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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
第八章 極彩色の街ヒールロンド
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第五十七話 エイルとヤンフィとソーン

 

 あっけなく目の前の景色が変わり、一瞬にして薄暗い地下迷宮(アビスホール)から、坑道の入り口、青空の下に転移していた。

 体力も魔力も完全に尽きた状態のエイルは、地べたにぺたりと座り込んだまま肩で息をしている。

 まったく整わない呼吸、胡乱な思考で、信じがたいこの光景を呆然と眺めていた。


 多くの迷宮で幾度も体験している転移――冠級に属するその時空魔術【空間連結(ワームホール)】を、こともなげに展開した目の前の少女に、エイルは改めて畏怖の視線を向ける。


「……ふむ、好い天気じゃ」


 そんなエイルの視線など意に介さず、少女は涼しげな顔をしたまま、手元の不思議な武器を当然のように、時空魔術で異空間に格納した。

 そして、柔和な笑みで空を見上げている。


 傍から見ればその横顔は、年相応に可愛らしい顔だろう――けれど、その少女の纏う雰囲気、放たれている威圧感は、とてもじゃないが年相応ではない。

 言い表すならば、その少女こそまさに避けようもない死の具現である。

 死神と言われても、なんら不思議ではない。それほど圧倒的な恐怖と死の気配を感じさせる。およそ人間とは思えない空気である。


「――ぅ、ぅっ!?」


 そんなことを考えたとき、エイルは思わず吐きそうになり口元を押さえた。喉奥から酸っぱい物が込み上げて、口いっぱいに不快感が広がる。


「ぅ……っ、ん……ぐ」


 だが、なんとか堪えることに成功した――とはいえ、もはや取り繕っても無駄なくらいに汚れきってはいたが。

 エイルは死を体現するその少女を見ていて、先ほどまでの悲惨すぎる光景を思い出していた。

 殺される寸前のあの絶望、抗いようもない本能的な恐怖が、脳裏に克明に蘇ってきていた。

 そして、ふと疑問に思う。


(…………エイル、いま、生きているのでしょうか?)


 あの光景を思い返せば思い返すほど、いまのこの状況が信じられない。

 全滅した黒色騎士団、それを為した絶対的強者の魔族キングゴブリン。

 そこまでは、現実的に考えても、十分に起き得る地獄だろう。

 しかし、そんなキングゴブリンを軽々と切り刻んだ目の前の少女という存在は、あまりにも現実味のないことだった。


(エイル……キングゴブリンに犯されて、狂って、しまったのでは……? いまもこれは夢で……本当は、目が醒めたら、まだアビスホールの中にいて……)


 ブルリ、とエイルは身体を震わせる。そう考えると、何もかも納得できる。


「――ん? 何じゃ、寒いのか? まぁ……それだけ濡れておって、体力が尽きておれば必然か」


 そのとき、目の前の少女が震えるエイルの様子に気付いて、さも当然のように気遣いの言葉を吐いた。同時に、パチン、と指を鳴らして、攻撃力のない熱風を吹き掛けてくれる。

 少し肌に痛いが、その柔らかい温風は、びしょ濡れになっていたエイルの全身をあっという間に乾かしてくれた。


「……あ、ぅ……え、えと……あの……」

「妾はヤンフィじゃ。汝が助けたそこの男は、コウヤと云う――さて、それでは聖女よ。当分の間、汝は妾たちと共に行動するぞ」

「こ、これ……あ、ぅ? へ……え?」


 これは夢ですよね、と問い掛けようとしたエイルに、目の前の少女はきっぱりと断言した。

 目の前の少女――ヤンフィと名乗った少女は、有無を言わせぬ威圧を放ち、傍らに転がった死体を指差して、それを『コウヤ』と言った。

 エイルはきょとんとした表情でコウヤと呼ばれた死体を見やる。

 どう反応してよいのか、正直困った。

 コウヤ、と呼ばれたそれは、魂が宿っているだけの死体である。

 禁術【屍操術(ネクロマンシー)】――知識として知っていたが、よもやお目にかかれるとは思ってもいなかった。

 死体となった人間に、魂だけを残留させて意のままに操る禁忌の魔術だ。

 屍操術で操る死体は、痛みを感じない無敵の兵隊と言われる。意志を持ち、判断ができ、且つ肉体強度を超えた身体能力を持つ戦士である。

 一方で、死んでいるが故に、自然治癒はおろか新陳代謝などはあり得ず、魔力を注がなければ動くことさえままならない。

 そんな死体を、先ほどエイルは癒したのである。

 我ながら、よくも癒せたものだと感心する。理論上、治癒魔術は死体さえも癒すことが可能だ。だが、それはあくまでも机上の空論。エイルという聖女をして、奇蹟の所業と思える神業だろう。

 とはいえそれで、死者が蘇ることはない。エイルの奇蹟で、肉の器がどれほど綺麗になろうとも、損傷が完全に癒やされようとも、仮にその魂がまだ健全であろうとも、死体は死体である。

 死者を生き返らせるには、冠級の治癒魔術【蘇生】が必要最低限だ。

 そしてそれは、この世の誰にも行使できない。


「おい、何を呆けておる? 疾く立ち上がれ。往くぞ」

「は――ひゃい!?」


 エイルが呆然とそんなことを考えていると、ヤンフィが強い口調で命令した。

 刺されるような鋭い威圧、その迫力に気圧されて、エイルは慌てて立ち上がる。


「とりあえず、妾の連れと合流したいのじゃが……汝の姿、ちと目立つのぅ」


 立ち上がったエイルの全身を流し見て、ヤンフィは煩わしそうに呟いた。


「……しかも、汚いうえに臭いときておる」


 ヤンフィは鼻をつまむ仕草をして、不快そうに目を細めていた。


(……うぅ……確かに、汚いのも、臭いのも事実ですけど……エイルのせいじゃ、ない、です……)


