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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
外伝 ディド
87/113

閑話ⅩIII ディドとのデート

 瞼に当たる淡い日差しに、微睡んでいた意識がゆっくりと浮上してくる。

 柔らかく温かい何かに包まれているような幸福感と、幾日かぶりの穏やかで自然な目覚め。鼻孔をくすぐる格調高いミントのような香りは、満足感と安心感を同時に与えてくれている。

 煌夜は夢心地のまま、静かに寝返りを打って、そろそろ起きるべきかと思考した。


「――ん、ぅ」


 瞬間、煌夜のすぐ傍、と言うよりは、ほとんど耳元で、やたらと艶めかしい女性の喘ぎ声が聞こえてくる。それと同時に、耳たぶを微かな吐息がくすぐった。


 煌夜は、ビクリと身体を震わせてから、金縛りに遭ったかのように全身を硬直させる。

 たゆたうような浮遊感に満たされていた脳内は一瞬にして冷静になり、寝起きとは思えないくらい頭が活性化した。


「んぁ――ぅ、っ――」


 恐る恐ると身動ぎすると、ギュッと何かに強く羽交い絞めされているのが分かった。これは物理的な拘束だ。しかも柔らかく、温かく、まるで人肌のような――


(……いや、抱き締められてるのは間違いないんだが……さっきの感触って……)


 煌夜は、身動ぎした際に触れた指先の感覚を思い返しながら、ゴクリと唾を呑んだ。寝返りを打った際に感じた感触は、明らかに素肌だった。


(……俺、昨日の夜は、独りでベッドに入ったよな? うん、入った。それは間違いない)


 夜中にトイレに起きた事実はない。寝ぼけて誰か別のベッドに入った記憶もない。

 ならば、もし万が一このベッドに誰がどんな状況で居ても、煌夜に落ち度はない。


 そんな若干冷静でない論法で自らを納得させて、煌夜は状況を確認すべく、カッと瞳を見開く。

 すると、煌夜の目に飛び込んできたのは、真っ白い素肌だった。

 思わず言葉を失うほど美しい象牙色の柔肌が、煌夜の眼前に広がっている。ちなみに、視線を下げた際に一瞬、形の好い胸の膨らみと、何も穿いていない下半身が見えたが、咄嗟に眼球を動かして視線を逸らした。


「……ディ、ディド、さん?」


 果たして、煌夜が寝ていたベッドには、全裸のディドが一緒になって寝ていたのである。

 しかもディドは、煌夜の頭部をその柔らかく美しい胸に掻き抱いており、耳元に顔を寄せて幸せそうに寝息を立てている。その寝顔は、普段見せている冷徹な無表情からは想像できないほど可愛らしい表情で、起こすのが心苦しくなるほど天使の寝顔だった。


 さて、この光景だが、はた目から見れば、まさに恋人との情事の末である。

 昨晩はお楽しみでしたね、なんて冗談を言われても弁明出来ない状況だろう。

 まぁ、そんな事実は存在しないし、誰に弁明するのか不明だが――ともかく、童貞の煌夜からすると、この状況は刺激が強過ぎる。


「…………ディド、起きて、欲しい」

「――ぅ? ふ、っ――んん?」


 煌夜は、ふぅ、と静かに吐息を漏らしてから、眼を閉じたまま強引に身体を起こす。それでも全く腕を離さず、ディドは起き上がった煌夜を胸に埋めたまま、幸せそうな声を上げた。

 プニプニとした柔らかく温かい感触を頬に受けつつ、脳みそが蕩けそうになる香しい体臭を嗅ぎながらも、煌夜は悟りを開いた仏僧の如き無心で、ディドの腕を引き剥がした。


「んぅ? ――――あ、ら? 朝、かしら?」


 引き剥がしたディドは、ポテン、とベッドに寝転がり、ようやく目覚めた。しかし、あまり朝が強くはないのか、寝ぼけ眼で胡乱な表情を浮かべている。

 煌夜は片目を薄く開いて、顔を背けつつディドに毛布を投げ掛けた。

 けれどディドは毛布を受け取らず、不思議そうな表情で煌夜に上目遣いを向けてきた。全裸の自覚がないのか、身体を隠す素振りはなく、ベッドの上でちょこんと女の子座りした姿勢である。


「おはよう、ディド……もう朝だから、とりあえず服を着てくれ」


 煌夜はディドに背を向けて、寝室の中を見渡す。ディドの服はどこに、と探すが、下着も含めてどこにも服は置かれていなかった。


「…………」

「……ん、あれ? あ、あの、ディド……さん? 服、着てくれませんか?」


 ディドからの反応がないので、煌夜はもう一度、今度は丁寧な口調でお願いをする。けれどそれには軽い沈黙だけが返された。

 しばしそのまま無言の時間が流れた後、やっとガサゴソと動く気配がした。

 煌夜は、ようやく着替えてくれるのか、と安堵するが、どうもその気配は着替えている気配ではなかった。これでは迂闊に振り返れない。


 煌夜は致し方ないと、念のため目を瞑り、ディドに背を向けて立ち尽くす。それから数分経ったところで、ディドが反省したような声音で反応した。


「……おはようございます、コウヤ様。見苦しい姿をお見せしてしまい、大変失礼いたしましたわ」


 そのディドの声は寝室の入口付近から聞こえて、直後に、ドアが開く音がした。

 不思議に思って振り返ると、ちょうどディドが寝室から出ていくところだった。ちなみに、チラと見えた背中は、先ほどと何ら変わらず全裸である。


「――クレウサ、ワタクシの着替えを準備なさい」

「ディド姉様、おはようござい――――はぁ、またですか? せめて何か羽織って下さい。いくらこの部屋が上等な部類の部屋とはいえ、人族が運営する宿屋ですよ? いまは私とコウヤ様以外いないとしても、突然、部外者が現れないとも限らないのですから、はしたない恰好で不用意に歩き回るのは――」

