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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
外伝 セレナ
81/113

閑話Ⅹ 緑髪の悪魔/後編

 

 巨大すぎる玉座がちょうど良い大きさに思えるほどの体躯をした【暴食鬼(グール)】は、緩慢な動作でその巨躯を起こした。

 グルルルゥ――という、獣の唸り声のような恐ろしい音が、玉座の間に響き渡った。

 その音は、暴食鬼の腹部から轟いている。


「■■■■■」


 暴食鬼は、硬直しているセレナに六つの眼を集中させながら、ゆっくりと首を回す。同時に、四本の剛腕を目にも留まらぬ速さで動かして、四つの巨大な戦斧が鞭のようにしなった。戦斧は強烈な鎌鼬を発生させると、床や柱を削りながらセレナに向かって襲い掛かる。


 硬直状態のセレナは満足に反応出来ず、ただ無防備に立ち尽くしていた。


 とはいえ幸いにも、暴食鬼が放った鎌鼬は威嚇でしかなかったようだ。

 鎌鼬はセレナに直撃はせず、撫ぜるように脇を走り抜けて、正面扉に激突した。

 ドォオン、という爆裂音が響き、鉄製の正面扉が鎌鼬の風圧で拉げて、セレナの頬と首筋から血が噴出した。

 激痛というほどではなかったが、その痛みのおかげで、セレナはハッと正気を取り戻した。

 セレナは暴食鬼のその攻撃力の高さに冷や汗を掻く。目算で200メートルは離れているというのに、まるで距離を感じさせない威力である。

 油断すれば、一瞬で間合いさえ詰められるかも知れない。

 セレナは暴食鬼から視線を逸らさず、アジェンダから受け取った水晶を握り締めた。


「グォオオオッ――!!」


 暴食鬼が再び大きく吼えた。怒号のような響きのそれは、ビリビリと空気を震わせて、セレナの全身を恐怖に慄かせる。


「――『顕現せよ、分身』」


 しかしこの程度で怯えていても仕方ない。暴食鬼の咆哮を合図にして、セレナは呟くように呪文を唱える。

 次の瞬間、アジェンダから預かった水晶が眩い閃光を放ち、目の前に水人形が現れた。水晶に篭められている魔力はタニアのものだが、水人形の姿はセレナの姿を模していた。


「■■■■■」


 水人形の姿を見て、これで大丈夫だろうか、とセレナが不安になったとき、暴食鬼が何やらブツブツと独り言を呟いた。同時に、広い玉座の間が一瞬にして殺気で充満して、重苦しい緊張感に包まれる。

 どうやら暴食鬼が本気になったようだ。

 暴食鬼は緩慢な動作で玉座から降りて、セレナに向かって歩き出した。けれどその動きは、見た目の緩やかさとは裏腹に、瞬間移動したとしか思えないほどの速度を伴っており、一瞬にして水人形の眼前まで迫っていた。


「嘘、でしょ――!?」


 油断など微塵もなく、一瞬たりとも視線は逸らしていないが、それでもセレナはその暴食鬼の動きが見えなかった。当然反応さえも出来ず、気付けば死の象徴のような化物が眼前に迫っていた。

 ヤバイ、と思ったときにはもう遅い。

 暴食鬼は振り被った戦斧二つを、水人形とセレナ目掛けて叩きつけてくる。

 ところが、そんな馬鹿げた暴食鬼の動きに、唯一、水人形だけが反応していた。


 ガキン、と甲高い金属が鳴り響き、暴食鬼が振り下ろした戦斧が二つとも、粉々になって辺りに散らばった。


「■■■■■」


 暴食鬼の顔が驚きに歪んで、信じられないとばかりに声を漏らした――その瞬間、暴食鬼の顔面に水人形の拳が叩き込まれた。

 セレナでは視認できない速度の、音速を超えた正拳突きである。

 水人形の放ったその正拳突きは、鼓膜を痺れさせるほどの爆音を響かせて、暴食鬼を石柱に吹っ飛ばす。

 その衝撃波に当てられて、セレナは無様に尻餅をついていた。


「……あたしの姿だけど、中身は間違いなくタニアね」


 セレナは尻餅をついた状態で、拳を突き出して仁王立ちする水人形を見上げながら、しみじみとそんなことを呟いた。

 水人形がもし仮にセレナのコピーであったのならば、暴食鬼が振り下ろした戦斧の一撃で、もはや勝負は決していただろう。


「ガァッ――――ッ!!!」


 石柱にめり込んだ巨躯を起こして、暴食鬼が怒りの孕んだ絶叫を響かせる。ギョロリと、血走った六つの眼が水人形に集中していた。

 轟、と暴風じみた殺気が、セレナと水人形にぶつけられる。比率にして、三割がセレナ、七割が水人形といったところだが、それでもセレナの腰を抜かすには充分すぎる威圧である。


「……ちょ――待って!? ヤバ、ヤバいっ!!」


 暴食鬼の纏う魔力が一気に膨れ上がった。それと同時に、暴食鬼は持っていた戦斧を、セレナたちに向けて全力投擲する。

 二つの戦斧はブーメランのような回転を見せて、水人形の胴体と首を切断する軌道で飛んできた。その投擲には、暴食鬼の凄まじい魔力が篭められていた。

 戦斧の重さに音速を超える速度が合わさり、更には聖級レベルの魔力が付与された一撃――これはもはや、投擲という物理攻撃の範疇を超えた必殺に等しい攻撃だった。

 セレナは思わず頭を低くして目を瞑り、全身に上級の無属性防御を展開する。気休めにしかならないだろう紙防御であるが、展開しないより遥かにマシだ。


「ッ!? ■■■■■!」


 直後、地震のような大きな揺れと、稲妻が迸ったような空気の振動が巻き起こる。暴食鬼の驚愕の吐息と、何やら忌々しげな響きの声も聞こえてきた。


 セレナは恐る恐ると顔を上げた。

 するとそこには、両手を突き出して何かを受け止めた姿勢の水人形が立っていた。その周囲には、戦斧の残骸と思える金属片が散らばっており、受け止めたと思しき両手からは、きな臭い匂いと共に煙が立ち昇っている。


