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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
第八章 極彩色の街ヒールロンド
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第五十八話 Bet/掛け金の準備

 

 ソーンが確保した宿屋は、綺麗な外観をした高級感溢れる大きな建物で、一介の冒険者が泊まるにしては上等すぎる宿だった。

 一泊、アドニス金貨一枚と云われても違和感はないだろう。

 広く落ち着いたロビー、見上げるほどに高い天井、洗練された内装。

 ロビーの隅には警護役と思しき冒険者がずらりと並び立ち、宿に入ってくる客たちの動向を鋭い視線で警戒していた。

 彼らは明らかに腕利きだろう。

 おそらくは、ランクAかランクSか――ヤンフィからすれば、どちらであろうと所詮は有象無象に違いはないが、油断して勝てるほどに弱い相手ではない。


「まぁ、闘うことなんぞないがのぅ」


 ヤンフィはそんな冒険者たちの視線を流し見ながら、ソーンの案内に従って瀟洒な螺旋階段を上がる。

 一方で先導役のソーンは、煌夜の身体を大事そうに抱えて、無言のままだが鼻息荒く、一歩一歩を噛み締めるように歩いていた。


 ふと、ふかふかの赤い絨毯が敷かれた廊下を進んでいると、宿泊客と思われるドレス姿の貴婦人と、その護衛の騎士とすれ違った。


「ヒィ――ッ!?」


 貴婦人は、ソーンの姿を認識した途端、驚愕と同時に恐怖の悲鳴を上げた。護衛の騎士は咄嗟に貴婦人を庇って、素早く道を開けると廊下の壁にへばりついた。

 彼らは誰が見ても分かるくらい一目瞭然に、こんな変態に関わりたくない、という空気を出していた。

 その二人の振る舞いを見て、ヤンフィは心底納得する。同時に、はぁ、と疲れた風に溜息を漏らした。

 こんな変態と知り合いと思われるのが、非常に遺憾だった。


 ちなみにソーンは、にやけた表情で、股間の部分をそれと分かるほど露骨に膨らませている。そのままの格好で堂々と歩いているのだから、そりゃあ誰でも避けるに決まっているだろう。


 ――気持ち悪すぎる。もはやその姿は、弁解の余地がないほど極上の変態だろう。


 上半身裸でパンツ一丁、目は興奮で血走り鼻息は荒く、挙句に、昏睡状態の青年をお姫様抱っこしながら勃起している筋骨隆々の巨漢。


(……事実を再認識すると、反吐が出そうじゃ……やはり、ソーンとは早々に手を切るべきかのぅ)


 ヤンフィは心の中で改めて、ソーン・ヒュードという人間の価値を下方修正していた。


「おっと、もう着いちまった。『朱雀の間』――ここだぜ。この宿屋で、最高級の二人部屋だぜ」


 五階南に面した角部屋。

 その入り口の扉には、赤い月の意匠が彫られており、飾られたプレートには確かに『朱雀の間』と東方語で書かれている。

 ソーンは扉の前で立ち止まると、パンツをごそごそと漁って、鳥の形をした鍵を取り出した。


 ガチャリ、と鍵を回して扉を開く。


 室内に入ると、ヤンフィは後ろ手に扉を閉めて、警戒しつつリビングに向かう。

 罠の可能性も考慮したが、室内にはソーン以外の気配はなかった。

 さて、そんな警戒しているヤンフィには目もくれず、ソーンはとりあえず抱えている煌夜の身体を、別室のダブルベッドに運んで、優しく寝かせていた。

 ヤンフィはそのさまを冷めた視線で眺めながら、三人掛けのソファに腰を下ろした。


 それにしても――と、ヤンフィは、苛立ちあらわに舌打ちをする。

 どうして男所帯二人、煌夜とソーンしかいない状況で宿屋を頼んで、ダブルベッドの部屋をひとつだけなのか。

 ソーンには、きつくお灸を据えたい気持ちになりつつも、いったんそれらの文句を飲み込んで、ヤンフィはソファで寛いだ。


「――んで? テメェは、いったい何者だ? ()()()()()()()()と、どういう関係だ?」


 ベッドに寝かせた煌夜の身体を、一通り撫で回して気が済んだ様子のソーンが、ようやくヤンフィの前に腰を下ろした。

 ソーンは強気な態度で、ヤンフィに向かってメンチを切っている。非常に不愉快な態度だが、冷静に切り返してやる。


「話を始める前に、まずひとつ訂正じゃが――誰が、汝の、モノじゃと?」

「いいか、これだけはハッキリ言っておくぜ? テメェが何者だろうが、ヤンフィ様は、オレと、結ばれる運命――――がぁぁああっっ!?」

「――不愉快じゃ」


 どうしてか当然のように威嚇してきたソーンの眼球に、ヤンフィは一瞬の躊躇もなく、なんら容赦せず指を突き立てた。

 眼球を抉り出すつもりで、グサリと思い切り突き刺したのだが、ソーンはすんでのところで首を後ろに反らして避けていた。

 おかげで、眼球の表面を引っ搔くことしか出来ず、激痛しか与えることが出来なかった。残念至極である。

 ヤンフィは忌々しげに、舌打ちした。


「ハッキリ云うておくぞ。妾は【魔王属(ロード)】としての()()()()じゃ。本来の妾の分身体、と云う表現が近いかのぅ」


 ぐぬぅ、と目を押さえながら苦しむソーンに、ヤンフィは冷たい視線で断言する。

 嘘は云っていない。


「……魔王属としての、ヤンフィ、様だと? 分身体って、なんなんだ? どういうことだ? まったく意味がわからねぇ。分身体ってんなら、なんで――凛々しく美しいヤンフィ様が、そんなチンケな幼女姿になる――――ぐぉぅっ!?」

