第八話 服従の、猫耳娘
煌夜はヤンフィとの口約通りに、無理ゲーの意味とついでにゲームという概念について、ヤンフィに説明した。
ヤンフィはその説明にいちいち感心しながら、勝手知ったる他人の身体とばかりに、煌夜の身体で廊下を歩いている。
そしてその少し後ろを、タニアが警戒しながら付き従っていた。
廊下は松明の薄明かりに照らされた200メートルほどの直線で、抜けた先には、見渡す限り辺り一面が真っ白なホールが広がっていた。
「……ようやく、じゃ。永かったのぅ」
ヤンフィは白いホールに出ると、開口一番そう言って上を見上げた。
高い天井は透明なガラス張りで、その奥から白い光が降り注いでいる。まるで白色のLEDライトのようだ、と煌夜は思った。
ヤンフィはしばらくそのまま立ち尽くしていたが、ふと顔を下げてホールを見渡す。
その白いホールは、中央に塔を模した形の噴水が置かれた円形のホールで、来た通路を背中にして、左手に入り口と思しき巨大な扉、右手側と前方に廊下が伸びていた。
煌夜が出てきた通路は袋小路で転移魔法陣がなかったので、おそらくは右か前の通路の先に、転移魔法陣が設置されているのだろう。
「この空気、懐かしいのぅ――ここが【聖魔神殿】の入り口、選択の間じゃよ、コウヤ」
ヤンフィは感慨深げに呟くと、ホール中央の噴水に近づき、貯まっている水の中に右手を入れた。塔のオブジェから絶えず溢れ出す水は無色透明で、ひんやりと冷えている。
それを両手で掬って口に含むと、水はほんのりと甘く、爽やかな喉越しが感動的な美味しさだった。相変わらず煌夜の身体はヤンフィが支配していたが、その水の味と爽快感は共有できた。
ヤンフィは喉を潤すように、その水を何度か飲んだ。
「――いま、誰に話し掛けたにゃ? コウヤ、って……ボスのことじゃにゃいのかにゃ?」
ヤンフィが水をゴクゴク飲んでいると、遅れてホールに現れたタニアが怪訝そうな顔をして首を傾げる。
そんなタニアを、ヤンフィはどこか非難げな瞳で睨んでから掬った水で顔を洗った。
「にゃあ……ボスは、いったい何者にゃ? 心臓を潰しても生きてたし、腕がもげてたのに、すぐ再生してたにゃ。あんなことができるとしたら、魔王属しかありえにゃいけど、よくよく考えると、異世界人は魔王属に成り上がれにゃいはずにゃ。そもそも鑑定の魔眼で視ると、亜種――転生者じゃにゃくて、人族って表示してるにゃ。それと、さっき行使してたのは時空魔術にゃ? 古の神秘魔術と、統一言語を扱える人族にゃんて、あちしは見たことにゃいにゃ」
「――おい、ガルム族の娘よ。妾が着れるような服を持っておらぬか?」
矢継ぎ早に質問してくるタニアを無視して、ヤンフィはホールの隅に置かれてる大きめのバックパックを流し見た。それは容量30リッター程の黒いバックパックで、タニアの持ち物だった。
タニアはヤンフィの横柄な態度に一瞬ムッとしてから、しかし逆らわず渋々といった様子でバックパックを漁り、中から長袖の黒ジャケットを取り出した。
「――あちしは、タニア・ガルム・ラタトニアにゃ。タニアって呼ぶにゃ」
「ほぅ、ラタトニア。ラタトニアと云えば、ガルム族の王族じゃったかのぅ……しかし、王族にしては品がないようじゃのぅ」
「余計なお世話にゃ! だいたい実家にゃ絶縁状叩きつけられて、国外追放の刑にされてるにゃ。だから、もう王族じゃにゃいにゃ」
(――おい? 王族って、どういうことだ?)
ジャケットを手渡してきたタニアに、ヤンフィが軽口を叩いた。同時に、煌夜はその台詞を聞いて、ちょっと待て、と声を上げる。しかし、それは声にならず無視された。
ヤンフィは、もはや肩で羽織っているだけになった無様なシャツを脱ぎ捨てて、受け取った黒いジャケットに着替える。
直肌に黒ジャケットといういかにもロックな格好になると、さてところで、と前置いて、煌夜に対して声を出した。
「コウヤよ、此奴に自己紹介したいんじゃが、良いかのぅ?」
(――は、え? 自己紹介? ああ、良い、と思うけど? なんだよ、俺の許可なんか必要ないだろ?)