 エイルは内心でそんな反論をするが、実際に言い返す度胸はないので、口をへの字に押し黙る。同時に申し訳なさそうに俯いて、血と吐しゃ物の付着した裾の部分を手で擦る。

 しかし、裾にこびり付いている汚物は、ヤンフィが乾かしてくれたおかげもあり、ちょっとやそっとでは落ちそうになかった。

 正直、宿屋に戻って服を着替えたい――許されるのならば。


「ふむ……汝の体型に見合う服は持っておらぬしのぅ」


 エイルはどう反応すべきか分からず、居た堪れない気持ちでもじもじとした。すると、ヤンフィは口元に指を当てて何やら思案を始める。

 エイルの身体に絡みつくような視線が向けられる。


「ふむ――そうさのぅ」


 ヤンフィはエイルの全身を眺めながら、ふむふむ、と何度か頷いた。

 その頷く様は、非常にエイルの不安を掻き立てる。


「あ……ぅ、ぅ……そ、その……」


 エイルに逆らう意思は毛頭ない。

 そもそもこの現実味のない状況に、思考が追い付いていないこともあるし、だいたい抵抗が無意味なことも理解している。

 何より、良くも悪くもエイルは、聖女になってからの二年間、自らの意思ではなく、周囲の意思に流されるがまま生きてきた。他人に運命を委ねることに慣れ切ってしまっているエイルが、今更、しかもヤンフィという化物を相手に、逆らうという選択肢を見出せるはずがない。


「エ、エイル……これから……どう、すれば……?」


 そんなエイルは、なけなしの勇気を振り絞って、決死の質問をヤンフィに投げる。

 しかしヤンフィから返されたのは、意味深な沈黙だった。

 エイルは恐る恐ると上目遣いにヤンフィを見やる。

 するとちょうど、ヤンフィとバッチリ目が合ってしまった。途端、ビクンと無意識に身体が震えて、すかさず視線を逸らした。

 しばしの沈黙が二人の間に流れる。

 その沈黙は非常に短い時間だったが、エイルにとっては死刑宣告を待つような心地だった。


「――どう転んでも賭けじゃのぅ。じゃが、やるだけやってみるかのぅ」


 ふとそんな台詞が聞こえて、エイルは、え、と顔を上げる。見ればヤンフィは、悪戯を思い付いた悪餓鬼みたいな顔を浮かべていた。

 その不敵な笑みに、エイルの不安はいっそう増した。


「聖女よ――いま身に着けている物、とりあえず全部脱げ」


 そして放たれる意味不明な台詞。

 ヤンフィのそれは、有無を言わさぬ威圧付きの命令だった。


「……とりあえず、全部、脱げ? え、と……それは、つまり?」


 想定外の唐突過ぎるその命令に、エイルはきょとんとして、ついオウム返しに問い返す。

 聞き間違えたかな、と首をひねると、ヤンフィは愉しそうに同じ台詞を繰り返した。


「身に着けている物を全部脱げ――つまり、全裸になれ、と云うておる。理解できたか?」


 ヤンフィはニヤリと口角を上げて、いっそう鋭い威圧をぶつけてきた。

 エイルはその威圧にハッと我を取り戻して、ようやく『全裸になれ』という言葉の意味を理解する。同時に、抗うという選択肢が存在しないことも理解できてしまう。


「……あぅ、ぅ、え……は、ぃ……」


 エイルは震える声で頷いて、ヤンフィの前で服に手を掛ける。

 だが、いざ脱ごうとした瞬間、カサリと物音が聞こえた気がして、慌てて手を止めて周囲を確認した。


「フッ――安心するがよい。半径400メートル内に、人の気配はない」


 エイルの慌てた様子を見て、ヤンフィが失笑しながらそう告げた。確かに、今のところ見える範囲に人影はない。

 まあそもそも前提として、この寂れた坑道に好き好んでやってくる人間など皆無に等しい。

 もしここに来るとしたら、それは地下迷宮【アビスホール】を攻略しようという酔狂な冒険者たちくらいである。それも一日に一組、来るかどうか――つまりそれほど気を張らずとも、これから行われるストリップショーを目撃されることはないだろう。

