第七十一話 屍竜を喰らう
2020/10/05 一部、タニアの台詞訂正。変更点は後書きに記載。
2020/10/17 台詞一部訂正。赤丸の数が七つが正しいのに、なぜか九つに増えてた……。魔神召喚の設置個所は、七つが正解になります。
ヤンフィは薄く笑いながら、顕現させた七星剣を素振りする。
些かも魔力を篭めていないにも関わらず、たかが数度振るだけでも、凄まじい勢いで魔力と体力が消費された。相変わらず燃費の激しい武器である。
(……ふむ。固有奥義の使用は、おおよそ六振りと云うところかのぅ……)
ヤンフィは現状の身体能力を確かめて、満足気に一つ頷いた。
煌夜の身体を維持する為に魔力を消費しなくなった今、万全ではないにしても、それなりに闘えるだけ体調が整ってきたことを自覚する。
「にゃぁ、ヤンフィ様――それ、新しい剣にゃか?」
ふとヤンフィの振るった七星剣が放つ星の輝きを見て、タニアが興味ありげに聴いてきた。セレナも横目で、チラチラと七星剣の漆黒の刀身を眺めている。
ヤンフィは七星剣を横に寝かせて、セレナとタニアの眼前に刀身を見せ付けるように掲げた。
「タニアたちには披露しておらんかったかのぅ――これは【七星剣】と呼ばれる宝剣じゃ。妾の持つ武器の中で、最強を冠する剣じゃ。この剣に切れぬ物質は存在しない」
ヤンフィの自信満々の発言に、タニアとセレナは眼を見開いて驚いていた。それほどの武器なのか、と表情を強張らせつつも、興味本位からチラチラと、七星剣に視線を向ける。
ヤンフィが、自らの持つ武器の中で、最強と口にするほどの武器――それはつまり、少なくとも魔力を奪う【魔剣エルタニン】よりも強力ということである。
タニアとセレナの怯えた感情を読み取ったヤンフィは、愉しそうな笑みを浮かべて、掲げた七星剣を下ろした。
「さて、サッサと往くぞ――セレナ、汝が先導せよ」
「あ……は、はい。じゃあ、お先に失礼します」
ヤンフィはセレナの背中を軽く押す。すると、ハッとした顔になったセレナが、ゆっくりと梯子を下りだした。
「タニア、妾が先に往く。汝は殿じゃ――大丈夫じゃと思うが、背後は頼んだぞ?」
「か、かしこまりましたにゃ!」
タニアが恐縮した様子で元気よく返事した。その返事を聴いてから、ヤンフィも梯子を下りる。魔眼【千里眼】で見通すと、地下はだいぶ深い様子だ。
「――『光よ』」
いち早く地下に辿り着いたセレナが、真っ暗な地下道に光球を出現させる。途端に、周囲が明るく照らされた。
いきなり眩しくなったことで、ヤンフィは思わず瞳を眇める。一瞬だけ視界が白色で染まるが、すぐさま状況に適用して、辺りが鮮明に浮かび上がる。
「……これは、想像以上に禍々しい異界じゃのぅ。妾でさえ気分が悪くなるほどじゃ」
ヤンフィは降り立った地下をグルリと一瞥してから、そんな感想を呟いた。
思わず吐き気を催す澱んだ瘴気と、忌々しいほど捻れた負の感情が、嫌というほどヤンフィの肌を刺した。
梯子の直下に広がる地下空間は、円形のドーム状をしている広場のようだった。東西南北には長い通路が伸びており、ここは、ちょうどそんな十字路の中央に位置していた。
「しかも……なるほど、懐かしいのぅ。人工的に創造した疑似異界か――これは【魔神召喚】ではなく、魔貴族を産み出す為のものか……」
タニアが梯子から降りたのを確認してから、ヤンフィは二人に聴こえる音量でそう呟いた。
にゃに、とタニアが素早く反応して、え、とセレナが鈍い反応を見せる。それらの反応を無視して、ヤンフィは東の通路に視線を向けた。
東西南北四つある通路のうち、ひと際強い瘴気が漂ってきているのが東の通路である。
「にゃぁ、ヤンフィ様……疑似異界って何にゃ? 魔貴族を産み出す為って、どういうことにゃ?」
タニアが当然の疑問を口にしていた。それにはセレナも同意見のようで、断言したヤンフィに不思議そうな顔を向けている。
ヤンフィは、二人の不思議そうな顔を眺めてから、ふむ、と頷いて説明を始める。
「ここは、紛れもなく時空の歪み――異界化しておる空間じゃが、自然発生した歪みではない。この地下に張り巡らされた術式により、人工的に創造した疑似異界じゃ。妾も過去に、何度か使用したことがあるから馴染みがある。【魔神召喚】の魔法陣と酷似した禁術でのぅ。大量の血肉と魔力、怨念が必要じゃが、意図的に魔貴族を産み出せる術式じゃ」
説明しながら、ヤンフィは地下広場の石壁に触れる。石壁は不気味に脈動しており、どことなく生暖かい。
そんな石壁の表面を、魔力を篭めた指先で強く擦ると、仄かに壁面が緑色の光を放ち、複雑怪奇な魔法陣が浮かび上がる。それは一瞬だけ明滅したが、すぐさま光を消して、また元通り、脈動する生暖かい壁面に戻った。
ヤンフィはそれを二人に見せてから、ゆっくりと説明を続ける。
「この禁術はまず、魔神の胎内を模した子宮構造の異空間を創り出してから、【生贄の柱】を媒介として強制的に時空を歪める。次に、手頃な魔族を捕らえてきて、【生贄の柱】が在る空間に閉じ込めるだけで、八割ほどの確率で【瘴気の繭】が発生するのじゃ。そうなれば、後は放置するだけで、捕らえた魔族は魔貴族に転生する」
