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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
第十章 魔神召喚陣
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第七十三話 次なる旅路に向けて

ちょい長い

 しばらく歩いていると、ふと深い森が途切れて、目の前に大きな湖が現れた。

 湖はひどく淀んだ藍色をしており、どことなく腐った臭いが漂っている。湖の広さは、見渡せる程度で、湖周は概算で4キロもないくらいだろう。対岸までは目測でおよそ1キロほど、湖の形はところどころ歪曲している楕円形をしていた。


 そんな湖の湖畔に辿り着いたとき、先導していたタニアが立ち止まり、設置図を取り出した。


「……最後の赤丸は、ここのどっかにゃ……◇があるにゃから、拠点があるはずにゃけど……」


 タニアは言い訳じみた口調をしながら、おかしいにゃぁ、と周囲を見渡して首を傾げている。

 そんなタニアを放置して、セレナが物珍し気な表情で湖面を眺めていた。その湖水に手を突っ込んで、何やら水質や水温を測っている。


「異常に魔力濃度の高い湖じゃのぅ? 源流は、聖王湖かのぅ?」


 ヤンフィは二人を横目に、湖面を強く睨み付けた。微かに揮発している湖水に含まれる瘴気、湯気の如く立ち昇る魔力が、ヤンフィの魔眼に映り込んでくる。


「……聖王湖以外に、流入するとこにゃいにゃ。にゃけど、見たとこ流入口がにゃいにゃぁ」

「これ、恐らく地下水脈で繋がってるんじゃないの? 聖王湖の水質と同じっぽいわよ?」


 タニアの回答に、セレナが振り返りながら応えた。ヤンフィは、ふむ、と納得してから、だからどうした、とタニアに話を戻す。


「で、タニアよ――次の立体魔法陣は、どこぞに在る?」


 温度の籠らないヤンフィの鋭い口調に、タニアが一瞬ビクリと耳と身体を硬直させた。叱責されている自覚があるのだろう。

 あわあわ、と焦りを見せながら、弁明の言葉を探している。


「……設置図には、この湖は記載されてないのか? それとも、この湖自体に印があるのか?」


 ヤンフィは内心で溜息を漏らしながら、態度は冷酷に、タニアを鋭い口調で責めた。


「……あ、そのにゃ……設置図に、湖の記号はあるにゃ……赤丸は、湖の近くにゃ……それがここらにゃ……」

「ほぅ? つまり?」

「…………セレナは設置図を調べるにゃ。あちし、ちょっと周辺を散策してくるにゃ」


 ヤンフィの圧力に負けた様子のタニアは、具体的な返事をせず、セレナに設置図を手渡す。そして、行動の意図も言わずに、湖畔に沿って走り出した。

 そんなタニアを見送り、キョトンとした表情で、セレナが渡された設置図に視線を落とす。

 ヤンフィは地図が読めないので、設置図を見たところでよく分からない。一方で、設置図を見ているセレナは、難しい表情を浮かべていた。


「セレナよ。どうした?」


 ヤンフィの質問に、セレナが視線を左右に向けてから、いまにも沈みそうな太陽を指差した。その仕草に釣られて、ヤンフィも沈みゆく夕焼けに視線を向けるが、特に何かあるわけではなかった。


「……方角が、違う? いや、なんか違和感が……」


 セレナは、しきりに首を傾げている。何らかヤンフィには判らない苦悩があるようだ。


 そんなセレナを尻目に、ヤンフィは湖全体に視線を巡らせて、湖面を漂う魔力の流れを眺めた。

 魔眼を凝らせば、薄く微かな瘴気と、禍々しい魔力が風に乗って漂っているのが視える。しかし、その瘴気と魔力の発生元が判らない。

 禍々しい魔力は、緩やかに湖面から立ち昇っているが、湖水に含まれているわけではなかった。一方で、瘴気は湖水に含まれているようだが、湖水が汚染されているわけでもない。湖水は、どこかで強い瘴気を帯びて、それが湖面に浮かび上がってきている様子だった。


(湖の地下に、【魔神召喚】の立体魔法陣がある可能性が高い。じゃが、だとして、どこから侵入するのかのぅ?)