 けれどだからと言って、屋外で平然と裸になれるほどエイルの神経は図太くない。ましてや、露出癖があるわけでもなければ、体型に自信があるわけでもない。

 こんなところで裸になるのは、当然ながら遠慮したい。恥ずかしい。


「おい、何をもったいぶっておる。サッサとせよ――それとも、妾に脱がして欲しいのか?」


 エイルが恥ずかしさで動きを止めていると、ヤンフィが鋭い台詞で脅しを掛けてきた。見れば、その細められた双眸からは本気の色が窺える。


「ぅ……わ、わかり、ましたよぉ……」


 ゴクリ、とエイルは唾を飲み込み、意を決してバッと服を脱ぎ捨てる。

 まずは修道服――聖女の正装とも言える上衣を脱いだ。

 着ているときには気付かなかったが、修道服は酷く汚らしい。ところどころ血と埃、汚物に塗れており、吐き気を催す異臭を放っていた。

 エイルはその臭いに顔を顰めつつ、とりあえず丁寧に畳んで足元に置いた。


「ほぅほぅ――なかなかに、そそる光景じゃのぅ。飢えた男たちに見つかったならば、瞬く間に襲われるじゃろぅな」


 値踏みするような視線と共に、ヤンフィがふとそんな感想を吐いた。その台詞を聞いたエイルは、恥ずかしさから赤面して、俯いたままギュッと目を閉じる。

 修道服を脱いだエイルは、形の良い胸を強調するピッチリめの肌着と、汚れきったショーツのみという格好である。


「ぅぅ……ぁ、ぅ……み、見ないで、下さぃ……」


 全身を嘗め回すようなヤンフィの視線に堪えかねて、エイルは蚊の泣くような声で訴える。するとヤンフィはからかうような口調で応じた。


「――何を恥ずかしがっておる? 疾く全部脱げ。それとも何か? 妾を誘っておるのか?」


 ヤンフィはそう言いながら、直立不動のエイルに近寄ってくる。それと同時に、何やら硬い物が、エイルの右胸にプニッと押し付けられた。

 きゃ、と短く悲鳴を上げて、エイルはその目を開けた。

 目を開けて見れば、エイルの胸には、銀の蛇が巻きついた木製の杖が押し当てられている。

 その杖は先ほど、エイルの治癒魔術を強制的に強化した魔法具である。


「……さ、誘って、なんて――――あぅ!?」

「無駄口を叩く余裕があるのならば、疾く脱げ」


 エイルは慌てて、ヤンフィのからかいの言葉に反論しようとするが、そんな反論を遮って、ヤンフィは冷たい視線と強烈な威圧をぶつけてきた。

 同時に、押し当てた杖の先端を器用に動かして、エイルの胸を刺激してくる。

 エイルはビクビクと身体を振るわせた。


「ぅぅ、ぅ……や、やめて……わかり、ました、よぉ……」


 涙声交じりに頷きながら、エイルは杖から逃げようと一歩後退る。そんなエイルの困った様を愉しそうに眺めてから、ヤンフィは杖を下ろした。

 エイルは仕方なしに、肌着、ショーツの順番で脱ぎ、衣類をまとめてひとところに重ねる。

 どうしてこんな羞恥プレイをさせられているのか。

 エイルは降りかかっているこの理不尽を声高の叫びたい衝動に駆られるが、ヤンフィが恐ろしくて声が出ない。


「……ぁぅぅ……」


 とりあえず胸と股間を手で隠しながら、エイルはヤンフィと対峙する。

 ジロジロとヤンフィの視線が突き刺さる感覚がある。穴があったら入りたいくらいに、恥ずかしい。


「ぬ……脱ぎ、ました、けど……?」


 何をされるのか、と恐る恐る顔を上げる。すると、ヤンフィは不敵な笑みを浮かべていた。


「うむ。ではそのまま、この檻の中に入れ」


 ヤンフィはそう言って、正方形の小さい箱を取り出すと、その箱に魔力を注ぎ込んだ。途端に、箱は黒い穴を出現させる。


「……これ……時空、魔術……あぅ……そ、それ……もしかして、【奴隷の箱】……」

「ほぅ? 知っておるのか? であれば、話は早い。よもや拒否なぞしないじゃろうな?」


 ヤンフィが鋭い睨みをエイルに向ける。断れる空気は一切ない。むろん、エイルが断れるはずはないのだが――

 エイルは小さく、はぃ、と頷いて、黒い穴に近寄る。


 ヤンフィが展開したその箱は、【奴隷の箱】と呼ばれる魔道具であり、人間を捕らえて持ち運ぶ用の収納箱である。

 非常に高級な魔道具で、この【極彩色の街ヒールロンド】よりもっと東に位置する【霧の街インデイン・アグディ】でしか購入できない代物だった。

 ちなみに、以前旅をしていて聞いた話によると、人身売買を生業とする奴隷商人は、この【奴隷の箱】を持っていると一流、持っていないと二流と言われるらしい――つまり、ヤンフィは一流の奴隷商人ということである。


「――ああ、ところで聖女よ。汝にひとつ仕事を頼みたい」

「……ぇ?」


 そのとき、大事な部分を手で隠しながら檻に入ろうとしたエイルを、ヤンフィが引き止めた。

 嫌な予感しかしないが、エイルに逆らう気概はない。上目遣いで今にも泣きそうな顔で、ヤンフィに視線を向ける。


「なに、そう怯えることはあるまい――この頼みは、無理難題ではないぞ?」


 エイルの心配そうな表情を見て、ヤンフィは、安心せよ、と続けるが、安心できる要素は何一つなかった。

 エイルはゴクリと唾を飲んでから、なんでしょうか、と問い掛ける。


「聖女の奇跡を、檻の中の者たちに施して欲しいのじゃ……中の者たちは、奴隷化の禁術が施されておってのぅ。とりあえず【全異常治癒(クリアオール)】で治癒しておいてくれ」

