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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
第八章 極彩色の街ヒールロンド
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第五十五話 聖女スゥ/後編

 

 聖女の後を追い、なし崩し的に始まった地下迷宮の攻略は、早二時間が経過しようとしていた。

 しかし聖女たちに追いつくどころか、ヤンフィは完全に聖女たちの行方を見失い、挙句、立派な迷子と化していた。

 どうやらこの迷宮の転移魔法陣は、転移先が常に変わる仕組みのようで、ヤンフィがそれに気付いたときには、もはや手遅れだったのだ。

 転移した先には当然、聖女たちの痕跡はおろか魔力残滓さえまったく見付かずに、しかも出口さえ分からなくなってしまっていた。

 おかげで、出鱈目に先へ先へと進む選択肢しかなく、焦りと苛立ちが積もる一方であった。


「……チッ、今度は【ワイズウーフ】か……まったく面倒な……」


 そうして九回目の転移魔法陣を経て、しばらく進んで到達した大部屋で、ヤンフィは心底疲れた風にため息を漏らして立ち止まった。

 ゆっくりと顔を上げると、正面の薄暗い三叉路のひとつから、血生臭い獣臭と共に狼顔をした魔族が隊列を成して現れる。

 ヤンフィはギラリと殺意の篭った鋭い視線を、現れたワイズウーフの群れにぶつける。


「グルゥゥウウオ――」


 ヤンフィの睨みに応じるように、狼顔の魔族――ワイズウーフと呼ばれる魔族の一団は、低く唸る声を出して威嚇してきた。

 ワイズウーフは、1メートル前後の筋肉質な体躯で、全身は硬い体毛に覆われており、見事な二足歩行をしている狼顔の獣である。知性はあまり高くないが、腕力はかなり強い。

 その攻撃手段は、筋肉に物を言わせた物理攻撃が主体である。ただし時折、下級の魔術を行使することもあるので、戦う上ではそれら魔術への警戒も必要だ。

 ――とはいえ、それを加味してもヤンフィからすれば雑魚に違いはない。

 ちなみに、ワイズウーフは非常に警戒心が強く臆病な魔族でもあり、基本的に五から七体前後で徒党を組んでいて、常に群れで行動している。そして、獲物の数が群れの数よりも少ないときにしか、その姿を現すことはない。

 それが故に、ヤンフィが独りでいるのを狙い目と見て現れたのである。

 まったく不愉快でならないが、見付かってしまった以上、諦めるほかない――諦めて、殺しきる以外には、方法なぞない。


「グォオゥ――」

「――鬱陶しいわ!!」


 覆いかぶさるように飛び掛かり、鋭い爪を振り下ろしてくるワイズウーフの一撃を余裕で躱して、ヤンフィは、お返しとばかりに紅蓮の灼刃(レヴァンテイン)を逆袈裟に振るう。

 サァ――と、空中に美しい弧が描かれる。その弧の軌跡を追うように、一筋の焔が舞う。


「グァギャッ――――!!」


 そんな焔の舞いに遅れて、けたたましく汚らしい雄叫びが響き、ワイズウーフの身体から血が噴出す。

 ワイズウーフは痛みと驚きに恐慌状態になって、斬られた傷口を手で押さえながら一歩後退った。


「牙の如く、永劫消えぬ痕を刻め――牙烙之太刀(がらくのたち)


 恐慌状態のワイズウーフに、ヤンフィは唄うような調子で言葉を紡ぎ、緩やかに軽やかにステップを踏んで、美しい剣舞を披露した。

 それは決して素早い動きではなかった。

 まるでスローモーションか、と勘違いするほどに緩やかな剣舞だった。けれど避ける隙が見当たらない必殺の一撃でもあった。

 対峙していたワイズウーフは、ヤンフィが回った、とそう認識した瞬間、その右肩口に大穴を穿たれていた。貫かれる瞬間の突きはハッキリと認識できていたが、しかし避けることが出来なかった。穿たれたその大穴は、まるで大型の肉食獣にでも噛み付かれたような牙の痕になる。

 明らかに大怪我で、もはや右腕は使い物にならないだろう。ワイズウーフがそんな自身の状態を認識した直後、貫かれた傷口が燃え上がり、激痛が遅れてやってくる。

 ワイズウーフはその激痛と、何が起きたか理解できない恐怖に、絶叫を上げようとする。だが、叫ぶよりも先に、その頭部を爆散させた。


「……グゥォオ――」


 一瞬のうちに仲間が頭部を弾けさせた光景を見て、襲いかかろうとしていた他のワイズウーフたちは恐怖で脅えた声を出していた。

 ワイズウーフたちは慌ててその動きを止めて、警戒した様子でヤンフィを取り囲む。


「……この実力差を見て、引き下がらぬか」


 所詮低脳か、とヤンフィは紅蓮の灼刃を血振りする。少しの火の粉と、異臭を放つ血が床に飛び散った。


「グォゥ――――ガァ!!」


 ヤンフィを囲んだワイズウーフの中で、最も恰幅の良いワイズウーフが周囲のワイズウーフたちに目配せをすると短く唸った。

 その唸りは意味のない掛け声だったが、何を言わんとしているか理解できる。


(遠距離で一斉に魔術を放つつもりじゃのぅ……)