ヤンフィは云いながら、地下広場から延びる東西南北の通路を一つずつ見渡す。そして南側の通路に顔を向けると、剣先でその通路奥を指し示した。
「此方が出口――いや差し詰め、産道かのぅ? 其方の奥で産まれた魔貴族は、出口を求めて、此方の通路から外に出ていくのじゃ」
其方、という表現は東側の通路を示しており、此方、という表現で南側の通路を示した。
「ちなみにじゃが、妾の魔眼で見たところ、此方の通路は別の異空間と繋がっておるようじゃのぅ」
ヤンフィはそこまで説明してから、二人の反応を窺う。二人は目を点にして呆けていたが、理解出来ていないわけではなさそうだった。
まあ、理解していようといなかろうと、ヤンフィがこれ以上説明することはないが――
――ゲゲェ、ガァアゥッ、ァアアアゥ。
その時、東側の通路奥から不気味な叫び声が響いてきた。同時に、強烈な腐臭と苛烈な瘴気が、風に乗って漂ってくる。
その音に、セレナがビクリと身体を震わせた。一方で、タニアはすかさず戦闘態勢になる。
「さて、魔力残滓を見るに、ここ数日で、此方から魔族が行き来しておるのぅ。奥になんぞ餌でも在るか……それとも餌を供給しとるのか……どちらにしろ、警戒するに越したことはない」
ヤンフィは云う割には警戒心薄く、気軽な調子で一歩踏み出す。途端、東側の通路奥に緊張が走ったのが伝わってきた。
轟く不気味な叫びがピタリと止まり、駄々洩れていた苛烈な瘴気が委縮して、電撃が走ったかの如く空気が痺れた。
ヤンフィはその反応を感じて、思わずほくそ笑んでいた。どうやら、魔王属の気配を感じ取れるだけの器がこの奥に控えているようだ。
「妾の存在を察するだけの素質はあるようじゃのぅ……歓迎してくれておるぞ? 油断するなよ?」
緊張しているセレナと警戒しているタニアに、ヤンフィは愉しそうな声で告げて、何ら迷うことなく先頭を歩きだす。
その声にハッとしたセレナが慌てて付き従い、背後も警戒しながら、タニアが殿を務めた。
東側の通路は長く、奥に進めば進むほど濃密な瘴気で満ちていた。また、空間は徐々に歪みを増しており、今にも崩壊しそうなほど不安定だった。そこかしこが蜃気楼のように揺らいで、別次元と繋がっているのが見える。
不気味な叫びは止んだままだったが、代わりとばかりに嫌な咀嚼音が響いてくる。
「……前に来た時よりも、ずっと禍々しい瘴気にゃ……」
タニアがボソリと呟いた。それに賛同するように、ブンブン、とセレナが勢いよく肯定している。
しかしそれは当然だろう。ヤンフィは納得した顔で頷き、不敵な笑みを浮かべる。期待した敵が、ようやくその姿を現した。
「――グァオアアアォオオ!!!」
ビリビリと肌を震わせる咆哮。絶対の恐怖を感じさせるほどの強烈な威圧。それを前にして、ヤンフィは唄うように呟いた。
「紫色の鱗と、毒気に満ちた吐息――毒吐き竜系の竜族じゃのぅ。体表も内蔵も腐っておるのぅ……なるほど。魔貴族を経て、【屍竜】と相成ったか」
東側の通路奥には、空間を歪ませて創造したとしか思えない広大な大部屋があった。パッと見て、奥行きが見えないほど広い部屋で、天井も軽く10メートルを超えるほど高い。
その大部屋には、天井まで伸びた巨大な【生贄の柱】があった。何百人単位で生贄に捧げられたのだろう。もはや【生贄の柱】と云うよりも、生贄の塔と表現した方が適切に思える。
さらにそこには、毒々しい色合いをしたドーム状の【瘴気の繭】があった。【瘴気の繭】は外側に大きな衝撃の跡があり、内側から破けたような穴が開いていた。
そして、その大部屋の中央では、ヤンフィたちを出迎えるように鎮座する紫色の鱗を纏った巨大な竜が居り、数えきれないほど大量のゾンビの死骸がうず高く積まれている。
なるほど――南側の通路から続いていた魔力残滓は、このゾンビたちのもので間違いないようだ。恐らくはこの竜の餌と成る為に、喰われる為だけに、誘い出されたのだろう。
「そ、そんな……嘘、でしょ……」
震える声で驚愕しているのはセレナである。何を驚くことがあるか、とヤンフィは内心で突っ込みながらも、静かに正面の敵を眺めた。
巨大な竜は、全長がおよそ3メートルほどはあろう巨躯をしており、その全身をドロドロに溶けた毒液で包んでいた。胸部には致命傷と思える大穴が開いており、竜族の特徴とも云える二対の翼は、右半身の二翼がもげていて左半身の二翼しかなかった。
力強い前肢と後肢には、禍々しい形状の鉤爪を持っており、骨と化している尾の先端には、七本の両刃剣が生えていた。
ギラついた紅蓮の双眸は、並々ならぬ魔力を湛えており、明らかに【竜眼】を発動している。
「紫竜……? タニアが、倒した、じゃない……?」
「――間違いにゃく倒したにゃ!? あちしの【魔突掌】で、魔力核を壊したはずにゃ!!」
正面に鎮座する屍竜を見て、セレナは恐怖に染まった表情で口元を抑えている。タニアは興奮した様子で、信じられないとばかりに首を振っている。
