第六話 迷宮攻略と、他愛ない世間話
ヤンフィから教えてもらったところによると、煌夜の辿り着いたこの世界は、【テオゴニア】と呼ばれている世界だという。人界、獣界、魔界、天上界、神界、幻想界、と六つある次元のうち、人界の次元に属している世界であるという。
また、この世界は球体ではなく平面世界になっており、その裏側には魔界の次元が重なっているのだという。
世界の端は、神の魔術により逆端と空間がつながっており、永遠に果てのない大地であるらしい――と、ここまで世界の構成を聞いて、煌夜はしみじみここが異世界であることを実感した。
煌夜が培ってきた地球の常識は、一切通じない世界であるようだ。
しかし一方で、地球の常識と共通することも多くあった。物理、化学、科学の法則はほぼ通用して、倫理観、死生観、動植物の生態系も、それほど変わらないようだ。
四季という概念こそないが、朝と夜は存在しており、時間の数え方は同一だった。若干異なるのは、一日が二十五時間あり、一年が三百五十日だということだろう。
ただ決定的に違うこともある。それが、あらゆる法則を無視する魔力という概念が存在することだった。
魔力はこの世界に生きるほぼ全ての人間に宿っており、それを使うことにより、魔術や魔法といった奇跡を起こせる。そしてその奇跡には、いかなる法則も通用しない。
なんともファンタジーだが、逆にそれを聞いて、煌夜は素直に納得できた。ある意味、思っていた通りの設定である。
(――ちなみにのぅ、コウヤ。この世界には、知性を持って文化を営んでおる種族が、八種類ほどおる。人族、獣族、魔族、天族、神種、幻想種、妖精族、亜種じゃ。妾は、そのうちの、亜種と呼ばれる種族でのぅ――魂だけで存在できて、寿命がない種族である)
(…………寿命が、ない? 永遠に生きる、ってことか?)
(まぁ、死ななければ、じゃがのぅ――寿命はなくとも、不死ではないぞ。殺されたら死ぬうえに、成長できぬ存在じゃ)
(あ……さいですか)
不便じゃろう、と共感を求めるヤンフィに、煌夜は曖昧に頷いた。
予想の斜め上を行くヤンフィという存在に、ただただ戦慄する。この世界は、煌夜の想像以上に異常なのかも知れない。
(ああ、ついでに補足するとのぅ――亜種とは、一度死んで転生した存在をそう呼称する。妾は人族から転生した。転生したときが、たまたま七つの頃じゃったから、こんな幼い容姿になってしまったわけじゃ。実際は、コウヤよりもずいぶんと年上じゃからな? ませた童と、勘違いするでないぞ?)
(ああ、分かってるよ。つまり、ロリバ――いや、なんでもない)
ゲフンゲフン、と煌夜は咳き込んだ振りをして慌てて誤魔化す。
ヤンフィのその年上発言は、わりと想像通りだったので驚くことはなかったのだが、想像通りだったゆえに、つい思っていたことを失言しそうになった。
さすがにロリ婆はNGワードだろうと、煌夜は口を噤んで、明後日のほうに視線を向ける。
(……ロリバ? なんじゃ、それは?)
(ん? ロリバって何? 俺は何も言ってないよ?)