 ヤンフィはため息を漏らして、紅蓮の灼刃の構えを解いた。わざと攻め入る隙を作ったのである。

 果たして、ヤンフィが構えを解いた瞬間、待ってましたとばかりに、ワイズウーフたちは下級の風属性魔術【風刃】を展開した。

 六方向から一斉に襲い掛かってくる鎌鼬。

 しかしそれをヤンフィはつまらなそうに眺めて、紅蓮のコートをヒラリと翻すだけで、甘んじて受け止める。

 ――避けるまでもない。この程度の攻撃では、この装備に傷を付けることはできない。


 そうして当然、全ての鎌鼬はヤンフィに直撃した。


「――ガァゥ!!!」


 風刃が直撃したさまを見たワイズウーフたちは、その結果など二の次に、物凄く嬉しそうな叫び声を上げていた。これで仕留めたとばかりに、思い切り空気が緩む。


「たわいないのぅ。これでは何の発散にもならぬ――六連雨燕(あまつばめ)


 ワイズウーフたちの想定通りの行動に、ヤンフィはため息混じりにボソリと呟いた。同時に一歩踏み込んで、意趣返しに紅蓮の灼刃を振るう。

 それは素早い六連の斬撃、ワイズウーフたちが展開した鎌鼬と似た飛翔する斬撃である。

 ――ただし、その威力はワイズウーフの魔術などよりもずっと強力だが。


「――グギャ!?」


 断末魔というよりは驚愕の悲鳴を上げて、けれど自身の死を認識するよりも先に、ワイズウーフたちはその首を斬り落とされた。

 ザン、ザン、ザン――と、肉が断たれる音が鳴り、床には次々と首が転がり、ほどなくワイズウーフたちは物言わぬ亡骸と化した。


 ここまでは、あっという間の出来事だ。

 一方的すぎる惨殺である。けれど、余裕を見せていたヤンフィは、敵がいなくなってから危機感を吐露した。


「くそ……無駄に時間を使ってしまったのぅ……このままでは、本格的に危険じゃ……妾の魔力は当然として、コウヤの身体も保たぬ」


 漂う腐臭、死屍累々と転がる屍骸。辺りにはもう敵はいない。しかし現状は、目的の聖女たちの位置も分からず、ましてや戻ることも出来ない八方塞状態である。

 このまま聖女が見付からないようだと、いよいよ煌夜の生命力が足りなくなり、身体の維持が出来なくなってしまうだろう。これ以上は、ヤンフィの力を持ってしても、煌夜の身体が朽ち果てる――それは最悪の展開だ。

 せめてここに、タニアに預けてしまった聖王の七つ道具、迷宮の構造が把握できる白地図(ラプラスの図面)か、対象を指し示す硝子玉(神の羅針盤)でもあれば話は別だったが――


 ヤンフィはこの迷宮に入ったことを後悔していた。

 やはり早計だったか。そう思えば昔から、行き当たりばったりで行動して上手く事が運んだためしはない。こんなことになるのならば、一旦、ソーンと治癒魔術院に向かったほうが良かったやも知れない。

 ヤンフィはそんなことを考えながら、何度目になるか分からないため息を吐く。するとそんなヤンフィに嫌みったらしく、煌夜がボソリと呟いた。


(後悔、先に立たず……だな。聖女を誘拐しよう、なんて考えるから……)


 煌夜のその台詞に、ぬぅ、とヤンフィは唸った。結果が出ていない以上、反論は出来ない。


(……つってもまぁ、ヤンフィの判断ミスってより、俺のせいかもな。罰が当たったんだよ……自己都合で人助けしようとして、結果、関係ない人たちを殺しちまった俺に、さ……今まではきっと、こんな俺にも、神様の加護でもあったから、なんとかなってたんだろうが……今回はさすがに、聖女の誘拐とか企てたから、いよいよ神様に見捨てられちまったってことだろ……)


 苦虫を噛み潰した風な表情を浮かべていたヤンフィに、煌夜はそんな自虐的な言葉を続けた。

 ははは、と乾いた笑いをして、ここでくたばれってことかな、と吐き棄てた。

 そんな台詞を聞いた途端、ヤンフィは一瞬で感情が沸騰する。ギリッと歯噛みして、壁に拳を叩き付けた。


「――コウヤよ。この世に、神の加護なんぞ、もとより存在しない。汝自身の不運を嘆くのは構わぬが、足掻きもせずに諦めるのはやめよ!」


 煌夜の何気なく吐いたその台詞は、ヤンフィにとっての逆鱗だった。ヤンフィは感情を抑えきれず、血が滲むほど拳を握り締めた。


「そも、他者をどれだけ殺そうが、汝の生きる権利が剥奪されることはない。ましてや、それに対して罰する権利なぞ、少なくとも神にはない。罪を自覚して苦しむのは勝手じゃ。それを慰めようとは思わぬ。じゃが、そんな下らないことで自暴自棄になり、生きるのを諦めることだけは赦さぬぞ」


