第五十一話 一つの決着/煌夜&ヤンフィ・ソーンSide
眩い黄金の光がようやく収束すると、ひび割れて瓦礫だらけになっている床には、気絶したエルネス・ミュールが転がっていた。
ぐったりとしてうつ伏せに転がるエルネス、その全身は見るも無残に焼け焦げており、仄かに煙が立ち昇っている。
誰が見ても、もはや死に体――ただし、ビクンビクンと時折身体が痙攣していることから、まだかろうじて死んでいない様子だった。
とはいえ、じわじわと床には血の海が広がり始めている。このまま放っておけば、そう長くは保たないだろう。
しかしそれにしても、即死していないことが驚異的である。
【神槍グングニル】の直撃を受けて、まさか死んでいないとは奇跡と言える。流石、神の鎧――戦女神鎧だろう。信じたくないほどの防御力だった。
「さて、と――それはそれとして、のぅ」
ヤンフィは視線と意識を死に体のエルネスから逸らした。もはやエルネスは敵ではない。
わざわざトドメを刺して殺すほどでもない。
「ここからが、問題じゃのぅ……」
ヤンフィはボソリと呟いて、疲れたように吐息を漏らした。同時に、胸に掻き抱いていたA4サイズの黒い本――【無銘目録】を背中に回して、着物の帯に挟み込む。
「……待たせたのぅ。魔道元帥ザ・サン、じゃったか? これにて前哨戦は終わりじゃが、さて、どうするかのぅ?」
そして、空中でクルリと背後を振り返り、ベッドのあった部屋の方向に顔を向けた。
そこには、まったくの無傷で立っている半裸の青年――魔道元帥ザ・サンの姿があった。
光剣の豪雨に晒されて穴だらけになった寝室に居て、魔道元帥ザ・サンは、場違いなくらいに平然としている。
ヤンフィは心中の複雑な気持ちをおくびにも出さず、挑発的な笑みを浮かべる。
そんなヤンフィと視線を交わすと、魔道元帥ザ・サンは頭痛を堪えるように目頭を押さえてから、重々しい溜息を漏らした。
「どうやら私は、キミ――『ヤンフィ』と言う【魔王属】を、随分と甘く見ていたらしい」
魔道元帥ザ・サンは、やれやれ、と首を横に振りながら、懺悔でもするかのように言葉を続ける。
「私は今、キミに恐怖している。この悪夢みたいな世界にやってきてから、二百年余り。本当にさまざまな化物を目にしてきたが、キミほど死を強烈に感じさせる存在、死の匂いを纏った敵は初めてだ。キミのような化物をこそ、死神と呼ぶのだろう。私が自分の死を意識したのは、だいぶ久しぶりだよ」
流暢に語る魔道元帥ザ・サンの言葉は、非常に不思議な響きをしていた。聞いたことのない発音と単語だった。
少なくとも、ヤンフィの知識の中には存在していない言語である。となれば、このテオゴニア世界の言語でない可能性が高い。
異世界の言語だろうか――そんな疑問がヤンフィの頭を過ぎった時、魔道元帥ザ・サンは、パチンと指を鳴らした。
するとベッドの周囲に散かっている原型を留めていない衣服の残骸が、一斉に魔力の粒子に変わって、魔道元帥ザ・サンの身体に纏いついた。
魔法少女の変身よろしく、一瞬後には、半裸だったその全身は黒ずくめの服装に変わる。
「ところで、キミ。魔王属とは、あらゆる言語を理解できるんだよな? つまり、私が今話している言葉は理解できているよな?」
魔道元帥ザ・サンはそう問い掛けながらも、ヤンフィが理解しているのを前提で話していた。
確かに、【統一言語】を操るヤンフィには、理解出来ない言語は存在しない。
ヤンフィは魔道元帥ザ・サンの動きを警戒しつつ、答える義務も必要性もなかったが、とりあえず一つ頷いてみせた。
「理解は出来る。じゃが、それがどうした? 妾は汝と語らうつもりなぞない。意思疎通が図れたところで、何の意味もないじゃろぅ? ああ、それとも――命乞いでもしたいのかのぅ?」
ヤンフィは挑発的に言って、サッと周囲を一瞥する。
【ヘブンドーム】全体が、凄まじい轟音を響かせながら、グラグラと不安定に揺れていた。
あちこちで壁が崩れる音もしていた。またそれに混じって、空間が割れる音――時空魔術の結界が壊れていく音も聞こえてきていた。
もはやこの【ヘブンドーム】は、崩壊の一途を辿っている。空中に浮かんでいるこの神殿が、直下のインデイン・アグディの街に落下するのも時間の問題だろう。
このまま戦闘を続ければ、街一つを巻き込んで、膨大な数の死者が出るに違いない。
「まぁ、何をしたいかは知らぬが……悠長に構えておると、何もかも終わるぞ?」
ヤンフィは不敵な笑みを浮かべて、魔道元帥ザ・サンにそんな問いを投げた。するとどうしてか、魔道元帥ザ・サンは心底愉しげな表情を浮かべる。口角を吊り上げて、この状況にまったくそぐわない無邪気な笑みだった。