(ふむ――まぁ、良いじゃろう。これ以上追求はせぬ)
ピュー、と口笛を吹いて誤魔化し続ける煌夜に、ヤンフィは何かを察して、呆れたような溜息を漏らした。そして、気を取り直した風に、さて、と話を再開する。
(……少し脱線したが、まぁ妾のことは、どうでもいい。とりあえず――あ、そこを右じゃ)
そのとき、ちょうど十字路に差し掛かる。
そこをヤンフィに言われるがまま右折すると、廊下のだいぶ先に、見覚えのある両開きの鉄扉が見えた。それは玉座の広間にあった扉と寸分変わらぬ扉である。
つまりは、次のフロアへと向かう転移魔法陣がある部屋ということだった。
この迷宮は、ヤンフィ曰く【聖魔神殿】と呼ばれる古代遺跡であり、その外観は地上七階建の塔の形状をしているという。
しかしその内部は無限の広がりを持つ亜空間につながっており、各階に設置された転移魔法陣以外では、決して出ることが出来ない迷宮だという。
一度迷ったら、二度と出られないだろう。
しかも、正解の転移魔法陣を最短距離で移動しても、踏破するのに七、八時間は掛かる大迷宮らしい。まさに初見殺しの迷宮である。
ちなみに、玉座の広間はその最深部なので、つまり内部構造を把握しているヤンフィがいなければ、煌夜はもれなく迷子になって死んでいた。
そう思うと、つくづくヤンフィと出逢った幸運に感謝するしかなかった。
ところで、そのヤンフィの調べによると、竜也、虎太朗、サラの生体反応は、玉座の広間から検出されなかった――というよりも、煌夜以外の人間の生体反応自体がなかったという。
生体反応は、空間に刻まれる指紋のようなモノらしいので、それがないということは、少なくとも三人はここに転移していないということになるだろう。
それを聞いて、煌夜はひとまず安心していた。
(とりあえず……知性を持つ八種族のうち、天族、神種、幻想種、妖精族には、そうそう出逢うことなどないじゃろうから、説明は省くぞ。コウヤが注意をしなければならぬのは、魔族と獣族かのぅ)
(魔族と、獣族ね……)
ヤンフィの台詞に、煌夜は苦笑いを浮かべた。
頭に浮かんだのは、グレンデルと呼ばれたキングコングのような化物と、頭が三つあった巨大な犬の姿だった。あれが、魔族と獣族だろう。
(魔族はのぅ、この世界で最も多く存在し、例外なく本能的に人族を憎んでおる。人族も、魔族は討伐対象と認識しておるのでな、出遭えば大概殺し合いになるのじゃ。じゃから、万が一妾がおらぬところで、魔族と遭遇するようなことがあれば、すぐさま逃げよ。汝ではどんな下級魔族だろうと、一方的に惨殺されるのが関の山じゃからな。ちなみに、コウヤが遭遇したグレンデルは、知性を持たない魔族じゃ。アレで下級魔族に区分されておるのぅ)
グレンデルで下級ということは、魔族に襲われたら煌夜は助からないということである。その事実に別段驚くことはなかったが、少しだけ冷や汗が流れた。
紙一重だったんだな、と煌夜はいま生きている喜びを噛み締めた。そして同時に、やはり魔族という存在は人間とは相容れない存在なのだな、と心底納得する。
(そして、獣族じゃが……獣族の厄介なところは、その感性と価値観が、人族と致命的に異なることじゃ。意思疎通は図れても、往々にして会話が成立せんことが多い)
(…………え? どういうこと?)
ヤンフィの呆れた風な声音に、煌夜は思わずキョトンとして問い返す。想像していたのが、三つ頭の犬だったので、会話が成立しないと言われてもピンとこなかった。
(獣族――まぁ、そのほとんどが獣人族じゃと思うが……彼奴らは基本的に、己の都合しか考えん。他者の迷惑なんぞ知らぬ存ぜぬで、挙句、意味の分からぬ自己流儀を持っておる。そしてその流儀を、他者に押し付けることもしばしばじゃ。また基本的に、己よりも強いか弱いかと云う尺度でしか他者を計れぬ……じゃから、獣族に出逢ったら、極力会話をするな。話しているうちに、進退窮まる状況に陥る可能性があるぞ。しかも極め付けに、獣族は血の気が多く、例外なく強い。相手によっては、いまの妾ではあしらえぬほどの猛者もいるやも知れぬ)
(――――マジ、ですか?)
(うむ。マジ、じゃ)
煌夜が恐る恐ると問うと、ヤンフィが神妙な声音で肯定する。
その話だけ聞くと、獣族は非常に厄介な存在に思える。コミュニケーションが取れない相手というのは、どこの世界でも爆弾に等しい。
(ちなみに、コウヤよ。マジ、とは、肯定の意味で良いのかのぅ?)