 ヤンフィは真剣な声で煌夜を叱責する。それは抑えた静かな口調だったが、本気の怒りが滲んでいた。

 煌夜はヤンフィのその剣幕に何も言い返せず、ただ押し黙るしかなかった。いじけている自覚はあるのだ。煌夜自身、捻くれたことを口走っているという認識はある。

 とはいえ、ヤンフィがここまでの怒りを煌夜にぶつけたのは初めてだった。

 煌夜はそんなヤンフィに驚きを隠せず、悪い、と一言だけ囁くように謝った。


「――謝ることではない」


 ヤンフィは自制できない感情の高ぶりを自覚して、ワシャワシャと頭を掻き毟る。その様は発狂した風にも見えるし、幼い子供が駄々をこねる様にも似ていた。

 想像通りに事が運ばない不自由さに苛立っている印象が見て取れる。


「じゃが、そこまで云われては、致し方ない。もはや魔力を出し惜しみなぞせぬ――コウヤよ。妾が、運命とは自らで掴み取るモノであり、切り開くモノだと教えてやろう」


 ヤンフィは言いながら、空中に【無銘目録】を召喚した。

 困ったときの何とやら、ではないが、何かこの現状を打破できる武器でもあるのだろうか――と、煌夜は黙ったまま成り行きを見守った。

 すると突如、ヤンフィは崩れ落ちるようにその場に膝を突いた。そして、そのまま糸が切れた人形のようにぐったりと、血に塗れた床に寝転がる。


「――コウヤ。妾の傍を離れるなよ?」


 そのとき、寝転がった煌夜の身体に、聞き覚えのある涼しげな声が降り注ぐ。ふと気付けば、身体のコントロールが煌夜に戻っていた。

 え、と煌夜はきょとんとした表情で、緩やかに身体を起こす。すると正面には、これまた見覚えのある和服姿の幼女が立っていた。

 それは本来のヤンフィの姿である。いつの間に顕現したのか、ヤンフィは煌夜の身体から外に出ていた。


「ふむ……【桃源(とうげん)】と併用して、次元刀エウクレイデスを使うのは、神との戦い以来じゃのぅ。なんとも皮肉めいておるわ」


 ヤンフィはそんなことを口走りながら、可笑しそうにカラカラと笑っていた。

 辛気臭いこの迷宮にあってひどく場違いなその笑みに、煌夜はしばし言葉を失い呆然とする。

 そんな煌夜をチラと見てから、ヤンフィはパチンと指を鳴らす。瞬間、空中に浮かんでいた【無銘目録】が開かれて、開いた頁から一振りの刀が現れた。


「これが、【次元刀エウクレイデス】じゃ……さて、今の妾では、二振りが上限かのぅ――まぁ、なんとかなるか。コウヤよ、動くなよ?」


 ヤンフィは現れた刀を握り締めると、顔だけ上げている煌夜の肩に、鞘に収まったままのその刀をトンと置いた。

 跪いた状態の煌夜の肩に、立っているヤンフィが刀を置くというその構図は、まるで騎士の叙任式を思わせた。

 煌夜は何がなにやら分からず、とりあえず頷いて、言われるがまま跪いた姿勢で動きを止める。


【次元刀エウクレイデス】と呼ばれるその刀は、ヤンフィが保有する武器の中で、魔力消費量が抜群に激しい武器である。

 100センチほどの長さをした刀状の武器で、鍔はなく、柄の部分には黒い布が巻かれているのみだ。刀身部分は、黄と橙のマダラ模様をした鞘に収まっており、反りはほとんどなく細長い形状をしている。

 この刀は、次元を切り裂ける魔力武器であり、また同時に、下級から冠級に属する全ての時空魔術を行使できる万能の魔術道具でもある。

 刀身に魔力を注ぎ込み、任意の時空魔術を選んで一振りするだけで、魔力適性の有無に関係なく、あらゆる時空魔術が行使できる。


 ただしその分、デメリットは大きい――ヤンフィが使うのを躊躇するほどに。


 次元刀エウクレイデスは、たった一振り使用するだけで、全盛期のヤンフィが保有する魔力の十分の一以上を軽く消費する。さらには、一振りごとに使用者の五感が狂う呪いの武器でもある。

 それ故に、ヤンフィはよほどのことがない限り、使用しようとさえ思わない。これを使用するときは、そのリスクを負ってでも、使用せざるを得ない状況だけである。


 そんな次元刀エウクレイデスだが、逆に言うと、魔力消費の点にさえ目を瞑れば、あらゆる時空魔術を扱える点で優秀である。

 そして、あらゆる時空魔術が行使できるということは、つまり冠級の時空魔術――空間連結(ワームホール)が展開できるということだ。それだけで現状を打破することが可能となる。

