第六十話 Check/手札は出揃った
文字数20000越えしちゃいました。今回特に長いです。
ディドが目覚めてから、およそ二時間弱が経過した。
奴隷の箱に入ってから、都合五時間ほどだろう。まだ二人目の治癒中である。
当初の想定よりも、治癒の進捗は非常に遅かった。
「――ぁっ、ふっ……はぁ、ぁっ……ぅぅ……っは、ぁ、はっ……」
ヤンフィが退屈を持て余していたところ、ふいにエイルが、バタンとその場で仰向けに倒れこんだ。
ようやく二人目の治癒が完了したのだろうか。ヤンフィはエイルに視線を向けた。
当のエイルは、呼吸も満足に出来ない状況で、その意識も不明瞭、見るからに死にそうなほど疲労困憊している。
「二人目が、成功したのか?」
しかしそんなエイルの状況なぞお構いなく、ヤンフィは当然のように問い掛けた。だが、エイルからの返事はなく、ただただ荒い吐息が漏れるだけだった。
けれども、それも当然だった。
よくよく見ればエイルは、体内の水分を全て出し切ったのでは、と疑いたくなるほどの汗だくで、魔眼で探る必要もないほど、一目瞭然に体力、気力、魔力がほぼ尽きていた。
このまま放置すればきっと過労で死ぬに違いない。それほどの疲労である。
「――――ぅぅ? あ、れ……? 私……何が、どうなったの、ですか?」
ところで、そんなエイルとは裏腹に、エイルの治癒で回復した長い黒髪の天族が、ゆっくりとその身体を起こした。
黒髪の天族は上半身を起こすと、ディドの寝起きとまったく同じ反応で、周囲をキョロキョロと見渡していた。その表情には、困惑の色が浮かんでいる。
「……ぅぁ……ぅ?! あ、あ、あ……あぅ……あ」
黒髪の天族は、椅子に座して観察しているヤンフィと目が合うと、途端にビクンと身体を震わせた。そして絶句すると、その表情に恐怖の色を浮かべた。
「ぅ……ぁ、の……ごくん――ここは一体、どこ……ですか?」
しかし、恐怖に支配されながらも、黒髪の天族は意を決した様子でヤンフィに質問してくる。
傍から見ると哀れに思えるくらい戸惑った表情で、いまにも泣きそうな声の響きではあるが、それでも正面からヤンフィと向き合い、ハッキリとした口調での質問だった。
弱々しい印象だが、芯は強いようだ――と、ヤンフィは感心した。
「ここは――――」
「――クレウサ。目覚めてすぐに、己を優先して、恩人に質問するのは失礼かしら? まずは名乗るのが先でしょう?」
ヤンフィが椅子から立ち上がり、黒髪の天族――クレウサに応えようとした瞬間、それをバッサリと遮って、ディドが無表情ながらも怒気を含んだ声で口を挟む。
いっそうビクリと震えるクレウサ、一方ヤンフィも、予期せぬ横槍で出鼻を挫かれて、つい言葉を飲み込んでしまった。
(……名乗るより先に、問い掛けたのはディドも同じじゃったがのぅ……)
ヤンフィは心の中でそうぼやいてから、うむ、とクレウサに頷いてみせる。
「え――ディ、ディド、姉様!? ぁ、ぅ……ぅぅ……ご、ご無事、でしたか――よ、良かったぁ」
クレウサは、煌夜を膝枕している全裸のディドを見つけると、驚愕して、安堵を浮かべて、感動から泣き顔へと、コロコロその表情を変えた。
ディドはそんな彼女に、冷然とした視線を向けたまま、煌夜の頬を優しく撫でている。
二人の関係性は『双子の姉妹』と云うこと以外詳しく知らないが、明確な上下関係が形成されているようである。そしてそれは、明らかにディドの方が立場が上だ。
ところでディドは、クレウサが意識を取り戻すまでの二時間弱ずっと、無表情のままで煌夜を介抱していた――まぁ、介抱と云っても、ほぼ魔力の無駄遣いなのだが――回復しきっている煌夜の身体に、下級治癒魔術を施し続けて、生命力の補填と称したスキンシップを行っていた。
ヤンフィにはそれを止める理由もないし、そもそも煌夜に意識がないので、何をしても無駄と自由にさせていた。
どうやらディドは、命の恩人である煌夜に、並々ならぬ情念、恋慕の念に近い感情を抱いている様子である。
ディドの認識のうえでは、煌夜は颯爽と現れた悪と敵対する英雄であり、身を挺してディドたちを救い出してくれた王子様であり、絶望的な身体状況を治癒してくれた恩人なのだろう。
だからなのか。まったく意図せずして、ディドは煌夜に心酔してくれていた。
ヤンフィが魔眼でその感情を読み取っても、ディドの中には、煌夜への想いが、敬愛、親愛、忠誠心として溢れており、裏切る要素は一切ないほど従順な下僕状態になっていた。
「……あ、あの……その……私……」
「クレウサ。まずはヤンフィ様に名乗るべきかしら? そうしたら、貴女の疑問を解消してあげるわ」
本当に姉妹かと疑わしくなるほど、クレウサはディドと比べて感情豊かな百面相をする。そんなクレウサだが、あちこちに視線を彷徨わせてから、ごくり、と唾を飲んでいた。
「ディド姉様……私――っぅ!?」
口を開いた瞬間、クレウサはビクッと身体を震わせて、ひどい頭痛を訴えるように頭を押さえる。その表情は苦々しく歪み、蒼白に変わった。
その反応は恐らく、ディドのときと同じ、幾分か冷静になった脳裏に、陵辱されていた当時の光景が蘇ったに違いない。
ガクガクと身体を抱えて震える様は、まさに怪物を前にして怯える幼子のようだった。
さて、当時の記憶を取り戻したらしいクレウサは、一気に襲い掛かってきた悪夢に苦しみ、しばしの間、完全に絶句状態になっていた。
同情はしないし、それがどれほどの苦痛かはヤンフィには理解できない。けれど、この精神的な負荷により、心が壊れてしまう天族も中には居るやも知れない、と少しだけ心配になる。
心が壊れてしまうと、天族固有の特殊能力が使えなくなるため、使い道が減ってしまう。
「…………くぅ、うっ……ん、うん……はぁ、ぁ……はぃ」
けれど、ヤンフィのそんな心配は、杞憂に終わった。それほど時間も掛からず、クレウサは意識を復帰させる。頭痛は続いているようだが、呂律はしっかりとしており、冷静な口調だった。