 ヤンフィは注意深く周囲を見渡す。空間の亀裂がないか、時空魔術の形跡がないか探るが、いずれの形跡も見当たらない。

 ふと見ればセレナも、設置図と地形を見比べつつ、湖面を観察していた。しかしとっかかりとなるような形跡は発見できない様子だ。


 しばしヤンフィたちは、そうして湖畔を探る。すると、いつの間にか湖を一周して、タニアが戻ってきた。


「タニアよ、どうじゃった?」

「…………何も、にゃかったにゃ」


 タニアは残念そうにそう言って、お手上げとばかりに肩を竦める。しかしそんな回答は許されない。

 ヤンフィは鋭い視線を向けて、苛立った雰囲気で溜息を漏らした。その反応に、タニアがビクリと身体を震わせる。


「タニア、何もなかった――から、何じゃ? 汝がここに案内したのじゃぞ?」

「う……は、はい、にゃ……にゃけど――」

「――あっ! そういうこと!?」


 ヤンフィの呆れ声に対して、タニアは俯いておどおどとした口調で弁明を口にしようとする。その瞬間、設置図と睨めっこしていたセレナが、唐突に驚きの声を上げる。

 ヤンフィとタニアは同時に振り向き、驚いた表情で湖を見詰めるセレナに注目した。


「どうした、セレナよ?」

「ええ――あたし、ここの入口、見付けたわ」


 セレナが会心の笑みでヤンフィに頷いた。その笑みを見て、タニアは、どういうことにゃ、と喰い付いた。


「タニアって【鑑定の魔眼】があるくせに、幻想系の魔術に弱いわよね? タイヨウ戦のときも、幻惑に捕らわれてたし――」

「にゃ、にゃにを!? そんにゃことにゃい!! 言い掛かりにゃ!!」

「――いや、言い掛かりも何も……ま、そんなことで論議する気はないけどさ――ヤンフィ様。いま気付いたんですけど、湖の中央に、小島が浮いてるの、分かります?」


 タニアの文句なぞ軽くスルーしつつ、セレナが湖を指差しながら問うてくる。

 ヤンフィは指差された先に視線を向けて、湖面に何も存在しないことを確認してから、ふとセレナの言わんとしていることに気付いて、ほぅ、と感心した。

 一方、タニアはそれに気付かず、セレナを馬鹿にするように鼻で笑っている。


「にゃに言ってるにゃ? 湖には何もにゃいにゃ――見て分からにゃいか?」


 タニアが無駄に発育した胸を突き出して、腰に手を当てながら強気に告げる。その台詞を逆に苦笑し返しつつ、セレナがヤンフィに首を傾げた。

 ヤンフィは己の魔眼に魔力を篭めて、より強力な【千里眼】を発動する。すると、予想通りの光景が魔眼に浮かんだ。


「……かなり上等な【隠遁】じゃのぅ。セレナに云われるまで、気付けなかったぞ……セレナよ、よく見破れたのぅ?」


 一度でも認識してしまえば、もう見失うことはない。

 霧が晴れたようにハッキリと、ヤンフィの瞳には、湖の中央に浮かぶ小島の存在が視えていた。

 そのヤンフィの言葉に、どうよ、と薄っぺらい胸を張って、セレナがドヤ顔を浮かべる。しかし生憎、見返したい相手であるタニアは、まだ小島を発見できず、不思議そうな顔でセレナを見ていた。

 とはいえ――タニアが発見できずとも、それは仕方ないだろう。

 湖全体を包み込んでいる【隠遁】の精度は、ヤンフィの魔眼をもってしても、初見では看破できないほど素晴らしいものだ。むしろ、これに気付けたセレナをこそ誉めるべきである。


 ヤンフィはドヤ顔のセレナに満足気な笑みを向けて、いまだに小島を発見できないタニアに苦笑を浮かべた。


「タニア、【鑑定の魔眼】に魔力を集中させて、セレナの指す場所を視よ。湖全体を覆う【隠遁】の魔術が視えるじゃろ? さすれば、妾たちの視ている景色に至れるはずじゃ」

「にゃにゃ? どこにゃ? んにゃぁ?」


 ヤンフィの言葉に素直に頷き、タニアが魔眼に魔力を集中させて湖を睨め回す。


「――んにゃ? アレ、か……あ、アレにゃ!?」


 しばらくそうして湖を注視していると、ようやく発見したのか、タニアが喜びの声を上げた。ブンブンと手を振りながら、湖中央に浮かぶ小島を指差す。

 ようやくか、とヤンフィは疲れたように息を吐いた。セレナは、遅いわね、と呆れた顔をタニアに向ける。


「ぉお――本当にゃ。セレナ、お前、よくこんにゃ【隠遁】を見破れたにゃ? ヤンフィ様は当然として、セレナのくせに生意気にゃ」


 ヤンフィとセレナの視線に対して、どうしてか偉そうにタニアは胸を張った。


「タニアはもう少し、魔眼の練度を高める努力をすべきじゃのぅ。せっかく【鑑定の魔眼】と云う天稟があるのに、このままでは、宝の持ち腐れじゃ」


 ヤンフィは苦笑交じりにそう指摘して、渋い表情を浮かべるタニアに嫌味を続ける。


「そも幻想系の魔術を看破することに於いては、妾の魔眼なんぞより、汝の魔眼の方が適しておるじゃろぅに……覚醒していないことを差し引いても、妾より先に看破するのが当然じゃろぅ?」

「……ん、にゃぁ……」


 ヤンフィの嫌味半分の指摘に、タニアが申し訳なさそうにシュンと俯いた。

 実際のところ、ヤンフィの【千里眼】は、【鑑定の魔眼】のように、対象の本質を理解して本質を見抜く類の能力ではない。

【千里眼】は、あらゆる対象を見通すことが出来るだけであり、【鑑定の魔眼】とは似て非なるものだ。


 ヤンフィは俯くタニアから視線を切って、小島にはどう向かおうか、と思案する。するとその時、セレナが控えめに挙手しながら口を開く。


「あのぉ……ちなみに、ヤンフィ様……え、と……あまり関係ない話ですけど……ヤンフィ様の魔眼って、どんな魔眼なんですか?」


 セレナのその質問を受けて、ああ、とヤンフィは納得した。

 そういえば、煌夜も含めて、ヤンフィは誰にも自らの魔眼の本質を明かしていなかった。なるほど、疑問に思っても当然かも知れない。

 しかし――果たして、セレナの質問に答えるべきか、否か。ヤンフィは逡巡する。


「ふむ……妾の魔眼のぅ? セレナよ、逆に問おう。汝は何じゃと思う?」


 ヤンフィは悪戯っ子の笑みを浮かべながら、はぐらかすように聞き返した。その天邪鬼な反応に、セレナは困った表情を浮かべて言葉に詰まっている。

 そんな回答に窮しているセレナを横目に、気を取り直したタニアが口を挟んだ。


「ヤンフィ様は、人の感情が視えるって言ってたにゃ。にゃので、覚醒した【千里眼の魔眼】に違いにゃいにゃ」

「……ふむ」


 タニアの力強い断言に、ヤンフィは面食らって思わず頷いていた。とはいえ、間違いではなく、それも真実である。

 だがその発言に、セレナが首を傾げつつ、恐る恐ると反論した。


「……え、とさ……あたしはてっきり【催眠の魔眼】と思ってたんだけど? ヤンフィ様は、あたしたちの眼を視て、【魔神召喚】の破壊方法とか、色々な知識を与えてくれたでしょ? 記憶に直接情報を刻むなんて芸当、魔術じゃ出来ないし……」

「ほぅほぅ……なるほどのぅ」


 セレナの論理的な回答に、ヤンフィは感心げに頷いた。それは予想していた回答の一つであり、同時に、それもまた真実である。


 ヤンフィは二人の異なる回答を前に、改めて答えるべきか逡巡した。

 別段、タニアたちにヤンフィの魔眼を隠す理由はない。教えて困ることもない。けれど、ここで教える理由もまた、隠す理由と等しく存在しない。


(妾の魔眼を知ったところで、此奴らに益するところがあるわけでもないしのぅ……)