「ボス……やっぱり、どっかイかれてるにゃ? それ、誰に聞いてるにゃ?」
ヤンフィの問いに、煌夜はキョトンとして、タニアは狂人を見るような憐れむ表情で、オウム返しに問い返す。
ヤンフィは二人のその反応にカラカラと笑った。
「ふっ、言質は取ったぞ? なぁに、死ぬほど痛いが、決して死なぬから安心するが良い」
(――――ん? それは、どういう――あ! ちょ、待て……)
ヤンフィは言って、右手を噴水に浸すと煌夜の身体を解放した。
煌夜はタニアに襲われる直前に味わった激痛のことを思い出して、慌ててヤンフィにストップを掛ける。だが、それは遅かった。
フッと、煌夜の身体から力が抜ける。同時に、意識が身体と一致して、いままで麻酔でも打たれていたかのような曖昧だった感覚が覚醒する。靄が晴れたように、あらゆる五感が鮮明になった。
――そして、声も出せないほどの激痛が全身を襲う。
「――――は、う、ぐぉ……あ」
「にゃにゃ?! どうしたのかにゃ、ボス!? にゃにがあったにゃ? にゃ!? その顔、気持ち悪いにゃ」
煌夜は突然、顔面を苦痛に歪めて真っ赤になった後、蒼白になり、泡を食ってただただ唸った。傍から見るとそれは、タニアの言う通り気持ち悪い顔芸でしかない。
「も、げる……腕、もげる……」
「いましばらくの辛抱じゃ、コウヤ。自己紹介を終えたら、妾がまた痛覚を受け持ってやるわ」
煌夜が両腕を痙攣させてうずくまっている姿を見ながら、ヤンフィが申し訳なさそうな顔で苦笑していた。
「にゃにゃにゃ!?」
背後から唐突に聞こえてきたヤンフィのその声に、タニアが飛び上がるくらい驚いて、バッと勢いよく振り返る。
するとそこには、気配もなく裸足で立つ着物姿の幼女がいた。
このホールには今の今まで煌夜とタニアしかいなかったはず、とタニアは警戒のレベルを一気に最高まで引き上げて、戦闘態勢で構える。
「何者、にゃ……?」
タニアはダラダラと全身から嫌な汗を流しつつ、目の前で苦笑する幼女を注視する。鑑定の魔眼が映し出した事実が、タニアを絶望させていた。
「妾は――ヤンフィ、じゃ。とある事情でこの聖魔神殿に封じられておった、しがない魔王属じゃよ。そこなコウヤに救ってもらってのぅ、いまは訳あってコウヤの身体を間借りしておるのじゃ」
ヤンフィはそう言って、優雅に一つ頭を下げる。タニアはゴクリと息を飲んだ。
「汝の持つ鑑定の瞳にどのような情報が映っておるのか、妾は噂以上には知らぬ。じゃが、少なくとも妾が嘘偽りを云うておらぬことは証明できとるじゃろう?」
「…………信じがたいにゃ。でも、そうにゃるとスッキリ納得できるにゃ……じゃあ、あちしは……お前に、負けたのかにゃ?」
タニアは恐る恐るとヤンフィを指差して、ボスはお前にゃのかにゃ、と確認する。チラと悶絶する煌夜を見る目には、侮蔑の色が見て取れた。
ヤンフィはカラカラと笑う。
「勘違いするでないぞ、タニア・ガルム・ラタトニアよ。汝は妾に負けたのではなく、妾と云う武器を使ったコウヤに負けたのじゃ。じゃから、ボスはコウヤだと心得よ。無論、ボスでないとは云え、妾に逆らうことも許さぬがのぅ」
ヤンフィは笑いながら、胸を張ってそう言った。
