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神隠しに遭ったら、異世界に居ました。  作者: 神無月夕
第七章 岐路
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第五十二話 寄り道/タニア・セレナSide

 地下通路の梯子を登り、薄汚い小屋まで戻ってきたタニアは、力尽きたようにその場に倒れこんだ。ぐったりとした様子で眼を瞑って、埃塗れの床に大の字で寝転がる。

 よほど疲れていたのだろう、そのまますぐに寝息を立て始めた。

 そんなタニアを見たセレナも、張り詰めていた緊張の糸が切れて、ペタリと床に座り込む。


 窓から差し込んでくる柔らかい日差し、心落ち着く鳥のさえずり、仄かに薫る森林の香り――地下通路を満たしていた粘り付く瘴気と、不快極まる腐臭やら刺激臭、身体を重くするほどの魔力濃度とは打って変わって、この地上はまるで楽園のようだった。


「……怖かったぁ……」


 セレナは安堵の吐息と共に、しみじみとそんな言葉を吐いた。胸の内に込み上がってくる生きている実感、またそれと同時に、つい先ほどの竜種との戦闘の光景が脳裏を過ぎって、思わず背筋が薄ら寒くなる。

 よくも竜種の魔貴族アールと正面きって戦って、打倒したうえで二人ともほぼ無傷に生き残れたものだ。


「……まったく、たいした化物ね……ま、味方なのは、心強いけどさ」


 セレナは小さく呟いて、埃塗れの床に寝転がっているタニアをジッと眺めた。

 こうやって馬鹿みたいに寝ている分には、ただの能天気な猫耳娘にしか見えないが、改めてその戦闘を見ると、凄絶すぎるその戦闘力に寒心するほかない。確かに、今までも充分そのとんでもない戦闘力には驚かされてきたが、今までは相手がそれほど強くなかったので実感が湧かなかった。

 けれど、今回の相手は別格だった。

 幻想種に区分される存在の中でも、最上位に君臨する魔族――竜種、しかもその魔貴族だ。

 このタニアをブレス一息で行動不能にするほどの強力な毒を吐いていたことから、毒吐き竜(ヒュドラ)と呼ばれる竜種だろう。

 魔貴族には転生したばかりだった様子だが、竜種としては既に成体だった。となれば、最低でもその強さは、妖精族の精鋭が十数人規模でチームを組んで、しかも相打ちを覚悟するほどの化物である。一介の冒険者を基準とするならば、恐らく討伐するにはランクA冒険者が百人単位で必要に違いない。

 そんな天災級の魔族を、タニアはほとんど単騎、いやセレナという足手纏いを庇って、しかも毒に冒されながらも力押しで倒したのだ――それも一撃で。

 まさに呆れるほどの化物である。


「……しかし、あれだけ実力があるんなら確かに、キリア様に楯突く度胸は分かるわね……」


 なかば呆れるように呟いてから、癒しの風よ、と満身創痍のタニアに治癒魔術を施す。消耗した体力と消費した魔力の回復は不可能だが、ほどんどの外傷は瞬く間に治った。


「はぁ~ぁ……あたしも少し休むかなぁ――くしゅん!」


 タニアの真似をして、セレナも床に大の字になる。すると、可愛らしいくしゃみが出た。

 パタリと倒れた拍子に埃が舞いあがり、鼻腔をくすぐったのだ。セレナはぐしゅぐしゅと鼻を擦ってから、薄汚れた天井を見上げてゆっくりと瞼を閉じた。


 ――小屋の周囲に意識を集中する。


 セレナで感じ取れる範囲はそれほど広くはないが、少なくとも怪しい気配はない。強い魔力も感じないので、しばらく休んでも問題はないだろう。


 そう考えた途端、ふぁあ――と、大あくびが出た。

 安全が確保できたことで緊張が解けたのだろう、ドッと一気に疲労が出てきて、強い眠気が襲い掛かってくる。それに抗うつもりもなく、セレナはそのまま意識を手放した。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「――――にゃぁ」


 タニアはふと目が覚めて、大あくびとともに身体を起こした。寝惚けた頭を軽く左右に振って、瞼を擦りながら薄汚れた小屋の中を見渡す。


「にゃ……にゃ!?」


 真っ先にタニアの瞳に飛び込んできたのは、窓から差し込んでくる鮮やかな朱色である。

 タニアは思わず、ビックリして耳をピンと突っ立てた。まさか、と慌てて小屋の外に出ると、まさしく夕方。しかもその夕日の高さを見るに、そう時間も掛からず完全に沈んでしまうだろう時分だった。


「――寝すぎたにゃ!!」


 タニアは慌てて小屋の中に戻ると、床に転がっているセレナを見つけた。セレナは安らかな寝息を立てて泥のように寝入っていた。


「あちしとしたことが、不覚にゃぁ」


 タニアは額を押さえながら、にゃぁ、と重々しく溜息を漏らした。

 随分と久し振りの獣化だったからか、想像以上に疲弊してしまったようだ。まったくたるんでいる。情けない。

 獣化は多大な恩恵を与えてくれるが、人型状態よりもずっと燃費が悪く、またその身体の使い方もだいぶ異なっている。それゆえに、人型状態と同じように振舞おうとすれば、必然、何倍もの疲労度が襲い掛かってきてしまう弊害がある。それを失念していた。


 ――とはいえ、初めて獣化したわけでもあるまいに。我がことながら、無様である。


 タニアは若干自己嫌悪しながらも、寝落ちる前の光景を思い出そうと振り返る。けれど、どれほど思い返してみても、紫竜を倒した後の記憶が曖昧だった。地下通路から登ってきたおぼえがない。気付けば完全に寝入っていたわけである。