嗚呼そういえば、先ほど聴いていた話では、二人はつい数日前に、この【屍竜】――いや、紫竜と戦っていたのだったか。であれば、確かに驚愕してもおかしくはない。殺したはずの強敵が生きていたのだ。そんな状況を納得できるはずがないのだろう。
ヤンフィはそんなことを考えながら、独りだけ事情を察した風に頷いた。
「タニア、セレナよ。此奴は妾に任せるが好い――汝らは、退いて魔力を温存しておれ」
愉し気な声で云うと、ヤンフィは背後を庇うように一歩前に出て、七星剣を肩の高さに持ち上げた。そのまま正面の屍竜を眺めながら、二人の疑問に応えるよう説明を始める。
「此奴は【屍竜】――竜族のゾンビじゃ。死して腐りて蘇った魔貴族じゃよ。竜族の魔貴族は、大半がこうなるのぅ。産まれ落ちて【竜眼】を発動しないうちに死ぬと、保有しておったあらゆる異能を失って、ゾンビとして一度だけ蘇るのじゃ。じゃが、蘇ったのちは、転生直後よりも強力な魔力を得て、強制的に【竜眼】を発動して、痛覚が失せて身体能力が向上するからのぅ――魔貴族としては、果たしてどちらが強力な個体に成るのか、議論が白熱するところじゃよ」
ヤンフィは云いながら、怯えた様子のセレナに振り返り、会心の笑みを見せる。
しかし、どうしてこの状況でそんなに余裕に振舞えるのか、セレナはもちろん、タニアも疑問符を浮かべていた。
「グァアアアアッ――ッ!!!!」
ヤンフィの余裕を見てか、屍竜は威嚇するように咆哮を放つ。同時に、鼻が曲がるほどの異臭と、息苦しくなるほどの毒煙が大部屋に撒かれた。
ぶわっと大部屋に広がるその毒煙を目にして、タニアはセレナの背後で身体を丸めた。そんなタニアを珍しいものを見る視線で見詰めながら、セレナは慌てた様子で風の防御結界を展開していた。
「ふっ――吸うだけで、肺から腐るほどの強烈な瘴気。無味無臭じゃが、皮膚から浸透する神経系の麻痺毒。なるほど、なるほど……素体となった毒吐き竜は、相当に上質な竜族だったようじゃ」
屍竜の放つ毒煙を何ら防御せず全身に浴びて、けれどヤンフィはカラカラと笑った。正気とは思えないその振舞いに、背後のセレナとタニアは恐怖で全身を震わせる。
ヤンフィが負けるとは万が一にも考えていないが、それにしたって、目の前の強敵はここまで余裕ぶっていられるほど雑魚ではない――実際に、紫竜ともヤンフィとも闘ったことのあるタニアは、両者にそこまで実力差があるとは思っていなかった。
しかし、そんなタニアの思慮は全く持って的外れであり、ヤンフィにとってはこの上なく心外である。ヤンフィが本来の姿で力を振るう時、異能を持たない竜族一体など、何ら警戒に値する存在ではないのだ。
「嗚呼……好いのぅ。腐るほどに熟成した竜族の肉体。極上とも云えるほど甘美な瘴気――今の妾にとって、これほど有難い餌なぞないのぅ」
ヤンフィは抑えきれない笑みを浮かべて、見下すような上から目線で、巨大な屍竜を見上げる。そこにはゾッとするほど冷たい殺意が篭められており、直視した屍竜は一瞬だけ怯えた様子でたじろいだ。
「さて、と――屠る前に、命乞いがあれば聴こうかのぅ?」
ヤンフィは緩やかな動作で七星剣の切っ先を屍竜に向けると、大部屋を満たす禍々しい瘴気よりも猶禍々しい覇気でもって、慈悲を感じさせる死刑宣告を投げる。
屍竜はその質問を受けて、グルル、と喉を鳴らしながら、片言ではあったが魔神語で応じる。
「強者に、跪くのが、常と思うなかれ――儂は、弱者であれど、人族に与する恥知らず如きに、命乞いなぞ、しない! 貴様、人族より、成った魔王属、だろう? だから、これほど、甘い――儂を、舐めるなっ!!!」
それは、ヤンフィ以外にはただの啼き声にしか聴こえない言葉だったが、その態度と行動から、何を喋っているのか理解出来た。
屍竜は喋りながら、前肢を高々と持ち上げて、左半身の二翼をはためかせた。骨となった尾を振るい、うず高く積まれていたゾンビの残り滓を蹴散らして、半ば白骨化している首を持ち上げると、巨大な顎を開いた。
「――――溶けて、滅せよ!! 黒毒棺!!!」
屍竜が吼える。同時に、決死の覚悟に思えるほど膨大な魔力が放たれる。
見れば屍竜の頭上には、超高圧縮された魔力の塊――黒い立方体がいくつも現れていた。それは一つ一つが高純度の毒であり、高濃度の瘴気であり、あらゆる物質を溶かして殺す致死の魔術だ。
黒い立方体は、情け容赦なく、雨が降るような勢いでヤンフィ目掛けて落下する。
そんな黒い立方体の雨を前にして、タニアとセレナは目を見開いて焦りを見せた。マズイ、と口走り、一瞬だけ躊躇するも、すぐさまヤンフィを置いて大部屋から逃げ出していた。
タニアたちが脱兎の如く逃げ出すほど危険な魔術――しかし、それを前にして、ヤンフィは、嗚呼、と残念そうに嘆きの吐息を漏らしていた。
「屍竜よ、それは悪手じゃ――妾を舐めるなよ?」
ヤンフィは嘲るように云って、左足で一歩踏み込むと同時に、七星剣を逆袈裟に振るった。天を切り裂くように、頭上で見事な半円を描いた七星剣は、まるで流星の如く、美しい輝きを散らす。
「固有奥義――天地無双」
ヤンフィが静かにそう宣言すると、煌めく星の輝きをした七星剣の軌跡が、頭上から降り注ぐ黒い立方体の雨を防ぐ。それはまさに傘のようだった。