ディドは、クレウサのその様子に満足げな頷きを返して、強い口調で問い掛ける。
「クレウサ、もう大丈夫かしら? 冷静に、なれたかしら? ワタクシも同じ目に遭いましたから、同情はしますわ。けれど、いまさらそれに固執しても仕方ありません。それよりも、ワタクシたちが何を出来るのか、コウヤ様という恩人に対して、どう報いるべきか――それこそが大事かしら?」
「は、い――ええ、ディド姉様の仰る通りです。穢れた自らのことを憐れむ暇があれば、成すべきこと、為さねば成らぬことを考えるべきでしょう」
クレウサは流麗な響きでそう語ると、パン、と自らの両頬を思い切り叩き、泣きべそを一転、凛とした表情でヤンフィに向き直る。
クレウサはサッとその場に起き上がり、次に膝立ちになる。そして背筋を伸ばして居住まいを正すと、ディドもそうだったが、堂に入った仕草でヤンフィに傅いた。
「先ほどは醜態を曝してしまい、たいへん失礼いたしました。また重ねて、このような見苦しい姿で名乗る無礼をお許しくださいませ」
クレウサは下げた頭をパッと上げて、真っ直ぐとヤンフィの双眸を見詰める。ディドの青い双眸とは異なり、クレウサの双眸は少し黄みがかっていた。
「私は、クレウサ、と申します。天界の王族御三家のうち、セラフィエル王家に仕える守護騎士が独り――そこにいるディド姉様の双子の妹です」
明瞭にハキハキと名乗って、凛とした表情で毅然と胸を張る。
柔らかい物腰と丁寧な物言い、凛とした態度は、高飛車で些か横柄に感じるディドの態度と比べると、ずっと落ち着いて見える。
どちらが姉で妹か、思わず疑いたくなるほどだ。
「クレウサ、のぅ――妾は、ヤンフィじゃ。ディドが抱えておる青年、名をコウヤと云うのじゃが、そのコウヤに使役されておる【魔王属】である」
「はい、ヤンフィ様…………ロード、え、魔王属っ!? 使役、って――えっ!?」
ヤンフィの自己紹介に驚愕するクレウサに、煌夜の頭を優しく撫でているディドが、またもや横から口を挟む。
「クレウサ、恩人に対して驚くのは失礼かしら? ヤンフィ様が魔王属だろうとなんだろうと、ワタクシたちを助けてくれた事実に偽りはないわ。そんなヤンフィ様を従えるコウヤ様のおかげで、ワタクシたちがこうして救い出されたのも真実ですわ」
「――で、ですが、ディド姉様!? 魔王属、ですよ!? 魔王属といえば、あらゆる存在の敵であり、同時に私たち天族にとっても、決して相容れぬ――」
「――クレウサ、貴女。了見が狭いうえに、何も視えていないですわ。魔王属はあらゆる存在と相容れぬのならば、ヤンフィ様がワタクシたちを助けるはずがないかしら? 盲目になるのは、クレウサの悪い癖ですわ。自らで視たこと、感じたこと、体験こそが真実ですわ」
「くっ……だ、だけど、たとえ私たちの恩人だろうとも、魔王属は危険な存在ですよ!?」
「何を根拠に、危険かしら? 噂や伝承を鵜呑みにして、安易に決め付けるのは良くありませんわ」
「そっ――いえ、決め付けではなくっ!!」
駄々っ子のように反論するクレウサに、教え諭すように淡々と語るディド。
よく分からないが、二人のその言い争いを耳にするに、ディドは全面的にヤンフィを信じている――否、ヤンフィを、と云うよりは、昏睡状態の煌夜を盲信しているのだろう。
ヤンフィたちに逆らわないに越したことはないし、従順であることは有難いことだが、ここまで盲信されると、若干の恐怖も感じた。
そうして、しばし不毛な言い争いが続き、結局、クレウサが沈黙することになった。ディドは、クレウサが何を云っても取り合わなかった。
そんな光景を見て、ずいぶんと不思議な姉妹喧嘩だ、とヤンフィは少しだけ和んだ。
(……ディドのほうが、狂信的な気質じゃのぅ。裏切られる心配はないが、暴走しやすいやも知れぬ。一方で、クレウサは現実的じゃが、秩序や法に縛られて融通の利かない気質かのぅ)
ヤンフィは冷静に二人の性格を分析しながら、その身体付きを舐めるように眺めた。
ディドとクレウサは、双子の姉妹と云われても、性格もそうだが、まるで似ていない容姿をしていた。
ディドは見事な白金の長髪が印象的で、奴隷の箱に囚われている誰よりも綺麗な顔立ちをしている。透き通った薄水色の双眸と、温度を感じさせない無表情が特徴だろう。
その白い肌はきめ細かく、染みはおろか傷一つ存在しない。背丈は160センチに届かない程度だが、腰の位置が高く、脚が長かった。
黄金比とはまさにディドのことだ――そう確信できるほど、ディドは均整の取れた体型をしている。
視線を落とせば、適度な大きさをした美乳に、くびれてキュッとしまった腰、薄らと割れた腹筋、小ぶりでツンと上がった尻が目に付く。そして無駄毛どころか、子供みたいに身体中一切が無毛である。
一方でクレウサは、夜を溶かしたみたいに艶のある黒髪が特徴的だった。顔立ちも勿論、凄まじい美人ではあるが、それ以上に親しみを感じさせる柔和な空気を纏っている。
お淑やかな大人の妖艶さを持ち、黄みがかった双眸は少し垂れ目で、対峙した者に優しい印象を与える。
ディドに負けず劣らず白い肌をしているが、ディドよりも日に焼けていて健康的な色合いをしていた。背丈はほんの少しディドより高いが、脚はディドよりも短い。必然、並び立つと背が低い印象になるだろう。
体型はどちらかといえば痩せ型だが、女性らしい丸みを帯びた身体つきをしており、男目線だと抱き心地が良さそうだった。
大人の魅力では、ディドよりもクレウサのほうが上だろう。
さて、そんな邪な視線で二人を検分したヤンフィは、衰弱状態のエイルに顔を向けた。
「――クレウサよ。そこで倒れておるのがエイルと云う。剣士の格好をしておるが実際は【聖女スゥ】――神に選ばれた治癒術師じゃ。汝らを回復させたのは、このエイルじゃ」
クレウサはヤンフィの言葉にハッとしてから、恥かしそうに顔を染めて、エイルに頭を下げた。しかしエイルは、そんなクレウサに何の反応も返せない。ただただ荒い呼吸を繰り返すだけだ。