「――分かっているわよ。お説教は結構かしら。次からはそうします。それで? 着替えの準備は?」

「はぁ……着替えは、こちらに用意してありますので、どうぞ」


 クレウサの深い溜息と共に、リビングからそんなやり取りが聞こえてきた。

 なるほど。どうやらそのやり取りから推測するに、ディドは普段、裸族のようだ。割と厄介である。朝からヤンフィが茶化してくるに決まっている。


 煌夜も、クレウサほどではないが溜息を漏らしてから、ふと台詞の一部に引っ掛かりを覚えた。


(……ん? いまは、クレウサと俺以外いない? どういうことだ? ヤンフィは……寝室には居ないな)


 昨夜を思い返すが、普通にヤンフィとは行動を共にして――いや、そもそもよくよく考えると、逆にディドが別行動をしていたはずだ。いつの間に戻ってきたのか。

 煌夜は寝起きで頭がイマイチ覚醒していないことに気付いて、混乱する思考をとりあえず落ち着ける。

 深呼吸してから、記憶を掘り返すように昨日を振り返った。


 昨日は、今後の方針を決めた後、ディドが別行動するという話になり、夕食前に宿屋から出て行ったのを覚えている。

 その後、特に何事もなくクレウサ、ヤンフィと一緒に夕食を食べて、この部屋に戻ってきた。

 部屋に戻ってきた後は、クレウサが『ロビーで番をしております』とか言って、部屋を出て行った。一方で、ヤンフィは『考え事をする』と、部屋のバルコニーで何やら瞑想を始めていた。

 手持無沙汰になった煌夜は、夜も更けてきたので、寝ようと決めて就寝した。


 そこから記憶がない――ということは、つまり寝ている間に、ディドが帰ってきて、代わりにヤンフィが居なくなったのだろうか。


「……とりあえず、寝てる間になんかあったのは間違いないから、聞くか」


 煌夜はそこまで思考を整理したところで、そろそろディドが服を着た頃合いだろうと、寝室から恐る恐るとリビングに顔を出す。

 するとそこには、貴族の令嬢にしか見えないフレアースカートのドレス姿に着替えたディドと、令嬢を護衛する剣士にしか思えない男装の麗人クレウサが立っていた。


「うぉ――神秘的な光景だな」


 窓から差し込む朝日を浴びて並び立つ二人の光景は、まさに一枚の名画のようだった。タイトルを付けるならば、『騎士と王女』とかだろう。

 煌夜は感動の台詞を漏らしてから、改めてディドたちを眺めた。


 ディドは相変わらずの金髪縦ロールと、社交界の場で着るような豪奢なドレス姿を身に纏い、毅然と胸を張って立っている。醸し出す雰囲気と気丈な表情が、思わず平伏したくなるほど王女然としている。

 かたやクレウサは、長い黒髪を一本縛り、いわゆるポニーテールにしており、ピンと背筋を伸ばして立っている。凛々しい顔立ちがその立ち姿と合っていて、いかにもクールビューティーな護衛剣士だ。


「……おっと、見惚れてないで……」


 煌夜はディドが全裸でないことに安堵の息を吐いてから、そんな独り言を呟いて、一応、寝室のドアをノックしたうえで、リビングに足を踏み入れた。

 煌夜が軽くノックをすると、その音にディドが過剰なまでに素早く反応して、呆れ顔のクレウサが遅れて顔を向けてくる。


「あら、コウヤ様――改めて、おはようございますかしら? 先ほどは、ワタクシの貧相な身体をお見せしてしまい、不快な思いをさせて、申し訳ありませんでしたわ」

「あ、いや、不快とかないし……そもそも、貧相ってアレのどこが――ごほん。俺は気にしてないから、大丈夫だよ……まぁ、最低限、下着だけでは着て欲しいかな?」

「――畏まりましたわ」


 ガバっと頭を下げて謝罪するディドに、煌夜は恐縮して首を横に振った。

 不快だから顔を背けた訳ではないし、そもそもディドの身体は貧相ではない。そんな本音を力説しようとして、先ほどの完璧なプロポーションが脳裏に浮かび、煌夜は少し赤面した。


「……おはようございます、コウヤ様。朝から眼福だったでしょう?」


 そんな煌夜の心の機微を察したか、クレウサがサラリと嫌味じみた言い回しでそんなことを言ってくる。それを否定することはないが、煌夜は何も答えられず押し黙った。


「クレウサ、失礼ですわ。コウヤ様、お気を悪くしないで下さいませ」

「……ちなみに、ディド姉様。本気でディド姉様の裸を貧相と思う輩が居たら、ソイツは美醜の感覚が狂っていますよ? コウヤ様を含めて、ほとんどの殿方からすれば、ディド姉様の裸を見る栄誉は、眼福以外の何物でもありませんから」


 ギラリと睨み付けるディドに、しかし一歩も引かず、呆れた顔のままクレウサは補足していた。そのやり取りは、天見園で煌夜が兄弟たちとじゃれあう空気と一緒だった。

 二人とも、外見は全然似ていないが、間違いなく姉妹なのだろう。そんなほっこりとした優しい空気に心が癒される。


 ふとその時、二人のそんな穏やかな空気に気が抜けたか、煌夜のお腹の虫が、ぐー、と声を上げる。途端、臣下が君主にそうするように自然な動作で、ディドが恭しくその場に跪いた。


