第五十六話 ヤンフィと聖女
ヤンフィが次元刀エウクレイデスを一振りすると、黒く塗り潰された世界に光が射す。そうして転移魔法陣が発動したときと同じ感覚で、緩やかに世界が変わっていった。
煌夜は流されるまま、呆と目の前の景色が変わるのを眺めた。
――ゥウォオオ!!
転移はものの数秒で成功する。すると、真っ先に耳を劈く獣の咆哮が聞こえてくる。
煌夜は思わず眉を顰めて、耳を押さえた。
肌に当たる空気が変わったのを感じる。どこからともなく漂ってくる臭いが、先ほどとは比べ物にならないほど不快だ。
戦闘素人の煌夜でさえ分かるほど、ここには強い死臭が漂っていた。
「ほぅ? キングゴブリン、か……ふむ、なるほどのぅ。これは、手間が省けたわ」
状況を把握していない煌夜が戸惑っていると、不意に頭上から、ヤンフィの満足げな声が降り注いできた。煌夜は声がしたほうに顔を向ける。
果たしてそこには、ヤンフィが涼しげな顔で浮いていた。その手には、いつの間に煌夜から奪ったのか、次元刀エウクレイデスの鞘を持っている。
ヤンフィは煌夜と目が合うと、フッと笑い、ゆっくりとした動作で次元刀エウクレイデスを鞘に収めていた。
そんなヤンフィの挙動を見てから、煌夜はハッとした様子で視線を隣に落とす。
誰かの気配がすぐ傍にあった。煌夜はてっきり、それがヤンフィだと思っていたのだが、どうやら違うようだ。
「ぁ、ぅ――っ」
煌夜はすぐ傍らにいる誰かを見やる。見ればそれは、ヤンフィが探していた聖女だった。
聖女は冷たい床にペタリと座りこんでおり、顔面蒼白のまま息を呑んで一点を見詰めている。何かに酷く脅えている様子で、傍らの煌夜になどまるで気付いていない様子だった。
物理的な距離は、煌夜が少し手を伸ばせば届く距離だが、とても触れられる空気ではない。
どうしたのか、と煌夜は首を傾げつつも、ヤンフィに顔を向ける――前に、真正面から聞こえてくる唸り声に気付いた。
煌夜はなにげない動作で、正面に顔を向けた。
「…………なんだよ、この巨大な化物」
そこに立っていたのは、見上げるほどの巨体をした二足歩行の化物だ。
顔付きはネアンデルタール人に似ているが、額には牛のような角が三本生えており、 口元には吸血鬼を彷彿とさせる鋭い犬歯が生えている。ボディビルダーのように筋肉質――というよりも、もはや筋肉達磨の化物だ。黒光りする筋肉が、はち切れんばかりに膨らんでいる。
煌夜はその化物と対峙して、強く自分の死を意識した。
圧倒的なまでの存在感と、強烈なまでの威圧。また同時に、その化物の気配が、ひどく嫌な思い出を想起させた。
(…………ああ、この感覚は覚えてる……)
煌夜の脳裏には、この異世界に来てすぐの光景――【グレンデル】という魔族と遭遇したときの光景が、恐怖と共に思い出されていた。
グチャグチャにされたときの激痛。
ここで死ぬのかという絶望。
抗いようもない本能的な恐怖。
「……まさかコイツ、グレンデルの親戚か?」
姿自体は、それほど似ていない。あえて似ている部分を挙げるとすれば、筋肉質ということと、そのサイズ感くらいだろう。
しかし煌夜は、その恐怖感から思わずそんなことを呟いていた。
煌夜のその呟きに、傍らの聖女が、ビクン、と一瞬だけ身体を震わせる。きっと聖女も、煌夜と同じか、それ以上の恐怖を味わっているのだろう。
よくよく見れば、その化物の周りには、聖女と一緒だった冒険者たちの成れの果てが転がっている。
その冒険者たちは、見るに耐えない無残な状態だった。もはやそれは『死体』というより、『肉片』という表現が正しいだろう。あの姿に、人権なんぞあったものではない。
あまりにも哀れだ――と、煌夜が同情をしたとき、聖女が恐る恐ると煌夜に視線を向けた。
聖女は、涙でグシャグシャになった顔に恐怖を浮かべ、両親に捨てられた子供みたいな目をしていた。
ベリーショートの緑髪、ソバカスの浮いた地味目な童顔、だがスタイルは割とグラマーである。いかにも優しそうで、周りを安心させる空気を纏っている。
なるほど、聖女、と言われるだけある。その第一印象は、聖母マリアをイメージさせる慈愛に満ちたものだった。
そんな優しそうな印象の聖女が、恐怖に濁った双眸を煌夜に向けていた。
「コウヤよ。その聖女を逃がすなよ?」
ふとヤンフィがそんな指示を出してきた。
煌夜は、え、とヤンフィを見上げてから、慌てて聖女に視線を戻す。
――とてもじゃないが、聖女の頭に、逃げる、という選択肢が浮かんでいるようには思えない。
だが、とはいえ、こんな化物と対峙していては、気が気ではないだろう。
「ああ……」
煌夜は聖女の華奢な腕を掴んで、化物から隠すように背中に庇う。聖女は全く無抵抗に、煌夜のなすがまま引っ張られた。
「グゥォオオオオ――」
煌夜が聖女を庇ったのを見て、化物は音響攻撃の如き雄叫びを上げた。同時に、その豪腕を思い切り振りかぶり、煌夜に目掛けて拳を突き出そうとする。
(ああ、これ、右ストレートが来るな)
煌夜は化物のその挙動から、冷静に何をされるか予測する。けれど、何をされるか分かっていても、反応できるかどうかは別問題だろう。
煌夜の反射神経では、化物の攻撃速度に反応などできない。
「――妾を無視出来るとは、危機感がないのぅ」