「…………まさか、受け止めたの? アレを?」


 セレナの質問に、水人形は答えなかった。

 ただ水人形は、セレナの目の前に盾のように立って、全身からいっそう激しい魔力と殺気を溢れさせる暴食鬼と相対している。


『指示を頭の中に思い浮かべれば、その通りに、動くぜ』


 ふとセレナの脳裏に、アジェンダのそんな説明が浮かんだ。そういえば、水人形には何の指示も出していなかった。だから動かずにジッと立ち尽くしているのか――


「なるほど……となると、さっきの攻撃は、あたしが距離を取ろうと強く意識したことに反応したのね。防御も、受けなきゃ死ぬって思ったからか……」


 セレナは、なんて都合の良い便利な分身、と口には出さずに続けた。

 守る、攻める、こうしたい、ああしたい、という抽象的な指示であっても、分身である水人形は、対応できる範囲でそれを叶えようとするようだ。しかもそれは術者の性能は一切関係せず、魔力提供者の性能に応じた動きになるらしい。


 つまり、セレナの目の前で仁王立ちしている水人形は、姿かたちこそセレナに似ているが、その能力は疑いようもなくタニアだということである。


 それが分かれば、なんと心強いことだろう。セレナはニヤリとほくそ笑んで、すかさず身体を起こした。

 分身とはいえ、化物の代表格であるタニアがここに在るという安心感は、セレナの抜けていた腰を元に戻すには充分だった。


「――――時間を稼いで!!」


 セレナは声に出しながら、頭の中でも強く命じた。

 方法は問わない――というよりも、セレナでは思いつかない。

 あわよくば倒してもよい――というか、むしろ殺すつもりで戦え。

 けれど――絶対にセレナを危険に晒すな。


「グァアゥウウ――――ッ!!!」


 セレナの指示に呼応するかのように、暴食鬼が雄叫びを上げる。その雄叫びと一緒に、雷みたいな腹の虫が鳴っていた。

 よほど空腹なのだろう。大きく開いた口からは、汚らしい涎が垂れている。

 そんな暴食鬼に背を向けて、セレナは鉄製の正門扉に駆け寄る。意識も暴食鬼ではなく、門扉に施された結界魔術に向けた。


「■■■――」


 隙だらけの背中を晒したセレナに、暴食鬼は何やら呪文じみた詠唱をしながら、六本の巨腕を蜘蛛のように広げる。その掌には人間の頭ほどの大きさをした魔力球が現れた。

 直接目にしていなくとも、その魔力球がセレナにとって致命傷になり得ることは、背中で感じる魔力量から容易に想像ができた。おそらく避けなければ、次弾を浴びて死に至るだろう。

 しかし、セレナは暴食鬼に振り向くことも、その意識を向けることもせず、正門扉に張り付いて慎重に結界魔術の核を探った。

 セレナの無防備な背中に向けて、暴食鬼が全ての腕を振りかぶる。そして、魔力球がその剛腕から放たれようとした瞬間――


「――――ッ、ガァッ!?」


 セレナに命じられたタニアの分身(水人形)が、およそ70メートルの距離を一歩で詰めて、暴食鬼の心臓に掌底を叩き込んでいた。

 パァン、という風船が割れたような音が響き、暴食鬼の魔力球はすべて霧散する。同時に、暴食鬼の剥き出した豊かな左胸が、トマトを潰したように真っ赤に染まって、跡形もなくなっていた。

 血煙が上がり、床一面に血が飛び散った。

 暴食鬼は苦痛に顔を歪めて、その巨躯をくの字に曲げると膝をついていた。


「ッッッ――!?」


 刹那、膝をついた暴食鬼の顎を、水人形が繰り出した渾身の左アッパーカットが捉える。

 ガクン、と膝を折った瞬間の突き上げである。それは、トドメの一撃と言っても過言ではないほど、完璧に決まった技だった。

 実際、その左アッパーカットで、暴食鬼の巨躯は浮かび上がり、勢いよく天井に激突していた。


「……ッ、ガ……」


 暴食鬼はそのまま受け身も取れずに落下して、力ない声を上げながら転がった。首の骨は明らかに折れており、先ほどまで血走っていた六つの瞳はすべて白目を剥いている。

 けれどそれで終わるほど、タニアの分身である水人形は甘くはない。


 ――まあ、とはいえそもそも、殺せるならば殺せという命令である。まだ死んでいないならば、追撃して然るべきではある。


 水人形は、無様に転がった暴食鬼の脚に踵落としを放った。

 その踵落としの威力は、暴食鬼の丸太並みに太い脚を軽々と両断して、床に穴を穿ったほどである。ビクン、と大きく、暴食鬼の巨躯が痙攣する。

 そのまま続いて中空に飛び上がり、指を組んだ両手を振りかぶると、それを暴食鬼の後頭部に槌の如く振り下ろす。落下速度に自重を加えて、渾身の腕力と魔力を篭めた打ち下ろしである。


