第六十三話 Showdown/決着・中編
普段よりちょい短い
ヤンフィがアミスと戦っている一方で、ディドたちはソーンと空中の激闘を繰り広げていた。
ドガン、ドガン、と一撃一撃が爆弾の如き威力をしたソーンの猛ラッシュが、ディドの振るう光剣と激しい火花を散らして、その衝撃が空気を震わせていた。
「このぉ、露出狂の、変態女がぁ!!!」
「どちらが、変態、ですかしらっ!! いい加減、人間の会話を、したら、どうかし――らっ!!」
口汚い罵倒と同時に繰り出されるソーンの右ストレートを、ディドは流麗な剣技で捌きながら、一瞬の間隙を縫って、反撃の前蹴りを急所にお見舞いする。
当然、その前蹴りには、無属性の魔力を纏わせており、鋼鉄くらいなら軽々と粉砕できるほどの破壊力を持たせている。無論、そこに容赦や躊躇など一切ない。
この一撃でもって、男性として役立たずにするつもりの本気の前蹴りである。
「――ぐっ、チッ!? この、糞女ぁああああ!!!!」
けれどディドの前蹴りは、ソーンにまったくダメージを与えられず、むしろ足に感じたグニャリという感触が、ディドに精神的ダメージを与えた。
ブーメランパンツしか穿いていない防御力皆無のはずのソーンは、しかし肉体自体の魔術耐性が高すぎて魔術攻撃がまったく通らないのだ。そのうえ物理防御力も桁外れで、煌夜を抱えたままのディドでは、分が悪い。
「下劣な台詞は、辞めてくれない、かしらっ!! クソなのは、貴方でしょうにっ!! この変態、筋肉達磨っ!!」
「筋肉は正義、だっ!! サッサと、ヤンフィ様の身体、返せっ――この発情野郎っ!!」
明らかな嫌悪感を浮かべたディドの怒号に、より強い口調でソーンが怒鳴り返してくる。むろん、その間も、ソーンの攻撃はまったく緩まない。
この低レベルな言い争いだけ聞いていれば、ただの子供の喧嘩に思えなくもない。だが実際、その苛烈すぎる戦闘は、もはや常人には踏み込めない超人の領域である。
クレウサは壁に身体をめり込ませながら、一瞬だけその光景を呆然と眺めてしまった。
「ワタクシは、野郎、ではありませんっ!!」
「ああ、そうだろうともなっ!! 軟弱な筋肉しか持たねぇ、馬鹿女っ!! 見苦しいそのデカチチで、オレのヤンフィ様を惑わせやがってっ!! 性欲処理用の奴隷だった分際で、色気づくんじゃねぇっ!!! オレのヤンフィ様を、返せっつうの!」
「チッ――――クレウサ!!」
ディドは鋭い声で、妹であるクレウサに助けを求めた。その声を聞いた瞬間、クレウサはハッと我に返って急いで壁から飛び出す。
「――くっ、お待ち、をっ!!」
ディドの声に応じるように、クレウサは渾身の魔術を展開しようとする。途端、貧血のせいか、グラリと身体がよろめいたが、そんなのは根性で黙らせて、ソーンに狙いを定める。
実はクレウサは、先ほどソーンに一蹴されて、満身創痍の状態である。
全身裂傷だらけで、自慢の黒い長髪には血がべっとりと張り付いている。顔は蒼白で血の気が失せており、いかにも苦しげな様子だ。
だがそんな瀕死状態だろうとも、姉であるディドの求めには応えなければならない。そうでなくては妹が廃るというものだろう。
クレウサはたっぷり数秒溜めて、自身の扱える最高位の魔術を、隙だらけのソーンに向けて放った。万が一にもディドが巻き込まれないよう、一応、ディドに声掛けも忘れない。
「これで――ディド、姉様っ!!」
クレウサの放った攻撃魔術は、光と闇の混合属性魔術【白黒閃光】だ。
上級の攻撃魔術ではあるが、威力は聖級にも匹敵する。何より特徴としては、光と闇という相反する属性効果を擁するため、無属性に近い攻撃魔術であり、物理的特性を併せ持っている。