黒い立方体は軌跡に触れたが最後、一瞬で極小の細切れに切り裂かれて、弾かれて、空中で空気に溶けるように霧散する。
ビシャア、と嫌な音を立てながら、ヤンフィの立ち位置周辺が、切り裂かれた黒い立方体の強力な酸で溶けていた。たちまち凄まじい致死性を持つ毒霞が大部屋を包み込む。
ヤンフィは流れる動作で七星剣を足元に突き立てた。すると途端、足元の床に七つの星が輝き、花火のように真上に放たれた。それは屹立する光柱である。
「――喰らえッ!!!!」
一方で、ヤンフィが【黒毒棺】を防ぐ様を見ながら、屍竜は渾身の【竜の息吹】を放っていた。それは竜族の奥義であり、必殺とも云える物理特性を併せ持つ魔力攻撃である。
「……端から、毒や瘴気ではなく、尾の剣を使った物理攻撃であれば、妾を追い詰めることが出来たやも知れんのに……所詮、ゾンビに成り下がる程度の若輩じゃのぅ」
ヤンフィは突き立てた七星剣を引き抜いて、ゆるりとした動作で中段の構えを取る。その正面には、極大の【竜の息吹】が迫るが、少しも慌てた素振りは見せなかった。
「屍竜は急所がないのが特徴じゃが、代わりに弱点は多いものよ――」
果たして、竜の息吹はヤンフィに届くこともなかった。
大部屋を消滅させかねない威力を持つ息吹だったが、それは、周囲に屹立する光柱に当たった瞬間、霧状になって消滅する。
固有奥義【天地無双】――あらゆる存在を斬り裂く七星剣にして、唯一の防御特化奥義である。
七星剣を中心にして、天を覆う無数の見えない斬撃が、物理攻撃、魔力攻撃の悉くを切り裂き、防ぎ切る。一方、地から屹立する光柱は、それ自体が斬撃の軌跡であり、やはり接触した攻撃を例外なく切り裂き、防ぎ切る。
これは、物理攻撃ならば衝撃に至るまでのあらゆる運動エネルギーを切断して無力化し、魔力攻撃ならばその魔力核を切断することで魔術式を壊して無力化する。
ただし、使用における難点として、受け身でなければ発動しないことと、七星剣を中心に据えた半径二メートルの範囲内限定であることが挙げられる。ゆえに、使いどころを誤ると甚大な被害が出てしまう奥義でもある。
とはいえ今回のように、ヤンフィ目掛けて放たれる攻撃であれば、完璧な防御と相成る奥義だ。
「――例えば、脊髄を破壊されるとか、のぅ? ほれ――【竜滅牙】じゃ」
渾身の必殺技が軽々と防がれたことに驚愕した屍竜に、ヤンフィは珍しくも引け腰でバックステップしながら、七星剣の突きを放つ。
その突きは、当然何も貫かず、あまつさえ何の魔力も剣気も放たれなかった。あまりにも拍子抜けに見える一撃で、思わず屍竜は呆気にとられる。
「…………? 何がした、い……っ!?」
ヤンフィは七星剣を突き出した残心の姿勢で、ジッとしている。その姿を見て、屍竜が疑問を口にした瞬間、その首を支える骨が砕け散った。
屍竜は一瞬、何が起きたのか分からず、あらゆる魔力の動きを見通す【竜眼】で攻撃の軌跡を探る。しかし魔力の軌跡どころか、剣気も覇気も衝撃波さえ、その魔眼には映らなかった。
何が起きたか分からぬまま、屍竜の首の骨は千々に砕け切断されて、頭部は重力に従い地面に転がっていた。
「――ガァッ!?」
唐突に声が出なくなり、視界がゴロゴロと揺れるのを感じて、屍竜は混乱の極致となる。その視界の端では、緩やかに傾いでいく自身の巨躯が見えていた。
「哀れじゃのぅ? 首をもがれて、四肢が動かせぬとは……」
そんな屍竜を前に、ヤンフィは愉し気に云うと、残心を解いて七星剣を血振りしていた。
ヤンフィの放った【竜滅牙】は、七星剣の固有奥義の一つで、【竜刃閃】と同じ特性を持った奥義である。
不可避であり、不可視であり、物理攻撃なのに物理的な衝撃を伴わず、意思の刃で対象部位を切り裂き抉り貫く奥義である。
攻撃速度が秒速10メートル程度と着弾まで遅いのが難点であり、着弾する前に妨害されてしまえば失敗すると云う扱い難い奥義だが、当たればあらゆる防御を無視する威力でもある。
「ふっ……死ぬにはまだ足りぬが、もはや勝負は決したのぅ」
ヤンフィは勝利の笑みを浮かべて、轟音を立てて倒れ伏した屍竜の胴体を横目に、転がった小さな頭部に近付いた。
「グァ、ッ……ぁ、ッ……」
「意識はあるじゃろぅ? 屍竜に成ってしまうとのぅ、容易には死ねぬのじゃ。死ぬには、魔力切れを起こすか、胴体を粉々にされるしかない。そしてのぅ……不思議なことに、頭部が吹っ飛んでも動けるくせに、頭部が胴体と離れると動けぬのじゃ」
「…………ぁぐぅ、ぁ」
「もはや咆哮も出来ぬし、抵抗も出来ぬぞ?」
ヤンフィは苛めっ子の顔で、転がった頭部を踏み付けながら、カラカラと笑った。屍竜は自由にならぬ頭部を蹴られながら、ピクピクと痙攣している首から下の胴体を眺めた。
ヤンフィの云う通り、屍竜はもはや指一本動かせない。しかし意識はハッキリしており、抵抗の意思だけは鮮明だった。
それゆえに、これから行われる行為を告げられた時、怒りや恐怖など生ぬるい絶望感に襲われた。
「おい、タニア、セレナよ。妾はいまから食事を摂る。視たくなければ、少しの間、部屋の外で待っておれ」