「分かっているよ。もう時間がないことくらい。だからこそ、キミに提案――いや、交渉したいことがあるんだよ。交渉するには、言葉が通じないと不便だろう? だから、言葉が通じるか確認したまでだ」
魔道元帥ザ・サンは少しだけ首を傾げて、ヤンフィの反応を窺っていた。どこか余裕を感じさせるその態度に、ヤンフィはいっそうの警戒を払いながら聞き返す。
「交渉、じゃと? 何が云いたいのじゃ?」
「単純な話だよ。キミの力が欲しい。キミに、私たちの仲間になって欲しいんだ」
「ふっ――命乞いではなく、懐柔か? それのどこが交渉じゃ。妾を馬鹿にするでないわ」
「……これは交渉だよ。このままここでキミと私が戦えば、十中八九、キミは死ぬ。キミほどの実力者をこんなところで無為に失うのは惜しい」
そんな脅しを口にしながら、魔道元帥ザ・サンは全身からブワッと凄まじい魔力を溢れさせた。
その魔力量は戦女神鎧を纏ったエルネスを軽く凌駕するほどだ。人の身でありながら、魔王属に匹敵するほどの魔力量である。吐いた台詞は決して自惚れではないと、その態度がハッキリと告げていた。
ヤンフィは挑発的に微笑みながらも、内心では焦りから嫌な汗を流していた。
確かに、タイヨウのその言葉は図星である。このまま戦えばヤンフィの勝ち目は薄い。死ぬ可能性も、九割近くあるのは間違いないだろう。
ヤンフィの魔力は今、凄まじい勢いで消費されている。それは本来の姿を顕現しているからであり、それでなくとも、魔力を大盤振る舞いしたせいでもある。
後先など考えずそうしなければ、エルネスには勝てなかったとはいえ、どんどん状況は手詰まりになってきていた。
――これ以上、ヤンフィが本来の姿で戦い続ければ、退避させた煌夜の身体が朽ちるだろう。となると必然、連戦は不可能だ。逃げる以外に活路はない。
「なるほどのぅ。死にたくなければ、妾に仲間になれ――と、云うことか? ふむふむ、随分と不遜な台詞じゃのぅ。それはそも前提として、妾には勝てると云うことかのぅ?」
しかし焦りの感情は微塵も出さず、ヤンフィは強気の態度を崩さずに、魔道元帥ザ・サンを見下すように眺めた。ここで弱みを見せてしまえば、一巻の終わりである。
そんなヤンフィに、魔道元帥ザ・サンは愉しそうに言葉を続ける。
「勝てる、というのが、キミを殺すことであれば、100パーセント勝てるだろう。その結果、私も死ぬ可能性はあるが、それは考慮に値しない」
「ほぅ――なんぞ確信でもあるのかのぅ? 妾はまだ、実力の底を見せてはおらぬが?」
「それは、私も同様だよ。だが互いの実力、秘めた能力は、あまり関係ない。殺す、と言う一点だけを突き詰めるならば、相手が誰だろうと不可能ではない」
意味深な台詞だった。それは、冗談やからかいではなく、またヤンフィを軽んじていることでもないようである。魔道元帥ザ・サンは本気でそう言っていた。
その自信に満ち溢れた台詞に、ヤンフィは苛立った様子でギリと歯軋りする。
「のぅ、魔道元帥ザ・サンよ。汝が只者ではないことは理解できる。じゃが、その台詞はあまりにも不遜が過ぎるぞ。誰が相手だろうと、殺せる、じゃと? 汝、何様のつもりじゃ?」
ヤンフィは【千里眼】の魔眼でもって、射殺す気概で魔道元帥ザ・サンを睨み付けた。同時に、凄まじい殺気と覇気を叩きつける。
しかし、ヤンフィの凄みに、魔道元帥ザ・サンは何ら感情を動かさず、ただただ不敵な笑みを浮かべていた。あまりにも平静すぎるその態度と感情の色に、逆にヤンフィが一抹の恐怖を覚えた。
その時ふと、魔道元帥ザ・サンが緊張の空気を緩ませて、的外れなことを口走る。
「――自己紹介が、まだだったな。私の名は、タイヨウだ。【魔道元帥ザ・サン】とは、私が所属するこの組織――【世界蛇】内での役職であり、コードネームに過ぎないよ。だからこれからは、私を呼ぶ際にはタイヨウと呼んで欲しいね」
ヤンフィの威圧を真正面から跳ね返しながらのその発言に、ヤンフィは不愉快だと言わんばかりの表情でこめかみに青筋を立てた。
「タイヨウ、のぅ――――だから何じゃ? 汝は、妾を怒らせたいのか?」
「そんなつもりはないよ。キミを怒らせても意味がないだろう? 私はただ、事実を述べているだけだ。彼我の戦力差に関わらず、私は誰であろうとも殺せる。だからこそ、キミを殺したくはない――で、どうだろうか? キミほどの実力者であれば、即幹部に迎え入れられるよ。望むままの報酬も用意しよう。キミにとって、悪くない話だと思うが?」
「……妾を脅しているつもりか?」
「まさか――キミが、こんな脅しに屈するとは思っていないよ」
