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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
第八章 極彩色の街ヒールロンド
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第五十三話 責任の所在

前回よりちょっとだけ早く投稿できた。

 

 重りを付けられて、底なしの泥沼に落ちていくような感覚があった。

 身体は金縛りにあったようにまったく身動きが取れず、ともすれば、まるで鎖でがんじがらめにされているように強い力で圧迫されている。

 周囲は一切の光がない暗闇で、まるで瞳が漆黒で塗り潰されたように何も見えなかった。

 声は出せず、呼吸もままならない。その上、この暗闇はまったくの無音空間で、ひたすら孤独を感じた。


 ああ、これは夢だな――と、煌夜は頭のどこかで納得する。自分は今、夢を見ていると理解する。これがいわゆる『明晰夢』と呼ばれる状態だろう。


(……あれ? そういや、俺って、いつの間に寝たんだっけ?)


 夢を見ている、ということは、すなわち睡眠中であるということ――だが煌夜の記憶は、気を失う直前までがひどく曖昧だった。

 んー、と唸って、記憶を掘り返すと、かろうじて思い出せるのは、エルネス・ミュールが魔法少女よろしく変身した場面が最後である。


(あれから……あれ? どうなったんだっけ…………っ、ぐぅ!?)


 煌夜は意識がはっきりとしだすと、当然ながら現在の状況が気になった――その途端、心の中で燻っていた孤独感が爆発して、寂しさが痛みとなって襲い掛かってきた。

 思わず吐き気を催して、抵抗する間もなくそのまま口から何かを吐き出していた。

 何も見えず、音も聞こえない為、どうなっているのか実際は分からない。けれど、嘔吐している感覚だけはやけにリアルだった。


(――あ、ああ、あああ……)


 そうして、唐突に次々と、煌夜の心に凄まじい悲愴が訪れる。いままで生きてきて、味わったことのない強烈な絶望、失望、悲観、虚無感。いっそ狂えたらと願いたくなるほど、正気で受け止めるには厳しすぎる悲しみ――そんな負の感情だけが、煌夜の心に襲い掛かってきた。


 それらの負の念は喩えれば、命を懸けて捜している家族――月ヶ瀬サラ、谷地虎太朗、天見竜也の三人が、目の前で暴行されているのを、ただただ眺めていることしか出来ないような、そんな苦痛だ。

 夢――それも悪夢でしか、こんな想いは味わうことなど出来はしないだろう。

 言い表しようのない絶望的な気持ちが、今すぐ自殺でもしたいくらいの悲嘆が、煌夜の胸のうちを満たして渦巻き続けていた。


 そんな折、ふいに幻聴が聞こえてくる。


『実はね――今度ヤンフィは、お姉ちゃんになるのよ』


 それは若く可愛らしい女性の声で、ひどく懐かしい気がする声だった。


『――本当!? 母様ははさま、それ本当なの!?』


 泣きそうなほどの郷愁を味わった矢先、そんな歓喜の声が暗闇に響いた。

 途端、感動に胸が震えて、嬉しさで小躍りしたくなる。しかしその想いは直後に、どうしてか胸を締め付けられるような悲しさを生んだ。


『――さすがディアナの娘だ。母親によく似て別嬪だし……生まれたときから調教した甲斐あって従順で、しかも聡明――』


 胸糞が悪くなるような気持ち悪い低音が聞こえる。

 すると、暗闇が血に染まったように紅蓮に変わる。去来するのは、憤怒と自責の念。同時に、心臓が潰れるような痛みがやってくる。

 しかし、次の瞬間――紅蓮に変わった暗闇に、強烈な光が射した。


『……貴女は何故、私にそんな大切なことを教えてくれるのですか? 私たちは殺し合う宿命でしょう? ああ、それとも――貴女も、私と手を組みたいと言うつもりですか?』


 目の前には、美しい黒髪をした絶世の美女が、白無垢のような和装で立っていた。それは思わず息を止めるほどの美貌だったが、煌夜の心に去来したのは、胸を掻き毟るほどの悲しみだった。


 その刹那――パリン、と。世界が崩れ落ちる音が響き渡る。

 そして、瞬時に理解する。


(ああ、なるほど。これは――俺の夢じゃなくて、ヤンフィの夢、か?)


 煌夜がそう自覚した時、それを合図に目の前が光に満ちた。

 煌夜は、自身の意識が急浮上するのを感じて、つい先ほどまでの狂おしいほどの激痛、悲哀、憤怒が霧散していくのを自覚する。

 目覚めが近づいていた。


「――――ヤンフィ様、大丈夫か!? おい、ヤンフィ様!!」


 目覚めを自覚した途端に、耳元で騒ぐ汚らしい男の声が聞こえてくる。思わず、煌夜は瞼を閉じたまましかめっ面を浮かべた。


「ヤンフィ様――人工呼吸、しないと駄目かな?」

「――――駄目なわけあるか!? 起きたっての!!」


 耳元で聞こえたあまりにも不穏当な台詞に、煌夜の意識は一気に覚醒して、慌てた様子で飛び起きる。

 そしてそのまま、逃げるようにベッドから転がり落ちた。


「なっ!? 起き、ちまった……!?」


 煌夜は寝ぼけた頭を振りながら、慌てて声のするほうに顔を向けた。

 果たしてそこには、見覚えにある半裸の変態――ソーン・ヒュードが驚愕の顔を浮かべていた。

 煌夜は咄嗟に周囲を見渡す。グラグラと揺れている足元と、見慣れた室内に、ここは――と、呟く。


「……ここは、グレンの中、だぜ。ヘブンドームが崩落する前に、念の為と思って近くまで呼び寄せておいたのが功を奏したんだ。紙一重で崩落に間に合って、脱出できたんだ。な? オレは役に立つだろ?」