タニアは渋い顔をして、押し黙って頷く。納得したくはなかったが、その理論はタニアの信条と同じだった。
勝つ為には何でもする、煌夜はただそれを実行しただけだと理解したからである。
「さて、タニア・ガルム・ラタトニアよ。妾は汝をタニア、と呼ばせてもらおう。じゃが、汝は妾のことを呼び捨てることを禁ずる。良いな?」
タニアが激怒していた時よりも苛烈な威圧を放ちながら、ヤンフィはタニアに静かに歩み寄る。その有無を言わせぬ威圧を受けて、タニアは無言で頷きながら後ずさった。
「ふっ――まるで怯える子猫のようじゃのぅ。ほれ、先までの燃えるような気概はどうしたのじゃ?」
タニアの引き攣った表情を楽しそうに笑って、ヤンフィは威圧を解いた。
張り詰めていた冷たい空気が一転、春めいた穏やかさに変わる。そのギャップに、タニアは腰が抜けたのか、床にペタンと尻餅をついた。
「ふむ……タニアよ、汝を当面、妾たちの護衛兼道案内役に抜擢してやろう。妾とコウヤがいまの時代の事情を把握するまでの間は、嫌でも妾たちと共に旅をするのじゃ」
ヤンフィはにこやかに宣言しながら、尻餅をついたタニアの眼前に立つ。そして小さなその右手を差し出して、煌夜にした時と同じように、タニアの手を握るとグイッと腕を引いて起き上がらせた。
「これから宜しく頼むぞ――これは、命令じゃ」
「――――にゃ!?」
ヤンフィは言いながら、握ったタニアの手に力を込めた。瞬間、タニアが猫耳と全身の毛を逆立てて、短く悲鳴をあげる。
ヤンフィのその矮躯からは想像もできないほど強い握力が、まるで万力のようにタニアの手を締め付けたのである。バキボキ、と嫌な音がタニアの手から鳴った。
「い、たい、痛いにゃ、にゃにゃにゃ――はな、離して、にゃぁ!!」
「ふっ……さてと、では、妾はそろそろコウヤの身体に戻るとしようかのぅ――コウヤの精神が、ぼちぼち限界じゃろうしなぁ」
バタバタと手足をバタつかせながら涙目で叫ぶタニアに嘲笑を浮かべて、ヤンフィはスッとその手を離した。
タニアは慌てて、右手のグローブを外すと噴水の水に浸けて冷やす。グローブで保護されていたその手は、真っ赤になって腫れていた。指や手の骨こそ折れてはいなかったが、グローブに入っていた鉄板はひしゃげて、役に立たなくなっていた。
ヤンフィはタニアから視線を切り、白目になって泡を吹いているコウヤに近寄る。煌夜は、もげるもげる、と言いながら、ぐったりしていた。
その無様すぎる姿を見て、ヤンフィは優しい笑みを浮かべた。そして、初めて会った時と同様に、煌夜の身体を抱きしめる。それは、母親が幼子をかき抱くような抱擁だった。
すると、ヤンフィの身体が緑の光の粒子に変わり、煌夜の中に吸い込まれていった。涙目でその光景を眺めていたタニアは、ビクビクと痙攣する煌夜から、ゆっくりと距離を取る。
しばらくして、煌夜の身体が痙攣しなくなり、その瞳に意思の光が戻ってくると、開口一番怒声が上がった。
「ヤンフィ!! お前、マジで止めろよ、こういうの!! 死ぬかと思ったし、実際死ぬとこだったわ!!」
(ふっ……まぁまぁ、落ち着くのじゃ。一応、事前に確認したじゃろう?)