魔道元帥ザ・サン――タイヨウは不敵な笑みを浮かべたまま、大仰に肩を竦めて見せる。その態度に、ヤンフィはいっそう強い殺気をぶつけた。
「さて、と――そろそろ、マズイな。【ヘブンドーム】の浮力が限界だよ。急いでここから脱出しなければ、神殿の崩壊に巻き込まれてしまうだろう……なので、出来るだけ早く、キミの結論を聞かせて欲しいと思うのだが、どうだろう?」
タイヨウはヤンフィの殺気を受け流して、緩やかな所作で周囲を一瞥した。その態度にはかなりの余裕が窺えた。台詞とは裏腹に、少しも急いでいる様子がない。
ヤンフィも同じように、鋭く周囲を一瞥する。
タイヨウの言う通り、【ヘブンドーム】の崩壊はもはや確定事項であり、限界が近いのは間違いない。現に先ほどよりもより強く部屋全体が揺れているし、壁が崩れる轟音は激しくなっている。一刻の猶予もないのは事実だろう。だと言うのに、タイヨウはそれに頓着している素振りが見えなかった。
「……『急いで』と、云うておる割りに、汝の態度は余裕そうじゃのぅ」
「私は、ね。【空間連結】が使えるから、いつでも安全な場所に転移できるんだよ」
サラリと告げるその台詞は、それほど軽々しく言えることではない。【空間連結】――時空魔術の中でも、冠級に属する転移魔術である。おいそれと誰もが扱える魔術ではない。
伊達に『魔道元帥』の称号を冠してはいないということか――と、ヤンフィはつい舌打ちする。ことのほか、タイヨウは冷静だった。これでは、万が一にも神殿の崩壊に巻き込まれたりはしないだろう。
「さあ、どうする? 死を覚悟して、私と決着を付けるのか。はたまた、私の手を取り【世界蛇】に与するか……このまま悩んでいても、神殿の崩壊に巻き込まれてしまうよ? いかなキミとて、そうなればただでは済まないだろう?」
「その態度は、何じゃ? 慈悲のつもりかのぅ? 極めて、不愉快じゃ――」
タイヨウの淡々とした台詞に、ヤンフィは苛立ちをあらわに吐き棄てる。もはや問答無用とばかりの殺気を放ち、無手の右腕を肩の高さまでスッと上げた。
「――顕現せよ、【七星剣】」
ヤンフィが告げると、背中側の腰帯に挟まっていた【無銘目録】が飛び上がり、自動的にパラパラと頁がめくられる。そして刀が描かれている頁を開くと、次の瞬間その頁から、夜闇を溶かしたような漆黒の刃をした刀が浮かび上がる。
ヤンフィはそれを右手で掴んだ。
「……先ほどキミが放った槍もそうだったが、その刀も恐ろしい武器のようだ。纏いつく魔力と、濃厚な死の気配。見ただけで危険なのが分かるよ」
緩い反りをした漆黒の刀――【七星剣】を素振りして、ヤンフィは鋭く眼光をタイヨウにぶつける。しかしタイヨウはそれを平然と受け止めて、うんうんと何やら頷いている。
「この【七星剣】を前にして、随分と余裕があるのぅ……まぁ、もうどうでもよいがのぅ。さて、交渉とやらは決裂じゃ――――妾を殺せるものならば、殺してみせよ」
ヤンフィはそう宣言して、片手で刀を振りかぶるとそのままの格好でピタリと動きを止めて、無防備に瞼を閉じた。途端に、ヤンフィの気配が消え去り、空間を満たしていた殺気と覇気も失せる。
まるで風が凪いだように、辺りにはシンとした静寂が訪れた。
タイヨウはその構えを見て、思わず身体を硬直させて息を呑んでいた。それはヤンフィにあるまじき隙だらけの構えだった。攻撃すれば確実に仕留められると思えるほどの、完全な無防備。寝ているのではないか、と本気で思えるほど、大胆な隙だった。
それほどの隙だ。明らかに攻撃を誘っている、とタイヨウは判断する。
直前のヤンフィの台詞からも、それは容易に想像できた。それゆえにタイヨウは後手を選択して、ヤンフィの動向をジッと観察する――ヤンフィの思惑通りに。
実際のところ、その無防備な態度と挑発的な台詞は、ヤンフィの強がりでしかなかった。
この構えは正真正銘、無策である。もし仮に攻撃されれば、一巻の終わりだったろう。
なけなしの魔力を総動員して、最強の武器である【七星剣】を召喚したまでは良いが、現在の残存魔力量を考えると、ヤンフィはそれを一振りするのが限界だった。それ以上魔力を消費をすれば、煌夜の生命が維持できない。
つまりは【七星剣】で戦うという選択肢はない。召喚した【七星剣】はただの脅し、時間稼ぎの虚勢である。
(まったく、情けないのぅ。強がる以外に術がないとは……さて、どうするかのぅ)
内心で冷や汗を流しながら、精神集中している振りで必死に思考を巡らせる。だが、どんな想定を考えても、ここでタイヨウを殺すことは不可能に思えた。