「――失礼いたしましたわ、コウヤ様。今すぐお食事をご用意いたしますので、しばらくお待ち頂けますかしら?」

「あ、いや、大丈夫……つか、ディドが頭下げる必要ないって……ところで、食事より先にさ、聞きたいことがあるんだけど?」

「はい。何なりとワタクシでお答えいたしますかしら」


 いちいち仰々しいディドに目を眇めつつ、煌夜は口を開いた。


「えと……ディドって、昨日、ベクラルに出発してなかったっけ? 昨日の今日だから、戻るのが随分早い気がするけど……まさか、なんか問題でも起きたの? ヤンフィも見当たらないし……」


 部屋の中をくまなく見渡すが、ヤンフィの姿はどこにもなかった。いままで煌夜の傍を離れたことのないヤンフィが居ないのは、ひどく嫌な予感がする。

 しかしそんな煌夜の心配を、ディドは柔らかい笑みを浮かべて否定する。


「問題、と言えば問題かしら? ワタクシ、昨日出発してすぐ、タニアとセレナに合流できましたわ――けれど、思っていた以上にタニアが狂っていて、ワタクシと会話が成立しませんでしたわ。そのせいでワタクシ、次元跳躍を使って、ヤンフィ様に助けを求めに戻ってきたかしら」

「…………ああ、なるほど」


 ディドの説明を聴いた瞬間、煌夜はまるで見てきたようにその光景を理解できた。


 煌夜の脳裏に、タニアと初めて出会った時のやり取りが思い浮かぶ。初対面のタニアのことだ、きっと一方的にディドに敵対してきたに違いない。

 うんうん、と納得する煌夜を見て、ディドは続けた。


「ワタクシとしては、このままタニアと決別すべきと提言したのですけれど……ヤンフィ様には却下されましたわ。それで仕方なしに、ふたたびタニアのところに次元跳躍したのですけれど、どうやらタニアたちは、ヤンフィ様から託された【魔神召喚】の破壊を完了していなかったそうですわ。それで、お怒りになったヤンフィ様が、同行して対応することになったのですわ」

「…………ああ、なるほど」


 煌夜はまたもや瞬時に、その情景とやり取りが頭に浮かび、状況を理解出来た。ディドの語る内容は、いかにもタニアらしかった。


「ただ、ヤンフィ様がタニアたちと同行すると、コウヤ様を護る者が居なくなってしまうので、ワタクシが戻ってきたかしら」

「理解したよ――タニアの暴走は前からだけど、そっか、ディドにも噛み付いたのか……」

「……差し出がましい提言と思いますけれど、タニアのような狂った獣族は、ここで切り捨てるべきではないかしら? タニアを連れていると、いずれコウヤ様に災いが降り掛かるのではないかしら」


 煌夜が眉根を寄せて難しい顔をした時、ディドが真剣な表情でそんな提案を口にした。

 煌夜は苦笑して、気持ちは分かる、と頷いたが、続く言葉で優しく否定した。あんな暴走娘だが、ヤンフィや煌夜の言うことには従ってくれるし、何よりこの世界のことに誰よりも詳しい。


「ディドの言いたいことは分かる。けど、大丈夫だよ。それほど長く一緒に旅したわけじゃないけど、タニアは信用できる。それに色んなとこで活躍してくれるし、この世界の情勢に詳しい……だいたいさ、タニアが居ようと居なかろうと、恐らく俺に降り掛かる不運の頻度は変わらないよ」


 ハハハ、と煌夜は軽く自嘲する。

 実際、タニアと別行動していてさえ、とんでもないトラブル続きだったのだ。むしろタニアのような強者が傍に居てくれた方が安心するというものである。

 そんな煌夜の台詞に、ディドは些か納得いかない顔を浮かべたが、言葉には出さず、畏まりましたと頭を下げてくれた。そして優雅な仕草でスッと立ち上がり、自然な所作で煌夜の手を取る。


「それではコウヤ様、朝食をご一緒して頂けないかしら? ワタクシも寝起きで、何か口にしたい気分ですわ」

「あ――ああ、もちろん。じゃあ、食堂に行こう。クレウサも来るよね?」

「ありがとうございます、コウヤ様――クレウサ、貴女も付いてきなさい」

「……承知いたしました、ディド姉様」


 煌夜はディドに手を引かれるまま、部屋の外に出た。それに遅れて、後ろからクレウサも付いてくる。

 煌夜たちは取り敢えず、朝食を食べる為、宿屋の上階にある食堂に向かった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 朝食を食べ終えて、煌夜たちは一旦、借りている部屋に戻ってくる。

 まだ時刻は十時を少し過ぎたくらいで、さてこれから何をしようかと悩みどころである。


「……ちなみにさ、ヤンフィから何か指示って出てたりするの?」


 煌夜はソファに座って、当然のように隣の席を確保したディドに問い掛ける。


「ええ、命を懸けてコウヤ様を護衛するよう、付きっきりで尽くすように、ヤンフィ様からは申し伝えられておりますわ」

「……いや、命まで懸ける必要はないし、そもそも危険なことしないから護衛も必要ないとは思うけど……ほかには?」

「コウヤ様は相変わらずお優しい――もう一つ、本日の夜にヤンフィ様を迎えに来るように、と指示頂いておりますわ。けれど、それまでの間は、任務を言い渡されてはおりません。なので、コウヤ様と一緒に居られるかしら」

「あ、そ、そう…………えと、じゃあ、今日の夜には、ヤンフィたちと合流できるのか」


 それなら今日一日で支度を整えて、アベリンに戻る準備をしておかなければならないか――煌夜は、聞いておいて良かった、とソファから腰を上げる。

 しかし、その煌夜の腕にそっと手を添えて、ディドが首を横に振った。


「結果としては合流するやも知れませんけれど、ヤンフィ様は、コウヤ様を連れて来い、とは仰らなかったので、ワタクシだけで行って参りますわ。状況に依っては、此方の部屋までヤンフィ様たちを連れて戻ってきますかしら」