「言葉遣いには気を付けよ。妾は格下に莫迦にされて黙っておるほど寛容ではない」


 ソーンがヤンフィの容姿をけなした瞬間、ヤンフィはその太い喉元に鋭い手刀をお見舞いする。

 手刀は首を刎ね飛ばすつもりで、一切の手心も加えず繰り出したものだが、先ほどと同様に、すんでのところでソーンには受け流された。おかげで致命傷はおろか、かすり傷しか負わせられなかった。

 ヤンフィは悔しそうに、チッ、と大きく舌打ちする。

 ソーンのくせに、攻撃を避けるとは許しがたい。

 どこに出しても恥ずかしい究極の変態のくせに、その近接戦闘力はヤンフィと互角レベルである。

 悔しいことこの上ないが、不意打ち程度では、ソーンを一撃の下に葬り去ることは出来ないことが分かった。


「げほっ、ゲッ――くっ! そんな姿で、なんて重てぇ攻撃だよ。オレほどの漢じゃなけりゃ、反応すらできねぇで、首の骨を折って絶命してるぜ?」


 ソーンはむせ返りながらも、太い首周りを撫でた。

 すると、首に巻かれていた黒いチョーカーが、ハラリと落ちる。ヤンフィの手刀で切れたのである。


「…………おいおい、信じられねぇ」


 ソーンの首筋に、一筋の切り傷が浮かんだ。とはいえ、浅い傷口だ。

 しかし、傷が出来たという事実に、ソーンは恐怖を感じている様子だった。


「これを、切断するって……どんな手刀だよ。まともに受けてたら、オレの防御力でも、骨が折れるじゃすまねぇじゃねぇか」

「ソーンよ。妾は無駄話を好まぬ。詳しい説明をするつもりはないが、兎も角、妾はヤンフィの分身体じゃ。それ以上でも以下でもない――理解したか?」


 ヤンフィは、ソーンの呟きに付き合うつもりはない。

 バッサリとそう明言してから、凍てつく覇気をソーンにぶつけた。おちゃらけた回答は許さぬと、その蒼い双眸が物言わず語っていた。

 流石のソーンも、ここまで力量の差を見せ付けられては、逆らう気が失せたようだ。

 背筋を正して、ああ、と神妙に頷いていた。


「それにしても……このチョーカー、オレの魔力で強化されてる竜革だぜ。下手すりゃ銀魔鉱(ミスリル)より硬いのに、それを素手で切断するって……やべぇなぁ」


 しかし、逆らう気があろうとなかろうと、ソーンは一向に話を聞いていない。

 ヤンフィはいい加減うんざりしながらも、もう一度、凍てつく覇気をぶつけた。


「――汝と相対している妾が、ヤンフィであることを理解したか、と問うておる。応えよ」

「あ、ああ。理解したぜ。いまいち納得はできねぇけど……その強引な言い回しも、普段のヤンフィ様らしいからなぁ」

「汝が納得するかどうかなぞ、どうでも良い」


 ヤンフィは吐き捨てるように云うと、さて、と気を取り直して、机の上に【奴隷の箱】を置いた。


「ソーンよ。経緯は端折るが、妾はここに、聖女スゥ・レーラ・ファーを捕らえた」

「――――えっ!? 聖女を、だとっ!?」

「そうじゃ。それで、じゃが――」

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと、待てって!! 聖女を!? 捕らえた!?」


 ヤンフィの台詞に驚愕して、ソーンは汚らしく唾を飛ばしながら絶叫した。

 ヤベェヤベェ、と連呼しながら、腕を組んで難しい顔で何やら悩み始める。

 意味の分からないソーンの態度に、冷めた視線を向けながら、それが何か、とヤンフィは首を傾げた。


「聖女を()()()()、ってことは、聖女が()()()()()、ってことだろ!?」


 ソーンの言い回しに疑問符を浮かべながら、ヤンフィは、そうじゃ、と頷く。


「当然じゃろぅ? 何を驚くことがある? 兎も角、妾の話を――」

「――ヤンフィ様、それ、誰にもバレてねぇよな――――アブゥッ!?」


 ヤンフィの台詞をひたすら遮り、ぎゃあぎゃあと喚き散らすソーンの顎を目掛けて、ヤンフィは渾身の前蹴りを喰らわせた。

 ソーンは無様な悲鳴を上げてから、その巨体を宙に浮かせて、リビングから隣の部屋に吹っ飛んでいく。


「のぅ、ソーンよ? 汝、誰の許可で、妾の言葉を遮っておる?」


 フラフラとした足取りで、口元からは血を垂らしながら、ソーンがリビングに復帰してきた。

 そんなソーンに向けて、ヤンフィは無言のまま紅蓮の灼刃(レヴァンテイン)を抜いた。


「……す、すいません……ヤンフィ、様……」

「――それでのぅ。聖女を捕らえることに成功はしたが、想像以上にコウヤ――もとい、妾の肉体の損傷が激しくてのぅ。冠級(クラウン)が扱えぬ今の聖女では、完治できんかった。当面、危機は脱したものの、これでは身体が維持できぬじゃろぅ」


 ヤンフィは説明しながら、ダブルベッドで眠るように死んでいる煌夜に顔を向けた。

 ソーンはその台詞に何かピンときた様子で、ああ、と手を叩いた。


「やっぱ、さすがのヤンフィ様と言えども、ザ・サンとの戦闘はキツかったんですね!? そりゃあそうでしょう――けど、ザ・サンを相手にして、五体満足で戻ってこれたのは奇跡としか言えないす。つか、だからあれほど、正面切って闘うのは――――っ!?」