「【全異常治癒(クリアオール)】……ぅ、えぇ……? ど、奴隷化の、禁術……って、何です、か?」

「ああ、知らぬか――であれば、知る必要はない。汝が為すことは単純じゃ。檻の中におる肉人形に、治癒魔術を行使すればよい」


 当然のように言い捨てるヤンフィに、エイルは首を傾げつつも、頷くことしか出来なかった。というよりは、思考がまだ状況に追い付いていない。

 ――とはいえ、エイルはとりあえず【奴隷の箱】に足を踏み入れた。

 スルッと吸い込まれるように、何の抵抗もなく、黒い穴を通って亜空間の中に入る。


「…………暗い、です」


 入って第一声、エイルは素直な感想を漏らす。同時に、外界との出入り口が閉じられた。

 これでもう、内側から外に出る術はなくなった。ヤンフィが開けてくれない限り、脱出は不可能である。

 はぁ、とエイルはため息を吐いてから、キョロキョロと辺りを見渡す。だが、亜空間の中は、光ひとつない暗闇の世界だった。何も見えない。


「けど……ここ、思ってたより、寒くないですね」


 奴隷の箱という名称から、エイルはもっと寒々しい牢屋のような空間を考えていたが、そうではなかった。

 亜空間の中は暑くもなく寒くもなく、裸でも快適な温度である。

 ふぅ、とエイルは一息吐く。

 まだ現状をよく理解できていないが、少なくともハッキリしているのは、エイルがヤンフィによって捕らわれの身となった、ということである。

 そして同時に、ヤンフィの目的を果たすまでは、エイルの安全が確保されたのも間違いないだろう。


「……誰かに利用されるのは、いつものこと、かぁ……ともかく……エイル、疲れたよぉ……」


 閉じ込められているとはいえ、この亜空間には敵はいない。

 周囲に危険がないことを確認した途端、張り詰めていた緊張が緩んで、エイルはぺたりとその場に座り込んだ。

 お尻に感じる床は、ひんやりとしていて硬かった。


「現実味がない、けど……やっぱり、これ、夢じゃない、よねぇ……ぅぅ……」


 エイルはしみじみと呟いた。

 残り僅かな魔力を身体に巡らせて自身の状態探査を行ったところ、これが現実で、決して夢を見ているわけでないことが分かる。

 エイルは紛れもなく覚醒状態であり、幻覚や暗示などの状態異常にも掛かっていない。

 魔力残量が枯渇寸前なことを除いて、肉体的には至って正常な状態である。


「――――うぁ」

「ッ!?」


 エイルが腰を落ち着けた瞬間、暗闇の中で呻くような、掠れた声が聞こえた。

 ビクッと反応して、エイルは音のしたほうに全身を向ける。

 バクンバクン、と早鐘を打つ鼓動を必死に隠して、声を殺したままジッと闇を見つめた。


(……な、なに、が……いる、のぉ?)


 エイルは闇の向こう側に意識を集中させる。

 しかし、そもそも戦闘職でないエイルの鈍い感覚では、その何者かの気配は感じ取れなかった。

 ただただ不安だけが膨れ上がる。


「――ぁぁぅ――ぅ?」


 ふたたび暗闇に響く呻き声。

 エイルは、ビクン、と大きく震えて、思わずゴクンと喉が鳴る。


「ぁぅ?」


 するとエイルの喉の音に反応したように、ペタペタというかすかな足音と、不思議そうな響きの呻きが、ゆっくりとエイルに向かって近づいてくる。


「あ……あ、の……!! だ、誰、でしょうか!? あ、あなたも、捕まった……んです、か!?」


 エイルは未知の恐怖に声を震わせながら、けれどその何者かを牽制するように、慌てて大声を張り上げる。だが当然ながら、エイルのその声に制止の効果は薄く、何者かの気配は近づいて来た。

 一寸先も見えない暗闇の中で、何者かは正確にエイルの位置を把握している様子だ。


「ぅ――ぁ、くっ……『光の精霊よ、来たれ』」


 だんだんと気配だけが近寄ってくる恐怖に耐え切れず、エイルは尻餅をついた状態で後退りながら、目の前に光の玉を顕現させた。光属性の補助魔術だ。

 パァ――ッと、真っ暗な亜空間内が、眩い光で照らされる。


「う、ぁ?」

「――――え?」


 上空に光の玉を浮遊させて、亜空間内を明るく照らした時、目に飛び込んできた光景に、エイルは思わず唖然と硬直してしまった。

 照らされた亜空間内には、エイルと同じ全裸の男女が計十人いて、その全員が人形と見紛うほどに生気の感じられない表情をしていた。

 彼ら、彼女らは、呆然としたまま寝転がっていたり、立ち尽くしていたり、座り込んでいる。

 そんな中で、一人の少女がエイルに向かって四つん這いで近付いてきていた。

 その少女は口から涎を垂らしながら、あーうー、と意味のない言葉を漏らしている。


「……兎耳獣人(レギン族)?」


 エイルは近付いてきていた少女の姿をマジマジと見詰めて、信じられないとばかりに呟いた。

 またその容姿を見て、不謹慎ながらも少しだけ和んだ。


「ぅあ? うーぉ、っ?」


 エイルに近付いていた少女――黒髪の獣族は、エイルの呟きには反応せず、ピタリとその場で動きを止めると、宙に浮かぶ光の玉を凝視する。

 どうやら、全裸のエイルから、光の玉に興味が移ったようだった。届かないのに、一生懸命に手を伸ばしている。ぴょこぴょこと兎耳が動くさまは、気持ちが癒される。


「うー、ぅー、っ……あぅ」


 無表情で呻く獣族の少女を、エイルは怪訝な視線で見詰めた。

 少女の見た目は十五歳前後に思えるが、その振る舞いはまるで三歳児のようだ。知性が欠片も感じられない。明らかに精神的な異常が見られる。

 エイルはそんな少女から視線を外して、改めて周囲を見渡す。


「あれは、猫耳獣人(ガルム族)……そこの人は……まさか、天族? ど、どういう、こと?」


 亜空間内の一人ひとりを眺めながら、エイルはそんな驚きを口にする。

 知識として存在は知っているが、ここにいるのは誰も彼もが、人族とは滅多に交わらない種族である。

 中でも特に、天族なぞ古い文献でしか見たことがない幻の種族だ。

 そんな年齢も種族も性別もバラバラな男女が、どうしてこんなところにいるのか――


(……あ、ぅ……ま、まさか……あのヤンフィって、子……奴隷、商人? だから、エイルを、攫って……エイル、売られちゃう、のぉ……?)


 エイルは思い至ったその考えに戦慄する。

 ヤンフィの目的が理解できない現状、あらゆる可能性が考えられる。

 少なくとも、現状で明るい未来は思い付かない。


(薬でも、打たれて……精神を、壊されて……この人たちみたいな、人形にされるのぉ……?)


