屋のリビングに現れてすぐに、寝室へと消えていったタニアとセレナを見送った煌夜は、とりあえずソファに腰を下ろす。
「ヤンフィたちが無事に戻ってこれて良かったよ……つうか、気付いたら居なかったから、少しだけ心配したぜ?」
「それは済まなかったのぅ。しかし、昨日ディドが戻ってきた時には、コウヤは既に休んでおったのでな。わざわざこんな瑣末で起こすことはないと判断したまでじゃ――妾が居ない間、ゆっくり静養できたかのぅ?」
煌夜に問い掛けつつ、ヤンフィはチラチラとディドに責めるような視線を向けている。だがディドはヤンフィの視線は無視して、スッと立ち上がり煌夜の隣に腰掛けた。
「まぁ、休めたは休めたよ……久しぶりに、平和な一日だったかな」
「それは重畳じゃのぅ」
ヤンフィは煌夜に頷きつつ、テーブルを挟んで向かい側にある椅子に腰掛けた。
「――ところで、まだ休むつもりがないということは、妾になんぞ用でもあるのか?」
ソファで寛いでいる煌夜に、ヤンフィが不敵な笑みで問い掛けてくる。煌夜は、いや、と首を振りつつも、腕を組んだ姿勢で質問を投げる。
「用ってほどじゃないけど……結論、魔神召喚って何とかなったのか?」
その質問は、詳細や経緯を知りたいということではなく、安心する為に結果だけ知りたい程度だった。
破壊出来たのか、破壊出来なかったのか――安眠する為にも、確認だけはしておきたい。
そんな煌夜の問いに、ヤンフィがニンマリと意地の悪い笑みを浮かべつつ首を傾げた。
「さあて、どうじゃろぅか? 妾たちが失敗したのか、成功したのか――コウヤはどちらじゃと思う?」
「…………失敗してたら、ここに戻ってきてないから、成功だと思ってるけど?」
「なんじゃ、判っておるではないか」
つまらぬ反応じゃ、とヤンフィが拗ねたように言う。煌夜はそんな態度に溜息を漏らしつつ、無事に成功したことに安堵した。
すると、ふいにヤンフィが真剣な表情になって、指を一本だけ立てて見せてくる。
「――とはいえ、完璧に破壊し尽くしたわけではない。残念じゃが、たった一つだけ。妾たちの現状の戦力では破壊出来なかった【魔神召喚】の魔法陣があったのじゃ。ソレは一旦、放置してある」
「え!? 放置!?」
煌夜は驚いて素っ頓狂な声を上げる。傍らのディドもその言葉が信じられないと眉根を寄せている。
「うむ……まぁ、それは明日でも詳しく説明してやる。じゃが、安心せよ。その一つは、もはや【魔神召喚】の魔法陣としては機能しておらぬ。故に、生贄が発生することもありえぬ」
「――――本当、か?」
「無論じゃ。その点は妾を信用せよ」
自信満々に断言するヤンフィに、煌夜は、そうか、とそれ以上聞かずに納得した。そもそも、たとえそれが嘘であろうと煌夜には何も出来ない。
「……んじゃ、ひとまず安心したから、そろそろ寝るわ」
「うむ。明日は起こさぬから、ゆっくり寝ておれ。魔動列車の発車時刻は夜頃じゃから、時間の余裕はかなりある。特段準備することもないから、慌てる必要もないじゃろぅ。心配せずとも大丈夫じゃよ」
「……OK。おやすみ」
ヤンフィの言葉を素直に信じられず、煌夜は一瞬、本当に大丈夫か、と疑いの言葉を口に出しそうになった。だが、疑ったところで詮無き事である。
どうせ出たとこ勝負の旅路だ。あとはただひたすら何事も起こらないよう祈るのみだろう。
まあそうは言っても、そうそう重大な問題に直面することはないはず――と、煌夜は楽観的に考えて、静かに襲い掛かる睡魔の誘惑に身体を預ける。
「――おぉ、そうじゃ、コウヤ。汝、身体に何か異常はないか?」
話は終わったとベッドに向かう煌夜の背中に、その時、どことなく遠慮がちにヤンフィが問うてきた。
煌夜は、なんのこっちゃ、と首を傾げながら、すこぶる健康であることをアピールするようにガッツポーズをとる。今現在、異常があるとすれば睡魔に襲われていることくらいだ。
「全く問題ないよ。むしろ調子いいくらいだ」
「ふむ……であれば好い。ちなみに、妾との契約に関しても違和感はないかのぅ?」
「違和感? いや、違和感とかはないなぁ。今までと同じように、ヤンフィが近くにいるような感覚だったし、しっかりとみんなの言葉も理解できたし」
煌夜の言葉に、ヤンフィはホッとしたように息を吐いて頷きを返した。
その態度を見て、何か体調が悪くなるようなことをしたのだろうか――と、一瞬、煌夜はそんな勘繰りをする。
ヤンフィと煌夜は、今やもう二心同体ではない。
エイルに治癒されてから、煌夜は生身に戻った。だが生身の煌夜は、当然ながらこの世界では凄まじく死に易い。そこでヤンフィは、煌夜と【主従の契約】を結んだのである。
主従の契約――またの名を隷属契約とも言う。
主となる者が、従となる者から一方的に恩恵を受ける契約。従となる者を意のままに使役出来るようになり、従となる者の能力を共有する契約である。
今回の場合、主となる者は煌夜であり、従となる者がヤンフィである。
この契約は具体的には、主となる煌夜のあらゆるダメージを、従となるヤンフィが肩代わりして、ヤンフィの持つ固有能力の恩恵も受ける。また、煌夜の身体にはヤンフィの魔力が供給されるようになり、肉体の基本性能が底上げされる。
この契約を結ぶと、互いに魔力が繋がった状態となり、どれほど物理的に離れようとも、常に互いの状況がある程度分かるのだ。
