閑話Ⅵ 怪物は悪夢を見る
逃げている。
ただひたすらに逃げている。
脇目も振らず一心不乱に、我武者羅になって逃げている。
全速力――いや、自らの限界などとうに超えた速度で、必死になって逃げている。
はぁはぁ――と、乱れた自身の呼吸が耳にうるさい。
体力など、とっくに底を尽いていた。もはや手足の感覚もない。
心臓の鼓動が今にも破裂しそうな勢いで鳴り続けているし、酸欠状態のせいで意識も朦朧としている。
だがそれでも、何かに急き立てられるように、その少女は夕暮れの森の中を駆け続けた。
焦点の合っていない胡乱な視界で、けれどただただ前だけ向いて、深い森を疾走していた。
はぁはぁ――と、耳元で響く自身の呼吸が、鬱陶しくてたまらない。
『逃げて、ヤンフィ。せめて貴女だけでも、生き延びて――』
恐怖に震えて涙を浮かべながらも、武装した十数人の騎士たちを前に、決然と立ちはだかった母様の姿が脳裏に浮かぶ。
『どうして、黄金騎士団が!? ディアナ、ヤンフィ、二人共、裏手から逃げろ。お父さんが時間を稼ぐ――』
突然現れた王国の騎士たち。その異変にいち早く気付き、囮役を買って出た勇敢な父様の背中が瞼の裏に焼き付いている。
『――女とガキ以外は殺し尽くせ!! 食料と金品は奪い尽くせ!! 誰一人逃がすなよ!!』
村の誰もが憧れている黄金の鎧を纏った騎士が、愉悦に歪んだ表情で楽しそうに号令を掛ける姿が、絶対の恐怖と共に心に刻み付けられている。
はぁはぁ――と、生きる為に必死の呼吸が、どうしてか無性に腹立たしい。
「はぁ、はぁ――――ぁ、ぐ」
どれほど駆け続けたか分からないが、少女は盛り上がっていた木の根に足を引っ掛けて、顔面から勢いよくこけた。受身など取れるはずもなく、ゴロゴロ、と無様に転がり、ボロのような布着がいっそう泥だらけになる。
「はっ、はぁっ、はっ……は、ぅ――ぁ」
まったく整わない呼吸のまま、それでもすぐに起き上がろうとするが、もはや身体は言うことを利かない状態だった。
ガクガクと両足は震えており、全身にまったく力が入らない。頭は燃えるように熱くて、ひっきりなしに頭痛がしている。
だというのに、真冬に裸でいるかの如く、身体は芯から冷え切っていた。
「…………あぁ、ぅ」
少女は地面に仰向けになって、呆然と空を見上げた。朱に染まっていた森の木々が、徐々に暗闇に支配されていく。
普段ならば、黄昏時が夜空に変わるこの瞬間は、幻想的で美しいと感じるはずなのに、今この瞬間は絶望しか感じなかった。
――夕焼けではない赤が、夜空を紅蓮に染めていた。その光景がどうしようもなく心に沁みる。
口が渇き切っていて、もはや唾さえ出ないというのに、ダラダラと涙が溢れた。
どうして、こうなった――と、少女は、流れる涙そのまま瞳を閉じた。
どうして、村が襲われなければならなかったのか。
どうして、村人たちが殺されなければならなかったのか。
どうして、村を護るべき王国の黄金騎士たちが襲ってきたのか。
どうして、少女は巻き込まれてしまったのか――
取り留めなく次々と、どうして、という疑問が、少女の頭の中に浮かんでは渦を巻く。しかしそれらの自問に対する回答は、少なくとも少女の中には存在していなかった。
酸欠で頭痛が酷い。ガンガンと、脳みそが直接殴られているような痛みがあった。
――だが、そんな痛みよりも、答えの出ない疑問のほうが、今はずっと気になっていた。
心臓は破裂してもおかしくないくらいバクンバクンと激しく脈打ち、肺は既に潰れているのではないかと思えるほど呼吸はままならず息苦しい。
――だが、そんな息苦しさよりも、父様と母様ともう会えなくなるかも知れない心の苦しみのほうがよほど辛かった。
喉の奥からは血の味がして、ひっきりなしに耳鳴りがしている。
全身の筋肉がビクビクと勝手に痙攣しており、ありとあらゆる関節が、まるで引き千切れるような激痛を訴えていた。
――だが、そんな激痛よりも、母様の命令とはいえ、両親を置き去りに逃げてきた心の痛みの方が何倍も痛かった。
「…………逃げ、なきゃ」
背中に感じる地面の優しい温かみが、少女をまどろみに誘っていた。しかし、このままここで倒れて、死ぬわけにはいかない。
父様がその命を賭けて護ってくれたのだ。最期まで、この命を諦めるわけにはいかない。
母様がその身を挺して逃がしてくれたのだ。これで逃げ切らなければ、まったく意味がない。
少女は、その瞼をゆっくり開いた。