タイヨウには恐らく、即死を防ぐ何らかの切り札が隠されている。だからこそ、あれほど余裕の態度が取れるのだ。
「……ヤンフィ、今一度考え直してくれないか? ここで私と戦っても、キミが得る物はなく、ただ命を失うだけだよ? 私の失言で怒らせてしまったのは申し訳ない、謝ろう。だから是非とも、私たちの仲間になってくれないか?」
ヤンフィが必死に思考を巡らせていると、その無防備を警戒したタイヨウが、両手を上げて無抵抗をアピールしながらそんなことをのたまう。ヤンフィと違い、その態度に焦りはなかった。あくまでも余裕を見せて、優位に立っているのは自分だと、その態度が物語っていた。
確かに、それは間違いない。タイヨウはヤンフィの状況を見透かしているかのように、先ほどから最善手を選択して、事を進めていた。着実にヤンフィは追い詰められている。
(……やはり、それしかない、かのぅ。仕方ない)
ヤンフィは静かに吐息を漏らす。熟考の末、妙手はひとつも浮かばない。だからこそ、ヤンフィは使いたくはない奥の手を選択するしかなくなった。
「――――覚えておけ、タイヨウ。妾はこれでも【魔王属】じゃ。あらゆる生物の頂点に立つ存在じゃ。我が身可愛さに、妥協することなんぞありはせぬ。そしてどれほど弱っていようとも、汝の如き矮小な人の器に殺されるほど雑魚ではない」
意を決した風に断言して、ヤンフィはカッと目を見開いた。一か八か――では、煌夜の命が危うい。となるとやはり、ヤンフィが取れる選択肢は唯一である。
「理想郷を顕現する。無限の未来は、妾が紡ぐ――【桃源】よ、辺りを包み込め」
ヤンフィは詠うようにそんな言葉を紡ぐと、顕現していた【七星剣】を霧散させる。代わりに、かろうじて残っている魔力を搾り出して、ただただ無意味に大部屋全体に放出した。
ヤンフィのその意味不明な行為に、タイヨウは怪訝な表情を浮かべた。一瞬だけ警戒して、放出された魔力を同量の魔力で防ぐが、特段何も起きはしない。
自暴自棄か、とタイヨウは思考するが、すぐさまそんな甘い考えを捨てる。
油断はならない。相手は考えなしの雑魚ではないのだ――これは、何らかの布石に違いない。
タイヨウはサッと周囲を一瞥して、異常がないかを確認した。だが、変化の兆しはまったく見えない。
「……タイヨウよ。残念じゃが、汝との決着はまたいずれ、じゃ。悔しいが、ここは一旦、退かせてもらうぞ」
ヤンフィは【千里眼】の魔眼でタイヨウを見据えたまま、事も無げに告げた。その声音は至極落ち着いており、タイヨウから逃げ延びられる確信が窺える。
「退く? 私の仲間になってくれないのであれば、逃がす気などないよ? キミは、私のお気に入りであるエルネスをボロボロにしてくれたのだから――まぁ確かに、私はキミを殺す強い理由がない。私にとってキミは、振り掛かってきた火の粉に過ぎない。だがそれでも、キミほどの脅威をここで見逃すのは、危険極まりない」
タイヨウは言いながら、圧倒的な魔力をその全身から溢れさせた。そして自然な動作で両手をヤンフィに向けると、無詠唱でもって【雷槍】を放つ。
その数は、計十二。ほとんどタイムラグなしで連続して放たれたそれは、一撃一撃がタニアの【魔槍窮】に匹敵する威力だ。速度は雷、弱りきったヤンフィでは避けることさえ至難である。
「……見逃す、ではない。汝は事実として、妾を追えなくなるのじゃ」
しかし、それら全てをヤンフィは当然のように躱した。いや、躱したというよりも、あらかじめ命中しない場所が分かっていたかのようだった。傍目には面攻撃にしか見えない【雷槍】のわずかな隙間で、ピタリとその動きを止めていた。
怒涛の魔術はヤンフィを紙一重で素通りして、崩壊寸前の天井に突き刺さる。
かろうじて残っていた天井は呆気なくその全てが崩れ去り、多数の瓦礫を床へと落とした。けれどその瓦礫もまた、ヤンフィを素通りして落ちていく。
「なっ――アレを、躱すか!? いいだろう、ならば――」
無傷で平然と中空に佇んでいるヤンフィを見て、タイヨウは驚愕の表情を浮かべる。しかしすぐさま気を取り直して、すかさず極大な魔力を右の掌に集中させ始めた。
今度の魔術は一切の手加減などなしに、完璧にヤンフィを葬り去るつもりの魔術のようだった。
それは聖級の合成魔術――いや、威力だけで言えば、冠級に匹敵する魔術である。
「――今度は、決して避けられない。堪えられるのならば、堪えてみよ。『憤怒の一撃、神の名を冠する雷――神雷』!!」
「【魔操の鍵】の真骨頂は、あらゆる魔力を意のままに操ること――予め、どんな魔術が、どの位置に来るのかさえ分かっていれば、操れない魔術はない」