(ん? あ、ああ。えと、まぁ、そうだよ。正しくは、真面目とか、本気、真剣って意味だけど)
(ふむ……なるほどのぅ)
妙なところで感心した声を上げるヤンフィに煌夜は苦笑しながら、目の前に現れた鉄扉を押し開いて、転移魔法陣の部屋に入る。そして、部屋の隅に描かれた魔法陣に迷わず乗った。
途端、周りの景色がぶれて、同じ構造の部屋へと転移する。そこは、魔法陣の脇に小さく刻まれた文字が異なる以外に、転移する前の部屋とまったく同じだった。
煌夜は見飽きた部屋にため息を漏らしてから、入り口の鉄扉を引いて開けると廊下に出る。
(あ――でさ、ヤンフィ。その獣族? 獣人族? って、どんな姿してるんだ?)
(ふむ? ああ、そうさのぅ……個体差はあれど、身体の大きさはコウヤくらいかのぅ。身体のところどころに白い体毛が色濃く生えており、特徴的な形をした耳を持っておるが、その二点以外は人族と何ら変わらぬ容姿じゃよ? ちなみに、その耳の形で、ガルム、ラガム、レギン、と部族が分かれて――ん? コウヤよ、しばし止まれ)
ヤンフィは話途中で唐突に言葉を区切り、真面目な声で煌夜に指示する。その緊迫した声音に、すわ魔族が現れたのか、と煌夜は慌てて辺りを見渡した。
(ほぅ、これは……コウヤは、厄介ごとを引き寄せる性質なのかのぅ)
しかし身構えてみたが、前後周囲には何もいない。
静寂に満ちた暗闇の廊下に、立っているのは煌夜だけである。煌夜は、どこか呆れた様子のヤンフィに、恐る恐ると問い掛けた。
(何か、居た……のか?)
それは魔族か、それとももっと恐ろしい何かか、と言外に含んで、煌夜は息を止めて押し黙る。けれどそんな怯えている煌夜とは裏腹に、ヤンフィは軽い調子で答えた。
(居た、と云えば確かに居たようじゃが、気にするなコウヤよ。おそらく杞憂に終わるじゃろう。別段、問題はなさそうじゃ)
(イヤイヤイヤ、気になるから!)
(……ふむ、そうかのぅ?)
意味深な台詞回しをした後に、気にするなと言われても無理な話である。煌夜は食い下がり、ヤンフィに重ねて問うた。
(なんか、あったんだろ? 杞憂でもいいから、説明してくれ!)
(ふむ、仕方ないのぅ――なに、八日ほど前じゃと思うが、この通路までやってきた獣人族が居たようじゃ。其奴はここでグレンデルを仕留めてから、通路を引き返しておる。しかも魔力残滓から察するに、かなりの猛者じゃな)
(…………おいおい、ずいぶんとタイムリーな。つうか、俺は別に獣族の実物には逢いたくないぞ?)
(妾とて逢いたくはない。まあ、心配せんでも、そうそう遭遇せんじゃろうがな。この痕跡は古いし、獣族は何事にも飽きっぽい性質じゃ。とっくにこの遺跡を去っておるはず……最悪、まだここにおったとしても、其奴がコウヤに気付く前に、妾がその痕跡に気付くじゃろう。じゃからほれ――安心して進むが良い)
ヤンフィの言葉はどうも釈然としなかったが、煌夜はあえてなにも言わずに、渋々ながらも頷いた。促されるまま、廊下を歩き出す。
それからしばらくして、目の前に現れたY字路を左に進んだとき、急にヤンフィが、あ、と素っ頓狂な声を上げた。煌夜は思わずビクついて、とりあえずその場で足を止める。
(……今度は、どうした? さっき言ってた獣族か?)
(いや、そうではない――のぅ、コウヤよ。ところで、タイムリー、とはどういう意味じゃ?)
(…………適時打の略、って言っても分かんないよな。あー、なんだっけ? 時期に、合ってる、とか言うんだったか?)