魔族が巣食うこの森に、これ以上長居するのは危険である。
夜の帳が下り切る前に、闇が森を支配する前に、ここを突き抜けなければ――
「――あ」
そのとき、声に成らない悲鳴が漏れた。
果たして、瞼を開けた少女の視界に映っていたのは――――
歓喜の唸り声を上げる人面の獣。その大きく開かれた特大の顎だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
万能の神が創造せし六世界のうち、人族が多く暮らす人界――テオゴニア大陸。
文字通りに果てのない大海原【蒼海】に囲まれているその大陸には、数え切れないほど多くの都市国家が乱立していた。そして、それら大小様々な都市国家群は、日夜、大陸の覇権を巡って不毛な戦争を繰り広げていた。
そんな戦乱のテオゴニア大陸――その最東端に、【聖魔の森】と名付けられた大森林が存在した。
別名を【最果ての森】とも呼ばれるその大森林には、並みの冒険者では太刀打ちできないほど強力な魔族が棲息している。
さて、その【聖魔の森】の西側、森と隣接する位置に、人口百人に満たない名もない寒村があった。
ヤンフィはその寒村で、誰よりも貧しい家庭に、長女として生を受ける。
当時の生活は、毎日がひどく厳しいものだった。衣服は唯一、汚れて破れた襤褸布を被るだけであり、毎日の食い扶持さえままならないほど、貧困に喘ぐ暮らしぶりだった。この世を恨み、この境遇を呪ってもおかしくはない生活水準。
けれどヤンフィは、生まれてからただの一度も、我が身を不幸だと感じたことはなかった。
確かに事実として、日々の生活は苦しかった。何をするにも不自由だった。しかし、それを補って余りあるほど、ヤンフィの家族は愛情と優しさに溢れた暖かい家族だったのだ。
それゆえに、ヤンフィはむしろ自分を他者よりも恵まれているとさえ考えていた。質素で慎ましくとも、平穏に生きていく。それが望みだったし、死ぬまでそうだと確信していた。
――それが幻想だと思い知ったのは、七歳の誕生日のことだ。
妹が産まれるという幸福の報せに喜んだのも束の間、絶望を味わって、何もかもを失って、終わることのない悪夢が始まったあの日。
瞳を閉じれば嫌でも思い出してしまう、絶望の光景。あらゆる痛苦。
炎に巻かれる村。逃げ惑う村人。
愉しそうに笑いながら、村を焼き、村人を犯して、殺して回る黄金鎧の騎士たち。
四肢を切り裂かれて、苦悶の表情で懇願しながら、徐々に死んでいく父様。
涙ながらも気丈に振る舞い、何人もの野蛮な男たちに次々と穢される母様。
それらの光景を見ながら、何も出来ずただ逃げるしかない、情けない自分自身の姿。
『――どうして、逃げたの? どうして、見捨てるの?』
暗闇にスッと浮かび上がる泣き濡れた母様の顔、そしてヤンフィを責める声。
『――なぜ、戦わずに逃げた? お父さんをどうして、助けてくれなかった?』
母様の顔が薄れると同時に、今度は父様の殺気の滲んだ鋭く赤い双眸が浮かび上がる。
『……おねえちゃん、見捨てないで』
次には、薄ボンヤリとした幼い顔が浮かび上がり、聞き覚えのない悲壮感のある声がヤンフィに懇願してくる。きっとこれは、まだ生まれてもいない妹の声だろう。
これらが幻視であり、幻聴なのは理解している。だが、だとしても心が痛まないはずはない。
死にたくなるほどの後悔。
激しい自責の念。
何も出来なかった自身への憤怒。
言い表せないくらいの絶望。
それらが絶え間なく心を掻き乱して、発狂しそうなほどの苦痛を味わわせてくれる。
どれほどの時が流れようとも、欠片も色褪せることはなく、決して忘れることも許されない悪夢。
――さて、ここまでは、心の苦しみ、痛み。精神的なダメージである。
それから景色は暗転する。
嗚呼、またか――と。
ヤンフィは、ウンザリした心境で声もなく嘆いた。この後に続く悪夢は、いつも決まってあの胸糞悪い光景である。絶命する寸前まで、その全身を少しずつ咀嚼される悪夢。
気持ち悪さと激痛を伴う悪夢。淡い痺れが、ジクジクとした痛みに変わり、ズキズキという鈍痛に転じて、ひっきりなしの激痛となっていき、やがて激痛は甘美なものに感じてくる。死ぬ瞬間が待ち遠しくなり、その瞬間こそ至高の幸福に感じてしまうほどの生き地獄――
「――フィ様、ヤンフィ様。起きてください」
そんな悪夢に魘されていると、重低音の唸り声がヤンフィの意識を呼び覚ました。
「…………何用、だ?」
ヤンフィはゆっくりと瞼を開ける。