 とはいえど、このまま地上に戻る、という選択肢は悪手だろう。何一つ状況は好転しないのだから。


(……むしろ、状況は悪化するかのぅ? 今の妾が次元刀エウクレイデスを振るえば、一振りで魔力は枯渇じゃ……妾の生命力を魔力に変換したとて、コウヤの身体は維持しきれん。最悪、共倒れじゃ……)


 ヤンフィは次元刀エウクレイデスを煌夜の肩に置いたまま、ふぅ、と静かに深呼吸した。ひどく緊張しているのを自覚する。

 だが、ここから先の一手一手は、博打には違いないが、ひとつとして誤ることは許されない。一手無駄をするだけで、それは煌夜の死に直結するのだ。


(コウヤの身体は、もはや疾うに限界じゃ。一刻も早く、妾の魔力による誤魔化しでなく、生身部分の生命力を強くせねば…………結局、妾の焦りが、この窮地を招いておるのぅ……反省じゃ)


 煌夜の身体は、生身部分が既に九割以上死滅している。それでもかろうじて生命を維持できているのは、セレナの心臓が強靭であることと、ヤンフィが絶えず膨大な魔力を注ぎこみ続けているからである。

 唯一まだ生身と言える心臓に、煌夜のかすかな生命力が宿っている。

 けれど、それが既に風前の灯なのだ。もはや生命力という蝋燭は尽きる寸前である。

 生命力の炎が消えれば、当然ながら肉体も滅びる。それを防ぐためには、生命力を強くすることだが、生身――つまり、蝋燭部分が少なすぎるゆえに、下手な治癒魔術では焼け石に水状態なのだ。


 そういう事情で、聖女を追ってきたわけだが、結局その時間浪費がさらに蝋燭部分を短くする結果になっている。


(ここまで生命力が低下しておると、ただ治癒するだけでは、意味がないやも知れぬ……まぁ少なくとも、聖女を見付けだすことが大前提じゃろぅ)


 ヤンフィは無言のままそんな自問自答をしてから、煌夜の目でも分かるほどに、全身から濃度の高い魔力を放出した。

 それはヤンフィの命を費やした魔力である。これが尽きれば、ヤンフィも死ぬ。

 そんなヤンフィの命とも言える濃い魔力は、一瞬のうちに大部屋を包み込み、迷宮の中の空気を一変させた。


「……此度こそ、神の宿命とやらを超越して見せよう――」


 ヤンフィは宣言してから、さらに命を削って魔力の放出を続けた。

 霧のように濃いその魔力は、大部屋の壁に溶け込むように消えていき、迷宮全体を飲み込まんとばかりに広がる。

 とはいえ、迷宮全体を包み込めるほど、ヤンフィの魔力は膨大ではない。命を費やしたとて、せいぜいヤンフィを中心に100メートル範囲が限界である。


 ――だが逆説的に、その限界範囲内であれば、ヤンフィの魔王属としての特殊能力【桃源(とうげん)】は真価を発揮できる。

 つまり、範囲内に存在する全ての可能性のうちに、聖女が居る未来が見付かれば――


 ヤンフィは期待と不安で、次元刀エウクレイデスを握る手に力を篭めていた。

 時空魔術を行使する前提で未来を見れば、行動範囲は劇的に広がり、同時に未来の可能性も幅広く枝分かれする。

 前回、ヤンフィが神に封印されたときは、この奥の手を持ってしても、神の命に届かなかった――しかし今回は、なんとしても運命を覆す。

 そんな強い意志を抱きながら、ヤンフィはあらゆる未来を垣間見た。


 果たして――ヤンフィの望む未来は、思っていたよりもすぐ傍にあった。


「見付けたぞ!!」


 それは時間にして、ほんの三十秒ほどだろう。

 突然、ヤンフィが嬉々とした声を上げた。同時に、パリンと硝子が割れるような音が響き、迷宮内の空気がまた一変した。


 望む未来が収束したので、ヤンフィが【桃源】を解除したのである。


「コウヤ、疾くその鞘を握れ――」


 ヤンフィは煌夜の肩に置いていた次元刀エウクレイデスの柄を両手で握ると、ジッと座り込んでいた煌夜に命令する。

 意味の分からない唐突なその命令に、呆然としていた煌夜は、ああ、と指示されるがまま従った。


「――往くぞっ!!」


 煌夜が鞘を握ったのを確認してから、ヤンフィは裂帛の気合と共に、次元刀エウクレイデスを抜き放った。すると鞘から現れたのは、細長い棒だった。


「『彼方と此方を繋ぎ給え、空間連結(ワームホール)』!!」


 その細長い棒が抜き放たれた瞬間、ヤンフィは冠級の時空魔術【空間連結】を簡略詠唱する。

 すると、その詠唱に呼応するように、細長い棒からぶわっと黒い靄が噴出した。靄は一瞬のうちに、煌夜の全身とヤンフィの身体を包み込む。


 ヤンフィは、煌夜と自分が黒い靄に包まれたのを確認してから、ニヤリと笑って次元刀エウクレイデスを振るった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 どうしてこうなったのか――と、エイルはボロボロと涙を流しながら、絶望的な気持ちで目の前の惨劇をただただ眺めていた。