しかし、繰り出されたそれが直撃するよりも速く、ヤンフィが動く。
やれやれ、とでも聞こえてきそうな軽い調子で、ヤンフィは煌夜の前に駆け付けていた。いや、駆け付けたというより、それはもはや瞬間移動の如くだった。
気付けば、ヤンフィは煌夜のすぐ隣に立っており、しかもちゃっかりその手には、煌夜が握っていた紅蓮の灼刃を持っていた。
そして――斬、と。
煌夜の前髪を揺らして、ヤンフィの振るった紅蓮の灼刃が、化物の腕を斬り飛ばしていた。
「――ガァッ!?」
「油断は禁物じゃ。妾を、そこらの雑魚と一緒くたにするでないぞ?」
ヤンフィは愉しげに笑いながら、振り切った勢いそのままクルリと回ったかと思うと、ピョン、と軽く跳躍して、見事な後ろ回し蹴りを化物に喰らわせる。
瞬間、ドゴン――と、爆発したかの如き轟音が鳴り、化物は凄まじい勢いで吹っ飛んでいった。それはヤンフィの矮躯から繰り出されたとは到底思えないほどの威力だ。
煌夜は唖然として、驚きすら口に出来なかった。
「……ぅ、え、ええ!? ずび……あ、貴方、たち……な、何、者……です!?」
化物が軽々と吹っ飛んだ光景を見て、鼻水を啜りながらグシャグシャの涙声で、聖女が口を開く。その顔には困惑と混乱、驚愕が浮かんでおり、けれどもほんの少しだけ、助かるかも知れないという期待も浮かんでいた。
ヤンフィはそんな聖女をチラと見て、凄く残念そうな表情を浮かべる。そして無言のまま、吹っ飛んだ化物の方に身体を向けた。
「コウヤよ。いましばらく、そこで聖女と一緒に静観しておれ。彼奴は、妾にとっては雑魚と云えど【キングゴブリン】じゃ。物理攻撃だけで仕留めるのは、いささか骨が折れる」
「……あの化物、キングゴブリン、って言うのか? あれで、ゴブリン? あ、いや、それより……あれで倒したんじゃないのか?」
煌夜は、斬り落とされているキングゴブリンの豪腕を見てから、吹っ飛んだ先にも視線を向けた。思い切り壁に激突したらしく、もうもうと瓦礫の埃が立ち上っている。
こともなげに蹴散らしたので、これでもう終わったものと思っていた。
だが、そんな煌夜の思い違いを、ヤンフィは苦笑しながら、まだじゃ、と首を横に振った。
「グァアアゥォオオオオ――!!!!」
ちょうどそのとき、ヤンフィの否定を裏付けるように、激高した様子の絶叫が響き渡った。
――それを耳にした瞬間、煌夜は全身が怖気で震えだして、意思とは別に涙が溢れ出した。膝がガクガクと笑い出して、抗えずにその場に座り込んでしまう。失禁しなかったのは幸運だった。
(……な、なんだ、これ……あ、まさか……恐慌効果、か?)
煌夜は混乱する思考で、しかし状況を冷静に捉える。
キングゴブリンが放った咆哮は、聴いた者を恐慌状態にする効果でもあるらしい。
煌夜だけがこうなったわけではなく、背中に庇う聖女も同じく、その身体を両手で抱えるように丸まり、カタカタと全身を震わせていた。
ちなみに、チョロチョロ、という音と臭いで、聖女が失禁していることに気付いてしまい、煌夜は若干居た堪れない心境だった。
「さて、これが正念場じゃのぅ――」
ところで、煌夜と聖女を庇うように正面に立ったヤンフィは、どことなく緊張した声音で呟いた。
視線を向けると、ヤンフィは紅蓮の灼刃を横に寝かせた状態で構えて、それを顔の高さに掲げている。グッと腰を落として、重心を後ろにした防御姿勢をとっていた。
そんなヤンフィの背中に首を傾げた瞬間、キングゴブリンが突如、凄まじい閃光を放った。薄暗い空間を、眩い光が照らし出す。
煌夜は少しだけ目をしかめて、その光源に視線を向ける。
そこに現れたのは――光り輝く竜だった。
ォオオン、と。
光の竜が咆哮を上げた。それは恐慌を来たすほどではないが、絶対強者の威圧感があった。
そんな光の竜に応じるように、キングゴブリンも咆哮する。
煌夜はそんな絶望的な光景を呆然と見詰めた。身体は意思とは関係なく震えている。
「――あ、え? 腕が、治って、る?」
しかも気付けば、仁王立ちしているキングゴブリンの腕が、なぜか元通りになっていた。ヤンフィに斬り落とされたはずなのに、それは斬られる前よりも太く筋肉質に見えた。
くっついたわけではない。切断された右腕は、煌夜のすぐ傍に転がっている。
「ガァアアゥ――ッ!!!」
さて、煌夜が驚きの言葉を吐いたと同時に、まるでそれを合図にしたかの如く、キングゴブリンは突進を開始した。
ダン、ダン、と床に足型を刻みつけながら、疾風のような速度でヤンフィに迫る。
そんなキングゴブリンに先行して、光の竜は空中を泳ぐようにヤンフィに迫る。
キングゴブリンと、ヤンフィまでの距離は、目算で30メートルはある。さすがに一瞬で詰められる距離ではない。
だが、二秒と掛からずヤンフィに肉薄する。
キングゴブリンの巨体は、軽く3メートルを超えている。だというのに、そんな馬鹿みたいな速度である。まるで新幹線を正面から迎え撃っている気分になり、煌夜は思わずギュッと瞼を閉じていた。
轢かれて、弾かれて、粉々の肉片になるイメージが、煌夜の脳裏に浮かんでしまった。
煌夜は、少しでも被害を抑えようと、背中で震えている聖女に覆いかぶさる。せめて聖女だけでも助けたい、と身を挺したのだ。
果たして、そんな煌夜の恐怖は杞憂に終わる。