「――――ギィ、ッ!?」


 バキン、という砕ける音が響き、暴食鬼の巨躯が激しい痙攣を始める。それを見て、水人形はバックステップで一歩離れた。


 絶好の好機に、しかし水人形は追撃の手を緩めた。


 こんな光景を見たら、おそらく十人中九人の冒険者は、何を躊躇っているのか疑問に思うに違いない。

 ここまでの応酬だけ見れば、暴食鬼と水人形には覆せないほどの実力差があるように思えるだろう。

 実際、水人形はいまだ無傷であり、暴食鬼が一方的にダメージを負った風にしか見えないのだから。


 暴食鬼はもはや虫の息であり、絶命する寸前――ほとんどの冒険者はそう考えるに決まっている。ところが、この程度で死ぬほど暴食鬼は雑魚ではない。腐っても、暴食鬼は魔貴族である。


「…………妙に、静かになったわね?」


 ふとセレナが背後を振り返ると、そこには倒れ伏してビクビクと痙攣する暴食鬼と、少し離れてその様子を窺っている水人形がいた。

 暴食鬼の倒れている床には、ドス黒い血液がどんどん広がっており、パッと見た感じでは勝負はもう決した様子だ。

 だが、張り詰めた空気は相変わらずで、暴食鬼の魔力にも些かの変化もない。


 セレナは結界解析の手を一旦止めて、無言で立ち尽くす水人形と暴食鬼の動向をしばし窺った。

 何かが起こる予兆があり、それに巻き込まれたら危険だという予感があった。


 水人形は力強い構えで暴食鬼を注視しており、セレナが幾度も脳内で、攻めろ、と指示を飛ばしても一向に動かなかった。

 暴食鬼は巨躯をビクビクと痙攣させて、無言で倒れ伏している。しかし放たれる殺気、瘴気は衰えるどころかいっそう強くなっており、セレナの不安はどんどんと増している。


(……なんか、魔力の波動が強くなってない? 嫌な、感じが――ッ!?)


 セレナの予感は最悪の形で的中した。

 セレナはそれを見た瞬間、なりふり構わず暴食鬼と正門扉の斜線上から逃れるように転がり、水人形に防御を命じた。


「■■■■」


 その暴食鬼の囁きは、何らかの簡略詠唱のようだった。しかも詠唱はなぜか、砕けた頭部からではなく、玉座の間の天井付近から聞こえた。


 それは空間が歪むほどの超ド級の魔力爆発だった。


 爆発の衝撃は暴食鬼の身体を中心として巻き起こり、広大な玉座の間を瞬く間に包み込んだ。


「ぐぅ――ッ!?」


 質量を伴った凄まじい圧力の魔力波が、セレナと水人形に襲い掛かる。それは物理的な衝撃波と、皮膚を焼け焦がすほどの熱波だった。


 玉座の間に整然と立ち並ぶ石柱が、次々と真ん中から砕けて瓦解する。

 暴食鬼の巨躯を中心にして、放射線状に衝撃波が走り、壁面と床面にその跡を刻み込む。

 空気中の水分が蒸発したかの如く渇き、赤熱した高温の風がセレナたちに叩きつけられた。


「――――っ、くそ……『癒しの風よ。彼の者に活力を与えよ』!!」


 セレナは咄嗟に上級防御魔術を展開したが、その防御魔術では暴食鬼の魔力波を防ぐことは出来ず、一瞬のうちに消滅した。しかもタニアが用意してくれた装備もあちこち破れて、焼けて、崩れている。当然ながら魔力強化したセレナの皮膚も、瞬く間に焼け爛れて傷ついていく。

 セレナは衝撃波を浴びて無様に転がりながら、自身の身体に上級治癒魔術【癒しの風】を展開する。そうしなければ、あっという間に死ねるだろう。それほど熱波と衝撃波によるダメージは凄まじかった。

 実際、暴食鬼の魔力波はセレナの治癒力を軽く上回っており、治癒し続けているのにダメージが累積していく状況である。

 一方で、水人形はそんなセレナの正面に陣取り、両手を広げて衝撃を庇うように立ち尽くしていた。


 暴食鬼が放ったその圧倒的な破壊の嵐は、断続的に熱波と衝撃波をもたらして、玉座の間全体に死を振り撒いていた。

 玉座の間は高濃度の瘴気と魔力に満ちて、皮膚が焼け焦げるほどの灼熱地獄と化した。

 吹き荒れる灼熱の暴風の中、セレナは全力で防御に注力しながら必死に耐えた。


「■■■■――っ!!」


 その時、ふたたび玉座の間の天井付近から、叫びにも似た詠唱が響き渡る。途端、爆心地である暴食鬼の巨躯から、先ほどよりもいっそう強い魔力波が発生する。


(…………ヤバい。水人形の、魔力が……どんどん削られてく……)


 セレナは正面に立ち尽くす水人形を見て、絶望的な現状を嘆いた。水人形を形作る魔力が、加速度的に雲散霧消していくのが分かった。


 ところで、暴食鬼の展開した第二陣の魔力波は、先ほどとは異なり、あらゆるものを吹き飛ばすような衝撃はなかった。また灼熱の熱波や極寒の寒波ということもなく、直接的な物理ダメージは伴わなかった。