白色と黒色の光線が二つ、交わってクルクルときりもみ回転しながら、ソーンの背中に伸びていく。
ソーンはクレウサなど毛ほども意識しておらず、背後から迫ってきた白黒閃光にもまったく無警戒だった。結果として、クレウサの白黒閃光は、ソーンの無防備な背中に直撃する。
爆発音と共に、もうもうと白煙が上がった。
しかし煙はソーンの纏う高密度の魔力――いや、熱気に吹き飛ばされて、一瞬で霧散する。
果たして、ソーンはまったくダメージを負っておらず、背中には火傷ひとつない。誰がどう贔屓目に見ても、無傷と断定してよいだろう。
「痛ぇ――この、糞雑魚女がぁ!! テメェは、これで吹っ飛べ!! 【超・銀河――」
無傷のソーンは、けれど妨害されたことで怒り狂って、青息吐息のクレウサに血走った双眸を向ける。そして空中で身体を捻ると、右手を振りかぶった。
ソーンの右拳には、先ほどのクレウサの魔術が児戯に思えるほど極大の魔力が篭められている。
「――クレウサ、逃げなさいっ!!」
ディドはさりげなくソーンと距離を取りながら、クレウサに向かってそう叫ぶ。
けれどクレウサは、ソーンのあまりにも強大な魔力と、レイプ犯じみた狂気の視線に怖気づいてしまい、絶句して身体を硬直させる。
「待たせた――ここからは、私が相手をしよう!!」
クレウサが絶体絶命になったそのとき、ようやくリューレカウラが、雄々しい風翼をはためかせながら攻撃の射線に身を乗り出した。
リューレカウラは、ソーンとクレウサのちょうど間に入って、庇うように両手を広げた。
「――砲拳!!!」
「『鉄壁なる風の盾を展開したまえ――風牢』」
ソーンの右拳が巻き起こす竜巻状の拳圧を前に、全裸のリューレカウラは、簡略詠唱で風属性の上級結界魔術を展開する。
リューレカウラの眼前に巻き起こる烈風の壁、そこにソーンの拳圧がぶつかった。
「っ、く――!?」
「ぁあ!? テメェ!」
太鼓を叩くような轟音が空気を震わせて、リューレカウラの展開した【風牢】が、ソーンの【超・銀河・砲拳】と相殺して爆発する。
凄まじい魔力の余波が、リューレカウラを中心に巻き起こったが、かろうじて誰一人として被害を受けることはなかった。
「ほぉ? テメェ、やるじゃねぇか!! オレの拳をよくも――」
「――クレウサ! 貴女は、役に立たない。そこの三人を守ってくれ!」
目をギラつかせたソーンと対峙して、その威圧に気圧されながらも、リューレカウラは冷静にクレウサへそう指示を飛ばすと、アスラエル、イルミタ、エギヌの足手纏い男子三人を指差した。
つい先ほどまでリューレカウラが庇っていた三人は、全員が恐怖にガクガクと震えながら、身を寄せ合って部屋の隅で固まっている。
クレウサはそんな三人を一瞥してから、自身の攻撃で無傷だったソーンと、己の消耗具合を鑑みて、自身の不甲斐なさに悔しさを滲ませる。
事実、リューレカウラの言葉通り、クレウサでは役に立たないだろう。ディドでさえも歯が立たない状況で、クレウサは足手纏いにしかならない。
「クレウサ、悔しくともリューレカウラの指示に従いなさい。この変態を相手にするのは、貴女には荷が重いわ」
悔しがるクレウサの表情を見て、ディドは鋭くそう命じた。
そんなディドの台詞に、クレウサはあらゆる反論を全て飲み込んで、すぐさま気持ちを切り替える。戦闘では役に立たなくとも、補助で役に立てれば良いのだ。
クレウサはソーンと一定の距離を保ったうえで、三人を庇える位置に陣取りシェルター状の【土牢】を展開すると、戦闘の流れ弾に被弾しないよう、さらにその上に防御結界を重ね掛けした。