「――妾の言葉を、遮るな、と云うたぞ?」


 勘違いして興奮気味にまくし立てるソーンの肩口を、ヤンフィは紅蓮の灼刃で斬り付けた。筋肉まで到達する裂傷ではないが、表皮が破けて、ブシュ、と血が噴出す。

 ソーンはゴクリと唾を飲み込んで、さーせん、と頭を下げた。


「兎に角――いまの聖女では、妾の本体を完治させることは叶わぬ。それ故に、このままでは、いずれあの肉体は朽ち果てるじゃろぅ」


 神妙な声でそう告げて、ヤンフィは悲しそうに目を伏せた。


「朽ち、果てる、だと――っ!? そんなっ!! 嘘、だろ!? そんな深刻なのか!?」


 驚愕に眼を見開いたソーンが、ヤンフィに詰め寄った。鬱陶しい反応だが、とりあえずコクリと頷く。


 ――まぁ、深刻なのは真実だが、朽ち果てる云々は嘘だが。


 煌夜の身体は、このまま放っておいても朽ち果てることは、もはやない。

 折れていた四肢も、失われた左腕も、潰れていた臓器も、生活する上で何不自由ないほど正常に完治している。

 指先から髪の毛一本一本に到るまで、細胞の全てに生命力も行き渡っている。

 実際の状況として、聖女の施した聖級の治癒魔術のおかげで、肉体の損傷という点に関しては、完全なまでに回復しているのだ。

 問題は、もっと根本である。

 そもそもいま煌夜の肉体には、魂も魔力核も抜け落ちている。


 ――とはいえ、それをソーンに教えることはない。


「信じ、られねぇ……あんな、穏やかで綺麗な寝顔なのに……」

「じゃから、汝が信じようと信じまいと、事実は変わらぬ。兎も角、コウヤ――ではなく、妾の本体は、外見とは裏腹に、非常に危険な状態なのじゃ。一刻も疾く治さねばならぬ」


 衝撃を受けてアホ面を曝すソーンに、ヤンフィは語気強く断言する。

 すると、その台詞にソーンが激しく同意した。


「ああ、そりゃあ、当然だ! オレは命を懸けて、ヤンフィ様を治すのを手伝うぜ!!」


 興奮気味に宣言して、ソーンは寝室で眠る煌夜に視線を向ける。その表情は恐ろしく真剣だったが、感情の色を探れば、内心は下心に満ちていた。

 大方、煌夜を助けて恩を売り、より親密になろうと云うつもりだろう。

 どこまでも下衆で気持ち悪い思考の持ち主である。いっそ恐ろしい糞野郎だった。


「――なぁ、ちなみに、ヤンフィ様は、どんな状態なんだ? 朽ち果てる、って言っても、見える範囲に傷はなかったし、内臓がやられてる風でもなかったぜ? 魔力も漲ってたし――呪いの類か?」

「汝に説明する理由も、意味もない」


 ヤンフィは、ソーンのそんな当然の疑問をにべもなく一蹴する。


「あ、ああ、分かったぜ。じゃ、じゃあよ。オレはどうすればいいんだ? どうすれば、ヤンフィ様を回復させられるんだ?」


 ソーンが机に身を乗り出してヤンフィに詰め寄った。その瞳はやる気に満ちており、何を言われても指示通り動くぜ、と言外に告げている。


「先刻から、妾はそれを云おうとして、汝が横槍を入れるのじゃ――次に、妾の言葉を遮ることがあれば、もはや汝には何一つ期待せぬぞ?」


 ヤンフィは極寒よりも冷たい表情で、粘りつくような重い殺意をソーンにぶつけた。


「…………う、あ、う……す、すいません……」

「さて――聖女を捕らえた、と云うことまでは、伝えたのぅ?」

「え、ええ。聞きましたぜ」

「汝に至急、やって貰いたいことがある――」


 ヤンフィは有無を云わせぬ威圧を放ち、ソーンにいくつか頼みごとをした。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 ――どれくらいそうしていたのだろうか。


 エイルは、暗闇の中でぐったりと身体を横たえたまま、呆然と虚空を見詰めていた。

 既に時間の感覚はすっ飛んでおり、つい今しがた何を考えていたのか、その意識も曖昧で朦朧としていた。


(……エイル……このまま、死んじゃう、のかなぁ……)


 エイルは胡乱な思考で、そんなことを思った。

 しかし現状、死ぬほど苦しいが、死ぬような状況ではない。これは、ただの弱音である。


「――ほぅ? まさか、たかだか半日ほどで、全員の治癒を行ったのか?」


 そんなとき、ふと暗闇の中に光が差し込んできて、同時に、怖気を誘う冷気がエイルに投げ掛けられる。

 エイルは小さく息を呑んで、身体を震わせながら音の主に視線を向けた。


 そこには、エイルをこの【奴隷の箱】に閉じ込めた張本人――ヤンフィ、と名乗った幼女が立っていた。


「指示をこなすのは当然じゃが、よもや妾の想像以上の結果を出すとは、感心じゃ」

「……ぅ、あぅ……」

「ほれ、妾が珍しく誉めておるのじゃから、素直に喜ばぬか――否、喜ぶ気力がないのか?」


 ヤンフィは暗闇の中を見渡して、拍手をしながらエイルに近付いてくる。

 しかしエイルは、それに答えることが出来なかった。満足に声は出せず、ただ口をパクパクと動かすことしか出来ない。

 すると、そんなエイルに、ヤンフィは嘲笑を浮かべながら何度か頷いていた。


「ふむ――完全に、魔力が枯渇しておるのぅ」

「…………うぅ、ぁ……」


 エイルは、誰のせいだ、と心の中で呪詛を吐きながら、小さく頷いた。


 ――ヤンフィの言葉通り、エイルは完璧に魔力枯渇状態である。


 それもこれもヤンフィの指示通りに、総計十人もの男女を、治癒魔術で癒して回ったせいだ。

 なけなしの魔力を振り絞って、時にはその命を削ってまでも魔力をひり出して、一人ひとりの状態を診て回り、応急処置を施したのだ。


(……どうして、エイルが、ここまで、しないと……いけないのぉ? もう、聖女なんて、ヤダよぉ……)