「え……それ、二度手間じゃないの? だって、いまこのクダラークは閉鎖されてるだろ? ここからじゃ、アベリンに戻れないよ?」

「それは理解しておりますわ。けれど、仮にコウヤ様をお連れして、まだタニアたちが任務を終わらせていなかった場合、それこそ無駄足になってしまいますわ」

「まあ、それもそうだけど……ヤンフィたちのことだから、【魔神召喚】はもう壊せてると思うんだよなぁ……だから、すぐにでも移動できるよう準備しておいたほうが良いんじゃないか?」


 煌夜は自分の台詞に、うむ、と頷いて、どう転んでも動けるよう心と体の準備をしておこうと考えた。どうせ今日一日、やることはないのだ。ゆっくりと支度をするのが賢明だろう。

 すると、ディドが柔らかな笑みを浮かべたまま、それでは、と口を開いた。


「コウヤ様、街に行くのであれば、ワタクシもご一緒させて下さいませ。こんなワタクシでも、護衛の役割くらいは果たせますわ」

「ああ、いいよ。てか、むしろお願いしたい――クレウサもどう?」


 煌夜は、もちろんだ、とサムズアップしながら頷き、部屋の入口で仁王立ちしている黒髪の美剣士クレウサに視線を向ける。

 その瞬間――ゾワリと、ディドから殺気にも似た寒気が発せられた。

 なんだなんだ、と慌ててディドを見るが、ディドは普段通りの無表情でクレウサを見詰めている。

 傍目から見ると別段何もないようだが、クレウサとディドの間に流れる空気は、非常に重く鋭いものだった。何やら声も出さずにアイコンタクトで会話している様子だ。


「…………はぁ、分かっております、ディド姉様」


 短い沈黙の後、ふとクレウサが長い溜息を漏らしながら、煌夜に頭を下げる。


「コウヤ様、お誘いは有難いですけど、私の装備は充分に揃っておりますし、必要なものもございません。ご一緒出来ないのは残念ですけど、ディド姉様とお二人で楽しんできてください」

「――コウヤ様、クレウサは荷物番をしているそうですわ」


 クレウサの台詞に、ディドが間髪入れずに補足する。二人の間で何がしかのやり取りがあり、どうやらそれが結論のようだ。

 煌夜はその決定に何も口を挟まず、ああそう、と納得する。


「まぁ、分かったよ。んじゃあ、えーと……とりあえず、ディドは何か買いたいものある?」

「ワタクシ、予備の衣装を買いたいですわ。コウヤ様は、どのような衣装がお好みかしら?」

「ディドなら何着ても綺麗だと思うけど――――お、俺も服は欲しいかな」


 煌夜は意識せずサラリと歯の浮くような台詞を吐いて、直後、自分の台詞に赤面する。

 一方、ディドは嬉しそうな微笑を浮かべて、ありがとうございます、とスカートの裾をチョコンと摘んで頭を下げていた。いちいち優美な所作だ。


「――大通りを抜けた路地裏のところに、雰囲気の好さそうな仕立て屋がありましたわ。コウヤ様、其方までお付き合い頂けますかしら?」

「……ああ、いいよ。じゃあ、その仕立て屋に行こうか」

「ありがとうございますわ」


 煌夜は照れ隠しするように、ごほん、と咳払いをしてから、自然に手を繋いでくるディドに腕を引かれるまま部屋を出た。

 チラと後ろを振り返ると、クレウサが頭を下げた姿勢で、ディドと煌夜を見送っていた。


 宿屋から大通りに出ると、煌夜とディドは、それなりの喧騒に迎えられた。昨日同様に天気が良いこともあってか、よそ見して歩くと通行人と肩がぶつかる程度には、大通りは混雑している。


 そんな騒がしい中を、煌夜とディドは恋人のように腕を組みながら歩いた。


 目的の仕立て屋は、歓楽街の路地裏にあるようで、煌夜たちが泊まっている宿屋からは随分と遠いようだった。

 宿屋を出てから十数分歩いても、まだまだ着かない。


「…………なぁ、ディド。その……悪いけどさ。凄く目立つから、腕を解いてくれると、ありがたいんですが……」


 ふと煌夜はそんな提案を口にする。

 ここまで我慢してきたが、流石にもうこれ以上、周囲から浴びせられる好奇の視線と殺意混じりの嫉妬には耐えられなかった。


「腕を組んでいた方が安全ですわ。これに何か不都合でもありますかしら?」


 しかし煌夜のその提案は、ディドに不思議そうに首を傾げられて、柔らかく拒絶された。それに対して煌夜は、困り顔のまま主張する。


「不都合っちゃあ、不都合かな……その、周囲からの視線が、痛くて……」

 

 宿屋から出て以降、道行く人間のほぼ全員が、煌夜と腕を組む絶世の美女――ディドの姿に目を奪われていた。そして、そんなディドと腕を絡めた平凡な煌夜を見て、アレは何者だ、と無言で訴えてくる。

 普段から注目を浴びることに慣れていない煌夜には、周囲から絶えず降り注ぐその注目は、苦痛でならなかったのだ。


「周囲の視線? ああ、この有象無象の視線かしら? 無視すれば宜しいでしょう――ただの好奇の視線ですわ」


 簡単に言うディドに、無視が出来れば苦労はない、と煌夜は苦笑した。


「……けれど、コウヤ様が、どうしても煩わしいのであれば……ワタクシ、周囲の認識を阻害いたしますけれど、如何いたしますか?」


 煌夜の苦笑を見て、ディドが仕方ないとそんなことを口にする。同時に、なぜか腕にいっそう強く身体を押し当ててきて、女性特有の膨らみを肘に当ててくる。

 煌夜は照れながらも、ディドに顔を向けて、どういうこと、と質問した。


「幻視の魔術を行使すれば、ワタクシの姿だけ透明に出来ますわ。コウヤ様独りであれば、ここまで注目はされないと思いますけれど?」

「え、あ……なるほど。それはありがたい、けど……ディドに何か負担とか、ない? 大丈夫?」

「その優しい言葉を頂けるだけで幸せですわ――ええ、問題ないかしら。ワタクシを隠す程度の幻視であれば、それほど魔力を消費しないかしら。無論、コウヤ様にも影響を与えることもありませんわ」