 だがその代わり、その魔力波は、緩やかにすべてを風化させる効果があり、放射線状に展開した魔力波に包まれた瓦礫が瞬く間に風化して散っていく。


 セレナはこの状況で、まったく身動きが取れなかった。

 ただただ自身に、防御結界、身体強化、治癒魔術を多重展開して、耐えることしか出来なかった。


「このままじゃ……死ぬ、かも……」


 状況が好転せず、ひたすら悪化する現状に、セレナは弱音を吐く。甘く見ていたつもりはないが、暴食鬼という魔貴族の強さを見誤ったかもしれない。

 少なくとも、暴食鬼がこんな継続効果のある広範囲攻撃魔術を使うとは想定外だった。


 このままでは、セレナの弱音通りに水人形ともども暴食鬼に殺される。

 そんな未来が容易に想像できた。


 セレナがそう絶望した瞬間、バキン――と、背後から鈍い金属音が響いた。


 チラリと振り向くと、セレナの背後にある鉄製の正門扉に大きな亀裂が入っており、空間が歪んでいるのが分かった。

 そして、バキバキ、メキメキ、と、魔力波を浴びた正門扉が次々と悲鳴を上げ始める。

 正門扉の亀裂は見る見るうちに広がり、扉全体が錆びてボロボロとこぼれる。同時に、歪んだ空間が目に見えて捻じ曲がり、正門扉に施されている結界魔術が軋み始めていた。


「ガァァアアアアッ!!!」


 瞬間、倒れ伏していた暴食鬼がバッとその巨躯を起こして、大絶叫を上げた。それは痛みを訴える悲鳴のようであり、怒りを孕んだ怒声のようだった。

 そんな激情の大絶叫と共に、暴食鬼の全身から今までの比ではないほどの魔力が溢れた。

 その魔力は瞬時に巨大な球体を形成して、水人形狙い――すなわち、斜線上のセレナに向って放たれた。


「ッッ!!?」


 水人形に迫るその巨大な魔力球体は、躱さなければ確実にセレナが死ぬだろう威力だった。それこそ、デイローウ大森林で遭遇したタイヨウの攻撃と遜色ないほど強力である。

 セレナは驚愕を浮かべると同時に、多重展開していたすべての魔術を解除して、身体強化のみに全神経を注ぐ。

 セレナの反射神経、回避能力では、おそらく避けるのは間に合わない――

 それ故に、セレナは水人形に指示を出して、自らを思い切り蹴り飛ばしてもらった。これは苦肉の策だったが、いま採れる最善の回避行動でもあった。

 その水人形の蹴りは、防御していてさえ、意識が刈り取られそうになるほど強烈な蹴りだった。けれどおかげでかろうじて、セレナは暴食鬼の魔力球を回避した。

 一方、轟々という爆撃にも似た轟音を響かせながら、魔力球は水人形を飲み込んで、勢いそのまま歪んだ空間を破壊して、悲鳴を上げる正門扉に激突した。


 まばゆい白色の爆発が巻き起こり、正門扉は跡形もなく消滅する。

 図らずも、セレナが解除しようと苦戦していた結界魔術ごと、そこには何もなくなっていた。


「――ビックリにゃぁ、突然にゃにかと思ったにゃ」


 凄まじい爆発が終わったとき、そこには、涼しげな表情で拳を突き出した姿勢のタニアが立っていた。

 タニアはその全身に【魔装衣】を纏っており、立ち姿から推測するに、先ほどの巨大な魔力球体を、より強力な魔術攻撃で相殺させたようだった。


「にゃぁ、セレナ……結界を壊してくれたのは有難いにゃが、ちょっと……これはやりすぎじゃにゃいかにゃ?」


 突き出した拳を下ろしながら、タニアは無様に転がっているセレナに呆れ顔を向けていた。

 言われてよくよく見れば、タニアの周囲には、魔力球体の被害者だろう冒険者たちの肉塊が散らばっていた。

 肉塊、という表現なのは、倒れ伏している死体たちは、どれもこれも五体満足ではないからだ。


 パッと見た限りで、九人分の胴体が確認できた。

 どれもこれも、力尽くに圧し潰されたような悲惨な状態である。

 五体満足でいるのは、タニアの後方で被害を免れた数人の冒険者と、アジェンダ率いる『アジェンダの夜明け団』のメンバーだけだった。


 なるほど、少なくともアジェンダたちは、口先だけの冒険者ではないらしい――と、セレナが思考した瞬間、聞いた者を恐慌に陥らせるような咆哮が轟いた。


「グォオオオオッ!!!!」


 知性を感じない怒りの咆哮。

 それは、片脚一本で立ち上がった暴食鬼の絶叫である。


「……アレが、グールか……想像以上の化物じゃねぇか……けど、そんな化物を、セレナ独りであそこまで削ったのかよ……『コウヤと頼りになる愉快な仲間たち』って、どれだけ頼りになるんだよ……」


 暴食鬼の絶叫が鼓膜を震わせた直後、静まり返った戦場に、アジェンダの独り言がやけに大きく響いた。

 また同時に、魔貴族(アール)の威容を前にして、怯えた何人かの冒険者たちが、ゴクリ、と生唾を呑む音が聞こえる。


「チッ……タニア、サッサと交代してよっ!! あたしじゃ、これ以上――」

「――セレナ、避けるにゃ!!」


 セレナは咆哮する暴食鬼から視線を逸らさず、急いで起き上がり、戦闘態勢で動かないタニアに向って怒鳴るように懇願する。しかしそんな懇願を遮って、タニアは慌てた表情で、玉座の間の天井付近を指差して、避けるにゃ、と叫んだ。

 何を言っているのか分からないセレナは、へ、と思わず気の抜けた音を漏らす。


 正面の暴食鬼は、六本の剛腕すべてに拳大の魔力球を出現させており、今にも投擲する気満々である。だが、それを投擲したところで、セレナとの間にはまだ水人形が居る。防御は充分に間に合うだろう。


