第五十四話 聖女スゥ/前編
「……ここならば、人目はないかのぅ」
ヤンフィは薄暗い路地の袋小路で立ち止まり、周囲を見渡してからぼそりと呟いた。
ここならば、人の気配はおろか、動物の気配すらない。
「さて、と――聖女がこの街に居るのならば、下手な治癒術師を頼るよりも、聖女を見つけ出して、云うことを聞かせる方が圧倒的に早いのぅ」
ヤンフィはそんな不穏当な台詞を吐いて、煌夜に賛同を求めるように首を傾げた。しかし心の中の煌夜はまったく反応せず、相槌ひとつ打たずに沈黙していた。
やれやれ、とヤンフィはため息を吐いてから、そのまま独り言を続ける。
「聖女を捜す、となると……妾が動き回るよりも、誘き出す方が容易かのぅ。ひと騒動起こせば、すぐさまやってくるじゃろぅ――」
聖女スゥ・レーラ・ファー。
冠されたその名は、すなわち神の奴隷の証である。
人でありながら人として生きることのできなくなった哀れな生き物の称号だ。
「――じゃが、ひと騒動を起こすにしても、魔力が惜しいのぅ」
ヤンフィは独りごちて、ふむと顎に手を当てて思案する。
聖女はいつの時代も、自分よりも他人が優先であり、他人の為に己の命を擲つことを厭わない愚か者である。ゆえになんらか大惨事を引き起こせば、光に群がる羽虫の如く、すぐさま見つかるに違いない。
とはいえど、街中でそんな騒動を起こすのに魔力を消費するのは惜しい。
であれば――
「やはり、妾が身体を張って、派手な流血沙汰でも起こすか……聖女でなければ癒せぬ怪我を負えば、必然、聖女が現れるじゃろぅし」
そう、例えば――腕を切り落とす、とか。
ヤンフィは煌夜に語り掛けるように喋りながら、右手で左腕をグッと握り締める。途端、メキっと骨が軋む音がして、左腕の感覚がなくなっていく。
「なんらかの事故で、腕が切断、ないしは吹っ飛んだ現場を演出すれば、聖女を誘き寄せられるはず――」
腕や足などの部位を再生する技術は、治癒魔術の中でも聖級の範疇である。そして、聖級を扱える治癒魔術師はこの時代には数えるほどしか居ない。
ならばこそ、そんな現場を聞きつければ、聖女は駆け付けてくるに決まっている。
(――のぅ、コウヤ。しばし見苦しい真似をするが、許せよ?)
ヤンフィは煌夜に軽く許しを請うと、その返事を待たずに、掴んでいた左腕の二の腕部分を躊躇なく握り潰した。
ブチブチと筋繊維が千切れる音が鳴り、バキボキとあっけなく骨が折れる。
ヤンフィはそのまま強引に左腕を引き千切り、それを隅の方に放り投げた。
直後、左腕からはドバドバと血が吹き出てきて、あたり一面を血に染めた。
そんな様を満足げに見下ろしてから、地面に落ちていた鉄材の破片を拾い、それを左腕の傷口に抉り込んだ。
グシャ、と肉に食い込む嫌な音と共に、ブシュ、といっそう激しい出血が起きる。
それからヤンフィは無事な右手を振りかぶると、躊躇なく渾身の力で拳を壁に叩き付けた。
ドガン――と、爆発じみた音が、静寂の袋小路に響く。その一瞬だけ、大通りの喧騒が静まり返った。
ヤンフィはニヤリとほくそ笑んでから、大きく息を吸って、声の限りに絶叫を張り上げる。
「――――ぐぁああああぁっ!!? ぎぁああっ!!!」
激痛を演出する為に、わざと汚らしい地面を転がり回り、馬鹿みたいに叫び声を上げる。
ひと気のない薄暗いこの袋小路は、ちょうどその絶叫を反響させてくれて、おかげで大通りによく声が届く。
「がぁああああ――っ!!」
誰かが駆け付けてくれることを期待して、ヤンフィはひたすらにのた打ち回った。
ちなみに、実際は痛みなどまったくない。
潰した左腕は【魔剣エルタニン】の擬態であるし、右拳も手首から折れ曲がっていたが、そもそも生身ではない。
――現状、煌夜の身体で生身と呼べるのは、頭部を含めた極一部だけである。
(……誰でも良いから、さっさと人が現れぬかのぅ)
ヤンフィは苦悶の表情で絶叫しながらも、冷静に大通りを見詰めていた。
正直、最初の目撃者は誰でも良いのだ。
その目撃者が騒ぎを大きくして、それにより聖女が誘き出せれば目的は果たせる。
仮に聖女が現れずとも、この状況を治癒できる人間が来れば、それはそれで問題ない。
「ぐぅう――――助けてっ!!!!」
血と土で全身を汚しながら、ヤンフィは必死の声で助けを求め続ける。すでにその声は、完全に大通りから聞こえる喧騒よりも大きい音だ。
間違いなく通行人の何人かは耳にしているはず――あとは、運任せである。
親切な人間であれば、即座に人を呼んでくれるだろう。しかし、不親切な人間であれば、下手に巻き込まれたくない、と見捨てるだろう。
つまりこれは丁半博打のようなものだ。勝率は低くはないが、確実ではない。
けれど、いまヤンフィが採れる選択肢の中では、最もデメリットが少なくて、且つ効果を期待できる方法ではある。
はてさて、結果はどうなるか――と、ヤンフィはのた打ち回りながら、その瞬間を待った。
だが運命は、そんなヤンフィの思惑通りにはいかないらしい。
絶叫を続けること二十分、誰一人としてこの袋小路には、姿を現さなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