それ故に、煌夜の体調を心配するということは、ヤンフィがなにがしかの問題行動を起こして、煌夜に供給している魔力に変化を生じさせたのやも知れない。
煌夜は怪訝な顔を浮かべて、ヤンフィに問い返す。
「なぁ、ヤンフィ。そっちでなんか俺に影響するようなことをしたのか?」
煌夜の質問に、しかしヤンフィは一瞬キョトンとしてから、途端、おもちゃを前にした子供みたいな笑みを浮かべて、意味深な言い回しをする。
「さぁてのぅ――した、と云えばしたし、してないと云えばしておらんのぅ。心当たりがあるにはあるが、これを伝えて好いものかどうか……」
勿体ぶったような含みを持たせつつ、ヤンフィは煌夜の様子を伺ってくる。
あ、これはからかわれてるな――と、煌夜は即座に判断した。
何があったか聞きたいが、聞く方が面倒なことになるやもしれない。
無視する選択が得策であろう。
煌夜はわざとらしくあくびをして見せて、悪い、と手を挙げて話を切り上げる。
「……とりあえず寝るわ」
「ん? そうか? ふむ。それでは、好い夢を――」
寝室に向かう煌夜の背中に、ヤンフィのそんな声が掛けられる。
それを耳にしながら、煌夜はサッサとベッドに入って眠りについた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、煌夜が目覚めると、既に日は昇り切っていたが、タニアもセレナもまだ起きていなかった。
よほど疲れていたのだろう。起こすのが申し訳なくなるくらいグッスリと寝ていた。
煌夜はゆったりとした寝起きを味わいながら、いつでも出掛けられる装備に着替えて、リビングに顔を出した。
「ようやく起きたか、コウヤよ――ほぅ、準備万端じゃのぅ? 手間が省けるわ」
「おはようございます、コウヤ様」
顔を出したリビングには、ソファに踏ん反り返ったヤンフィと、湯気の出ている飲み物を手にしたディドが向かい合って座っていた。
「おはよう、ディド、ヤンフィ――手間が省けるって、何のことだよ?」
「そのままの意味じゃ。着替えさせる手間が省けた……それでは、ディドよ。今しがた相談した通り、妾たちは異空間に籠るぞ? 予定時刻になったら、呼ぶが好い」
ヤンフィの物言いに疑問符を浮かべた煌夜だが、それに対する返答はなく、ヤンフィは優雅なドレス姿のディドに命じる。
ディドは、畏まりましたわ、と無表情ながらも丁寧に頭を下げてから、優しい視線を煌夜に向ける。
「――コウヤ様。あまりご無理はなさらずに。根を詰め過ぎても、訓練は逆効果かしら」
ディドの柔らかい台詞に、けれど何のことだか意味が分からない煌夜は、目をパチクリさせながら首を傾げる。
何か良からぬ話が進行している気がする。嫌な予感がする。
そんな煌夜の予感は正しく、ディドに続いて、ヤンフィが軽い調子で重い決定を告げた。
「コウヤよ。光栄に思うが好い――妾が直々に、汝を鍛えてやろう」
「はぁ!? それ、ど――」
ヤンフィがニンマリとした笑みを浮かべて、テーブルに置いてあった小さな黒い箱を掴んで見せる。
煌夜は素っ頓狂な声を上げつつ、どういうことだ、と反論しようと口を開きかけた。だが、その言葉を口にするより早く、視界が黒い何かに包まれて、景色が変わる。
「――ういうこと……え、と? ここは、どこよ?」
「相変わらず、愉しい反応じゃのぅ」
一瞬にして変わったそこは、見渡す限り何もない真っ暗な空間だった。
正面には、ヤンフィが居り、ヤンフィはキョロキョロと辺りを見渡す煌夜を見ながら、カラカラと愉しそうに笑っている。
煌夜は、はぁ、とこれ見よがしに溜息を漏らして、深呼吸してから正面のヤンフィに挙手する。
「説明を求む。いきなりこんな状況で、俺はひどく混乱している」
「ふむ、説明しようではないか――まず、この空間じゃが、つい先ほど購入してきた【収納箱】じゃよ。時空魔術で作成した異空間でのぅ。基本的には、荷物置きとして使用するモノじゃ」
ヤンフィは丁寧な口調でそう語りながら、いつの間にそこに在ったのか、薄汚れた玉座に座っていた。
煌夜はそんなヤンフィと相対して、漂う威圧に気圧されながらも、しっかりと眼を視て問う。
「……なぁ、ヤンフィ。俺らは、今日【アベリン】に向けて出発する予定だったと思うけど?」
「そうじゃよ。【デイローウ大樹林】の入口から、魔動列車に乗り込む予定じゃ」
「なら、なんでこんなとこに、俺を閉じ込めてるんだよ?」
「別段、閉じ込めたつもりはないがのぅ――それに、そもそも出発するにしても、まだ時間が疾いぞ? 魔動列車の出発は今からおよそ十時間後じゃ。それまで時間が空いておるじゃろぅ?」
ヤンフィは世間話の調子で煌夜に答えるが、煌夜の質問といまいち噛み合っていなかった。この流れは誤魔化されているな、と気付いて、煌夜は一旦言葉を切る。
どう切り出せば聞きたいことが聞けるか――とりあえずジト目でヤンフィに訴えてみた。
「ふむ、そう睨むでないわ。判っとる、納得させてやるわ」
煌夜の視線に苦笑を浮かべながら、ヤンフィは何度も頷きを返して言葉を続ける。
「――コウヤよ。汝は今、妾と契約により結ばれて、妾の破格の能力を使用する権限を持っておる。じゃがのぅ……如何に強力な能力を持っておっても、扱い方を知っておっても、実戦でソレを使えるかどうかは別問題じゃろぅ?」