 煌夜が目覚めて一瞬だけひどく残念な顔を浮かべたが、すぐに会心のドヤ顔に変わって、ソーンは自分の手柄を主張する。

 それに対して、煌夜は適当に相槌を打ちつつ、とりあえず起き上がった。


「ちなみに、ヘブンドームが崩落してからまだ半日経ってないぜ。だから、もうちょい寝て、休んでもいいと思いますぜ?」


 ヤンフィ様はお疲れですよね、と慮りながらも、私欲に塗れた欲望の双眸で、ソーンはずずいと顔を近付ける。

 相変わらずのその気持ち悪さに辟易しながら、煌夜は逃げるように部屋の窓に視線を向ける。

 窓から見える外の景色は、ちょうど朝焼けの白んだ空だった。


「……何が、どうなったんだっけか」


 煌夜は抜け落ちている記憶を探るように、頭を抱えてしかめっ面を浮かべた。

 しかしどうしてか、思い出そうとすればするほど、何かが頭から抜け落ちていく感覚がある。つい今しがたまで見ていた夢の内容は当然、ヘブンドームの記憶も曖昧になっていく。

 それでも煌夜は、必死になって記憶を掘り返す――かろうじて思い出せた最後の光景は、鏡張りになっていた四角い部屋に蹴破って入り、そこに捕らわれていた男女を目撃した瞬間だった。

 視界が怒りで真っ赤に染まって、それ以降は曖昧だった。


(生きてるってことは、何とかなったんだろうけど……助け、出せたのか?)


 唸りながら、懸命に記憶を漁るも、そこから先はまったく思い出せなかった。

 ただ事実として、いまソーンと共に飛竜グレンに乗っているということは、なんらかの目的を達して逃げ出せたことを意味する。


(……なぁ、ヤンフィ。鎖に繋がれてたあの人たち、どうなったんだよ?)


 煌夜は心の中でヤンフィに問い掛けた。

 煌夜の記憶がないということは、必然的にヤンフィが身体を操っていたということだ。つまり、ヤンフィに事情を聞くのが一番早い。

 ところが、何度ヤンフィに呼びかけても、珍しく何の反応も返ってこなかった。


「ヤンフィ様、大丈夫ですか? ここはもう安全っすから、もうしばらく寝たほうがいいと思います、ぜ?」


 煌夜がヤンフィとコンタクトを取ろうと試みていると、その沈黙の姿を眺めていたソーンが、いやらしい笑みを浮かべて近づいてきた。

 心配する素振りと口調だが、額面通りには受け取れない態度だ。

 誰がどう見ても裏がある提案である。


「どうやったのか知りませんが、あの魔道元帥ザ・サンを退かせたんだから――だいぶお疲れでしょう? ほらほら……後はオレに任せてくださいよ。ヤンフィ様は休んでください。責任もって、クダラークまで戻りますぜ」


 露骨に嬉しそうな声音で、いかにも『寝たら悪戯します』といわんばかりの顔つきで、ソーンが揉み手しながら煌夜の傍らに立った。

 煌夜は、肩に伸ばされたソーンのゴツイ手をさっと避けて、寝室を出てリビングのソファに腰を下ろした。

 とりあえず状況の整理が必要だろう。


「――なぁ、ちなみにさ。その……捕らわれてた異世界人たちって、どうなったか知らないか?」


 金魚の糞のように、煌夜の後を追ってリビングに入ってきたソーンに、煌夜は恐る恐ると問う。

 すると、ソーンはキョトンとしてから、なにやら怪訝な表情を浮かべた。


「…………ヤンフィ、様。かなり、疲れてますね? どうも記憶が混乱してるぜ? 異世界人たちって、そこの【奴隷の箱】に収納してるだろ?」


 ソーンはテーブルに載っているルービックキューブを指差した。

 煌夜は、収納、という表現に一瞬嫌悪感を浮かべたが、助け出せた事実に安堵の吐息を漏らす。


「つか、なぁ……ヤンフィ様。今の言語、まさか統一言語(オールラング)、か?」

「…………あ」


 ソーンの問いに、煌夜はふと気付く。

 そういえば、ソーンにはヤンフィが魔王属であることを説明してはいない。どころか、煌夜という存在についても詳しい説明はしていなかったし、そもそもソーンと会話する際は常にヤンフィが話していた。

 ソーンを信用していなかったこともあるが、説明するのが面倒だったこともある。

 また、ヤンフィの中の大前提として、用が済んだらソーンは捨て置こうと考えていたことが大きい。

 それを思い出して、煌夜は失敗したか、と小さく舌打ちする。


「ヤンフィ様、もしや――」


 そんな煌夜を前にして、突然ソーンは、ハッと何かに気付いた表情になり、口元を押さえてプルプルと震えだした。

 大胸筋がピクピクしている様が、非常に気持ち悪い。


「――三英雄ウィズと同じように、魔王属を体内に従えてるんですか?! そうか、だから!! 魔道元帥ザ・サンを撃退できたのか!! 凄ェ、凄すぎるッ!! 超絶、惚れ直したぜっ!!!」