「さて、それでは――往くぞ、変態っ!! ぉぉおおおお――!!!」
「あ!? チッ、この女――って、な、に!? ぐぁ――っ」
クレウサが三人を庇う行動を取った一方で、ソーンの一撃を防いだリューレカウラは、わざわざ大声で宣言してから飛び掛った。裂帛の気合がソーンにぶつけられる。
ソーンは結界に隠れた三人の男子に注目していたようで、いきなり突撃してきたリューレカウラに虚を突かれた。
ソーンは慌てて、眼前に迫るリューレカウラに注意を向けると、咄嗟に左ストレートを繰り出した。しかしその反応は遅すぎる。
リューレカウラはあまりにも予想通り過ぎるその動きに合わせて、ソーンの顔面に、右拳をクロスカウンターで叩きつけることに成功した。
瞬間――ソーンの顔面は大爆発を起こした。
完璧に決まったクロスカウンターはソーンの巨体を吹き飛ばして、凄まじい勢いで壁に激突していた。
誰が見ても会心の一撃である。けれど、右拳を喰らわせたリューレカウラは当然として、避難しているクレウサ、遠巻きに眺めているディドも、この程度ではソーンにダメージを与えることは出来ないことを知っていた。
これで決着するならば、とっくにディドが、軽く二十回は殺しているだろう。
「――神よ、この身に宿り給え」
吹っ飛んだソーンを注意深く見下ろしながら、リューレカウラは煌夜を抱えるディドのすぐ傍まで浮かび上がった。
リューレカウラはディドと並ぶと、その白い裸体を重厚な魔力膜で包み込んだ。魔力膜はゆらゆらとリューレカウラの体表面で波打っており、透明なドレスにも見える。
「リューレカウラ、それが貴女の異能、【神降ろし】なのかしら?」
リューレカウラの魔力膜を無表情に眺めながら、ディドは問い掛けた。並ぶとよく分かるが、リューレカウラからは、神々しい気配が感じられる。
ディドのそんな問いに、リューレカウラは言葉なく首肯する。
「期待、出来るかしら?」
ディドは少しだけ心配そうに眉根を寄せて、意識のない煌夜を裸の胸元にギュッと抱き締めた。
ソーンは一見して無敵じみた防御力を誇っているが、いまのリューレカウラが纏う魔力もかなり強大である。ただそこに居るだけでも周囲の空気が痺れるほどで、その魔力は神々しい波動も放っている。
互いの潜在能力を無視して、空気感だけを客観的に比べるならば、互角か、もしくはリューレカウラに分が有るだろう。
ディドがそんなことを考えたとき、リューレカウラは静かに聖級魔術を詠唱した。
「『天空に座す戦の神よ。我が祈りに応えて我が身に宿り、我が盾となり、我が矛となれ。我に戦場を駆ける翼を与え、我に戦場を見通す眼を与えよ。いざ、我と共に参ろう。【戦神鎧】――」
ディドがつい聞き惚れるほど流麗な詠唱が終わると、リューレカウラを中心にして、清涼な風が巻き起こる。そして、その全身には銀色の粒子が絡みつき、次の瞬間にそれは、目を見張るような美麗な銀鎧と化した。
リューレカウラの背中には、天族特有の風翼ではなく、輝く光翼が四対あった。その左手には【神光鏡】を装備しており、その右手には黄金色の巨大な突撃槍を構えていた。
銀鎧に身を包んで空中で構えているリューレカウラの姿は、まさに神の化身と呼ぶに相応しいだろう。
思わずディドはその神々しい光景に息を呑んでいた。
リューレカウラが纏った戦神鎧は、あまりにも強力な自己強化魔術だ。
これを身に着けた者は、本来の身体能力、魔力を数倍から数十倍まで高めることが可能である。しかも銀鎧の防御力は、冠級の攻撃魔術でさえ一撃耐えることが出来るほど強固なものだ。