極彩色の街ヒールロンドの地下には、蟻の巣みたいに張り巡らされた巨大な地下迷宮が存在している。
いつから存在していたのか、誰が、何の目的で作り上げたのか、まだ何一つ解明されていない広大なその地下迷宮は、入り口である神鉄の扉に刻まれた神代語から、【アビスホール】と名付けられていた。
この迷宮に出現する魔族は、ランクBかAで、今現在、魔貴族の存在は確認されていない。
だが、その攻略難度は、ランクSS。大陸最高難度に数えられる迷宮のひとつだ。
いまだ誰一人として、その最下層に到達できていない迷宮である。
――とはいえ、このアビスホールだが、実は発見されてから数年しか経っていない非常に真新しい迷宮でもある。それゆえに、いまだ攻略が為されていないと言われていた。
だからだろう。我こそが最初の攻略者になる。と、数多くの冒険者たちが息巻いて、栄光を求めては挑み、日夜探索を行っていた。
ちなみに、現在到達できている最高深度は地下六十二階層であり、そこに到達できた冒険者はたった一組である。
その一組こそ、いまや三英雄として伝説に謳われる【狩る者】――正式なパーティ名称を『堕落させた責任取って、黒竜を狩る者』――である。
さて、そんな地下迷宮【アビスホール】だが、その入り口は【金の塔】近くの古い廃坑の中にあった。
エイルの滞在している宿屋からは、正門を挟んで街の反対側だ。
そのアビスホールを目指して、とある冒険者のパーティが街中を歩いていた。
パーティランクA【黒色騎士団】――総人数は、二十五名を数える大所帯の冒険者パーティである。この魔法国家イグナイト領内では、かなり名の通った冒険者パーティだった。
今回はそんな大所帯のうちで、約半数の十二名だけが、先頭を歩く騎士風の装備をした厳つい髭面男に付き従って歩いていた。
ガチャガチャと、鎧の擦れる金属音が耳に煩かった。
「聖女スゥ。先ほどリオウから報告を受けましたが、お疲れとのことですね?」
不意に、先頭の厳つい髭面男――黒色騎士団の団長で、グラスと名乗った彼が、最後尾を歩いていたエイルに振り返った。
グラスの心配した風なその問いに、エイルはいまにも死にそうな顔と声で、はぃぃ、と力強く頷いた。
「そうですか。お疲れ、ですか……それでは、こたびの陣形は、後衛よりは、中央で援護していただくほうが良いでしょうな」
エイルの『疲れている』という頷きに対して、けれどグラスは『ご安心を、この命に賭けても守ります』と、決め顔で口説き文句みたいな台詞を言い放つ。
まるで話が噛み合っていない。
エイルの本音は、疲れているから連れて行かないで欲しい、である。また同時に、守らなくても良いから今すぐ帰して欲しい、でもある。
――というかそもそも、迷宮に行く時点で、何一つ安心なぞ出来はしない。
それを言っても、話は通じないのだが。
エイルは半泣き状態で、ぅぅ、と唸りながら、今日これからの地獄を想像して足を震わせる。そんな脅えた様を見て、しかし副団長リオウは優しく微笑みながら、グラスに負けず劣らず見当違いな台詞を吐く。
「聖女スゥ。恐れるのは自然なことです。私も、団員の誰かが傷つくことや、死ぬ可能性を考えると、怖くなります。けれど、冒険者とは元来そういうもの……聖女スゥが、私たちの安否を心配してくれるのはありがたいことですが、そこまで気負わず――」
「――そうですよ、聖女スゥ。俺らは、俺らの栄光を掴む為に挑むんです。それで命を失っても、なんら惜しくはありません。何より、聖女スゥが手伝ってくれるんです。百人力ですよ!」
リオウの台詞に被せて、すぐ前を歩いていた魔術師の男がグッと親指を立てて微笑む。しかし、彼らの台詞は的外れすぎて、エイルは声もなく嘆いた。
(…………やっぱりエイル、聖女なんて向かないよぉ……)
エイルは自分の心配しかしていない。始終、自らの命の安全だけしか考えていない。
だというのに、周囲の人間は勝手に、聖女は自分たちのことを心配していると曲解する。聖女は自らが傷つくことを厭わず、常に他者を優先して、殉教するまで誰かの為に尽くす存在である――と、誰も彼もがそう思い込んでいる。
それを悪いこととは思わないが、少なくとも、エイルはそんな重責を背負えるほど他人想いにはなれなかった。ゆえに、今もこうして苦しんでいる。
エイルは、はぁ、と弱々しいため息を漏らして、胸元についている四葉の白詰草を象ったブローチに視線を落とした。
いっそこの聖女の証を捨て去ることが出来たならば――と、このところ毎日夢想している不毛な考えに耽る。
そうすればきっと、幸せな一生を送れたはず――
聖女の称号さえ棄てることが出来れば、一介の治癒魔術師として、治癒魔術院連合で働けていたはず――
「聖女スゥ!? 我らより先行するおつもりですか!?」
「――はぇ?」
そんな考えに耽っていると、グラスの驚いた声に呼び止められてハッとした。
ふと気付けば、いつの間にか正面には、薄暗い廃坑の入り口がある。どうやら物思いに耽っているうちに、目的地付近まで到達していたようだ。