ヤンフィがどことなく上から目線で、そんな指摘を口にする。それは反論の余地なぞなく、紛れもない事実だろう。煌夜は思わずしみじみと頷いた。
異世界モノではさも当然のように、与えられた能力を使用する描写があるが、突然与えられた能力をそんな簡単に扱えるならば苦労はない。
「今までは、妾がコウヤの身体を操っておったし、四六時中、どんな状況になろうとも、妾が傍に付いておれた。じゃが、これからはそれは叶わぬ。如何に契約でコウヤと繋がっておっても、別行動をする可能性は常に存在する――となれば、コウヤも最低限の自衛が出来ぬと危険じゃ」
ヤンフィの言葉は、なるほど至極納得できる。
魔族が跋扈する危険なこの世界に居る以上、強者であるヤンフィたちにずっと甘えて、おんぶにだっこでは情けない――人としてもそうだが、主に男としても。
それでなくとも、煌夜自身がなにがしかの災厄を招き寄せている節がある。
実際、テオゴニア大陸にやってきた当日、グレンデルに殺されかけた思い出もある。
窮地に陥った時に、またヤンフィのような奇跡に助けられるのを期待するのは間違いだろう。
確かに最低限の自衛手段は手に入れないと、これから先が不安でならない。
「さて、そう考えると、じゃ――当面、妾たちの目的は、【城塞都市アベリン】に戻ることじゃが、この旅路は急いでおらぬ。そこで、移動の時間を使って、妾がコウヤの基礎戦闘力を向上させる訓練を施すことにした訳じゃ」
「…………なるほど。理解は、した」
煌夜は腑に落ちたと何度も頷いて見せる。ただしその表情は硬くなっており、とても納得出来たとは言えない表情だった。
ヤンフィが伝えたいことは分かる。
つまりここに来て、ようやくだが、煌夜自身をレベルアップする時期になったということだ。事実、それは必要なことだとも思う。
レベル1と言っても過言でない煌夜では、この先の旅路は不安でならない。
けれど一方で、どれほどレベルアップすれば、ヤンフィを筆頭にして、タニアやセレナ、ディドやクレウサの足を引っ張らないレベルにまで到達できるのだろうか。とてもじゃないが、この出鱈目な世界で通用する自衛手段を手に入れられるとは思えなかった。
だから煌夜としては、自らの肉体を鍛えて、レベルアップして強くなるよりも、危険に近付かない嗅覚を鍛えた方が生存確率は上がるのではないか――そう考えていた。
しかし、そんな煌夜の思いなど一切気にせず、ヤンフィは愉しそうに言葉を続ける。
「安心せよ、コウヤよ。いきなり厳しくはせぬ――じゃが、多少血反吐は吐くやもしれぬのぅ」
その言葉を聞いて、何を安心しろというのか、煌夜は謎でならない。
とはいえ、わざわざヤンフィが直接指導してくれるということは、もしかしたら一気に高レベルになれる裏技があるのかも知れない。
煌夜は一縷の望みを祈りつつ、恐る恐ると疑問をぶつけてみる。
「血反吐は、まあ、我慢するけど……すぐに強くなれるの?」
「すぐ、と云うのがどれほどの短期間を指しておるかは知らぬが、四色の月一巡ほども鍛えれば、今よりマシにはなるのは間違いないじゃろぅ」
四色の月一巡と言うことは、三十日だ。すぐと言えばすぐだが、妥当とも言える期間だろう。
まあ、強くなるには相応の時間がかかるのは当然か――やはりそこまで甘くはないようだ。
煌夜は、ふぅ、吐息をついてから、質問を続ける。
「……どうやって、レベルアップするんだ?」
「どうも何も――まずは、コウヤに自らの魔力を自覚させるところからじゃよ? 魔力の操り方を説明する為に、コウヤが魔力を自覚させねば、何も始まらぬからのぅ」
ヤンフィは煌夜の質問に、当然じゃろぅ、と首を傾げた。しかし生憎、当然のようにそんなことを言われても、煌夜にはピンとこない。
「……魔力の自覚、ってどうやるの?」
「実戦形式で、妾と戯れるのじゃ。簡単じゃろぅ?」
「…………実戦形式って、どんな感じで?」
「どんな? ふむ――至極単純に、妾がコウヤを殴るので、コウヤはそれを躱して妾に触れる。それが出来れば、次の段階に移るかのぅ」
「………………触れるって、ソフトタッチでいいのか?」
「うむ。どんな状況になろうと、妾に触れさえすれば訓練終了じゃ」
「本当に――それだけ?」
「うむ。至極単純じゃろぅ?」
念押しのように繰り返し確認する煌夜に、ヤンフィは満足そうに頷いた。
触れるだけ――その程度ならば、何とかなるかも知れない。煌夜は思わず頷きそうになり、待てよ、と冷静に考えた。
触れるだけ、と簡単に言うが、ヤンフィに触れることがどれほど困難か、失念している。
ヤンフィの動きは、タニアと同等かそれ以上だ。煌夜では、何年修行しようとも触れられる気がしない。これは無理ゲーである。
「…………単純だけど、不可能じゃん。俺じゃヤンフィに触れられない。無理ゲーだ」
「無理ゲーではないぞ? コウヤが魔力を自覚さえ出来れば、いまのままでも充分、妾に触れることは叶うじゃろぅ。コウヤならば出来るはずじゃ、不可能ではない――そも、やる前から諦めるではないわ」
ヤンフィの根拠のない台詞には、何の安心も出来ないし、出来る気もしない。こんなよく分からない状況のまま、訓練を開始されたくはない。
煌夜は頭を掻きながら、遠慮がちに続ける。
「……ちなみにさ。その訓練をして、魔力とやらを自覚すると、俺でも魔術とかを使えるようになるのか?」