この戦神鎧を纏った者は、ただの一兵卒でさえ魔貴族を容易く屠るほど――リューレカウラほどの実力者が装備したとすると、魔王属と一騎討ちさえ出来るのではないだろうか。
そんなことを考えながらも、ディドはリューレカウラとは共闘せずに、これから起こる激闘に巻き込まれないよう部屋の隅に移動する。
いまこの瞬間、ディドにとって最優先なのは、煌夜の身体を護ることである。ソーンという変態を消滅させることではない。
「――神罰を下す!」
ディドが距離を取ったのと同じタイミングで、リューレカウラは右手の突撃槍を振りかぶり、そんな宣言を行った。
その宣言と同時に、ソーンが鼻血を出しながら物凄い勢いで壁から飛び出してくる。
「殺――――ぬぉ!?」
巨大な砲弾の如く飛んでくるソーンに、リューレカウラは満を持して突撃槍を投擲した。
投擲された突撃槍は瞬く間に巨大な光柱と化して、飛んでくるソーンを呑み込み、そのまま白い床に極大な穴を穿つ。
しかしそこに音はない。
ただただ無音で、室内は圧倒的な黄金色の光で満たされた。
「擬似グングニルの神撃――これでもし生き残っていたら、あの変態は倒しようのない化物かしら」
ディドは目を細めてそんな感想を漏らした。
この一撃の威力は、極小規模ながらも冠級に匹敵している。それも物理特性を持った攻撃だ。
ヤンフィでさえも、この直撃に飲み込まれたならば消滅しかねない。
「ええ、紛れもなく変態でしょうね……なぜなら残念ですが、この程度でソーンは殺せませんから」
「――――っ!?」
黄金色の光が収まり、ディドがホッと胸を撫で下ろした瞬間、すぐ隣から女の声が聞こえた。圧倒的な存在感と怖気を誘う気配が、突然、真横に現れる。
ディドが慌てて振り向けば、そこには【神光鏡】を構えたアミスが浮かんでいた。
アミスは部屋の奥でヤンフィと戦っていたはず――と、ディドが思考したとき、鼓膜を破らんばかりの大爆発が発生した。
「な、にが――っ!?」
ディドは驚愕の声を上げた。同時に、煌夜の身体をいっそう強く抱き締める。
何が起きたのかは分からない。だが少なくとも、ディドたちにとっては悪い事態になっていることだけは確かだろう。
――となれば、逃げの一手しかない。
状況把握も出来ておらず、冷静さも欠いたままだったが、ディドは兎も角この場から逃げようと、風翼を羽ばたかせて逃避を選択する。
「判断は早いけど、動きは一手遅いですね」
アミスに迷わず背を向けて逃げようとしたディドだったが、それは叶わなかった。
ガクン、と身体のバランスが崩れて、ディドの右肩を激痛が襲った。チラと振り返れば、アミスの放った光竜が、風翼ごと右肩を喰い千切り、貫いていた。
風翼が失われたことで、ディドは空中でグラリとよろけた。遅れて、肩口から盛大に血が噴出して、重力がディドにのしかかる。
落ちる――と、思考した瞬間、今度はディドの両脚に光鎖が巻き付いたかと思うと、そのまま両脚が引っ張られて、空中で無様に逆さ吊りになった。
「くっ――!?」
ディドは咄嗟に、胸元できつく抱き締めていた煌夜を放り出した。
当然、煌夜の身体に万が一にも傷が付かないよう、防御結界魔術【光牢】で包み込んだ上で、床に放り投げたのだ。
格子状の光に包まれた煌夜の身体が、緩やかに白い床に転がる。
「へぇ? ソーンと戦っている天族の女戦士も相当な実力ですが、貴女も負けず劣らずの実力ですね。疲弊した私と、互角程度には戦えそうです」
「――――【光閃砲】!!」
ディドは煌夜を解放するが否や、全裸で逆さ吊り状態のまま、すかさず光剣をアミスの鼻先に突き付けると、躊躇なく必殺の光線を放った。
至近距離からの不意打ちの一撃、容易には避けられないし、直撃すればただでは済まないだろう。