 いや、眺める以外に何も出来なかったというのが正しい。

 頭の中はすっかり真っ白で、何をすべきか、何をしたら良いのか、思考は支離滅裂でまともに考えられなかった。

 ――まあ、冷静に物事を考えられたとしても、そもそもエイルは戦闘では何の役にも立たないが。

 聖女という治癒魔術のエキスパートでありながらも、仲間が傷付かないように補助魔術を詠唱することも出来なければ、戦闘中に傷付いた仲間を癒すことも満足に行えないお荷物である。

 エイルは戦闘に巻き込まれると、相手が魔族だろうと人間だろうと関係なく、その恐怖から思考が停止してしまい、身体が震えて動かなくなるのだ。

 昔からそうであり、ゆえに冒険者に同行するのは嫌だった。

 平常心が保てない以上、中級の治癒魔術でさえまともに詠唱できなくなる。何も出来ないに等しいエイルは、すなわち同行する意味がないだろう。

 だというのに、誰もがエイルを――否、聖女を頼る。聖女という象徴に縋って、エイルを同行させる。

 だからエイルは、迷宮探索の際はもっぱら、正解の道順を指し示すコンパスでしかない。


 ――その結果が、いま目の前で起きている惨劇を引き起こした一因だろう。


 役立たずの足手まといが居たせいで、勝てない相手に挑まざるを得なくなり、そうして全滅の憂き目に遭っているのだ。


 エイルはぺたりと冷たい石床に座り込んで、恥ずかしながらも失禁しながら、目の前の光景を目に焼き付けていた。

 さて、そんな痴態を晒すエイルの前で繰り広げられている惨劇は、始まってから三十分ほど経過して、もはや佳境に差し掛かっていた。


「ぐぅ――ぁあ!! クソっ、蛇腹刻み!!」


 黒色騎士団の団長グラスが、振りかぶった長剣を鞭のようにしならせて、絶望の化身ともいうべき【キングゴブリン】の脛を斬り付ける。

 しかし、先ほどまでと同様に、傷ひとつ付かずに長剣は弾かれた。


「うおぉっ――っ!!! 爆焔斬り!!!」


 グラスの剣戟が不発に終わった瞬間、副団長リオウが、渾身の掛け声と共に、大上段から大剣を振り下ろす。炎を纏ったその大剣は、キングゴブリンの肩口にぶつかって、ドガン、と大爆発を発生させた。

 その爆発の衝撃は凄まじく、天井の一部を崩落させたうえに、キングゴブリンを覆い隠すほどの粉塵を舞い上げる。もうもうと土煙で視界が見難くなる。

 リオウは視界が確保できない状況を忌避して、念のため追撃はせず、その爆風を利用して、後方へ吹っ飛ぶように跳躍する。一旦、キングゴブリンから大きく距離を取った。

 リオウの繰り出したそれは、魔法剣と呼ばれる魔術と剣術の融合技である。

 非常に高度な技術を要する剣技であり、リオウにとっては最強の必殺技だった。

 これを喰らって、無傷の魔族など今までには遭遇したことがない。そう豪語するほど、リオウには自信のある一撃だ。

 並みの魔族であれば、爆発の衝撃で身体が弾け飛ぶ。硬い魔族であっても、致命傷を負うこと必至の攻撃である。

 それが直撃したのだ。リオウは、これで決まった、と内心でほくそ笑んでいた。


 そんなリオウの自信を裏付けるかの如く、グォゥォオオオ――――と、キングゴブリンが大絶叫を上げる。それは爆発の轟音を掻き消すほどで、ビリビリと空間を揺らす。


「……さすがに、魔法剣とはいえ、一撃では仕留められないようですね――ですが、致命傷でしょう」


 キングゴブリンのその咆哮を聞き、リオウはニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべて、腰砕けで脅えているエイルに顔を向けた。

 エイルを安心させるつもりだろう。ニッコリと会心の笑みで、どうだ、と言わんばかりのドヤ顔だ。けれど、そんなリオウの姿を見ても、エイルは少しも安心できない。

 なぜなら――リオウの持つ大剣は、根元からポッキリと折れていたからだ。


「マズイ、リオウ! 避けろっ!!」


 そのとき、ドン、と地響きが鳴り、地震が起きたように床が揺れた。同時に、グラスが大声でリオウに叫んだ。

 ――だが、それはもはや手遅れだ。

 不意の揺れにバランスを崩したリオウは、キングゴブリンから視線を切っていたせいもあり、その突撃にまったく反応できなかった。

 実際、目の当たりにしていてさえ信じられないことだが、軽く50メートルは距離があったはずなのに、キングゴブリンはその距離を一秒に満たない速さで駆け抜けて、リオウの眼前に接近していた。

 そして次の瞬間、振り向いたリオウの美貌に、カウンターの如き正拳が突き出される。丸太もかくやという豪腕が、まるで紙を破くように他愛無く、リオウの顔面を軽々と貫いた。