「ん? 魔術を使いたいのか? ふむ……魔術操作は才能じゃからのぅ。コウヤがよほどの天才でなければ、たかだか数日では不可能じゃろぅ」
「……魔術を使う為の訓練じゃないのか?」
「うむ、違う。これから行うのは、コウヤを強くする為の訓練じゃ」
「……魔術が使えないなら、運動神経が並の俺じゃあ、どんだけレベルアップしても強くなれないだろ?」
魔術を使えれば強くなれるなんて、それは安易な考えかもしれないが、この世界で魔術を使えないとなれば、魔族のような存在と戦える気がしなかった。
ところが、そんな煌夜の考えを見越したように、ヤンフィは即座に否定する。
「魔術なぞ使えずとも、強くはなるぞ。特に妾が鍛えれば、少なくともランクBの魔族程度は、瞬殺できるようになるじゃろぅ――今のコウヤには、それだけの素質があるぞ?」
「瞬殺、ねぇ? ちなみに、ランクB……って、どれくらいの強さだよ?」
「そうさのぅ、【聖魔神殿】に居った【グレンデル】クラスじゃのぅ」
「ああ、グレンデル――――はぁ!? アレを、瞬殺!?」
即答するヤンフィの言葉に、煌夜は信じられないとばかりに目を見開いて驚愕した。
嫌でもその魔族の名称には覚えがある。忘れたくとも忘れられない恐怖の象徴、煌夜が致命傷を負った原因――半ばトラウマと化している化物こそが【グレンデル】である。
あの凶悪な巨躯と、驚異的な運動能力を誇る化物を、煌夜が瞬殺できるようになるとは想像も出来ない話である。どう希望的に考えても、不可能な夢物語だろう。どうしたって、煌夜自身そこまで到達できる気がしない。
「コウヤよ。汝は今まで、魔力を持っておらんかった。じゃから、基礎体力が貧弱じゃった。基礎体力が貧弱では、どれほど高度な技術を学ぼうとたかが知れておる。じゃが今は違う――どうしてそうなったかは妾も理解出来ぬが、蘇生されてから、コウヤが保有する魔力量はタニアに匹敵するほどじゃ。魔力は操作することが出来れば、基礎体力を飛躍的に向上させることが可能じゃ。つまり単純に考えれば、タニア並の魔力があるコウヤは、適切な魔力の操り方を覚えれば、タニア並の強さになるはずじゃ」
さも当然とばかりに言うヤンフィに、煌夜はただ唖然として押し黙るしかなかった。
タニア並の強さがあまりにも遠すぎて、到底そうは思えないが、ここまで断言されてしまっては、やらない選択肢はないだろう。
まあ、初めから断れない展開ではある。
どうせ逆らおうとも反論しようとも、この決定が覆ることはあるまい。それならば、あの恐怖の象徴を瞬殺できることを夢見つつ、騙されてみるべきか――
「……まぁ、少なくとも今より強くはなる……よな?」
煌夜は誰に言うともなく呟いて、うん、と一つ頷いた。ヤンフィを信じて、レベルアップに挑むことにしよう。死ぬほど辛くても、死ぬことはないらしい。
そうと決まれば、と煌夜は身体を伸ばして、ふと昨夜のやり取りを思い出した。
「あ――ところで、ヤンフィ。魔神召喚が一つだけ残ってるって話は、結局、詳しく教えてくれないのか?」
煌夜の言葉に、ヤンフィは、ああ、と手をポンと叩いて玉座から立ち上がる。
「妾がタニアたちと合流して、潰して回った【魔神召喚】の顛末は、訓練しながら教えてやろう」
ヤンフィは笑顔でそう言いながら、ほれ柔軟せよ、と煌夜に身体をほぐすよう指示してきた。
煌夜は苦笑しつつ、分かったよ、と屈伸と柔軟をして身体の準備を整えながら、この後に起こるであろう恐怖を覚悟して身構える。
「ふむ、それでは――気絶するまで殴るから、覚悟せよ」
準備を整えた煌夜に、ヤンフィは笑顔で死の宣告を告げた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ヤンフィのスパルタ訓練は、煌夜が気絶するまでを1セットとして、合計4セットほど、ディドに止められるまでの間、ずっと繰り返された。
そうして訓練が終わった後、煌夜はもはや身動きが取れず、死んだように床に倒れ伏していた。
いきなり厳しくはしないと言ったくせに、どこが厳しくないというのか――そう文句を言う余裕さえなくなるほど、煌夜は心身ともに疲労の極致だった。
「ふむ……残念じゃが、時間か。さて、次は魔動列車に乗り込んでからとするかのぅ?」
既に死に体で思考さえままならない煌夜に、ヤンフィはそんな鞭を打ってくる。
それは無茶である。もはや煌夜は肉体の限界を超越して、とっくに屍と化している。けれども、ヤンフィの言葉に言い返す余力はおろか、その言葉の意味さえ理解する余裕がなかった。故に、ただぐったりと倒れ伏すのみである。
「お疲れ様かしら、コウヤ様――失礼いたしますわ」
ディドはそんな煌夜に労いの言葉を掛けつつ、優しくお姫様抱っこで抱え上げて、リビングに連れ出してくれた。煌夜は為されるがまま、セレナの前に運ばれる。
「セレナ。コウヤ様の回復をお願いできるかしら?」
「……はいはい。『癒しの風よ。彼の者に活力を与えよ』」
セレナは呆れた顔になりながらも、ディドに言われる通り、煌夜の身体に治癒魔術を施した。
体力の回復とステータス異常を癒す上級治癒魔術――だが、身体の異常は癒せても、煌夜の精神的疲労までは癒せない。
「……ありがとう……セレナ」
煌夜は身体が軽くなるのを実感しつつも、ドッと圧し掛かってくる精神的な疲労感で満足に反応が出来なかった。