ヤンフィはタイヨウの台詞に被せて、独り言のようにそんなことを呟いた。またそれと同時に、いつの間に顕現していたのか、その左手にはギザギザの刃を持つ大剣【魔操の鍵】が握られていた。
一方で、タイヨウの簡略詠唱は危なげなく成功して、一瞬の閃光と共に即死級の魔術が展開された。それはヤンフィの頭上より降り注ぐ赤色の落雷である。
タイヨウの宣言通り、躱しようのない範囲攻撃。そして、ヤンフィの防御力では決して防ぎようのない極大威力の攻撃である。その魔術は空気をビリビリと震わせて、部屋全体を赤く染め上げる。鼓膜を破るほどの衝撃を伴った爆音を響かせて、ひび割れていた床に巨大な穴を穿った。
【ヘブンドーム】全体が、ふたたびグラリと大きく揺れた。その威力は、ヤンフィが先ほど放った【神槍グングニル】が霞むほどの破壊力だった。
「……【神雷】の軌道を、曲げたのか? 俄かには、信じがたい。展開してから直撃するまで、零コンマ一秒にも満たない【神雷】を、どうすれば操れると言うんだ?」
タイヨウは震える声音で問いながら、驚愕に目を見開いていた。その視線の先には、先ほどとまったく変わらぬ中空で、まったく変わらぬ無傷のまま浮かんでいるヤンフィの姿がある。
ヤンフィはつまらなそうに目を細めて、真横に【魔操の鍵】を振るった。スゥと、一筋の赤い閃光が空間をなぞり、それに遅れて、バチバチと放電する赤い雷の塊がヤンフィの頭上に現れた。
「一つだけ、汝の為になることを教えてやろう。護るか、攻めるか。どちらもこなそうとして中途半端になれば、肝心なところで一手遅れるぞ?」
ヤンフィは苦笑しながら【魔操の鍵】を縦に振るう。瞬間、ヤンフィの頭上に浮かぶ赤い雷の塊から、一条の雷光がタイヨウ目掛けて伸びていく。威力は先ほどの【神雷】ほどではないし、その範囲も及ぶべくもなかったが、それでもエルネスの【光竜】並の破壊力は秘めていた。
しかし、その程度でタイヨウは慌てることなどない。直撃を受けたとて、致命傷を負うことなどない。タイヨウの魔術耐性は、聖級の防御魔術を纏っている程度には強力である。
そんな自負と自信があるからか、タイヨウは迫り来る雷光をマトモに受け止め――ようとした瞬間、ヤンフィの目的に気付いて、慌てた様子で回避しようと身体を捻った。けれどもはやそれでは遅すぎる。
そもそもその雷光は、並の人間では反応さえ出来ない雷の速度を持っている。気付いてから避けたのでは、間に合うはずはない。
「狙いは――エルネス、かぁ!?」
躱しきれずに一条の雷撃を浴びたタイヨウは、致命傷こそ負わないまでも、たっぷり一秒間ほど麻痺してしまう。その一秒の隙は、もう一条の雷撃を展開するに充分過ぎるほどの猶予を与えた。
ヤンフィはタイヨウに雷光が直撃する寸前、本命となる一撃を時間差で放っていた。その本命をぶつける先は、タイヨウの背後、部屋の隅にさりげなく【空間連結】で退避させられていた死に体のエルネスである。
「クッ――エル、ネス、っ!」
気絶した状態で全く無防備のエルネスでは、その雷撃を受けきることはできない。ただでさえ既に重傷な今、この雷撃がトドメにもなりかねない。
しかし、そんなヤンフィの狙いがわかったところで、身動き取れないタイヨウでは、もはや何をしても手遅れだろう。
ところがタイヨウは、そんな八方塞の状況でさえも容易く覆してみせる。
「――――ぉ、ぉおっ!!」
雷撃の直撃を浴びて悔しそうな雄叫びを上げながらも、タイヨウは無詠唱でエルネスの眼前に特殊な魔法陣を展開していた。
その特殊な魔法陣は、知っていなければ視認さえ出来ない魔法陣で、不可視の魔法陣と呼ばれるものである。
「その一手が、致命的な遅れじゃ――これで可能性は収束した。それでは、おさらばじゃ」
ヤンフィの的外れな独り言は、タイヨウに届くことはない。ヤンフィは緩やかに中空で背を向けて、握っていた【魔操の鍵】を無造作に放り投げた。
さて一方で、エルネスに降り注ごうとした雷撃は、直撃する寸前に不可視の魔法陣に飲み込まれて、空中分解されたかのごとく霧散する。それは一見すると、まるで魔術を打ち消したかのようだった。
だが、実際のところは違う。
その不可視の魔法陣は【無空間陣】と呼ばれる冠級の時空魔術である。魔法陣の内側に虚無を生じさせて、あらゆる存在・現象を飲み込む魔術だ。虚無とは空間の歪みであり、それは一瞬しか存在できず瞬時に消滅してしまうが、その消滅に巻き込まれて、飲み込まれた存在・現象も同時に消滅する。
極めることが出来れば、あらゆる攻撃を無効化できる究極の盾となり、またあらゆる防御を無視して対象を消滅させることが可能な究極の矛にもなりうる魔術だ。