「…………まぁ、不甲斐にゃいのを嘆いても仕方にゃいか。とりあえず、急がにゃいと」


 タニアは憮然とした表情で耳を掻くと、さて、と気持ちを切り替えて、パンと手を叩く。

 いまは自分自身の不甲斐なさを嘆いている時ではない。このまま悠長に小屋で休憩していたら、クダラークに戻る魔動列車に乗れなくなってしまう危険性がある。そうなってしまっては、色々と困る。


「――また、獣化が必要ににゃるかもしれにゃいしにゃぁ。補充、しておかにゃいとにゃ」


 タニアはそんな独り言を口にしながら、寝入っているセレナを見下ろした。

 セレナは差し込む夕日を浴びて、むずがゆいような寝顔をしている。けれど、タニアが傍にいても起きる気配はなかった。

 紫竜との戦闘でセレナは怪我を負ってはいない。しかし、精神的な疲労と、戦闘の直前に放った聖級魔術による魔力疲労が堪えているのだろう。起こさなければきっと、このまま翌日の朝まで爆睡してしまうに違いない。いまが急いでいなければ、このまま寝かせてあげたい思いはある。


「おい、セレナ。起きるにゃ。あちしたち、寝すぎたにゃ」


 だがしかし、いまはわりと急いでいるのだ。

 あと一時間か二時間ほどでやって来ると思われる、クダラーク行きの魔動列車――それに乗れなくなるとタニアが困る。

 タニアは寝ているセレナの頬をペチペチと優しく叩いた。


「んん……ぅ?」


 頬に浮かぶ魔術紋様(処女の証)を撫ぜるように何度も叩いていると、セレナは鬱陶しそうな表情を浮かべながら身動ぎした。

 タニアはその瞬間に、起きるにゃ、と強めのデコピンをお見舞いする。


「――痛いっ! な、何っ!?」


 セレナはその衝撃に慌てた様子で上半身を起こして、額を押さえながら周囲を見渡す。その様を苦笑混じりに眺めてから、タニアは告げた。


「セレナ、そろそろ移動しにゃいと、魔動列車に乗れにゃくにゃる。マズイにゃ。あちしたち、ちょっとグッスリ寝すぎたにゃ」


 いきなりそんなことを告げられたセレナは、機嫌が悪そうなジト目でタニアを睨みつけてから、窓から差し込む夕日に視線を向けた。


「何……? あたしたち、どれくらい寝てたの?」

「分からにゃいけど、少にゃくとも半日は爆睡してたみたいにゃ」


 タニアはセレナに手を差し出して、その身体をグッと引っ張り起こした。


「あちしも、今しがた目が覚めたにゃ……想像以上に疲労が溜まっていたようにゃ。まだ身体が重いし、魔力も全然回復してにゃいにゃぁ」


 タニアはグルグルと肩を回しながら、セレナに事実を伝える。

 セレナは胡乱な脳を起こすように、二度、三度と頭を振っていた。セレナも溜まっている疲労のせいか、いまいち思考がシャッキリとしないようである。見るからに気だるそうな様子で、寝惚け気味の渋い顔を浮かべていた。挙句に、引っ張り起こした直後などは、生まれたての小鹿みたいに足元がフラフラしていた。


「……ねぇ、タニア。このままここで一晩休息するってのはどう?」


 セレナが自分の身体の不調を鑑みて、軽い調子でそんな提案をしてくる。

 この小屋から動きたくないのだろう――その気持ちは分かる。特にセレナのような妖精族は、人族の街に行くよりも、森の中に居た方が、心も身体も休まるに違いない。


 ――だが、それはタニアにとっては不都合がある。


「駄目にゃ、ダメダメにゃ。そんにゃ選択肢はにゃいにゃ」


 タニアはセレナの提案を即座に一蹴した。にゃにを馬鹿にゃ、と付け加えつつ、有無を言わさずその細腕を掴んで、入り口までセレナを引き摺る。


「あちし、ミルクが飲みたいって言ったにゃ? セレナも、クダラークまで戻るってことに納得したにゃ? それを今更、気分で予定を変えにゃいで欲しいにゃ」

「気分で、って――アンタがそれを言うの?」

「あちし以外、誰が言うにゃ?」


 タニアは当然のしたり顔で断言する。その様にセレナは呆れた表情を浮かべて、これ見よがしに、はぁ、と諦めの溜息を漏らした。

 気分で予定を変えているのは、果たして誰なのか――セレナは言外にそう訴えている。

 けれど、それを聞き届けるつもりも認めるつもりも、タニアにはない。タニアはどこまで行ってもマイペースだった。


「分かったわ」


 セレナは掴まれた腕を振り解いて、不承不承と小屋を出る。


「……相変わらず、自分勝手ね」


 捨て台詞の如きセレナの呟きは無視すると、タニアは森の奥に意識を飛ばして耳をすませた。


「さてと、にゃ――まだだいぶ遠いにゃが、魔動列車の駆動音が聞こえてくるにゃ。急ぐにゃ」


 微かに聞こえてくる魔動列車の轟音を、タニアの鋭敏な聴覚が捉える。それは常人では決して聞こえないほどの些細な音だ。実際、セレナにはまったく聞こえていない。そのためセレナは、ひどく胡散臭そうな顔を浮かべていた。