「あれは確認って言わねえよ!? 不意打ちじゃんか!」
(ふむふむ、人生なんぞ押し並べて不意打ちの積み重ねじゃろう。それを受け入れる度量を持つが良い)
「何を、ちょっと格好いいこと言ってんの?! そういう問題じゃないから!」
あまりの痛みと、唐突で理不尽な展開、蓄積された疲労と過酷な環境によるストレスで、ついに煌夜の理性は決壊していた。
煌夜は、自分でもただのやつ当たりだと分かった上で、しかし当たり散らさずにはいられなかった。それは普段の煌夜からでは想像できないほどの激昂だった。
一方、対岸の火事とばかりに、いきなりキレて怒鳴り散らす煌夜を、タニアはドン引きしながら眺めていた。タニアには、煌夜の内にいるヤンフィの声は聞こえていない。それ故に、煌夜が独りでキレて、大声で怒鳴っているようにしか見えなかった。
触らぬ神に祟りなし、とタニアはジリジリ距離を取って、噴水の端で隠れるように身を丸める。
「つうかさ、いま俺の身体どーなってんだよ!? 胸に穴が開くわ、腕はもげるわ。もはや人間じゃない再生っぷりだったよね!?」
(……そも、普通の人間は再生なぞせんじゃろう? まぁ安心せよ。コウヤの身体は、どうにもなっておらぬよ。まだ人間のままじゃ。とは云えど、肉体の八割が死んでおるがのぅ)
「まだ? まだって何だよ? いや、それよりも、八割って何!? え? それは、ほぼほぼ死んでるじゃん。俺はゾンビかよ?! なんだそれ、おかしいだろ!! 逆に無事なのどこだよ!?」
「……確かに、ボスの頭はおかしいにゃ。無事にゃのは、きっと凶悪な性欲だけにゃ」
「犯すぞっ、猫耳ぃ!!!」
ボソリと呟かれた横槍に、煌夜は怒髪天を衝く勢いでタニアにメンチを切る。
その怒鳴り声に、タニアはビクっと震えて、にゃにゃにゃ、と慌てて距離を取った。そして挑発的に豊満な胸を抱きしめて、煌夜の様子を上目遣いに窺う。
その仕草は非常にあざとく可愛らしいが、いまの煌夜の怒りを鎮火するには至らない。
「――そりゃあ、死ななかったから、ヤンフィにゃ感謝ですよ! けど、死ななかったら、俺の身体をプラモデルみたいに壊していいのかって話な!? これで、気が付いたら人間辞めてましたとか、洒落になんねえぞ!! いや、マジで!!」
(プラモデル、とはなんじゃ?)
「はい、またそれだよ。いまそんな話はしてません!!」
ガーガー、と怒りに任せて、煌夜は自分でも何を言いたいのか、何を言っているのか分からなくなりながら、その後、タップリ三十分近く喚き散らしたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「……改めまして、俺は煌夜です。天見、煌夜。え、と……タニア、様……その、さっきは大変お見苦しいところを見せて申し訳ありませんでした。えーと、ヤンフィの言ってた通り、当面の間、案内とか護衛とか、宜しくお願いします」
「別に、ボスの痴態は気にしてにゃいから、どうでもいいにゃ。あと、あちしのことは呼び捨てにしていいにゃ。様付けはこそばゆいにゃ……とりあえず、ヨロシクにゃ」
「あ……そんなら、俺のことも、ボスじゃなくて煌夜で良いです。ボスって、ちょい恥ずかしいんで……」
さんざ喚き散らして落ち着いた煌夜は、タニアと向かい合って、床に座っていた。
煌夜は緊張した面持ちで正座しており、タニアは落ち着かない様子で胡座をかいている。二人の間に流れる空気は、どことなく気まずい雰囲気だった。
お互い何を言えば良いのか言葉が出ずに、それきり沈黙が下りていた。
煌夜は改めてタニアを見た。整った目鼻立ちに、キリッと目尻の上がった青と黄のオッドアイ、天然パーマの白髪をボブカットにしていて、その印象は柔和である。
引き締まった腹筋を惜しげなく晒して、自己主張の激しい胸がその谷間を無頓着に見せている。ホットパンツから伸びる生の太腿は扇情的で、思わず煌夜は唾を飲んでいた。
「……にゃんだにゃ? どうかしたかにゃ? あちしに何かついてるかにゃ?」
そんな煌夜の視線に気付いて、タニアは手の甲で鼻をゴシゴシと拭う。野性味溢れる所作である。ちなみに、鼻血は出ていないし、顔に何か付いているというわけでもない。
「あ、いや……何も付いてないですよ? ちょっと、ぼーっとしまして……」
「ふ~ん――にゃるほど。コウヤは、あちしの魅力にメロメロということかにゃ?」
タニアは煌夜の気持ちを勝手に解釈して、口元をニンマリと満更でもない笑みを浮かべた。
あながち間違ってはいないが、煌夜はそれを否定も肯定もしなかった。その沈黙をタニアは図星と受け取り、腰に手を当てて胸を突き出す姿勢になる。強調された谷間に、煌夜は顔を赤らめて視線を逸らした。
(コウヤよ、何を照れておる? よもや、こんな野蛮な獣に欲情でもしたのかのぅ?)
(欲情、て……いや、ソンナコトハナイデスヨ?)