「――■■■、■■!!」


 タニアの指示した頭上から、何やらよく分からない詠唱が聞こえてきた。セレナはゆっくりと、声がした方に顔を向ける。


 そこでセレナが眼にしたのは、凄まじい魔力が高圧縮された巨大な炎の球体――極小の太陽だった。

 極小の太陽は、控えめに見ても聖級に匹敵するだろう威力の魔術である。セレナでは打ち消しようがない破壊力を秘めた一撃だ。


 そんな致死の魔術を目の当たりにして、セレナは恐怖から、凍ったように硬直していた。

 避けろ、というタニアの叫びに、反応さえ出来なかった。脳内が真っ白になっている。


「チッ……まったく、困ったセレナにゃぁ――【魔槍窮(まそうきゅう)】ッ!!」


 反応できないセレナにその時、タニアが、仕方ない、と苦笑を浮かべながら、すかさず拳を突き出した。

 その拳からは、極小の太陽と同じくらいの威力をした【魔槍窮】が放たれた。


「ガァァアアッ――!!」


 一方で、水人形と対峙している暴食鬼の剛腕からは、拳大の魔力球が放り投げられる。その狙いは水人形であり、その射線上に位置しているアジェンダたちである。

 時速170キロを超える豪速球の魔力球は、まるでレーザー光線のように真っすぐと伸びていき、水人形の右肩に直撃した。

 ドン、と小規模の爆発が発生して、魔力球は水人形の右肩を吹き飛ばす。

 水人形は右腕を失い、よろりとバランスを崩した。直後、よろけた水人形の顔面、胴体、脚部と次々に魔力球がぶつかった。

 そうして暴食鬼が六球すべて投げ終えるのと同時に、セレナの頭上で、極小の太陽とタニアの魔槍窮が激突する。


 凄まじい金色の閃光が迸り、玉座の間が光で満たされた。

 瞳を開けていることが出来ないほどの光量に、セレナはギュッと瞼を閉じて、無意識のうちに身体を丸める。


「こんなん……付いて、けねぇ――おい、俺らは離脱して、遠距離支援だっ!! 足手纏いになるくらいなら、後腐れなく死ぬぞッ!!」

「――ッ!!」


 遅れて迸った暴風の如き衝撃波に晒されながら、玉座の間の外から聞こえてきたそんなアジェンダの叫びを耳にして、セレナはハッと意識を戻された。

 薄目を開けて、声の聞こえた方に視線を向ける。


 アジェンダたちはそうするのが当然のように、迷わず素早く全速力でタニアから遠ざかっていた。


 炸裂した魔槍窮の威力、暴食鬼の想像以上の戦闘力、威圧感を目の当たりにして、ようやく自分たちがただの役立たずでしかないことを悟った様子である。

 遅い判断だが、正しい形勢判断でもある。しかも彼我の実力差を見極める眼と、迷わず撤退を選択できる決断力は、さすがAランク冒険者と言えるだろう。


 セレナは素早く散開するそんなアジェンダたち生き残りの動向を見て、幾分か思考が動き出す。


「セレナ、お前、暴食鬼(グール)を倒すにゃ!! あちしは、上の奴をやるにゃ!!」

「――はぁ!? ちょ……上の、って何よっ!?」


 冷静になり始めたセレナに、突如、タニアが興奮気味にそんなことを叫んだ。その視線はセレナの頭上、極小の太陽が発生した付近を見ており、口元は緩くにやけている。


 何を見ているのか――と、セレナが意識を上に向けた瞬間、タニアが続けて衝撃的な事実を告げた。


「【屍操術師(ネクロマンサー)】にゃ――ここには、【暴食鬼(グール)】と【屍操術師(ネクロマンサー)】の二体、魔貴族(アール)が居るにゃっ!!」


 タニアの言葉に、セレナは一瞬だけ思考を停止させた。

 視線は頭上の何もない天井に向き、意図せずに意識が集中する。すると視線の先、天井付近に、朧気ながらも人型の魔貴族が浮いているのが見えた。


「――――ッ!?」


 セレナは目を細めて、魔力を瞳に集中させた。浮かんでいる魔貴族の周囲には、透明な魔術膜があるようで、それがセレナの認識を狂わせているようだ。

 集中しないとすぐに見失いそうになるほど、かなり高位の幻視魔術である。タニアに指摘されなければ、セレナの独力では看破できないだろう。


「■■……■■」


 セレナとタニアの視線が集中するのを自覚してか、宙に浮かんでいる魔貴族は、何やら魔神語で独り言を呟いた。途端、姿を隠していた幻視魔術がパッと解除される。


 中空にその魔貴族の姿が、ハッキリと浮かび上がった。


 魔貴族は完全な人型で、140センチほどの矮躯をしており、額に一本角を生やしていた。

 その目元は黒い布で覆われて隠されており、口元からは狼のような鋭い牙が見える。

 肩口に掛かるほどの長さの瑞々しい黒髪で、雰囲気は二十代の青年然としていた。しかし実際の性別は不明だ。

 身に纏った襤褸のような赤黒いローブはその体型を曖昧にしており、まるで胸を隠すように両手を胸元で重ねた姿勢をしていた。


 見た目だけで断じれば、あまり脅威は感じず、いかにも弱々しい印象である。とてもじゃないが、タニアが戦うほどの相手には思えない。

 けれどセレナは、緊張からゴクリと唾を呑んで、背筋に走った悪寒に身体を震わせた。