 エイルは心の中でそんな嘆きをこぼしながらも、しかし強迫観念の如き使命感には抗えず、ひたすら盲目的に治癒に専念した。

 結果、何とか全員を癒すことに成功して、バタンキューと倒れた。


 ――嗚呼、悲しい哉。これが聖女のサガである。


 聖女になると同時に、神により強制的に与えられる使命。

 魂に植え付けられた、他者を救わなければならないという強迫観念。

 他者を助ける為ならば、己を省みずに魔術を行使すること――聖女の奇跡を施すこと。


 たとえそれで魔力が枯渇しようとも、生命力が尽きようとも、聖女は他者を救うことに命を賭す。


 狂っている――と、エイルは常々思っているが、もはや今更、聖女になってしまったからには、どれだけ嘆いても無駄なことだった。


「ふっ――ほれ、使え」


 ふと、エイルの眼前まで歩いてきたヤンフィが、何か硬い物をその手に握らせる。

 それは木の杖のような感触をしており、触れた途端、何かがエイルの腕に絡んでくる感覚があった。


「……ぁえ?」


 すると途端に、エイルの全身に魔力が充填されて、フッと身体が軽くなった。

 朦朧としていた意識は一気に覚醒して、ビクン、と思わず身体が跳ねる。

 魔力と同時に、活力が漲ってきた。


「これで、動いて喋れるくらいには回復したじゃろぅ? 疾く着替えよ」


 エイルが状態変化に驚いていると、ヤンフィが衣類と装備一式を放り投げてきた。パサリと視界が布地の服で覆われて、エイルは慌てて身体を起こす。


「あ……これ、生命の、杖……でしたっけ?」


 起き上がったエイルは、真っ先に自分の腕に絡み付いているモノを見た。それは見覚えのある銀の蛇である。


「そうじゃ。聖女としての格を、一段階引き上げる神代の武具じゃ――疾く着替えよ、変態が」

「ヒッ――うぅぅ、酷い、ですぅ……」


 ヤンフィが不愉快そうな視線と共に、凄まじい殺気をぶつけてきた。

 それを真正面から受けてしまい、エイルは思わず漏らしそうになったが、グッと我慢して頷いた。

 変態と罵倒されたが、そもそも全裸なのは誰のせいだ――とは、心の中でだけ呟いた。


「ソーンにしては、服の趣味は悪くないのぅ。汝、似合っておるぞ?」

「ぁぅぅ……あ、ありがとう、ございます?」


 エイルは言われるがまま、与えられた衣服を身に纏い、用意された装備を身に着けた。そして自身のその格好に首を傾げる。

 どうして、こんな格好が用意されたのか疑問でならない。

 与えられた装備は、紛うことなき男装だった。


(……しかも、これ……完全に、前衛の剣士、だよぉ?)


 生まれてから一度も装備したことのない銀の胸当てを着けてから、ずっしりとしたその重量に顔を顰める。とはいえ、軽装備に該当する剣士の格好なので、総重量は5キロもないだろう。

 動きにくいが、決して動けないほどの重さではない。


「――その細身剣は、腰元に吊るすのではなく、横に寝かせて背中側にあるホルダーに差して固定するのじゃ」 


 エイルの装備を見たヤンフィが、失笑しながらそんな駄目出しをしてきた。

 そんなの知らない――と、思わず反論しそうになるが、とりあえず堪えて、言われた通りに装備し直した。だがどちらにしろ、普段とは掛け離れた姿だからしっくりこない。


「それとのぅ。生命の杖は隠せ。その格好で、杖を持っておるのは、莫迦にしか見えぬ」

「うぅぅ……か、隠せって、言われても……腕に、絡んで……取れな――」

「――『我が半身、この身に宿りて、一体と成れ』と杖に命じよ。さすれば、右腕と一体化するぞ」


 エイルが右手の杖をブンブンと振りながら抗議すると、速答でヤンフィが答えた。


「ぅぅ? ……え、と……『我が半身、この身に宿りて、一体と成れ』――っぁ!?」


 エイルが恐る恐ると詠唱すると、途端に、ギュル、と銀の蛇が強く右腕を締め上げた。だがそれは、痛いという感覚よりは、熱い、だった。

 皮膚が溶けるような錯覚、脳が痺れる感覚があり、次の瞬間に、生命の杖は魔力の粒子に変わって右腕に吸い込まれた。


「ぁぅ、ぅ……不思議な、感覚ですぅ……」

「生命の杖はのぅ、聖女が命じた時のみ、その形状を千変万化させる武具じゃ。以前、妾と対峙した聖女なぞは、三叉の聖槍や、翼を生やした聖鎧に変化させておった」


 ヤンフィは不愉快そうな表情で、けれど懐かしむような響きで呟いた。

 エイルはしかし、それを聞いたところで何が何やら理解できていないので、へぇそうですか、とおざなりに相槌を打つだけだ。まずもって興味がない。


「まぁ、兎も角。一旦、この亜空間から出よ――話はそれからじゃ」

「あ、は、はい……ぅ、動き、にくい……」


 逆らう選択肢などもとより存在しないエイルは、ヤンフィに脅されるがまま、奴隷の箱を出た。


 果たして、どんな最悪な環境なのか――と、警戒したが、エイルの目に飛び込んできたのは、自身が泊まっていた宿よりもずっと豪奢な部屋だった。


「こ、ここ……は?」

「――妾が泊まっておる宿屋じゃ。いまは六時、汝が檻に入ってからおよそ十四時間ほど経過しておる」

「十四、時間……本当、に?」


 エイルは眉根を寄せた顰め面になり、窓から外の景色を眺める。ヤンフィの言葉が正しいのかどうかは分からないが、外はすっかり明るくなっていた。

 記憶を手繰り寄せると、檻に入る直前の空は夕焼けに染まり始めていた。そこから考えると、少なくとも一夜以上が過ぎているのは間違いないだろう。


(……でも逆に、まだ一日も、経ってなかった、のぉ?)