ヤンフィに図星をつかれて、煌夜は片言になって誤魔化した。
女性慣れもしておらず、また美女耐性も低い煌夜では、タニアほどの美女とこんな至近距離で向かい合ったら、平常心を保つのは難しい。
(まぁ、欲情したくなるのは理解できなくもない。此奴の顔と身体は、同性も羨むほどの美貌じゃしのぅ……ふむ。犯したいなら、そう命令すれば良い。ボスには逆らえんじゃろうから、喜んで寝床にやってくるじゃろう)
(――って、俺はゲスか! そんなことしねえよ。つうか、タニアさんに失礼だぞ)
(ふっ……殺されかけたと云うに何が失礼なものか、コウヤはずいぶんとお人好しじゃのぅ……だいたい丁寧に話す必要もあるまいに)
(いやいや、だって……タニアさんって、王族なんだろ? それに見たとこ、俺より年上っぽいし、敬語じゃなきゃ失礼だろ?)
(阿呆が……この世界では、獣族の尊卑貴賎の基準は、年功序列でもなければ、地位でも名誉でもなく、個人の強さ、ただそれだけのはずじゃ。そして、コウヤはタニアに勝った。つまり、コウヤの方が偉いんじゃ。コウヤが畏ることはあるまいよ)
(勝ったって言っても、それだって、俺の力じゃなく、チートなヤンフィのおかげだろうが……)
(妾を使ったコウヤの力じゃ……ところで、チート、とは何じゃ?)
ヤンフィの問い掛けに、煌夜は一気に力が抜けて、はぁあ〜、と長い溜め息を漏らす。すると、その溜め息に反応して、タニアがビクッと猫耳を立てた。
見るからに怯えた様子で、タニアは上目遣いに煌夜を窺う。ヤンフィとの会話内容を知らないタニアにとっては、煌夜のその突然の溜め息は、意味深すぎて恐怖以外の何でもなかった。気づかぬうちに何か怒らせるような粗相をしただろうか、と内心かなり慌てていた。
「あ、タニアさんのことじゃない……ですよ? その、ヤンフィが、うるさくて……」
「にゃ!? ヤンフィ様は、にゃんて……?」
「あ、その……関係ないんで、気にしないでください」
(ふむ……あとで、チート、と、プラモデル、について語ってもらうぞ、コウヤよ)
(あー、黙ってもらえますか、ヤンフィさん?)
相変わらずマイペースに空気を読まない発言をするヤンフィに、煌夜はもう一度溜め息を漏らす。ふとタニアを見れば、その表情は怯えきっており、少し涙目になっていた。
上目遣いにチラチラ様子を窺うその仕草に、煌夜は思わず胸キュンしそうになった。
(ふっ……それにしても、賢しき獣よのぅ。コウヤよ、念のため云うておくが、タニアの色仕掛けに籠絡されて気をやるでないぞ?)
(……籠絡って何のことだよ?)
(此奴、どうやら妾たちに逆らえんと悟って、色仕掛けでコウヤを落とそうとしておるようじゃよ? コウヤが妾より上の立場で、且つ与し易いと判断したのじゃろぅ。素早く的確な状況判断もさることながら、なかなかに観察眼も鋭く、己の魅力の使い方も弁えておるようじゃ。ガルム族にしては賢しい雌じゃよ)
(――は!? 色仕掛けで、落とそう、って……え、じゃあ、これ演技、なのか?)
(コウヤは素直じゃのぅ。もう少し、人の裏を疑った方が良いぞ?)