「……何よ、アレ……グールより、ずっと禍々しい魔力じゃない……相手になんて、できないわよ……」


 その魔貴族が放つ威圧感と、吐き気を催すような強烈な瘴気を前に、セレナは忌々しげにそんな台詞を漏らしながら、すぐさま思考を切り替える。

 悲鳴を上げている身体を無理やりに動かして、玉座の間から撤退すべく、後方のタニア側に全力疾走で駆けた。態勢を立て直す為の勇気ある撤退である。

 とはいえ――セレナの視線と意識は暴食鬼に向いている。


「ガァルルァアゥウオオオ――ッ!!!」


 その時、獣の咆哮としか思えない大絶叫が暴食鬼から放たれた。

 かなり距離があるのに、セレナの肌をビリビリと痺れさせるほどの威圧感だった。


「タニア!! とりあえず、グールは何とか抑えるけど……あたしじゃ、倒せないからね!? サッサとソイツを倒して、手伝ってよっ!?」


 セレナはそう叫びながら、暴食鬼の魔力球で穴だらけになった水人形を見た。頭部を失っている水人形は、それでもかろうじて二本足で立っている。

 水に戻っていないということは、あんな状態ではあるが、まだ魔力は尽きていないということである。つまりは、戦うのに支障はない。


「■■■――ッ!!」


 玉座の間に地震を発生させるほどの踏み込みと共に、暴食鬼が六本の剛腕を高々と頭上に掲げた。顔面は潰れて血塗れだが、淀みなく流麗な簡略詠唱でもって、何やら魔術を展開した。

 暴食鬼の頭上に、脈打つ心臓のような形をした魔力塊が出現した。

 魔力塊は、ドクン、ドクン、と気味の悪い音を立てながら、魔力を蓄えつつ徐々に大きくなっていく。


「大丈夫にゃ! あんにゃ死に体のグールにゃら、セレナで充分殺せるにゃ――見たとこ、核が致命的に傷付いてるにゃ。聖級魔術でもブチかませば、跡形もにゃく吹っ飛ぶにゃ」

「……簡単に、言うわね……相変わらずっ!!」


 猛然と後方に駆けるセレナとすれ違いながら、タニアが簡単に言ってのける。それは一応、タニアなりのアドバイスのつもりなのだろう。

 言われてから気付いたが、確かに今の状態の暴食鬼には、聖級の大魔術は有効に思えた。

 今まさに暴食鬼が展開している気味の悪い魔力塊は、先ほどまでと比べてずっと魔力規模が小さく、セレナの魔術でも充分対抗できそうだった。


 けれども、とはいえ――聖級がおいそれと放てるようなら、セレナは暴食鬼を相手にこれほど苦労していない。


 セレナはタニアに非難の視線を向けつつ、ありったけの魔力を掌に集中させる。

 丁寧に、しっかりと魔力を練りながら、大きく深く息を吐いた。


「――ッ、グァォッ!!」


 セレナは、玉座の間の入口で立ち止まると、暴食鬼と向き直る。セレナの掌からは澄み渡った美しい緑色の魔力光が次々と溢れ出ていた。

 そんなセレナを見て、暴食鬼は掲げていた剛腕を慌てて振り下ろした。

 轟、と爆風を巻き起こしながら、赤黒くおどろおどろしい魔力塊がセレナ目掛けて投擲される。

 鼓動を繰り返していたその魔力塊は、まだ魔術としては不完全な状態だ。これでは十全に威力は発揮できないだろう。

 けれど、いまのセレナを吹き飛ばすには足る――暴食鬼は、瞬時にそう判断していた。

 それは正しい判断である。なるほど、腐っても魔貴族だ。どんな状況でも、油断はできない相手なのは間違いない。


「……『天をも穿つ流水よ。我にひととき、汝のその偉大なる力を貸し与えたまえ。我が前に立ち塞がる敵を圧殺し、我が前に立ちはだかる障壁を打ち崩せ――」


 セレナは暴食鬼の危険性を改めて認識してから、迫り来る巨大な魔力塊を前に、しかし無防備に瞳を閉じた。周囲の雑音や、危機的な状況はいったん無視して、深い集中の世界に入る。

 そんなセレナから紡がれた詠唱の響きは、まるで吟遊詩人の唄を思わせるほどに美しかった。


「グゥウウォオ!!!」


 セレナの詠唱を否定するように、暴食鬼が怒号を上げると、それに呼応するように、禍々しい魔力塊がいっそう加速して――次の瞬間、爆音と共に空中で雲散霧消した。


「ッ――グォ!?」


 暴食鬼が驚愕の声を上げる。何が起きたか分からず、混乱している様子が見て取れた。それは、致命的な隙である。


「アグゥ――ッ!?」


 ドゴォン、と暴食鬼の左半身、三本の腕が盛大に爆散した。

 ふと見れば、爆散した腕部付近には、頭を失い体中が穴だらけの状態だが、まだかろうじて人型を保っている水人形が拳を構えていた。

 水人形は魔力が尽きる寸前だが、それでも暴食鬼にダメージを与えられるだけの脅威だ。ちなみに、暴食鬼が放った先ほどの魔力塊を霧散させたのも、この水人形である。


 さて一方で、腕を吹っ飛ばされた暴食鬼は、その衝撃と痛みにハッとしたか、咄嗟に右半身の二本の剛腕を力任せに横薙ぎする。音を置き去りにするその薙ぎ払いは、水人形の防御を容易く貫いて、胴体を綺麗に分断させていた。

 胴体を分断された水人形は、途端、パンと風船が割れるような音を鳴らして、ただの水と化す。

 これで魔力が完全に尽きたようだった。


(……さすがに、ここまでか。まぁ、充分かな)