地下迷宮アビスホールはまだこの奥だが、黒色騎士団の皆は、いったんここで準備をする様子である。
各々入り口前で、座り込んだり立ち止まって、なにやら装備を整えていた。
エイルはそんな彼らを通り過ぎて、一足先に廃坑の中に足を踏み入れようとしていたらしい。それを見て、グラスが慌てて呼び止めた、というわけだ。
「聖女スゥ――焦る気持ちは分かりますが、いったん、装備を整えさせて下さい」
グラスは諭すように言いながら、お願いします、と頭を下げてくる。
「あ、ち、違いますよぉ……その、疲れてたので、気付かず……」
そんなグラスの懇願に、エイルは慌てた様子で首を振る。すると、その意図は曲解されて伝わった。
「疲れてた、って――おい、皆、聞いたか!? 聖女スゥは、お疲れのところを押しても、我らの導き手として、廃坑内を先行してくれると仰っているぞ!」
「――はぅ?!」
何をどう曲解したらそうなるのか、グラスは突如そんな号令を発すると、いきなりその場に傅いて、恭しく頭を下げる。そんなグラスに倣うように、ほかの十一名も傅いた。
しかし、エイルはいっそう慌てる。誰が、いつ、廃坑内を先行する、などと言ったのだろうか。
どうしてそんな、自ら死にに行くような愚行を犯さねばならないのか。
エイルは首をブンブンと左右に振りながら、廃坑から遠ざかるように後退る。
違います、違います、と弱々しくもハッキリと告げるが、瞬間、その肩をリオウがガシと掴んだ。
「聖女スゥ。まさか、誰も傷つけない為に、自ら先頭に立つなど……その自己犠牲の精神、感動いたしました。ぜひ私めに、隣で貴女を守る栄誉を授けて下さい」
「…………い、痛い、ですぅ……やめ……」
リオウは陶酔したような恍惚の表情を浮かべて、逃がさないとばかりにエイルの肩を強く掴んでいる。しかもそのうえ、痛みを訴えているエイルを、さりげなく廃坑に押し込んだ。
エイルはそれに必死で抵抗するが、いかんせん腕力が違いすぎる。エイルの抵抗などまったくの無駄で、己の意思とは無関係に、ドンドンと無理やり前を歩かされた。
またもやこのパターンだ。もはやこれは呪いとしか思えない。
エイルは恥ずかしげもなく涙を流して、いやいや、と駄々っ子のように首を振る。
本気の本気で、嫌がっているというのに、けれど誰もエイルのその本音を解せない。
「死、死んじゃいますよぉ……エイル、攻撃魔術、何一つ……」
「ご安心を、聖女スゥ。攻撃は私が一手に引き受けます。ですので、暗闇を聖なる光で照らしていただき、あらゆる罠を見通していただければ! 私たち【黒色騎士団】の精鋭十二名、十五階層で発見されたオーガゴブリンの巣を駆除いたします!!」
「だ、だからぁ……その前に、エイル、死んじゃいますって……」
「ご安心を、聖女スゥ。我らの実力は、ランクSに匹敵しております。道中の雑魚魔族などに、遅れはとりません!!」
エイルの必死の懇願は、リオウやグラスはおろか、それ以外の十名の誰にも届かなかった。毎度のことだが、どれほど真摯に訴えてもやはり話が通じない。
「もう、嫌だよぉ……誰か、助けてよぉ……」
そんなエイルの涙ながらの祈りはしかし、虚しく廃坑の闇に消えて行った。
◆◇◆◇◆◇◆◇
はて、すでに一時間は経ったろうか。
ヤンフィはガラガラになった声で、これが最期とばかりに渾身の絶叫を張り上げて、ゴロゴロと地面を転がった。
けれど、大通りから誰かが駆け込んでくることは、やはりなかった。
(…………なぁ、ヤンフィ。さっきからずっと、何してるんだよ?)
沈黙を守っていた煌夜がふと、不審げな声で問い掛けてきた。さすがに一時間も気が狂ったように騒ぎ続ければ、気にもなったのだろう。
ヤンフィはそんな煌夜の問いに対して、馬鹿な真似を止めて無言で立ち上がる。ベチャ、と足元に広がる血の水溜りが音を鳴らした。
「…………聖女を、誘き出す為の演出、じゃったがのぅ……」
ヤンフィは血に汚れた顔を拭って、ひどく不愉快そうに眉根を寄せる。
まさかここまで叫び続けて、誰一人寄ってこないとは、あまりにも計算外すぎた。
大通りに届いていないはずはないというのに、これほどこのヒールロンドの街に住む人間たちは、他人の苦しみに無関心なのか――と、ヤンフィは嘆かずにはいられなかった。
(聖女って、こんな馬鹿なことで呼び出せるのか?)
弱々しい声音だが、ほんの少しだけ生気を取り戻した声で、煌夜が続いて質問してくる。
「うむ――ごほん! あー、そうじゃ。コウヤも大概お人よしじゃが、聖女はそれに輪を掛けて、信じ難いほどのお人よし――否、他者の為に生涯を捧げなければならない使命を帯びておるのじゃ。それ故に、苦しんでおる他者を、そのまま捨て置くことが出来ぬ性質じゃ」
ヤンフィは咳払いをして声を整えてから、嫌悪感あらわにそう吐き捨てる。ふぅん、と適当に相槌を打ちつつ、煌夜は、ならさ、と疑問を続ける。
(……どうして、こんな人目に付かないとこで、苦しんでるんだよ。もっと目立つところで、いまの馬鹿みたいな騒ぎしてれば、否応なく聖女って奴が来たんじゃないのか?)