場違いな質問に緊張の糸が一瞬で解けて、疲れがドッと煌夜を襲う。その疲労を甘んじて受け入れて、ふぅ、と大きく息を吐いた。
そして煌夜はふたたび歩き出す。
(時期に合っている、のぅ――ふむ。獣族がどんな姿かを説明しておったときに、獣族の痕跡……なるほどのぅ、そういう意味か)
感心した声を上げるヤンフィに、煌夜はただただ呆れていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
玉座の広間を出てから、もうかれこれ六時間は経つだろうか。
真っ暗で代わり映えない廊下を、煌夜はひたすら歩き続けていた。飲まず食わずで、しかも終わりの見えない暗闇の中を、ヤンフィの言葉だけを頼りにして進み続けている。
しかし、既に心も身体も限界を訴えており、思考は胡乱でその足取りは重かった。
実際、煌夜は転移した祭りの日からこっち、ずっと動き続けている。計算すれば、もう丸一日以上寝ていない徹夜状態だった。
とはいえ、普段なら完徹だろうとここまで疲弊はしないのだが、いかんせんここは異世界、慣れない緊張の連続が煌夜の体力をガリガリ削っていた。
(そこは左じゃ――ほれほれ、コウヤよ。足元に気をつけよ。床がひび割れておるぞ)
(あ――? うお、と……)
(ここまで来れば、あとは少しじゃ、頑張るが良い。もう三十分も進めば、そろそろ最後の転移魔法陣じゃよ)
それでも、時折掛かるヤンフィの気遣いのおかげで、煌夜はなんとか正気を保てていた。
これがもし独り孤独な冒険だったならば、と想像すると、煌夜は空恐ろしく感じる。きっと数時間も経たずに発狂していたに違いない。
(――なぁ、そういやさ。ヤンフィはどうしてこの迷宮に封じられていたんだ?)
ヤンフィがここに居てくれてよかった、と心の中で感謝したとき、煌夜はふと気付いた。
ヤンフィはどうしてここに居たのだろうか――神に敗れて封じられていた、とは聞いた気がするが、その経緯は教えてもらってはいなかった。
(……ふむ、知りたいかのぅ?)
煌夜の問いに、ヤンフィが歯切れ悪く聞き返してくる。
言いたくないのだろうか、と煌夜は頷くことを躊躇した。言いたくないことを聞くつもりはなかった。これはただの興味本位である。
(いや……言いたくないなら、言わなくてもいいけど……)
(ふむ、そうか? まぁ……云いたくないわけでも、隠すほどのことでもないが……煌夜に気遣われるのも癪じゃし、云わなくともいいのならば、秘密としておこうかのぅ。妾のことは、神に挑んだ不届きな愚か者と、そう思っておれば問題ないしのぅ)
(あ、ああ――そっか、わかった)
ヤンフィはカラカラと笑ってそう結論付けた。
その口振りからは、食い下がれば教えてもらえそうな雰囲気を感じたが、煌夜はグッとその衝動を堪えて追及を諦める。
(ちなみに……ヤンフィには、目的とか、あるのか?)
(ん? 目的? ああ――なくは、ないぞ? じゃが、妾のそれは、気にせんでいいわ。コウヤを無事に元の世界に戻した後で、ゆっくりと取り掛かるべき案件じゃ――ほれ、そこの十字路は右じゃよ)
ヤンフィは言葉を濁して、話を強引に切り上げる。この話題からは、言いたくない、という空気がありありと感じられた。
そんな頑なな空気を出されてしまったら、もうそれ以上何も聞けない。そうして会話は終わって、また無言の時間が訪れた。
それからしばらく歩くと、直角の曲がり角が現れた。
道は一本道、迷いようもなく煌夜はそこを左方向に曲がる。すると、ヤンフィが突然吹き出して笑う。
(な……なんだよ? どうかしたのか?)
(いやいや、なぁに……やはり引っ掛かるのか、と思ってのぅ。まぁ、それも致し方ないのじゃがな)
(……意味が、分からないが? 何に引っ掛かったんだよ?)