「――どうでもいいけど、コウヤ、アンタさ。よくよく身体を痛めつけるのが好きなのね……」
疲れ切った様子の煌夜を憐れむような視線で見ながら、セレナはそんな勘違いを口にする。
別に身体を痛めつける趣味などない――けれど、そう思われても仕方ない状態だった。非常に不本意であるが。
「にゃぁ、ヤンフィ様。そろそろ魔動列車が来る時刻にゃけど――間に合うにゃか?」
リビングのソファでゴロゴロ寝ていたタニアが、敵意剥き出しでディドを睨みながら、そんなことを問い掛けた。
ディドはその視線に冷ややかな視線をぶつけて、部屋の入口で待機しているクレウサに顔を向けた。
「クレウサ、同期いたしますわよ」
「……畏まりました」
ディドの指示にクレウサは言葉少なに頷いて、すかさず【共振増幅】の特殊能力を発動させる。
それは天族が持つ特有の異能であり、且つ双子のディドとクレウサが揃って、初めて使用できる特殊な能力だ。
これでディドの特殊能力【次元跳躍】が強化される。
「さてさて、それでは汝ら、準備は好いか? ここに及んで、下らない忘れ物なぞないじゃろぅな?」
ヤンフィが全員に流し目を送りつつ、そんな号令をする。
ディド、クレウサ、タニア、セレナは、全員力強く頷いた。煌夜は胡乱な頭で身の回りを見渡してから、大丈夫だ、と頷いた。
「それでは――――何をしているのかしら、タニア?」
「にゃんで、いちいちコウヤに抱き付くにゃ? 腕を組むだけで問題にゃいだろ? 本当はそれでさえ許しがたいにゃけど、許してやってるにゃ? あちしの器の大きさに感謝して欲しいにゃ」
「何て、器の小さい――さすが、獣族ですわね。品性が下劣極まるかしら」
当然のように煌夜を抱き締めようとしたディドを、タニアが殺気を放ちながら、二人の間に腕を突っ込んで阻んだ。互いに喧嘩腰で、今にも戦争が勃発しそうなほど緊張が高まる。
なんて不毛なやり取りだ、と当事者の二人以外、その場の全員が呆れ顔を浮かべる。
「タニア、ディド。下らぬ問答は後にせよ。今は兎も角、ここから移動するぞ」
「「――チッ」」
バチバチと殺気と視線をぶつけていた二人に、その時、ヤンフィが鶴の一声を投げる。その声に、ディドもタニアも同時に視線を逸らして、まったく同じタイミングで舌打ちしていた。
水と油に見える二人だが、その実、中身は似た者同士かも知れない――と、煌夜は胡乱な頭で思った。
さて、そうして、気を取り直したディドは、煌夜の腕を胸に掻き抱くようにして、ほかの全員が身体のに触れていることを確認してから、テレポートを発動させる。
何の変化も感じず一瞬のうちに、宿屋のリビングから、夜の帳が下りた【デイローウ大樹林】の入口へと転移していた。
「ふむ。ちょうど良いタイミングじゃのぅ――それでは、タニアよ。乗り込めるよう段取りを頼むぞ」
「はい、にゃぁ!」
ヤンフィの指示で駆け出すタニアの向かう先には、今まさに停車しようとしている長蛇の鉄箱――魔動列車が汽笛を上げながらやってきていた。
魔動列車は、背後の大樹林から姿を現したことから、【鉱山都市ベクラル】行きで間違いないだろう。
「……凄い――これが、乗り物、なんですか? これが、魔動列車……これに、乗って行くのですか、ディド姉様?」
ふと見れば、クレウサが震える声で驚きの表情を浮かべている。視線は魔動列車の全容に釘付けで、そんなクレウサをディドが見守っている。
クレウサはどうやら魔動列車を初めて見た様子だった。驚愕と感動がその表情から窺えた。
一方で、そんなクレウサを見守るディドは、相変わらずの冷ややかな無表情で、ええそうですよ、とサラリと答えていた。冷めた反応だ。
「これほどの質量の物体を、魔力で動かすなんて……凄まじい、発想ですね……」
「クレウサよ。驚く気持ちは分かるがのぅ。その感動は乗ってからにしておくが好い――乗り心地は、想像以上に素晴らしいぞ?」
ヤンフィがどこか誇らしげな様子でクレウサに言う。それを聞いて、クレウサが眼を輝かせていた。
男装の麗人であるクレウサのその仕草は、ともすれば無邪気な青年に見えなくもない。どことなく鉄道オタクに似た匂いがした。
「ヤンフィ様、二部屋分購入したにゃ――部屋割りは、どうするにゃ?」
しばらくして、完全に魔動列車が停車してすぐに、タニアがサムズアップしながら戻ってきた。勝ち誇ったような顔で、どうしてかディドを見下すような視線である。
「…………何故に、二部屋?」
脳みその回っていない煌夜は、そのタニアの台詞に単純な疑問を口にする。
全員で一部屋にすれば――少し狭いか。いや、だとしたら三部屋を借りれば、煌夜とヤンフィ、タニアとセレナ、ディドとクレウサの組み合わせで、ちょうど良いだろう。
資金は潤沢にあるのだから部屋をもっと借りれば良いじゃないか――と、煌夜は提案しようとして、ヤンフィの死の宣告に思考を停止する。
「二部屋ならば、コウヤと妾で一部屋。タニアたちで一部屋じゃ――妾たちは、ベクラル到着までのおよそ二十時間、コウヤの訓練を行う」
ヤンフィの台詞は、決定事項の通達であり、もはや揺るがない意思の宣言だった。それを聞いた瞬間、タニアとディドが同時に喰い付く。
「にゃんでにゃ!? あちしは、こんにゃ変態天族と一緒の部屋は嫌にゃ!!」
「――ヤンフィ様。大変申し訳ありませんけれど、ワタクシ、やむを得ない事情でない限り、タニアと一緒の部屋は遠慮したいかしら」