ヤンフィの言葉に、セレナもタニアも返事はなかった。けれど、大部屋に入ってこないことを思えば、観たくないというのは理解出来た。
「――――っッッ!!!?」
ふむ、と頷いてから、ヤンフィはまず屍竜の【竜眼】を躊躇なく刳り貫いた。屍竜は声を出せずに、頭部を痙攣させる。それが伝わったように、胴体もビクビクと揺れていた。
「……久しぶりの【竜眼】じゃ。毒気があるが、魔力濃度は申し分ない……この鼻を衝く異臭、舌が痺れる不愉快さ、喉元にへばりつく不味さ……ふむ。幾星霜経とうと、竜眼の味は変わらぬのぅ」
ヤンフィはそんな美食家じみた感想を漏らしながら、屍竜の眼球を噛み砕き、ゴクン、と呑み込んだ。ぐいっと口元を拭えば、若干だけ身体が軽くなった感覚がある。
全盛期にはほぼ遠いが、全力の一割前後の回復が出来たのを実感する。
「さて――次は、翼じゃのぅ」
ヤンフィはあえてそう口にしてから、頭部を蹴飛ばすと、痙攣している胴体に向かう。
ここで注意しなければならないのは、先に頭部を破砕しないようにすることだ。頭部を破砕してしまうと、途端に胴体が動き出す。
ヤンフィは経験上、屍竜の特性を完全に熟知していた。
そうして、思いがけぬ魔力供給に舌鼓を打ちつつ、三十分ほど時間を掛けて屍竜を解体して喰らったヤンフィは、満足気な顔でタニアとセレナを呼んだのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ヤンフィに呼ばれて大部屋に入ったタニアは、その惨状をチラと見て、すかさず視線を外した。そうしないと、傍らのセレナのように、無様に胃の中のものを吐いてしまっただろう。
いままで凄惨な状況は嫌というほど見てきたし、そんな状況を作り上げても来た。
しかし、そんなタニアでさえ、幼子にしか見えないヤンフィが口の周りを紫色に染めて、腐った竜種の肉を貪る光景を見たら、さすがに平静では居られない。
「…………にゃぁ、ヤンフィ様。お腹、壊さにゃいにゃか?」
げぇげぇ、と壁に向かって吐いているセレナを横目に、タニアはか細い声で問うた。するとヤンフィは、カラカラと笑いながら、口元をサッと拭う。
「妾が喰らっておるのは、魔力であり、瘴気じゃ。確かに彼奴の毒素は、かなり内臓に響くが、この程度ならば、妾の魔術耐性で充分に耐えられる」
「……いや、むしろ、瘴気を喰うにゃんて、正気にゃか?」
ゴクリ、と酸っぱい胃液を呑み込みつつ、タニアは恐る恐ると首を傾げる。それを鼻で笑い、ヤンフィはクルリと背を向ける。
「魔王属に成ってから、正気だった瞬間なぞ在りはしない。まぁ、じゃが……心配されるのは悪い気がしないのぅ」
ヤンフィは嬉しそうな声音で囁いて、散乱している屍竜の残り滓を足蹴に、正面に聳えている【生贄の柱】を見上げた。
釣られてタニアも生贄の柱を見上げて、ふぅ、と深呼吸をする。ここからが本番である。
「…………うぅ……気持ち、悪い……」
ヤンフィとタニアが生贄の柱を見上げてしばらく経つと、ようやく復活した様子のセレナが、それでも口元を抑えながら、よろよろと近づいてくる。
そんな弱々しいセレナを見て、タニアは、やれやれ、と呆れて見せる。
「セレナ、情けにゃいにゃぁ。吐き気がするにゃら、自分に治癒魔術掛ければ良いにゃ?」
「…………あのねぇ……治癒魔術じゃ、こういう自律神経系の異常は……ぅ……回復、出来ないのよ? それこそ、聖級の【全異常治癒】が、扱えれば、別だけど……」
セレナのそんな言い訳を聞きながら、タニアは改めて生贄の柱に向き直る。赤黒く腐臭を放つ巨大な柱は、内側で不気味な胎動をしていた。
目を細めてジッと注視すると、外側の結界が透けてきて、内側で蠢く何かが、様々な人族の血肉であることが理解できる。
タニアはさらに強く集中して、生贄の柱を見詰める。すると、朧気ながらも、人族だった断片の一部に名前が浮かび上がり、次には種族が見えて、やがて魔力値が映り込む。
「……名前が被ってて、視難いにゃぁ」
タニアは強く【鑑定の魔眼】に魔力を集中させて、薄ぼんやりと浮かび上がった数多の名前を注意深く眺めた。それを読み解くまでには至らずとも、浮かんでいる名前が異世界の言語か、テオゴニア大陸の言語かくらいは見分けが出来る。
タニアがそうして柱を眺めていると、傍らのセレナが首を傾げた。
何をしてるのよ、と質問しようとしたセレナを遮って、その時、ヤンフィが口を開く。
「タニアよ。ここにコウヤの弟妹が居るかどうか、鑑定の魔眼なぞ使わずとも、もっと楽に調べる方法があるぞ? 気付かぬか?」
「――にゃ!? どういうことにゃ!?」
ヤンフィの衝撃的な発言に、タニアは一気に集中を乱した。途端に、先ほどまで見えていた名前の一覧は焦点がズレて見えなくなる。
タニアが振り向くと、ヤンフィは少しだけ安堵した風な顔を見せてから、傍らのセレナにも視線を向けた。セレナもタニア同様に、どういうことなの、と首を傾げている。
そんなタニアとセレナの反応に頷いてから、ヤンフィがゆっくりと説明を始めた。