ヤンフィはそう言うとカラカラと笑う。煌夜は、信じられないとばかりに、マジマジとタニアを見詰める。
するとタニアは煌夜の視線に気付いて、恐る恐ると顔を上げる。そして潤んだ瞳で上目遣いに見詰めてくる。思わずドキッと心臓が跳ねる。
(……まあ、妾とて感情を読み取れんかったら、此奴がただの馬鹿としか思わなかったやも知れぬがのぅ。その点でも、タニアはガルム族の中でも特殊なようじゃ。ちなみにのぅ、いまのタニアの感情は、歓喜と蔑みが半々じゃ。つまりコウヤよ。汝は舐められておる)
ヤンフィの台詞に、煌夜は凍り付いたように硬直した。
ヤンフィの、感情を読み取れると言う台詞に驚き、同時に、タニアのこの潤んだ瞳がその実、煌夜を嘲笑っていると言うことに驚愕した。
煌夜は震える声で問い掛ける。
「……なぁ、ヤンフィ。感情が読み取れる、って、どう言う風に?」
「にゃ? ん、にゃ――――――にゃ、にぃ!?」
(感情が色で、その強さに応じて濃淡で、見えるのじゃ。いまのタニアは、困惑と恐怖、それに冷静さが入り混じっておるわ)
「にゃにゃにゃにゃ……」
煌夜の言葉に一瞬呆けて、直後に悲鳴じみた叫びを上げると、タニアは煌夜から距離を取った。そして、ダラダラと脂汗を流したかと思うと潤んでいた瞳を一転、凛々しい顔立ちでニャゴニャゴ呟いて、勢いよく頭を下げる。
状況判断が早いというヤンフィの見立て通りに、タニアはいまどう振舞うべきか瞬時に思考したようだった。
「ごめんにゃさいにゃ。調子に乗ったにゃ。ついコウヤがチョロそうだったから、あちしに夢中にさせようと思っちゃっただけにゃ。ヤンフィ様に逆らう気はにゃいにゃ」
(……ふむ。此奴も素直と云えば、素直じゃが……尊大じゃのぅ。コウヤよ。少し、発言することを許せ)
(どうぞ……ご随意に)
タニアの猛烈な勢いの謝罪に、煌夜はヤンフィの言葉が真実だったことを理解して、人を信じる気持ちを裏切られたショックで落ち込んだ。
その煌夜の身体を、ヤンフィがまた支配する。
「タニアよ……確かに、コウヤは甘っちょろい上に、純粋で優しい。じゃから、汝如き雌にも礼を尽くしておるが、それを利用して無礼が過ぎれば、犯して、殺して、また犯してから、剥製にしてアドニス銀貨1枚で売り払うぞ――マジで」
(いやいや、ヤンフィさん? そんな鬼畜な所業しませんよ?)
「――にゃんと!? アドニス銀貨1枚……って、果実酒一杯も飲めにゃいにゃ! 安すぎるにゃ!!」
(……いやいやいや、タニアさん? 食いつくところが違いませんか?)
ガバッと蒼白な顔を上げたタニアに、ヤンフィは立ち上がって右の素足を顔面に押し付ける。フギュー、と可愛い悲鳴をして、タニアはしかし抵抗しなかった。
「汝の価値なぞ、それでも充分じゃろぅ。むしろ妾の方が、貰ってくれる輩にアドニス銀貨1枚払わねばならぬわ――さて、つまりじゃ。妾を騙せると思うなよ? コウヤを誘惑するのは構わんが、利用しようとすれば、思いつく限りの陵辱の後、奴隷の慰み者にさせるぞ?」
「――――にゃぁ……」
ヤンフィは言って、フッと身体を解放する。タニアは、ヤンフィの脅しがよほど効いたようで、猫耳をペタンと垂らして、煌夜の足の裏を舐め始めた。
ザラリとしたこそばゆい感触で我に返った煌夜は、慌てて足を顔から引き剥がす。そのマニアックすぎるプレイに、煌夜はドキドキと少々興奮してしまった。
「……あ、えと、そのタニアさん? まあ、いまのやり取りは置いといて、ですね――――あー、改めまして、天見煌夜です。煌夜と呼び捨てで構いませんので、宜しくお願いします」
ひどく気まずい雰囲気に煌夜はどう振る舞えばよいか混乱して、とりあえず今までのやり取りはなかったことに、自己紹介を仕切り直す。
タニアは、すいませんにゃ、ともう一度頭を下げてから立ち上がった。
「あちしは、タニアにゃ。コウヤのことは、コウヤって呼ばせてもらうにゃ。だからコウヤも、あちしのことはタニアって呼ぶにゃ。それと、堅苦しい喋り方は止めるにゃ。コウヤはあちしのボスにゃ。なんかあったら命令してくれていいにゃ……応じるか否かは別として、にゃけどにゃ」
「はあ……いいんですか? えと、じゃあお言葉に甘えて、宜しくタニア」