 むしろ教えない方が、ヤンフィの底知れない能力に対して畏怖してくれるのではなかろうか――と、思考してから、ふっ、と苦笑する。


「――妾の魔眼は、【天眼(てんがん)】と呼ばれるものじゃ。魔眼としての位階は中庸じゃが、使い勝手が非常に良い」


 ヤンフィはサラリと真実を口にする。

 何を深く考えることがあるのか――タニアやセレナは煌夜の仲間であり、今後も、煌夜の目的を果たす為に役立つ人材である。

 であればこそ、能力を明かすことで信頼を得ておく方が大事だろう。

 少なくとも、ヤンフィから裏切ることはないと思わせなければ、いざという時に、煌夜が危険に晒される可能性がある。

 ただでさえヤンフィは魔王属で、タニアたち人族とは一線を画す存在だ。そして煌夜も、人族ではあれど、右も左も分からぬ異世界人である。

 万が一にも、タニアたちに裏切られないよう、些細なことでも信頼を積み上げておかなければ――


(人族は、些細なことで裏切る存在じゃ……何が不協和音になるやも知れぬ)


 ヤンフィは遠い昔の胸糞悪い裏切りを思い返しつつ、タニアとセレナに詳しく説明をする。


「【天眼】はのぅ――万物を見通す魔眼じゃ。具体的な効果を云えば、意思一つで自由に切り替えることが出来る【千里眼】や【催眠】、【過去視】の魔眼じゃのぅ。もちろん妾は、この魔眼を覚醒して極めておるのでのぅ。【千里眼】の深奥、感情の色を読み取る能力や、【催眠】の深奥、意思や記憶を他者の記憶に刻む能力なども扱える」


 ヤンフィは、さも軽い調子で告げて、どうじゃ、とタニアたちの顔色を窺う。すると、二人は唖然とした表情で、信じられない、と呟いていた。

 二人の反応に、ヤンフィは愉しげに頷いた。予想以上に、二人を驚かせることに成功した。


「複数の、魔眼持ちってこと?」

「驚異的にゃ……天眼、って聞いたことにゃいけど……強すぎるにゃ」


 二人の驚きは、十二分に理解できる。ヤンフィの魔眼は、位階が低いことを差し引いても、あまりにも破格である。


 ちなみに、これは常識だが――『魔眼』とは、何の危険性も不利益も存在しない天賦の才だ。

 いかなる魔眼だろうとも、たった一つそれを持っているだけで、他の存在と一線を画すことが出来るほど驚異的な才能である。

 そんな魔眼の能力を、複数種類扱える。もはやそれだけで、いかにヤンフィという存在が規格外か理解できるだろう。

 神話の時代から歴史を鑑みても、複数の魔眼持ちなど数えるほどしか存在していない。そして歴史上、複数の魔眼持ちは、例外なく神格化されている。


 ヤンフィは軽い口調で告げたが、これは衝撃的な内容に間違いない。我がことながらも、ヤンフィ自身、この魔眼を自覚した時の衝撃は計り知れなかった。


「凄いじゃろぅ?」


 ヤンフィはおどけた笑みを浮かべて首を傾げる。その可愛らしい仕草に、しかしタニアもセレナもブルリと恐怖してから、凄いです、と呟いていた。

 そんな二人の反応に満足しつつ、ヤンフィは最後にオチをつける。


「さて――ひとしきり驚いたようじゃが、実はこの【天眼】、それほど万能ではない。同時に複数の魔眼を発動できぬし、切り替えるのに数秒とはいえ時間が掛かる。つまり、妾は複数の魔眼の能力を操れるが、どれか一つしか発動できぬ。じゃから【竜眼(りゅうがん)】や、高位階の魔眼、魔力耐性が高い相手などには、あまり影響を与えられぬ」


 カラカラと笑って、ヤンフィはそう言って話を締め括る。そんな自虐的な笑いに、タニアとセレナは苦笑いで応じる。


「と――ま、つまらぬ話はここまでじゃ。そろそろ暗く時分じゃ。サッサと小島に移動するぞ?」


 ヤンフィは赤く染まり始めた夕空を見上げる。思っていたよりも、日が暮れるのが早かった。

 ここでグタグタしていたら、ディドとの待ち合わせに遅れてしまう。


「あ、はい――って、どうやってあそこまで行きます?」


 ヤンフィの催促に、いち早く反応したセレナが、小島に視線を向けてそんな疑問を口にする。タニアも反応して、キョロキョロと湖畔を見渡していた。

 渡し橋のような通り道を探すが、そんな都合の良い道はどこにも存在しない。

 湖の中央に浮かぶ小島までの距離は、目算で湖畔から400メートルほど離れており、湖のどの位置から見てもほとんど距離は変わらなかった。


「んー、跳ぶにゃか? この程度にゃら、セレナでも跳べるはずにゃ」

「……ふむ」


 タニアが小島までの距離を目測しながらヤンフィに問うた。ヤンフィはそれに頷きだけ返して、注意深く湖畔を視る。

 小島までの距離は、常人では跳躍出来るような距離ではない。だが、ヤンフィたちならば、決して不可能ではない。

 ただ一つ疑問なのは、この距離をどうやって、奴隷を連れて移動したのか、という点だった。


(小舟を用意したのか? ふむ……何か近道があるような気がするがのぅ……)