目の前にいるのは、恭しく頭を垂れている奇怪な獣である。
「いえ、別に何も。ただヤンフィ様が魘されておりましたので、つい」
奇怪なその獣は、まったく悪びれた様子もなく、聞く者を不愉快にさせる笑い声を上げた。
ヤンフィは目を細めて、殺気を篭めた視線でその獣を睨みつけた。
「開明獣――汝、用もなく妾に声を掛けたのか?」
周囲から一段高くなった玉座に、胡坐を掻いて座しているヤンフィは、正面に跪いているその獣に凄まじい覇気を中てる。しかし、空気を震わせるほどのヤンフィの覇気を受けて、奇怪な獣はさして気にせずニヤけていた。
奇怪な姿をしたその獣――開明獣は、虎の体躯に端麗な男性の顔を持ち、九つの尻尾が生えた幻想種の魔貴族である。
今は身体を丸めて跪いているので、それほど巨大には見えないが、立ち上がればその全長は3メートルを超える。玉座のヤンフィが少女の姿であることを差し引いても、充分過ぎるほどの巨躯であった。
「ええ、失礼ながら。魘されている時の可愛らしい声が、まるで人族のようにしか聞こえず、非常に耳障りでしたので――此度は、どんな悪夢を御覧になっていたので?」
「――答える必要があるか? 汝に出来ることなぞ何もないじゃろう?」
「ぐっぐっぐ。まぁ、そう噛み付かずに――ヤンフィ様には、弱気なんぞ似合いません」
開明獣は馬鹿にした風に言いながら、硝子玉のような双眸にヤンフィの姿を映す。
桃色の縮れ毛、性別を感じさせない中性的な顔立ち、あらゆる事象の先を見通す蒼い双眸。
その体格は七つに届くかどうかという人族の幼子だが、纏っている空気は王者の風格がある。宝石に彩られた簪を二つ髪に付けて、柄のない紅蓮の和服を身に着けていた。玉座の傍らには、くすんだ銀色の大剣が立て掛けてあった。
そんなヤンフィの容姿を瞳に映したまま、開明獣は、ぐっぐっぐ、と不気味に笑いながら言葉を続ける。
「ああ、そうそう――ヤンフィ様。せっかく起きていただいたので、一つご報告いたします」
「……報告?」
「ええ、取るに足らない、他愛もない報告ですよ。人族の、勇者と思しき一行が、もうまもなくこの玉座の広間に到達するでしょう」
開明獣は言うが否やいっそう楽しそうに大笑いして、ゴロンと床に転がり、入り口の大扉へとそのニヤけた顔を向ける。ヤンフィはそれを聞いて、不愉快そうに一つ舌打ちをした。
ヤンフィは開明獣と同じように、唯一の入り口である大扉に視線を向けて、スッと瞳を細める。途端に見える景色は一変して、空気中の細かな魔力残滓が浮かび上がり、感情が色を伴って見えるようになった。ヤンフィ本来の視界――魔王属としての視界である。
「開明獣よ。何故、大扉に施していた無限回廊の魔術が解除されておるのじゃ?」
ヤンフィは厳しい声で笑い転げる開明獣を詰問した。しかし、開明獣はその責めに対して、ただただ不気味な笑いを返すだけだった。
ヤンフィが根城にしているこの【聖魔神殿】は、はるか昔、【聖魔女】と呼ばれた稀代の魔術師が生涯を掛けて創り上げた大迷宮である。その最奥には、聖魔女の遺産――聖魔女の叡智の結晶と、世界中から掻き集めた金銀財宝が眠ると語られていた。
それ故に、聖魔女の遺産を手にしようと、日夜多くの冒険者たちが挑戦してくる迷宮である――とはいえ、攻略は容易ではない。
この【聖魔神殿】は、その周囲を、膨大な魔族が棲息する【聖魔の森】に囲まれており、並みの冒険者では辿り着くことさえ出来ない場所にある。その上、この迷宮まで到達できたとしても、内部は時空魔術で無限の広がりを持たされており、唯一の正解の道順を辿らない限り前に進むことが許されない迷路構造をしている。しかも、迷宮らしく数多くの罠が仕掛けられていて、【聖魔の森】よりも強力な魔族が跋扈する場所である。極めつけには、要所要所の間で、強力な魔貴族が門番として行く手を阻んでいる。
そして万が一、そんな大迷宮を攻略できたとしても――最奥、ヤンフィが座しているこの玉座の広間には、けれど決して辿り着くことが不可能である。
理由は至って単純。
玉座の広間に至る唯一の入り口の大扉には、無限回廊に繋がるように時空魔術が施されており、内側から出ることは出来ても、扉の外から入ることが出来ない構造なのだ――だと言うのに、今はその時空魔術が、見事に解除されていた。
これでは、迷宮さえ攻略できれば、冒険者は辿り着けてしまう。
「おい、開明獣。汝は、また妾に人族を殺させるつもりか?」