「人目があるところでは、聖女を攫えぬではないか」
煌夜の疑問に即答してから、ヤンフィは引き千切った血塗れの左腕を拾う。ちなみに左腕を拾う直前、壊れた右拳も元通りに直した。
「…………そも聖女は、大陸で唯一の存在じゃ。それを衆人環視の中で攫ってみよ。すぐさまコウヤは指名手配犯じゃよ。追われるのも、狙われるのも、妾はお断りじゃ」
ヤンフィの言葉に煌夜は押し黙る。なるほど、と納得は出来た。
「ふむ……しかし、困ったのぅ。結局、聖女を捜す羽目になるわけか……あまり時間を掛けたくはないのじゃが……」
ヤンフィは血と土で汚れた左腕をとりあえず脇に抱えて、大通りに視線を向ける。楽しげな喧騒が相変わらず聞こえてくる。ふぅ、とこれ見よがしのため息を漏らした。
「かと云うて、ソーンと合流すると、目立つからのぅ……だいたい彼奴に、大怪我を見せるといちいち煩そうじゃし……」
そう呟いてから、ソーンと別行動したのがそもそも早計だったやも知れないと、ヤンフィは若干後悔した。せめてソーンに、聖女がこの街のどこに居るのか探らせてから別行動した方が良かったか、といまさら思う。
だが、それを考えたところで詮無きことである。ヤンフィは気持ちを切り替えた。
「……血も魔力も足りぬ。とりあえず、治癒魔術院に向かうか……」
ヤンフィはいったん聖女探索を諦めて、左腕を脇に挟んだままで大通りに踏み出した。
大通りは日中と云うこともあり、多くの人でごった返していて、掻き分けるほどではないが、よそ見して歩いていれば通行人と肩をぶつける程度には混んでいた。
けれど、そんな雑踏の中にあって、ヤンフィはなんら苦労なく通りを歩けた。どうしてか、行く手を阻む人波が、何もしなくても左右に割れてくれるのである。
「…………治癒魔術院は、こちらかのぅ?」
ざわざわ、とした喧騒がヤンフィに向けられている。また、恐怖の視線がヤンフィに注がれている。そんな注目を無視して、ヤンフィは聳え立つ金色の塔を目指して歩く。
誰もが脅えた顔でヤンフィを避けていた。その様はまさにモーセの十戒の如く――だがまあ、それも当然だろう。
引き千切られた左腕を小脇に挟み、傷口からは血を滴らせながら、平然とした表情で歩くヤンフィ。しかもその全身は、血と土で汚れきっているのだ。
不気味なことこの上ない。そんな格好をしていれば、誰もが避けてしかるべきである。
とはいえ、そんな不恰好にヤンフィは頓着していなかった。
どうせ、治癒魔術院で癒してもらうのだから、怪我をそのままにしておいた方が良いに決まっている。
「それにしても、この街は人情が薄いのぅ……これほどの重傷者に対して、誰も声を掛けぬとはのぅ」
ヤンフィは脅えた表情を浮かべる周囲を一瞥して、ふん、と鼻を鳴らした。これほど他人に不干渉な連中だからこそ、先ほどの絶叫でも反応がなかったのだろう。
不愉快な連中じゃのぅ、と小さく呟いた。
それを聞いた煌夜は、一言だけツッコんだ。
(……腕が千切れてて平然と歩いている人間に、声を掛ける奴は異常だろ)
そんなツッコミに、しかしヤンフィは無視で返して、そのまま大通りを歩いていく。
そうして800メートルほど歩いて、正面に巨大な金色の塔が現れたところで、一度立ち止まって周囲を見渡してみた。
大通りと接している三叉路の右手側に、街の案内図がある。
ヤンフィはそこに近寄って案内図を読む。すると、治癒魔術院は右手前の階段上、ヒールロンド坑道は右奥を直線――と、表記されている。
ふむ、と頷き、ヤンフィは治癒魔術院のある右手前奥の道に踏み出そうとした。
そのとき、ふと背後から潮騒の如き歓声が聞こえてくる。
「……なんじゃ?」
ヤンフィは何気なく振り返った。すると混み合っていた大通りの人波が、瞬間的にザァッと割れて、大きく道が開けた。
そこに現れたのは、なにやら物々しい装備をした騎士風の髭面男であり、ぞろぞろと似たような格好の連中がそれに付き従って歩いてくる。
有名な冒険者か何かだろうか、とヤンフィは怪訝な表情を浮かべて、その連中を眺めた。どうしてか、やけに気になった。
(……治癒魔術院に向かっておるのか?)