二人の反応に、クレウサとセレナが呆れた溜息を漏らしている。煌夜もいっそう疲れた吐息を漏らした。
「ほぅ? それはつまり、妾の命令に従えないということかのぅ? たかが一日程度、同室になることも出来ぬ、ということかのぅ?」
ヤンフィは目を細めて、凄まじい威圧を二人にぶつけた。煌夜は、直接当てられたわけでもないのに、その威圧で思わずゴクリを唾を飲んでしまった。
「……かしこまりましたわ。致し方ありませんかしら。ワタクシは、我慢いたします」
「にゃぁあ、仕方にゃい。あちしがもう二部屋追加購入してくるにゃ」
二人はヤンフィの威圧に折れて、同時に、仕方ない、と頷きながら引いた。
とはいえ、ディドは同室になるのを諦めたが、タニアは諦めたわけではなく、部屋を増やす決断を選択したようだ。すぐさま踵を返して、魔動列車の司令部へと駆けて行く。
タニアの後ろ姿を見送りながら、全員が全員とも呆れた溜息を漏らした。
そうして、結果的にタニアは部屋を四部屋借りて、煌夜とヤンフィ、タニア、セレナ、ディドとクレウサの部屋割とした。まあ、無難な判断だろう。
さて、そんな部屋割をした後、煌夜はヤンフィとまた収納箱の中に居た。
セレナに回復してもらったおかげで、煌夜の身体は筋肉痛もなく、至って健康な状態になっていたが、精神的には疲労困憊であり、もはや休みたい心境だった。
だが鬼教官のヤンフィは、少しも休ませてはくれない。
ちなみに、ヤンフィの訓練は事前に聞いていた通り、ヤンフィに触れるだけと言う単純なものだったが、蓋を開けてみればとんでもなく無茶苦茶な内容だった。訓練とは名ばかりで、これはもはやただの虐待だろう。
訓練内容は、ヤンフィに触れるか、煌夜が気絶するまでを1セットとして、ただひたすらヤンフィに殴られ続けるデスゲームである。
戦い方、防御の方法など戦闘のレクチャーは当然なく、散々叩きのめされるだけだ。
「……いや、そりゃ……今更、基礎体力……つけるために、走り込み? ……とか、しても意味、ないとは思うけど……こんな、実戦形式で……レベルアップなんか、出来るのか……?」
煌夜は息も絶え絶えに、無傷で仁王立ちするヤンフィに訴えかけるように呟く。
ヤンフィはそんな煌夜に呆れた視線を向けつつ、無言のまま全身に魔力を漲らせた。
「コウヤよ。何度か説明したかと思うが、汝にまず必要なのは、己の持つ魔力の自覚じゃ。そして魔力を自覚するのに有効なのは、いつの時代も、死の恐怖と命懸けの戦闘じゃ。格上との戦闘で窮地に陥ってこそ、己の才能が開花するのじゃ。まぁ、一度でも魔力を知覚さえできれば、扱い方は幼子が言葉を身につけるように、すぐさま身につくじゃろぅ」
淡々とそう告げながら、魔力が漲るヤンフィの拳が、緩やかな動作で煌夜の腹部に突き刺さる。
直後、ドガン、と爆音のような音の衝撃が顔面を強打して、やや遅れて腹部が吹き飛んだような激痛が全身を走り抜ける。
思考が痛みに支配されて、ガクン、と膝が砕ける。げぇぇ、と血反吐を撒き散らしながら、煌夜はその場に転がった。
この激痛、この感触、確実に内臓の一つ二つが傷付いているだろう。
「……死、死ぬ……本当に……死んで、まう……」
「安心せよ。そう簡単に死なぬ。徐々にじゃが、魔力の使い方を身体が覚えてきたようじゃしのぅ」
ヤンフィはそんな意味不明なことを言いながら、転げまわる煌夜の元へとゆっくりと歩いてくる。その立ち姿は、もはや死神にしか見えない。
煌夜は激痛に身をよじりながら、半ば本気で死の恐怖を味わっていた。
「気付いとるか、コウヤよ。汝は朝よりもずっと、気絶し難くくなっておるのじゃぞ?」
「……だから……何、だよ?」
「妾の魔力を篭めた攻撃に対して、身体が魔力で抵抗しておる証拠じゃよ。つまり無意識下で、魔力による防御反応を覚え始めておるということじゃ――それが魔力操作じゃ。これを意識して出来るようにするのが、次の段階じゃのぅ」
ヤンフィは優し気な微笑みを浮かべたが、それはちっとも心休まる話ではない。
言い換えれば、耐性が付いた影響で、簡単には気絶出来ない――この地獄の苦しみがまだまだ続くということだ。
そんなのは嫌だし、そもそも身体が治っても心が壊れてしまう。この辺で、この苦痛だけの訓練を終わらせないと、本当にマズイ。
煌夜はギリと強く奥歯を噛み締めて、訓練を終わらせる為に、事ここに至って初めて、ヤンフィに触れる努力をしようと決意した。
(……痛みに、慣れてきた……ってのも、あるけど……朝よりもちょっとだけ、冷静に物事を考えられるように……なってきたか)
煌夜は激痛に堪えながら、ヤンフィが近付いてくるのをジッと待つ。
ヤンフィはまったくの無警戒で、散歩するような足取りで転がる煌夜に近寄り、ピタリと足を止めた。
ヤンフィが見下ろし、煌夜が見上げる。
そんな構図になった瞬間、煌夜は激痛を堪えて飛び掛かる。
「ぉおおおお――ッ、ぐぇ!?」
「バレバレじゃよ?」
渾身の雄叫びを上げつつ、ヤンフィに上から覆いかぶさる形で飛び掛かる。こうすれば、多大なダメージを負っても、勢いそのままヤンフィを押し倒せるのではないか、と煌夜は甘く考えていた。
しかし、当然ながら現実は残酷だ。そんな煌夜の考えは軽々と玉砕する。
飛び上がり落下してくる煌夜の脇腹目掛けて、ヤンフィは流麗なステップを踏んでから、疾風もかくやという速度の華麗な右フックを放った。