 唐突に、大絶叫と共に目をキラキラと光らせて、ソーンは感動に打ち震えた。異様にテンションも上がり、うぉ――と、大はしゃぎしている。

 そんなソーンにドン引きしながら、煌夜は心の中のヤンフィに助けを求める。けれど、ヤンフィの反応はまったくなかった。


「ヤンフィ様、ヤンフィ様。オレはもう一生、貴方様に従うぜ!! 可憐で、優しくて、しかも強いなんざ――もう、理想どころの話じゃねぇ。究極完全超人じゃねぇか!! 地獄の底だろうと、異世界だろうと、どこまでも着いて行きます!!!」


 ソーンは興奮で紅潮した顔のまま、その場で平伏した。

 そんなソーンに、煌夜は重々しいため息を漏らす。まったくもってこのテンションに付いていけない。

 とはいえ、ヤンフィと相談できない以上、とりあえずソーンに事情を聞くしかないか――と、煌夜は致し方なしと割り切って、口を開いた。


「……あのさ、従うとか従わないとか、それはこの際置いとくけど。その……ここにいる異世界人たちは、どういう状態なんだ? というか、俺って、どうなってここにいるの?」

「はい、お答えします!! えー、まずは――」


 煌夜の問いに、ソーンはガバッと顔を上げて、任せろとばかりに胸を叩いた。そして、ヤンフィたちと別行動になった後からのことを、事細かに語りだす。


 ソーンの話によれば、経緯はこうだ――


 まず【霧の街インデイン・アグディ】の宿屋で、ヤンフィと決別した後、ソーンは飛竜グレンに乗って、すぐさまヘブンドームにやってきたらしい。当然許可証がないので入れなかったが、しかし裏技的な伝手を利用して、強引に入り込んだという。

 そしてヤンフィが殴り込みを掛けるであろうことを見越して、先回りしようと試みたようだ。

 ヤンフィの目的は捕らわれの異世界人たちである。なので、異世界人たちの状況を確認して、あわよくば助け出しておこうと、魔道元帥ザ・サンの私室に乗り込んだらしい。

 けれどそこで運悪くエルネスたちに見つかり、あわや処分されるところ――ヘブンドームに敵対勢力が攻め込んでくるという情報をでっち上げて誤魔化した、という。

 そのときちょうど、ヤンフィが乗り込んできたおかげで、それは真実味を帯びた。

 さて、それからソーンは、侵入者を倒すと息巻いて、その実、ヤンフィに状況を伝えに行こうとしたところ、お目付け役でミリイが付いてきた――これが、円形の大広間での邂逅に繋がる経緯だ。

 その後、ミリイとの戦闘だが、ソーン曰く、あえて殺さず時間稼ぎをしていたらしい。相性が悪くて倒せなかったのでは、と思ったが、煌夜は口を挟まなかった。

 そして、ソーンとミリイの戦闘が佳境に差し迫ったとき、ヘブンドームが大きく揺れたかと思うと、浮遊の魔術が解除されたという。

 当然そうなれば、あとは物理法則に従い、神殿は落下する――



「――――え? ちょ、待って? 浮遊の魔術が、解除……落下を始めた、って?」

「んあ? ああ、そのままの意味だが? というか、それほどヤンフィ様とザ・サンの戦闘が激しかったってことだろ? いやぁ、流石だぜ」


 ソーンの話を大人しく聞いていた煌夜だが、ヘブンドームが落下するくだりに差し掛かって、慌てた様子で口を挟んだ。


「…………あの神殿が、落下、したのか?」

「ああ? そりゃあ、当然だろ? あんなデカイ神殿が、支えなしで浮かび続けられるはずがねぇ――ま、だから、安心していいぜ。当面これで、異世界人を殺処分してた精魔の儀は行えないはずだ。あの複雑怪奇な魔法陣を組み上げるのは、かなりの時間が掛かるからな」


 ソーンは満面の笑顔でグッとサムズアップする。

 その言葉だけを抜き取れば、なるほど少しだけ安心できるだろう。これ以上、魔道元帥ザ・サンの毒牙にかかり、異世界人たちが攫われて殺されることはなくなるのだ。

 けれど――


「――――街は、どうなったんだ?」


 煌夜は恐る恐るとソーンに問う。最悪の想定が脳裏に過ぎりながらも、聞かずにはいられなかった。


 果たしてソーンの答えは、まったく想像通りだった。


「どうなったも何も……そりゃあ、綺麗さっぱり消滅だぜ? ヘブンドームの大きさと質量が、あの高度から落下したんだ。誰一人助からねぇだろうな。つか、チラッと見たけど、圧巻なほど巨大なクレーターが出来てたぜ」

「…………」


 煌夜は絶句してから、ギリッと奥歯を噛んだ。

 人助けをしようとして、攫われた何人かを救おうとして、代償に街ひとつが消滅した。

 その事実は、煌夜が背負うには重すぎる――だが、認めて受け止めなければならなかった。


「……何人くらい、それに巻き込まれたんだ?」

「――は? 巻き込まれた、って、神殿の落下にか?」


 ソーンは素っ頓狂な声を上げて首を傾げた。それに対して、煌夜は力なく頷いた。


「ああ、そうだな。【霧の街インデイン・アグディ】の総人口が五千で、ヘブンドームに居た人間がだいたい五百だから、単純計算で五千五百ってとこだぜ? まぁ、幸いにして、インデイン・アグディ自体が孤立した街だから、被害は街ひとつで済んだけどな」


 あっけらかんと言い放つソーンに、煌夜は声が出なくなる。口の中が急速に渇き、目の前が真っ暗になったように錯覚する。


 結果――煌夜は目先の何人かを救おうとして、罪のない、関係もない五千人規模の人間たちを一瞬のうちに殺したのだ。意図せず、過失ではあっても、これは決して許されることではないだろう。