 しかし、タニアにしか聞こえないとは言っても、魔動列車が近づいてくるのは事実である。


「この音の響きにゃら……あと一時間もしにゃいうちに到着しちゃうにゃ」

「あ、ちょ、タニア!? 待ちなさ――もうっ!」


 タニアは力強くそう断言して、突然、森の中を右手方向に駆け出した。その背中に、セレナの制止の声が響くが、タニアがそれで止まることはない。

 タニアは一応さり気なく、セレナを置いてけぼりにしないよう注意しながら、最短で森の入り口に向かう。

 そうしてしばらく走り続けること、三十分ほど――ようやく森の切れ間が見えて、それから一気に森が開けた。


「にゃ、間に合ったにゃぁ」

「……あの小屋、思ってたより森の奥にあったのね」


 森を抜けた二人を出迎えたのは、見渡す限りに何もない荒野である。魔動列車の停車地点の一つ、【デイローウ大樹林入り口】だ。


「――にゃかにゃか絶景にゃぁ」


 タニアが正面の荒野を見据えて、しみじみと口にする。ちょうどこの瞬間、遥か彼方の地平線に日が沈み込んでいく様が見えていた。

 見える範囲の世界全てが、鮮やかな朱色で染まっている。


「この時期の日没は、およそ十八時三十分前後。ってことは、この時間に来る魔動列車は、間違いなくクダラーク戻りね」

「ふぅ……にゃ。ちょっとだけ、疲れたにゃ。んじゃあ、ゆっくりと魔動列車待ちするにゃ」


 冷静に時間を読んだセレナの傍らで、タニアは素直に弱音を吐いてから、ドカッと地べたに胡坐を掻いた。もうここまで来たならば、万が一にも危険はないだろうし、乗り遅れる心配もないだろう。

 あとは待つだけである。


 それから十数分後。沈み行く夕陽を眺めつつ待っていると、果たして魔動列車がやってきた。

 魔動列車はけたたましい警笛を鳴らしながら、森の縁をなぞるようにしてその姿を現す。


「お、ようやく来たにゃ」


 ゆっくりと速度を落として、やがてタニアたちが待っていた場所から少し離れたところで、蛇のようにうねる魔動列車は完全停止した。そして、補給と整備でしばらく停車しますとのアナウンスが流れて、居住箱から多くの人間が降車してくる。

 既知の光景だ。彼、彼女らは、外の空気を吸いに出てきた物見遊山の乗客たちである。


 魔動列車からひととおり乗客が降車し終えたのを確認してから、タニアは先頭車両にある司令室に向かった。無言で進んだタニアに、セレナがトコトコと心配そうに付いてくる。


 司令室は魔動列車の操縦席であると同時に、途中乗車する場合の受付でもある。

 乗車手続きをしないと居住箱に入る権限を付与されないので、黙って乗り込むことは出来ない。


「にゃぁ、大人二人、空いてにゃいか?」

「ん? 乗車希望、ですか?」

「そうにゃ。で、どうにゃ?」

「――えっと、ちょっと待ってください」


 司令室にいた神官服の優男は一旦奥に引っ込んでから、空いてました、とすぐに戻ってきた。運良く居住箱には空きがあったようだ。


 タニアたちは乗車の受付を滞りなく終わらせて、居住箱に乗り込んだ。


「……ひとまず、あたしは沐浴するわ」


 居住箱に入るや否や、セレナはすぐさまローブを脱ぎ捨てて全裸になる。そしてタニアの返事を聞かずに素早く備え付けの風呂場に消えた。

 タニアはそんなセレナなど無視して、さっそく食事を取るべく食堂箱に向かう。


「いらっしゃいませ、お客様。ご注文を承ります」

「ミルクと……この、砂漠蜥蜴の肉盛りフルコースを、三人前ほど出すにゃ」


 夕食時ということもあり、食堂箱はそれなりに賑わっていた。

 香ばしい匂いの充満する楽しげな喧騒に溢れたそこで、タニアは空いているカウンター席に腰掛けると同時に注文した。


「三人前、ですか? お連れ様は、どちらに?」

「連れは、いにゃいにゃ。あちし独りで喰うにゃ。つべこべ言わずに用意するにゃ」


 タニアは、怪訝な顔を浮かべて質問してきたウェイターを鋭く睨みつけて、サッサとするにゃ、とカウンターをバンバン叩いて催促した。

 ウェイターは、面倒な客だな、と呆れ顔をしてから、しかしすぐさま笑顔で、かしこまりました、と厨房へと注文を通した。


「お待たせいたしました。ミルクと、前菜のサラダです」


 注文してから一分と待たず、タニアの前には青野菜が盛られた三人分の皿と、コップ一杯のミルクが給仕された。それを見て、タニアは満面の笑みを浮かべる。

 待ってましたとばかりに、タニアはゴクゴクとそのミルクを一息で飲み干した。そんなに喉が渇いていたのか、と給仕したウェイターが驚きの表情を浮かべる。


「にゃにゃ――もう一杯、大盛で頼むにゃ」


 タニアはミルクを一瞬で飲み干すと、白くなった口周りを豪快に拭ってから、タン、とカウンターにコップを叩きつける。その様を見て、給仕したウェイターはいっそう呆れた顔と冷めた視線を向けてくる。だが当然、そんなのは気にしない。