「おお、そうじゃった。忘れておったわ……回復させてやろう」
死に体のエイルに気付いて、ヤンフィはポンと手を叩いた。
急いで回復薬を取り出して、小瓶の液体をエイルの顔面にドプドプと掛ける。
どろどろした青と緑のその液体は、口と鼻、目に入り、途端にエイルは、げほっ、げほっ、とむせながら飛び起きる。
ヤンフィは満足げに頷いて、意識を取り戻したエイルに小瓶を渡す。
「エイルよ、少しは回復できたかのぅ? まぁ、回復できていなくとも、休んでいる暇なぞないがのぅ……残りの天族は四人じゃ。死ぬ気でもっと、回復の速度を上げよ」
「あ……ぅ、ぅ……あ、あれ……え、と? あ、そっか……うん……は、はい……」
エイルは目をパチクリとさせてから、胡乱な頭を振ってから、状況を思い出して、とりあえず頷いていた。あんまりにも強引な指示だが、ヤンフィに逆らうことなどない。
「あ、ぅ……ぇ、と? あ、エ、エイルは、その、エイル、です……よろしく……」
「挨拶は不要じゃ。疾く次に移れ。次は、そこの少年の天族じゃ」
エイルは、クレウサとディドの注目を浴びていることに気付いて、よく分からないまま自己紹介をする。だがそれをヤンフィは叱責して、目に付いた天族の少年を指差した。
「はいぃ……ぅぅぅ……これ、苦い…………けど、凄い」
エイルはヤンフィの命令に従い、天族の少年に近寄る。そして、とりあえず手渡された回復薬を一息に飲み干していた。
すると途端に、内側からパァ――と光が溢れて、エイルの全身を蝕んでいた疲労を消した。同時に、魔力も充実する。
エイルは、凄い凄い、と呟きながら、よし、と気合を入れ直して、ディドとクレウサのとき同様に、祈りの姿勢になっていた。
「――ディド姉様。あれは、何を?」
「治癒魔術、のようですわ。聖級の――クレウサの精神を元通りにしたのも、あの作業ですわ」
小声でボソボソと呟いたクレウサに、ディドがサラリと説明している。ヤンフィは頷いて肯定する。
「さて、ところでじゃ――クレウサよ。汝の固有能力は、ディドから聴いたが、同化じゃったか?」
「は――? ぇえ? ディ、ディド姉様!?」
唐突なヤンフィの問いに、クレウサが仰天してディドを睨みつける。けれどディドは、まったく悪びれた様子もなく、ええ、と強い口調で頷いた。
「お伝えしましたわ。ワタクシと、クレウサの能力を包み隠さず――恩人に対して、それこそが誠意ある対応ですわ。違いまして?」
「え、えぇ……? いえ、ですが、私たちの固有能力は……」
「ヤンフィ様たちに隠す意味、あるのかしら?」
強気な上から目線で、ディドはクレウサを黙らせる。クレウサは不承不承と納得した。
「……はい。私の固有能力は、【同化】と呼ばれるモノです。対象の肉体に宿ることによって、私が持てる全ての能力を、一時的に貸し与える能力です」
「ふむ。それはそれで強力じゃが――ちなみにそれは、体力や魔力は増加するのか? それとも、上書きされるのか?」
ヤンフィの問いに対して、クレウサは要領をえないとばかりに首を傾げた。
ヤンフィは、苦笑して補足する。
「例えば、エイルに乗り移ったとして、エイルの体力には、クレウサの体力が上乗せされるのか? それとも、エイルの体力がクレウサの体力に、一時的に書き換わるのか?」
「ああ――いいえ、そのどちらも異なります。体力や魔力など、肉体や精神に依存する能力値は、本人のままとなります。私が貸し与えるのは、あくまでも技術のみです」
「ほほぅ。と、云うことは、汝の能力を行使した際には、汝の魔力や体力を消費するのではなく、宿主――例えで云えば、エイルの魔力や体力を消費することになるのかのぅ?」
「その通りです。ですから、私よりも弱者の方と同化しても、役に立たない能力と思います」
クレウサの言葉に、ふむふむ、とヤンフィは納得した。状況によっては、非常に強力な能力だが、煌夜を救う手助けにはならない。
「確かに、その能力は今現在、何の役にも立たぬのぅ。しかし、汝にはもう一つの能力があるそうじゃのぅ――【共振増幅】じゃったか?」
ヤンフィの問いに、クレウサはいっそう鋭い眼光でディドを睨みつけた。しかしやはりディドは、そんな睨みを軽く流して、膝で昏睡している煌夜の髪を撫でていた。
「命令じゃ、クレウサ、ディドよ。妾にランクアップを施せ。実際の効果を検証したい」
ヤンフィは愉しそうに笑いながら、クレウサとディドに視線を合わせる。
ディドはヤンフィと視線が絡んだ瞬間に、かしこまりました、とすかさず頷く。その一方で、クレウサは視線を逸らして、眉根を寄せた難しい顔で下を向いた。
「――ヤンフィ様、効果時間は短いですけれど、それでもよろしいかしら?」
「モノは試しじゃ。やってみせよ」
「クレウサ、波長を合わせなさい――同期しますわ」
ヤンフィの言葉に何の躊躇もなく、ディドは煌夜の頭から膝を抜いて立ち上がった。けれどクレウサは明らかに乗り気でない様子で、傅いたまま動かない。
「クレウサ――ワタクシの指示が聞こえないかしら?」
一向に動かないクレウサに、ディドが静かに囁いた。途端クレウサは、仕方ない、と立ち上がり、納得いかない表情ながらも、ディドと向かい合った。
向かい合った全裸の二人は、まるで合わせ鏡のように手を合わせた。右手と左手、左手と右手、お互い左足を前に、右足を引いて、まったく同じタイミングで魔力を放出する。
「見事じゃ――魔力が絡んでおるのぅ」
ヤンフィはその光景に感嘆の声を上げる。
ディドとクレウサから放たれた魔力は、まるで初めからそうであったかのように、お互いがお互いの魔力に溶け込み、より膨大な魔力のうねりとなっていた。
うねる魔力は一箇所に収束して、神々しい白光を放つ魔力球に変わった。
「「――対象、捕捉」」
ふいに、ピタリと重なった二人の声が響き、同じ動き、同じ速度で、ヤンフィに向き直る。