「――ぐっ……」


 煌夜は思わず口を押さえた。

 顔面は青白くなり、胃からは酸っぱいものがこみ上げている。これで吐かなかったのは奇跡に近い。とはいえ、口の中には血と吐瀉物の味が広がっていた。


「ヤンフィ様!?」


 煌夜の様子が激変したのを見て、ソーンは慌てる。だが、介抱しようと近づくソーンを手で制して、煌夜は口を押さえながらトイレにダッシュした。


「ど、どうしたんです、ヤンフィ様? ザ・サンに何か呪いでも付与されたんですか!?」


 げぇげぇ、と便座に向かって吐きまくる煌夜に、不安そうな表情でソーンが駆け寄ってくる。


「……く、そっ……ぐぅ――」


 煌夜は涙目になりながら、胃の中をすっかり空っぽにする。そもそもそれほど食べていなかったので、吐き出す物はすぐに打ち止めになった。しかし、血と胃液と吐き気はまったく治まらなかった。

 そんな煌夜を、ソーンはおろおろとただ見守っていた。


(……コウヤよ。何をそんなに、悲しんでおる?)


 ひとしきり吐きまくった煌夜に、ようやくそのとき、無反応だったヤンフィが不思議そうに声を掛けてきた。

 その口調から推察するに、ヤンフィは珍しく状況を把握していない様子である。


「おい、ヤンフィ……お前、あの神殿を……落とした、のか?」

「――――んぁ? ヤンフィ様? 何を言ってるんだ?」


 煌夜は息も絶え絶えに、しかし怒気を孕んだ台詞を吐いた。それはヤンフィに向けた台詞だったが、事情を知らないソーンは疑問符を浮かべる。

 一方で、ヤンフィはその言葉だけで、煌夜が何を苛立っているのか理解した。


(ふむ――なるほど、のぅ。やはりコウヤは優しいのぅ)


 ヤンフィがしみじみと呟いたその言葉を聞いて、煌夜は怒りを爆発させる。


「ふざ、けんなっ!! ヤンフィなら、神殿を落とさず、何とか出来たんじゃないのかっ!?」


 煌夜は口の周りを汚したままで、思い切り壁に拳を叩き付けた。

 その様に、うぉ、とソーンは驚いて一歩退く。

 煌夜が何をそんなに興奮しているのか、ソーンには理解できていない。

 そんな煌夜に、ヤンフィは教え諭すような口調で告げる。


(コウヤよ。確かに妾ならば、あの浮遊神殿を落とさずに済ますことが出来たぞ? 人的被害を最小限に食い止めた上で、あのタイヨウなる強敵を退けることが出来た。じゃが――最小限の被害には、コウヤが含まれていた)

「そんなの――――クソ、っ!!!」


 煌夜はすかさず反論しようとして、ヤンフィが何を言いたいのか理解する。

 ヤンフィはそんな煌夜の理解に頷いて、そうじゃ、と言葉を続けた。


(妾にとっては、コウヤとその他の有象無象は、等価値ではない。コウヤ独りを救う為ならば、妾はどれほど大勢の人間が死のうが関係ないぞ?)


 涼しげに続けたヤンフィに、煌夜はもう一度、トイレの壁に強く拳を叩きつける。


「…………く、そ……」


 心底悔しそうに俯きながら、煌夜は口元の吐瀉物を手で拭った。ヤンフィに対するこの怒りは、そっくりそのまま、自分自身の不甲斐なさに対する怒りでもあった。


 そもそもヤンフィは、煌夜の命を救ってくれたうえに、異世界人を助けるという無理難題まで叶えてくれたのだ。

 その結果として、他人を大勢巻き込んで、殺してしまっただけである。

 つまるところ、元を正せば全ては煌夜が原因であり、煌夜の選択が間違っていたのだ。

 ヤンフィを責めるのは端からお門違いである。とはいえど――


(――こんな大勢……無関係な人たちを巻き込まなければ、どうしようもなかった、のか?)


 血が滲むほど拳を握り締めながら、幾分か冷静になった煌夜は、まったく意味の無い質問をヤンフィに問うた。

 もはやいまさらの質問に、しかしヤンフィは即答してくれた。


(うむ、無理じゃった。唯一この未来しか、コウヤが生き残った未来はなかった――妾の読みが甘かったようじゃ。タイヨウとやらの実力を見くびっておったわ。それについて、素直に謝罪しよう。すまぬ)


 ヤンフィはひどく申し訳なさそうな声で謝ってきた。

 別段、ヤンフィに落ち度はないだろう。けれどヤンフィは、未知の相手の実力を軽んじていたと、それが自身の過ちだと、本気で反省していた。


「…………ヤ、ヤンフィ様、大丈夫か?」


 ふと、ヤンフィと煌夜が心の中で会話していると、突然黙り込んだその姿を見守っていたソーンが、腫れ物に触れるような態度で声を掛ける。

 はぁ、とヤンフィと煌夜は同時にため息を漏らした。ゆっくりと感傷に浸る暇さえないのか。


「俺――――妾は、問題ない。気にするでないわ」


 煌夜が答えようとした瞬間、それを引き継いでヤンフィが答えた。同時に、煌夜の意思は強制的に封じ込められて、身体のコントロールが奪われた。

 不思議なことに、途端、スーッと吐き気が治まる。後悔は尽きないが、ほんの少しだけ楽になる。


「そ、そうか? んじゃあ、とりあえず話、続けるか?」

「――いや。汝の状況に興味はない。それよりも、今後の方針を話したい」


 無理やり身体のコントロールを奪われた煌夜は、一気に力が抜けて、そのままヤンフィの支配に身を任せた。いや、というよりも、自責の念に押し潰されそうで、動く気力がまるで湧かない。