「あ、それじゃあ、頼むよ」


 畏まりました、とディドは微笑み、囁くような詠唱で魔術を展開する。途端、煌夜の視界からもディドの姿が掻き消える。

 煌夜は驚いてチラチラと周囲を見渡すが、見事に何の形跡も見えず、ディドは見えなくなった。


「コウヤ様、あまりキョロキョロなさると不審に思われますわよ。いま周囲からは、コウヤ様がお独りで歩いているように見えてるかしら。堂々として下さいませ」


 耳元でディドの声が聞こえた。そのうえで、さらに強く腕が抱き締められる感覚と、煌夜の肩に頭が載ったような感触がある。


「……ディ、ディド? なんか、さっきよりも近い気がするけど……」

「ええ。コウヤ様にもワタクシの姿が見えないので、ご安心頂くために、より密着いたしましたわ。けれど、これなら人目を気にしないで歩けますから、お許しを」


 ディドはどこか甘えたような声音で言って、自然な力加減で煌夜を先導してくれる。

 周囲から見えていないとはいえ、恋人にしてもくっつき過ぎの密着度で歩いている事実を想像すると、煌夜は照れ臭くて仕方なかった。

 ちなみに、姿が見えない分、身体の感触が強調されてしまい、割と落ち着かない状況でもあった。


 そうして煌夜は、傍目から見ると独りで、実際はディドと腕を組んで、目的の仕立て屋に向かう。

 大通りを抜けて、歓楽街に入った後、街の外側に向かいつつ、路地裏をいくつか進む。

 街の構造を把握していない煌夜では、どこをどう進んでいるのかもはや判らなくなっていたが、ディドは迷わず目的地まで案内してくれた。


「此方、ですわ。この奥に『王室御用達の職人常駐の店』が――ありましたわ」

「……ここ?」

「ええ、此方ですわ」


 宿屋から歩くこと、体感で三十分弱。

 路地裏の奥、行き止まりの角にひっそりと居を構えた一軒家に辿り着いた。

 その一軒家は、いかにも怪しい銀縁の看板を掲げた店舗で、入り口は木製の引き戸だった。中の様子は分からないが、人の声は聞こえず、正直営業しているか定かではない。

 一見して、そこが服を扱っている店には見えず、煌夜は立ち入るのを躊躇した。

 しかし、ディドは何ら迷うことなく幻視の魔術を解いてから、優雅な所作で扉を開ける。


「いらっしゃいませ――あら、お綺麗な方」 


 中に入ると、外の怪しげな雰囲気とは一転して、爽やかな挨拶で出迎えられた。


 店内には、割烹着に身を包んだ愛想の良い女将さんが接客しており、入ってきたディドに柔和な笑みを浮かべている。


「――らっしゃい」


 そんな女将さんの後ろから、そっけない挨拶が聞こえる。

 見れば、店の奥には木製のテーブルがあり、そこで布地を広げて何やら作業している少女がいた。

 少女は、ハーフパンツに半そで、エプロン姿をしており、一瞬だけディドと煌夜を見たが、すぐさま視線を手元に戻して作業を続けていた。


「何かお探しですか? それとも、お召し物の修繕ですか? ウチは王室御用達の職人が居りますので、どんな仕立てもできますよ?」


 店内を眺める無表情のディドに、女将さんはにこやかながらも強気な空気で声をかけてくる。その印象は関西のおばちゃんを彷彿とさせた。

 煌夜は、薄暗い店内をグルリと見渡した。

 店内には、女将さんと作業をしている少女だけで、客と言える人間は煌夜とディドだけだ。

 中はおよそ三十畳の広さがあり、服を展示する人形が五体と、棚に古着と布地が並んでいるだけで、広々とした贅沢な間取りをしていた。


(……なるほど、仕立て屋、ねぇ)


 ディドの言葉通り、ここは仕立て――いわゆるオーダーメイドを専門としている店のようだ。勝手にユ○クロのような店を想像していたが、それは思い違いだったらしい。

 奥で作業している少女が職人のようで、今まさに布地を裁断して作業している。


「ワタクシが着ているこの衣装と、似た衣装は在庫あるかしら?」

「そちら、ですか――――ちょっと、失礼します」


 煌夜が店内を物珍しげに見ていると、ディドが女将さんに要望を出していた。

 女将さんはディドの要望を受けて、ドレスを上から下までジックリと見分している。スカートの裾をめくったり、胸元の素材や腕回り、胴回りなどを細かにチェックしている。

 それを横目にしながら、煌夜は男物の衣装がないかを確認する。


「――このタイプの衣装でしたら、ご用意できます……ただ、多少動き難くなっても宜しいでしょうか?」

「ええ、構いませんわ。値段も気にしませんので、此方で最高の品を提供下さいませ」

「かしこまりました。少々お待ちください」


 煌夜が物色しているうちに、ディドが何やらセレブな交渉を取りまとめていた。

 まぁ、資金に関してはヤンフィから潤沢に預かっているので、確かに気にしなくて問題はないが、その台詞が全く嫌味なく聴こえるのが素晴らしい。まさにザ・上流階級の会話である。