その瞬間を見逃した煌夜には、いかなる剣舞だったか想像も出来ないが、結果として、光の竜は綺麗さっぱり霧散しており、キングゴブリンに至っては、1センチ大の細切れ肉と化していた。
「あらゆる総てを鏖殺せん、幾千幾万の刃――無尽之太刀」
ヤンフィのそんな決め台詞が聞こえると、遅れて、ピチャピチャ、と雨が降るような音が聞こえた。そして、その場には沈黙が下りた。
覚悟していた衝撃が何一つなく、煌夜は恐る恐ると瞼を開ける。するとちょうど、身体の下でガクガクと震えていた聖女と目が合い、慌てて身体を起こした。
「妾としたことが、恥ずかしながら緊張したわ。てっきり彼奴、上級の【光閃砲】を使うと思うていたわ。それがまさか、聖級の【光竜】とはのぅ……まぁ、おかげで被害は出なかったわけだが」
ヤンフィはカラカラと笑いながら、ヒュン、と鋭い風切り音を鳴らして、紅蓮の灼刃を血振りする。赤黒い剣身には、紫がかった粘着質な血がべっとりと付着していた。
煌夜はその凄惨な光景を見て、先ほどまでの恐怖が雲散霧消するのを感じた。ただしその代わりに、今度は凄まじい吐き気を催す。
薄暗くなった大部屋には、床一面にべっとりと紫色の血が広がっており、あちこちに点々とサイコロ状になった肉片が転がっていた。またその血の海には、キングゴブリンに殺された冒険者たちの肉片と装備も落ちている。
そんな凄惨な光景も酷いが、何よりも、さまざまな異臭が混じり合った不快感が凄まじい。
「……ぁぁ、ぁ――う、げぇっ……」
――と、煌夜が不快感に眉を顰めていると、同じ光景を目の当たりにした聖女が、すぐ傍で気持ち良いくらい豪快に嘔吐した。
煌夜はその刺激臭のおかげで、いっそう吐き気が増したうえに頭まで痛くなる。
「なぁ、ヤンフィ……これで、終わりか?」
「うむ、さすがにここまで切り刻めば、いかに【キングゴブリン】とて、復活するのに小一時間は掛かるじゃろぅし、その前に魔力切れで死ぬじゃろぅ。恐れる必要はない」
煌夜は吐き気を堪えながらも、気を紛らわせる為にヤンフィに問う。その問いに、ヤンフィは爽やかな笑顔で頷いた。
しかしヤンフィのその答えに、煌夜は怪訝な表情で眉根を寄せる。
「…………ちょっと、待ってくれ。ここまで細切れになっても、復活するのか?」
「うむ。魔力があれば、むろん復活できるぞ? それがキングゴブリンの特性じゃからのぅ」
説明しながら、ヤンフィは足元の肉片をひとつ、紅蓮の灼刃で突き刺す。そして適当な肉片をもうひとつ突き刺して、ほれ、と煌夜に見せてきた。
すると信じられないことに、串刺しにされた肉片二つは、元からそうであったかのように、自然と接合してひとつの肉片に変わっていた。
「キングゴブリンは、限りなく亜種に近い魔族でのぅ。故に、肉の器がどれほど傷付こうとも、部位によらず再生できるのじゃ。此奴を仕留めるには、魔力核の破壊か、魔力欠乏で再生不能にしなければならぬ。さもなければ、幾度でも再生する。ほれ、妾がコウヤの身体を直すときと同じ要領じゃよ」
ヤンフィはこともなげに言って、自分の吐瀉物で汚れて、涙と鼻水でグシャグシャ、失禁までしている聖女に顔を向ける。そして、まさに汚物を見る視線で、残念そうにため息を漏らした。
「――ああ、コウヤ。ちなみにのぅ。このキングゴブリンじゃが、注意すべき特性が二つある。ひとつは、竜族に等しい物理耐性を持っておることじゃ。故に、魔力付与した攻撃か、純粋な魔術でない限り、此奴の皮膚を貫くことは難しい。まぁ、妾のように圧倒的な破壊力と剣技があれば、決して不可能ではないがのぅ」
聖女に話しかけるのかと思いきや、ヤンフィは視線を煌夜に移して、先ほどの話の続きを語り出す。
煌夜はとりあえず、残念極まりない聖女から距離を取りつつ、ああ、とひとつ頷いた。
「さて、もうひとつは、キングゴブリンの体液は、オーガゴブリンの血液よりもずっと強烈な催淫効果があるということじゃ。魔術耐性が低い者ならば、この血臭を嗅いだだけで性欲の権化になるじゃろぅ」
ヤンフィはそんなことをのたまい、ニヤリと口角を吊り上げる。
それを聞いた瞬間、煌夜は慌てて口元を押さえつつ、キングゴブリンの死体から距離を取った。
聖女は大丈夫か、と視線を向けるが、聖女はその様をキョトンと見詰めていた。
「……相変わらず、からかい甲斐があるのぅ。安心せよ、コウヤ。いまの汝の魔術耐性ならば、直接、血を呑まぬ限りは、影響は出ぬ。それは、其処の聖女も同じじゃ」
煌夜の慌てた様子を楽しそうに笑い、ヤンフィは、ふぅ、と疲れた風に吐息を漏らしていた。
「のぅ、娘よ。汝に幾つか問うぞ。正直に応えねば、死にたくなるほどの絶望を見ることになる」
ヤンフィは煌夜に話すときとはまったく異なる雰囲気で、汚物塗れの聖女に紅蓮の灼刃を突きつける。
ヒッ、と聖女は小さく悲鳴を上げて、ガチガチ、と歯を鳴らしていた。
幼女に凄まれて、本気で震えている二十歳前後の女性の構図――シュールな光景である。
「汝が、今代の【聖女スゥ・レーラ・ファー】か?」
ヒュン、と紅蓮の灼刃の一振りが、震える聖女の首筋を薄く切りつける。
ツー、と一筋の血が流れた。
「…………あ、あぅ。そ、う、です……エイル、が……第七十六代目、聖女スゥ、ですぅ……」
(――エイル?)