しかしアミスは、そんな不意打ちの一撃を、首を傾げただけで躱してみせる。
「っ!? クレウサ、コウヤ様を命に代えても護りなさ――いっ!?」
「全体把握能力、判断力を含めると、魔王属様の次に、貴女が一番厄介な存在のようですね」
アミスの感嘆の台詞なぞ無視して、ディドは床に転がった煌夜と、部屋の隅で退避しているクレウサを見てから、素早くそんな指示を出した。
「このままでは、番狂わせもありそうですね。致し方ありませんか――」
床に転がった煌夜を困惑した表情で見詰めるクレウサに、ディドは、急げ、とばかりに手を振った。そのとき、突如としてアミスの魔力が膨れ上がる。
「え――な、貴女っ!?」
「――竜化」
ディドはその凄まじい魔力膨張に驚いて、慌ててアミスに視線を向ける。すると次の瞬間、アミスの身体が光を放ち、信じられない光景が起こる。
アミスの美しい銀髪が逆立ち、白衣は大きく揺らめく。ボコボコと肉と骨格が盛り上がり、背中からは肉の翼が生まれて、ものの数秒でその身は見事な竜と化した。
全長2メートル強、白銀の鱗をした蒼眼の竜である。
悪夢を見ているようだった。
強烈な威圧と、超絶な魔力がその竜――アミスから放たれていた。
この威圧感は、間違いなく魔貴族だろう。それもヤンフィに匹敵する程度には、強力な気配である。少なくとも一騎討ちすれば、ディドには勝ち目がないだろう。
(何が、どうなって……ヤンフィ様は!?)
思考が状況に追いつかない。けれど、混乱していても判断は出来ない。まず状況を確認するのが先決だろう。
ディドは素早く、アミスと戦っていたヤンフィの姿を探して視線を走らせた。
しかし部屋のどこを見渡しても、ヤンフィの姿は見つからず、代わりに、ひと仕事終えたとばかりに口元から煙を吐いている赤黒い竜がいるだけだった。
まさかヤンフィ様が負けたのか――と、ディドが赤黒い竜に意識を奪われた瞬間、その鳩尾に、竜化したアミスの尻尾が突き刺さった。
ごぶ、とディドは口元から大量の血を吐き出す。逆さ吊りのため、血は顔に掛かり、鼻にも入っていっそうむせた。
「ゴォォオオオオオ――!!」
竜化したアミスが何やら咆哮する。けれどそれは魔神語を解さないディドには、ただの怒号にしか聞こえなかった。
「……変態は……リューレカウラに任せ、ました……ワタクシは……この、銀竜を何とかしますわ」
「グゥォアア――ッ!!!」
「クレウサ……貴女は、コウヤ様を……」
眉根を寄せた顰め面で、口元から血を流しながら、ディドはボソボソと呟く。
その呟きは、ディドたちを遠巻きに眺めているクレウサに向けたものだ。だが、あまりにもか細い声音のため、残念ながらクレウサまでは届かなかった。
逆さ吊りのまま腹部を尻尾で貫かれたディドを目掛けて、竜化したアミスは大きく顎を開く。
凄まじい魔力がアミスの口に集まった。竜の息吹を放つつもりである。
「ディド姉様っ!!!」
煌夜の身体を介抱しつつ部屋の隅に移動していたクレウサが、絶体絶命のディドを見て悲鳴を上げる。
「……ワタクシの、心配は、不要……かしら」
クレウサの悲鳴を耳にしながら、ディドは薄く笑った。瞬間、超至近距離でアミスは必殺の竜の息吹を炸裂させる。
ディドは為すがまま、甘んじて竜の息吹を全身に浴びた。
◆◇◆◇◆◇
とても息苦しい。まるで毒を嗅がされているかのように、呼吸するたび肺が痛くなる。
ひどく身体が重い。重力が倍になっていて、何かが背中にのしかかっているような気さえする。
漂う空気が物凄く血生臭い。腐臭を放つ汚泥に沈んでいるような異臭が空間に立ち込めている。