 寝転がっているプラチナブロンドの天族に、エイルはチラと視線を向ける。

 彼女はエイルと同じような背格好で、同年代に思えるが、生気のない表情をして、涎を垂れ流している。

 エイルはその姿に自らの未来を重ねて、ガチガチと奥歯を鳴らした。身体をギュッと抱きしめて、内側から湧き上がる恐怖に怯えた。



『聖女の奇跡を、檻の中の者たちに施して欲しいのじゃ……中の者たちは、奴隷化の禁術が施されておってのぅ。とりあえず【全異常治癒(クリアオール)】で治癒しておいてくれ』



 そのとき不意に、奴隷の箱に入る直前、ヤンフィと交わした会話を思い出す。

 エイルは、あれ、と首を傾げた。そういえば、ヤンフィには何をしろと言われたのだっけ――



『――汝が為すことは単純じゃ。檻の中におる肉人形に、治癒魔術を行使すればよい』



 エイルは、んー、と眉間に皺を寄せて、ヤンフィとの会話を反芻した。

 深呼吸して落ち着くと、何一つしっくりこないが、いまのエイルが求められていることを理解する。ヤンフィの意図までは理解できないが、命令されたことは思い出した。


「……し、失礼、します……ぅ!?」


 エイルは恐る恐ると、ひとまず一番近くにいたプラチナブロンドの天族に手を触れた。

 そしてその状態異常の原因を把握して、ついつい嘔吐しそうになる。


「……これ、な、なんで……胎内から、瘴気が……?」


 聖女の加護により、エイルは触れた人間の状態異常を正確に把握できる。ゆえに、どんな患者に対しても、素早く最適な治癒を施せるのだ。

 その奇跡の手で感じたところ、天族の胎内には、凄まじい瘴気を放つ種のようなものが宿っていた。

 ありえない現象だが、このまま放置すれば、やがてその瘴気に侵されて、肉体は内側から腐るだろう。


 エイルはグッと歯を食いしばって、残り少ない魔力でどこまで癒せるのか分からないが、亜空間内の全員の状態を診て回ることに決めた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 エイルを【奴隷の箱】に放り込んでから、ヤンフィは死んだように眠る煌夜に近付いた。