聖女の消え入りそうなその返事に、煌夜はふと疑問符を浮かべた。けれどそんな煌夜の疑問は、心苦しくなるくらいに脅えた様子の聖女を見たら、正直どうでも良くなる。
ヒュン――と、ヤンフィは、無様に涙を流す聖女スゥの首筋をもう一度切りつけて、真剣な表情で問いを続けた。
「【聖女】は、人族からしか選ばれぬはずじゃ――汝のような妖精族が、何故、選ばれた?」
その問いに、聖女はバッと顔を上げたかと思うと、ブンブン、としきりに首を左右に振るう。
「ち、違います……エイル……人族、です……こ、この髪は……聖女に、なった際に……ぅぅ……エイルの、黒髪が……こんな、緑色に……」
エイル、エイルと自らのことを連呼する様に、煌夜はなんとなくそれが聖女の本名だと理解する。
そういえばヤンフィは、【聖女スゥ】を称号だと言っていた――となると聖女は、エイル、という名前なのだろう。煌夜は、なるほど、と頷いた。
「……エイル、妖精族なんか、じゃ……ない、です……」
さて、そんな聖女――エイルは、弱々しい口調でヤンフィの問いを強く否定する。
ヤンフィはそれを聞くと、ふむふむ、と若干おざなりに頷いていた。ヤンフィにとっては俄かに信じられない現象だったが、エイルに嘘をついている様子はなかった。
「ふむ……まぁ、良い。それでは、次の問いじゃが――汝は、聖級の治癒魔術を行使できるのか?」
「……あ、ぁ、ぅぅ……聖級、なら……いちおう……全異常治癒と、過剰再生……扱え、ます……」
「ほぅ――――なるほど、のぅ」
ビクビクと脅えながらも答えたエイルに、ヤンフィは感心した風に頷きながらも、なにやら神妙な顔を浮かべた。
煌夜はエイルの言う【全異常治癒】と【過剰再生】とやらが、いかなる魔術か分からないので、まったく話に付いていけない状況だった。
「ちなみに、冠級は扱えるか?」
ヤンフィのその問いは、傍から聞いても分かるほど、期待の篭った声音だった。しかし、エイルはビクンと大きく震えると、遠慮がちに首を左右に振る。
「む、無理、で……ぅ……冠魔術、なんて……失われた、治癒魔術、です……エイル、知らない……」
「チッ――まぁ、良い」
エイルの台詞に、ヤンフィは明らかに落胆した表情をしてから、ポリポリと髪を掻いた。
そして、ブンブン、と紅蓮の灼刃を素振りすると、流れる動作でそれを床に突き立てた。
ヤンフィは煌夜に向き直って、真剣な顔で口を開く。
「コウヤよ。とりあえず、いまこの場で、応急治療を行おうと思うが……どうか?」
「……突然、何だよ……応急治療、って?」
「コウヤの欠損した部位を再生する治癒じゃ。とはいえ、臓器以外――ひとまず、左腕を治そうと思うが、どうか?」
ヤンフィの唐突な問いに、煌夜は首を傾げて問い返す。だが、煌夜の問いは絶妙にはぐらかされて、再び同じような問いが繰り返された。
このヤンフィの問い掛け方は、何かを隠している、もしくは誤魔化しているときの言い回しである。
煌夜は胡散臭いモノに対する視線を向けて、ヤンフィに何が言いたいのか問い返した。
「治せるなら、治して欲しいけど……どうして、それを聞いてくるんだ?」
「事実として、左腕を治すだけでは、コウヤは完治せぬ。今回の治癒は、妾の魔力消費を軽減して、コウヤのなけなしの生命力を少しでも底上げする効果しかない。じゃから確認しておる」
「…………なぁ、ヤンフィ。俺の質問に、正しく答えてないんだが?」
「出来うることならば、この場で冠級を行使させて、コウヤの肉体だけでなく、失われた生命力をも元通りにさせたかったのじゃが――許してくれ」
ヤンフィのはぐらかしに、煌夜は、はぁ、とため息を漏らしてから、なんとなく状況を察する。
きっとおそらく、この応急治療は、激痛を伴うのだろう。だからあらかじめ、執拗に念押しをしているに違いない。だが――痛みを嫌って、治癒を諦めるつもりはない。
煌夜は、分かった分かった、と頷きながら、捨て鉢気味に答えた。
「ヤンフィ。いいよ、治癒してくれよ。どうせ選択肢はねぇし、それは俺が死なない為に、必要な治癒なんだろ? じゃあ、どれだけ苦しくてもいいさ」
ヘブンドームの崩壊に巻き込まれて死んだインデイン・アグディの人たちの苦痛に比べれば、そんなのはきっと些細なものだ、と心の中で呟いて、煌夜は肩を竦めた。
「――良いか? 心の準備も、出来ておるか?」
「ああ、いいよ。罰だと思って、我慢――ぐっ、ぁ!?」
ヤンフィにハッキリと頷いた途端、小さな右拳が煌夜の鳩尾に突き刺さっていた。
その一撃は、身長120センチ前後の幼女が放つような拳の重さではなかった。喰らったことはないが、ヘビー級ボクサーの渾身の一撃クラスだろう。
煌夜は痛みよりもまず、呼吸が出来なくなった。
横隔膜が痙攣して、喉から声が出なくなる。意識はハッキリしているのに、身体中が言うことを利かず、ガクガクと震えた。当然、脚にも力は入らず、そのまま崩れ落ちる。
「――――疾く治すと誓おう。じゃが、その間、悪夢に魘されるに違いない。じゃから、しばらく気絶しておるが良い」
崩れ落ちる煌夜の身体を、ヤンフィの矮躯が軽々と受け止める。
そして、そんな意味の分からない台詞を吐くと、トン、と首筋に鋭い痛みが走り、それきり煌夜の意識が遠のいていく。
ヒィ――と、エイルの脅えた声を最後に、煌夜は意識を完全にシャットダウンした。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ヤンフィは煌夜を物理的に眠らせてから、座り込んで震えている聖女に視線を向ける。