「……かしこまりました。少々お待ちください」


 ウェイターは頭を下げて、すぐに厨房に引っ込んだ。早くするにゃ、とタニアはその背中に横柄な台詞を投げる。


 それからほどなくして、今度は特大のジョッキに入ったミルクが給仕された。

 タニアはそれを前にすると、とても満足げに微笑んでから、やはり一気に飲み干して見せる。その様に今度は、おおぉ――と、驚きの歓声が周囲から上がった。


 その後タニアは、もう二杯ほど特大ジョッキでミルクを注文して、次々と出される三人前のコース料理を、まさに飢えた乞食のように我武者羅に貪り喰らった。


「…………これで、ひとまず栄養は補給できたにゃ」


 そうして全てを平らげてから、タニアは、げふぅ、と下品極まりないゲップをして、ようやく落ち着いたとばかりに、深く安堵の息を漏らした。

 傍目から見るとまったく膨らんでいない引き締まった腹筋を撫でながら、満腹満腹と何度も頷いている。


「それにしても……獣化は、燃費悪くて困るにゃぁ」


 タニアはやれやれと呟いて、カウンター席から立ち上がった。あとはサッサと居住箱に戻って、眠ることにしよう。



「――あら、おかえりなさい。食事でもしてきたの?」


 タニアが居住箱に戻ってくると、サッパリとした様子のセレナが出迎えた。セレナは大きなバスタオルを身体に巻いただけの無防備な格好で、湿った緑髪をタオルで拭っていた。

 セレナのその扇情的な格好を見て、タニアは静かに同情の吐息を漏らした。

 せっかくの悩殺ショットなのだが、あいにくと肉付きが薄いせいで、女性的な魅力をあまり感じない。なんとも残念である。


「――そうにゃ。で、あちしはもう寝るにゃ」

「……あっそ。お好きにどうぞ。ったく、自由人過ぎるわね、相変わらず」


 セレナが呆れ半分で、嫌味を口にする。その台詞を背中に受けながら、タニアはすぐさま寝室に入った。


「それじゃ、おやすみなさい」


 セレナの挨拶に返事などせず、タニアはそのままバタリとベッドに横になる。

 ふかふかのベッドに身体を投げ出すと途端に、我慢していた凄まじい眠気が襲い掛かってきた。その睡魔に抗うこともなく、静かに瞼を閉じる。

 すぐさまタニアの意識は、深い眠りに落ちていった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 ガタン、と大きく魔動列車が揺れた。その振動と同時に、慌てた様子で寝室に駆け込んでくるセレナの息遣いが聞こえてくる。


「――タニア、ちょっと起きなさいよ!! マズイわよ!!」


 セレナが焦った声で喚きながら、寝ているタニアの頬をバシバシと叩いてきた。痛くはないが、鬱陶しいので、とりあえずその腕を掴んで起き上がる。


「……にゃにが、起きた、にゃ?」


 タニアは重だるい身体を無理やりに動かして、ほんの少し強くセレナの腕を握り締めた。痛い痛い、と悲鳴を上げるセレナを嘲笑してから、改めて、にゃんにゃ、と問い直す。


「……もうっ! この馬鹿力――って、そうそう。この魔動列車なんだけどさ、ついさっき、クダラークを通り過ぎたわよ!?」

「――――は? 何を言ってるにゃ?」


 セレナが勢いよく吐いた台詞に、タニアはきょとんとして首を傾げる。

 それからマジマジとセレナの不恰好を眺めて、渋い顔になって眉根を寄せた。セレナは白いタオルを胸と腰に巻きつけて結び、一見してシュールな格好だった。

 疲れからおかしくなったか、と心配になり、タニアはセレナの額に手を当てた。


「ちょ、何するのよ!? 熱なんかあるわけないでしょ?」


 そんなタニアの手を振り払い、セレナは窓の外を指差す。視線を向けると、もうとっくに日は昇りきっており、一面真っ青な湖面が広がっていた。


「……クダラークの街中で、最重要指名手配犯が隠れたらしいのよ。だからソイツを外に逃がさないよう、街を封鎖するんですって……封鎖がどれくらいの期間掛かるか分からないけど、当分は街に入ることも、出ることも出来ないらしいわよ」

「――――それ、本当にゃ?」

「そんな下らない嘘、あたしが吐く必要あるの?」


 衝撃的な台詞に、タニアは瞼をパチパチとしばたたかせて、セレナを見詰め返す。セレナは困った顔を浮かべて、真っ直ぐとタニアを見返してきた。そこに嘘は感じられない。


「……信じられないなら、確認して見なさいよ。クダラークが遠ざかっていくわよ」


 セレナが疲れたような声で言った。タニアは言われるがまま窓の外に顔を出す。魔動列車の進行方向と逆側に顔を向けると、確かに、クダラークの街がドンドンと遠ざかっていくのが見えた。

 なるほど、信じたくはないが、セレナの勘違いということもないようだ。


(どうして、こうにゃったにゃぁ……)


 タニアは窓から顔を引っ込めて、悩ましげに眉根を寄せた。

 そのとき、ドガン、と大きく魔動列車が揺れる。今度は何にゃ、とふたたび視線を窓の外に向けると、湖面に凄まじい高さの津波が巻き起こっていた。

 湖に巣食う水棲の魔貴族アール――【ギガンドレッドプワソン】が、性懲りもなく突撃してきたようだった。タニアとセレナは、はぁ、と溜息をシンクロさせる。


「……しかし、とにゃると――この魔動列車は、どこまで行くにゃ?」


 タニアは気だるげな声で、セレナへと問い掛けた。セレナは非難がましい視線を向けて、棘のある声で答える。


「【鉱山都市ベクラル】まで、よ。あと十九時間超、ずっと乗りっぱなし――かなりの時間浪費になったわよ。どうするつもり?」


 アンタのせいよ、と言外に含めた物言い。セレナは、どう責任を取るの、とタニアを責める。しかし、そんなセレナの責めに対して、タニアはキョトンとした表情を浮かべた。


「どうするもにゃにも、どうも出来にゃいにゃ? これもう、素直にベクラルまで戻って、準備を整えて――またデイローウに戻ればいいだけにゃ? むしろ逆に、この魔動列車がベクラル行きににゃったことを喜ぶべきにゃ。これが【荒野の街エフェマ】行きとかだったら、デイローウ大樹林に戻るのは、もっとずっと一苦労だったにゃ」