「あ、これ、ダメージジーンズ……じゃないけど、似た素材だな」


 ちょうど気に入った古着を発見して、煌夜は、試着室はどこかな、と店内を改めて見渡した。すると、テーブルで作業していた少女とバッチリと視線が合った。


「……これ穿きたいんだけど、試着室ある?」

「ッ!? うぇ!? ア、アンタ、それ、統一言語(オールラング)!?」


 煌夜が軽い調子で声をかけた時、少女は驚愕して絶叫した。慌てて手元にある大きなハサミを構えて、ガタガタと震え出す。

 煌夜は、しまった、と今更ながらに口元を押さえる。まさかここでそんな反応をされるとは想定していなかった。


「え、え……統一言語を扱える、ってことは……ア、ンタ……魔王属(ロード)、なの!?」


 震える声でそう問う少女に、煌夜はどうしようと本気で困る。タニアのようにいきなり攻撃してこないのはありがたいが、完全に警戒されてしまった。


「……職人のお嬢さん、勘違いしないで欲しいかしら。コウヤ様は、魔王属ではなく勇者かしら」


 その時、ディドが横から意味不明なことを言い放つ。どうやら助け船のつもりらしいが、煌夜には意味が分からない説明だった。

 けれど、煌夜には意味が分からないが、少女には理解できる理由のようだ。

 ディドの台詞にいっそう驚き目を丸くするも、途端に恐怖の色は薄れて、好奇の視線で煌夜を眺めてくる。そんな少女に向かって、ディドが力強く頷いた。


「――此方のコウヤ様は、世界を救う勇者ですわ。なので、統一言語(オールラング)を扱えます。ちなみにワタクシは天族かしら」

「えっ!? じゃ、じゃあ、本当に……伝説の、()()()()()、様なの!?」

「ええ。信じ難いのも無理からぬ話かも知れませんけれど、事実は揺るがないかしら」


 ディドは堂々と胸を張って出鱈目を口走る。しかし、その台詞を純真な少女は、一から十まで信じたようだ。少女の瞳が尊いものを見るように眇められた。

 いや、まあ、面倒ごとに発展しなければ、勇者でも魔王でもどっちでも煌夜的には構わないが――ともかく、煌夜はディドの出鱈目に乗ることにする。


「……ああ、でも、内緒にしておいてくれよ。いまはお忍びなんだ」

「あ、か、畏まりました――けど、あの……ここは王室御用達の仕立て屋ですが、勇者様が装備なさるような防御力の高い装備は、ご用意できません……よ?」


 少女は恭しく頭を下げつつ、一旦作業している手を止めて、煌夜に向き直る。


「それは大丈夫。純粋に服が欲しいだけだし……あ、でさ。試着室ってあるかな?」

「――試着するなら、奥へどうぞ」


 煌夜の言葉に、少女が不思議そうに眉根を寄せていたが、とりあえず納得したようだ。頷いてから、女将さんが消えた店内の奥を指差した。

 煌夜は、ありがとう、とお礼を口にしてから、奥に進む。


「あら? お姫様のお付きの方……何の用でしょうか?」


 店内の奥には、所狭しと荷物が置かれた倉庫があり、女将さんが何かを探すように在庫を漁っていた。恐らく、ディドが先ほど依頼した衣装でも探しているのだろう。


「……試着しても、いいですか?」

「ん? あ、ええ。試着でしたら、この部屋でお好きにどうぞ? ウチは見ないようにしますね」


 煌夜は恐る恐ると声を掛けたが、女将さんは先ほどの少女のような反応をすることはなかった。一瞬だけ不思議そうに首を傾げたが、すぐさま探し物に集中する。

 煌夜は、ふぅ、と安堵の息を吐いてから、倉庫を見渡す。

 倉庫の隅には、大型の姿見が置かれていた。その手前には天井付近まで荷物が置かれており、ちょうどその陰になっている部分で着替えれば、試着室の代わりになるだろう。

 ――とはいえ、別に裸を見られようと困ることはないし、そもそも女将さんはそんなことを気にしていない様子だ。

 煌夜は恥ずかしがる必要もなく、手に取ったズボンを試着してみる。


「着心地は悪くないし、フィット感もいいな……うん。動き易いし」


 煌夜は見繕ったズボン全部を試着して、うち二着ほどの購入を決めた。

 それらはカーキ色をした長ズボンで、素材が良く分からないが、伸縮性があり丈夫そうだった。ところどころ破けているのがダメージパンツっぽくて、好印象である。


 そうして、試着して購入を決めたズボンを手に、煌夜は店内に戻ってくる。すると、ディドと女将さんが同時に視線を向けてきた。

 一瞬だけその四つの瞳にたじろぐが、ごほん、と咳払いしてから、女将さんの元に向かう。


「ディドは決まったか? あ、俺はこれを買います」

「ええ。めぼしい衣装は見繕いましたけれど、寸法の調整と修繕に、多少時間が欲しいとのことですので、後で取りに来ることにしましたわ。コウヤ様もご一緒頂けますかしら?」


 煌夜がズボンを女将さんに手渡すと、ディドがそんなことを問いながら、どうかしら、と首を傾げてくる。別段それを断る理由もないし、そもそも今日一日用事もない。

 煌夜はディドに、ああいいよ、と二つ返事で了解する。


「……お付きの方は、これで宜しいのですか?」


 女将さんが手渡されたズボンを丁寧に畳み直しながら、不思議そうな顔で問い掛けてきた。

 煌夜は、何が、と疑問符を浮かべつつ、これで大丈夫とハッキリと頷いた。


「この商品、だいぶ生地が傷んでいますから、修繕いたしますよ? その分、別途、費用は頂戴いたしますが……」

「……え? あ、これ、こういうデザインじゃないの?」

「当然です。こちらは古着です。珍しい生地ですので、もし素材を使用する為にお買い上げ頂いているのであれば、このままお渡しします……ちなみに、修繕する場合、まとめて購入頂けるのであれば、修繕費は一着分で仕立てましょう」