グシャ、バキ、という人体から聞こえたらヤバい音が鳴り響き、煌夜は数十メートル先に吹っ飛んだ。
瞬間、限界を超えた激痛と衝撃により、煌夜の意識は途切れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
煌夜が吹っ飛んで収納箱の床で痙攣している様を見て、ヤンフィは苦笑いを浮かべる。完全に気を失った様子である。
「……今の感触は、ちょっとやり過ぎたのぅ。魔力防御が間に合っていなかった。肋骨が折れて、肺に突き刺さってしまったかのぅ」
常人ならば間違いなく重症レベルで、本来であれば慌てふためく場面だろうが、セレナという回復要員が常備されている現在、さして心配はなかった。
この程度であれば、セレナの上級治癒魔術でもってすぐに回復出来るだろう。まあ、放置すれば致命傷になるので、急ぐ必要はあるが。
ヤンフィは乱れた桃髪をわしゃわしゃ搔きながら、倒れ伏している煌夜に近付いた。
煌夜は白目を剥いて身体を小刻みにピクピクと痙攣させている。
「さて、コウヤよ。既に意識はないじゃろぅが、一旦はこれで休憩とする。セレナを連れて来るから、しばし気絶して待っておれ」
ヤンフィは優しい口調で言いながら、痙攣する煌夜の頬を撫ぜて、フッ、と苦笑を浮かべる。
「……それにしても、恐ろしいほど魔力に対する順応性が高いのぅ。凄まじいまでの魔力の才能じゃ。たかだか十数時間程度で、無意識とはいえ、魔力の本質的な扱い方を覚え始めるとは――よもや下級魔術程度ならば、四色の月一巡ほどもあれば、習得できるのではないかのぅ?」
ヤンフィは煌夜の魔力の才能に舌を巻いていた。これほどの成長速度を見せるとは、ヤンフィの想像をはるかに超えていた。
「妾でさえ、魔力解放に至るのに二日は要したと云うに、末恐ろしいものよ」
ヤンフィは眩しい存在を見るように目を細めつつ、痙攣する煌夜を見下ろす。
魔眼で煌夜の身体を調べるまでもなく、淡い湯気のような魔力が、痙攣する身体から立ち昇っているのが見えた。煌夜の中に眠る潜在魔力が、身体の内から外に解放されつつある状態――魔力操作をする上で基礎的な技術、魔力解放である。
一般的に、自らの魔力を自覚した者が、この魔力解放に至るのに、およそ三日程度の時間が掛かると言われていた。
だというのに、煌夜はわずか一日程度で到達している。これはあまりにも驚異的な速度だった。
覚えが良いことは悪いことではない。驚きこそすれど、それは嬉しい誤算である。魔力解放が出来ているのであれば、訓練はもう次の段階に移れる。
「……この速度で成長するのならば、切っ掛けさえ与えてやれば、魔王属さえも殺し得る存在となるやも知れぬのぅ」
ヤンフィはそんな独り言を呟きながら、収納箱から外に出た。一瞬のうちに、暗闇で果てしなかった空間から、快適なリビングへと景色が変わる。
「――あら? ヤンフィ様ですわ。どうかなさったのかしら?」
「――ん? 何、コウヤはまた気絶したの?」
リビングにヤンフィが現れるのと同時に、ソファで向かい合って座っていた二人が反応した。
ディドとセレナ、不思議な組み合わせである。
「何故、妾とコウヤの部屋に汝らが居る?」
ヤンフィと煌夜に割り当てられた部屋に当然の顔で居座っている闖入者二人に、ヤンフィは冷ややかな視線を向けた。
すると、セレナが肩を竦めてディドの顔を注視する。ディドは相変わらずの無表情で、ええ、と頷きながら説明を始めた。
「ワタクシ。少しだけ込み入った話をセレナとしたくて……けれど、ワタクシの部屋にはクレウサが居たので、失礼ながら、ヤンフィ様のお部屋にお邪魔いたしましたかしら。けれどご安心を。訓練の邪魔をするつもりは毛頭ありませんわ」
まったく悪びれずに言うディドに、ヤンフィは、そうか、とだけ答えた。部屋に入られて困ることはないので、勝手に入ったことを怒るべきか悩むところだった。
ヤンフィはしばし逡巡してから、セレナを呼ぶ手間が省けたか、と言葉を呑み込んだ。
「――セレナよ。訓練で、ちとコウヤにやり過ぎてしもうた。疾く、コウヤを癒して欲しい」
「はいはい――やっぱり、そうなるのね。かしこまりました」
ヤンフィの命令に、セレナは承知しているとばかりの顔をして、収納箱の中に入って行った。それを見送ってから、ヤンフィはセレナと入れ替わりでソファに座る。
「さて、ディドよ。セレナとの込み入った話とはなんじゃ?」
ヤンフィはディドを真っ直ぐと見詰めて、魔眼を発動させた。嘘偽りは許さないと、その力強い双眸で告げつつディドの反応を待つ。
ディドという天族は、良くも悪くも煌夜が全ての狂信者である。ヤンフィを邪魔者と判断して、排除する為の計画を立てないとも限らない。実際、セレナもヤンフィに良い印象は持っていない。
まあ、ディドとセレナ、クレウサが組んだ程度で、ヤンフィを倒せる可能性なぞ皆無だが、煌夜を人質に取られてしまうと、万が一があり得る。
「――コウヤ様と出逢った経緯、コウヤ様の今後の護衛役割の確認、コウヤ様の身の回りの世話をどうするかの相談、などを話し合っておりましたわ」
果たして、ヤンフィが身構えたような危惧はなかった。至極下らない世間話だった。
「……それのどこが、込み入った話、じゃ?」