「タニア、汝が持つ【神の羅針盤】――アレを使用すれば、コウヤの弟妹がここに居るかどうか、容易に調べられるじゃろぅ? その意味もあって、汝に持たせたと云うのに……」
「「――あ」」
ヤンフィの言葉に、タニアもセレナも同時にポンと手を叩いた。言われてから、今更ながらにそのことに気付いた。まったく失念していた。
確かに、聖王の七つ道具の一つ【神の羅針盤】であれば、思い描いた存在の位置を探し出すことが出来るだろう。場所によっては、膨大な魔力が必要になるが、それもタニアほどの魔力があれば、テオゴニア大陸中のどこでも問題ない。
仮に、既に死体となっていようとも、その事実は把握することが出来るだろう。
「……確かに、そうにゃ……んにゃ? でも、あれ?」
しかしその時、ふとタニアは別のことに気付いた――だとすれば何故、と。
タニアのその疑問は、ちょうどセレナも同時に気付いていて、んん、と怪訝な表情でヤンフィに顔を向ける。
そう――だとすれば何故、ヤンフィは囚われた異世界人を助ける為に、タニアたちと二手に分かれて別行動を選んだのか。クダラークで別行動を決めた理由は、そもそも囚われた異世界人たちの中に、煌夜の弟妹が居る可能性を考慮したからである。
羅針盤で事前に弟妹の場所を調べていれば、別行動する必要さえなかったのではないか――
「ふっ――察しが好いのぅ。うむ、汝らの疑念は当然じゃ」
タニアたちのそんな疑問に、ヤンフィは満足気に頷いていた。その顔は、想定通りとでも言わんばかりの表情である。
「――別行動なぞせず、あの場でコウヤの弟妹を探れば疾かった、じゃろ? じゃが生憎のぅ、あの時はその選択肢を選べなかったのじゃ。それを知ってしまえば、コウヤは間違いなく、我が身を顧みずに弟妹を優先する。そうなることを避けたかった。あの時はまだ、コウヤを回復させることが第一優先じゃったからのぅ……なればこそ、この選択肢をコウヤに悟らせるわけにはいかなかった」
ヤンフィの言葉に、どういうことにゃ、とタニアはいっそう混乱する。コウヤを回復させるとは、何のことを言っているのか。
「――と、そんなことはどうでも良いわ。ほれ、タニアよ。サッサとコウヤの弟妹が居ないことを調べよ」
ふと、タニアたちの疑問を誤魔化すように、ヤンフィは話を切り上げて、正面の生贄の柱を指差した。優しく軽い口調だが、しかしその威圧は有無を言わせぬ迫力を伴っており、半ば命令に等しい台詞だった。
タニアはハッとしてから、道具鞄の中から掌サイズのガラス球――【神の羅針盤】を取り出した。
「えーと、コウヤの弟妹……あったにゃ、この子たちにゃ」
羅針盤を右手に、煌夜の弟妹を写した記憶紙を見詰めて、強くその所在を思う。すると、途端に凄まじい勢いで魔力が吸い出されて、羅針盤の中に浮かぶ矢印に魔力が集中した。
矢印はクルクルと回転をしていたが、やがてヤンフィの立っている方角を指し示してピタリと止まった。むろん、その方向には生贄の柱はない。
「…………あれれ、にゃ?」
「ふむ、こちらの方角――ん? 何じゃ?」
矢印の向きが固定された羅針盤を覗き込んだヤンフィが、その方角に顔を向けた瞬間、再び羅針盤の矢印がクルクルと回り出した。
「……タニア、遊んでないで意識を集中しなさいよ」
「あちしは、遊んでにゃいにゃ……けど、にゃるほど……」
一向に定まらない矢印を見て困惑しているヤンフィと、タニアが遊んでいると決めつけて叱責するセレナ。そんな二人に、しかしタニアは何やら得心顔で頷いた。
「…………つまり、こういうことにゃ」
しばしクルクルと回っていた矢印は、しかしタニアのその台詞で、唐突にピタリと動きを止めた。矢印の向いた方角は、先ほどとは一転して、ヤンフィの立つ位置とは真逆の方角だった。
そして、にゃ、とタニアがもう一つ頷くと、矢印がほんの数ミリ横にズレて、その後、すぐさまグルリと一回転してから、再び先ほどと同じ方向を指し示す。
「何がしたいのよ、タニア?」
ニヤリと会心の笑みを浮かべるタニアに、セレナが呆れた視線を向けてくる。その横で、ヤンフィはタニアの言わんとしていることに気付いて、驚愕の表情を浮かべた。
タニアはそんなヤンフィに、そうにゃ、と頷いてから、注ぎ込んだ魔力を通して羅針盤から与えられた情報を口にする。
「――コウヤの弟妹は、三人とも別の場所に居るにゃ。一人はここから北東、距離にしておよそ四千キロくらいにゃ? 距離感的には、【竜騎士帝国ドラグネス】領にゃ。あと二人は、ここから西に、二千キロから二千五百キロくらいの範囲に居るにゃ。【聖王国テラ・セケル】領内、恐らく【王都セイクリッド】周辺にゃ」
タニアの言葉に、セレナが口を開けて唖然としていた。一方でヤンフィは、予想通りの内容だったからか、やはり、と呟き、納得した様子で頷いた。
「……タニアよ。コウヤの弟妹は、生存しておると思って大丈夫かのぅ?」
「にゃ! これは、生きてる反応にゃ――死んだ反応じゃにゃいのは、間違いにゃいにゃ」
「ふむ、それは重畳」
ヤンフィの満足気な頷きに、タニアも力いっぱい頷いた。同時に、神の羅針盤に魔力を注ぐのを止める。
「……ねぇ、ちょっと……あたし、まだ話に付いていけてないんだけど……え、つまり?」