 ほんの一瞬の出来事で、リオウの顔面には大穴が開き、後頭部からは無骨な正拳が突き出る。悲鳴すら上げる暇もなく、リオウは絶命した。


 ピクピクと痙攣しているその胴体が、エイルに恐怖を植え付ける。


「――よくも、リオウをぉ!!!」


 グラスの怒号が、リオウを殺したキングゴブリンにぶつけられる。しかし、そんな怒号など知らん顔で、キングゴブリンはゆるりと首を回して、グラス以外の生き残りの団員に視線を向けた。

 すると、ちょうど壁際で丸まっていた魔術師の一人と視線が合い、キングゴブリンは次の獲物をその魔術師に定めていた。

 魔術師は、ヒィ、と悲鳴を上げて、無様な四つん這いのまま部屋の隅に逃げる。

 ちなみにその魔術師は、先ほどまで何度か遠距離からキングゴブリンに中級魔術を中てていた。だが、中級程度ではまったく傷付かず、結果として逃げ惑うだけになっていたが――


「ガァアアアアアアアッ!!!」


 無様に逃げる魔術師に向けて、キングゴブリンが凄まじい咆哮をした。すると、その大口から眩い閃光が放たれた。


 また、だ。それは、キングゴブリンが得意とする攻撃魔術であり、別名を死の閃光ともいう。

 正式には、光属性の上級魔術【光閃砲(ライトニングレーザー)】と呼ばれる魔術だ。拡散する高威力の破壊光線で、並みの防御力では気休めにもならない。

 実際、中級の防御結界を張っていた後衛の一人と、重装備していた前衛の騎士が四人、これの餌食になって身体の七割を消滅させて絶命している。


 果たして、逃げようとした魔術師も抵抗虚しく即死した。

 それでも咄嗟に、防御魔術を展開したのは見事だろう。まあ、当然の如くそれは破壊光線に貫かれたが――


「ロイス!? くぉお――ッ!!! この、クソがぁ!! 秘技、残影剣!!!」


 キングゴブリンの放った【光閃砲】が、ロイスと呼ばれた魔術師の身体を貫き、壁を穿ち、天井に穴を開けたとき、その光景にいっそう激昂したグラスが、長剣を振り回しながら飛び掛る。