二人の動きに呼応するように、白光の魔力球はゆらゆらと空中に浮かび上がって、ヤンフィに向かって飛び掛ってくる。
これが攻撃魔術の類だとすると、かなり位階の高い攻撃だろう。魔力の質は高く、魔力量も凄まじい。
果たしてどうなることやら――と、ヤンフィは、ほんの少しだけ不安になった。
「――っ!? ほぅ? これは……なる、ほどのぅ……」
しかし、ヤンフィに直撃した魔力球は、ヤンフィに反発することもなく、当然のように身体の中に吸収された。その瞬間、ヤンフィの魔力量が爆発的に増加した。
それは恐るべき効果だった。喪われていた魔力の半分以上が、一瞬のうちに補填されたのだから。
「これは、凄まじいのぅ――想像以上に、役立ちそうじゃ」
ヤンフィは全身から溢れる力に、思わずニヤリとほくそ笑んだ。
これを仮に、エイルや煌夜に使えば、身体能力に限らず、全ての免疫能力、魔力耐性をも爆発的に強化できるだろう。
一方で、ランクアップしたヤンフィとは裏腹に、魔力球を飛ばしたディドとクレウサは、ガクンとその場に崩れ落ちていた。
かなり激しく消耗している様子で、無表情のディドが苦悶の表情に脂汗を浮かべているほどだった。
ちなみに、その効果時間は確かに短く、おおよそ三分で元通りになった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
三人目を治癒し終えて、エイルの治癒力が明確に進化していることが分かった。
治癒完了までの時間が劇的に短縮されていた。ディドのときよりも当然、クレウサのときよりも更に短時間のうちに、三人目を治癒できたのである。
それは時間にして、一時間弱。これほどの成長速度は、ヤンフィが絶賛するほどの疾さだった。
さてこれで、天族六人のうち、ちょうど半分が治癒を終えた。
ここまでで掛かった合計時間は、七時間弱――しかし、三人目が一時間弱で治癒できたことを考えれば、残り三人に対して、わずか三時間だ。
当初の予定と比べても、順調な進行と云えるだろう。
ヤンフィは荒い呼吸を繰り返すエイルを満足げに見詰めた。エイルは確実に、聖女としての実力を向上させている。
(……じゃが、まだまだ化けるほどではないのぅ。やはり聖女として覚醒させるには、もっと強い精神的負荷が必要かのぅ)
起き上がるが否や半狂乱で騒ぎ立てる天族の少年と、それを宥めようと接するエイルを見ながら、ヤンフィは冷静に状況を分析していた。
「――貴方、名前は? 見たところ混血のようですが、出自はどちらですか?」
騒がしい天族の少年に、クレウサが身体を手で隠しながら問い掛けた。
その突然の声に、天族の少年はビクリと震えて、反射的にクレウサを見詰める。刹那、クレウサが全裸であることに気付いて、ピタリと動きを止めていた。
半狂乱が混乱に変わり、思考が完全に一時停止したのが分かる。
天族の少年は目を大きく見開きクレウサの身体を眺めると、たっぷり三十秒経ってから、ボッと火が着いたように顔を赤面させて、慌てた様子で顔を伏せる。
ちなみに、如何にも少年らしい反応を見て、正面のエイルが苦笑しながら視線を逸らしていた。
「あ、あの……え、えと、何が起きたか、分からないですが……ボ、ボクは、その――」
「――ワタクシたちは純血で、天界の王族に仕える者ですわ。本来であれば混血の貴方如きが、口を利ける相手ではないですわ。それを踏まえたうえで、相応な態度で、ハッキリと答えてくれないかしら?」
おどおどとした口調で下を向いて視線を泳がせている少年に、その裸体を少しも隠す素振りなく、ディドが強い口調で口を挟む。
態度もそうだが、表情も相変わらず能面で、しかも煌夜に膝枕をした姿勢のままである。
「――――え、えぇ!? て、天界の、王族って――まさかっ、御三家のっ!?」
「王族と言えば、御三家以外にありませんわ。下らないことで驚いていないで、質問に答えなさい。変態」
冷水よりも寒々しい声で、嫌悪感を乗せた冷気を放つディド。その態度に、クレウサが少年に同情の視線を向けている。
天族の少年は、全身にその冷気を浴びてピクッと震えると、見る見る血の気をなくしていた。
「あ、あぅ……そ、ボク……あ、の――」
「――落ち着くが好い。妾たちは敵ではない。汝をどうこうするつもりもない。ディドも威圧するでない」
埒が明かないと見かねたヤンフィが、うろたえる天族の少年に優しい口調で語りかけた。
天族の少年はその声にハッとして、ヤンフィの姿を認めると幾分か気持ちを落ち着かせていた。抱く感情には安堵が混じり、恐怖が薄れていくのが視える。
「あ、はい……あ、その……助けて、いただき……ありがとうございます。」
天族の少年は深呼吸してから気持ちを落ち着かせると、ヤンフィとエイルに頭を下げる。礼儀は心得ているようだ。
「ボクは、アスラエルといいます。出自は、【神聖帝国テラ・アレー領】の【黄金都市ルーク】です。それと……確かに、人族と天族の混血です」
「ふむ、ではアスラエルよ。汝はどのような経緯で、あの場に囚われておったのじゃ?」
「あ、ええ。それは、ですね――」
天族の少年――アスラエルは、視線の置き場に苦慮しながらも、ヤンフィの質問に一つ一つ丁寧に答えた。
アスラエル曰く、ディドとクレウサを除くほかの天族四人は、全員が知り合いであるらしい。しかも、二人の少年天族は、アスラエルと同じ出自だという。
なんでも、アスラエルの住んでいた【黄金都市ルーク】と云う街は、種族ごとに暮らす区域が定められていて、混血の天族だけが暮らす区域があったらしい。その中で、職業と街への貢献度により細かく区画が決められており、アスラエルたちは『D13』区画で暮らしていたと云う。
そこで生活していたのは、男女十八人ほど。年齢層は、上が二十九歳、下が八歳とそれなりに若いコミュニティだったと云う。
コミュニティに居る十二歳以下の子供たちは、神聖帝国の魔術学校に無償で通っており、十三歳以上の全員は、主に治癒魔術院の手伝いか、冒険者として活躍することで生計を立てていたそうだ。