 ヤンフィは思案顔で湖畔を注視する。けれど、何もないのは変わらずだ。【隠遁】の魔術で隠れているわけでもなく、本当に何の形跡もない。


「……とりあえず、往くかのぅ」


 どれだけ探しても見つからないならば、どうしようもない。諦めた方が早いだろう。

 ヤンフィは、これ以上考えても仕方ない、と思考を切り替えて、湖上に向かって足を踏み出した。


「ん、にゃにゃ!?」

「ぇえ!? ど、どうやってるの!?」


 湖上を歩き出したヤンフィを見て、タニアとセレナが素っ頓狂な声を上げる。

 見ればヤンフィは、まるでそこが地面であるかのように、湖上をごく自然に歩いていた。湖の上を歩くヤンフィを前に、タニアとセレナは目を丸くして驚いている。


「――疾く来い。時間は有限じゃ」


 ヤンフィは湖を少し歩いたところで振り返り、湖畔で立ち止まっている二人に呆れ顔で手招きする。その呼び掛けにハッとして、タニアとセレナはようやく我に返った。


「行く、にゃ――にゃぅ!」


 小さい掛け声と共に、まずタニアが凄まじい跳躍で小島に着地する。

 タニアが着地したのを見てから、セレナも風の魔術を用いて、湖上を飛び越える飛翔を見せた。なかなか見事な魔術操作である。


 そうして、ヤンフィを追い越して先に到着した二人は、湖上を歩くヤンフィの足元を注視していた。魔術を展開しているわけでもないのに、どうやって湖上を歩けているのか不思議なのだろう。


「……別段、湖上を歩くことなぞ、特殊能力でも何でもないがのぅ……」


 ヤンフィは呟きながら自らの足元に視線を落として、そのまま滑るように湖上を歩いた。

 湖上を歩行することも、空中を歩行することも、ヤンフィという魔王属にとっては、特別なことは何もない。

 ヤンフィがしていることは一つだけ。自らの質量を調整して、重量を零にまで軽くしただけだ。

 魔王属はそもそも、肉を持たない魔力生命体であり、本来、質量を持たない存在である。故に本来の特性を使用すれば、水上だろうと空中だろうと、足場の形成は容易だった。


 ただし、質量がないことは剣術における戦闘面では不利にしかならないので、普段のヤンフィはあえて見た目通りの体重を持っている。こういう状況の時だけ、体重を軽くしている。


「今の……ヤンフィ様の能力ですか? どうやって水の上を、歩いたんですか?」


 ヤンフィが小島に辿り着くと、セレナが質問してきた。それを無視して、ヤンフィはタニアに首を傾げる。


「タニアよ。どこに【魔神召喚】があるのかのぅ?」

「――あ、はいにゃ。えと、恐らくこっちにゃ」


 ヤンフィの問いに、タニアはすかさず頷いて、小高くなった丘の向こう側に姿を消した。セレナに一瞥してから、タニアの後を付いていく。

 セレナは無視されたことに少しだけ不満げだったが、特に反論もせず、ヤンフィに付き従った。


 湖の中央で【隠遁】に包まれていたこの小島は、あちこちが凸凹した地形をしており、2メートル前後の木々が、ところどころに生えていた。

 小島は少し奥に進むと、丘のように盛り上がった場所があり、回り込むとそこには、地下に通じている洞窟の入口が隠れていた。


「……鍾乳洞っぽいにゃ。湿った匂いがするにゃ」


 タニアが洞窟の暗闇を覗き込みながらそんなことを言う。ヤンフィはそれを耳半分に、洞窟の奥から漂ってくる魔貴族と思われる魔力残滓を眺めていた。

 その魔貴族の魔力残滓は、屍竜ほど強力な個体ではなかったが、異なる二種族であり、そのどちらも既にかなりの時間が経っている形跡があった。


「……もう、ここには居らぬのかのぅ? 瘴気は薄いし、気配が感じぬ」


 ヤンフィはタニアを押し退けて、洞窟の中に入り、周囲を見渡しながら呟いた。

 洞窟の奥からは確かな瘴気が漂ってくるが、その濃度は湖面で風に流れている瘴気と同程度だ。強力な魔力も感じられず、異界化している空気もない。

 だが、洞窟の奥に、【魔神召喚】の立体魔法陣の気配は感じる。そして、魔力残滓に関わらず、魔貴族が産まれた形跡も確実だった。


「タニアよ、先導しろ……魔族は恐らく、もう奥には居らぬじゃろぅ」

「はいにゃ、かしこまりましたにゃ」


 ヤンフィはとりあえずタニアを先行させて、洞窟の岩肌を調べながら進んだ。その後ろをセレナがゆっくりと付いて来る。


 洞窟は年季の入った鍾乳洞になっており、緩やかな下り坂だった。グネグネと曲がりくねった通路が続き、数メートルごとに分岐路が現れる。

 分岐路のたびに、ヤンフィは瘴気の濃い方を選択して進んでいく。当然、迷わぬようセレナが目印を刻みながら、である。


 そうしてしばらく歩くと、行き止まりの空洞に行き着いた。

 空洞は広く、天井や岩肌問わず、鋭い鍾乳石があちこちに生えていた。それらの鍾乳石には、仄かな魔力が宿っており、暗闇の洞窟内を緑色の薄明かりが満たしている。


「……体感的にゃと、湖の真下、かにゃり深い地下にゃぁ」


 タニアが天井を見上げながら、ボソリと呟いた。ヤンフィは、ふむ、と頷きを返す。ヤンフィの体感でも、同様の感想である。


「ねえ、ちょっと――これ、もしかして、【瘴気の繭】じゃないの? 二つもあるけど?」


 その時ふと、辺りを見渡していたセレナが、太い柱の陰を指差して、震える声で言った。にゃに、とタニアが回り込んで確認する。ヤンフィも言われてから、そこを覗き込んだ。


 それは、周りに幾つもの巨大な鍾乳石が生えているせいで隠れていて、パッと見では気付けない位置にあったが、間違いなく、破けて潰れた【瘴気の繭】だった。

 折り重なるようにして潰れた繭の残骸は、よくよく視れば、セレナの指摘通り二つある。つまりここで、少なくとも魔貴族が二体、産まれたということだ。


「にゃぁ、これ……結構、時間経ってにゃいか?」


 タニアが警戒しながら、繭の残骸を手に取って調べている。それを横目に、ヤンフィは空洞内を見渡す。

 もはや何の脅威も感じないが、やはり間違いなく、この空洞全体が人工的に創造した疑似異界だったようである。

 あちこちで薄く緑光を放つ鍾乳石は、巧妙に隠されているが、その表面に空洞全体を歪める魔法陣が刻まれている。


「……じゃが、もう不要となって打ち棄てられたようじゃのぅ? 異界化も解けておる。何より【生贄の柱】さえも、腐り始めておるわ」


 ヤンフィは、タニアとセレナに聴こえる声量で言って、正面のひと際巨大な鍾乳石に触れた。それは天井から地面まで伸びた柱にしか見えない鍾乳石であり、太さが軽く3メートル前後もあった。