 体感ではもう二日経っていてもおかしくはなかったが、実際はそれほど長い間、監禁されていたわけではないらしい。


「さて、それでは聖女よ。しばし話をしようか――座れ」


 ヤンフィが鋭い声でエイルに命じる。その指示にビクつきながら、エイルはヤンフィと机を挟んで向かい側のソファに腰を下ろした。


「汝には、神の叡智があるからのぅ。詳しく事情を説明してやろう。まず妾じゃが――察しておるじゃろぅが、魔王属(ロード)である」

「……ろぉ、ど? ですか?」


 ヤンフィの衝撃的な告白に、エイルは一瞬思考停止した。正しく意味を理解できず、つい普段の癖で、復唱確認してしまう。


「いかにも魔王属(ロード)じゃ――故に、神に選ばれた聖女とは、決して相容れぬ。正直、こうして話していることが不愉快で仕方ない」


 エイルが理解していないことなどお構いなく、ヤンフィは言葉を続けた。


「じゃが現状、コウヤを救うには、汝に縋るのが一番可能性が高いのも事実――じゃから、改めて名乗らせてもらおう」


 ヤンフィはそんな前置きをしてから、スッと胸を張って居住まいを正した。


「妾は、ヤンフィ。およそ千年前に生きた【魔王属(ロード)】にして、()魔王じゃ。【剣神】と云う異名じゃったが――まぁ、どう語り継がれておるか知らぬがのぅ」

「はぁ……ろぉどで、元まおー、ですか……んぇ?」


 ドヤ顔を向けてくるヤンフィに、エイルはキョトンと首を傾げる。そしてヤンフィの言葉を心の中で反芻してから、ようやく正しい意味で咀嚼できた。


(……ろーど……ロード……魔王、属!? あ、え? 千年、前の、魔王、ヤンフィ――って!?)


 エイルはハッとして、思わず口元を押さえる。驚愕に目を見開いて、サァーっと顔が蒼白になった。

 聖女として神から授かった膨大な知識――【神の叡智】の中で、該当する存在がひとつ浮かび上がる。


 魔王ヤンフィ――あらゆる魔王属の中でも最弱と揶揄された存在。だが、その不死性だけは魔王属の中でも随一と謳われて、歴史上で最も多くの魔王属と闘い、生き延びてきた化物。

 魔王属でありながらも、あらゆる神剣、魔剣を手足の如く扱うことが出来て、歴代最速で魔王に到った魔王属の中の異端――


「――【魔剣の不死者】ヤンフィ!? 神魔暦、最後の魔王っ!? 無慈悲の化生、災厄の四獣を従えた魔王!?」

「魔剣の不死者、のぅ。ふむ……悪くない響きじゃのぅ。【神の叡智】には、そのような異名で刻まれておるのか?」

「ぁう、ぅ……ぇぇえ? 荒ぶる桃色の頭髪、血染めの着物、少年みたいな面立ちの少女姿――た、たしかに……」

「しかしじゃ。無慈悲の化生と云う異名は、心外じゃのぅ。妾ほど、人界に悪意を振り撒かなかった魔王なぞ、おらぬじゃろぅに」


 ニヤリと嬉しそうに頷くヤンフィを前に、エイルはまるで生きた心地がしなかった。それほどまでに、次々と脳裏に浮かぶヤンフィの逸話が恐ろしかった。



 ところで――そもそも【魔王】とはいかなる存在か。

 人族の間では、魔族を統べる存在のことをそう単純に呼んでいるが、実のところそれは正確ではない。魔王という名称は、称号ではないのだ。

 一般的に、魔族を統べる存在という意味での魔王は、それこそ魔王属全般がそうである。


 魔王とは――その正式名称を神代語(アルカイックラング)で【魔王(アビス)】という。

 魔王属(ロード)という絶対強者が、魔王属同士の殺し合いの果てに到る領域であり、【神の玉座】に座る権利を手にした存在こそを、魔王(アビス)と呼ぶ。

 魔王は、魔王属の一段階上の上位存在であり、神と同列の位階に到達したモノである。

 神が創造して、神が支配する異次元空間――時空の狭間に存在する神域を手に入れて、人では抗いようもない究極の災厄に昇華したモノである。

 そんな魔王を打倒することが出来るのは、魔王属と神以外では、唯一勇者のみであるという。

 けれど、勇者では神域に踏み込むことが出来ない。それゆえに、魔王属と神以外に倒す術はない。


(……そんな魔王に、わずか百年足らずで至った化物――ヤンフィ。聖魔の森を拠点に、あらゆる生物を例外なく虐殺した死神……当時、大陸で最も栄えていたアウラ王国を、気紛れに滅ぼした災厄の象徴……魔王属が、絶対的な人族の敵だと決定付けたキッカケを作った元凶……)


 エイルが『ヤンフィ』という名称を強く意識した瞬間、意図せず【神の叡智】から、ヤンフィに関連する情報が浮かび上がってくる。

 それらは否応なく、エイルに知識として刻まれていく。


 エイルはガチガチと歯を鳴らしながら、恐怖に染まった視線をヤンフィに向けた。

 キングゴブリンが塵のように蹴散らされるのも当然だろう。本当に文字通り、存在の格が違いすぎたのだ。


「――それで? 妾は聖女を、何と呼べばよいのだろうか?」


 怯えるエイルにそのとき、ヤンフィが愉しそうに首を傾げた。エイルは慌てて立ち上がり、とにかく思いつくまま自己紹介する。


「ぁ、ひ、ひゃいっ! エ、エイルは――エイル、ですっ!! スゥ・レーラ・ファー・エイル、と申します! 聖王国テラ・セケル、王都セイクリッド生まれ、二十三歳。え、と――第七十六代目、聖女スゥで、巡礼の旅二年目――」