ちなみに、アスラエルについては、治癒魔術が得意なので、もっぱら治癒魔術院で働いていたと云う。
しかしそんな或る日、突如『リューレカウラ』と名乗る純血の天族が、満身創痍でやってきた。
――ところで、その『リューレカウラ』は、まだ治癒されていない短い黒髪の女性天族のことである。
さて、満身創痍のリューレカウラには意識がなく、アスラエルたちコミュニティの皆は、とりあえず彼女の介抱をした。
だがその翌日、リューレカウラを追って来た【世界蛇】を名乗る三人組が現れたと云う。
人族と妖精族の組み合わせのその三人組は、あまりにも圧倒的な武力でもって、意識のないリューレカウラを奪い去る。
その際ついでとばかりに、D13区画で暮らしていた十八人のうち、十五人が虐殺された。その中で、かろうじて生き残ったのは、アスラエルと、同い年の親友二人――イルミタ、エギヌだけである。
とはいえ、生き残ったアスラエル、イルミタ、エギヌも、結局はその三人組に攫われて、浮遊神殿【ヘブンドーム】で奴隷化の禁術を施されたのだと云う。
そうして結果、ヤンフィに助け出されていまに到る――と、云うわけだ。
そんなアスラエルの話を聴いて、クレウサが神妙な顔で、ヤンフィに窺うような視線を向けてくる。質問してもよいのか、とその瞳は物言わず語っていた。
ヤンフィは、よいぞ、と頷いた。
「アスラエル、質問です。リューレカウラ、と、その女性は、名乗ったのですね?」
その、と寝転がっている黒髪の天族を、視線だけで指し示した。クレウサの両手は、しっかりと身体を隠していた。
ちなみに、その仕草はなかなかに妖艶である。年頃のアスラエルには刺激が強いようで、その仕草だけで少しだけ赤面していた。
アスラエルは煩悩を振り払うように数度頭を振ってから、全裸のリューレカウラをチラとだけ見て、力強く頷いて見せた。
「……は、はい。リューレカウラ、とだけ」
「そう、ですか――――彼女の能力は、存じておりますか?」
「え? いえ、知りませんけど……」
「――クレウサ、何か知っておるのか?」
何か心当たりでもあるような態度のクレウサに、ヤンフィは問う。その台詞は暗に、知っていることを全て話せ、と命じているのだが、そこまでの機微はクレウサには悟れなかった。
クレウサは、いえちょっと、と首を横に振って、視線を左上に向ける。
「ヤンフィ様。次の治癒は、そこに転がる『リューレカウラ』を優先してはいかがかしら? クレウサとワタクシの想像通りの方であれば、彼女は非常に稀有な超能力を持っておりますわ」
「ちょ――ディド姉様!?」
「ほぅ。それはどういうことじゃ?」
サラリと口を挟んだディドに、慌てた様子でクレウサが制止の声を出した。しかしディドはそんなクレウサに一瞥しただけで、素直に何の隠し立てもせず、淡々と理由を口にする。
「御三家のうち、バラキエル王家。そこに仕える騎士に『カミオロシのリューレカウラ』という女性がおりますわ。ワタクシも噂でしか存じ上げておりませんけれど、神をその身に降ろす超能力を保有しており、その実力は【戦女神】の称号を冠するほどだとか――嘘か真か、神降ろし状態であれば、冠級さえ行使できるらしいですわ」
「ディド姉様、どうしてっ!? 仮に、そのリューレカウラだとしたら、私たちの敵――」
「――クレウサ。コウヤ様とヤンフィ様に救って頂いたワタクシたちは、もはや王家に仕える【セラフィエル・ナイト】ではありませんわ。ワタクシたちの敵は、すなわちコウヤ様たちの敵ですわ」
ぴしゃりと断言するディドに、クレウサは勿論、ヤンフィも思わず絶句してしまった。
洗脳したわけでもないのに、ディドの従順さは異常なほど盲目的だ。ヤンフィや煌夜が困ることは一切ないので、むしろ有難いことではあるが、かなり面食らってしまう。
さて、そんな驚きはしかし、【神降ろし】の単語の前にはすぐさま薄れた。
神降ろし――それが、ヤンフィの知っている超能力であれば、これ以上ないほどの幸運である。エイルの覚醒になど期待せずとも、事足りるかも知れない。
「おい、エイルよ。その童より先に、女天族を優先せよ」
ヤンフィはすかさず、ディドの進言通りにエイルに命じた。
ところでエイルは、三人目であるアスラエルが回復してから、すぐに別の少年天族を癒す作業に取り掛かっていた。ヤンフィたちの事情聴取など、エイルには関係ない。
エイルは兎に角、一刻も早く天族全員を癒すことを目標に動いていた。
「うえっ!? ちょっと、待って下さいよぉ……この子を、治したら、次は――」
「――次ではない。口答えせずに、今すぐ治癒対象を変更せよ」
「そ、そんなぁ……」
エイルの悲痛な嘆きが響き渡る。けれど嘆きたくなる気持ちは分かる。
エイルが行っている治癒は、非常に繊細、且つ複雑な作業である。精神の欠片を掻き集めて、それを一つ一つ正しく構築しなければならない。それは例えるならば、外科手術で開腹した瞬間に、手術中止を言い渡されたに等しかった。
「……せっかくここまで、構築したのに……えぇ……どうしても、ですかぁ……?」
「当然じゃろぅ? グタグタ云うでないわ」
エイルは涙声でヤンフィに訴えた。けれどそんな訴えは、ヤンフィには通じない。
「……ぅぅ……な、なんとか、後一時間で、終わらせますからぁ……」
「駄目じゃ――もう一度だけ、云うぞ。疾くそこの女天族から癒せ」
エイルは何とかヤンフィに抵抗するが、しかしヤンフィが取り合うことはない。
――当然である。
そもそもヤンフィの目的は、煌夜の蘇生だ。奴隷化の禁術に苦しむ患者、天族を助けることが目的ではない。
極論、煌夜独りの命を救う為ならば、ほかの有象無象はどうでもよかった。奴隷の箱に収納されている十人なぞ、全員死のうが構わない。
そんな意図の篭ったヤンフィの強烈な威圧に、エイルは泣く泣く頷いた。構築した治癒術を一旦崩すと、治癒対象を変更して、黒髪の天族を癒し始める。