 しかしそれは鍾乳石ではなく、ヤンフィが触れるが否や、クワァーン、と甲高い不思議な音を洞窟内に響かせる。

 その不思議な音は、岩壁に反響して気味の悪い不協和音を奏でた。


「……なに、今の?」

「にゃんにゃ? 気持ち悪いにゃぁ」


 間延びして響く不協和音に、タニアもセレナも顔を顰めて文句を口にする。それを鼻で笑いながら、ヤンフィは柱に強く魔力を注入した。

 途端、甲高い音を放っていた柱は真っ赤に赤熱化し始めて、表面がドロドロの溶岩じみた状態に変わった。


「タニアよ。崩壊寸前の【魔神召喚】じゃ――疾く吹っ飛ばぜ」


 ヤンフィは柱に手を触れたまま、【瘴気の繭】の残骸を観察していたタニアに振り返る。

 ヤンフィに指示されたタニアは、とりあえず柱に視線を向けた。


「――にゃ!?」


 柱を注視したタニアは、ビクッと身体を震わせて不愉快そうに眉根を寄せた。その反応を見て、ヤンフィはさもありなんと、不敵にほほ笑む。


 ヤンフィが触れている柱は、鍾乳石などではなく、ドロドロに溶けた血袋だった。

 その柱の表層に浮かぶ白は、白骨化した人骨。

 その柱の赤熱して見える赤は、溶け切っていない腐りかけの肉片。

 その柱に時々浮かぶ黒は、恐怖と苦痛に歪んだ幼子の頭部などである。

 それら胸糞悪くなる物体が、柱の内側でグルグルと揺れていた。


 ヤンフィは平然としていたが、セレナは露骨に視線を逸らして吐き気を抑えていた。


「ほれ、サッサと――」

「分かってるにゃぁ――【魔槍窮】!!」


 ヤンフィの催促に被せて、タニアは迷わず渾身の【魔槍窮】を放った。

 轟、と凄まじい爆音を響かせながら、進路上の障害物を蹴散らして、魔槍窮が柱の側面に突き刺さった。

 ヤンフィは魔槍窮の衝撃波を浴びながら、柱の表面に触れたまま微動だにせず、平然とした表情で成り行きを見守る。


「……何度見ても、不愉快にゃ光景にゃぁ……あちしの魔槍窮が、ここまで手応えにゃく呑み込まれるにゃんて……」


 ヤンフィが触れている位置のすぐ傍に突き刺さった魔槍窮は、瞬間、ブラックホールに呑み込まれるかの如く、次元の狭間に吸収されて掻き消えていた。

 そんな光景はしかし、実際はちゃんと【生贄の柱】の魔術核に届いている。


(相変わらず……恐ろしい威力じゃ。タニアほどの獣族なぞ、妾の時代にも数えるほどしか居らなかったのぅ)


 ヤンフィは口には出さずにそんな感心を思いながら、魔槍窮が【生贄の柱】の核を破壊するのを、魔力波動の感触で確認する。


 そしてふいに、パキン、と硝子が割れるような音が、ヤンフィの触れている部分から聞こえた。途端、空洞内の空気が一瞬だけ張り詰めて――次の瞬間、ヒャーン、と甲高い音が響いた。


 ヤンフィは満足気な笑みを浮かべながら手を離して、サッと一歩後退る。


「核が壊れたのぅ。これで【魔神召喚】は、潰れたぞ」


 ヤンフィはタニアたちに振り返る。その背後では、赤熱化していた【生贄の柱】の表層が、まるで沸騰したように煙を上げ始めて、ボンボン、と小さい爆発を繰り返していた。

 それから、突如として生贄の柱が液状になり崩れ落ちて、その場に赤黒い血の海を産み出す。赤黒い血の海は、溶け残った肉片と骨が浮かぶ腐臭の水溜まりだった。


「……このまま放置もありじゃが、不衛生かのぅ?」


 ヤンフィはその水溜まりを一瞥して、どうかのぅ、と誰ともなしに質問を投げる。

 その質問に、タニアもセレナも不愉快そうに眉根を寄せてから、放置は良くない、と口を揃えた。


「あちしが吹き飛ばすにゃ。ついでに、この【瘴気の繭】も吹っ飛ばすにゃ」


 タニアが挙手しながら、ヤンフィに主張した。

 断る理由もないので、吹き飛ばすことには賛成ではあるが、ヤンフィは、迷わず魔槍窮の構えに入ったタニアを制止させる。


「待て、タニアよ。汝では破壊力が過ぎる。万が一、天井が崩落すると、妾たちは湖に沈んでしまうじゃろぅ? 消滅させるだけならば、セレナで充分じゃ」


 ヤンフィはセレナに視線を向けて、汝がやれ、と顎をしゃくった。


「確かに、そうね……じゃあ、後始末はあたしに任せてよ」

「……チッ、仕方にゃいにゃぁ」


 ヤンフィの睨みに、タニアは素直に構えを解いた。それを見てから、ヤンフィはもはや用事は終わったとばかりに、通って来た道を戻り始める。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 徹夜の強行軍になったが、結局、わずか一日ほどで【魔神召喚】の破壊を終えることが出来た。

 そうしていま、ヤンフィたち一行は、ディドとの待ち合わせ場所に戻ってきて、つまらなそうに待機していた。


「――結局さ、設置図の◇記号が書かれてた部分だけが、重要な拠点だったみたいね?」


 ふと、座り込んでいるセレナが、今日一日を思い返しながらそう呟いた。それに賛同しつつ、ヤンフィは自身の予想も交えた補足を口にする。


「重要と云うより、最初の【魔神召喚】と、最後の湖の【魔神召喚】は、魔貴族を生成する為だけに用意したものじゃろぅ。ベクラルで破壊した【魔神召喚】とは構造が違っておったし、そもそも設置場所から別空間に道が繋がっておったようじゃった……何か、別な悪巧みでもしておったのじゃろぅ」