さて、これからが本番だ。非常に遺憾ながら、こんな雑魚じみた【聖女スゥ】の力に頼らねばならない。
「ヒィ――ッ、あ、ぁ……ぅ……」
威圧したつもりなどまったくなかったが、ヤンフィが目を細めた途端、聖女は大きくビクリと震えて、声にならない悲鳴を上げながら無様に後ずさる。
しかし、聖女の背後は壁だ。それ以上退くことは出来ない。
ヤンフィはそんな聖女を残念そうに眺めてから、ふぅ、とこれ見よがしにため息を吐いた。とりあえず、気絶している煌夜の身体を大部屋の隅まで運ぶ。
(それにしても、汚い場所じゃのぅ……)
ヤンフィは辺りを見渡して、ついついそんな感想を抱いた。
だが、それも仕方ないことだろう。キングゴブリンの戦闘跡は汚いのが常である。
キングゴブリンは生き物を玩具程度にしか思っていない。敵は、犯して壊すか、犯さずに壊すか、それくらいしか考えない。
その結果がこの惨劇だ。
見渡す限り、身体の一部がすり潰された死体ばかりで、血の海に肉片と埃、床のいたるところにはカビが生えている。腐臭を放つ排泄物があちこち散らばっており、吐き気を催すほどに不衛生だった。
そんな汚らしい床のうち、キングゴブリンの血に汚染されないよう、また聖女が粗相した汚水と吐瀉物を大きく避けて、比較的綺麗な床の上に煌夜を優しく寝かせた。
「――おい、聖女。汝、先ほど聖級が扱えると云うたが、それはどれほどの精度じゃ?」
ヤンフィは煌夜を寝かせてから、聖女に顔を向けた。
聖女はビクビクと怯えながら、どもった声で答える。
「……ぁ、ぅ……死、死んでさえ、いなければ……成功、すると思い、ます……」
「その死の定義は、なんじゃ?」
「う……元の細胞、が……死滅、してなければ……」
ふむ、とヤンフィは頷き、やはりか、と落胆のため息を漏らした。期待していた回答は、やはり得られなかった。
魔術は全てそうだが、術者の実力でその効果には大いに差が出る。
治癒魔術の場合、術者に実力さえあれば、効果対象が死んでいようとも、その生命力を増幅させることが可能である。
これは、治癒魔術を扱えない者が勘違いしがちなことだが、死者には生命力が宿らない――わけではない。
生命力と定義される力は、微量ではあるが、死体にさえ宿っている。
つまり、凄腕の治癒魔術師であれば、そんな微かな生命力でさえも増強させて、死者の身体をも再生できる。まあとはいえ、死者には魂がないので、再生できたところで屍にしかならないが――
さてところで、そんなことを踏まえると、やはりこの聖女の素の実力では、当初のヤンフィの見立て通り、煌夜の回復は望めないかも知れない。
「じゃが、致し方ない」
ヤンフィはため息を漏らしつつ、もう一度、紅蓮の灼刃の切っ先を聖女の首筋に突き付ける。
悲鳴も出せず息を呑んで、聖女はピンと背筋を伸ばした。
「非常に惜しいが、汝に妾の武器を貸してやろう――顕現せよ、【生命の杖】」
ヤンフィはそう告げて、紅蓮の灼刃を逆の手に持ち替えたかと思うと、それを煙のように掻き消した。そして次の瞬間、その手には木製の杖を握っていた。
まさに手品の如くである。場面が切り替わるように、一瞬で紅蓮の灼刃がパッと消えて、そこには生命の杖が現れたのだ。
【生命の杖】――50センチほどの細い木の杖で、その持ち手部分には、生きた銀の蛇が一匹巻き付いている。ヤンフィがもっぱら、魔力核の破壊で用いている武器である。
そんな杖を眼前に突き出されて、また銀の蛇がチョロチョロと舌を動かしている様を見て、聖女はビクッと身体を震わせた。そしてそれきり、まるで石化したかのように固まる。
その無様にいっそう疲れた風なため息を漏らしてから、ヤンフィは手元で杖を回転させて、柄の部分を聖女に向けた。
「……あ、ぅ……?」
「ほれ、受け取るがよい。しばしの間、貸してやるわ」
「……ぇえ、な、なんで……?」
「――サッサとせよ。妾はそれほど気が長くはないぞ」
固まったまま微動だにせず、パチパチと瞬きをする聖女に、ヤンフィは不愉快そうな声で凄んだ。
聖女は慌てた様子で、おっかなびっくりながらも杖を掴む。途端に、杖は眩い光を放ち、大部屋には清浄な一陣の風が流れた。
「……え、え、なに、これ!? ち、力が、溢れ――ぅええ!?」
生命の杖を持った瞬間、聖女は全身に魔力が漲る感覚を味わった。信じられないほど大量の魔力が、身体の内側から次々と溢れ出して来る。
聖女は心の底から驚きの声を上げた。あわあわと杖を振りながら、混乱した様子を見せている。
そんな光景を冷たい視線で眺めながら、ヤンフィはどこか悔しそうにしながら頷いた。
「やはり聖女でなければ、本来の性能は引き出せぬのか――気に食わぬ。不愉快じゃのぅ」
ヤンフィはその台詞通りに、いかにも不愉快そうな空気を全身から漂わせた。同時に、圧倒的な威圧と、聖女の魔力を覆い隠すほどの鬼気迫る魔力を放出してみせる。
ヤンフィたちのいる大部屋は一瞬のうちに、ヤンフィという魔王属の存在感と、濃厚な魔力に支配された。
重力が何倍にもなったかのように錯覚するほど強烈なその威圧と魔力を浴びて、聖女は顔面蒼白になり呼吸が出来なくなっていた。
そんなヤンフィの威圧に触発されたのか、生命の杖の光も徐々に弱くなり、聖女が全身から溢れさせていた魔力も収まった。
「……いちいち狼狽える様も、まっこと不愉快じゃ」