それを見たアスラエルが、興奮気味に猛然とヤンフィに歯向かって来た。
「な、なんでっ!? イルミタの治癒は!? イルミタも助け――」
「黙れ、アスラエル。助けぬとは云うておらぬ」
ヤンフィはアスラエルに凄まじい殺気と覇気をぶつけた。
途端、それに中てられたアスラエルは、声がでなくなり、顔面蒼白でその場に腰砕けとなった。
「汝は、妾たちに有益な情報を与えてくれた。それに対する褒美として、汝の仲間は、助けてやる。じゃが、優先度はまず【神の器】じゃ――とは云え、安心するが好い。もし万が一、汝の言が出鱈目だったとしても、汝に対して処罰することはせぬ」
ヤンフィは理解あるような頷きと共に、優しい笑みを浮かべる。だがそれは、アスラエルにとっては逆効果だった。
アスラエルは何一つ安心できず、ただただ恐怖していた。
「――ねぇ、アスラエル? そういえば貴方、先ほど、生き残った三人とも、魔眼持ちと仰っていませんでしたかしら? だとしたら、貴方は何の魔眼を?」
エイルが短い黒髪の天族――リューレカウラの治癒に集中し始めたのを見て、ディドがふと過呼吸気味になっているアスラエルに話を振った。
サラサラと、膝枕で寝ている煌夜の頭を撫でる様が、まるで猫を愛でているように見える。
些か気安いな、とヤンフィは思ったが、煌夜が不快に思うことはないだろう、と特に指摘はしない。
「ぅ――はっ、はっ……あ、ぇ、と……ゴクッ……ボクは……ボクの、魔眼は……【高揚の魔眼】です」
アスラエルはディドに声を掛けられたおかげで、呪縛が解けたように深呼吸してから、息も絶え絶えに答えた。その答えに、ヤンフィは興味なさげにただ頷く。
「――高揚? ディド姉様、それはどんな魔眼なのですか?」
クレウサがさりげなく小声で、ディドに訊いている。それを横目に、ヤンフィは親切心からサラリと答えてみせる。
「高揚の魔眼――その効果は、対象の精神を強制的に、高揚・興奮させることじゃ。珍しい魔眼じゃが、位階は低いのぅ。覚醒さえすれば強力な魔眼じゃが、覚醒には到ってはおらぬじゃろぅ?」
「……は、はい。覚醒、はしていません……」
「へぇ、そうなのですね――じゃあ、ほかの二人は、どんな魔眼なのかしら?」
ヤンフィはアスラエルから興味を失って、エイルの治癒に意識を向ける。その後方で、ディドがアスラエルから視線を外して、倒れている少年天族二人を流し見ていた。
アスラエルは、ディドの裸体をチラチラと見ながら、明後日のほうに顔を背けて答える。
「イ、イルミタは【過去視の魔眼】で、エギヌは【導視の魔眼】です」
「……過去視の魔眼は存じていますが、ドウシの魔眼とは、いかなるものかしら?」
「導視の魔眼は……えと、聞いた話だと、使用者にとって最善手だったり、有益な選択が視える、らしいです――」
ヤンフィはそんなディドとアスラエルの会話をさりげなく聞きながら、訝しげな視線を向けてくるクレウサと目を合わす。
クレウサは一瞬だけ躊躇したが、意を決した様子で口を開いた。
「――ヤンフィ様。正直、私はまだ、ヤンフィ様を完全に信用できません。ヤンフィ様が恩人であることは理解しました。むろん感謝もしていますし、敵対する意思もありません。けれど、ディド姉様ほどには、私はヤンフィ様に忠実にはなれません」
「クレウサ――恩知らずにもほどがあります。無礼極まりないですわ」
クレウサのその発言に、いち早くディドが反応する。しかし、そのディドに、クレウサは難しい表情のまま反論した。
「お言葉ですが、ディド姉様も【魔王属】の伝承はご存知でしょう? 【魔王属】という存在がどれほど危険な存在か――私利私欲の化身で、唯我独尊の化生。六世界の中で、あらゆる生物の頂点に座し、最強を冠する亜種の王」
「クレウサ。それ以上、ヤンフィ様に失礼な発言をするならば、ワタクシ、貴女に御仕置きしなければいけなくなりますわ」
ディドは能面のような美貌から殺気を溢れさせて、双子の妹であるはずのクレウサを睨みつけた。
傍から見て不思議に思えるほどヤンフィに心酔しているディドに、ヤンフィは正直、首を傾げるところではあるが、ともかく一旦、口を挟むことにする。
「ディド、姉妹喧嘩はよせ。不快じゃ。クレウサ、素直なのは好いことじゃ。汝の言い分も、当然だと思う。妾が信用できない――おおいに結構じゃ。じゃが、安心するが好い。妾は汝らに、従順など求めぬ。そも妾の目的は、ディドが抱えておるコウヤと云う人間を救うことじゃからのぅ」
ヤンフィはディドに膝枕されている煌夜を指差してから、クレウサを睨み返す。その眼光にクレウサはたじろいで、すぐに視線を逸らしていた。
クレウサは本当に素直だ――感情を読み取れば、確かに感謝の気持ちが半分、不安と困惑が半分で、どう振舞えばよいのか、戸惑っている様子が分かる。
(クレウサの態度は自然じゃが、いかんせんディドは裏を疑いたくなるほど従順すぎるのぅ――まぁどちらも感情を読めば、裏表がないのは判るのじゃが……双子にしては、あまりに性格が違うのぅ)
かたや表情豊かなクレウサ、かたやほとんど顔色を変えないディド――本当に双子か、とヤンフィは少しだけ懐疑的な視線で、二人を交互に眺めた。
そんなヤンフィの心情など知る由もなく、ディドはうんうんと頷いて、クレウサはいっそう怪訝な表情で眉根を寄せていた。
「クレウサよ、妾が望むのは一つ。コウヤを救う為の協力だけじゃ。それ以外は汝らに何も望まぬ。邪魔さえしなければ、危害を加えることもないし、いずれ解放することを約束しよう」
ヤンフィはおざなりに云って、もう話すことはない、とエイルの治癒に視線を移した。
ディドはそんなヤンフィに、深々とお辞儀をして、さりげなく煌夜の寝顔に胸を押し当てていた。一方でクレウサは神妙な顔で押し黙り、裸体を隠すように、アスラエルに背を向ける。
話途中で蚊帳の外に押しやられたアスラエルは、あ、う、と、しどろもどろに沈黙するほかなく、再び話を振られるまで何も出来ずに俯いていた。