ヤンフィは苛立ちをあらわに、殺意の篭った視線を開明獣に向ける。凄まじいまでの魔力が、その小さな体躯から溢れ出して、ビリビリと空気が震えている。
「ぐっぐっぐ、いえいえ、別に。そんなつもりは毛頭ありませんよ……ただ我輩、少々腹が減りまして」
開明獣はひとしきり笑い転げたかと思うと、唐突にその場で身体を起こした。四つん這いの状態でさえも、優にヤンフィの二倍以上の巨躯である。それが立ち上がったのだ、凄まじい存在感があった。
開明獣の台詞に、ヤンフィは大きく舌打ちをした。もはや開明獣には、何を言っても無駄のようだ。
仕方ない、とヤンフィは怒りの形相のまま、傍らの大剣を掴む。すると、くすんだ銀色の剣身が鮮やかな青い炎で包まれた。
「汝の道楽で、少鷲を退かせたのか? 開明獣よ。汝、調子に乗りすぎておるぞ」
ヤンフィの掴んだそれは、剣身の幅は20センチを超えて、長さは180センチメートルはあろう巨大すぎる大剣だった。自身の体躯よりも巨大なそれを、ヤンフィはしかし片手で軽々と振るった。
軌跡さえ見えない速度の一薙ぎ。
途端、暴風を思わせる疾風が巻き起こり、四つん這いの開明獣の足元が爆発する。
「ぉお――ヤンフィ様、お怒りですな。ですが、我輩、咎められることをしているわけではありませんぞ。少鷲は退かせておりません。勇者一行は、全ての少鷲を屠ってきたのです」
石床がまくりあがり、粉塵がもうもうと立ち込める中で、ぐっぐっぐ、と開明獣の笑い声が響いた。
ヤンフィはもう一度、残像さえ見えない速度で大剣を振るう。すると、粉塵が一掃されて、大口を開けて笑う開明獣の姿が浮かんだ。
「……少鷲を、倒したと云うのか? 人族如きが?」
ヤンフィは信じられないとばかりに訝しげな表情を浮かべて、大剣を足元に突き立てる。音もなく石床を貫いた大剣は、纏っていた青い炎を霧散させて、次に漆黒の闇を纏った。漆黒の闇には、煌く星の輝きが垣間見えていた。
その変化を見て、開明獣が嬉しそうに笑い出す。しかしその笑い方は下品で、聞く者を不愉快にさせる声質だった。
「期待しているのですか、ヤンフィ様? まぁしかし、そうでしょうとも、久方ぶりの強者です。興奮するのは当然。ですので我輩、入り口の時空魔術を解除いたしました」
ぐぉぅ――と、不気味な重低音で吼える開明獣に、ヤンフィは訝しげな表情のまま質問を続けた。
「侵入者の構成は? 青鳥が何者か探っておるのじゃろぅ?」
「ええ、無論――ですが、我輩が語るよりも、直接御覧になったほうがよろしいでしょうなぁ」
ヤンフィの問いに、開明獣は意地悪く言葉を濁した。そしてゆっくりとヤンフィのいる玉座に背を向けると、大地に根を張る巨木のようにドッシリと構えて、入り口の大扉と対峙する。
開明獣のいつものノリに、ヤンフィは苛立つと同時にウンザリした。気付けばもはや二十数年の付き合いだが、この性格には一向に慣れない。
「――――て。ここから、凄まじい魔力――」
「――最深部か? ようやく、ここまで――行くぞ!!」
侵入者を迎え撃つ体勢になった開明獣の背中を眺めながら、ヤンフィは溜息を吐くと、握っていた大剣を手放して玉座に深く腰を下ろした。そして肘置きに腕を置いて、退屈そうに入り口に視線を向ける。
意識を集中すると、男女の話し声と複数の足音が大扉の向こうから響いてきた。足音は五人、ちょうど辿り着いたようだ。
大扉の外から人間の気配を感じたのか、開明獣は、ぐっぐっぐ、と抑えた笑い声を漏らした。
途端に、大扉の向こう側が静まり返り、玉座の広間にも静寂が下りた。開明獣の声を聞いて、踏み込むのを躊躇したのだろう。
警戒している空気が見える。当然である。
ただの強運だけでは、ここまで至ることはできない。点在する各間の門番――幻想種の魔貴族である少鷲を突破してきているのだから、実力は間違いなく確かであろう。過小評価などしない。おそらく油断があれば、開明獣でさえ退治される可能性がある。
ヤンフィがそんな思考を巡らせていると、不意に大扉の外の緊張が高まった。動くようだ。
「――――天水!!」
果たして、ヤンフィの感覚は間違っていなかった。
たっぷり二十秒ほどの沈黙を破り、気合の掛け声と共に凄まじい魔力が解き放たれた。それは水属性の聖級魔術である。あらゆる全てを押し潰し、押し流す、凄絶な水圧を誇る波濤の水流。
魔術防御も何も施されていない大扉は、紙が破れるようにあっけなく吹っ飛ぶ。また同時に、大扉の前で四つん這いに構えていた開明獣は、押し寄せる水流にあっけなく飲み干された。