「…………アンタ、誰のせいでこんな無駄足を踏んだと思ってるのよ?」

「にゃ? 少にゃくとも、あちしのせいじゃにゃいにゃ」


 タニアはまったく悪びれずに断言して、怒り心頭の表情を浮かべたセレナに首を傾げてみせた。セレナは口元をピクピクと震わせながら、不愉快そうにタニアを睨みつける。

 セレナの言い分は理解できる。タニアが街に戻る選択を強要しなければ、こんなタイムロスにはならなかったのだから、これはタニアの責任と考えてもおかしくはない。だが、よくよく考えてみれば、実際の原因は、そもそもクダラークに入れなくなった要因――つまり、最重要指名手配になった何者か、であろう。

 つまりタニアたちこそ被害者だ、とタニアは考えていた。


「はぁ~……まぁ、確かに。アンタに何を言っても、無駄か……」


 セレナはしばらくタニアを睨んでいたが、まるで堪えていないタニアの態度に根負けして、長い溜息を漏らした。どれほど責任を追及しても、もはや意味がないと気付いたのだ。これ以上何を言っても無駄と諦めて、言葉を飲み込む。

 一方でタニアは、セレナの言い分は理解できても、なぜそんなに怒っているのかが疑問だった。

 別段タニアたちは、それほど急いでいるわけでもない。【魔神召喚】の設置図は正しい位置を指し示していたのを確認できたし、ヤンフィから事前に授かった知識で、生贄の柱の破壊も可能そうだった。であれば、あとは態勢を万全に整えてから、ゆっくりと攻略するだけだろう。

 煌夜たちには申し訳ないが、攻略失敗するよりも、時間を掛けてでも全攻略することこそが肝要だ。


「にゃあ、セレナ。いったい何を、そんにゃ焦ってるにゃ?」


 タニアはとりあえず気持ちを切り替えて、ベッドのうえで胡坐を掻いた。

 落ち着いた様子のタニアを見て、セレナはこれみよがしの溜息を吐いてから、隣のベッドの縁に腰を下ろして向かい合う。


「……逆に聞くけどさ、タニア。アンタは焦らないの? あの『タイヨウ』だか言う魔術師、何者かは知らないけど、間違いなく【魔神召喚】に関わってる敵よ? ということは、また襲い掛かってくる可能性があるわけでしょ? 撃退したって言ってたけどさ、仕留めきれなかったわけだし……二日、三日程度ならまだしも、それ以上に回復の時間を与えれば、襲撃される可能性が高くなるわよ?」


 セレナは真剣な表情で、そんな心配を口にした。タニアは、にゃるほど、と強く相槌を打つ。

 確かに【世界蛇】ガストンを知っていて、且つ、あの場所にいたことを考えると、タイヨウを名乗った青年魔術師は、間違いなく【魔神召喚】に関わりのある敵だろう。そう考えると、セレナの危惧する通り、また相見える可能性は充分あり得る。そして、次に交戦した場合、確実に勝てるかと問われれば、タニアは自信を持って頷くことが出来なかった。


「――にゃけど、それを想定するにゃら、尚更、あちしたちも準備を整えにゃいとマズイにゃ。一つ目の立体魔法陣で、竜種の魔貴族が生まれてたってことは、二つ目、三つ目も同様に、魔貴族が生まれてる可能性はあるにゃ。そうにゃると必然、あちしたち、連戦ににゃるし、全攻略するのに時間が掛かるにゃ。そんにゃ連戦の疲弊した状態で襲い掛かられたら、それこそどうしようもにゃいにゃ?」

「うぅ……ま、まぁ、それは、ね」

「にゃによりにゃ。あちし、タイヨウに全力を見せちゃったにゃ――にゃのに、殺しきれにゃかった。次襲われたら、圧倒的に不利にゃ」


 前回の戦闘で、タニアは【先祖還り】という切り札を切ってしまった。自身の本気の底を露呈させてしまっている。しかし一方で、タイヨウはまだ能力の全容を明かしていない。あれほど圧倒しても殺せなかった謎の能力があるのだ。

 タイヨウのその謎を解かない限り、タニアたちが勝利できる可能性は薄い。


「………………」


 タニアの言葉に、セレナは難しい顔で黙り込んだ。

 タイヨウ相手に手も足も出ず殺されかけたセレナからすれば、焦る気持ちは至極当然である。一刻も早く魔神召喚の立体魔法陣を破壊し尽くして、タイヨウが襲撃してくる前に現場から逃げるべきと考えているのだろう。