「にゃ。ヨロシクにゃ」
タニアは猫耳をシュンとさせたまま、疲れた様子でそう頷いた。煌夜もタニアの言葉に納得して、普段通りの崩した言葉と共に右手を差し出す。
「……にゃんだにゃ?」
「あ、え? あ、握手のつもり、だけど……あれ、なんか間違った?」
「さっきコウヤの足を舐めて、服従の意を表したはずにゃ。服従した相手に、握手にゃんて対等なこと出来にゃいにゃ」
タニアはそんなことを言って、しかしすぐさま何かに気付いたように納得した。
差し出された煌夜の右手を改めて見て、ふぅと大きく息を吐く。すると、その手に顔を近づけて、不意打ち気味に人差し指をチロリと舐めた。
ビクついた煌夜は、慌てて手を戻す。
「な、なっ……!?」
(相手の身体を舐める行為は、獣族にとっては、服従の証じゃ、甘んじて受けよ)
「これは、服従の証にゃ。そういえばさっきは、ヤンフィ様に対してだったにゃ。コウヤはあちしの無敗神話を終わらせた初めての男にゃ。今後、決して逆らわにゃいと誓うにゃ――とりあえず、夜が来る前にこっから出るにゃ。お腹空いたにゃ」
ヤンフィの説明に被せてタニアも同じ説明をする。煌夜は舐められた指先にドギマギしつつ、ちょうど聞こえてきたタニアの腹の虫にハッとした。
そう言えば、と煌夜も自分が空腹であることに気付いた。
「にゃあ、 ところでコウヤは、どこの異世界から来たにゃ? そんな文字初めて見るにゃ」
タニアはホールの隅に置かれたバックパックを担ぐと、顔だけ振り返りながら煌夜に問う。煌夜は、そんな文字、という表現に首を傾げつつ答える。
「日本……地球って分かるかな? そこから、来たんだけど……」
「ニホン? チキュウ? どこの国にゃ? 響きは、天界に近いにゃ……にゃけど、聞いたことにゃいにゃあ」
「まぁ、そうですよね……」
タニアの答えに落胆しつつ、煌夜はホールの入り口、銀色をした巨大な両開きの扉へと意識を向ける。扉はぴったりと閉じていた。
押せば開くのだろうか、と見ていると、タニアが平然とした様子で押し開き、外へと出て行く。
煌夜に質問しておいて、タニアはもう煌夜の出身地になぞ興味がない様子だった。置いていかれないよう、慌ててその後を追って扉から出る。
扉の先には、バルコニーのようになっている広い踊り場があり、そこから一階分低い地上へと続く下り階段があった。
扉から出た煌夜を出迎えたのは、少し肌寒いくらいの乾いた風と、むせ返るほどの樹木の匂い、郷愁を誘う真っ赤な夕焼けである。
目の前に広がる外の光景は、一面見渡す限りの濃い森林風景だった。どうやら、ここは森の中にあるようだ。
「……まさに、RPGのダンジョンだよなぁ」
煌夜は振り返って、その外観を見上げながらしみじみと呟いた。
【聖魔神殿】は、円柱構造をした巨大な塔だった。傾いてはいないがピサの斜塔を思わせる白い外観で、いかにも神秘的な空気を感じさせる年代ものの建造物である。
間近で見上げると、その威圧感は凄まじかった。
「コウヤ! サッサとするにゃ……こっから街まで、歩くとそこそこ時間が掛かるにゃ。思ったより、夜が近かったにゃ」
ふと見れば、タニアは既に階段を下りており、扉のところでボーっと突っ立っている煌夜を地上から見上げていた。
「――あ、ああ。分かったよ……写メだけ、撮っとくか」
タニアの声に頷いて、煌夜は階段を下りる前に尻ポケットから携帯を取り出す。
こんな状況だというのに完全に観光気分で、塔を撮影しようと携帯のカメラを構える。しかし、携帯はまったく反応しなかった。
「あれ……もしや、充電切れた? マジか……まぁ、いいや」
壊れたのか、充電切れか、どちらにしろこの異世界で直す術はないだろう。
煌夜は溜息を吐いて、ふたたび携帯を尻ポケットに収めると、タニアの待つ地上へと階段を下りていった。
「……こっから、西に二時間で【アベリン】にゃ。けど、後一時間もすると、夜ににゃるにゃ。夜ににゃると【サーベラス】って魔族が群れで出てくるにゃ。アイツラ、雑魚だけど数が多いにゃ。いちいち相手にしてたら、朝が来ちゃうにゃ。にゃので、夜が来たら音を立てるのは禁止にゃ。同じ理由で、夜ににゃっても火は付けにゃいから、足元暗いにゃ。暗いけど、あちしから逸れにゃいようにするにゃ。逸れたら、探さないからにゃ」