 グラスの長剣は空中に幾つも残像を残しながら、キングゴブリンの胸部、腕、脛を斬り付ける。しかし、それもまた結果は同じく、キングゴブリンには傷を付けられなかった。

 グラスではダメージを受けないことを理解しているからか、キングゴブリンはグラスを無視して、黒色騎士団のほかの生き残りへと視線を向けた。

 ちょうどそのとき、生き残りの一人が叫んだ。


「グラス団長、避けて下さいっ!!!」


 そんな警告と共に、キングゴブリン目掛けて、闇色の竜巻が放たれる。

 それは【漆黒波動(ダークウェーブ)】と呼ばれる闇属性の上級魔術だ。光属性であるキングゴブリンの弱点である。


 グラスは仲間の警告を聞くが否や、巻き込まれないよう飛び退いた。それに間髪入れず、キングゴブリンの巨体には、闇色の竜巻が叩き付けられる。


「よしッ!! これで、決まっ――え!?」


 生き残りの魔術師が、会心の雄叫びで拳を突き上げる。これで勝った、とそう確信する――しかし、そんな甘い考えはすぐさま霧散していた。

 キングゴブリンは闇色の竜巻を両手で防いでおり、結果として、致命傷どころか掠り傷程度の被害しか受けていない。


「な、なんで――――た、助け……」

「アキツキ、逃げろ!!!」


 グラスの絶叫が響き渡る。だが、その絶叫と共に、キングゴブリンの反撃が、生き残りの魔術師――アキツキと呼ばれた男に襲い掛かった。

 キングゴブリンは、その巨体からは想像も出来ないほど高速の突進で、気付けばアキツキの眼前で拳を振りかぶっていた。

 渾身の魔術が防がれたアキツキは、気持ちが動転しており身動きが取れない。


「ガァアアアッ!!」


 そして一瞬のち、キングゴブリンの咆哮が響き渡り、グシャ、と肉が潰れる音が鳴る。

 石床はキングゴブリンの振り下ろしの衝撃で大きく揺れて、爆心地には拳の形の穴が穿たれていた。

 ちなみに、振り下ろされた豪腕の下では、寸前までアキツキだったモノが、見るも無残に挽肉になっていた。


「クソ、クソ、クソ――ッ!! これなら、どうだぁ!? 秘奥義、流星の舞!!!」


 黒色騎士団十二人の精鋭のうち、正真正銘、最後の生き残りとなってしまったグラスは、目を血走らせながらキングゴブリンに斬りかかる。

 もはや自棄になったような絶叫だが、グラスの放った剣技は、見惚れるほどに美しい技だった。

 振りかぶった長剣が、煌く白い軌跡を描いて、まるで流星の如く、幾筋もキングゴブリンへと降り注ぐ。ほぅ、と見る者が思わずため息を漏らす美技。

 しかし、結果は先ほどまでとまったく同様、キングゴブリンにダメージはない。


「ク、ソっ――」


 バキン、と甲高い金属の悲鳴が響くと、キングゴブリンの硬い皮膚に弾かれて、長剣の切っ先が宙を舞った。悔しそうなグラスの声が、あまりにも哀れだ。

 それにしても、大層な技名と格好良い動きの割りに、やはり威力は同じなのか。

 見掛け倒しすぎる――と、エイルは絶望的な気持ちになり、ついつい心の中で悪態を吐いた。

 そうして次の瞬間、グラスの首にキングゴブリンの手が伸びて、その喉元が鷲掴みされた。

 グラスは咄嗟に必死の形相でその腕を振り解こうと抵抗するが、キングゴブリンはそんな抵抗をまったく意に介さず、躊躇なく首を握り潰した。

 一秒にも満たない刹那に、グラスは首と胴体を千切られて絶命する。


「…………グゥウウ」


 キングゴブリンが唸る。すると、ドチャ、とグラスの身体が地面に落ちた。

 その首なし死体を当然のように踏み潰して、キングゴブリンは部屋の隅でガタガタ震えているエイルに顔を向ける。


「ヒッ――あ、ぅ……ぇ、ぅ……」


 キングゴブリンの劣情に燃える双眸と目が合った瞬間、エイルは恐怖のあまり喉が引き攣った。

 悲鳴を上げて逃げ出したい。だが、喉はひくついて声は出ないし、そもそも逃げることが不可能だろう。


(……どうして、こうなっちゃったのぉ……エイルが、何したって言うのよぉ……神様の馬鹿ぁ……)


 エイルはつい三十分前までの順調な冒険を思い返しながら、自らの置かれている現状を嘆き、神の理不尽さを力いっぱい呪った。


 この第十階層までは、まったくもって順調に攻略できていたのに――と。 


 転移した先では常に魔族に襲われながらも、誰一人欠落せず、またエイルの導きのおかげで迷うことさえなく、予定通りに攻略は進んでいた。

 なのにどうして、この第十階層だけが、まったく予期していなかった状況になっているのか。


 この地下迷宮【アビスホール】は、各階層ごとに構造が変わる仕組みだ。

 だが、ある特定の階層だけは、どんなルートを辿ろうとも共通の大空間が広がっている。

 冒険者たちは、その階層をボス階層と呼んでおり、それは五階層ごとに存在していて、ここはそのボス階層である。

 ボス階層には、他の階層よりも強力な魔族が棲息しており、行く手を阻んでいるのが常だ。

 そして、従来ならばこの第十階層には、ワイズウーフの上位種【ウーフウィザード】がいたはずだった。

 ウーフウィザードはランクAに属する魔族だが、ワイズウーフと異なり、単体でしか行動しない。しかも魔術主体の戦闘スタンスで、物理攻撃に弱い特性がある。

 それゆえに、もちろん注意は必要だが、黒色騎士団の精鋭たちならば、苦戦することなく退治できたはずだった。

 だというのに、第十階層に降り立ったとき、現れたのは【キングゴブリン】だった。


 キングゴブリンは、極めて強力な魔族である。

 魔族でありながら、実力的には魔貴族に匹敵する個体が多く存在している。そもそも素の強さでさえ、竜種に並び立つ魔族でもある。

 全長3メートル50センチ前後の巨躯をして、鋭い犬歯と三本の角を生やした筋骨隆々な二足歩行の男性型であり、その全身は赤黒い。顔立ちはどことなく人族に似ており、その敏捷性と反射神経は獣族の戦士さえ凌駕する。

 その腕力は1トンの重りを片手で軽々と持ち上げられるほどであり、しかも光属性の上級魔術を無詠唱で行使できる知性を誇っている。

 何よりその自然治癒力は脅威的であり、腕や脚がなくなった程度ならば、すぐさまその場で再生するほどだ。その上さらに、再生すればするほど、再生部位が際限なく硬くなっていき、戦闘を経てどんどん強くなる最悪の魔族である。

 また、もうひとつの厄介な性質として、キングゴブリンはゴブリン属の中で最も性欲が強い魔族である。女性体を発見すると、それがいかなる種族だろうと関係なく発情して、女性体が死ぬまで犯し続けるという性質がある。