「逃がさない、と言ったぞ!! ――究極の檻。全てを封じて、悉くを滅せよ。【死神雷陣】」
エルネスへの雷撃を防いだタイヨウは、背を向けたヤンフィを怒鳴りつけて、すかさず流麗な簡略詠唱でもって最大最強の魔術を展開した。
その魔術はヤンフィの知識にはない攻撃魔術のようだったが、甘く見積もっても【神槍グングニル】の一撃を凌駕する威力だろう。間違いなく、冠魔術の一つである。
躱せなければ、即死――けれど、躱すことはタイヨウが許さない。それほど彼は甘くない。
ヤンフィの行く手を阻むように、突如、真っ黒い壁が展開された。一面に複雑怪奇な文字が刻まれたその壁は、まるでサイコロの展開図のようで、ヤンフィを閉じ込めるようにして、瞬く間に立方体の箱と化した。余裕の表情を浮かべるヤンフィは、抵抗する暇もなく箱の中に捕らわれる。
「跡形も残さないよ。これで、終わりだ――」
タイヨウが拳をギュッと握り締める。その動作に呼応して、ヤンフィを捕らえた箱の内側が赤い閃光で満たされた。
それは雷の十倍以上の電圧を誇る雷撃の嵐である。どんな生物だろうと一瞬で消し炭に出来るだろう凄絶な雷撃が、黒い箱の内側で暴れ回る。ちなみにこの箱の内部は、時空魔術で隔絶された亜空間であり、獲物を逃がさない為の檻であり結界だった。
捕らわれたら最期、内側の生物は決して生き残れない――タイヨウ自慢の攻撃魔術である。この直撃を受ければ、如何に不死性に富んだ魔王属だろうとも致命傷を負うこと必至だろう。
「――っ、あ、ぐっ!?」
そんな風にタイヨウが勝利を確信した瞬間、自身の身体に異変を感じた。突如として、己の魔力が凄まじい速度で奪われていくのだ。
ふと顔を下に向ければ、脇腹からは細長い剣先が突き出していた。
「な、んだ?」
貫かれたという意識はない。痛みもなかったが、身体からは力が抜けていた。意図せずタイヨウはその場に膝を突いた。驚愕に表情が強張る。
喉が急速に渇いてひりつく。全身は焼けるように熱く、心臓の鼓動がやけに早い。
「――タネはあるが、それを明かすほど妾は優しくはない」
そして、涼しげな声が背後から聞こえた。タイヨウはギリと奥歯を噛みながら振り返った。
果たしてそこには、隻腕となった煌夜の身体で、【魔剣エルタニン】を握ったヤンフィが立っている。
「ば、かなっ!? どうやって【死神雷陣】から、逃れた――っ、あぐっ!?」
タイヨウはヤンフィの姿を見て興奮気味に叫ぶ。その瞬間、乱れた魔力がいっそう強く奪われる。クラクラと貧血にも似た感覚がタイヨウを蝕み、意識が朦朧になっていく。集中力は散逸になり、正常な判断力は保てず、挙句に凄まじい睡魔が襲い掛かってきた。
すると、パリン、と硝子の割れる音と共に、黒い立方体――【死神雷陣】が黒い粒子になって爆散した。タイヨウの集中が途切れた為に、展開維持できなくなったのだ。
――ちなみに、爆散したその中には、当然ながら誰の姿もなかった。
「ばけ、もの、かっ――クッ、ぐぁあああぁっ!?」
タイヨウは慌てた様子で【魔剣エルタニン】の刃を掴んで、脇腹から引き抜こうと悪あがきをする。しかしその刃に触れた瞬間、さらに速度を上げて魔力が奪われた。
当たり前である。その刃に触れた者は、所有者であろうと問答無用に魔力を奪われるのだ。
悶絶しながら絶叫を上げているタイヨウを見下ろして、けれどヤンフィは追い討ちを掛けることはなかった。ただただ静かに、【魔剣エルタニン】から流れ込んでくる膨大な魔力を噛み締めていた。傍目から見れば、これ以上ないほどの絶好の好機だが、ヤンフィは動かない。
(……ここで仕留められないのは、口惜しいがのぅ。致し方あるまい)
ヤンフィはポツリと心の中で呟いて、タイヨウの行動を見守った。
さてところで、ヤンフィが動かない理由は二つある。
一つは、現状ここでは何をしても、タイヨウを殺すことが出来ないのが分かったからだ。タイヨウの能力なのか、はたまたこの場所のせいなのか。兎に角何をしても、今この場には、タイヨウを殺せる未来が存在しない。それ故に、動く必要性がない。
そしてもう一つは、煌夜を生かす未来がこれしか存在しない。
一見して現状は、圧倒的にヤンフィ優位の状況に好転しているように思える。だが実際は、タイヨウから吸い上げる魔力を全集中で煌夜の身体の維持に回さなければ、すぐにでも煌夜が息絶える危険性があった。
事実として、煌夜の意識は今、激痛によって気絶している。
「ぁあああっ――――彼方と此方を繋ぎ給え。空間連結!」
タイヨウが【空間連結】の簡略詠唱を絶叫する。途端に、死に体のエルネスが倒れている付近の空間が揺らいだ。そこはちょうどヤンフィの死角、真後ろ1メートルほどの位置である。