ヤンフィは苛立ちを隠さず舌打ちしてから、聖女の全身を頭からつま先まで舐めるように観察する。思わず目を背けたくなるほど、その姿は汚らしかった。
そんな聖女に対して、ヤンフィは、パチン、と指を鳴らした。すると、聖女の頭上に巨大な水の塊が発生して、ほどなくそれが叩き付けられる。
「――きゃっ!?」
降り注ぐ大量の水に、聖女はあっけなく押し潰された。
ヤンフィが放った不意打ちのそれは、威力を殺した水属性の下級魔術【水塊】である。
――とはいえ、さすがに聖女の魔術耐性からすれば、不意打ちだろうと傷ひとつ付かない。実際、水に押し潰されても、衣服がビショビショになっただけである。
「頭を冷やせ、愚か者――妾は、汝にやってもらいたいことがある。むろん拒否権はない」
ヤンフィはペタンと床に座り込んでいる聖女を見下しながら、いっそう強く威圧をぶつけた。水を滴らせた聖女は、濡れたことによる冷えと恐怖でブルブルと背筋を震わせる。
だが、ヤンフィの意図は理解している様子で、逆らうつもりなどないとばかりに、凄まじい勢いで首を縦に振っていた。
「ふむ――まぁ、それほど難しいことではない。其処で気絶しておるコウヤの身体を、癒して欲しいだけじゃ」
そう言いながら、ヤンフィは部屋の隅に寝かせた煌夜の身体を指差した。
しかし、その身体は一見すると五体満足で怪我のひとつも見受けられない。強いて言えば、気絶した状態を回復させるだけだろう。
聖女はヤンフィの真意を図りかねて、きょとんとしたまま、目を瞬かせていた。
そんな聖女に、ヤンフィは短く、来い、とだけ命令して、煌夜の身体に触れられる位置まで誘導する。
「触って確かめよ――生命の杖で治癒力が向上しておる今ならば、汝のようなボンクラでも、コウヤの状態が、どれほど危険か理解できるじゃろぅ?」
恐る恐ると煌夜に近付いてきた聖女に、ヤンフィは顎を使って、触れ、と指示する。
聖女はビショビショのままで、とりあえず言われた通りに、煌夜の胸板に指先を触れさせた。その瞬間、触れられるのを拒絶するかのように、バチッと緑色の放電が発生する。
咄嗟にビクッと指を引っ込める聖女だが、その瞳は見る見ると大きく見開かれて、そんな、と驚愕の表情で口元を押さえていた。
「……な、な、なんで……こ、これ……生きてる、んですか? エイル、信じられ、ません……」
「かろうじて生きておる――まだ、かろうじて、のぅ」
「生命力、が……尽きる、寸前、ですよ……? と、というか……そもそも、この方、人族、ですか?」
聖女は信じられないと煌夜の身体をジッと眺めてから、今一度、その身体に触れようと指先を伸ばす。けれどやはり、先ほど同様に触れる瞬間、緑色の放電が出て拒絶されていた。
「な、んで……魔力核が、二つ、も……?」
「詳しい説明をしておる余裕がない。じゃが、コウヤは間違いなく人族じゃ――兎に角、汝は何も考えずに過剰再生と全異常治癒を詠唱せよ。妾の魔力で取り繕ったハリボテ部分は、いますぐ元に戻そう」
困惑の表情でしどろもどろする聖女に、ヤンフィは語気強く催促して、寝ている煌夜の身体、その左腕に触れた。
聖女と違い、ヤンフィの手は緑色の放電に拒絶されることなく、当然のように触れられる。
「――――ヒッ!!?」
ヤンフィが煌夜の左腕に触れた瞬間、元からそうだったのだが、左腕の代わりをしていた【魔剣エルタニン】が本来の剣の姿に戻る。
必然、煌夜の左腕は肩口から抉られたような状態に戻る。
そして、それを合図にしたかのように、煌夜の身体は頭からつま先まで、徐々に皮膚がボロボロと崩れ始めて、血塗れのグチャグチャに変わる。
――正確には、変わったのではなく、それが現時点での煌夜本来の姿だ。生きているのが不思議なほど、五体が破損しきった状態。一見するとそれは、腐り掛けたゾンビという表現こそ相応しいだろう。
そんな状態の煌夜の身体を直視して、聖女はまたも吐き気を催していた。けれど今回は何とか口元を押さえて、吐くことを堪えた様子だが、顔色は真っ青である。
「疾く治すが良い――今ならば、拒否されることはない」
ヤンフィは聖女に凄まじい重圧の魔力をぶつける。その威圧にいっそう顔色を悪くさせて、しかし逆らうことなどせず、慌てて煌夜の身体、心臓の上辺りに右手を乗せた。
ヤンフィの言う通り、今度は何の拒絶もなく触れることが出来ていた。
先ほどの聖女を拒絶した緑色の放電――それは、聖女の魔力を拒絶するヤンフィの魔力である。
聖女とは、神に祝福された人族のことだ。そして神に祝福されるということは、その身体に神の加護を、その魔力に神の恩恵を宿すということである。
具体的には、聖女になる前と比べて、身体の魔術耐性・魔術強度が一段階上がり、魔力量は純粋に倍加、魔力の質は神のそれと等しくなり、さらに副次効果として、あらゆる魔族に対する特効を持つのだ。
それゆえに、ヤンフィの魔力を宿した煌夜の身体が、聖女の魔力と反発したのである。
ところで、聖女は煌夜の身体に手を乗せたまま、ゆっくりと深呼吸しながら集中を高めた。
それに呼応するように、左手に握っている生命の杖が、ふたたび眩い光を放ち出す。
「…………ん、ぅ――『神代の奇跡よ、我が祈りに応えて、顕現せよ。我が望むは、あまねく再生。活力漲り、彼の者を癒し給え――過剰再生』」
聖女の緩やかな詠唱が薄暗い空間に響き渡る。それは先ほどまでのどもりまくっていた口調とは一転して、落ち着いたよく通る声だった。