 セレナは深い集中の中で、水人形が倒されたのを合図に瞼を開けた。

 距離は離れているが、真っすぐ正面を向けば、三本の剛腕を失くして顔面を血塗れにした暴食鬼が強烈な威圧を放っていた。


 そんな暴食鬼に苦笑を浮かべて、セレナは魔力光を湛える掌を突き出す。突如、凄まじく大量の水が発生して、セレナをすっぽりと包み込んだ。

 水量は、軽く見積もっても100トンを超える量はあろう。それほど大量の水が、セレナの全身を覆い隠して水の球体を形作る。


「――殲滅する誉れを、我に与えたまえ。天水てんすい』」


 そうして、セレナは流麗な詠唱を完結させた。

 宣言は合図となり、セレナを包んでいた大質量の水が信じられない速度で掌に凝縮されていく。

 そんな光景を前に、暴食鬼が慌てた様子で巨躯をねじった。必死になって射線上から逃げようとしていた。


 ――だが致命的に遅い。


 凝縮された水は激しく渦を巻きながら、セレナの突き出した腕に絡み付き、一拍後、レーザー光線の如く真っ直ぐと暴食鬼に伸びていった。

 水属性の聖級攻撃魔術【天水】――大質量の水を超超高圧縮して対象に叩きつける魔術だ。

 その威力はタニアの【魔槍窮】に匹敵する。セレナが持つ最高威力の技だ。


「ゥォ、ガァ――ァ、ッ……」


 天水の一射目が、螺旋回転しながら暴食鬼の胴体を貫いた。発射から直撃まで、千分の一秒にも満たない速度だった。避ける隙など皆無である。

 暴食鬼の唸り声が聞こえる。それは苦痛の悲鳴だ。

 その声の響きには、つい先ほどまでの勢いはなく、どことなく諦観しているように思えた。


 セレナは拳をグッと握りしめて、ブン、と上下に振るう。


 天水の二射目、三射目が、美しい弧を描いて暴食鬼に迫り、今度はその頭上から降り注いだ。

 ドンドン、と暴食鬼の巨躯が蜂の巣になっていく。


「■■■ッ!!! オォオオオオ――ッ、■■ッ!!」


 もはや無抵抗でやられる暴食鬼のその様を前に、その時、甲高い絶叫が響き渡る。絶叫は中空から響いており、直後にタニアの笑い声が響いた。


「にゃははは――!! お前の仲間、あちしの仲間に負けたにゃっ!! つまり、お前もあちしに勝てにゃいにゃ!!」 


 そのタニアの独自理論は意味が分からなかったが、形勢が圧倒的にタニア有利であることは瞬時に分かった。

 セレナがチラと視線を向ければ、玉座の間の奥、玉座が置かれている辺りの天井で、ローブ姿をした人型の魔貴族とタニアの戦いが見える。


 どうやって視界を確保しているのか不明だが、黒い布で目隠しをしている一本角のソイツは、タニアが次々と繰り出す爆撃じみた拳の連打を、超高硬度の魔力盾で防いでいる。

 一方でタニアは、手数で攻めるとばかりに、息継ぎの一切ない無呼吸連打で拳を叩きつけていた。

 その一撃一撃は軽く上級攻撃魔術に匹敵するだろう。音速を超えた物理衝撃と、着弾と同時に爆発する魔術効果を持っていた。


「……相変わらず……凄まじい……けど、まだ、こっち終わってないっての……」


 セレナはタニアの戦闘が順調であることを理解して、すぐに注意を暴食鬼に戻す。

 暴食鬼は身体中を穴だらけにさせて、ビクビクと小刻みに痙攣していた。


「今の、聖級の攻撃魔術、だぜ? 化物……いや、悪魔だな……アレだけ、強くて、治癒術師って、嘘だろ……」


 暴食鬼とセレナの一方的な戦闘を後方で眺めていたアジェンダが、しみじみとそんな呟きを漏らしていた。

 確かに、聖級魔術を扱える治癒術師など珍しいだろう。だがそれにしても、悪魔や化物とは失礼である。そういう不名誉な称号は、タニアのようなものに贈るべきだ。

 セレナは内心で人知れず憤慨したが、すぐに意識を暴食鬼へと戻す。


 さて、それでは――そろそろトドメをお見舞いするタイミングだ。

 ひとしきり暴食鬼に天水を喰らわせたセレナは、大きく頭上に拳を振り上げる。


「――これで、決まってッ!! 【天水・蛇竜(ナーガ)】ッ!!」


 セレナは振り上げた拳を、裏拳の要領で弧を描きながら振り下ろした。

 その動作に応じるように、腕に巻き付いていた渦水が腕から離れる。渦水はセレナの正面に回り込むと、瞬きの一瞬にして、暴食鬼と同じくらいの巨大さに膨れ上がった。


 それはセレナの正面でとぐろを巻き、水の鱗を持った巨大な蛇竜(ナーガ)になる。


 シャァ、と鋭い鳴き声を上げながら、水で出来た蛇竜は、セレナを一飲みできるほどに大きく口を開けて、ググっと身体を引いた。

 身体を引いて踏ん張る蛇竜の姿は、まるで引き絞った弓のようだった。

 刹那――蛇竜が、千分の一秒に満たない速度で暴食鬼に飛び掛かった。否、喰いついたという表現こそ正しいだろう。


 ドガン、と。ひと際大きな爆音が鳴り、暴食鬼のいた位置に巨大な穴が穿たれた。

 ドパン、と。水が弾ける音が鳴り、穿たれた巨大な穴に水が溜まる。その水は、暴食鬼の血が混じった赤黒い水だった。


 それらに遅れて、プカ、と。赤黒い水の底から、暴食鬼の肉塊が次々と浮かんでくる。


「…………ふぅ」


 そこまでの光景を見て、セレナはその場にストンと座り込み、ゆっくりと一息吐いた。

 これで終わった――ように思える。いや、そう思いたい。

 セレナは、もう魔力が尽きかけている。少なくともこれ以上、魔貴族相手に立ち回ることなど出来やしない。


「か、勝った、のか? というか、いまさっき、魔貴族を使役してなかったか?」

「……いや、アレは、魔貴族じゃなくて、魔術を形質変化させたんだ……聖級を形質変化させるなんて芸当……【救国の五人】の一人、ジョウウェイ以外で、出来る奴が居るのかよ……」