タニアが早口にそう言って、サッサと森の中へと歩き出す。煌夜は逸れないよう慌ててその後を追いかけた。
足元が暗いのは問題ないが、音を立てるなというのは中々難しい注文だな、と煌夜は思った。また同時に、知らない単語に首を傾げる。
「…………アベリンは、街か? サーベラスは魔族で、群れるって……狼とか、そんな類かな?」
自問自答のようなその煌夜の呟きは、しかしヤンフィとタニアがしっかり拾って、同時に答えてくれた。
(サーベラスは、三つの頭を持った猟犬の魔族じゃよ。基本的に、五十から百単位で群れを組んで、斥候が十から二十、主力が残りと云う構成で縄張りを統括しておるのじゃ。非常にしつこい魔族でのぅ、遭遇するのは避けるのが無難じゃろぅ。ふむ……それにしても、ここら一帯は妾の知っておる風景とは、だいぶ様変わりしておるようじゃのぅ)
「サーベラスは、三つ頭の猟犬にゃ。結構大きいけど、雑魚にゃ。肉は不味いにゃ。ただ数だけは異常にゃ。一匹見ると、三十匹は潜んでると思ったほうがいい魔族にゃ」
タニアの台詞に、ゴキブリかよ、というツッコミは心の中で叫んで、煌夜は無言のまま頷いた。
二人の説明で、グレンデルが握っていた猟犬の姿を思い出す。あれがサーベラスという魔族だろう。一匹でも煌夜は殺される自信があったが、それが五十から百とか、もはや笑い話にしかならなかった。
「にゃので、サーベラスが本格的に活動を始める前に、サッサとこの森を抜けるにゃ。逸れるにゃよ?」
タニアはそう言って、目の前に広がる道なき道を、まるで自分の家の庭を歩くように当然と歩き出す。生い茂る草木を掻き分けて、迷わず前に進んでいく。それも結構な早足だった。
煌夜は慌てて一歩踏み出して、右足の裏に感じる石と雑草の感触に、次の足を踏み出すことを止める。
突然立ち止まった煌夜に、急ぐにゃ、とタニアが非難めいた顔を向けた。
「あ……その、タニア……靴、とか余ってたりしない?」
煌夜はタニアの睨みに申し訳なさそうな顔をして、恐る恐ると挙手した。
タニアはその台詞に一瞬むっとした顔をしてから、ジロジロと観察するように煌夜の全身を眺める。その視線はやがて、裸足の右足に辿り着き、しばしの間そこをジッと見詰めていた。
よく分からない沈黙が流れて、煌夜はその無言に堪えきれず手を下げる。
諦めるしかないか、と溜息を漏らす。するとタニアはおもむろに、自身の履いているブーツを脱ぎ始めた。脛まであるブーツの下からは、毛皮のようにフサフサした白い脛毛が現れる。
毛深いのぅ、とヤンフィが一言呟いていた。
「…………大きさ的には、問題にゃさそうにゃ。これを履くにゃ」
「――え? あ、だってそうすると、タニアが裸足に……」
「あちしは別に裸足でも問題にゃいにゃ。防御力がちょっと薄くにゃるだけにゃ。でも、街に行くだけにゃ。防御力は別に要らにゃいにゃ」
タニアは煌夜に有無を言わさず、脱ぎたてのブーツを放り投げた。
見事な放物線を描いて放られたそれを、落とさないようキャッチする。ブーツは見た目よりずっと軽かった。
煌夜は受け取ったブーツとタニアを交互に眺める。タニアは無言で顎をしゃくって、サッサと履けとでも言いたげに頷く。
「あ、ありがとう……じゃあ、お言葉に甘えるわ」
「礼にゃど不要にゃ。さぁ、サッサと行くにゃ」
煌夜は左足のスニーカーを脱いで、ブーツに履き替える。タニアの靴のサイズは、煌夜より少しだけ大きかった。しかし、歩くことはもちろん、走ることにも支障はないだろう。
何度か地面を踏みしめて問題ないことを確認してから、先行するタニアの後を追った。
ふと、生い茂る木々の隙間から空を見上げると、何もかも忘れるくらい綺麗な夕焼けが広がっていた。雲はなく、一面が真っ赤である。
しかし、空に浮かぶ四つの月の存在が、ここが異世界なのだ、という現実を煌夜に嫌というほど訴えていた。
思えば遠くに来たもんだ、と某有名なフォークソングが煌夜の脳内に流れ始めた。
※後書きを変更履歴に変えました。
雑多な情報は別途編集して掲載します。
6/5 一部表現を編集しました。