そんな詠唱と共に、パァ――と、煌夜の身体全体が淡い緑光に包まれる。同時に、生命の杖に巻き付いていた銀の蛇が、杖の部分から素早く移動して聖女の腕に絡み付いた。
銀の蛇が聖女の腕に移った瞬間、爆発的に魔力量が膨れ上がる。
「くっ、ぅ――!?」
「……生命の杖は、本来であれば【聖女スゥ・レーラ・ファー】専用じゃ。故に、汝にいま注がれておる膨大なその魔力は、聖女である汝のもの――素直に受け入れるが良い」
煌夜の身体を包み込む緑光と、杖から放たれる白光が大部屋を眩しく照らす。その光景を見ながら、ヤンフィはどこか不貞腐れたような口調で呟いていた。
ヤンフィの説明通り、実のところ【生命の杖】は、以前【聖女スゥ・レーラ・ファー】が使用していた【神の武器】のひとつである。
ゆえに、ヤンフィでは生命の杖の本当の能力を引き出すことが出来なかった――それでも十分以上に強力ではあったのだが。
生命の杖の効果は、基本的には二つある。
ひとつは治癒魔術の効果を大幅に増強させること――治癒魔術を扱える者が装備することにより、あらゆる治癒魔術の威力、効果を一段階上昇させる破格の補助効果を持つ。
もうひとつは、任意の対象だけを取り除き、抜き出す特殊効果だ。これはヤンフィがよく攻撃や防御の際に利用していた効果だが、本来の使用方法としては、あらゆる病魔、体内の異物、毒などを取り除き、治療を行う為に用いる効果である。
さてそんな基本的な二つの効果の他に、生命の杖の真骨頂と呼ばれる効果――聖女が使用することで発現する特殊効果がある。
それは、別位相に存在する神の領域から、無尽蔵に魔力を取り出せるようになること。これで聖女は実質、生命の杖を通して無限の魔力を操ることが可能となる。
また、聖女のみが扱える【四大秘術】と呼ばれる特殊な魔術が使用可能となること。それは無限の魔力のおかげで、魔力消費を気にせず使用可能である。
そんな生命の杖の恩恵を受けて、今の聖女は本来のパフォーマンス以上の能力を得ていた。
自らの才能を超越した能力を手に入れて、手に余るほどの魔力を宿して、それゆえに、まったくコントロールが出来なかった。
「――出力が、調整、利か、ない……っ!?」
聖女は苦しそうに顔を歪めた。煌夜の身体を包む光がよりいっそう輝きを増して、ぶわっと膨れ上がる。
ちなみに生命の杖は、いつの間にか光の粒子にその姿を変えて、聖女の左腕に溶けるように飲み込まれていた。その左腕には、四葉の白詰草を模した紋様が徴のように浮かび上がり、絡み付いていた銀の蛇はアームレットと化している。
「……ふむ。やはり、ここで完治させることは不可能か……」
一方、そんな聖女の姿を眺めているヤンフィは、静かに落胆のため息を漏らす。
さりげなく展開させている【桃源】で、これから起こり得る可能性の全てを垣間見た結果、その中に望む未来が存在していなかったからだ。
「挙句、【蘇生】も習得出来ぬのか……」
疲れた様子でそう呟きながら、ヤンフィは治癒魔術をコントロールできていない聖女と、眠っている煌夜を交互に見やる。
煌夜の身体を包んでいる魔力光は、上手くコントロール出来ておらず、とうとう暴走を始めたようで、周囲に緑色の放電を撒き散らしていた。
これでは、満足に治癒の効果を発揮できないし、術者には相当の負荷が掛かる。
――ところが、最大効果を発揮できていない割りに、それは期待以上の結果を見せていた。
煌夜の全身が瞬く間に癒されていく。
左腕は、付け根から肉が盛り上がったかと思うと、無から骨が生成されて、肉が付き、神経が通い、ゆっくりとだが確実に元通りに治っていく。腕以外の傷口も、凄まじい勢いで代謝が繰り返されており、血は固まり瘡蓋になり、やがて剥がれて傷ひとつない綺麗な肌に戻っていた。
これが聖級の治癒魔術【過剰再生】の効果――失われた部位を、細胞から再生する治癒魔術である。
もちろん、こうして再生された腕は、ヤンフィが魔力で作ったハリボテなどではなく、正真正銘間違いなく、生身の腕である。
「――ぅ、ぁ、っ!! くぅ、お、収まってぇ!!」
一方で、もはや抑えられないと、聖女が苦しげな絶叫を上げて、煌夜の身体から手を離した。刹那、膨れ上がっていた魔力が、大きな音を立てて弾ける。
煌夜の身体を包んでいた光は、煙が消えるように雲散霧消した。
「…………ぅ、ふぅ、はぁ……はっ、はぁ……」
「魔術の操作技術が未熟すぎるのぅ。出力に汝の身体も追い付いておらぬ……まったく無様じゃ」
「……はぁ、はぁ、ぁ、っ……はぁ……」
ヤンフィがこれ見よがしに舌打ちして、汚物を見るような視線で濡れ鼠状態の聖女を睨んだ。
そんな蔑んだ視線を向けられても、聖女は頓着している余裕がないようで、汚い床に両手を付いて、必死に肩で荒い息を吐いている。
「まぁ、かろうじて、コウヤの肉体をある程度は回復できた。よくやった、と誉めてやろう」
ヤンフィは煌夜の身体を眺めて、先ほどまでとは見違えるほど綺麗になったその姿に満足げに頷いた。
いまの状態は、パッと見て、五体満足である。しかし、この状態ではまだ完治ではない――否、正確に言えば、まだ治ってさえいない。
「ほれ、聖女よ。次は全異常治癒じゃ。疾く詠唱せぬか。妾の残留魔力で、せっかく元に戻ったコウヤの身体が汚染されてしまうじゃろぅが」
「……ぅ、ぅぅ、はぁ……はっ、はい……くっ……『神代の奇跡よ、あらゆる病魔を打ち消し給え。祈りは癒し。祝福されし神の息吹よ、魔を掻き消す光と成れ。全異常治癒』……っ!!」