石床はその水流にガリガリと削られて、捲り上げられて、そのままヤンフィの座する玉座まで一直線に向かってきた。
しかし――避けるまでもない。
「げっげっげ。ヤンフィ様、相変わらず、無防備」
水流はヤンフィの目の前まで迫り、けれど次の瞬間、黒い穴に吸い込まれて消え去った。すると、下卑た薄笑いが頭上から降り注いでくる。
ヤンフィはチラと頭上を見上げる。そこには、開明獣よりなお巨大な体躯をした三本足の黒い鳥――大鷲が浮かんでいた。大鷲は、ヤンフィが使役する眷属のうちの一体、幻想種の魔貴族である。
大鷲の姿を認めると、ヤンフィは不愉快そうに眉をひそめて、黙れ、と一言呟いた。それに対して、大鷲はいっそう下卑た笑い声を漏らしていた。
「チッ――やはり、この程度じゃ仕留め切れないか」
「だが、魔貴族は一匹、潰したぞ?」
「油断しちゃ駄目よ。道中にいたあの不気味な鳥みたいに、何度も甦ってくるかも知れないし……」
玉座の広間に真っ先に駆け込んできた三人の男女は、早口にそんな言葉を交わしていた。
三人は微塵の油断も慢心もなく、壁に埋もれる開明獣、玉座で退屈そうな表情を浮かべるヤンフィ、その頭上で羽ばたく大鷲の三者を等しく警戒しながら、いざ決戦とばかりの戦闘体勢で武器を構えていた。
ヤンフィはそんな三人と、大扉の後ろに控えている二人を眺めて、バランスの取れた良いチームだな、と心の中で感心していた。なるほど、これほどの猛者たちならば、【聖魔神殿】を攻略できて当然か、とも思った。
「――エリンは、そっちの虎のような【魔貴族】にトドメを刺せ! 瀕死だとは思うが、油断するなよ?」
貫禄のある凛々しい声で、黄金の鎧を身に纏った背の高い騎士が指示を出した。
白髪混じりのその騎士は、四十代半ばといった風貌をしていて、いかにも歴戦の猛者とばかりの風格を放っている。神鉄の刀身を持つ片刃の片手剣、もう片方の手には淡い陽光を放つ盾を装備していた。纏う空気から察すると、このチームで一番の実力者だろう。
見るからに手強そうな難敵である。
「ええ、わかったわ! そういうユリウスこそ、油断しないでよ!?」
エリンと呼ばれたうら若き美貌の女騎士が、この場にそぐわない嬉しそうな声で返事をする。
黄金の鎧を纏った女騎士――エリンは、紅い刀身をした反りのある片刃の剣と、黒い両刃を持つ片手剣を装備しており、全身になんらかの強化系魔術を付与していた。見たところ、攻撃特化の切り込み役であると同時に、敏捷性でもって敵をかく乱する囮役なのだろう。ヤンフィとは最も相性が悪い。
「――ランディ。飛んでる化物鳥の攻撃は任せるぞ」
「任された!!」
背の高い騎士ユリウスが、身の丈ほどもある大楯を構えた重騎士に指示を飛ばす。
黒い全身甲冑に大楯、武器の類を持っていない様子の重騎士――ランディと呼ばれたその重騎士は、力強い返事でもって頷くと、後衛魔術師にしか思えないほどの凄まじい魔力を放出しながら、ユリウスの前に足を踏み出した。
どう見ても壁役としか思えない重装備だが、その膨大な魔力量から考えるに、高威力の魔術を武器として立ち振る舞うタイプの戦士のようだ。あしらうのは容易である。
「イルアグル、エリンの援護を頼む。まずは一匹ずつ確実に仕留める!」
「了解した、ユリウス」
玉座のヤンフィを睨み付けながら、ユリウスが大扉の外側にいる二人に声を掛けた。すると、ローブを目深に被った小男が少年のような声で応じた。
イルアグルと呼ばれたその小男はいかにも得体の知れない風体だったが、光り輝く水晶を持つ右手の指が七本あり、その肌の色が黄土色なことから、炭鉱人と呼ばれる種類の人族と分かった。
魔力量はランディほど多くはないが、右手で構えている水晶球が異様な威圧を放っている。どんな効果を持っているかは定かではないが、警戒する必要がありそうだ。
「『癒しを司りし大天使よ。御身が纏うその加護を彼の者に貸し与え給え――【再生の鎧】』」
号令を掛け終わり、いざ一斉に動き出す四人。
そんな四人を見守るように一歩後ろで控えていた二十代半ばに見える女神官が、細い木製の杖を掲げて聞き惚れるほど流麗な詠唱をしてみせた。
その女神官は、迷宮に場違いと思えるほどの、傷ひとつない美麗な顔立ちをしており、白いヴェールがついた茨の冠を装備していた。
掲げている杖は一見して地味だが、持ち手の部分に銀の蛇が巻きついており、神々しい魔力を秘めているのが感じられた。水晶球同様に、どんな効果があるのか定かでないが、これも警戒に値する魔道具に違いない。