それからしばらくして、エイルがバタンと仰向けに倒れこんだ。
治癒の様子をジッと見ていたヤンフィは、ようやくか、と呟いて椅子から立ち上がる。およそ一時間弱、短い黒髪をした女天族の治癒が完了したようだ。
ヤンフィはゆっくりと、完治したはずの女天族に近寄る。
「……ぁぅ、ぅ……で、出来まし、たぁ……エイル、頑張りました、よぉ……」
「うむ、ご苦労、エイル。段々と手際良くなっておるのぅ――ほれ、回復薬じゃ。汝の働きに免じて、五分だけ休憩する褒美を与えよう」
「や、ったぁ――って……五、五分、だけ、ですか……? えぇ?」
ヤンフィは倒れているエイルの頬に回復薬の小瓶を置いて、満面の笑みで頷いてみせる。しかし、たった五分と云う短い休憩に、疲労が色濃く浮かんだエイルの表情が、より絶望的に歪んだ。
「………………ぅぅ」
「意識を取り戻しておるのは判っておる。汝、リューレカウラ、じゃったか? サッサと起きよ」
短い黒髪をした天族――リューレカウラは、瞼を強く瞑ったまま、小さく呻きながら身動ぎしていた。気絶している風を装っているようだが、読み取れる感情の色から、完全に覚醒しているのは判っていた。
――正確には、エイルがバタンと倒れ込む数分前から、意識自体は取り戻していた様子だった。
とはいえ、治癒が完全に完了していなかった為、ヤンフィも様子見していたのである。
「………………」
「気絶した振りはよせ。妾たちは敵ではない――じゃが、敵対したいのであれば構わぬぞ?」
ヤンフィの声が聴こえていない振りで眠ったままのリューレカウラに、ヤンフィは冷たく重たい威圧をぶつけた。ピクリ、と一瞬だけ微かに震えて、しかしリューレカウラは沈黙で返す。
読み取れる感情の色には、困惑と警戒が強く浮かんで視える。ヤンフィが鎌を掛けていると思っているのだろう。
(警戒しておるのぅ。じゃが、誰を警戒しておるのかのぅ?)
ヤンフィはしばし沈黙して、寝転がるリューレカウラをジッと見下ろす。視線と共に、凄まじい威圧と魔力をリューレカウラに叩きつけるが、彼女は微動だにしなかった。
すると、遠巻きに様子を窺っていたディドが、冷然とした声で告げる。
「――そこに居るクレウサは、御察しの通りセラフィエル王家に仕える守護騎士ですけれど、いまやもう王家とは離反しておりますわ。何やら警戒なさってるようですけれど、ご安心ください――ちなみにワタクシも、セラフィエル王家とは決別しており無関係ですわ」
「ディド姉様!? 私はまだ、離反など――」
「クレウサ、王家はいかなる事情があろうと、今回の失態を許しませんわ。ワタクシたちは、間違いなく既に捨てられておりますわ」
驚いた顔で口を挟むクレウサに、ディドはピシャリと言い放った。
台詞の意味は、ヤンフィにはよく理解できないが、とりあえず二人――いや、リューレカウラを含めた、クレウサ、ディドの三人には通じる内容のようである。
「…………それは本当か?」
ボソリ、と。ふいに、寝たふりをしていたリューレカウラが呟く。それはディドに対して向けられた言葉だった。
ディドは冷めた表情のまま、力強く頷いて見せた。
「嘘を語る必要性がありませんわ。それと、ワタクシたちの任務は、大逆人バルバトロスを捕縛、もしくは殺害すること――いまだその足取りさえ掴めておりませんけれど」
「な、なっ!? ちょ、ちょ、ちょ、ディド姉様、どうしてそこまでっ――!?」
ディドの台詞に、いちいち驚愕して反論するクレウサに、ディドは疲れた様子で溜息を漏らした。そしてギラリとクレウサを睨み付けて、声には出さずに、とにかく黙れ、と威圧を放つ。
殺意さえ篭められたその強烈な威圧は、思わずヤンフィでさえも一歩たじろぐほどだった。
クレウサは、ゴクリと唾を飲んで押し黙る。ちなみに、とばっちりでその気迫に中てられたエイルが、ガクガク、と身体を震わせていた。
「バルバトロス――というと、イグディエルの裏切り者のことか?」
ディドに問い返しながら、リューレカウラはゆっくりと上半身を起こす。彼女はディド同様、全裸であることを何ら恥じる様子もなく、堂々と胸を張ってディドと向き直る。
サラサラとした黒髪、きつめの顔立ち、クレウサより全体的に細身だが、よくよく見れば筋肉質で引き締まった身体つきをしていた。いかにも戦士の身体つきだ。
「ええ。ご存知かしら? もしかして、貴女も同じ目的かしら?」
「…………」
ディドの質問に、リューレカウラは沈黙で返すと、気を取り直したかのようにヤンフィに視線を向けた。
「…………貴女が、私を助けてくれたのか?」
「囚われていたところから救ったのは、確かに妾じゃ。じゃが、汝を助ける決断をしたのは、そこでディドが抱いておるコウヤと云う青年じゃし、実際に傷と心を癒したのは、そこで治癒しておるエイルと云う小娘じゃ」
ようやくヤンフィと会話する気になったリューレカウラに、ヤンフィは早口に告げた。それに対して、リューレカウラは神妙な顔で俯いた後、スッと居住まいを正して土下座する。
「助けて頂き、感謝申し上げます。自己紹介が遅れましたが、リューレカウラと申します。天界の御三家バラキエル王家所属の騎士が独り――とある任務で人界に降りましたが、任務遂行中に【世界蛇】を名乗る組織に狙われて……結果、捕縛されて、この様です」
自嘲気味に吐き捨てて、リューレカウラはヤンフィの顔を真っ直ぐに見詰める。
実直な印象を与える双眸、けれど、垣間見える感情の色は、全員に対しての強い警戒が色濃く浮かんでいる。警戒心が強いのぅ、と心の中で呟きつつ、ヤンフィは納得の顔で頷いた。
「妾は、ヤンフィじゃ……ところで、リューレカウラよ」
ヤンフィは軽い口調で云いながら、目にも留まらぬ神速の抜刀術で、紅蓮の灼刃をリューレカウラの首筋に突きつけた。紙一重で、首の皮一枚を斬り裂く。