――何よりこの暗闇は、あまりにも禍々しい瘴気に満ちていた。
こんなところに長時間閉じ込められたならば、エイルは間違いなく発狂してしまうに違いない。それほど狂気に満ちた空間である。
同じ暗闇でも【奴隷の箱】の中とはまったく異なる空気だった。
「……ここ、どこぉ? そもそも……エイル、どうして、こんなところに?」
エイルは今しがた意識を取り戻して、泣きそうな顔で辺りを見渡しながら、誰に言うともなく嘆いていた。
どうやってここにきたのか、ここはいったいどこなのか。
エイルには、ここに至った経緯の記憶がまったくない。ふと目覚めると、果てしない闇に包まれたこの空間にいたのだ。
エイルが覚えている最後の光景は、世にも恐ろしいドラゴンが四体、ズラッと一列に並んで、エイルに殺意を向けた場面である。
絶体絶命の窮地、いや助かる見込みのない死地か。
ともかく、エイルが自身の死を覚悟したところで、恐怖により意識が焼き切れた。それ以降、状況がどうなったのかは分からない。
「もしかして……ここ、死後の世界……?」
呟いてから、その可能性に恐怖する。もしかしたらエイルは、意識を失ったときに、その命も失ったのではないか――そうなっていても、おかしくはない状況だった。
エイルは恐る恐ると自らの身体に触れて、異常がないか確認する。
異常はないように思う。
エイルの身体には、どこにも掠り傷一つなく、五体満足で動きに支障もない。服装も乱れておらず、着せられたままの剣士の格好だった。
エイルは、自らが無事なことにホッと胸をなで下ろす。すると、グラグラと空間が大きく揺れた。
「――っ!?」
いきなりのその揺れに、エイルは思わず息を呑んで身体を硬直させる。
「……何が……起きてるのぉ?」
揺れはすぐさま収まったが、嫌な予感はいっそう強くなった。
ひっきりなしにエイルを襲う怖気はいや増して、頭の中では危険を告げる警鐘が鳴り響く。
「……怖い、よぉ……なん、なのぉ……」
エイルは涙を滲ませて、見えない恐怖に子供のように嫌がる。エイルの生存本能が、ここは危険であると強く訴えている。
いますぐここから逃れなければ、危険すぎる――とはいえしかし、ここから出る方法などまったく見当も付かなかった。
「助け、てよぉ……どうやったら、ここから……出れるのぉ……」
エイルが鼻を啜りながらそんな弱音を吐くと、唐突に、目の前の中空に半透明の薄い扉が現れた。
「え? あ、え? これ……出口、ですか?」
半透明の薄い扉を見た瞬間、エイルは思わずそう呟いていた。
どうしてだかわからないが、その扉は外に通じる出口であると確信できた。
エイルは戸惑いながらも、突然目の前に現れたその怪しい扉に近付いた。そして何の警戒もせず、それが出口であることを疑うこともなく、そっと扉に触れる。
扉に鍵は掛かっておらず、エイルが触れた瞬間、キィ、と音を鳴らして当然のように開いた。
途端、目も眩むような白い閃光が扉の外側から溢れて、吸い込まれるように、エイルはその光に飲み込まれた。
「きゃ――っ?! い、痛いっ!?」
白い光に吸い込まれた直後、エイルは空中に投げ出された。いきなり足場がなくなった感覚に悲鳴を上げて、受身も取れずに背中から床に叩きつけられた。
扉の外の世界は、四体の竜種と対峙したあの白い大部屋である。
「グォオゥ!? ガァアア――ッ!!」
強かに身体を打ち付けてゴロゴロと床に転がるエイルに向けて、そのとき、凄まじい咆哮がぶつけられた。
「え、な、なに――――ヒィ、ッ!?」
エイルはその咆哮にビクッと身体を硬直させると、慌てて身体を起こして周囲を見渡した。そして、咆哮の主が何者であるかを認識して、恐怖から絶句する。