ヤンフィはさりげなく建物の陰に姿を隠して、見つからないように連中の様子を盗み見た。無駄に接触してしまい、厄介ごとに巻き込まれるのだけは避けたい。
「――ご安心を、この命に賭けても守ります!!」
ヤンフィが遠巻きに隠れて眺めていると、先頭を歩く髭面男が、力強くその胸元を叩いている。付き従わせているパーティの誰かに告げているようだが、その台詞が誰に対してかは分からない。
まあ大方、意中の異性でも口説いているだろう、とヤンフィは鼻で笑った。
「……ヒールロンド坑道とやらに向かうの――――ん!?」
ガチャガチャ、と不愉快な鎧の音を鳴らしながら、都合十三人ほどの連中は、三叉路の右奥へと進んで行った。
ヤンフィはそれを見送り、やり過ごせたか、と安堵したその瞬間、彼らの最後尾を歩いていた女神官を見て、自らの目を疑った。
その女神官は鮮やかな緑髪のベリーショートをしており、今にも泣きそうな顔で、暗く沈んだ空気を背負っていた。
そばかすの浮かんだ幼い顔立ちをしているが、歳のほどはおそらく煌夜と同じか少し上だろう。
身長はセレナと比べて、少しだけ高い。
美少女、ではないが、素朴な印象の可愛らしい少女である。
そんな女神官の両頬には、妖精族特有の魔術紋様がなかった。と云うことは、妖精族としては既に堕ちているようだが――そんなことより何より、その胸元にヤンフィの視線は釘付けになる。
女神官のそれなりに膨らんだ胸元には、四葉の白詰草を象ったブローチが飾られていた。
それは見間違えようもなく、聖女である証左――聖女に選ばれた人族にのみ与えられる装飾品だった。
「何故、聖女の証……が?」
ヤンフィは思わず目を見開き、温存していた魔力を瞳に篭める。途端に視界に映る世界は変わり、空中に漂う魔力のほか、感情の色までもが見分けられるようになった。
そしてそんな瞳が映した女神官の魔力濃度は、冒険者連中の中でもずば抜けて濃かった。抑えている様子でさえ、無意識に漏れ出る魔力は異常だった。
「…………タニアよりも、魔力が上やも知れぬ」
震える声で呟いて、あの女神官こそまず間違いなく聖女であることを確信する。
――しかし同時に、その事実がまったく信じられなかった。少なくとも、ヤンフィの常識からすると、まったくもって受け入れがたい。
「妖精族が、聖女、じゃと? そんなはずは…………」
遠ざかるその背中をマジマジと見詰めて、ヤンフィは何度も瞬きする。けれど何度見返しても、やはりその鮮やかな短髪は、間違いなく緑色である。
この世界に、緑髪の存在は妖精族以外存在しないのだ。人族の髪色は、個体差により多種多様存在しているのだが、それでも緑髪だけはあり得ない。
そして同時に、妖精族が【聖女】の称号を与えられることも、決してあり得ない。
「…………どういう、ことじゃ?」
ヤンフィは呆然とした表情で聖女を連れた一行を見送ってから、ふらふらと建物の陰から出てきて三叉路で立ち尽くした。
偶然とはいえ、ここで聖女が見つかったのは僥倖である。けれども、その聖女が妖精族とは、まったくの想定外過ぎた。
人族は他種族と比べて、圧倒的に寿命が短く、弱く、死に易い種族だ。それゆえに、聖女は本来、人族の中からしか選ばれることはない。これが、万能の神が定めた絶対の選定条件だったはずだ。
それがどうして、妖精族が選ばれているのか――否、それとも彼奴は聖女の偽者か。
ヤンフィはそんな自問自答に我を見失う。
(…………ヤンフィ? 何を、馬鹿みたいに、突っ立ってるんだよ?)
呆然と思考のループに陥っていたヤンフィに、ふと煌夜が問い掛けた。気付けば、たっぷり十五分近く、三叉路のところで立ち尽くしていたようだ。
ヤンフィは煌夜の言葉にハッとして、冷静な意識を取り戻す。
(……妾としたことが……うむ、すまぬな、コウヤよ。ついつい呆けておった――ともかく、往くか)
ヤンフィは次々と浮かぶ戸惑いをとりあえず全て飲み込んで、治癒魔術院ではなく、聖女たち一行が進んで行った道に向かい足を踏み出した。
一方で煌夜は、ヤンフィが何を驚いていたのか少しだけ気になったが、それさえもすぐに興味を失って、それきりまた黙り込んでしまった。
ところで、ヤンフィの危惧は至極単純だった。
聖女が仮に妖精族だったとすれば、誘拐の難度はだいぶ高くなるだろう。抵抗された場合、最悪、かなりの魔力を消費する覚悟が必要になる。
またあの聖女が偽者だった場合などは、輪を掛けて最悪だろう。誘拐自体が、まったくの無駄足になる可能性があるのだ。
「見極めねばのぅ――」
ヤンフィは深呼吸してから、静かに彼らの後を追った。
曲りくねった狭い道路をしばらく進むと、もはや使われなくなって久しい廃坑が見付かる。ここがヒールロンド坑道とやらだろう。
廃坑の入り口には、打ち棄てられた採掘道具がいくつも転がり、またその足元には錆びて使い物にならない線路が、真っ直ぐと坑道の暗闇に吸い込まれるように伸びている。
少しだけ駆け足でやってきたヤンフィは、坑道の入り口でなにやら集まっていた冒険者たちを見つけて、慌てて姿を隠した。
(…………何をしておるのじゃ?)