「……さて、聖女をどうにかする為に、とりあえずソーンと合流するかのぅ」


 ヤンフィはそう呟きながら、状況を整理する。


 当面の目的――煌夜の生命力を回復させることには成功した。一時的な応急処置でしかないが、とりあえず危機的な状況は脱したと言えるだろう。

 次いで聖女の誘拐にも成功して、これでもはやこの街に滞在する意味さえなくなった。


「じゃが……よもや本当に、聖女がこの程度とはのぅ……」


 ヤンフィはひどく残念そうに、がっかりとした溜息と共にそんな台詞を吐く。

 聖女の実力、素質が、ヤンフィの想定よりもずっと低かったことに落胆が隠せない。


「まぁ、とはいえじゃ。嘆いていても仕方あるまい」


 思惑通りに事が運ばないのは、いつものことである。

 それを軌道修正して、思惑通りに物事を進めるのが肝要だろう。

 ヤンフィは気を取り直して、次に打つべき最善手を考える。


 ――とはいえど、打てる手自体が限られている。


 ヤンフィの至上命題は、最初から変わらず、煌夜の身体を癒すこと、煌夜を五体満足に蘇らせることである。それを成す為の方法など、そもそも多くないのだ。


 現状で、取れる方法は二つ。どちらも確実性はないが、選択肢がそれしかない。


 ひとつは、聖女よりも治癒魔術の実力がある者を探し出すこと。

 つまりは、当てのない旅を続けることだ。

 言い換えれば、タニアとセレナに合流することを最優先とするということである。ただしこれは現状維持でしかなく、結果としてジリ貧になる可能性が高い。

 そしてもうひとつは、聖女を強制的に鍛え上げて、冠級を扱えるように成長させること。

 現状、その素質も才能も感じられないが、それでも可能性は零ではない。

 ただしこれは失敗したとき、聖女を失うのみならず、引いては小康状態の煌夜をも危険に晒すことにもなる。

 代償は高い――しかし、可能性が零でないのならば、やってみるだけの価値はあろう。


 ヤンフィはそんなことを考えながら、煌夜の身体に恐る恐ると手を触れた――瞬間、バチっと緑色の電気が走り、ヤンフィの手が拒絶された。


「ふっ――喜ぶべきか、悲しむべきか」


 煌夜の身体を癒した聖女の魔力が、ヤンフィの魔王属としての魔力に反発して、強く拒絶しているのである。

 予想以上に強いその魔力の反発に、ヤンフィは苦笑を浮かべる。一瞬だけとはいえ、弾かれて焼け焦げてしまったその指先を見て、満足げに頷いた。


 聖女の魔力が強力であればあるほど、煌夜の肉体が治る道理だ。その点に関してだけは、喜ばしい。

 一方でこれは、ヤンフィの魔力ではもはや何も出来なくなった、と断言されているに等しかった。ヤンフィの魔力は劇薬に等しく、いまの煌夜にとっては毒にしかならない。

 そんな事実をまざまざと見せ付けられて、己の無力さ、不甲斐なさが悲しかった。


「感傷に浸っておる暇なぞないのぅ……はてさて、これでは聖女の魔力が抜け切るまで、妾がコウヤの身体を操ることは出来ぬのぅ……如何にしてコウヤの身体を運ぼうか」


 ヤンフィは焼け焦げた指先をパチンと鳴らして、瞬く間に指を元通り再生させた。そしてキョロキョロと周囲を見渡して、何か役に立つ物でもないか、と探す。

 しかし、辺りには使えそうな物など落ちてはいない。あるのは汚らしい聖女の衣類だけだ。

 仕方ない。なければ作るしかあるまい。

 ヤンフィは、ふぅ、とため息を漏らしてから、何の変哲もない巨岩に視線を向けた。

 それは縦横5メートルほどの一枚岩で、表面がざらついていた。


「――ハッ!!」


 短く鋭い呼気。同時に、あまりにも無駄がない神速の居合い抜きでもって、ヤンフィはその一枚岩に紅蓮の灼刃(レヴァンテイン)を振るった。

 ヤンフィのその居合い抜きは速過ぎて、赤黒い刀身の軌跡はおろか、残像さえ見えない。

 ガカカッ――と、音だけが遅れて辺りに響き、一枚岩は瞬きの間に、人一人分ほどの大きさをした正方形の石に分断されていた。

 ヤンフィはその岩をさらに五等分すると、粘土でも弄っているかのように、素手で削り、押し潰し、加工して、背もたれのある椅子を作り上げる。

 石製の一人用椅子だ。重量は、軽く見積もって300キロはあるだろう。

 背もたれの裏側に取っ手を作って、ヤンフィはそれを片手で軽々と背負った。


「持ち運び難いが、致し方あるまいか……」


 ヤンフィは自作したその石椅子の出来具合に不満を覚えつつも、拘るのは無意味か、と切り替えて、倒れている煌夜を座らせた。

 座らせる際に、バチバチ、と凄まじい魔力の拒絶が発生して、ヤンフィの両手は焼け焦げてグチャグチャになったが、この程度は些細なことである。

 少し魔力を練り上げれば、瞬時に回復する。

 ヤンフィはそのまま、煌夜を座らせた石椅子を背負い、聖女が脱いだ異臭を放つ衣類を道具鞄に収納すると、軽やかな足取りで街道に戻った。



 日の沈み始めた街中は、ヤンフィたちが着いた時よりもずっと混雑していた。

 ちょうど夕飯時だからだろう、飲食を取り扱う露天商たちが、今が売り時と声を張り上げて、苛烈な商戦を繰り広げている。

 そんな混雑する大通りのど真ん中を、しかしヤンフィは我が物顔で歩いていた。

 ごった返す人混みを掻き分けて――否、掻き分けるという表現は違うか。

 ヤンフィの威容を目にした通行人たちが、ヤンフィを避けるように道を譲るのだ。まさしくモーセの十戒の如きで、ヤンフィはその道をスタスタと歩み続けている。


「……な、なんだ、あの子……」

「あの後ろの……あいつ、死んでないか?」


 ヤンフィの威容と、背負った石椅子の異様、石椅子にぐったりと座っている煌夜の姿を見て、通行人たちは言い知れぬ不気味さを口にしていた。

 けれどそんな風聞など意に介さず、ヤンフィは一路、ソーンとの待ち合わせ場所に向かう。

 ところが不意に、凄まじい殺気と怒号がヤンフィの背中に浴びせ掛けられた。


「おい――餓鬼! ちょい待てや!! テメェ、オレのヤンフィ様に何しやがった!!? 何を拉致ってやがるっ!!」


 ドスの利いた低い声。いかにも面倒そうな空気が漂い始めて、周囲の人垣は一割増しでヤンフィから遠ざかった。

 ヤンフィはその声を聞いてふと立ち止まり、はぁ、と心底疲れたため息を吐いてから、呼び止めた馬鹿に向き直る。


「……やはり、ソーンか」

「ぁん? なんで、オレの名前を知ってやがるんだ? まさか、テメェ……【世界蛇】の刺客か!?」


 案の定、振り向いた先にいたのは、見覚えのある変態巨漢だった。

 図太い首に黒いチョーカー、筋骨隆々の肉体を惜しげもなく晒して、唯一身に着けているのはブーメランパンツ一丁。両目には鉤爪の傷跡があり、厳つい顔立ちのドレッドヘア。

 見間違えようもない。ヤンフィが合流しようと思っていたソーン・ヒュードである。


「妾のどこが、世界蛇か……」


 ヤンフィは煩わしそうに首を振った。

 ソーンはそんなヤンフィの態度に、苛立ちのレベルをいきなり最高潮に高めて、もはや親の仇を睨むような視線でメンチを切ってくる。


「――うっ!?」


 遠巻きに眺めていた野次馬たちが、ソーンのその強烈な威圧に中てられて、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

 喧しかった売り子の声もいったん止み、周囲には不穏でキナ臭い戦闘の空気が漂い始めた。


「はぁ……説明が、面倒じゃのぅ……」

「――おいおいおい、餓鬼!! ヤンフィ様を拉致って、無事に済むと思うなよ!? オレはもう絶好調にキテるぜ! だが、今ならまだ、命乞いしてヤンフィ様を置いて逃げるなら、後は追わない。どうすんだ!?」


 もはや何をしても問答無用とばかりの空気を出しながら、ソーンはヤンフィの呆れ声を遮った。

 大通りに響き渡るソーンの怒号。夕焼けが、まるで血の赤に見えるほどの重苦しい空気が吹き始めた。

 煌夜を背負ったヤンフィと、対峙するソーンの間で、凄まじい火花が散る――とはいえ、それはソーンが一方的に敵視しているだけなのだが、言っても詮無きことだろう。


(……ああ、そう云えば、此奴は妾の姿を知らなかったのぅ……)


 ヤンフィは内心で疲れた風に呟いた。

 ソーンがヤンフィに敵意剥き出しの理由は単純だ。ヤンフィの本来の姿を知らないからである。

 ソーンとは一時的に手を組んだだけで、最初からそもそも長く馴れ合うつもりがない。だからこそヤンフィは、自己紹介は当然として、煌夜の事情も一切説明していなかった。それゆえにソーンは、ぐったりとする煌夜をヤンフィと勘違いしており、煌夜を背負っているヤンフィを敵だと思い込んでいる。


(じゃが今更、勘違いを諭したところで、意味はない。どうせ此奴は使い捨てじゃしのぅ……)