果たしてエイルの眼前には、赤黒い魔竜が大口を開けて構えていたのだ。
サーッと、エイルの顔面から血の気が引いた。無意識に、ガタガタと身体が震え出す。
「――ガゥォオオ!!」
恐怖に慄くエイルに向けて、赤黒い魔竜は歓喜の色を孕んだ咆哮を上げる。その大音量に気圧されて、エイルは恐慌に陥った。
頭の中は真っ白になり、逃げるという選択肢さえ思い浮かばない。まるで魔眼で石化させられたかのように、エイルの身体はその場に縫い付けられた。
「ぁ、ぅ、ぇぅ……っ」
エイルを睨み付ける赤黒い魔竜は、先ほどの竜種四体よりもずっと小さい体躯をしていたが、その威圧感は、ヤンフィを前にしたときと同等かそれ以上だった。対峙した瞬間に、命を諦めざるを得ないほどの圧倒的な存在感がある。
エイルではどう抗おうと、この化物には敵わないだろう。
「はっ、はぅ――ぁ、っ、はっ」
知らず知らずエイルの呼吸は荒くなり、恐怖で目を閉じることが出来なくなった。身体は金縛りにあったように動かないし、そもそも何も考えられなくなっている。
赤黒い魔竜が叩き付ける凄まじい殺意に、エイルの精神はあっけなく飲み込まれていた。
暴風の如く吹き荒れる絶望的な魔力に、エイルは自らの死を確信していた。もはや神への祈りさえ思いつかなかった。
「ひ、ぅ――――ぁ、いぇ」
助けて、と呟こうとしたが、エイルの口から漏れたのは、意味を成さない声だった。
「グォオオ――ッ!!」
赤黒い魔竜の大口から、桁違いの魔力が溢れる。空気が焦げ付くようなキナ臭い匂いが漂う。
そして次の瞬間、小型の太陽を思わせる巨大な炎塊が赤黒い魔竜の口元に出現して、爆音と共にエイルへと放たれた。
直撃すれば、エイルは骨も残らず刹那に溶けてなくなるだろう。ただでさえ熱気だけでも、肌の表面が焼け爛れ始めている。
赤黒い魔竜の放ったその魔術は、竜の息吹と呼ばれる竜種独自の必殺技ではなかった。けれど、それでも充分以上に、エイルの防御魔術では決して防げない威力の魔術であり、ましてやエイルの反射神経では不可避の攻撃だ。
しかもこの魔術が放たれた時点で、もはやエイルの詠唱速度では防御魔術は間に合わない。つまり完全に詰みの状態である。
(……死……ぁ……?)
避けようのない絶対の死を自覚したそのとき、唐突に、エイルの視界に映る世界が停止する。
全ての景色が色を失い凍りつき、眼前まで迫った巨大な炎塊がピタリとその動きを止めた。
世界からは音が消えてなくなり、一秒が永遠に思えるほど長く感じられる。それはまさに、時間が止まっているかのようだった。
これは――と、エイルの脳裏に、懐かしい記憶が蘇る。
聖女スゥ・レーラ・ファーとして認められた二年前のあの日。
【神の叡智】を授けられて、神々しい光で身体の内側が満たされたあの瞬間。
神に与えられたその万能感に酔って、世界中の人々を癒す使命に胸を躍らせたあの時。
嗚呼、もしかしてこれが、聖女としての覚醒なのか――と。
エイルは驚くほど心が穏やかになるのを感じながら、静かに瞳を閉じて神への祈りを捧げた。
「【自動蘇生】――」
神に祈りを捧げると、無意識のうちにエイルの口からは、そんな詠唱が漏れる。すると、それが合図となって、止まっていた世界が動き出す。
全ての景色は色を取り戻して、眼前まで迫った炎塊は爆音を響かせる。
果たしてエイルの身体は、何の抵抗もなく炎塊に飲み込まれて、一瞬のうちに跡形もなく溶けて消え去った。後には肉片はおろか、服の欠片すら残らない。
こうして一瞬のうちに、抵抗する間もなくエイルはあっけなく死んだのだった。