「別空間……悪巧み、か……んー、もしかして、ベクラルに発生した【魔貴族】のグールって――」

「――そう云えば、汝らが遭遇した魔貴族も二体じゃったかのぅ? 世界蛇が絡んでおる案件じゃったとしたら、その可能性はあるのぅ」


 ヤンフィはセレナの口にした可能性を最後まで言わせず、強引に話をまとめる。

 もはや終わったことを推測しても意味がないし、その実、興味もなかった。


「兎も角として結論、世界蛇が用意していた【魔神召喚】は、全体的に年季と錬成が足りておらんかった……不幸中の幸いじゃよ」


 ヤンフィのまとめに、セレナが神妙な顔で押し黙る。すると、大の字に寝転がっていたタニアが、欠伸混じりに別の話題を切り出した。


「……にゃぁ、ヤンフィ様。この後、変態天族と合流するにゃ? そしたら、クダラークに転移してコウヤとも合流するにゃ?」


 タニアの発言に、だからなんじゃ、と吐き捨てるように問う。


「今クダラークって、封鎖されてるにゃ? でも、あちしたちが戻りたいのは、アベリンにゃ? どうするにゃ?」

「……またここに戻ってきて、ベクラル行きの魔動列車に乗るんでしょ? で、ベクラルから、オーガ山岳を越えて、戻るんじゃない? それ以外ないでしょ」


 タニアの質問にセレナが答えた。だがその回答はヤンフィの回答と同一なので、口を挟むことはしない。すると、タニアが一つ提案してくる。


「にゃら効率から考えると、あちしたちがクダラークに戻るより、変態天族がコウヤを連れて、ここに来たら早いにゃ」

「――確かに」


 タニアの正論に、セレナが気付かなかったと驚いた顔で頷いた。その下らない茶番に、ヤンフィは辟易しながら、はぁ、とため息を漏らす。


「……効率で考えれば、そうじゃろぅ。じゃが、そも妾たちはアベリンに戻ることが目的ではない。コウヤの弟妹が何処に居るか分かったいま、焦る必要もない」


 ヤンフィは語りながら、タニアに向き直る。


「妾たちが最も憂慮すべきなのは、コウヤの安全じゃ。コウヤは妾たちと違って、とても死に易い。危険は避けるに限るし、極力、無茶もさせぬ。故に、オーガ山岳越えはせず、ベクラルから馬車での移動を想定しておる」


 汝ら基準で考えるな、と付け足して、ヤンフィは断言する。その説明にタニアが反論してくる。


「でもにゃぁ、ヤンフィ様。あちしとヤンフィ様が居れば、そうそう危険はにゃいにゃ。オーガ山岳だって、ついこの間コウヤは駆け抜けたにゃ」

「……コウヤを少しでも休ませよう、という妾の判断が納得往かぬ、と?」

「いや……そういうわけじゃにゃいけど……」

「――タニアよ。口答えするならば、汝だけでアベリンに戻れば好い。別段、妾たちと足並みを揃える必要はない」


 ヤンフィは突き放すように言って話を切り上げた。もはや急ぐ必要もないのに、無用に煌夜の体力を消耗させる意味がない。

 ヤンフィの物言いに、タニアは押し黙った。別行動を選択するつもりはないようだ。


「……あたしは、ヤンフィ様の方針に異論ないわよ」


 重苦しい空気に耐えきれず、セレナがボソリと呟く。うむ、と頷きを返して、ヤンフィは背後に広がるデイローウ大樹林を一瞥した。

 つい先ほど、ベクラル行きの魔動列車が通り過ぎたことを考えれば、ディドが来るのは、もうそろそろだろう。


(さて……ディドと合流したら、コウヤの様子を窺って、問題なければ明日、アベリンに出発かのぅ? 問題は、コウヤの弟妹のことを、いつ打ち明けるかじゃ……コウヤのことじゃから、知れば直ぐにでも向かうに決まっておる。それは悪いことではないが、必然、長旅になるじゃろぅし、そも平穏な旅路にはならぬ……妾が万全ならば、恐れる必要はないが、そうも往かぬ。タイヨウといい、キリアといい、いつの時代も、妾を脅かす存在は居るからのぅ)


 退屈そうにするセレナと、半分寝始めているタニアを横目に、ヤンフィは今後の計画を思案した。

 ようやく瀕死の重症から脱した煌夜を、万が一にも危険な目に遭わせない為には、これからどうすべきか――ヤンフィがなによりも重要視しているのは、当然ながら煌夜の身の安全だった。

 正直なところ、ヤンフィにとっては、煌夜の弟妹が無事か否かなど、さして重要ではない。それ故に、煌夜の弟妹の所在がハッキリしていようと、急いで助けに向かう理由がないのだ。