「参、弐、壱――フッ!!」
ヤンフィは空間が揺らいだ直後から三秒のカウントダウンをしたかと思うと、絶妙な足運びで円を描くようにタイヨウと位置を入れ替わる。そして勢いそのまま、タイヨウを投げ飛ばす。
なっ――という女性の息を呑む声と共に、ドガンッ、と轟音が響き渡った。それに一瞬だけ遅れて、壮絶な爆風が巻き起こる。
「妾が良いと云うまで寝ていろ――【魔操の鍵】よ!」
ヤンフィは爆風に抗わず吹き飛ばされながら、そんな台詞を鋭く言い放つと、素早く【魔剣エルタニン】を左腕に戻した。同時に、体勢を立て直して足元に転がっていた【魔操の鍵】を拾い上げると、入り口の扉を背にして正眼に構えをとる。
すると直後に、翡翠の宝玉を思わせる拳大の美しい魔力球が、石飛礫の如く襲い掛かってきた。
それは高密度の魔力球であり、攻撃魔術として成立こそしていないが、当たれば人体を弾けさせるだけの破壊力を秘めていた。投石と同等の質量攻撃であり、物理・魔術両方の特性をもった音速を超えた弾丸である。
――とは言えど。魔力自体を操れる【魔操の鍵】を振るうヤンフィに、そんな攻撃が届くはずはない。
魔力球はその全てがヤンフィを素通りして、大部屋の壁に突き刺さる。ドガガガッ、と散弾銃の如き穴を穿つと、そのまま中空に霧散した。
ヤンフィは【魔操の鍵】を構えながら、正面をジッと見据えた。そんなヤンフィと対峙するのは、青息吐息のタイヨウと全裸のエルネスを庇う、一人の妖精族である。彼女は、おかっぱの緑髪をした釣り目の美女で、血塗れの錫杖を持ち、ところどころが破れた灰色のパーカーを纏っていた。
エルネスの側近の一人で、ミリイ、という名前の妖精族である。
「っ、く……ミリイ、よ。それ以上は、無駄だ。エルネスを、保護しろ。ここは、一旦、退くぞ」
「――っ!? 退く!? 魔道元帥様、何を仰っているのですか!? 侵入者に、ここまで好き勝手にされて、何故ですか!? エルネス様をこんなにしたのは、あのヤンフィ様ですよね!?」
タイヨウが片言の【東方語】で撤退を口にした。しかし、ミリイは納得いかない様子で、すかさず強い口調で反論する。
「黙れ――私が、ここまで追い詰められた。退く、ぞ」
「………………」
しかしミリイの反論は即座に否定された。そのあまりにも強い否定に、ミリイはグッと言葉を飲み込んで、押し黙ったままヤンフィを凄まじい気迫で睨みつけた。
ヤンフィはそんなミリイに冷めた視線を向けてから、ひび割れた床の隙間に引っ掛かっている哀れな血塗れの巨漢を流し見る。
半裸にブーメランパンツ、その上襤褸雑巾のように全身は傷だらけの血塗れで、誰から見ても変態としか思えない巨漢――ミリイと戦っていたソーンが転がっていた。
ソーンは、【空間連結】でタイヨウがミリイを呼び寄せた際に、ドサクサに紛れて一緒にやってきたのである。死んだようにピクリとも動かないが、まだかろうじて息はある様子だった。
そんな哀れなソーンの姿を見て、はぁ、とヤンフィは人知れず溜息を漏らす。ソーンに期待などしていなかったが、それにしても役に立たない。
ミリイを殺すことは無理だったとしても、せめてもう少しダメージを与えてくれても良かったろうに。
そうであればもしかしたら、もっと良い可能性があったやも知れないが――
(――とは云え、まぁ、死んでおらぬのは僥倖じゃ。おかげで助かる目処が付いたしのぅ)
ヤンフィはそんなことを思考してから、スゥと大きく息を吸う。そして剣の切っ先を、凄まじい形相で睨みつけてくるミリイの鼻先に向けた。
その所作が、我慢していたミリイの逆鱗に触れた。
無言のままで、ミリイは全身から魔力を放出させる。その魔力の大放出は、爆風に思えるほどの衝撃波を巻き起こす。床に転がっている瓦礫を巻き上げて、崩れかかった壁を崩落させる。さながら超大型台風の如きだろう。無論、ミリイがその台風の目である。
「――ヤンフィ様。もし次があれば、生きているのを後悔するほど、苦しめて差し上げます」
「ミリイ、止すんだ! 魔力の、無駄、だ!!」
背後でタイヨウが制止の言葉を叫んだが、それを無視して、ミリイは膨大な魔力量に物を言わせた魔力の竜巻をヤンフィに投げ付けた。
その竜巻は床に転がる瓦礫やら何やらを飲み込んで、内側でミキサーの如く磨り潰している。
「――――ソーン!! 出番じゃ!!」
ヤンフィは竜巻が近付いてくるのを冷静に眺めながら、出せる限りの大声でもって、竜巻に巻き込まれて為すがまま舞い上がったソーンに命令する。
「っ、チッ! 『空間よ、捻じ曲がり――」