「――エイル、のぅ。では、そう呼ばせてもらおう」


 ヤンフィの台詞に、エイルはビクリと震えて息を呑み、無言のままブンブンと肯定した。そんなエイルに、ヤンフィはふたたび、座れ、と命令する。


「やはり、神の叡智は便利よのぅ――エイルよ。これで、妾のことは理解できたじゃろぅ? さて、それでは次に、汝に、二、三、質問させてもらう。嘘偽りなくすぐさま応えよ。無論、拒否権はない」


 ヤンフィはニコリと微笑んで、エイルに凄まじい威圧を向けてくる。

 相手が魔王属、しかも過去に魔王にまで至った化物に対して、もはや逆らうなんて選択肢は存在しないだろう。エイルは即座に頷いた。


「ふむ、従順なのは美徳じゃ。まず一つ目じゃが、実のところ妾は、神の叡智と交信が出来ぬ。故に情報に疎い。じゃから――現存する魔王属の情報が欲しい」

「……あぅ」

「記憶紙に、現存する魔王属の呼称と生息地、特性を列記せよ」

「…………あぅぅ」


 ヤンフィのその命令に、エイルは眉間に皺を寄せて押し黙った。

 それは聖女しか知ることの出来ない、国家機密の情報である。話してよいか即断できない。

 そも魔王属という存在は、抗えない天災に位置付けられた脅威である。人族にとって絶対的な敵であるにも関わらず、迂闊に手を出せば、返り討ちに遭い、国ひとつが滅ぶ危険性を孕んだ存在だ。

 それゆえに、迂闊にその情報を口に出せない事情がある。


「………………ぁぅう」


 ヤンフィの意図は不明だ。けれど、そんな機密事項を安易に伝えてよいものか――エイルは悩んだ。


「おい、何を呆けておる? 判らないはずはあるまい? 疾くせよ」


 押し黙ったままのエイルに、ヤンフィが不審な表情で鋭く言った。

 エイルはその言葉にビクッと震えてから、仕方ないと意を決して、記憶紙に情報を列記する。


「あぅ……秘密に、して、くださいよぉ……」

「妾が喧伝するはずがあるまい――――なに?」

「ぅぅぅ……」


 エイルの手から奪った記憶紙を覗き込んでから、ヤンフィは驚きの表情を浮かべた。


「これは……本当か? 現存する魔王属が、わずか三体しかおらぬ、と云うのか? しかも、うち二体は、封印状態、じゃと?」


 有り得ない、と首を振りながら、ヤンフィはエイルを睨みつける。嘘偽りがあれば容赦しないと、その双眸は物言わず語っていた。

 エイルはゴクリと唾を飲んでから、ゆっくりと頷いた。


「……は、ぃ……あ、その……確かに、二十年ほど前は、もっといっぱい居ました……けど、三英雄『狩る者』の大活躍で、『参王魔(トリオロード)』っていう魔王属の大御所と、当時の魔王が退治されて……そのときに、ほとんどの魔王属が、討伐されたんですぅ」


 荒唐無稽すぎる話ではあるが、これは嘘偽りない事実である。三英雄という存在は本当に偉大で、この十数年の間でも、何体も魔王属が討伐されている。


「――エイルよ。ちなみにその三英雄じゃが、いったい何者じゃ? たかだか人族如きが、魔王属と魔王を屠るなぞ、到底信じられぬ」


 ヤンフィは記憶紙をグシャリと握り潰して、神妙な顔をエイルに向けた。

 確かに、魔王属の立場からすれば、信じられない話に違いない。


「あぅ……何者、と言われても……そのぉ……どう、答えれば?」

「妾は、三英雄が魔王を倒した、と云う事実しか知らぬ。その過程――いかなる生まれで、いかなる術で、魔王を倒したのか。それを教えよ」

「はぃ……え、と……じゃあ、少し長くなりますけど……有名な、三英雄譚をお話し、します」


 エイルが、よろしいですか、と首を傾げると、うむ、とヤンフィが頷いた。

 それじゃあ、とエイルは息を吸ってから、大陸の誰もが知っている三英雄の活躍を綴った伝記――三英雄譚を語り出す。


 三英雄譚は、魔王討伐を果たして凱旋したアイテルとキリア、ウィズの証言を元にして、また、当時の聖女が神の叡智から引き出した情報とすり合わせて執筆された伝記小説であり、大陸中で最も広まっている現代の御伽噺だ。

 内容は、およそ神話の伝説じみた物語だが、実際、事実を誇張なく綴っている。


 ――ちなみにエイルは、この御伽噺が大好きで、暗唱できる程度には読み返していた。


 エイルはしばし、吟遊詩人の如き流麗な語り口で、その三英雄譚をヤンフィに聞かせた。



「……にわかに信じられぬが、嘘は……云うておらぬようじゃ」


 エイルの紡いだ三英雄譚をひとしきり聞き終えたヤンフィは、ふむ、と一度だけ頷いて、握り潰した記憶紙の内容を反芻する。


「先程の話にあった【氷姫フローラ】――魔剣ロードアウラに封印されており、三英雄ウィズに従属しておる、か。【神竜アレイドス】は、【竜騎士帝国ドラグネス】の守護神で、人に害する存在ではない。【魔獣ガオラキ】――神王国、秘蹟府とやらに封印されている魔王属、か」