煌夜は一瞬、何らかのトラップを作動させてしまったのか、と恐怖したが、ヤンフィのカラカラと笑い続ける様子から、それが危険な何かではないことを悟った。
ヤンフィの馬鹿笑いはまさに、悪戯を成功させた子供の笑いだった。
何だ、と首を傾げながら、自分を含めて周囲を見渡す。しかし、特に何も異変はない。
(この【聖魔神殿】には、極めて性質の悪い魔術が入り口に仕掛けられておってのぅ。それが、ほれ――この無限回廊じゃよ)
ほれ、という声と同時に、煌夜の目の前に蛍みたいな火の玉が一つ生まれて、それがスーッと目の前の廊下を飛んでいく。
煌夜は立ち止まり、その火の玉の先をジッと眺める。それはしばらく暗闇を照らしながら進んで、ふと廊下を左に曲がっていった。
(――あれが、なんだってんだよ?)
(コウヤよ、振り返るが良い……ほれ、これが無限回廊じゃ)
言われるがまま、訝しげに後ろを振り返った煌夜が見たのは、宙に浮かぶ火の玉だった。ギョッとして、一歩たたらを踏んで後ずさる。
火の玉はその存在をユラユラと揺らして主張しつつ、煌夜の前を通ってふたたび廊下の先に飛んでいった。
そして廊下を左に曲がって姿を消した瞬間、煌夜の後ろの曲がり角から姿を現した。
(……無限ループ、してるのか?)
煌夜の狼狽した声を聞いて、ヤンフィがいっそう楽しそうに笑う。
火の玉はそれを証明するかのように、速度を増して廊下の先に飛んでいき、ふたたび煌夜の背後から現れては、また飛んでいく。
(つくづく期待通りの反応をしてくれるのぅ、コウヤ。そうじゃよ、コウヤの想像した通りじゃ。廊下の先にある曲がり角は、背後の曲がり角に空間が接続されており、進んでも進んでも、元の位置に戻される仕組みになっておるわ)
(――ここに嵌ったら、抜け出せないのか?)
(いやいや、こっちの廊下は進むことが出来ぬだけじゃ。コウヤが来た道は問題ない。ほれ、ちょっと曲がり角まで戻るが良い)
ヤンフィにそう言われて、煌夜は角まで戻ってくると両方向見渡せる位置に陣取る。角を背にして、右手側がループしている廊下、左手側が歩いて来た道である。
(ふむ。よく見ておれよ?)
火の玉が、右手側の廊下を飛んでいく。それはやがて角に到達して左に曲がる。するとその瞬間、左手側の廊下の途中の空間が歪んで、何もなかったそこに火の玉が現れる。そのまま火の玉は、煌夜の目の前までやってきてピタリと止まった。そして今度は、ビデオの巻き戻しのように左手側の廊下へと飛んでいく。しかし、その火の玉は真っ直ぐと廊下を進んでいき、曲がり角を曲がってから見えなくなった。
(のぅ? 空間を捻じ曲げることにより、一方通行になっておるのじゃよ。これが最初にして、最大の難関――無限回廊じゃ)
どこか誇らしげに、ヤンフィはそう自慢してくる。だが、それを聞いて煌夜は焦った。
そうなると、出口はいったいどこにあるのか。
(ふっ、そう焦るでない……ほれ、よくよく周囲を観察してみよ。不自然なところがあるじゃろう?)
(あ――? 不自然、って……ん? あ、これ……玉座の、扉にあった模様と同じ?)
煌夜は周囲を注意深く眺める。すると、曲がり角の正面の壁に、どこかで見た覚えのある模様が描かれている。
それは、玉座の広間の鉄扉に彫られていた意匠と同じ模様である。意識して見れば、模様はちょうどあの鉄扉と同じくらいの大きさで縁取られていた。
煌夜はグッとその壁を押す。しかし壁はビクともしなかった。その様子に、ヤンフィがまたカラカラと笑う。
(…………どうなってんだ?)
(コウヤは面白いのぅ、マジで――ふっ、さて。コウヤよ、その壁は、押し扉でも引き扉でもない。魔力を注ぐことによって発動する転移魔法陣じゃ)
ヤンフィは、マジで、と楽しそうにもう一度繰り返して、煌夜をからかう。思わずキレそうになったが、煌夜は奥歯を噛み締めて堪えた。
(…………で? その魔力ってのは、どうやって注ぐんだ?)