 確かに、それも一つの作戦ではある。だが、その場合、タイヨウと遭遇してしまった場合、高確率で全滅の危険性がある。

 タニアは一見すると、能天気で出たところ勝負のような性格をしているが、死のリスクは極力避ける性質でもある。危険は犯すが、それは命を担保したうえで、である。


「ま、そんにゃわけで、焦るのは無駄にゃ。後悔しようとしまいと、どちらにしろ、ベクラルに戻る現実は覆せにゃいにゃ」

「――タニア、アンタのその能天気さ、本当羨ましいわ」


 タニアは軽い調子で話を結ぶと、セレナは溜息交じりに呟いた。


「確かに今更、後悔しても意味ないわよね…………タイヨウに遭遇しないことを祈ることにするわ」


 セレナはベッドから立ち上がり、タオルを下着代わりに巻いている自身の身体を見下ろしてから、タニアに右手を差し出す。


「何にゃ?」

「あたし、時間潰しにカジノ行って来るわ。だからさ、タニアの服、貸してよ。予備あるんでしょ? さすがにさ、この格好にボロボロのコート羽織っただけって、恥かしすぎるわ」


 タニアはセレナの台詞にキョトンとしたまま、何度か瞼をパチパチとさせる。

 それは仰る通りだろうが、好き好んでその格好をしているのではないのか――と、考えた時、セレナがジト目で睨んできた。


「ねぇ、タニア。アンタ今、あたしがこの格好、好きでやってると思ったでしょ?」

「違うにゃ?」

「腹立つわね――まぁ、どっちでもいいわよ。ともかく、アンタの着替えを貸してよ」


 ん、と強く手を差し出すセレナに、タニアはポリポリと後頭部を掻いてから、申し訳なさそうな顔を浮かべた。そして腕輪状の道具鞄に魔力を注ぎこみ、異空間を展開する。

 そりゃあ、服を貸すのはやぶさかではないが、一つだけ重大な問題があった。


「いいにゃけど、今はもう、この上着しか予備にゃいぞ?」


 タニアは空中に浮かび上がる黒い穴に手を突っ込むと、中をゴソゴソと漁って、黒いベストを一着取り出した。それをポイっとセレナに投げ渡して、道具鞄を閉じる。

 セレナは黒いベストを受け取ってから、え、と面食らった様子で首を傾げた。


「………………どういうこと?」

「あちし、予備の服って一式しか持ち歩かにゃいにゃ。にゃので、今あちしが着てるのしかにゃいにゃ。にゃけど、よく破れるベストだけは、二着ほど余分に持ち歩いてるにゃ」


 タニアはそう言うと、ごめんにゃ、と心の篭らない謝罪を述べる。それに対して、セレナは呆然とした様子で無言だった。


 さて、これが唯一存在する獣化のデメリットである。獣化すると、当然そのサイズの違いから、問答無用で衣類が破けて裸になってしまう。

 獣化状態であれば、長い体毛に覆われるので、違和感なく恥かしさもないが、人化した際には、当然ながら困ってしまう。その為、獣化イコール、着替えが用意されている状況が必須だった。

 そんな理由から、今回タニアは街に戻ろうと提案したのである。

 想定外の戦闘で獣化させられたことを考えると、また同じ状況にならないとも限らない。そもタイヨウがまた襲撃してきた場合、獣化しないで撃退出来る自信はない。つまり、獣化するシチュエーションを念頭に入れておく必要があった。となれば当然、着替えを多く用意しておかなければならない。勿論、体力と魔力をいち早く回復するために、ミルクが飲みたかったのも、タニアの本音ではある。


「まさか、アンタ……クダラークに戻ろうって言った理由、着替えを買いたい、から?」


 しばしの沈黙の後、セレナが恐る恐るとそれを口にした。対して、タニアは少しだけ目を伏せながら、そうにゃ、と素直に肯定する。


「あたしには、全裸を強要しといて――?」

「セレナは貧相にゃから、誰も気にしにゃいにゃ。にゃけど、あちしは恥かしいにゃ」

「――――タニア、今着てる服脱ぎなさいよ。どうせ、この部屋から出ないでしょ」


 セレナが殺意すら感じさせる鋭い睨みをタニアにぶつけてくる。

 タニアは肩を竦めて、嫌にゃ、と軽い調子で拒否した。いっそうセレナの視線が鋭くなった。


「タニア。アンタさ、あたしの装備棄てたでしょ? それに対して詫びもないんだから、あたしがカジノで時間潰す間くらい、服を貸してくれたっていいでしょ? というか、貸すのが当然でしょ?」

「それとこれとは、また別問題にゃ――――にゃけど、分かったにゃ。仕方にゃいにゃぁ……確かに、あちし部屋から出にゃいからにゃぁ」


 タニアが発言するたびに、ドンドンと鋭くなるセレナの眼光。しかも本気で魔術を展開しようとしている様子に、タニアは不承不承で折れた。

 分かったにゃ、とおざなりに頷きつつ、穿いているホットパンツを脱いでセレナに手渡す。タニアはそれでも、局部を隠す下着を穿いているので、セレナのように痴女の如き格好にはならない。

 セレナは受け取ったホットパンツを穿いて、黒いベストを身に付けると、自分の姿を見下ろして溜息を漏らしていた。


「…………仕方ない、か」


 服を奪っておいてその台詞は何にゃ、とタニアは心の中で突っ込みながらも、とりあえずやることもないのでベッドに横になる。

 そんなタニアに冷たい視線を向けたセレナは、その似合っていない残念な格好の上に、変質者ローブを羽織って寝室から出て行った。

 セレナが部屋から居なくなったのを音で感じながら、タニアは瞼を閉じた。途端に、先ほどまで寝ていたとは思えないほどの眠気が顔を出した。


「おやすみにゃぁ――」


 タニアは自らに言い聞かせるように囁いて、そのまま深い眠りに落ちた。



 そんな一幕はさておいて――タニアとセレナを乗せた魔動列車は、ひた走る。

 広大な聖王湖を縦断する【湖の大橋】を駆け抜けて、代わり映えのない荒野を進んでいく。

 魔動列車の向かう先は、【鉱山都市ベクラル】であった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 はてさてそれから、タニアとセレナは、度重なる不運に巻き込まれて、結局のところ、予定を大幅に変更するはめになった。