ちなみに女神官の胸元には、四葉の白詰草を象ったブローチがついている。それは治癒魔術を極めた証であると同時に、人族の中で最高位の治癒術師である証――【聖女】の称号を冠している目印だ。となると必然的に、死者さえも蘇らせる冠級の治癒魔術【蘇生】が扱えるだろう。このチーム内で最も厄介な存在は、もしかしたら回復役である女神官かも知れない。
(なるほどのぅ、『勇者一行』と云う開明獣の見立ては正しいようじゃ……これは、開明獣たちでは荷が重いやも知れぬのぅ)
ヤンフィは静かに溜息を漏らす。さて、彼らは果たして、どこまでヤンフィたちを相手に、健闘をみせてくれるのだろうか――
「ハァアア――ッ!!」
裂帛の気合と共に、女騎士エリンが矢の如き素早さで開明獣に飛び掛る。それを援護するように、ローブ姿のイルアグルが凄まじい魔力を溢れさせた。
「――ほぅ?」
それを見て、思わずヤンフィは興味深げに身を乗り出した。イルアグルの掲げた水晶球が、七色の光を放ちだしたのである。すると周囲に、炎の柱、水の柱、風の柱、土の柱、光の柱、闇の柱が巻き起こる。それらは竜の形を成して、やがて一つの巨大な魔力の塊と化した。
それは非常に幻想的な光景であり、冠級の合成魔術でもある。
「――喰らい尽くせ、【虹竜】!!!」
イルアグルの叫びが響く。
呼応するように、暴風じみた竜の咆哮が玉座の広間に轟く。途端に、巨大な魔力の塊はその形を虹色の竜に変えて、エリンと並んで開明獣に襲い掛かった。
【虹竜】と呼ばれた極大魔術――それは全属性を持ち、魔術防御さえ無効化する。あらゆる特性を無視して、極小の効果範囲を消滅させる攻撃魔術。冠魔術の中でも、最強に数えられる魔術だった。
「ぐっぐっぐ……【虹竜】を放てる人族……喰らいたい」
エリンと虹竜の接近に気付くと、壁にめり込んでいた開明獣はすかさず起き上がり、怪しい呻き声で応じる。先の【天水】を直撃しているにも関わらず、けろりとしたその様子に、複数の息を呑む音があった。
だがこの程度は想定内だろう。エリンの突撃が緩むことはなかった。
一方で、壁役の重騎士ランディが全身に魔力を纏い、大楯を構えたまま玉座のヤンフィへと突進してくる。
それほどの脅威は感じないが、相手の意のままに事が進むのは避けたい。
「大鷲――――」
「げっげっげ――グゥォア!!」
ヤンフィが命令をしようと声を出すが否や、頭上の大鷲は馬鹿にした風な笑い声と共に気味の悪い雄叫びを上げて、その嘴から螺旋状の魔力光を放射する。それは単純な魔力攻撃だが、上級の攻撃魔術にも匹敵するだけの威力がある。
「ユリウス、今だっ!!」
大鷲の魔力光が大楯に直撃する。しかしそれはさも当然のように弾かれて、挙句に、ランディの後ろから駆け寄ってくるユリウスが持つ神鉄の剣に吸収された。
げっ、と驚きの声が大鷲から上がる。ふむ、と感心した吐息がヤンフィから漏れる。それらと同時に、ユリウスがランディを飛び越えて、空中で神鉄の剣を振りかぶった。
「……凄まじい魔力じゃ」
ヤンフィはそんなことを独りごちた。次の瞬間、ユリウスの振りかぶる神鉄の剣が、いくつもの煌く星を産み落とした。また、駆け寄ってくるランディは、その場で大楯を床に突き刺して、聖級の結界魔術を展開した。
「――――――星よ。落ちて砕けろ。そして、あまねく魔を打ち滅ぼせ」
ユリウスのその言葉は、芝居がかった長台詞にも思えた。そんな台詞に応じるように、産み落とされた星々が明滅を始めて、ひとつひとつが意思を持っているかの如く、玉座のヤンフィを目掛けて飛んできた。同時に、振り下ろされた神鉄の剣が、黄金の輝きを放つ斬撃を玉座に飛ばす。
見事と絶句するほどの、壮絶な威力を持った攻撃である。いかに魔王属といえど、無防備に直撃すれば、大ダメージを負うのは必至だろう。頭上の大鷲なぞ、即死してもおかしくはない。
さて――と。ヤンフィは大剣を握り締めて、静かに玉座から立ち上がった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
カラン、とユリウスの手から神鉄の剣がこぼれた。そしてガクリと膝から崩れて、ユリウスは穴だらけになった床に倒れ伏す。
だんだんとその場に血の海が広がっていく。
煌びやかだった黄金の鎧は、いまや見るも無残にボロボロで、すでに意識はおろか、息もなかった。