 その場に座り込んだセレナと、暴食鬼の肉塊が浮かぶ水溜まりを交互に見て、アジェンダたちが寒心したようにそんなことを言っていた。

 畏怖と憧憬の思いが篭められたその感想に、セレナは気持ち誇らしくなった。


「おっ――セレナ、もう仕留めたにゃ? にゃら、あちしも続かにゃいとにゃ!」


 ふいにタニアが軽い口調でそんなことを呟いていた。それはどこか楽しげな声で、とても戦闘中とは思えない気軽さがある。

 セレナが顔を向けると、先ほどの猛攻とは一転、タニアはローブ姿の魔貴族と大きく距離を取っており、背中から天族を模した魔力の翼を形成していた。

 おそらくアレは、【魔装衣】の別形態だろう。まるで天族の様相である。


「……相変わらず、反則的な魔力量、ね……」


 タニアの纏ったその魔装衣を眺めて、セレナはしみじみと呟いた。


 ところで、ローブ姿の魔貴族とタニアは、およそ十数メートルの距離で対峙していた。

 タニアは次の攻撃予備動作だろう、両手を後ろに回して超絶な魔力を練り上げている。

 ローブ姿の魔族は、先ほどまでのタニアの猛攻に疲弊している様子で、両手を胸元に揃えた姿勢は変わらず、ぜぇぜぇ、と荒い呼吸を晒していた。その姿は、ひどく人族じみている。


「これにゃら、もう防げにゃい――【魔喰玉(まくうぎょく)・五月雨】にゃ」


 タニアがそんな台詞と共に、背中に回していた両手を思い切り振り抜いた。横投げの要領で、人の頭くらいはある魔力球を二つ、ローブ姿の魔族に放り投げる。

 一目見て、その魔力球が危険極まりない破壊力を持っていることが分かった。セレナであれば、受けることさえできない威力を秘めている。


「……■■■」


 しかし、ローブ姿の魔貴族はそれを正面から受け止めるつもりのようだった。

 ローブ姿の魔貴族は、セレナからしても舌を巻くほど見事な詠唱で、正面に分厚い透明な魔力盾を二つ展開した。分厚い魔力盾は、空を切り裂いて飛んでくるタニアの魔力球を受け止める。


 果たしてタニアの魔力球は、その盾に直撃した瞬間、パンと弾けて、直径五センチ大の百を超える小型の球に変わった。それはまるで意思を持つかのように、弾けた後で盾を避けて、ローブ姿の魔貴族に向って飛び掛かる。

 弾けた魔力球は、避ける隙間もないほどローブ姿の魔貴族を囲って、全方位を覆って、五月雨の如くその全身に襲い掛かる。


 タニアがニヤリをほくそ笑んでいるのが見えた。

 セレナは、タニア恐ろしい子、とその頼もしさに恐怖を感じた。


 そうして、ドドドドド――と、しばらくの間、タニアの無数の魔力球がローブ姿の魔貴族に被弾し続ける。

 ローブ姿の魔貴族は想定外の攻撃に満足な抵抗もできず、無造作に魔力球を全身に浴び続けた。


「これで、トドメにゃ!!」


 このままでも勝負は決まるだろうが、タニアはそんな決着を良しとしていなかった。

 タニアの大声が玉座の間に響き渡る。すると同時に、先ほどのセレナの【天水】を嘲笑うかのような極大の魔力が、一瞬のうちにその拳に宿った。


 タニアは空中で大きく翼をはためかせながら、半身で構えて拳を引き絞る。

 それは渾身の【魔槍窮】の姿勢である。タニアが頻繁に扱う魔闘術の一つ、槍状の弓矢である。


 セレナが状況を眺めながら、そんな分析をした瞬間、にゃ、という短い呼気が聞こえた。


 次の瞬間、タニアの拳が突き出されて、冠級と言われて違和感のないほどの威力を秘めた【魔槍窮】が、一直線にローブ姿の魔貴族を呑み込んだ。

 魔槍窮はそのまま、玉座の間の壁を貫き、天井を吹き飛ばして、部屋を満たしていた瘴気ごとローブ姿の魔貴族を塵一つ残さず消滅させる。


「いっちょう上がりにゃ――さてとこれで、この異空間も終わりにゃ」


 ローブ姿の魔貴族が、跡形もなく消し飛び、魔力の気配も感じなくなったのを確認してから、タニアがセレナの傍に降り立った。


 セレナは、相変わらずのそのマイペースにため息を漏らしつつも、しっかりと同意の頷きを返す。

 なんだかんだと結局、セレナとタニアだけで、魔貴族二体を退治できた。


 まあ正確に言えば、実質はタニアの活躍が八割ほどだが、それはあえて口に出す必要はないだろう。


「……ねぇ、タニア。これで、あたしたちはSランクになれるのね?」

「あ? ああ、そうにゃ。申請が認可されたにゃら、あちしたちはすぐにでもSランクにゃ」


 セレナの問いに、タニアが自信満々に拳を握っていた。

 セレナはそれを聞いて、思わず安堵のため息を吐いていた。緊張が解けた影響か、ドッと疲れが浮き彫りになる。早く宿屋で休みたい気持ちになる。

 兎にも角にも、とりあえずこれで、緊急依頼『異空間に巣食う魔貴族【暴食鬼(グール)】を討伐して、異空間を閉じる』を達成できた。


 もうこれで、あとは帰るだけ――セレナだけでなく、誰もがそう考えていた。

 まあ実際は、まだ緊急依頼自体が終わっていなかったのだが、そのことに気付く人間は、この場には誰もいなかった。

……外伝は、まだ続きます

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