(おお、だいぶ苛立っておるなぁ。すまぬ、すまぬ。からかい過ぎたかのぅ――ふむ。両手を壁につけよ)
青筋を立たせながらも、煌夜はその指示に従う。
ヤンフィはなんだかんだと、ここに至るまで嘘は一つもついていない。その言葉は信頼できる。
両手を壁につけると、その手のひらが淡く緑色に光り始めた。煌夜は何も意識していないので、それはヤンフィがやってくれていることに違いないだろう。
すると、緑色の光は壁に染み渡るようにして消えていき、途端に音もなく、煌夜の足元がポッと光った。見ればそこには、いつの間にか転移魔法陣が描かれていた。
そして次の瞬間、景色がぶれて転移が成功する。
(――さて、ここが【聖魔神殿】の入り口に続く…………最悪、じゃ)
(あん? 何が……あ? へ――)
軽い調子で話し始めたヤンフィが、ふと忌々しげな声を上げる。
両手を前に突き出した姿勢で転移してきた煌夜は、ヤンフィの声に首を傾げつつ顔を上げる。
「グァォオオオオオ――――ッ!!」
煌夜の目の前には、両手を振り上げて今にも振り下ろさんとしているグレンデルの姿があった。
煌夜は自分でも驚くほど冷静に、サッと周囲を見渡して逃げ道を模索する。しかし、転移してきたそこは完全な袋小路であり、どうしてか転移魔法陣も見当たらない。
背後は壁、目の前はグレンデルという死の壁。もはや王手――潰されて死ぬ、と煌夜の頭に、玉座の広間での出来事がフラッシュバックする。
(コウヤよ。汝は、何と云う悪運じゃ……まったく)
「――グォォゥゥオオッ!」
ヤンフィが場違いに呆れた声を漏らす。同時に、巨大な戦槌を思わせるグレンデルの巨腕が振り下ろされる。
煌夜は瞬間的に頭が真っ白になって、自分の身体が押し潰される幻視を見る。
――――果たして、その幻視は現実にはならなかった。
「ガァァアア、グゥゥォオ――!?」
ボン、という爆発するような音と、グレンデルの絶叫が袋小路に反響する。遅れて、煌夜の頭にパラパラと降り注ぐ赤い雨、漂う生臭い鉄の臭い。
ハッとして顔を上げれば、煌夜の左腕が頭を庇うように振り上げられていた。
グレンデルに比べて細すぎる腕、しかしその細腕は、グレンデルの両腕を軽々と受け止めて、そのうえで、その両腕を圧し折っていた。一撃で石柱すら叩き折るその巨腕が、内側から爆発したように肉の花を咲かせている。毛深い腕から飛び出ている尺骨、肘関節は明らかに骨が外れていて、もはやグレンデルの両腕は死んでいた。
煌夜は、グレンデルの血走った瞳と目を合わせた。その瞳には、ありありと恐怖の色が読み取れた。グレンデルの腰は見るからに引けている。
「千に散れ――天が紅」
煌夜の口が勝手に動いて、ヤンフィの声が辺りに響いた。そして煌夜の意志に反して、身体が勝手に動き始める。
一歩、右足がグレンデルに踏み込む。同時に左腕が、受け止めていたグレンデルの両腕を薙ぎ払う。ブチブチ、と音を立てて、皮で繋がっていたグレンデルの腕が弾け飛んでいった。
そのまま流れる動作で身体が反転した。
グレンデルの懐に背中から入り込むと、いつの間にかその左手には無骨な刀が握られている。