「――お迎えに上がりましたわ、ヤンフィ様。お待たせしたかしら?」


 思考に没頭していたヤンフィの背中に、ふと凛とした声が投げ掛けられた。同時に、覚えのある気配が突然現れる。

 ヤンフィはゆっくりと、聖王湖側、魔動列車の線路がある方に振り向いた。


「待ったぞ、ディドよ――汝独りか?」

「ええ、ワタクシ独りかしら。お待たせして、申し訳ありませんでしたわ」


 ヤンフィの厭味ったらしい文句に、ディドは無表情のままで深く頭を下げた。

 そんなディドを前にして、寝転がっていたタニアは起き上がり、警戒しながら低い姿勢で構える。セレナはタニアに呆れた目を向けながら、二人から少しだけ距離を取っていた。


「おい、変態天族。お前、来るの遅いにゃ! 約束の時間、とっくに過ぎてるにゃ!」


 ヤンフィに頭を下げたディドに、タニアがいきなり言い掛かりをつけた。しかしそんな謂れのない言い掛かりなぞ一切無視して、ディドはヤンフィに問い掛けてくる。


「ヤンフィ様、今後の方針はどうなさるおつもりかしら? コウヤ様は、いつでも動けるように準備なさっておられましたわ」

「とりあえずタニアもセレナも一緒に、宿屋まで戻るぞ」


 ヤンフィの命令に、ディドは一瞬沈黙してから、タニアとセレナを一瞥する。


「……かしこまりましたわ」


 非常に納得いかない空気を醸し出しつつ、しかし溜息一つだけ吐いて、ディドは頷いた。


「にゃんにゃ、その態度は! お前、不愉快にゃ!! 変態のくせに!」


 ディドの虫けらを見下すような視線に、相変わらず沸点の低過ぎるタニアが噛み付いた。そんなタニアを無視して、ディドはヤンフィの前で傅いた。


「それではワタクシの身体にお掴まり下さいませ、ヤンフィ様。セレナと――非常に、不愉快だけれど、タニアもワタクシに掴まりなさい」

「――にゃにを!?」


 無表情のまま挑発的な命令で返したディドに、タニアが憤慨する。それを横目に、セレナは言われるがまま、ディドのスカートの裾を摘まんだ。


「まったく……疾くディドに触れよ」


 ヤンフィはタニアの後頭部をスパンと平手で叩いて、ウンザリした様子で睨み付ける。

 タニアはその威圧に萎縮して、にゃぁ、と弱々しい声を出しながらションボリしていた。


「……では、【次元跳躍(テレポート)】いたしますわ」


 ディドは、全員が自らの服もしくは身体に触れていることを確認してから、静かに異能力を発動させた。

 何の音も抵抗も、ましてや魔力の反応もなく、次の瞬間、ヤンフィたちの視界に映る景色が一変する。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 すっかり陽が落ちて、慌ただしくも穏やかだった一日が終わりを迎えようかという頃。

 夕食を終えて部屋に戻ってきたところで、ディドがふと時計を見て、溜息を漏らした。


「……コウヤ様とゆっくりしたいところですけれど、そろそろお迎えの時間かしら。ねぇ、クレウサ、ワタクシ、ヤンフィ様たちを迎えに行って参りますわ」


 部屋に戻るなりソファに腰を身を投げ出してリラックスした煌夜は、ディドの台詞を聞いて、ああ、と得心した。

 そういえば、ディドが今朝方、そんなことを説明してくれたのを思い出す。

 何やら昨日、煌夜が寝ている間に、別行動していたタニアたちと合流出来たようだが、そこでひと悶着あったらしい。


「はい、分かりました。では、同期します――」


 ディドの呼び掛けに応じて、部屋の入口脇で腕を組んでいたクレウサが、音もなく部屋の中に入ってくる。そして、無表情のディドと鏡合わせで向かい合い、その両手を合わせた。

 すると、まったく同時のタイミングで魔力が放出されて絡み合う。


「「――【共振増幅(ランクアップ)】」」


 ディドとクレウサは、声を見事にハモらせて、それを発動させた。発生した緑色の優しい光がディドの身体を包み込み、次の瞬間、パッと霧散する。


 事前に聞いて知っていたが、それが、ディドとクレウサが揃った時に使用できる特殊能力――【ランクアップ】と呼ばれる技である。

 煌夜は感心げに、その光景を眺めていた。実際に目にするのは、これが初めてのことだ。


(見た目が違い過ぎて双子に思えないけど……このシンクロを見ると、双子なんだなぁ)


 煌夜のそんな感心など露知らず、ディドはクレウサに鋭い視線を向けた。


「クレウサ、行ってくるわ――ワタクシがいない間、コウヤ様を頼むかしら」

「ええ。行ってらっしゃい、ディド姉様。お気を付けて」


 ディドの命令に、クレウサは胸元に手を当てて恭しく頭を下げる。その反応に満足して、ディドは煙のように掻き消えた。


「――凄ぇ。本当に消えた……今のが、ディドのテレポートって能力か……」


 煌夜は目を瞬かせて、今の今までディドの立っていた空間を注視する。残像さえなく、文字通り跡形もなく、そこからディドは姿を消していた。

 煌夜のそんな反応を眺めながら、クレウサは腕を組んで壁に寄り掛かった。


「……コウヤ様、一つ質問しても宜しいですか?」


 ふとその時、クレウサが煌夜に話しかけてきた。

 煌夜は一瞬だけビクッと身体を震わせてから、しかし平静を装って、クレウサに視線を合わせた。

 実のところ、クレウサから話しかけられたのは、今日これが初めてである。


「あ、ああ。俺で答えられることなら、大丈夫だけど……何?」


 今日一日、煌夜はディドと二人っきりで、ずっとクダラーク散策という名目のデートをしていた。

 そのこと自体は何一つ悪いことではないし、もちろん人様に言えないようなこともしていない。だが、クレウサがこのデート自体を好く思っていない可能性はあるだろう。

 煌夜は内心でどんな文句を言われるか怯えながらも、冷静に弁明しようと覚悟を決めていた。


 ところが、煌夜の心配は杞憂だった。

 クレウサは煌夜に対して何の悪感情も見せず、軽い世間話をするような調子で口を開く。


「コウヤ様は、ディド姉様のこと、どう思ってらっしゃるのですか?」

「――どう、とは?」


 随分とぼんやりしたクレウサの質問に、煌夜は意図が掴めず、首を傾げつつ聞き返した。するとクレウサは、ええ、と頷きながら言い直す。


「コウヤ様は、ディド姉様を異性として意識しておられますか? 恋愛感情はお持ちですか? 今後、恋人、もしくは伴侶の候補として、お考えになるでしょうか?」

「……は、え? あ、えと……どういうこと?」

「ああ、いえいえ。責めるつもりはありません。これは興味本位です。確かに私からすると、ディド姉様にとってコウヤ様が相応しい御方とは思えませんが、それは部外者が口を挟むことではありません。恋愛は当人同士のことですし……ただ、ディド姉様には幸せになって欲しいので、コウヤ様はそこのところ、どうお考えなのかな、と」