 タニアたちの当初の予定では、半日掛けてクダラークまで戻り、半日の休息、それから装備を整えて、再び半日掛けてデイローウ大樹林に戻ってくる計画だった。

 ところが、クダラークではなく一つ手前の街ベクラルまで戻る羽目になって、移動時間がプラス一日。さらには、ベクラルで装備を整える際、これまた想定外の事件に巻き込まれてしまって、結局、半日どころか丸二日ほど、ベクラルに滞在するはめになった。

 それから急いでクダラーク行きの魔動列車に乗り込んだが、不運とは連鎖するもので、その移動途中、魔動列車に大規模な整備が入り、おかげでデイローウ大樹林に戻ってくるのに丸三日を要することとなった。


 こうして都合、往復の移動時間と装備を整える準備に七日近くを要して、当初の予定よりも五日ほどの遠回りとなった。


 しかし急がば回れ、とはよく言ったもので――不運が重なったこの遠回りは、数多の偶然が重なり、最善へと到る必然に変わる。

 無駄にしか思えなかったタイムロスだが、この後の結果だけを論じるのならば、この遠回りこそが最善手だった。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 魔動列車の中に、パァ――ッ、と警笛のような音が響き渡った。


『――皆様、長旅お疲れ様でした。まもなく当列車は【デイローウ大樹林入り口】に到着いたします。当列車は、ここで二時間停車して、補給と調整を行います。外出なさるお客様は、停車時間にご注意願います。また、次に停車する地点は――』


 そんなアナウンスが流れて、魔動列車はゆっくりと減速を始める。それを聞きながら、タニアは感慨深い思いを抱いていた。

 ようやく戻ってきた――――ようやく当初の目的地に、ふたたび辿り着いた。


 魔動列車が完全停車したのを見計らって、タニアとセレナは魔動列車を降車する。

 列車の外は既に夜の帳が下りており、目の前に広がっている鬱蒼とした【デイローウ大樹林】は、不気味な静寂で来訪者を迎えていた。

 魔動列車から吐き出された人たちが、周囲でわいわいと騒いでいる中、タニアとセレナだけは、迷わずに明かりのない森へと足を向ける。


「……んにゃ?」


 しかし、いざ森の中に踏み込もうとしたとき、ふと何者かの視線を感じた。どこからか、何者かが、タニアたちの様子を窺っているような感覚がある。

 タニアはピタリと足を止めて、鋭く周囲を一瞥した。


「どうしたのよ、タニア? 何か忘れ物?」


 森に入らず立ち止まったタニアに、先を行くセレナが呆れたような顔で振り返った。


「にゃんか……視線を感じた――いや、感じるにゃ」


 タニアは確信を持ちながらも、腑に落ちない顔をして、ピョコピョコと猫耳を小刻みに動かした。周囲の気配に集中して、怪しい物音がないか探る。けれど、視線の主は見付からなかった。


「…………勘違いじゃないの? あたしは、何も感じないけど?」

「それは、セレナが鈍感にゃだけにゃ。間違いにゃく、あちしたち、どこかから見られてるにゃ」


 セレナの言葉をタニアは即座に否定した。その言い様に、セレナはムッと苛立った表情になる。だが、これは事実なのだから仕方がない。タニアたちは確実に、誰かに観察されている。


「にゃんだ? にゃんか落ち着かにゃいにゃぁ」


 敵意や殺意、好奇の視線、ではない。不愉快な視線かと言えば、そうでもない。これは感情の篭らない視線だ。こちらの動向を、ただ眺めている監視の視線のようである。

 タニアはいっそう感覚を鋭くさせて、視線の主を探ろうと、意識を周辺に集中させる。


(……タイヨウが仲間を呼んだ、とかかも知れにゃいにゃぁ)


 タニアの心配事は一点だけだった。

 取り逃がしたタイヨウが、仲間を呼んで戻ってきており、森の中で待ち伏せしている可能性だ。その場合、間違いなく戦闘になるし、かなりの苦戦が予想される。


 そんな万が一の心配をするタニアの様子を見て、セレナも気持ちを引き締めて、警戒しながらタニアの近くまで戻ってくる。

 セレナはキョロキョロと露骨に周囲を見渡して、少しだけ緊張した面持ちを浮かべていた。


「――――さすが、コウヤ様のお仲間かしら。気配を絶っていたのに、ワタクシに気付けるなんて……数合わせの雑魚、というわけではありませんわね」


 タニアとセレナが森の縁で立ち止まっていると、ふいに二人の頭上から、感心した風な声が降り注いできた。二人はハッとして、慌てた様子で頭上を仰ぎ見る。

 果たしてその夜空には、月以外、何も浮かんではいなかった。


「……え? まさか、天族?」


 ところが、虚空を見詰めていたセレナが、震える声でふと呟く。その呟きを耳にして、タニアは、にゃに、とセレナを見た。

 セレナは自分で言っておいて、その言葉が信じられないのか、ゴシゴシと目をこすってから、眉根を寄せて虚空を凝視している。

 タニアはセレナの視線の先を追って、もう一度夜空を仰ぎ見た。けれどやはり、タニアの目には暗闇しか映らない。


「ふ~ん――獣人族(ガルム)は、気配には敏感だけれど、幻視には掛かり易いかしら。でも一方で、月桂樹の使徒は幻視に惑わされないようね。これをすぐ看破できるなんて、お見事かしら」