 一方で、ヤンフィは涼しげな表情のまま、汚れた口周りをサッと洗ってから、リビングのソファに腰を下ろした。


「さて、ソーンよ。妾はいつ気を失って、どれくらい眠っておった?」

「ああ。気絶したのは、グレンに乗った途端だぜ。よっぽど疲れてたみたいで、ぐっすりと寝てたな。けど半日くらい経って、突然苦しみだしたから、こりゃヤバイ、と思ってよ――」

「――そうか。ふむ、理解した」


 ソーンの言葉を途中で遮り、ヤンフィはおざなりに頷いた。


「で、いまはどこを飛翔しておるのじゃ?」

「あー、ここは――――まだ【魔法国家イグナイト領】だぜ。いまはちょうど……【極彩色の街ヒールロンド】を通り過ぎた辺りかな?」


 当然ながら、煌夜はもちろん、ヤンフィも聞き覚えのない街だった。聞いたところで、どこにいるのかまったく理解できない。

 しかしヤンフィはそれを聞くと、しばし思案顔を浮かべてから、テーブルをトントンと指で叩いた。


「ソーンよ。その【極彩色の街ヒールロンド】とやらには、治癒魔術院はあるかのぅ?」

「へ? 治癒魔術院? そりゃあ、もちろんあるぜ? なんだ、どっか怪我したのか?」


 ヤンフィの台詞に、心配げな顔を浮かべるソーン。それを無視して、ヤンフィは言葉を続ける。


「ふむ。ならば、そこに寄るぞ。今すぐ飛竜を止めよ」

「はぇ? 寄る、んですか?」

「うむ。じゃから、すぐに止めよ」

「――は、はい、了解!!」


 断言するヤンフィに、ソーンは慌てて返事をした。すると、グラリと室内が大きく揺れる。まっすぐに飛んでいたグレンが、急な旋回をした影響である。


(なんで、街に寄るんだよ……)


 弱々しい声で、煌夜はヤンフィに問い掛けた。

 捕らわれていた異世界人たちを助けた今、もはや当面の目的は達している。道中の街に寄る意味が分からなかった。

 治癒魔術院の有無を尋ねていたことから、治癒魔術院に行くことが目的なのかも知れないが、それなら一刻も早く戻って、セレナに治癒魔術を掛けて貰ったほうがよいだろう。

 そんな煌夜の問いに、ヤンフィはひどく言い難そうに呟いた。


(……タイヨウとの戦闘で、いささか妾は魔力を使い過ぎた。現状、コウヤの身体、と云うよりは生命力じゃが――それを維持するのが、困難な状況になってしまったのじゃ。じゃから、至急、対策を採る必要がある)

(対策? つか、生命力の維持って……あれ? 治癒魔術院じゃ、俺を回復させられないんじゃないのか?)


 ヤンフィの答えに、煌夜は疑問で返した。

 ヤンフィは以前、煌夜の身体を癒すには冠級の治癒魔術が必要だと言っていた。そして、それはいまの時代では、治癒魔術院では到底不可能と聞いている。

 だいたい、街で煌夜の体調を回復できるのであれば、今までもそうすればよかったのではないか――


(――もはやここに至っては、冠級の【蘇生】などと高望みはせぬ。聖級にさえ届かなくとも良い。上級でもなんでも、兎も角、治癒術師にコウヤの身体を癒してもらわぬと、何もかもが手遅れになる)


 ヤンフィの声は深刻な響きを持っており、切羽詰まっている様子が嫌というほど理解できた。

 そして、ヤンフィがそれくらい焦るほど、煌夜自身の身体が悲惨な状態だと思い知る。

 ひいてはつまり、そこまで追い詰められるほど、ヘブンドームでの戦闘が苛烈だったということだ。


 しかしそれほど深刻な状況だと聞いても、煌夜の心にはあまり響かなかった。ただただ諦観にも似た絶望感がやってきただけで、疲れたように吐息を漏らした。


 煌夜は重苦しい気持ちのまま、ただ一言、ああそうですか、と呟いて押し黙る。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 極彩色の街ヒールロンド――魔法国家イグナイト領内で、最も多くの魔術師が暮らしており、魔術の研究が盛んな街である。また、大陸全土で見ても、最大規模の魔術師育成機関がある街だ。

 魔術師育成機関、その名を【イグナイト魔法学院】と言う。

 そこは、魔術の習得だけに特化した学院で、ここで教えてくれることは、ただひたすら魔術の知識のみ。あらゆる一般教養や常識はカリキュラムに存在せず、ただただ魔術の研究を行う学院である。