「セレナよ。今は汝の理解を求めてなぞおらぬ――さて、そうと分かれば、サッサと【生贄の柱】を片付けるぞ」
セレナが困惑顔でタニアに挙手した時、ヤンフィがピシャリと断言して、目の前に聳える生贄の柱を指差す。放たれる有無を言わさぬ威圧に、セレナはビクリと身体を震わせた。
「そうにゃ、そうにゃ――とりあえずここを破壊するにゃ。そしたら、詳しく説明するにゃ」
タニアはヤンフィの言葉に賛同しながら、セレナに鋭い視線を向ける。それは催促であり、関係ない話をするなという非難の視線だった。
セレナは二人の視線に頷いてから、分かったわよ、と呟きながら生贄の柱に手を触れた。
「えーと……こう、だったわよね?」
セレナが首を傾げながら、生贄の柱が常時展開させている特殊結界魔術に干渉する。途端、ビリビリと感電するような衝撃がセレナを打ったが、麻痺するほどではなかったようだ。
セレナは一瞬だけ苦々しい顔を浮かべたが、気にせず魔力を集中させる。
「――にゃぁ、ヤンフィ様。これで結界が解けた瞬間、あちしが【魔槍窮】を放てば、それで終わりにゃ?」
「そうじゃ――じゃが、タイミングを見誤ると、汝の魔槍窮程度では結界に吸収されるぞ?」
「…………魔槍窮、程度にゃぁ……」
ヤンフィの忠告に、タニアは人知れず肩を落として意気消沈した。タニアにとってその台詞は、屈辱的であると同時に、反論しようもないほどの事実である。ヤンフィにそういう意図はないが、タニアからすれば、己の力不足をけなされているように感じてしまう言葉だった。
――とはいえ、そんなことでいちいち沈んでいても仕方ない。
「気持ち、切り替えるにゃ――」
タニアは言い聞かせるようにそう呟いて、スゥ、と大きく深呼吸する。瞬間、全身から炎のように揺らめく魔力が、まるで重戦士が装備する重鎧のようにタニアの全身を覆った。
「――【魔装衣・重鎧】にゃ」
タニアはそう宣言しながら、グッと腰を落とした。すると、ズン――という音を立てて、ブーツが床にめり込んだ。
【魔装衣・重鎧】――数ある【魔装衣】の形態の中で、最も防御に特化した形態であり、数ある【魔闘術】の中で、唯一の防御技に分類されている。この形態は、あらゆる衝撃に対して驚異的な防御力を誇るが、代わりに術者の体重をおよそ数百倍に増加させて、その場から動けなくさせる効果がある。
正直、戦闘では全くと言っていいほど役に立たない形態だが、踏ん張る際には重宝出来る。
「……人族形態で、全力本気の【魔槍窮】は、さすがに踏ん張り切れにゃいからにゃぁ……」
タニアはニヤリとほくそ笑みながら、グッと身体を捻って右拳を引き絞った。タニアの全身から溢れる高純度の魔力が右拳に集中して、嵐の如き魔力の暴風が大部屋の中を吹き荒れる。
「凄まじいのぅ――それほどの威力であれば、或いは、結界ごと消滅させられるやも知れぬぞ?」
ヤンフィが感心した風に呟いた。だが、タニアはそれを鵜呑みにはせず、セレナが結界を解く瞬間を見計らう。もし万が一、結界ごと消滅させられなかった時に、落胆はしたくない。
「――あたしがここから離れたら、結界が解除されるわ!!」
台風のように暴風が吹き荒れる中、セレナが精いっぱいの大声を張り上げた。それを耳にしながら、タニアは微動だにせず腕を引き絞ったままで、その瞬間をひたすら待つ。
一方で、ヤンフィは想像以上の暴風に煽られて、大部屋から退避して廊下に腰を下ろしていた。
「ッ、今――よっ!!」
セレナの叫びと、パキン、という空間が割れるような音は同時で、直後、生贄の柱がぐにゃりと撓むのが分かった。そんな光景をチラ見しつつ、セレナは血相を変えて大急ぎにその場から退避する。
タニアはセレナの退避を確認してから、引き絞った右拳を高速で撃ち出す。
音を置き去りにした速度で放たれたそれは、緑色の閃光となって生贄の柱に突き刺さり――刹那、黒い穴が現れて吸い込まれた。
しばしの間、ピンと空間が張り詰めて、無音の静寂が大部屋を支配した。生贄の柱は撓んだまま、姿を変えずにそこに在った。
「ふむ、見事じゃ」
すると不意に、ヤンフィがパチパチと手を叩いた。タニアはその拍手に反応して、チラと背後を振り返る。
「ほれ――崩れるぞ」
ヤンフィは言いながら立ち上がり、退避したセレナに目配せしてから、タニアを一瞥すると生贄の柱を指差した。それに促されるように、タニアもセレナも生贄の柱に向き直る。
その時、ヒャーン、という不思議な響きの甲高い音が鳴り渡る。
見れば、撓んだ生贄の柱が内側から膨張しており、破れた風船の如く、ところどころから白煙が燻っていた。
そして次の瞬間、生贄の柱は表面がドロドロに溶け出して、ドチャリ、と臓物がぶちまけられるような音を響かせながら、その場に崩れ落ちた。
現れる赤黒い血の海。
血の海に浮かぶ無数の人骨。
空間に充満する腐った生ものの悪臭。
それら吐き気を催す凄惨な光景を前にして、セレナがまたもや口元を押さえていた。
けれど、セレナの気持ちは痛いほど分かる。タニアも以前に一度、同様の光景を見ていたが、何度見てもこれは慣れることはないだろう。