 キングゴブリンの体液には、オーガゴブリンの血液を超える催淫効果と、痛覚だけを麻痺させる効果がある。

 それゆえに、体液を浴びようものならば、内臓をどれだけ傷つけられても痛みを感じず、ひたすら発狂寸前の快感だけを享受するようになるという。

 ――つまり、キングゴブリンに掴まった女性体は例外なく、死ぬことが幸福に感じるほどの絶望を味わうことになるのである。


 そんなキングゴブリンが、どうしてか突如、第十階層に現れた。

 キングゴブリンの討伐は通常、パーティランクSかSSである。

 つまりパーティランクAの黒色騎士団には荷が重過ぎる。そして十二人からなる大所帯では、そんなキングゴブリンを前にして、逃げ切れるはずはない。

 それでも、すぐさま逃げ出していれば、きっと何人かは無事だったかも知れない。

 即座に逃げていれば、だが。


 第十階層に転移してきて、まず真っ先に、副団長のリオウがキングゴブリンに気付いた。その次に、一瞬遅れてグラスが気付き、慌てて団員全員に、逃げろ、と指示を出す。

 しかし、キングゴブリンの脅威をよく知らなかった黒色騎士団の他の面々は、聖女であるエイルがいることで強気になり、挙句に数の暴力で何とかなるだろうと、キングゴブリンという魔族を軽く考えた。

 聖女に祝福されたこの精鋭たちならば、きっと倒せる――そんな勘違いで、愚かにも、キングゴブリンに戦いを挑んでしまったのである。


 ――致命的過ぎるその判断ミスのせいで、すぐさま半数の六人が即死した。


 そこからはただただ地獄絵図だった。

 初撃の【光閃砲】を何とかやり過ごせた黒色騎士団の六人は、何をしても通じないのを承知のうえで、けれど一縷の望みに賭けて戦闘を続けるしかなくなる。

 ちなみに、戦闘を続けるしかなくなった理由は単純だ。

 エイルが腰を抜かして、その場に座り込んでしまったからである。

 黒色騎士団は、当然ながら聖女を見殺しには出来ず、かといって連れて逃げる余裕はなかった。

 幸運かはたまた悪運か分からないが、聖女は女性なので、キングゴブリンは最後まで手を出さないことが分かっていた。だから黒色騎士団は、腰砕けの足手まといな聖女を抱えて逃げるよりも、キングゴブリンを倒すことを先決したのだ。

 それも最悪手ではあるが――いまさら嘆いても仕方ない。

 このとき、きっとエイルが逃げようとしていれば、少しは展開が違ったのだろう。


 ともあれそうして、一人、また一人と抵抗虚しくキングゴブリンに殺されていく蹂躙の場面を見詰めて、エイルは震えながら座り込んでいた。

 それが先ほどの惨劇に繋がる。


 さて――そんな走馬灯のような短い回想に耽っていると、エイルに向かって、キングゴブリンが一歩、大きく足を踏み出した。

 エイルはハッとして、ビクリと背筋を震わせる。恐る恐るとキングゴブリンの顔を見上げれば、その口元からは汚らしい涎が零れていた。


「グゥウォオオ――」


 キングゴブリンが愉しそうに雄叫びを上げた。

 恐慌効果をもたらすその叫びを浴びて、エイルは身体中を鎖で縛られたかのような金縛り状態になる。恐怖で顔面は蒼白になり、ガチガチと歯も鳴っていた。


「ほぅ? キングゴブリン、か……ふむ、なるほどのぅ。これは、手間が省けたわ」


 そのときふと、エイルの頭上からそんな呟きが聞こえた。

 同時に、今度は息が詰まるほどの重苦しい威圧が降り注ぎ、意識せず喉がひくつく。


「…………なんだよ、この巨大な化物…………まさかコイツ、グレンデルの親戚か?」


 エイルが恐怖で金縛り状態になっていると、次にすぐ隣から何語か分からない声が聞こえた。その言葉は、この地獄にはあまりにも場違いな響きで、どうしてか意味が直接頭に浮かんだ。


(……な、何が……だ、誰……?)


 まずエイルは、恐る恐ると頭上を見やる。


 果たしてそこには、歳のころは七歳前後で、金の蓮と青い鳥の刺繍がある紅蓮の着物に身を包んだ桃色の髪の少女が浮かんでいた。

 その姿は一見すると、可憐で愛らしい。しかしその身に纏う空気は、キングゴブリンが可愛らしく感じるほどの絶対的な死を意識させた。


 エイルは慌ててその少女から顔を反らして、次に視線を隣に移した。


 エイルの隣には、いつの間に現れたのか、少し年下に思える頼りない印象の青年が立っていた。

 青年の格好は、どこにでもいそうな一介の冒険者である。ただし、その装備一式――特に紅蓮のコートなどは、素人目にも分かるほど上質な装備に思えた。しかしその立ち姿は装備に似合わず、まだまだ新米だと断言できるほど緊張感のないもので、顔には甘さが浮かんでいる。

 そんな青年の雰囲気は、この地獄にあって、日常の和みを感じさせるほどホッコリするものだった。

 その優しい顔付きだけを見るならば、青年は冒険者というよりも、一般人のほうがしっくりくる印象である。


「コウヤよ。その聖女を逃がすなよ?」


 エイルが青年の姿に目を奪われていると、ふいに愉しげな声で、頭上に浮かんでいる少女が言った。

 それを聞いた青年は、ああ、と気乗りしない返事をしたかと思うと、エイルの身体を庇うように腕を引っ張った。




無理やり前後編の二部でまとめました。

とりあえずアップします。

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