 ヤンフィは、憤慨した様子で怒りのボルテージを上げ続けているソーンに残念な視線を向ける。

 セレナやタニアのように美女で、しかも使える従者ならば話は別だが、ソーンのように、いまいち信用できない変態野郎と旅をする趣味など、元よりヤンフィにはない。

 むろん、煌夜も旅を共にするならば、むさい男より女が良いはず――と、ヤンフィは確信を持っていた。


 さて、それはそれとして、ひとまず現状をどうするか。


「……のぅ、ソーンよ。妾の話を聞くつもりは、あるか?」


 ヤンフィは無抵抗をアピールするように手を挙げて、どうだろうか、と首を傾げる。それは、ヤンフィなりの最大の譲歩であり、最後通告だった。

 しかしそんな意図を汲み取れるはずもなく、ソーンはこめかみの血管をピクピクと反応させて、プルプルと全身の筋肉を震わせた。

 ソーンからすれば、ヤンフィはたかだか七歳前後の少女にしか見えない。

 得体の知れない気配、魔力が垣間見えてはいるが、明らかに目下の子供、しかも少女である。容赦する要素はどこにもなかった。


「おう、分かったぜ――餓鬼よ。オレは手加減できねぇぜ!!!」


 ドン、と爆発したような振動、衝撃が、辺り一帯の露天商を吹き飛ばす。それはソーンの闘気だった。

 魔力を放出したわけではなく、気合とも呼べる闘気の爆発。ただそれだけで、周辺を吹き飛ばすほどの化物じみた技だった。

 なるほど、ソーンは本気のようだった。


「いきなりの、必、殺っ――(スーパー)銀河(ギャラクティカ)砲拳(ボム)!!!」


 ソーンは間延びした絶叫と共に、大きく右拳を引き絞った。その様を余裕の態度で眺めながら、ヤンフィはとりあえず、背負った煌夜を巻き込まれないよう少し離れたところに下ろす。

 ソーンのその技に、ヤンフィは見覚えがあった。浮遊神殿崩壊時に放った遠距離攻撃である。


「必殺、のぅ……」


 思い返せば、確かに凄まじい威力だった。

 だがあれは直線的な攻撃で、効果範囲が広く、応用が利かない。しかもこの立ち位置からでは、ヤンフィに向けて放つと必然、煌夜を巻き込むことになるだろう。

 これはただの脅しだ。この裏で、何か別の攻撃手段を用意しているはず――

 ヤンフィが冷静にそう思考した瞬間、ソーンは躊躇なく引き絞った右拳を突き出した。

 刹那、ヤンフィの動体視力を持ってしても瞬間移動にしか思えない高速移動で、ソーンがヤンフィのすぐ隣に立っていた。


「――っ、なに?」


 それは想定外の行動だった。

 ヤンフィは意識の死角を突かれた。零コンマ一秒以下の隙、ほんの刹那だけの油断、瞬きの一瞬だけ反応が遅れた。

 ヤンフィがハッとして振り向いたときには、もはや何もかも遅い。

 すぐ隣で高密度の魔力が爆発して、周囲を一瞬にして灰燼にする威力の拳圧が、ヤンフィの頭上から打ち下ろされていた。

 ヤンフィは避けることも出来ず、受身さえも取れずに、その一撃を喰らった。


 その破壊力は軽く聖級魔術を上回り、魔術耐性がそもそも低いヤンフィにとっては、致命打にも等しい威力を誇っていた。

 ソーンの宣言通り、それは必殺と言えるだろう。直撃を受けて、ヤンフィは一瞬で蒸発した。


 落雷を思わせる凄まじい閃光、爆撃の如き強烈な爆発音が鳴り響いた。

 轟いた爆音は衝撃波となり、大通りのあらゆる物体、逃げ遅れた通行人を吹き飛ばす。

 巻き込まれた建物は瞬く間に瓦礫と化して、ヤンフィの立っていた爆心地には、半径50メートルほどのクレーターが穿たれた。

 それはまさに大惨事だ。

 一瞬にして周辺が阿鼻叫喚の地獄絵図となる。


「……大丈夫か、ヤンフィ様?」


 そんな凄惨な状況を横目に、ソーンはいつの間にか、爆心地より100メートルほども離れた建物の上に移動していた。しかも、ヤンフィの傍にあった煌夜の身体も一緒に退避させている。