「今後の旅路で何よりも重要かしら。今までは、何もしないクレウサしか一緒に居りませんでしたけれど、今後はタニアのように狂った輩が同行するのです。コウヤ様の身の安全の確保はもとより、共同生活を送るうえでも、事前の役割分担は必須かしら」
ディドは真っ直ぐとヤンフィを見つめ返して、そんなことを真剣に口にする。感情の色を見れば、それが真実であることが判る。
ヤンフィは、はぁ、と安堵と呆れの溜息を漏らしながら、もはや興味を失くして、別の話題を切り出した。
「ふむ……まぁ、込み入った話の件は分かったが、ところで、汝にも情報共有しておく。コウヤの弟妹についてじゃ」
「――どういった内容かしら?」
「コウヤの弟妹三人じゃが、いまはどうやら全員別々の場所に居るようじゃ」
ヤンフィは声を抑えつつ、デイローウ大樹林でタニアから聞いた情報を伝えた。途端、ディドが眼を見開いて、グイと身体を乗り出してくる。
「どういうことかしら? 既に居る場所が判明しているのかしら? であれば、今すぐに向かうべきではないのかしら?」
想定以上に激しく喰い付いてきたディドに、ヤンフィは、落ち着け、と挟みつつ、説明を続ける。
「妾たちの手元に【神の羅針盤】という魔道具があるのじゃ――タニアがそれを使用して、コウヤの弟妹を探ったところ、一人は【竜騎士帝国ドラグネス】領の何処かで、他の二人は【王都セイクリッド】周辺に居るらしい。じゃから、実のところ【城塞都市アベリン】に戻る意味はないのじゃ」
「……コウヤ様は、御存じなのかしら?」
「伝えておらぬ――そして当面、伝える気はない。一旦はアベリンに戻り、態勢を整えてから、コウヤが焦れてきた頃合いで伝えようと思うておる」
ヤンフィはそんな考えをディドに伝えた。
結局、コウヤに弟妹のことを伝えるのは、コウヤが自衛出来るレベルにまで強くなってから、準備完了したうえで伝えようと考えていた。そうしなければ、コウヤはどんな状況だろうとすぐに目的地に向かうということだろう。
ディドはヤンフィの説明を聞いて、イラついたように眉根を寄せた。
「僭越ながら、どうしてお伝えしないのかしら? コウヤ様は、ご家族のことを酷く心配しておられましたわ。場所が判明しているのであれば、何をおいてもまず、そこに向かうべきではありませんかしら?」
「わざわざ妾の考えを汝に説明する必要もないし、汝の納得も求めておらぬが、あえて答えてやろう」
ヤンフィはディドに殺意を篭めた威圧をぶつけつつ、本当のことを告げる。
「妾の中で最優先なのは、コウヤの身の安全、じゃ。往く先で安全が確保できるかどうか、それが妾にとっての全てでもある。そうすると果たして、コウヤの弟妹が居ると思われる場所は、安全なのか? 妾はこの時代のテオゴニア大陸の情勢に疎い……闇雲に向かったところで、どうせ厄介事に巻き込まれるじゃろぅ?」
それでなくとも、どれほど警戒しようと行く先々で問題が起きているのが現状である。であればこそ、今後はしっかりと計画を立てて旅するべきだろう。
「そもそも今までは、コウヤの弟妹が、何処に居るのか、生きておるのかさえ、何一つ判らなかったが故に急ぎ探索しておった。じゃが、居場所が判明した今、さして焦ることはなかろう」
「……それならばせめて、コウヤ様に御家族の安否を伝えるだけでも――それだけでも、コウヤ様は安心出来るのではないかしら」
「――伝えたとして、コウヤが弟妹を探しに往かない筈がないじゃろぅ」
ヤンフィはハッキリとディドの意見を切り捨てて、どうじゃ、と問い返す。
ディドの訴えたいことは、皆まで言わずとも理解できる。
確かに、家族が生死不明の行方不明状態では、気が休まることはない。せめて判明した情報を伝えて安心させてやるのが優しさだろう。
だが、そうなれば十中八九、煌夜は弟妹の元に向かう。自らの命を賭しても――そして、ヤンフィにはそれを止める権限も、止める理由もない。
煌夜が弟妹を救いに向かうと宣言すれば、全力で協力せざるを得ないだろう。
「コウヤの命が保証されているのであれば、妾も別段ここまで気にすることはない。じゃが、妾が完全な状態ではなく、向かった先で厄介事に巻き込まれる可能性が高い以上、わざわざ危険を選ぶことは出来ぬ」
ディドは煌夜に心酔している。煌夜を第一に考えるのはヤンフィと同様だが、ヤンフィと違い、コウヤの命より心を大事にする傾向がある。
だからこそ、こうして理由を説明して釘を刺しておかなければ、独断で煌夜の為にと悪手を選択する可能性がある。
ディドはヤンフィの言葉に神妙な顔を浮かべて、言葉を飲み込んでいた。何やら思案しており、しばし押し黙る。
「――好いか? 妾の許しなく、コウヤに弟妹のことを告げることは禁止するぞ」
ヤンフィはディドの沈黙を不安に思い、念押しとばかりに釘を刺した。
「…………畏まりましたわ」
ヤンフィの命令に、ディドは不承不承と頷く。それを見て、取り敢えず安堵の息を吐き、ソファの背もたれに身体を預けた。
窓に視線を向ければ、目まぐるしい速度で変わる景色はようやく朝日を迎えており、眩い日差しが差し込んできていた。
「ああ、そういえば徹夜じゃったか……コウヤには厳しかったかのぅ」
ふと気付けば、煌夜とはぶっ通しで訓練しており、そういえば寝ていなかった。これではきっと次に目覚めるのは、あと五、六時間は優に掛かるだろうか。
ヤンフィは、ふむ、と頷いて、煌夜が目覚めるまでどうやって暇を潰そうかとぼんやり考えた。