 そんな台詞と共に、バサリ、と鳥が羽ばたくような翼の音が聞こえた。すると、ユラリと暗闇が蜃気楼のように揺らめいて、突如そこに、目が覚めるような白金の髪をした女の姿が浮かび上がる。

 タニアは驚きから静かに息を飲んだ。ピクッと緊張で身体を硬直させる。

 その女は、長い白金髪を螺旋状に巻いた独特な髪型をしており、どこぞのお姫様かと思うほどの華美なドレスを纏っていた。またその背中には、圧縮した空気で作られた翼が見えている。


「……見たことにゃい文字、種族は――天族、にゃ」


 タニアは唐突に現れたその女をマジマジと見詰めて、信じられにゃい、と小さく呟いた。タニアの【鑑定の魔眼】に映っていたのは、見たことのない文字の名前と、天族と呼ばれる種族の記号である。


 天族――六世界のうち、天上界に生息すると言われる種族だ。

 姿形や生態、寿命などは人族とほぼ変わりなく、見分けるポイントは、天翼(てんよく)と呼ばれる小さな翼を背中に生やしていること。天翼には、大気を意のままに操ることが出来る特性があり、天族はそれを利用して空中を自由自在に動き回ることが可能なのである。それゆえに、別名を【空の民(スカイウォーカー)】とも呼ばれている種族だ。

 また種族特性として、魔王属には及ばないものの非常に高い魔力を有しており、全魔術属性の適性を持っている。ただし、身体能力はそれほど高くないので、戦闘力は高くない。ちなみに、一代に限ってのみ、あらゆる種族の子を成すことが出来るという特性も持っている種族である。


 天族の女はツンと澄ました表情をして、無機質で死人のような温度のない視線を向けてくる。硝子玉みたいに少し青みがかった双眸には、タニアとセレナが映っていたが、およそ感情は感じ取れない。まるで路傍の石を眺めているが如く、見ているが何も見ていないようだった。


「とりあえず、高みの見物はもう終わりかしら」


 天族の女はつまらなそうに呟いてから、そのままの姿勢でスゥっと高度を下げてくる。すると、ドレスのスカートが風にはためいて、ブワッとまくり上がった。


「にゃにゃ!? 変態にゃ!?」


 ちょうど真上を見上げる形で、タニアはまくり上がったスカートの中身を見て、思わず吹き出した。

 薄暗くなっていてディティールまでは見えないし、そもそも見たくもなかったが、天族の女はドレスの下に何も穿いていなかった。

 タニアはビックリした表情を浮かべると、隣で怪訝な表情を浮かべているセレナを見やる。


「……ちょっと、タニア。どうしてそこでわたしを見るのよ?」

「にゃ? あ、いや、セレナのお仲間――」

「――わたしに露出の気はないわよ! ちゃんと下着も穿いてるわよ!?」


 セレナとそんな小突き合いをしている間に、スタッと天族の女が地面に降り立つ。その天族の女は、タニアとセレナから二歩離れた位置で、無防備に立っていた。


「コホン――まずは、自己紹介しておきますわ。ワタクシは、ディド。見ての通り天族ですわ。今後とも、どうぞお見知りおきを」


 わざとらしく咳払いをしてから、天族の女は自らを『ディド』と名乗った。同時に、ドレススカートの裾を持って、優雅に会釈をしてみせる。その所作は、王族たちの社交場で、身分の高い令嬢がする挨拶だった。あまりにも洗練された所作で、ひどく場違い感がある。


「さて、では次に確認ですわ。そちらの獣人族(ガルム)――貴女が、タニア・ガルム・ラタトニアで間違いないかしら。それと、月桂樹の使徒の貴女が、セレナで合っているかしら」


 ディドは柔らかい物言いで、しかし無表情のまま、タニアとセレナを交互に見やる。そこにはやはり、何の感情も読み取れない。立ち居振る舞いは隙だらけで無防備、一切の敵意も感じないが、それゆえに不気味過ぎた。

 タニアとセレナは静かに息を飲み、周囲への警戒と共に、目の前のディドに対して威圧を放つ。


「――難しい、とは思いますけれど、警戒しないで欲しいかしら。ワタクシ、貴女たちと戦うつもりなんて、微塵もありませんわ」


 ディドは肩を竦めて、一歩後退る。そして無造作に両手を上げて、無抵抗をアピールした。


「ワタクシ、伝言役ですわ。コウヤ様のお仲間である貴女たちに、今後のお話をする為に、わざわざこんなところまで出張ってきたかしら」


 そう言うと、ディドは無詠唱でもって何やら魔術を展開する。すかさずタニアは警戒を高めたが、それは何のことはない収納の時空魔術だった。

 ディドの手元には、10センチ大の黒い穴が出現する。すると、その中からは、見覚えのある徽章がついたネックレスが取り出された。


「これが証拠かしら――あ、勿論これは、コウヤ様からお預かりした大事な物ですわよ」


 ディドは取り出したそのネックレスを大事そうに両手で持って、タニアとセレナに献上するように恭しく差し出した。


 そのネックレスは紛れもなく――『コウヤと頼りになる愉快な仲間たち』のパーティーの証。

 徽章がついたネックレスだった。


さて、今回端折ったタニアとセレナが巻き込まれたという事件については、

サイドストーリーの位置付けで、後日、掲載予定です。


※時系列A-4/A-15

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