 一見して大暴走しているかと思いきや、ことのほか冷静な闘い方が出来ているようだ。

 なるほど、伊達に自らを強者とほざくだけはある。流石、の一言だろう。


 ソーンは土煙と悲鳴で大混乱している爆心地を見下ろして、煌夜の身体をホクホク顔でお姫様抱っこしていた。

 その立ち姿からは、どことなく勝者の余裕が感じられる。それほどまでに、ソーンはこの必殺技に絶対の自信があるようだった。


「ヤンフィ様、ヤンフィ様……寝てるんですか?」


 ソーンはいったん爆心地から視線を切って、抱えた煌夜の顔を覗き込む。

 煌夜の様子を心配する振りをしながら、隙あらばキスしようとばかりに、その寝顔を窺っている。まったくふざけた変態である。

 とはいえ、まだ完全に気を緩めることはなく、すぐさま爆心地に視線を戻していた。


「……しかし、あの餓鬼。何者だったんだ? 気色悪い魔力を纏ってやがったなぁ」


 ソーンはヤンフィの姿を思い返しながら、爆心地を見下ろして首を傾げた。

 手応えはあった。これで終わったとは思うのだが、どうしてだろうか、確信が持てなかった。


「――気色悪い、とは失礼じゃのぅ。じゃが、その暴言、許そう。妾は汝を侮っておったらしい」


 そのとき不意に、涼しげな声がソーンの真横から聞こえた。気配は一切ない。

 だがその声は明らかにヤンフィの声である。


「ッ――!! 超・神・撃!!」


 瞬間、ソーンは直感的に音のしたほうへ掌底を繰り出した。

 その掌底は目標を捉えずに、ボン、と圧縮空気が爆発したような衝撃をもたらして、ソーンが立つ建物の屋上ごと、その一帯を弾け飛ばした。

 またその攻撃と同時に、凄まじい機動力でもって、ソーンはすかさず別の建物に飛び移っていた。

 煌夜を抱き抱えたまま、その巨体からは想像できないほど素早い動きである。


「チッ、何なんだいったい……けど、今度も手応えあったぜ……無傷じゃ、済まねぇはず――」

「――ふむ、確かに。無傷では済まなかったわ」


 ソーンは飛び移った先でバッと振り返り、驚愕に声を震わせる。するとその台詞に被せるように、ヤンフィが涼しげな声で応じた。

 その声はやはり、ソーンの真横から聞こえてきた。ソーンは慌てて周囲を一瞥した。


「ぐっ!! 餓鬼ッ、どこ――」

「――妾は話し合いたいのじゃ、少しだけ落ち着かぬか」


 その瞬間、無防備なソーンの鳩尾に、ドゥ、とヤンフィの拳が突き刺さった。

 鋼の如き筋肉の鎧と、驚異的なまでの魔力耐性を誇るソーンは、けれどその重すぎる一撃を喰らって、無様にその場に崩れ落ちる。

 その際、咄嗟に抱えた煌夜を庇って、優しく放り投げたのは見事な反応だったが、ヤンフィはそれを褒めたりはしない。


「まったく……むやみやたらに目立つなと云うに――気性の荒い馬鹿じゃのぅ」


 ヤンフィは、いつの間にそこに居たのか、涙目になって悶えているソーンを見下ろしていた。

 ソーンは呼吸困難で、腹を抱えて声が出ない様子だった。


「さて、ソーンよ。妾の実力は、これで理解できたかのぅ?」


 ヤンフィは着物についた埃をパタパタと払いながら、ソーンの鳩尾に突き刺した自身の右拳をプラプラと振る。

 たった一撃で、手首が折れてしまった。痛みはないし、すぐに治せるが、想像以上にソーンは防御力が高いようだ。


「――この実力差を目の当たりにしても、まだ妾と闘う気があるのか?」


 ヤンフィは絶対的強者の威圧でもって、苦痛に顔を歪ませるソーンを睨みつける。

 ここまで見せ付けて、それでもまだ逆らうようならば、そのときは、多少のリスクを負ってでも、完全に息の根を止めてやる。

 そう考えながら、ヤンフィは内心で焦りを感じていた。


(……よもや【尸解(しかい)】が発動するとはのぅ……もしこれでソーンと本気で戦うことになれば、魔力が乏しい今の妾では、苦戦じゃ……何とか、ここで折れて欲しいのぅ……)


 強気の態度と挑発的な台詞とは裏腹に、実はヤンフィには余裕などなかった。本音では、ソーンがこのまま引いてくれることを祈っていた。

 いままでソーンをどこか格下と侮っていたが、それは過小評価だったらしい。認識を改める必要がある。

 ヤンフィはソーンと実際に戦って、その想像以上の実力に本気で驚いていたのだ。

 確かに、これだけの実力があれば、大口を叩くだけのことはある。タニアに勝るとも劣らない実力というのも納得できた。


「……テ、メェ、不死身、かよ……!?」


 何とか呼吸を整えたソーンが、震える声で問い掛けてきた。

 ヤンフィは苦笑しながら、無言のまま意味深に首を傾げる。


(不死身、のぅ……まぁ、そう思えても仕方あるまいのぅ……実際は既に、一度即死しておるのじゃが)


 ヤンフィは心の中でそんなことを呟きながら、ソーンの動きを注意深く観察する。

 ソーン如きに、ここまで追い詰められるとは思っていなかった。


「……ぐぅ、っ……ヤンフィ様の、安全を……保証してくれ……」


 ソーンは煌夜の姿をチラと流し見てから、息も絶え絶えでヤンフィに懇願する。

 しかしその懇願は、ヤンフィにとってはまったくの無意味だ。ヤンフィはそもそも、煌夜に危害を加えるつもりなどない。

 とはいえ、そんな事実を素直にソーンに答えてやる必要はない。


「――汝がこれ以上抵抗しないと誓うのならば、考えてやらんこともないぞ?」


 ヤンフィはもったいぶった言い回しで、必死の形相のソーンに告げた。

 ソーンはそんなヤンフィに怯えた表情を向けてから、グッと唾を飲み込んで、渋々とだが力強く頷いた。


「わか、った……もう、戦わない、と誓うぜ……」


 ソーンの返事に、ヤンフィは、うむ、と満足げに頷いた。これでようやく、無駄で無益な戦闘が終わったようだ。


「理解してくれて助かるぞ。これ以上、無駄な魔力を消費したくないからのぅ」


 ヤンフィは言いながら、重く鋭い威圧を解いた。同時に、戦意も覇気も霧散させて、張り詰めていた戦闘の空気が一気に緩んだ。


「……くっ……テメェ、いったい……何者、なんだ?」


 すると、もう完全に抵抗する気を失くしたソーンが、怪訝な表情でヤンフィに問い掛ける。その双眸はひどく反抗的で、状況にまったく納得していない様子が窺えた。

 ソーンの疑問はもっともだろう。だが、ヤンフィはその問いに答えるつもりなどない。

 ヤンフィは問いを無視して、ソーンに冷たい視線を向ける。 


「――それでは、ひとまずは宿屋に往こうかのぅ」


 言いながら、その視線を寝転がる煌夜に向けた。ヤンフィの視線が煌夜に移ったのを見て、ソーンはギリギリと悔しそうに歯噛みする。

 ヤンフィは暗に、煌夜を運べ、という意図で視線を向けたのだが、ソーンはそれを脅しだと認識したようだった。不愉快そうに表情を歪めて、さりげなく煌夜を庇うように体勢を変えた。


「ふっ……ほれ、ソーンよ。疾く妾を先導せよ」


 そんなソーンに苦笑してから、ヤンフィはくっと顎をしゃくって、宿屋までの道案内を催促した。



2019/05/12 一部名称変更。

奴隷の檻⇒奴隷の箱


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