遠くからこっそりと眺めると、聖女を囲んでなにやら作戦会議をしている様子だった。集中して耳を澄ませるが、さすがに何を話しているか、内容までは聞き取れなかった。
するとしばし経ってから、突如、おぉ、という歓声が上がり、聖女を先頭にして、連中は迷わず坑道の中に姿を消す。
ヤンフィは連中がすっかりいなくなったのを見計らってから、その後をさらに追う。
「ところで――ここは何なんじゃ?」
坑道の中は当然明かりなどなく真っ暗で、狭く汚い一本道しかない。そんな中を、連中は光の魔術で先を明るく照らしながら、ぞろぞろと進んでいた。
ヤンフィは足音を立てないよう気をつけて後をつけながら、疑問符を浮かべて首を傾げる。
左右の土壁に触れてみても、何の変哲もない採掘場のようにしか思えない。
ここには、魔族の気配はおろか、その魔力残滓すらなかった。あれほど物々しい装備をした彼らが、ここに足を踏み入れる理由が分からない。
「……まぁ、常識的に考えれば、どこかへ通じている近道かのぅ?」
ヤンフィは連中の最後尾にいる戦士の背中が完全に見えない距離を保ちながら、ふとそんなことを呟いた。この坑道はきっと、目的地に至る為の近道の類であると考えるのが妥当である。
そんなこんなでしばらく歩いていると、狭い坑道はやがて大きな空洞へと繋がった。
警戒しつつ、ヤンフィはその空洞を覗き込んだ。そこには、連中がまた集合して、なにやら話している姿が見える。
「――本日の目的は、第十五階層で発見されたオーガゴブリンの巣です。聖女スゥ。そこまでの道のりは、リオウと共に、お任せします。聖なる奇跡でもって、我らを導いてください」
空洞の中は音が反響し易くなっており、彼らの会話はよく響いた。聖女スゥ、と云う単語に反応して、ヤンフィは隠れながら目を凝らす。
「ぁぅ……ぅっ……」
すると、か細い泣き声で首を振る女神官の姿があり、そんな彼女に対して、周りの冒険者たちは、聖女スゥお願いします、と熱の篭った声を上げている。
やはり間違いなくあの女神官こそが、今代の『聖女スゥ・レーラ・ファー』のようだ。
「…………それにしても、赤子のように泣きじゃくっとるのは、どうしてじゃ?」
ヤンフィは聖女の様子を見て、怪訝な表情を浮かべる。どうしてか聖女は顔をクシャクシャにして涙を流しながら、しきりに鼻を啜っている。
誰かに泣かされた直後のような有様だが、何があったのだろうか――
「行くぞ!! 気を引き締めろよぉ!!!」
そんな疑問を浮かべた直後、髭面男が気合の号令を上げる。それに呼応するように、ほかの十一名も元気よく、応、と声を上げる。ビリビリと空洞に音が響いて、だいぶ煩い。
連中はそうして、ザッザッと足音を鳴らしながら、空洞の奥にひっそりと隠れている半開きの扉の先に進んで行った。
聖女スゥを先導役に、蛇のようにぞろぞろと長く連なって歩いている。
「ふむ……オーガゴブリンの巣、のぅ」
完全にその姿が見えなくなってから、ヤンフィはひょっこりと空洞に姿を現した。
先ほど連中がほざいていた台詞を反芻して、ふむふむ、と聖女の誘拐計画を再考する。
(……この奥がどこに繋がっているのか分からぬが、どうやらオーガゴブリンの巣があり、彼奴らはそれを討伐する為にここまで来たようじゃのぅ。聖女はそれに付き従っておる、と云うわけか……)
ヤンフィは真剣な表情で空洞の中を見渡しながら、慎重に半開きの扉へと近付いた。
注意深く周囲を窺えば、この空洞は祭壇か何かのようである。足元の硬い地面はよくよく見ると、土砂で隠れているが、しっかりとした床がある。また空洞の壁のところどころには、土に埋もれた石柱らしき人工の建材が見える。
なるほど――おそらくここは、かなり昔に存在していた迷宮、もしくは神殿だったのだろう。
それが時間の経過で土に埋もれて忘れ去られていたところ、地震か何かの弾みで、坑道の一部と繋がったというわけだ。
つまりこの扉の奥は、冒険者が好物としている、攻略すべき迷宮と云う訳か――挑むのは必定であろう。
「さて――まぁ、そんな冒険者の習性なんぞどうでもよいわ。目下の問題は……聖女の実力が未知数と云うことかのぅ」
聖女を連れた彼らが冒険者であり、オーガゴブリンの巣を潰す為に、この迷宮に挑んでいるのは理解した。であれば、その討伐中の隙を突き、またはドサクサに紛れて、聖女を誘拐すれば事は済む。
しかし、聖女が抵抗した場合――十中八九、抵抗されるだろうが――その際に、聖女の実力が分からないことこそが問題である。
ヤンフィの知る過去の聖女たちであれば、よほどの状況を整えない限り、個人の戦闘力はそれほど強くはない。たとえば、ヤンフィが封印される前に戦ったことのある勇者の仲間の聖女ならば、その強さは、当時の冒険者のランクCにも届かないだろう。
「……じゃが、聖女が妖精族だとすれば、話は別じゃのぅ。甘く見積もっても、ランクAか……下手をすれば、セレナよりも強いじゃろぅ」
十全に作戦を練らないと、誘拐できずに返り討ちに遭ってしまう可能性がある。
「…………ぬぅ、厄介じゃ」
ヤンフィは唸るように呟いて、頭が痛いとばかりに額に手を当てる――だが、すぐさま気を取り直して、仕方あるまいか、と諦めた風に吐息を漏らした。
いざとなれば、なけなしの魔力を振り絞って、いま一度【桃源】を発動させる。
そんな覚悟を決めると、ヤンフィはひとつ頷いて、半開きの扉の奥へと足を踏み出した。
扉の奥は、等間隔に松明の名残が飾られた石壁の通路で、その左右の石壁には、かすかに発光する苔がびっしりとついていた。
おかげで真の暗闇にはなっていないが、一方そのせいで、先行している聖女一行の灯している光が見つけ難くなっている。