そんなヤンフィの言葉を耳にしたタイヨウは、忌々しげに舌打ちしてから、すかさず【空間連結】の魔術を高速詠唱し始める。無詠唱ではヤンフィの持つ【魔操の鍵】で魔力を乱されかねないが、タイヨウが集中して魔術式を詠唱すれば、万が一にも操られることはないだろう。
一方で、ソーンをいたぶった張本人であるミリイは、何を馬鹿な、と怪訝な表情を浮かべるだけだった。ソーンが動けるとは露ほども思っておらず、この状況が打破されるとも想定していなかった。
その一瞬――ミリイのその油断こそが、ヤンフィがここから逃げ果せる為に必要不可欠な、最後の条件だった。
「ぉおおおおっ――愛の戦士、ソーン・ヒュード!! 愛しのヤンフィ様の声により、今ここに、復・活っ!!!!」
刹那、暑苦しい不快な重低音が、竜巻の暴風を遮って大部屋に響き渡る。それと同時に、魔力の竜巻が内側から爆散して、瞳を爛々と輝かせたソーンが飛び出した。
バァ――ン、と言う効果音でも背負っているかの如く、中空に投げ出されたソーンは、胸筋を震わせながらサイドチェストのポーズを取っている。まったくもって気持ち悪い。
「え、なっ!? ソーン様、まだ息が――魔道元帥様、何を!?」
「――彼方と此方を繋ぎ給え。空間連結」
突如現れたソーンに驚愕するミリイ。タイヨウはそんなミリイの腕を強引に掴んだ。すると、ミリイとタイヨウの身体が淡い魔力の光に包まれる。
展開した【空間連結】でもって、この場から逃げようとしているのだ。
「へへへ……ザ・サンよぉ。オレはこれで、完全に【世界蛇】を抜けさせてもらうぜぇ――喰らいな、この拳! 超・銀河・砲拳!!!!」
「ミリイ、エルネス、を――ぐっ!?」
タイヨウがミリイの腕を掴んだ一瞬と、ミリイがタイヨウの意図を理解してエルネスの身体を掴むほんの一瞬――その二つの動作、たった零コンマ何秒かの遅れが、ソーンの必殺技発動の時間を稼いだ。
ソーンはサイドチェストのポーズで、自身の周囲の魔力を片腕に集約させており、最大最高威力を誇る遠距離攻撃の準備していた。そして長ったらしい口上を述べ始めると同時に、満を持してそれをタイヨウたちに向けてブッ放ったのだ。
ソーンのその遠距離技は、常識ハズレの破壊力を誇る拳圧を、対象にぶつけるだけという極めて単純な攻撃である。
飛ぶ拳圧――それは周囲の魔力を竜巻状に絡みつかせて、まるでドリルの如き形状で対象に突き刺さる。
その破壊力は、控えめに言って聖級魔術に匹敵するだろう。効果範囲は3メートルほどの円形で、速度は音速を超える。だが最大の特徴としては、これが魔術ではなく属性のない物理攻撃ということだった。
物理攻撃の為、魔術耐性が高い相手にも驚異的なダメージを与えることができる。
その不意打ちに、弱っていたタイヨウは反応し切れない。咄嗟にミリイとエルネスを押し退けて、拳圧の射線から外すのが精一杯だった。
結果、出鱈目すぎるその拳圧は、タイヨウの両足に直撃する。
飛ぶ拳圧を喰らったタイヨウの両足は、呆気なく膝の部分で千切れて吹っ飛び、それに一瞬だけ遅れて、エルネスを含めた三人の身体は、【空間連結】でどこか別の場所に転移した。
タイヨウの両足を砕いたソーンの拳圧はそのまま勢いを落とすことなく、ひび割れた床を貫き、崩壊寸前だった浮遊神殿【ヘブンドーム】にトドメを刺す。
グラグラと揺れていた神殿内部が、突如としてピタリと揺れ動くのを止めた。
「ソーン!! 急いで、飛竜を呼べ! 堕ちるぞ!!」
ドン、と重たい音を立てて床に着地したソーンに、ヤンフィは駆け寄って短く叫ぶ。ソーンの拳圧の影響か、タイヨウがこの場から居なくなったからか、もしくはその両方が原因か、浮遊神殿を包んでいた魔力が今はもう綺麗に消え去っていた。
「――勝利っ! どうです、ヤンフィ様!? オレ、凄いでしょ?」
慌てた様子のヤンフィとは違い、ソーンはこの切羽詰った状況をまるで理解せずに、ニカッと血だらけの白い歯を見せて、これ以上ない笑顔でサムズアップしていた。
ヤンフィは、そんなソーンの顔面に渾身の右ストレートを叩き込んだ。
うぅぉお――と、その場に膝を突いて悶えるソーンを見下しつつ、さらに鳩尾には蹴りを入れる。
「遊んでおらんで、サッサとするのじゃ」
早くしないと殺すぞ、と冷めた視線で命令すると、ソーンもようやくふざけるのを止めた。
ゴゴゴゴ――、と巨大な物体が風を切る轟音が外から聞こえてくる。見上げれば、穴の開いた天井から見える夜空の月が、どんどん離れていくのが分かった。
この日――テオゴニア世界の地図上から、【霧の街インデイン・アグディ】が消えた。
※時系列B-7