 女将さんの言葉を聞いて、煌夜はそれをダメージジーンズと思った自らを恥じた。純粋に、着古して解れた古着だったらしい。

 何とも言えない表情で照れている煌夜に、ディドが微笑ましい視線を向けてくる。


「――修繕、お願いします」

「かしこまりました。それでは、お姫様の衣装と一緒にお渡しいたします」


 女将さんは満面の笑みで頷いた。煌夜も、宜しくお願いします、と頭を下げる。


「本日は、お買い上げありがとうございます。ウチは前払いとなります。合計で……そうですね、今回は区切り良く、アドニス金貨一枚でいかがでしょうか?」

「承知いたしましたわ」


 女将さんが提示した金額を、ディドはさして躊躇せず支払う。

 金額の多寡がいまいちすぐに計算できない煌夜は、それがどれほど高額か理解できず、とりあえずディドに任せた。


「――衣装に関しては、こちらで責任を持って仕立てておきますので、六時間ほど経ってから、またご来店下さい」


 そうして無事に購入が終わった後、煌夜たちは女将さんに見送られながら路地裏に出た。

 

 さて、これで当初の目的は半ば達成したわけだが、どうしようか、と煌夜は空を仰いだ。

 宿屋を出るときには、いつでも行動できるよう旅の準備をしようと意気込んでいたが、よくよく考えれば、ヤンフィのアドバイスがないと、何を準備するべきか、煌夜ではチンプンカンプンである。

 だいたいにして、煌夜自身に戦闘力は皆無だ。

 それ故に、ディドやタニア、ヤンフィの足手纏いにならないように振舞うことこそが肝要で、何ら準備など必要ない。

 強いて言えば、身体を鍛えることが準備だろうか――それこそ今更だが。


「コウヤ様。この後、ご予定がなければ、ワタクシと――街を散策して頂けないかしら?」


 ふと、傍らのディドが恐る恐るとそんなことを口にした。その口調はディドには珍しく、非常に弱気だった。

 街を散策――鈍い煌夜でも、それが遠回しのデートの誘いであることは分かった。

 煌夜はその言い回しに苦笑しながら、ディドの弱気に対して驚いた。いつも積極的なアプローチをするのに、この反応は恋愛素人の煌夜から見ても、初心な反応で可愛らしい。


「ああ、いいよ……よくよく考えれば、旅の準備するって言っても、具体的に何が必要か、俺じゃイマイチ分からないから、何か思いついたら言うよ。あ、けど、散策って言われても、俺もこの街は詳しくない――」

「――ご安心下さいませ。僭越ながら、ワタクシが案内しますかしら。実のところ、いろいろと観たいところがありますの」


 力強く情熱的な瞳を向けてくるディドに気圧されつつ、煌夜は、断る理由もないし、と頷いた。


「ああ、分かった。別にいいよ。んじゃあ、次はどこに?」

「此方ですわ――」


 煌夜の了解にホッと安堵すると、直後、ディドは眩いばかりの笑みを見せて、グイッと強引に腕を引いて歩き出した。その様子は、普段の冷静沈着なお姉さん然としたディドではなく、お祭りではしゃぐ子供のようだ。

 ディドは嬉しさと楽しさを表情に溢れさせて、まるで焦るような足取りで煌夜を引っ張る。煌夜はそれに逆らわず、仕方ないな、と苦笑する。


『――煌夜お兄ちゃん! 何してるの? 早く行こうよ!』


 ふいにその時、ディドの喜ぶ顔と、この世界のどこかに居るサラの顔が重なって見えた。


 夏祭りの時に見たサラの笑顔、煌夜を呼ぶ声――それが唐突に脳裏に浮かび、思わずディドの腕をグイと引っ張っていた。


「……え、コウヤ様? ど、どうかいたしましたかしら?」

「あ――いや、えと……何でもないよ。ごめん」


 腕を引かれて不思議そうな表情のディドに、煌夜は慌てて平静を装った。引いた腕を離して、何でもないとジェスチャーする。

 そんな煌夜に驚きつつも、ディドは何も聞かずに、今度はゆっくりとした足取りで歩き出す。


(……ここのところ怒涛の展開だったから、少し気が抜けちまったけど……そもそもまだ何の手掛かりも見付けられてないんだよな……)


 煌夜はディドに引かれるまま歩きながら、静かに反省していた。束の間の安息に気持ちが緩み過ぎていて、当初の目的を蔑ろにしていたようだ。

 煌夜の使命は、天見竜也、谷地虎太朗、月ヶ瀬サラを見つけ出すこと――その目的を再認識してから、申し訳なさそうにディドにお願いした。


「ディド……その……付き合うって言った矢先に、悪いんだけど……冒険者ギルドに、寄りたいんだ。そっちに先に行っていいかな? 勿論、その後だったら、散策は付き合うよ……ちょっと、情報収集したいんだ」