 さて、そんな【イグナイト魔法学院】は、街中に点在する九つの巨大な塔から成っている。

 九色に塗られたそれら色鮮やかな塔は、一つ一つが魔術の属性ごとに分かれており、九賢者(ナインヴァイゼ)と呼ばれる教授たちによって運営されていた。

 ちなみに、赤、青、黄、緑、白、黒、紫、橙、虹色の九色をしたそれらの塔こそが、ヒールロンドの名物であると同時に、『極彩色』の異名を冠する所以である。



 ――と、そこまでの説明を聞いて、ヤンフィは怪訝な表情を浮かべて、ソーンに問い掛けた。


「……属性ごとで九種類と云うと、九つ目は、何の属性じゃ?」


 魔術は、火、水、土、風、光、闇、無、時空の全八属性である。

 ここに含まれない属性は存在せず、派生系で存在する合成魔術は、八属性のうち、複数の属性を持つ魔術だ。

 よもや、ヤンフィが封印されている千年間で、何か新しい属性でも開発されたのか――と、ヤンフィはあり得ないと思いつつも、首を傾げる。

 するとソーンは、ニヤリと気持ち悪く微笑みながら、指を鳴らした。


「さすがヤンフィ様、博識だぜ。そうそう、魔術属性は八しかない。だから九つ目って言われりゃ、何なんだ、って疑問を持つよな? それは、ずばり治癒魔術だ。このイグナイト魔法学院じゃ、天賦の才である治癒魔術を、魔術属性のひとつと区別して、日夜研究してるんだぜ」

「ほぅ…………それは重畳じゃ。図らずとも、かのぅ」


 ヤンフィは平静を装いながら、いささかの期待に胸を震わせた。

 治癒魔術を研究しているということは、必然的に、他の街よりも強力な治癒魔術師が居る可能性が高いということである。

 聖級の治癒魔術などはとっくに諦めていたが、もしかすると思わぬ幸運に恵まれるやも知れない。


「のぅ、ソーンよ。であれば、その治癒魔術を研究しておる教授とやらなら、聖級の治癒魔術くらいは行使できるかのぅ?」

「――聖級、っすか? それは、どうだろう……上級なら間違いなく扱えるでしょうけど。治癒魔術は、聖級の壁が異様に高いからなぁ」


 困った表情で唸るソーンに、しかしヤンフィは満足げに頷いた。

 限りなく可能性が低かろうと、期待が出来るのならば、それで十分だ。少なくとも、上級の治癒魔術師が確実に居るのだ。なればこそ、ヒールロンドに寄った意味はある。


 そんな会話をこなしながら、ソーンにも治癒魔術院に寄るのが目的だと伝えたうえで、だだっ広い平野を一時間ほど歩いた。

 そうしてやっと、高い塀に囲まれた【極彩色の街ヒールロンド】の正門に到達する。


 ヒールロンドの巨大な正門は、真昼間だというのに完璧に閉ざされていた。

 だが、その正門の脇、通用口のような小さな入り口のところには、武装した衛兵が六人ほど、暇そうに座って駄弁っていた。

 彼らは、まっすぐと正門に接近してきたヤンフィとソーンに気付くと、半裸の巨漢ソーンを凝視して、すかさず武器を構えた。

 警戒は一瞬で最大になり、恐怖と殺意が入り混じった視線が、ヤンフィたちに突き刺さる。

 はぁ、と疲れたようにヤンフィはため息を漏らす。また同時に、無抵抗をアピールするため両手を挙げた。

 一方でソーンは、そんな視線を浴びて、いかにも不愉快そうに眉根を寄せてから、地面に唾を吐きながらメンチを切る。


「――貴様ら、いったい何者だっ!! ヒールロンドに何の用があってやってきた!? 事と次第によっては、容赦はしないぞ!!」


 衛兵たちは端からソーンを賊か何かと断定しており、問いながらも話を聞く腹積もりはなさそうだった。弁解の余地なく、隙を突いて攻撃する算段が伺える。

 そんな衛兵たちに、ヤンフィは一歩前に出ながら、弁明してみる。


「すまぬ。妾たちは旅の冒険者でのぅ。つい先日、道中で盗賊に襲われてしまい、何とか逃げ出すことには成功したものの、身包みを剥がされてしまってのぅ……知己が街におるので、それを頼りにここまで来たのじゃが……入れて貰えぬかのぅ」


 もはやほんのかすかな魔力消費さえ節約したいヤンフィとしては、どんな些細な問題であろうと、騒動を起こすのは遠慮したかった。ゆえに、ソーンに睨みを利かせて黙らせて、身包みを剥がされた態で衛兵の同情を引いてみる。