ヤンフィの冷たい視線と強烈な威圧を含んだ命令に、聖女は逆らうことなく、青息吐息で頷いた。しかしそんな状態でもその詠唱は流暢で、疲れを微塵も感じさせない。
腐っても聖女ということだろう。
ところで、聖女が詠唱したのは、【全異常治癒】と呼ばれる聖級の治癒魔術である。効果は、あらゆる呪いや毒、病気をたちどころに癒すことが出来るものだ。
まさに奇跡に等しい治癒魔術である。
聖女は詠唱と共に、ふたたび煌夜の身体に手を触れた。
今度は両手で、煌夜の左腕を掴むように握り締めて、グッと痛みを堪えるような表情を浮かべる。
途端にバチバチバチと、煌夜の身体から緑色の放電が始まった。
「生命の杖の魔力を受け入れよ――魔力の流れをよく感じ取るのじゃ」
煌夜の身体が放電を始めたのを見て、ヤンフィは親切心からアドバイスを投げた。しかし聖女は、そんなアドバイスを聞く余裕もなく、先ほどより厳しい表情を浮かべている。
呼吸は乱れて、煌夜に触れている両手は小刻みに震えていた。
緑色の放電は、聖女の魔力が暴走している証である。
魔術を上手くコントロールできていない。このままでは、失敗してしまう可能性がある。
ふと見れば、アームレットと化していた銀の蛇が、白い光を放ち明滅していた。それは、生命の杖が供給している魔力を、受け手である聖女が正しく魔術に変換できていないことの警告である。
魔術式に流れ込むべき魔力が、聖女の中で滞積して暴れまわっているのだ。
やはりこの聖女の実力では、生命の杖を十全に扱うことはおろか、聖級の治癒魔術でさえも上手く使いこなせないようだ――
「じゃがそれでも、汝に頼るしかない――失敗は、許さぬぞ」
とはいえ、現状、煌夜を救える唯一の可能性は、そんな聖女の奇跡に縋ることだけである。
非常に遺憾だが、極めて不愉快でならないことだが、ヤンフィは聖女を当てにするしかないのだ。
果たして、その期待は叶うことになる。
叶う未来が、確かにここに存在していた。
「ぅ、ぅぅ――っ、くぅ……ぁ、ぅ……魔、魔力……贈与? ぅう――『望む者に神の寵愛を与えん。祝福されし我より、祝福されぬ彼の者に、大いなる力を授ける。魔力贈与』」
そのとき、ようやく聖女は、生命の杖が語りかける声に応えて、聖女しか扱うことが許されない四大秘術のうちのひとつを詠唱した。
ヤンフィはそれを見て、人知れず安堵の吐息を漏らす――これで未来は確定した。
パリン、と硝子の割れる音が鳴り、それと同時に、息苦しいほどだったヤンフィの重圧と魔力が立ち消える。
殺気と緊張に満ちていた空間に、ひと時の安息が訪れた。
万が一にも失敗しないように、ヤンフィが展開していた【桃源】は、これでもう用済みだ。これ以降の未来は、どんな選択肢を選ぼうとも煌夜が死ぬことはない。
「……ひとまず、峠は越えたのぅ」
ヤンフィは穏やかな声でそう呟き、煌夜の身体に手を当てて集中している聖女を見た。
先ほどとは打って変わって、今は煌夜の身体を淡く柔らかい緑光が包み込んでいる。またそれと共に、聖女の身体から血液みたいに赤い光が、煌夜に流れ込んでいた。
聖女が展開したその秘術――生命の杖に封じられていた四大秘術のひとつ【魔力贈与】は、読んで字の如く魔力を他者に譲り渡す魔術だ。
魔力は個々でまったく異なる波長をしており、本来であれば、それを贈与することなどできはしない。出来るとしたら、妖精族と交わることで、魔力を共有することくらいだ。
ところがこの秘術は、そんな理を無視して、無尽蔵に供給される魔力を誰にでも譲り渡すことが可能な奇跡の秘術である。正しく扱うことが出来れば、とんでもない脅威となるだろう。
実際、ヤンフィが戦った聖女などは、常にこの【魔力贈与】で味方の魔力を回復しつつ、冠級の【蘇生】を併用して、殺しても殺しても、味方を復活させてきた。非常に厄介な相手だったのを憶えている。
聖女はその【魔力贈与】を使うことで、暴走する余剰魔力を強制的に煌夜に流し込んでいた。そうすれば、魔力の出力をコントロール出来なくとも、過剰に魔力が溢れることはない。
さて、そんな【魔力贈与】を【全異常治癒】と併用して、煌夜を癒すこと三十分ほど。
ようやく煌夜の身体は、この異世界に来たときと同じ、完全な生身に戻った。
これでもう、ヤンフィが膨大な魔力で取り繕わなくとも、勝手に朽ちることだけはなくなった。
「……ぁ、っ、はっ……はぁ、っ……お、終わり、まし……たぁ……」
煌夜の身体の治癒が終わった途端、聖女はガクンと肩を落として、その魔力を霧散させた。すると、カラン、と生命の杖が床に転がる。
聖女は、はぁはぁ、と荒い息を吐きながら、ぐったりとした様子で壁にもたれ掛かった。
そんな一仕事終えた聖女に、ヤンフィは会心の笑みを見せる。
「――よくやった、と誉めてやろう。おかげで、コウヤの命が救われた。じゃから、その代わりにここから助け出しやろう」
これで貸し借りなしじゃぞ、と微笑みながら、ヤンフィはふたたび、その手に次元刀エウクレイデスを顕現させた。
これでもはや、こんな迷宮に用はない。地上に戻り、ソーンと合流すべきだろう。
ヤンフィは転がっている生命の杖を拾うと、さして説明もなく、次元刀エウクレイデスを振るう。
ヤンフィのそんな行動に疑問を持つ心の余裕も、これから何が起こるのか考える体力的な余裕もない聖女は、ただただ荒い呼吸を繰り返しながら、その成り行きを呆然と見ていた。
とりあえずアップします。