「……ユ、リウス……たす、けて……」
そんなユリウスに、エリンが縋るようなか細い声で助けを求めていた。しかし、ユリウスがそれに答えることは永遠にない。
「……ユリ、ウス……」
悲痛な声で、エリンは絶命したユリウスを呼び続ける。
エリンもエリンで、もはや眼は見えておらず、耳も聞こえない状態である。両腕は失われており、下半身はすでに開明獣に喰われた後だった。ゆえに、ユリウスが死んだことに気付くことができない。
「…………くそ、化け物、どもが……よくも、スゥを……エリンを……」
粉々になった大楯の破片を握り締めて、美丈夫な顔立ちを披露したランディが、悔しそうにそんな呪詛を吐いていた。
ランディは大鷲の三本足に圧し掛かれて、身動き取れず床に這い蹲っている。
「……ま、だ……俺は、死んで、ない……油断、したな……」
そのとき、玉座の広間の隅で強がるような声が聞こえた。
ふと見ればそこには、胴体が弾けて仰向けに倒れている開明獣の巨体と、右半身しかなくなったイルアグルの姿があった。
イルアグルは開明獣の巨体にもたれ掛かったまま、ひび割れた水晶球を掲げて精一杯に勝ち誇った笑みを浮かべている。
そんな無様に呆れた顔を向けて、ヤンフィは静かに事実を告げる。
「もはや仕舞いじゃ。今この瞬間に、汝らが生き延びる未来はおろか、妾たちが死ぬ未来はひとつも存在せぬ」
ヤンフィの言葉に、けれどイルアグルは不敵に笑った。同時に、水晶球が光り輝き、極大な魔力が集中して――――刹那、死んだと思っていた開明獣の九尾が、イルアグルの身体に巻き付き、瞬く間にイルアグルをただの肉塊に変えた。その際、水晶球も一緒に砕けて、光はすぐに失われた。
一方で、そんなイルアグルの無様にも気付かず、エリンはずっと助けを求めていた。
「……ユリウス、ユリ、ウス……た、す……け――」
まったく哀れな光景だ。もはや助からないことも理解できないのだろう。
エリンは必死にユリウスの名を囁きながら、ほどなくして息絶えた。
イルアグルの死と、エリンの死を目の当たりにして、ランディは言葉もなく血の涙を流していた。
――戦闘が始まって、およそ三時間弱。かなりの強者ではあったが、ユリウス率いる五人は、ヤンフィの命に届くことはなかった。
まあ、とはいえ、これは当たり前といえば当たり前の展開である。勇者も所詮は人族でしかない。奇跡でも起きない限り、魔王属と魔貴族を同時に相手して、勝つことなど不可能である。むしろ、ここまで善戦できたことが僥倖だろう。
「げっげっげ、お前ら、凄い、凄い! ヤンフィ様、【神の恩恵】、使うなんて。人族にして、見事、見事!」
「ぐぁあああっ――っ!!」
大鷲が楽しそうに笑いながら、ランディの胴体に爪を立てる。鋭い爪は紙を破るように甲冑を貫き、ランディに苦痛の叫びを上げさせた。
「ぐっぐっぐ。大鷲の言う通りですね。あれほど忌み嫌っている魔王属としての真価を、たかだか五人ばかしの人族が引き出すとは――我輩も、ここまで深手を負ってしまいましたし。人族も侮り難し、ですな」
腸をボタボタと零しながらも、まるで堪えた素振りも見せず、開明獣が立ち上がる。開明獣のガラス玉みたいな双眸は、ランディを見下ろしている涼しげな顔のヤンフィに向いている。
ヤンフィは宙に浮いたまま、苦痛に顔を歪めるランディに問いかける。
「のぅ、ランディとやら、汝、面白いことを云うておったのぅ――黄金騎士団最強、じゃったか? であれば、妾に見覚えはないかのぅ?」
ヤンフィはクルリとその場で一回転すると、無表情のままランディを見た。しかしランディは、その質問が何を意図しているのか判断できず、ただただ憎悪の視線を向けた。
「化け物……意味が、分からないことを……ふざ、けるなっ!!」
ぉおお、と地響きのような声を上げて、ランディはなけなしの魔力を振り絞ると、最後の抵抗とばかりに自らの魔力を暴走させる。
魔力の暴走――己の身を犠牲にして、無属性の大爆発を巻き起こす技術だ。その威力は秘めた魔力量に依存するが、最低でも上級攻撃魔術程度はある。
バチバチ、と緑色の放電が発生して、ランディの身体がプルプルと震えだす。げっ、と大鷲が嫌な声を出して、ぐぅう、と開明獣が嫌悪感あらわに唸る。
「死、ね――――」
「――今一度だけ問うぞ。妾を憶えておらぬか?」
膨れ上がり破裂する寸前の魔力は、けれどヤンフィの言葉と同時に霧散した。爆発は――起きない。
「――あ?」