 ヤンフィのその弁明に、一瞬だけ哀れみの表情を浮かべるが、けれど衛兵たちはすぐさま警戒を強めて、表情を引き締めていた。


「その話が真実ならば、気の毒だとは思う。だがだとしても、街に入るには通行証を示す必要がある。持っていないのならば、悪いが通すわけには――」

「おい――通行証ならあるぜ。早く開けろ、雑魚が」


 ヤンフィに武器を突きつけていた衛兵にそのとき、苛立った様子のソーンが吐き捨てる。それと同時に、地面に黄ばんで色褪せた紙面を投げ捨てた。

 露骨に嫌な顔を浮かべながら、衛兵の一人がそれを摘んで、文面を眺めていた。

 ちなみにその紙面は、例によって例のごとく、ソーンのブーメランパンツの中から取り出された物である。


「…………通行証、だ」


 衛兵の一人がそれを読んで、驚愕の視線をソーンに向ける。ほかの衛兵もざわつきながらそれを覗き込み、間違いなく通行証であることを確認していた。

 ソーンは、どうだ、といわんばかりに踏ん反り返る。まったく納得いかない様子の衛兵たちに、ヤンフィが追い討ちを掛けた。


「すまぬのぅ。妾たちが怪しいのは重々承知じゃが、これでなにとぞ見逃してくれぬかのぅ?」


 戸惑った様子の衛兵に、アドニス金貨一枚をさりげなく手渡すヤンフィ。それは痛い出費だが、こんな下らないところで時間を浪費したくはない。

 ヤンフィのそれが功を奏したようで、衛兵は渡された金額に目を丸くしつつ、仕方ないと頷いて引き下がった。


「分かった……通行証は確認できたから、ここから入るがいい」


 衛兵たちは一斉に武器を下ろして、正門の脇にある人一人分だけが通れる通用口を開けて、ヤンフィとソーンを街の中に促す。

 ありがとう、と感謝の言葉を投げつつ、そそくさと街に入った。


「…………ずいぶんと、警戒が強いのじゃのぅ」


 賑やかな街中に入るが否や、ヤンフィは傍らのソーンにぼそりと問い掛けた。

 振り返れば、通ってきた通用口は、二人が街に入ってすぐにまた閉じられていた。つまり、この街は自由に出入りできないということである。

 それほどまでに侵入者対策をする必要があるのだろうか――否、それとも、街からの逃亡者を警戒しているのだろうか。

 どちらにしろ随分と閉鎖的な街だな、とヤンフィは思った。

 すると、ソーンはその質問に、ああそれは、と口を開ける。


「ちょうどいま、巡礼の旅で【聖女スゥ】がヒールロンドに滞在してるから、警戒が厳しいんでしょうぜ」

「――――な、に?」


 サラリと呟いたソーンの台詞に、ヤンフィはぴたりと立ち止まった。ん、とソーンはそんなヤンフィに首を傾げた。


「どうかしましたか、ヤンフィ様?」

「ソーンよ。汝はいま、なんと云った? 聖女スゥが、この街に居る、と云うたのか?」

「?? そうすけど、それが? 聖女スゥがどうかしました?」


 顔面にクエスチョンマークを浮かべたまま、ソーンはチラリと周囲を一瞥した。すると、半裸のソーンを遠巻きに眺めている通行人たちが、慌てた様子で顔を背けて逃げていった。自然な反応である。


「とりあえず、目的は治癒魔術院ですよね? 治癒魔術院なら、こっちのようですぜ?」


 道の脇に立っていた街の見取り図を確認すると、ソーンは人で溢れている大通り、その先に聳え立っている黄金色の塔を指差す。

 だが、それには答えず、ヤンフィは心の中で煌夜に語りかける。


(……コウヤよ。予期せぬ僥倖じゃ。もしかすると、汝の身体、完全に蘇生できるやも知れぬ)

(へぇ、そっか……)


 嬉しそうな声のヤンフィに、けれど煌夜の反応は非常に薄かった。というよりも、そんなことに気を向けている余裕がなかった。

 いま煌夜の心を捕らえているのは、大勢を巻き込んで殺してしまったことに対する罪悪感である。

 反応の薄い煌夜に、ヤンフィは、重症じゃのぅ、と漏らしてから、気持ちと思考を切り替えて、すかさず行動指針を変更する。


「ヤンフィ様? そんなとこ突っ立って、どうし――」

「――ソーン。汝はいますぐ、この街で一番安全で人目に付かぬ宿屋を確保せい。そうしたならば、待機しておれ。妾は野暮用を思い出したので、別行動をする」

「――は? え? ちょ、ど、どういうことっすか!?」


 ヤンフィは有無を言わさぬ口調で告げると、ソーンが向かおうとしていた大通りではなく、薄暗い脇道に足を踏み出した。

 ソーンは慌てふためきながらも、そんなヤンフィを止めようと肩を掴んできた。その太い腕をバンと振り払って、ヤンフィは強い口調で命令する。


「理由を説明する必要を感じぬ。もう一度だけ云うぞ、ソーン。宿屋を確保して、待機しておれ」


 ギラリと殺意を込めた視線で睨み付けて、ヤンフィはそのまま足を踏み出す。と、一瞬だけ立ち止まって、振り返らずに付け足した。


「そうじゃのぅ。妾は用事が済んだら、またここに戻ってくる。合流場所はここじゃ」


 ここ、と言いながら足元を指差して、ヤンフィはそれきり足早に脇道を進んでいく。ソーンは唖然として口を開けたまま、そんなヤンフィの後姿を見送っていた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 聖女スゥ。

 その本名は、スゥ・レーラ・ファー・エイル。

 第七十六代目の聖女。第七十六代目の、スゥ・レーラ・ファーである。

 聖女とは、人族の中で最も治癒魔術に長けた者に与えられる称号であり、同時に、万能の神に祝福された乙女に授けられる名前でもある。

 また、聖女スゥ・レーラ・ファーは、いかなる時代にも常に独りしか存在を許されない神の使徒だ。


 さて、そんな聖女に認定された乙女は、その瞬間から世界を巡礼する義務が与えられる。

 聖女の使命は、多くの人々をその治癒魔術で救い、多くの魔族を駆除すること――たとえそれを、本人が望むと望まざるに関わらず、だ。



「……はぁ」


 エイルは宿屋のベッドで毛布を被ってうずくまりながら、重々しくため息を漏らした。

 窓の外を見れば、もう日は昇りきっている。本日の巡礼の時間は、とっくに過ぎている。

 しかし、宿屋から出る気になどなろうはずはない。


「…………はぁ」


 妖精族を思わせる鮮やかな新緑の髪を手で梳いて、抜け落ちた何本かの髪を眺める。

 神の祝福という名の奇跡――自慢の黒髪が、全て緑色に変わった瞬間を思い出して、エイルはまた嘆いた。


「………………もう、嫌だぁ」


 エイルはベッドのうえで、猫のように身体を丸める。もうこれ以上、聖女として振舞うのが心底嫌で仕方なかった。

 聖女になって早二年。しかし、もはや聖女という役割をこなすのは、精神的に限界だった。


 初めの一年は、こんな自分でも他人の役に立てると意気込んで、無我夢中で巡礼の旅を続けた。

 行く先々で奇跡のような治癒魔術を行使して、自らの命を削って他人を救った――何の見返りもなく、だ。けれどそれでも、感謝の言葉を貰えるのが嬉しくて、ひたすらに頑張ったのだ。