グッと煌夜の身体が沈み込む。右手が刀の柄頭に添えられた。そうして次の瞬間、まるで独楽のように、煌夜の身体が時計回りに回転する。
煌夜は自分の身体が勝手に動くに任せて、ただその光景を眺めていた。しかし、何が起きているのか、正しく認識は出来なかった。
ここまでの動作は、わずか零コンマ数秒の出来事だ。視界に映る景色が速過ぎて、煌夜の認識はまったく追いつかない。
「……まったく、油断したわ」
瞬きの一瞬、全てが終わった後に、ヤンフィはそう呟いた。
その声は煌夜の口から紡がれており、いまだに煌夜は自分の身体を動かせなかった。声に遅れて、背後で生々しい音が聞こえる。
横目に見れば、そこには微塵切りに刻まれたグレンデルだった肉片が散ばっていた。原型を留めないほどの細切れで、辺り一面は血の海である。煌夜のスニーカーが血で濡れている。
煌夜の身体を操るヤンフィは、残像の見える速度で刀を血振りして、足元に落ちていた木の鞘に収めた。カチン、と小気味良い音が鳴り、次の瞬間、刀は手品の如く消え去った。
(余計な魔力を使ってしまったわ……そして、コウヤよ。すまぬな、汝の身体を無断で酷使してしまったわ)
フッと身体から力が抜けて、煌夜の身体はヤンフィの支配から解放される。
途端に、全身がバラバラにされたかのような激痛が襲い掛かってきた。あまりの痛みに、煌夜は目を見開いてその場に崩れ落ちた。
「ガ、ァア、ア、ア、ア……い、たい…………ぐぅ、なんだ、よ。これ……」
ガンガンガン、とフライパンで脳天を殴られるような頭痛。
全身の筋肉痛を押してスクワットをしているかのような筋肉の悲鳴。
骨という骨が軋んで鈍痛を訴える。何が起きた、と煌夜の思考は混乱しており、しかし痛みで何も考えられない。
そんな煌夜に、ヤンフィが申し訳なさそうに言う。
(妾の先の技による反動じゃよ。すまぬな。咄嗟じゃったから、魔力を使って無理やり煌夜の身体を使わせてもらったわ。それにあわせて、ちょっとばかり肉体の限界も無視させてもらったわ。じゃが、ああしなければ、煌夜を助けられなかったのじゃ、我慢してくれ)
ヤンフィの言葉は、激痛に喘ぐ煌夜の頭に入ってきていなかったが、緊急事態でやむを得なかったということだけは理解できた。
目の前にいきなり戦闘状態のグレンデルという状況下で、命が助かったことは奇跡である。
その代償は死ぬほどの激痛だったが、痛みは生きている証拠だ。甘んじて受け入れよう、と激痛にのたうちながらも煌夜はヤンフィに感謝した。
(……それにしても、思うていたよりも、煌夜は運動不足のようじゃな。筋肉量の割りに、身体の動きが鈍かったぞ?)
「ぐぅ…………う、るせっ……大きな、お世話、だ――っ」
呆れた声で小馬鹿にするヤンフィに、煌夜は咳き込みながらも言い返す。
ヤンフィの指摘は事実だったが、これでも同年代では動ける部類だ。そもそも、あんな動きはトップアスリートだって出来っこない。
(さて――――それでは、ここからが本番じゃな……コウヤよ、また身体を借りるぞ?)