「あ、はい……現状、神の叡智では、それ以外の魔王属を、認識しては、いません……」

()()フローラがいまだ存命とは――妾としては、複雑な心境じゃ。それに、相も変わらず依存癖が抜けておらぬ様子じゃしのぅ……」


 ヤンフィはひどく穏やかな表情で、懐かしむようにそんなことを呟いた。

 氷姫フローラと知り合いなのだろうか――と、エイルはふと疑問を持ったが、それを口に出すことはしない。

 神の叡智から知れる範囲では、ヤンフィとフローラの関係性は不明だが、同年代に存在した魔王属だということは判る。それで顔見知りと云うことは、必然、凄まじい因縁があるに決まっていた。

 想像するに、殺し合い、互いに殺せなかった存在なのだろう。


 ちなみに――【氷姫フローラ】という存在は、三英雄譚でも語ったが、参王魔と呼ばれる最古参の魔王属であり、その実力は最強の一角に数えられていた魔王属だ。

 常に、次期魔王と恐れられながらも、ついぞ魔王にはなることがなかった存在である。


「ふむ……まぁ、状況は理解した。それではやはり、()()()()()()()()()、と云うことかのぅ」


 ヤンフィはフッと真剣な表情に戻り、悔しそうに頷いてみせる。

 エイルは、あの方法、とやらがよく理解できないが、とりあえずヤンフィが落胆していることだけは理解できた。

 居住まいを正して、次は何を言われるのか身構える。


「であれば、エイルよ。檻の中の連中は、どれほど回復したのかのぅ?」

「は、え? ぅ……お、檻の中、って言うと……あの、奴隷さん、たち……ですか?」

「そうじゃ。まぁ、奴隷ではない、が――似た様なモノかのぅ」

「あ……ぅ……え、と……そのぅ」


 ヤンフィの問いに、エイルは視線を泳がせながら、どう説明しようか頭をフル回転させる。

 少しだけ想定していなかった質問だったので速答が出来なかった。とはいえ、そもそも彼らの状態は非常に複雑で、一言では説明できない状況でもある。


 しどろもどろにエイルが言葉を考えていると――トン、と。ヤンフィが強くテーブルを指で叩いた。途端、テーブルには指の形の跡が出来る。

 エイルはそれを見て、ビクッと震えて、慌てて言葉を紡ぐ。


「あぅ……あ、の、ですね? 奴隷さん、たちは……とりあえず、お腹の中に、宿ってた……瘴気の塊を取り除いて……解呪も、出来まし、た……けど、えと……なんですか、あの……魔力回路が……魔力核が、自閉状態で……精神が乖離してて……」


 エイルはたどたどしく言葉を紡ぎながら、状況を整理する。


 奴隷の箱の中にいた全裸の十人は、全員が全員、胎内に瘴気の塊を、まるで胎児のように宿していた。それは、女性、男性に関わらず全員が同様だった。

 腹の奥に、もうひとつ魔力核が宿っており、それが瘴気を放っていたのである。

 瘴気は内側から体内を侵して、体力、魔力を奪い続けていた。また、本人たちの精神は瘴気に長く曝された影響で、幼児退行、もしくは精神崩壊しており、思考力をも失っていた。

 それと同時に、本人たちの魔力核は瘴気の膜に包まれて、緩やかに朽ちる状況だった。

 エイルはそれら全ての元凶の瘴気を放つ魔力核を取り除き、その後、内側に溜まっていた瘴気を根こそぎ浄化した。さらに、本人たちの魔力核に活力を戻す治癒を施したが、それは結果として失敗した。