あまりにも胸糞悪くなる光景に、タニアは苛立ちから拳を握り締めて歯噛みする。もはや年齢も性別も分からない大量の人骨を眺めて、つくづくこの魔法陣を設置した術者を嫌悪した。
「さて、ひとまず【魔神召喚】とは異なる魔法陣じゃったが、一つの異界は潰えたのぅ……取り敢えずここから撤収するぞ」
「……はいにゃ」
「ええ……ぅぅ……」
ヤンフィの号令に頷きを返して、タニアは生贄の柱があった大部屋から踵を返す。遅れないようセレナも大部屋を後にするが、臭気に当てられたか、廊下の端で無様に吐いていた。
「――想像以上に、崩壊が疾いのぅ。セレナよ、異界の消滅に巻き込まれると死ぬぞ?」
蹲っているセレナに顔を向けずに、先行するヤンフィは大声でそう告げた。タニアも吐いているセレナを待たず、ヤンフィに遅れないよう足早に駆ける。
生贄の柱がなくなった影響か、異界と化していた空間はあちこちが揺らぎ始めており、胎動していた壁が徐々に収縮してくる。床からはヘドロのような水が湧き出てきて、天井も少しずつ下がっているような気がした。
急ぐにゃ、と呟きながら、タニアはヤンフィの後に続いて梯子を上る。
それから少しだけ遅れて、必死の形相でセレナも梯子に到達していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「……助かったぁ……」
小屋の中の薄汚い床に寝そべって、セレナが天井を仰ぎ見ながらしみじみと呟いていた。
タニアは小屋にあるベッドに腰を下ろして、一仕事終えた後のような顔で水を飲んでいる。
そんな二人を横目に、ヤンフィは今しがた上ってきた地下への梯子を見下ろして、地下空間が消滅する光景を眺めていた。
今までヤンフィたちが居た地下空間は、どうやら枯れて使われなくなった井戸を利用して創られていた異空間だったようだ。
異界化が収束して空間が消滅した今、それほど深くない梯子の底の地面には、壊れて破片と化している木桶、使用済みの複雑な魔法陣、生贄に捧げられたと思しき十数人分の人骨が転がっていた。
ヤンフィはその魔法陣をジッと見てから、はぁ、と疲れた色の溜息を漏らす。
「――術者の心中が、痛いほど判るのぅ……それほどに、この世界が憎いか……じゃが、真に恨むべきは、果たして世界かのぅ?」
ヤンフィは誰に言うともなくそう囁き、どこの誰とも知らぬ術者を同情するように瞼を伏せる。しかし、そんな下らない感傷は数秒で払拭して、さて、と声を出しながら顔を上げた。
「おい。セレナ、起きよ――まだ仕事は終わっておらぬぞ?」
ヤンフィは大の字に寝そべるセレナの頬をペチっと叩いて、ベッドに座るタニアに向き直った。
セレナはその刺激に慌てて飛び起きて、すかさず居住まいを正した。タニアも、ゴクン、と口に含んでいた水を飲み込んでから、話を聞く姿勢でヤンフィに向き直る。
そんな二人に薄く笑いながら、ヤンフィはその場にドカッと胡坐を掻く。
「さて、タニアよ。確認じゃが、地図が示す【魔神召喚】の魔法陣が在ると思しき箇所は、全部で幾つじゃったかのぅ?」
「七つにゃ。にゃので、残り六つにゃ――地図は、これにゃ」
ヤンフィの質問に対して、タニアが小汚いテーブルに地図を広げる。地図に描かれた赤い丸は、確かに七つ。その一つを指差しながら、タニアは続ける。
「今、あちしたちが居るのがここにゃ……次の位置は、こっちが一番近いにゃ。この距離感だと、ここからおよそ二キロくらいかにゃ」
タニアの説明に、ヤンフィは取り敢えず適当に頷いた。地図が読めないわけではないが、よく分からない地形と、赤い丸しか描かれていないそれは、ヤンフィには難解だった。
(……まぁ、妾が地図を読む必要はそもそもないがのぅ)
ヤンフィはそう思考すると、すぐさま地図から顔を上げて、タニアとセレナを交互に見る。
タニアは、にゃ、と首を傾げて、セレナは、何ですか、と一瞬身構えた。
そんな二人にヤンフィは改まったように背筋を伸ばして、ふむ、と一つ頷いた。
「――次の場所に向かう前に、約束通り、妾のここまでの経緯を語ろう……ともすれば、先ほど汝らが疑問に思った、【神の羅針盤】をどうして事前に使用しなかったのか、その理由も理解できるじゃろぅ」
ヤンフィはそう云って、タニアとセレナの返事を待たずに、二人とクダラークで別れた後の経緯を語り出した。
そこには少しの嘘偽りもなく、ヤンフィの思惑も含めて、何一つ隠し事なく語った。
煌夜が完治した今となっては、もはや二人に隠すことは何もなかったのだ。
そうして、タニアたちの冒険が余裕で霞むほどの濃密な経緯を語り終えると、気付けば、窓から覗く空は白みがかっていた。
そろそろ夜明けのようである。
変更前:あと二人は、ここから西に、二千キロから二千五百キロくらいの範囲に居るにゃ。距離感的には、【竜騎士帝国ドラグネス】領と【聖王国テラ・セケル】領にゃ」
変更後:距離感的には、【竜騎士帝国ドラグネス】領にゃ。あと二人は、ここから西に、二千キロから二千五百キロくらいの範囲に居るにゃ。【聖王国テラ・セケル】領内、恐らく【王都セイクリッド】周辺にゃ」