「……あ? な、んで、だよ……?」
(とりあえず、黙っておれ。運次第じゃが、妾がなんとか切り抜けてみせよう)
唐突にヤンフィは真剣な声でそう言って、ふたたび煌夜の身体を支配した。
スーと消えていく激痛、同時に、煌夜の意志に身体はまったく反応しなくなる。見える視界は変わらず煌夜のモノだったが、指先から何から全ての感覚が消え去っている。
まるでVRゴーグルを着けているみたいだ、と幾分か冷静になった煌夜は思った。
激痛で蹲っていた身体がスッと起き上がり、顔が廊下の奥、グレンデルが立ちはだかっていた通路の先を見詰める。
改めて見ると、その通路は左右に等間隔で松明が燃やされており、今までのような暗闇ではなかった。200メートルほどの直線通路で、先には白い光で明るくなっているホールが見えていた。そして、そのホールと通路の境界で、腕を組んで仁王立ちしている人間の姿が見える。
キュ、と湿ったスニーカーが音を鳴らす。その音に反応するように、ピクリとその何者かが身体を震わせる。
(…………ガルム族か。予想外に厄介じゃのぅ。ああ、ちなみに、コウヤよ。彼奴が獣族じゃ。獣人の中でガルム族と呼ばれておる種族じゃよ)
ヤンフィはそう言って、煌夜の瞳を細める。途端に、グングンと視力が良くなり、200メートルはあろうその距離がまるで目の前のように視界に映った。
獣族――ガルム族と呼ばれたその人間は、息を呑むほどの美女だった。
白髪でパーマが掛かったショートボブ、前髪はなく額を出している。釣り上がって鋭い双眸は、黄色と青色の左右色違いのオッドアイだ。
憮然と結ばれた薄いピンク色の唇、鼻は低いが小さく可愛らしい。
肌は健康的な小麦色をしており、へそだし、肩だしの黒いベストと、ホットパンツという姿だった。カモシカのように鍛えられた美脚は生足で、脛まで覆うブーツを履いている。
腕には銀色の輝きを放つ手甲を装備しており、その手にはゴツイ指貫グローブを着けている。
そしてそのスタイルは抜群である。身長は煌夜よりも10センチは高いだろう、胸はベストで押さえつけられているが明らかに巨乳で、腰はキュッとくびれている。腹筋のシックスパックは美しく、お尻は見るからにシッカリとした安産型だった。
しかし、そんな美女然とした容姿より何より、まず目を引くのはその耳である。
白い毛で覆われたフサフサの猫耳が、ちょこんと頭に生えている。もちろん、普通の人間の耳の位置には何もなかった。
(獣人って……モロに猫耳、なのかよ……)
そのあまりの衝撃的光景に、煌夜は思わず絶句した。
想像していた凶暴な獣族の印象は一転して愛らしい存在になり、その容姿には和んでしまう。煌夜はケモナーというわけではないが、コスプレじみたその美女には恐怖は湧かなかった。
(…………コウヤよ。死ぬほどの状況になろうと、絶対に死なさぬから覚悟しておくのじゃぞ? 出来うる限り、後遺症が残らぬよう、妾も努力はする)
ところが、煌夜のそんな和んだ気持ちとは裏腹に、ヤンフィの声は硬くその台詞も不穏当だった。何をそんなに緊張しているのか、と煌夜は疑問に思ったが、その疑問はすぐさま解決する。
一歩、猫耳美女が煌夜に向かって足を踏み出した。ギラリ、とその右の青い瞳が輝く。
その瞳は煌夜の全身を射抜くように見詰めており、同時に凄まじいまでの威圧を放っていた。煌夜はその威圧を受けて、意識が遠のき気絶しそうになる。そして、それだけで悟る。
猫耳の美女が、死神に等しい存在であると――あの生き物の前では、グレンデルの存在感などそれこそ猫のようだった。
ゆっくりと、しかし確実に近付いてくる猫耳の美女。
一歩ずつ近くなるごとに、そのプレッシャーは倍々に膨れ上がってきて、煌夜は発狂しそうなほどの恐怖に晒される。
だが、それでも冷静さを保てるのは、ひとえにヤンフィが煌夜の身体を支配しているからに他ならない。もし煌夜自身が対峙していたら、その気迫に当てられてとっくに気絶していただろう。無様に小便を漏らして、袋小路の隅でガタガタ震えていたに違いない。
いまの気持ちを言い表すならば、刑の執行を待つ死刑囚の気持ちだった。
やがて、猫耳美女が立ち止まる。
煌夜との距離は、目測でおよそ20メートル。それはヤンフィであっても一息では縮められない距離だった。
「――――お前、何者にゃ? いま、グレンデルをどうやって殺ったにゃ? 何が目的で、ここにいるにゃ?」
猫耳美女が、吹き出すような殺意と共に矢継ぎ早に問い掛けてくる。その台詞は、語尾の可愛らしさや声の甲高さとは裏腹に、有無を言わせぬ力強さと殺意を孕んでいた。
※前書きをなくして、後書きを編集しました。
ようやく一人目のヒロイン登場。
さて、最初の一人目は、猫耳ヒロインです。
ヒロインは順次増やしていく予定で、最終的にはハーレム化する予定。
とは言えど、先は長いですが……