 煌夜は遠慮がちに、しかし決して譲らぬ思いでそんな提案をする。

 煌夜一人でしかもたった一日で、いったい何が調べられるというのか。あまり意味がないことに時間を使うなら、ディドとのデートを満喫すべきではないのか。

 そんな甘えた考えが一瞬だけ浮かぶが、そんな世迷言は振り切って、煌夜はやれることをやろうと決めた。決めたら動く――それこそ、思い立ったが吉日である。


「情報収集、かしら? ええ、畏まりましたわ――ワタクシもご一緒で、宜しいのですよね?」

「え? あ、うん……というか、俺独りじゃ何かと不安だし……夕方になったら、服を取りに戻らないといけないから、ディドが構わないなら、一緒に居てくれると――」

「――ワタクシが、コウヤ様と別行動するという選択は存在しないかしら」


 二つ返事で即答するディドに、煌夜は少しホッとした。

 するとディドは柔和な笑みを浮かべながら、煌夜の隣に並んで当然のように腕を絡ませてきた。胸の谷間が肘に当たり、体温を感じるほど密着してくる。


「コウヤ様。ワタクシ、コウヤ様とご一緒出来れば満足ですわ。ワタクシのことなど気になさらず、コウヤ様のなさりたいことをして構わないかしら」


 ディドはそう呟きながら、スゥ――と、瞬く間にその姿を透明にさせる。腕を絡ませていなければ、ディドの存在に全く気付けないほどだ。

 煌夜はそんなディドの魔術に感心すると同時に、見えないことで強く意識してしまうその柔らかい肉感に照れ臭くなった。


「……ところで、コウヤ様。情報収集、とは何をお調べになるつもりかしら?」


 ふぅ、と煌夜の耳元に温かい吐息が掛かった。思わずビクっと身体を震わせて、煌夜は赤面した顔を誤魔化すように明後日の方を向きながら言う。


「家族の手掛かりだよ……無駄かも知れないけど、リュウたちの、写真――じゃなくて、記憶紙を冒険者ギルドに配ろうと思ってさ。ついでに、リュウたちの目撃情報とか、聞き込みしようと――」


 煌夜は言いながら、捜索依頼を出しても良いな、とも考えた。

 奴隷市場で助けた子供たちを故郷に返す依頼を出した時のように、人探しが得意な冒険者に頼るのが早道ではないかと思う。

 そんな煌夜の言葉に、ディドが、ああ、と何やら納得した声を出した。


「失礼いたしましたわ。そうですわね――ワタクシ、コウヤ様の目的を失念していたかしら。それでは、冒険者ギルドに向かいましょう」


 途端、グイ、と煌夜の腕が強く引かれる。


「ちなみに、コウヤ様。そう言った事情であれば、ワタクシ、情報収集するうえで、心当たりのある場所がいくつかございますわ――任せて頂けないかしら?」


 ディドが耳元でそう呟いた。煌夜は、どういうこと、と疑問符を浮かべて聞き返す。


「コウヤ様のご家族は、当然ながら異世界人ですわよね? だとすれば、冒険者ギルドよりも、奴隷市場か治癒魔術院――もしくは、貧民区画で聞き込みをすべきと存じますわ」

「……何故に? いや、奴隷市場は判らなくはないけど、治癒魔術院とか貧民区画ってのは、何故に?」

「意思疎通が図れないからですわ――病気か呪いで喋れないと勘違いされれば、治癒魔術院に連れ込まれる場合がほとんどですし、聾唖(ろうあ)者と思われて貧民区画に差別される場合も多いかしら」


 ディドの台詞に、煌夜は眉根を寄せて首を傾げる。いまいちディドが言いたいことが理解できない。

 すると、煌夜が理解していないのを見越して、ディドが補足するように説明を続ける。


「異世界人は普通、テオゴニアで使われている『標準語(テオゴニアラング)』『東方語(イーストラング)』『西方語(ウエストラング)』のいずれも喋れないかしら。なので、言葉が通じない――コウヤ様のように統一言語(オールラング)を操れたり、ほかの特殊能力で言語理解を発現する場合が、非常に稀かしら」


 煌夜はそれでハッとする。確かに、ディドの言う通りである。

 この世界に来てすぐ、奇跡的な偶然でヤンフィに出逢わなければ、きっと煌夜も意思疎通が図れなかっただろう。

 まぁ、代償に死ぬほどの危険な目に遭ったが、結果として現状、五体満足に生きていることを思えば、煌夜は誰よりも強運だ。


「……そりゃ、そうだよな……言葉が違う異世界だもんな……なおさら急いで、リュウたちを探さないと――」

「――コウヤ様。焦っても仕方ありませんわ。逆に、言葉が通じないということは、物珍しさから何かしらの痕跡や、手掛かりを見付け易いかしら」


 慌てる煌夜の腕にその時、ディドが柔らかい胸をギュッと押し当てて、焦らないで下さいませ、と囁いてくる。


「コウヤ様のお気持ちは、重々お察しいたしますわ。けれど、いまは焦っても何も好転いたしません。それに、冷静に状況を分析しなければ、微かな手掛かりも見落とす可能性がありますわ――ワタクシも全力でお手伝いいたしますから、どうかコウヤ様独りで抱え込まないで下さいませ」


 そんなディドの言葉に頷いてから、煌夜は気持ちを落ち着けるように深呼吸をする。


「――ありがとう、ディド」


 煌夜は静かに感謝の言葉を告げて、努めて気持ちを切り替える。

 せっかくの穏やかな一日である。

 不要なストレスや不安、焦りを抱える必要はない。こういう日こそ心身ともにリフレッシュしなければ、今後の旅路で心が持たないだろう。

 だいたいのところ、煌夜がどれほど焦ろうとも、ヤンフィたちと合流しなければ、このクダラークから移動出来ないのだ。

 煌夜はディドの温もりを感じながら、冒険者ギルドに向かった。



 煌夜とディドはその後、治癒魔術院、奴隷市場と奴隷商人の待機所、貧民街のまとめ役の家などを足早に回った。

 けれど、一日掛けてあちこち調べ回った結果、残念ながら、めぼしい手掛かりは何一つ見付かりはしなかった。しかしその結果は逆に、これ以上クダラークで得られる情報がないことを示しており、つまり煌夜はいつでも出発できる心の準備が出来たのだった。

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