拍子抜けの表情を浮かべるランディに、ヤンフィは冷徹な視線を向ける。その手にはいつの間にか、刃のない鉄板状の剣が握られていた。
「……ヤンフィ様。この場で、魔剣エルタニンを抜くのは、止めてください……」
「怖い、恐ろしい、げっげっ……」
どこか怯えた様子の開明獣と大鷲を無視して、ヤンフィはランディにもう一度同じ問いをする。
「妾を憶えておらぬか?」
感情の篭らない無機質な瞳で、ランディの双眸を覗き込む。突如、ランディに流れ込む過去の記憶――それは、二十五年前に小さな村を襲った光景だった。
「……な、なんだ、これは?」
「黄金騎士団に所属していたのであれば、憶えておるじゃろぅ? 汝らが襲った村じゃ」
「――――だ、だから、どうした!? 化け物、め……くそ!」
ランディは一瞬だけうろたえたが、すぐに正気を取り戻して、大鷲に押さえ付けられながらもジタバタともがいていた。そんなランディの反応を見て――この先のあらゆる未来を垣間見て、ヤンフィは心底落胆した。
知りたい情報を、ランディはまったく持ち得ていない。ヤンフィは忌々しげに舌打ちをする。それを聞いて、大鷲が嬉しそうに鳴いた。
「――ぐぁあああ、っ!?」
「げっげっげ!! 青鳥のお膳立て、やっぱり無駄だった!! 結局、無意味。結局、無駄」
大鷲の鳴き声は、ランディの断末魔の叫びを掻き消した。大鷲は心底楽しそうに鳴きながら、ランディの四肢を引き千切り、磨り潰し、青い炎で燃やし尽くした。
「ぐっぐっぐ……ヤンフィ様、残念でしたね。せっかく使いたくもない【桃源】を発動させたというのに、またもや収穫なしとは――」
「――黙れ、開明獣」
こぼれる腸をそのままに、床に座り込んだ開明獣は、嬉しそうな表情でそんな台詞をのたまう。それを煩わしそうに一蹴して、ヤンフィは玉座に腰を下ろした。
途端、パリン、と硝子の割れる音がして、玉座の広間を埋め尽くしていたヤンフィの魔力が消失する。【桃源】と呼ばれる【神の恩恵】を解除したのである。
【神の恩恵】――魔王属が、魔族の中でも別格に位置づけられる要因のひとつだ。
個体ごとに異なる奇跡を発現する能力。魔術ではなく、異能・超能力に類するそれは、あらゆる法則を捻じ曲げることができる。
ヤンフィのそれは【桃源】と名付けられた能力である。存在するあらゆる未来を見通して、その中の望む可能性を選択できる能力――可能性さえ存在すれば、どんな無謀なことであろうと、必ず叶えることができる究極の先見である。
破格も破格、およそ魔王属の中でも強力すぎる能力だ。どんな状況でも、僅かな可能性さえあれば、それを選び出せる。望む未来を選択する能力――だが逆に言い換えれば、起きえない未来は選択できない。つまり運命を覆す能力ではないことが、唯一弱点でもある。
「……開明獣。妾はまたしばらく眠る。次に起きるまでに、入り口の大扉を直しておけよ」
ヤンフィは静かに深呼吸してから、玉座に深くもたれかかった。心底嫌だが、さっさと【桃源】の代償を支払うべきだろう。
はぁ――と悲しそうな吐息を漏らして、ヤンフィは頬杖をつきながら瞳を閉じた。
眠気などまったくないし、悪夢に魘されるのが分かっているから当然眠りたくもない。けれど、眠らなければ、やがて一切の能力が使えなくなる。
魔王属にとって不要な睡眠。しかしそれを支払うことこそが【神の恩恵】発動の代償だ。それゆえに、魔王属たちの間では【神の呪い】とも揶揄されている。これが無敵に思える魔王属の、唯一にして最大の弱点である。
「ぐっぐっぐ――ええ、お任せを。ヤンフィ様は、存分に悪夢をご覧ください」
開明獣の厭味を耳にしながら、ヤンフィは意識をすぐさま闇に落とす。すると、すぐさま見慣れた悪夢の光景が瞼の裏に浮かび上がった。
――村のあちこちに立ち上る火の手。
悲鳴と怒号が響き渡り、そこかしこには死体が転がっている。
気付けば、目の前には母様がいる。
母様は複数人の男たちに、被虐の限りを尽くされて、嬲られている。
ヤンフィはそれをただ眺めている。
気付けば、目の前には父様がいる。
父様は全身を槍で貫かれて、剣で斬られ続けている。
ヤンフィはそれをただ眺めている。
気付けば、目の前には母様に似た美しい黒髪の少女がいる。
少女はヤンフィに、悲しそうな瞳を向けて、必死に何かを訴えている。
(……母様、いつか必ず……見つけ出します……)
ヤンフィはそれらの幻視を前に、深い深い悪夢に呑まれていく。
次回、本編の更新予定です。
新章、煌夜サイドの本編です。