とはいえ、当分の間は一方通行の直線のようで、ヤンフィの暗視で見通す限りは、分岐点が見受けられない。
「――おい、こっち――いや、違――」
だいぶ先を歩く聖女一行の声が、石壁に響いて途切れ途切れに聞こえてくる。
迷宮内でそんな大声を出すとは常識外れだ、と呆れながら、ヤンフィはとりあえず小脇に抱えていた左腕をくっつけた。
まるで着脱式の義手の如く、血に塗れていた左腕は元通りに直る。そして直った左腕をグルグルと回してから、ベルトのソードホルダーに収めていた紅蓮の灼刃を抜き放った。
通路の奥から、魔族が蠢く気配が漂ってきていた。
それからしばらく一本道を歩いていると、先行している聖女一行の気配が唐突に消え去る。
見失ったか、とヤンフィは慌てた。
その直後に、ガコン――ギィイ、と。ヤンフィの背後、通り過ぎた道の途中から、鉄製の扉が開くような音が響いた。
「――なんじゃ!?」
何の気配も感じないが、ヤンフィは音に驚いてバッと振り返る。
紅蓮の灼刃を構えて、ジッと薄暗い通路を睨み付けた。
果たして、ゴロゴロゴロ、と質量の大きい岩が転がってくるような轟音が響いてきた。
非常に嫌な予感がした。ヤンフィの額を、つーと冷や汗が流れる。
ゴロゴロゴロ――と、音はドンドンと大きく響いてくる。
入り口からここまでは一方通行だった。途中、グネグネと歪曲してはいたが、避難できそうな部屋や脇道はなかった。
ゴロゴロという、背後の音を警戒しながら、ジリジリと後退るヤンフィの足元に、ふと何かが引っかかる。ん、と見下ろすと、それは粉々になった人族の骨だった。
よくよく見れば通路の端には、押し潰されて粉末のようになった人骨が幾つも転がっていた。
「…………罠の典型じゃのぅ」
ふぅ、と吐息を漏らして、ヤンフィは顔を上げた。すると、ちょうど曲りくねった通路の先から、音の正体が姿を現す。
――――想像通りに、通路の広さと同じ大きさをした巨大な球体が転がってきていた。
「ふむ……しかもこれは、魔力鋼製ではないか……いまの妾で破壊するのは、かなり骨が折れるのぅ」
転がってくる黒く巨大な球体をチラと見た瞬間、ヤンフィはすかさず通路を駆け出した。
巻き込まれても死にはしないが、煌夜の身体がこれ以上ないほどグチャグチャになってしまう。そうなれば必然、元に戻す為に魔力を消費することになる――それは避けるべきだ。
別段、下り坂でもないのに、黒い球体は段々とその速度を上げて、ヤンフィを追いかけるように転がり続ける。
その球体に追われながらも、ヤンフィは冷静に、姿を消した聖女一行を探した。
しかし、どこまでも続く一本道を駆け抜けながら、聖女一行の姿はまったく発見できなかった。のみならず、聖女たちの魔力残滓は、ずっと道なりに残っている。
「彼奴ら、何処に――あっ!? ふっ、なるほどのぅ――この迷宮、そういう構造か!」
そうしてしばらく全力疾走で駆け続けたヤンフィは、ふと通路の壁にある一文を目にして、得心いったとばかりに叫んだ。
その文字は非常に小さく、また擦れていて、しかも神代語で書かれていた。
『ここは果てしなく、未来もない。ただ過去を燃やす炎だけが、希望の扉を開かせる』
それは有名な英雄譚の一説だ。
魔神を討伐する旅の途中で、迷宮の無限回廊に閉じ込められた伝説の勇者が、万能の神から賜った救いの言葉である。
この言葉を賜った直後、伝説の勇者は過去を燃やして、無限回廊の時空魔術を打ち破るのだ。
つまり――この通路のどこかにある特定の松明を燃やせば、無限回廊から抜けられるということだ。
「妾としたことが、無限回廊に掴まるとは恥ずかしい」
ヤンフィはどこか楽しげに喋りながら、左右に飾られた松明を注意深く観察した。等間隔に並ぶそれらは、パッと見た限りでは何の違いも感じない。
けれど、そんな中で左側に飾られたひとつだけ、持ち手部分に『未来』と刻まれた松明があった。
「ふっ、なんとも洒落ておるわ――爆焔」
ヤンフィは迷わずその松明に炎を灯した。
ちなみに――神代語で『過去』という単語は、東方語では『松明』や『炎』の語源である。また、神代語でいう『希望』は、西方語で『未来』を意味している。
果たして、松明に炎を灯した途端、ガガッ、と音が鳴って、床に巨大な穴が開いた。
そして転がってきた黒い球体はそのまま床下に落下する。
遅れて、ガガッ、という音と共に巨大な穴が塞がり、松明の炎が独りでに消え去った。
どうやら正解の手順だったようだ。ヤンフィは小さく安堵の息を漏らす。
すると、その松明が飾られた壁面に、ひとつの魔法陣が浮かび上がる。転移の魔法陣だった。
「……さて、と。これは先が思いやられるのぅ」
ヤンフィは困った表情を浮かべながらも、迷わず転移の魔法陣に手を触れる。瞬間、淡い光に包まれて、ヤンフィの姿は別の場所へと転移した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ブォン――ザン、ガラガラ、と。
エイルのすぐ隣で、凄まじい剣戟の音が響いた。
エイルはその音にビクンと全身を震わせて、思わず纏っていた【神聖なる陽光】を解除してしまった。
ガキン、ドン、ザン――と、不穏当な音が鳴り響く中、エイルは恐る恐ると、その音の主であるすぐ隣のリオウに、脅えた顔を向けた。するとリオウは、そんなエイルに涼しい顔でニッコリと微笑んで、槍を持った骸骨兵の首を跳ね飛ばす。
骸骨兵の首はそのまま後方に転がり、グラスの足元で無慈悲に踏み潰された。
そんな骸骨兵の最期を看取ってから、エイルはガチガチと歯を鳴らしつつ、傍らのリオウに視線を向けた。