 煌夜が言葉に詰まった瞬間、クレウサは黒く艶のあるポニーテールをフルフルと振りながら、深い意味はないと強調する。

 その表情は本当に裏がないようで、煌夜がどう答えるか、純粋に知りたい様子が窺えた。


「その……ディドは……そりゃ、慕ってくれるのは嬉しいし、有難いと思ってる……それに、クレウサの言う通り、俺には不釣り合いだとも思う……ってか、そもそも、あんだけ慕ってくれてるのは、俺が異世界人だからじゃないのかな? タニアも、だけど……俺が好かれる理由が分からんから」

「……? 異世界人だと、何なのですか? 私もディド姉様も、異世界人ですが?」

「え、あ、う……その、こういう異世界転移モノって、だいたいハーレム展開になるじゃん? だからきっと、そういうお約束的な異世界補正が入ってて、俺に好意を寄せてくれてるんだと思う」


 煌夜はしどろもどろと身振り手振りでそんな説明をするが、台詞の十分の一もクレウサは理解できていなかった。首を傾げてキョトンとしながら、はぁ、と適当に頷いている。

 煌夜は自身を、主人公的な立ち位置とは思っていないが、ここに至る道中のアレコレを考えると、同性のソーンにまで口説かれたことも考慮して、何らか他者を惹きつける特殊能力が自分にあると考えていた。そうでなければ、ディドのような超絶美人や、タニアのような美女に好かれる理由が、何ら思いつかない。


 しかしそんな煌夜の考えを馬鹿にするように、クレウサがハッキリとその説を否定する。


「コウヤ様の仰る『お約束的な異世界補正』が何かは存じませんけど、ディド姉様がコウヤ様に尽くしているのは、ディド姉様本人の意思ですよ? 別段、コウヤ様が洗脳したとか、ヤンフィ様に何か言われたとか、そういうことはありません。コウヤ様が魅力的なわけでもないですし、むしろ個人的な意見を言わせてもらえれば、獣族、月桂樹の民のみならず、魔王属とも行動できるその精神性は、異常者だと思ってます……総じて、私的にはコウヤ様は気持ち悪いです」


 悪意はなく、本当に心の底からそう思っていると感じられるほど真っ直ぐな視線で、クレウサは煌夜にダメ出ししてきた。

 その素直過ぎる感想に、おぉぅ、と煌夜は変な声を出してしまう。


「失礼しました。まぁ、そんな私の意見はさておき――結局、コウヤ様は、ディド姉様に恋愛感情はお持ちですか? 応えるつもりはあるのですか?」


 クレウサの追撃に、煌夜は唾を呑んでから、ああ、と神妙な表情で頷いた。

 茶化すつもりはないし、誤魔化す気もない。素直に、いま煌夜が思っていることを伝えよう。


「……恋愛感情は、ない。それに、そもそもいまの俺は、恋愛してる余裕はないよ。俺がこの世界に来たのは、リュウ、コタ、サラ、三人の家族を探す為だ。三人を無事に見つけ出して、元の世界に戻るまでは、俺自身の幸せなんて二の次さ。だから……その……俺は、誰の好意にも応えない」

「それは、身体だけの関係もなし、ですか? ディド姉様が望めば、抱いてくれたり、もしくは子種を頂けるとか、そういうこともなし、ですか?」

「……俺、そういう話苦手なんだけど……まぁ、そんな軽薄なことはしません」

「なるほど――私の中で、コウヤ様の好感度が、ほんのちょっぴり上昇しました」


 煌夜の回答に、クレウサが何やら満足げに頷いていた。一方で煌夜は、この問答が何の意味を持つのか首を捻る。

 ディドの好意に気付いているのに応えないことに対して、怒るでもなく、諭すでもなく、聞いただけで満足するとは――クレウサは、何が知りたかったのか。


「ああ、コウヤ様。私の問いにお答えいただきありがとうございます――っと、ディド姉様、お帰りなさいませ」


 その時、クレウサが謝辞を述べると同時に、目の前の空間が揺らいで、パッとヤンフィたちが現れた。


「――ええ、ただいま戻りましたわ」


 どうしてか跪いているディドと、その肩に手を乗せているヤンフィ。

 ディドのスカートの裾を摘まんで、ビックリした表情を浮かべるセレナに、ディドの背中に手を当てているタニア。

 何の予兆もなく、突然、四人がその場に現れて、煌夜は驚いた。


「――にゃ!? いきにゃり景色が変わっ――あ、コウヤにゃ!!」


 驚く煌夜の前で、現れたタニアが嬉しそうな声を上げた。

 タニアは、ソファで寛ぐ煌夜を発見するが否や、満面の笑みで寄ってくる。


「……これが【次元跳躍(テレポート)】。天族の特殊能力……噂以上にぶっ飛んでるわね」


 セレナが感心した様子で呟き、掴んでいたスカートから手を離した。


「コウヤよ。今日はもう遅い。妾たちを待っていてくれた気遣いは嬉しいが、サッサと休め――明日は準備が出来次第、魔動列車に乗り込むことにする」


 唐突に、ヤンフィがそんな決定事項を口にした。

 煌夜は相変わらずの強引さに声もなく驚き、しかし反論する必要もないので、素直に頷いた。


「……寝るのに異存はないが……えと……タニア、セレナ、久しぶり。大丈夫だったか?」


 煌夜は、タニアとセレナを一瞥して、別行動する前と変わりない様を確認しつつ、念のため問い掛ける。


「大丈夫、じゃにゃいにゃ――ヤンフィ様には伝えたにゃが、あちしたちも色々あったにゃ!!」

「……ええ、本当にね。まぁ、何があったかは、明日にでも説明するわよ――ねぇ、ところで、あたしたちの寝室って、どこ?」


 元気よく返事をするタニアと、疲れた様子で答えるセレナ。そんな二人を見て、煌夜は微笑ましい気持ちになりながら、ああ、と頷いた。


 こうして、様々な紆余曲折はあったが、ようやく全員ひとところに合流したのである。

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