 つまり、瘴気の塊の浄化は成功。けれど、魔力核を元に戻すことには失敗。さらに、瘴気に汚染された精神はまだ癒せていない――

 だが、その失敗を素直に告げて、ヤンフィに叱責されるのが恐ろしい。


「……乖離した、精神は……その、癒すのに時間が……」

「エイルよ――要は、魔力核の復元、精神の呼び戻しが出来ておらぬ状況か?」


 エイルの長ったらしい台詞を遮って、ヤンフィが簡潔に要約した。

 あ、と声にならぬ音を出して、エイルはコクン、と肯定する。おおむねその通りである。


「で、でも……その、魔力核の復元、とか……精神の呼び戻しは――」


 エイルは慌てて、失敗が致し方ないと、弁明を図ろうとした。ヤンフィに咎められると思ったからだ。

 実際のところ、エイルの魔力が完全状態で、必要な触媒さえあれば、彼らを救い出すことは可能だろう。少なくとも、救い出せる自信はある。

 ――多少の時間は必要だが。


「――ああ、判っておる。皆まで云う必要はない。想定内じゃ」


 エイルの弁明を最後まで言わせず、ヤンフィが手で制した。


「どうせ、この触媒が要るのじゃろぅ? 【精神(スピリタス・)石】(フラグメント)――これだけあれば、事足りるはずじゃ」


 ヤンフィはドヤ顔を浮かべて、テーブルの上にジャラジャラと深い黒色の石を大量に散らばせた。

 滑らかな光沢をした鉱石は、一見すると黒曜石を思わせる。しかし、エイルはそれがまったく別のものであることを瞬時に理解した。


「こ、これ――本物の、スピリタス・フラグメント!?」

「うむ。この量を用意するのは、多少骨が折れた――らしい。まぁ、ソーンがどれだけ苦労しようと知ったことではないがのぅ」


 エイルは精神石のひとつを手に取る。すると、エイルの驚きの感情を読み取って、黒色が明るい黄土色に変化した。


 魔力ではなく、精神に反応して色を変える鉱石。それが【精神(スピリタス・)石】(フラグメント)である。

 治癒術師が、精神疾患を抱えた患者を治療する際に、必須で用いる触媒だった。

 これだけあれば、十人分には充分に足りるだろう。


「さて、エイル。誇張せず、嘘偽らずに応えよ。精神石を用いて、どれほど時間があれば、檻の中の者たちを完治させられる?」

「え? あぅ……完治、ですか? えぇ、と……お、恐らく、丸一日……いえ、二日は……欲しい、です」

「ふむ――天族の六人だけを癒すならば、半日もあれば充分じゃのぅ」

「…………はぇ? は、半日? あ、て、天族、の方、だけ……ですか?」


 ヤンフィの問いに、咄嗟に、無茶だ、と口にしそうになって、しかしエイルは言葉を飲み込んだ。

 天族だけ、という限定条件があれば、命懸けでやれば間に合わなくはないだろう。

 だが、なぜ天族だけなのか――と、疑問には思えど、口には出さない。


「うむ。天族だけじゃ。そうと決まれば早速――と云いたいところじゃが、まだ幾つか、問いたいことがある」


 ヤンフィは言うと、大仰にパンと手を叩いた。すると瞬間、ブォン、と空気が大きく振動して、室内の気圧が変わる。

 まるで高い山に登ったときのように、キ――ン、という耳鳴りが響き、空間がぼやけた。


「おい、ソーン。待たせたのぅ。ここから先の話は、汝も参加せよ」


 ヤンフィは視線を寝室に向けて、そんな台詞を投げる。途端に、ドスドスと足音が鳴り、寝室の扉が開かれた。


「ヒ――ッぃ!?」


 エイルはそこから現れた変態を見て、目を見開き息を呑んだ。ヤンフィとはまた違う意味の恐怖で、その場に立ち上がり、ズザザ、と思い切り距離をとる。


「ぁあ? んだ、その態度――っと、まぁ、いい。んじゃ、オレはここらに」


 現れたのは、2メートル越えの筋骨隆々の巨漢である。ただしパンツしか装備していないが。


 その巨漢は怯えた様子のエイルにメンチを切ってから、ヤンフィに頭を下げて、その場に胡坐を掻いた。


「エイルよ、此奴はソーン・ヒュードじゃ。不愉快極まるが、いまは妾と共に行動しておる――今後は、当分の間、汝も一緒に行動することになる」

「――ぇ、ぇええええ!!? い、いや……エイル、お、犯さ、れるの……!?」

「ぁあああ!? 誰が、テメェみてぇな、メスくせえ奴を犯すかっ!! オレに喧嘩売ってんのかっ!! 調子に乗るのも、いい加減に――――ぐふぅ!!?」


 ソーンと行動を共にしなければならない、と聞いた瞬間、エイルの頭の中では、ソーン=オーガゴブリンの図式が成り立ち、恐怖から自分でも驚くほどの悲鳴を上げた。

 その悲鳴に対して、ソーンは素晴らしい反射神経でブチ切れて立ち上がる。同時に、その巨漢から考えられないほど機敏な動きで踏み込んできて、一切の躊躇もなくエイルの顔面に豪腕を繰り出していた。

 エイルはこの瞬間、自らの死を覚悟した――が、ギュッと瞼を閉じたとき、ソーンの短い呻きが聞こえて、ドガン、と何かが壁に激突する轟音が響く。


「ソーンよ。参加せよ、とは云うたが、発言を許可した覚えはないぞ。どころか、エイルを殺そうとするなぞ、莫迦か? 次、妾の手を煩わせれば、もはや捨て置く」

「ぐぅ……ふ。へっへっへ、さすがヤンフィ様。容赦……ねぇな……」


 エイルは恐る恐ると目を開けた。

 すると、変態巨漢ソーンが、薄笑いで血反吐を拭いながら、膝を突いていた。

 ヤンフィを見ると、彼女のその手には、燃えるような形状をした赤黒い刀身の大剣が握られている。

 それで斬り付けたのか、と驚くと同時に、ソーンが死んでいないことも驚きだった。

 いっそう恐怖がこみ上げてきた。決して逆らってはいけない、と本能からの警鐘が鳴り響く。


「それでは、ようやく本題じゃ――と、その前に、エイルよ。妾の最終目的を伝えておこう」


 ヤンフィは真剣な表情になり、エイルの心を全て見透かすような双眸で、射抜くように真っ直ぐと見詰めてきた。

 視線を逸らすことが出来ない。


「妾の目的は、昨日、汝に応急処置してもらった人族の器を、元通りに蘇らせることじゃ」


 エイルはその台詞を聞いて、とりあえず力強く賛同の意味で頷いた。

 しかし、人族の器、という言い回しには疑問符が浮かんでいる。


(人族の、器……? あれ、でも……奴隷さん、たち……天族を、癒すんじゃ、ないの? 人族って……黒い肌の女性を、癒すのが目的……ってこと?)


 そんなエイルの悩みを察したかのように、ヤンフィはフッと笑みを浮かべた。


「先程、妾がエイルに云うたことは、無論、優先的に行ってもらうべきことじゃ。じゃが、それが妾の最終目的ではない――最終目的を果たすには、【蘇生】の魔術が必須じゃからのぅ」


 蘇生の魔術、という台詞に、エイルは、そんなの不可能です、と断言しそうになった。

 それは夢物語だ。そんなことは出来るはずがない。蘇生の治癒魔術なぞ、現状、神以外には誰も為し得ない奇跡である。


「汝が云いたいことは理解できる――じゃが、ひとまず聴くがよい」


 エイルの心情を読み取ったように、ヤンフィは、うんうん、と頷きながら、順を追って話すぞ、と切り出した。


「妾がこれから提示する方針はのぅ、云うてしまえば、ただの博打じゃ。目的が叶うかどうか、定かではない――」


平成最後の本編投稿


2019/05/12 一部名称変更。

奴隷の檻⇒奴隷の箱

2019/06/16 タイトル変更。

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