「ご安心を、聖女スゥ。骸骨兵など、物の数ではありません――さあ、私たちを導いてください」
するとリオウは、にこやかに言いながら、有無を言わせず、エイルの肩をグッと押してくる。
あぅ、と声にならないか細い音を出して、エイルはそれに逆らえずに、泣きながらも一歩前に進み出た。そして、ふたたび【神聖なる陽光】の魔術を展開して、全身を淡く光らせる。
それは橙色をした淡く優しい光であり、対象の状態異常を癒すと共に、不浄な空気や瘴気をも浄化する治癒魔術のひとつである。
エイルはそれを自分自身を対象に展開する。薄暗い闇の中に、的の如くエイルの姿が浮かび上がる。
「聖女スゥ――次は、どちらに進めばよいのです?」
淡い光を放ち出したエイルを見て、グラスは満足げに頷くと、当然のような口調で問い掛けてきた。その言葉にビクリと震えてから、エイルは涙で滲む視界を正面に向ける。
「さぁ、早く。聖女スゥ。また敵が現れてしまいます」
冷静な口調だが、急かすような台詞を吐いて、グラスは枝状に広がっている七又の通路を指差した。その手に握られた血塗れの長剣が、エイルの恐怖心をいっそう強くする。
迷宮に潜り始めてから、エイルの体感で三時間――実際は一時間ちょっとだが――既にエイルは、精神的に限界を迎えていた。これ以上、もう迷宮探索など行いたくない。
だがしかし、そんな泣き言をどれだけ声高に訴えようとも、グラスとリオウを含めて、この黒色騎士団の精鋭十二名は、誰ひとりとして話を聞いてくれなかった。
エイルは鼻を啜りながら、祈るように手を合わせて瞳を閉じる。すると途端に、その全身を包む淡い橙色の光が煙のように漂い始めて、七又の通路のうちのひとつに流れていく。
その奇跡の光景を見て、おぉ、と黒色騎士団の精鋭十二名は歓声を上げた。
【神聖なる陽光】は、治癒魔術のうちで、上級に区分される状態回復魔術である。通常は、対象者の状態異常を治癒する効果しかない。ところが、神に選ばれた聖女がこの対象となったとき、特殊な追加効果――天啓が付与される。
その天啓とは、複数の選択肢が存在するときに、その中から最も幸福な未来を指し示すことが出来る効果である。
それは主として、迷宮探索では絶大な効力を発揮するのだ。
あるときは正解の道順を導き出して、あるときは財宝を探し当てる。
だからこそ、聖女は冒険者たちに重宝される。特に、難度の高い迷宮に挑む際や、魔王属の根城に挑む際には、聖女が居るのと居ないのとでは攻略難度がまったく異なる。
ちなみに、この地下迷宮【アビスホール】は、非常に厄介なことに、誰かがひとつ階層を下りるごとに、階層構造がガラリと造り変わる仕組みである。
それゆえに毎回、冒険者たちは正解の道順を探らねばならず、それゆえに攻略が難航している迷宮だった。
つまりここを攻略する上で、聖女の存在はかなり大きい。それが分かりきっているがゆえに、エイルはあらゆる冒険者たちに声を掛けられるのだ。そして、利用されるだけ利用されるのである。
それを思うと、エイルは絶望的な気持ちになる。つぅと、瞑った瞳から涙が零れる。
我ながら泣いてばかりだ、とエイルは瞳を開ける――刹那、鼻先まで迫っていた槍の穂先が、傍らのリオウが振るう大剣により斬り飛ばされる。
「――――え?」
エイルは目を点にして、唖然とした声を上げる。しかしそれも当然だろう。
ふと目を開けたら目の前に、十を超える数の骸骨兵がいるのである。しかもそのうえ、その骸骨兵たちは全て、エイルに向かって突撃してくるのだ。
そんな光景を目の当たりにしたら、誰でも唖然とするに決まっている。
「ご安心を、聖女スゥ。たかだか骸骨兵の群れが現れただけです」
ところが、そんな洒落にならない状況下においてさえ、リオウは爽やかな笑顔を浮かべている。
「…………は、え? な、なんで……?」
エイルは恐怖に身体を硬直させて、キョロキョロと視線だけ辺りを見渡す。
すると、いつの間に囲まれていたのか、エイルを中心にして、都合三十を超える数の骸骨兵たちが、グラス率いる黒色騎士団と戦闘を始めていた。
「――ご安心を、聖女スゥ。この程度、我らの敵ではありません――おい、数が多いから爆発系の魔術で一網打尽にしろ!!」
エイルが脅えた表情でキョドっていると、グラスが根拠なく力強い断言をする。同時に、エイル目掛けて放たれた弓矢を長剣で切り払い、その髭面にドヤ顔を浮かべた。
しかしこの状況の何を見て、どう安心すればよいのか――エイルには、もはや理解できない。
エイルはただただ恐怖に身を竦ませて、祈りの姿勢で手を合わせたまま、ガチガチと歯を鳴らしていた。ちなみに、恥ずかしいことこの上ないが、ほんの少しだけ失禁してしまっている。
(…………た、助けて、よぉ……もう、やだよぅ……神様、エイル、何か悪いことしましたかぁ……?)
エイルは心の底から、神にこの不遇を嘆いてみせる。けれど、神は沈黙しか返してくれなかった。
さて一方で、恐怖により置物と化したエイルなどお構いなく、黒色騎士団は迫り来る骸骨兵たちと激戦を繰り広げる。
団長であるグラスは、長剣を振るいながら、嬉々として骸骨兵の群れの中に突貫していく。
副団長であるリオウは、置物と化したエイルのすぐ傍で、そのエイルに群がる骸骨兵だけを狙って、大剣を力任せに振るっている。
ほかの団員たちは、エイルと距離を取りつつも、一人が一体以上と戦い、着実に骸骨兵を屠っていた。
そんな乱戦を見せ付けられて、エイルはただひたすら、自身の不遇を嘆いていた。嘆く以外に、何も出来はしなかった。
今回は、前編後編の二部仕立てです。
コロコロと視点が変わってしまい、読み難いかも、ですが。