 見返りはなかったが、不自由もなかった。巡礼先では常に歓迎されたし、何を買うにも無料である。

 しかし、だ。それを喜びに感じられたのも、本当に一年間だけだった。

 果てしない巡礼の旅。

 毎日、毎日、見知らぬ誰かを癒す旅。

 それだけならまだしも、討伐ランクA以上の魔族退治には同行しなければならない義務がある。


「……意味が分からないよぅ……」


 エイルはつい四日前の魔族退治を思い出して身体を震わせた。

 あれは、オーガゴブリンの群れを退治する仕事で、討伐依頼自体は達成出来たのだが、討伐後に、オーガゴブリンの血を浴びて正気を失った男性が、エイルに襲い掛かってきたことがあった。

 あわや貞操の危機を迎えるところだったが、チームリーダーが躊躇なくその仲間の首を切り落として、エイルを助けてくれたのである。

 そのときのリーダーの笑顔が、恐怖の象徴として瞳に焼き付いていた。


 そんなことを思い返しながら、エイルがベッドでグダグダしていると、部屋のドアが控えめにノックされる。

 コンコン、と等間隔に叩かれる音に、エイルはビクッと身体を震わせた。

 毛布を思い切り頭から被って、ガタガタと震えながら息を止める。


「聖女スゥ。聖女スゥ。起きてください。迎えに参りました」


 凛と響く美しい声音。

 けれど、その声はいまのエイルにとっては、地獄への誘いにしか聞こえない。


「聖女スゥ――致し方ありませんね。失礼します」


 ガチャリ、と鍵が閉まっていたはずの扉が軽々と開かれて、声の主が室内に入ってくる。


「……お疲れのところ失礼いたします、聖女スゥ。申し訳ありませんが、そろそろ討伐に向かうお時間なので、ご無礼とは思いましたが、お迎えに参りました」


 爽やかな笑顔で、金髪の美貌を向けてくる青年騎士。

 本日の討伐依頼を請け負っている冒険者チームの副団長である。

 名前を確か――リオウとか名乗っていた気がする。


「…………なんで、また……オーガゴブリンの討伐なのよぉ」


 エイルは毛布を被ったままで、涙交じりに呟いた。

 けれどその台詞を青年騎士リオウは笑顔で流して、慇懃無礼に毛布を剥ぎ取った。


「聖女スゥ。さあ、準備を整えていただき、すぐに向かいましょう。団長も団員も、みな首を長くして待っております」

「…………嫌だぁ、嫌なのぉ。だ、だって、エイル、治癒魔術しか使えない……」

「治癒魔術さえあれば、それで問題ありませんよ、聖女スゥ。ほら、急いでください。早くしてくれないと、私も困ります」


 肌着姿でいじけているエイルを見てもなんら動揺せず、リオウは当然のように笑顔のまま、椅子に掛かっていた修道服をベッドに置いた。そして、エイルの意思などまったく無視して、さあ、とその場で催促をしてくる。


「エ、エイルね……昨日、橙の賢者様に、夜遅くまで付き合わされてて……ほとんど寝てないの……」


 泣き落としが無意味と理解して、エイルは肌着の前を隠しながら、お願い、と素直に懇願した。

 その言葉は事実である。エイルは昨日、治癒魔術院で十時間ほど治癒を続けてから、研究と称して軽く軟禁されて、開放されたのは、深夜三時を回っていた。


「左様でございましたか、聖女スゥ。それはお気の毒に……」


 リオウはエイルの台詞に憐憫の表情を浮かべて、申し訳なさそうに答えた。


「……それほどの使命感がおありとは、私、感服いたします。そんな激務だというのに、此度の討伐もご同行いただけるなんて……私、命に代えても聖女スゥを御守りいたします!」


 リオウは感激とばかりに声を震わせながら、しかしエイルの意思や人権などまったくの無視で、自分本位の台詞を吐いた。エイルはその台詞に、本当に心底嘆いた。

 エイルには、自由意志はまったくないらしい。そしてそれが、聖女の役割であるらしい。


「…………ぁぁぁあ……」


 エイルは声にならない悲鳴を上げて、涙ながらに修道服を纏った。このまま着替えずに駄々をこねていても、きっと強制的に着替えさせられるに違いない。

 実際に、以前も同様の目にあっている。


 しかしそれにしても、やはり無駄だったか、とエイルは強い諦観に絶望していた。

 どれほど訴えても、どんなに事情を説明しようとも、聖女は常に他者のために生きなければならない。

 ――そんな信条は、エイルにとっては、糞食らえでしかない。


 心のうちで、そんな悪態を吐いてはみたが、現実は流されるままである。

 エイルは死んだ顔で、装備を整えた。

 そうして、ようやく着替えてくれたエイルを見て、リオウは満面の笑みを浮かべつつ、逃がさないよう腕を掴んで部屋から連れ出した。



 エイル――第七十六代目、聖女スゥは、こうしてまた、強制的に宿屋から連行された。

 目指す先は、ヒールロンドの街が保有する地下迷宮である。


とりあえず、新章。

レギュラーの新キャラが登場する章です。

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