ヤンフィのその脅しに、リューレカウラは眉毛一つ動かさず、ただ眺めていた。首からすぅと一筋の血が流れるが、まったく意に介せず、ヤンフィを見詰めている。
反応できなかったのではなく、反応しなかった。なるほど、度胸もあり冷静である。神の器として充分の資格を持っているようだ。
「汝、聴いた話では『神降ろし』が使えるらしいのぅ? それは真実か?」
「――私を『リューレカウラ』と知る同族が居るのであれば、隠し立てする必要はないか」
リューレカウラは、ディドとクレウサを一瞥してから、観念した風に息を吐いた。同時に、ヤンフィが突きつけた紅蓮の灼刃を掴んで、自然な仕草で切っ先を逸らす。
「いかにも。私の超能力は、神を顕現する――代償は、使用時間に応じた量の血液を失うことだ。だからそうそう容易に使用できる能力ではない」
「のぅ、リューレカウラよ。汝は神を降ろした状態で、治癒魔術を扱えるかのぅ?」
「…………治癒魔術?」
リューレカウラの回答に被せて、ヤンフィは期待を込めて問い掛ける。
ヤンフィの勢いに少しだけ面食らった様子のリューレカウラは、戸惑った表情のままで、いや、と首を横に振った。
「生憎だが、私は治癒魔術の才を持たない。故に、神降ろしを成しても、治癒魔術は扱えない――それがどうかしたか?」
ヤンフィはその台詞を耳にした途端、落胆と同時にこれ見よがしの舌打ちをする。事情を察したディドも、残念そうな溜息を漏らしていた。
(……まぁ、とはいえそれも想定内じゃ。致し方あるまいのぅ……やはり、エイルには地獄を見てもらうほかないか)
ヤンフィは独りで静かに納得して、天族の少年を治癒し続けているエイルに視線を向けた。
「リューレカウラよ。妾は汝を拘束せぬし、汝の任務とやらにも関わらぬ。じゃから、一つだけ妾に協力せよ――」
「――さもなければ、殺す、か? ああ、いいさ。逆らうつもりはないし、借りを作るのは、私の性に合わない」
「……話が疾くて助かるのぅ」
ヤンフィの言葉を先読みして、リューレカウラは両手を挙げて降参の意思を見せた。
感情の色には依然として警戒している様子が窺えるが、逆らうつもりがないのは真実のようだった。
「汝の【神降ろし】じゃが――エイルに使え。エイルの身体に、神を降ろすのじゃ」
「………………なに?」
ヤンフィの台詞に、リューレカウラはたっぷり一分固まってから、エイルの後姿を一瞥した。
自らにではなく、他者に神を降ろす――それは不可能ではないが、間違いなく失敗する。リューレカウラは声に出さずに、しかし全身からそれを強く訴えていた。
傍らのクレウサも、ヤンフィのその発言がそもそも無茶だと理解できて、何を馬鹿な、と囁いていた。
「ヤンフィ様。カミオロシは、他者には使用できないのではないかしら?」
返事をしないリューレカウラをチラ見して、ディドが疑問を口にする。ヤンフィはそれを力強く否定した。
「【神降ろし】の能力は、神を現世に降ろして顕現させる能力じゃ。いかなる器にでも、神を降ろすことは可能じゃ――じゃが神の器に足る己以外に降ろしたところで、制御なぞ出来ないがのぅ」
不敵な笑みを浮かべて、ヤンフィは沈黙するリューレカウラに流し目を送る。リューレカウラもそれは承知しているようで、否定せずに視線を逸らした。
「神の質量を内包できる器でなければ、神を降ろした瞬間に、自我が喰われるか、肉体が蒸発する――そうじゃろぅ? じゃが、それは承知のうえじゃ。その点、エイルは腐っても【聖女スゥ】――数秒程度ならば、神の器にも成れるじゃろぅ」
――とはいえ、本番の一度しか挑戦できない大博打には違いない。失敗すれば、エイルは死ぬ。
エイルが聖女として覚醒する確率と、神降ろしを実行して生き残る確率――天秤に掛ければ、恐らく神降ろしで生き残る確率の方が高いだろう。
ヤンフィのそんな宣言に、リューレカウラが渋々と頷いた。
「――やれ、と言うのならば、やるのは構わない。それで恩返しが出来るのなら、安いものだ。だが、十中八九、死ぬと思うが……良いのか?」
「人は運命を覆して奇跡を起こす生物じゃ。特に、神の奇跡に愛された【聖女スゥ】ならば、奇跡はもっと身近じゃろぅ?」
「そうか――分かった。ただし、本人が心の底から神を受け入れないと、そもそも降ろすことが出来ないからな? 本人の了承は、しっかり得てからでないと――」
「――判っておるわ」
リューレカウラの心配事を一笑に付して、ヤンフィは汗水流して治癒を続けるエイルを眺めた。
(神を呪い、神を殺さんとする妾が、今ばかりは神の奇跡に縋るなんぞ、とんだ矛盾じゃがのぅ)
ヤンフィは自嘲しながら、無駄とは思いつつも亜空間全体に魔力を放出した。
禍々しいその魔力は空気に溶け込み、誰にも気付かれずに、ヤンフィの魔王属としての固有能力――【桃源】が展開する。
それは、あらゆる未来の可能性を、望むままに選択できる能力である。
存在する無数の未来を見定めて、現れる選択肢の結果を全て見通せる出鱈目な能力。
しかし実際のところ、この能力の弱点は多い。
そもそも、術者であるヤンフィの行動に関連する未来、ヤンフィに訪れる可能性、ヤンフィが取る選択肢における結果にしか、桃源は作用しない。
つまりヤンフィと交わらない事象に関しては、未来を視ることは出来ない。
(……やはり、エイルが覚醒する未来も、神降ろしが成功する未来も、視えぬのぅ……)
ヤンフィは少しだけ落胆しつつも、展開した桃源を霧散させると、ふたたび椅子に戻る。
「――ヤンフィ様? 治癒を中断させて、すぐにカミオロシを行うのではないのかしら?」
「いや、今すぐに行うよりも、ほんの少しでも経験値を稼いでからの方が、より確率が上がるじゃろぅ。まずは出来ることを全てやってから、じゃ」
どうするのか、と指示待ち顔のリューレカウラに代わり、ディドがヤンフィに訊ねた。それに淡々と答えてから、ヤンフィは椅子に深く腰掛ける。
ところで、当事者であるエイルは、そんな重大事が決まっていることなど露知らず、ひたすら懸命に天族の少年を癒していた。